満洲事変記念日に際し国民に愬ふ
満洲事変二週年記念日に際し、在郷軍人会がこの催しをなさるにつきまして、
私に講演をといふ鈴木会長からのお頼みでありました。私は躊躇したのであり
ます。一つは御承知のやうに、本年春ジュネーヴかち帰朝致しまして、五月一
日に国民諸君に御挨拶を申上げました以来、今日まで私は大部分国へ帰つて居
つたのでありまして、口を開かなかつた。総ての講演、執筆を拒絶して来た。
また私の頭の整理も完全でないので控へて居たのである。今一つの理由は、こ
の大切な記念日に私が講演をお引受けするといふことは甚だ僭越である、私
よりも適任の方が幾人もおありなさると、斯やうに考へたので、お断りしたか
つたのであります。が、どうしても私にといふお話でありましたから、僭越
を顧みず―又顧れば私は二十七歳から満蒙にどういふものか、一種の宿縁
とでも申しませうか、関係がある、因縁がある。さうして遂に満蒙問題に関し
て帝国と聯盟との関係に―それが善いか悪いかは後日歴史家が筆を執つて評
定するでありませうが―兎も角最後の鳧をつける役目を言ひつかつて、これ
をどうやら斯うやらやつて帰りました。
斯やうな因縁がありますので、この満洲事変の記念日に際して、私も多少の
感なきを得ない。私自ら第一線に立つて之に当りましたところの聯盟脱退と
いふが如きは、畢竟するに、二年前の今月今夜勃発した日支兵の衝突、即ち満
洲事変の余波たるに過ぎない。この脱退についても、当時東京では躊躇した人
もおありなさる―人間であるから、意見の違ふのは已むを得ないでありませ
うが―足並が容易に揃はなかつたといふ為体であつた。が私から言へば、実
に不思議で堪らない。それは、この二年前の満洲事変―満洲国の独立も、満洲
国の承認も、聯盟脱退も、唯その余波たるに過ぎない、当然起つたので。起るべ
きものが唯起つて来たに過ぎない。さういふやうに考へて見ますといふと、こ
の記念日に際しまして、私として多少の感なきを得ないので、旁々遂に御引受
して、諸君の前にお立ちしたのであります。
こゝに立つて見ますといふと、丁度、昨年十月十四日の夜であります。ジュ
ネーヴに出発致します数日前に、この公会堂でこの同じ壇上に立つて、私は諸
君に告別の辞を述べた。それから、今晩こゝに初めて再び立つたのであつて、
私に執りましては、この公会堂、この壇上、昨年の当時からこのかた、聯盟の
経過を追懐致しますと、又感慨なきを得ないのであります。姑くの間、御清聴
を煩はしたい。九月十八日の日といふのは、如何なる意義を持つてゐるか、こ
れをお互に考へて見たい。さうして、次に九月十八日を口で記念するのではな
く真に実行で記念したい。どうしたら本当に記念することが出来るのであるか、
これについて私の所感の一端を述べさせて戴きたい。
この九月十八日は、吾々日本国民の忘れることの出来ない、極めて厳粛なる
意義を持つて居る日でありまして、私は信ずる、この日は、我が大和民族史上
永久に燦たる光輝を放つであらう、何故さう考へるかといふことについて述べ
ますれば、第一、今月今夜、二年前我が生命線確保の為に、蹶起したる日本国
民―軍人が蹶起した。それは日本国民が蹶起したのである。軍人と日本国民
と差はない。第二に、私の見方では、我が国の生命線確保の為に蹶起したのみ
ではない。それと同時に 明治大帝の御遺策である我が国の一大国是である所
の東亜全局保持、東亜全局を安定さすといふ大方針、大国是に向つて邁進した
のである。斯う考へて見ますといふと、これだけでも、この日は我が大和民族
史上に偉大なる光彩を放つべきものである。と斯やうに私は考へる。諸君、試
みに、この記念日に当つてお互に過去を少し考へて見よう。二年前の九月十八
日以前、我が国は如何なる有様であつたか、殊に満蒙問題についてはどうであ
つたか、日支の関係に於てどうであつたか、対世界の関係に於てどうであつた
か、これを考へて見たい。これを考へて見るといふと、私は殆ど隔世の感を抱
く。デフィーチズムといふものが、御承知のやうに、欧米にも、日本にもあり
ます。併し、私の見る所では、このデフィーチズムといふものは、欧米でも唱
へられて居りましたけれども、苟くも国家の重責に任じて居るやうな、国の運
命を或る程度まで担うて居るやうな、責任の地位にある人の間に、之を信奉し
たり、之を実行したりするやうな人は、欧米にはなかつた。気まぐれ者や、呑
気な、何んでも口だけで言ひ得るやうな人の間では、デフィーチズムも主張さ
れた。ところが不思議にも、我が国では今申したやうな責任の地位に居る人の
間にまで、このデフィーチズムがはいつて来た。さうして之を実行にさへ移し
た人がある。或は時代相とでも申しませうか、二年前までは、私共が口をすつ
ぱくして、満蒙の重大性を説き、我が国の払つた犠牲を指摘して呼びかけて見
ましても、国民は一向満蒙問題に気乗りがしなかつた。当時、吾々の言ふや
うなことは、寧ろ朝野の多くの識者の間では、頑冥固陋の徒の言の如く見られ
て居たのである。これは事実である、国民も亦至極呑気であつた。二回も、
明治大帝の下に戦ひ、血を流し、十万の同胞をこれが為に犠牲にしたほどの関
係のある満蒙についてすら、無関心といつて宜しいやう程有様であつた。諸君
の中でもはつきり御記憶の方がありませう。二年前の今日の直前まで、我が国
の有識者の間に於て、満蒙放棄論さへ遠慮会釈なく唱へられたではないか。満
蒙について然り、而して今申しましたやうに、デフィーチズムの思想が一般国民の
間にはいつたのみではない。責任の地位にある人の間にもはいつて、さうして、
おまけに実行にさへ移された。デフィーチズムとは何か。直訳すれば敗北主義
―私はこれをお宗旨と考へて居る。敗北宗である。平和とか協調とか―誰
か人間にして平和を愛し、各国の協調を冀はざる者があらうか。それは当り
前である。―然し吾々は同時に、我が大和民族の使命といふものを考へて見
なければならん。而して極く卑近に言へば、吾々の自活自存といふことをも考
へて見なければならない。然るに、平和とか協調とかいふ美名麗辞を並ベ、結
局立派なる言葉をどう使はうとも、我が国の利益を犠牲に供しつつ、退く、譲
るのである。朝に山城を割き、夕に一砦を譲る。唯退却あるを知つて、進取と
いふことは嫌ひなのだ。進んで行くといふことが嫌ひなんだ。
欧米にもあります。この主義は。―然し我が国の朝野ほど、驚くべき勢ひ
を以て、この主義、この思想が力を振つたことは、どこの国にもない。そこで
斯やうな有様の下に祖国日本はどこに行くであらうか。この深い憂ひは、単り
私のみ抱いて居つたのではない。私共が当時の世相を見て、これはどうしても、
直接又は間接 明治大帝の御息がかゝつて育つた吾々の目の黒い間に、この問
題を解決して置かねばならぬ。さうでなかつたら吾々の息子、孫は満蒙から退
いてしまふだらう、といふ考が益々切実になつたのである。故に私はこの感
を以て屡々有志の間で語つたこともある。所が図らざりき。二年前の今日、柳
條溝の辺で爆発した―日支兵の衝突が起つた。私が「爆発した」といふのは、
この衝突に藉りて爆発したといふのだ。何が爆発したのか。日本精神が爆発し
たのだ。
今だから、あなた方は笑つてをられるけれども、当時を今私は考へても、ゾ
ッとするのであります。さうしてこの九月十八日の日支兵衝突後、僅か二年
―国家の生命からいへば、二年などといふものは吾々の一生に於て一秒位の
ものである。この僅か二年の間に如何なることが、諸君、起つたか。それを考
へて戴きたい。二年前までは今言つたやうだ。この爆発を見てからこの方僅か
二年間、どういふ風に世の中が変つて来たか。これを最初に考へて見たい。爆
発後、この事変は段々と御承知のやうに展開したのである。到頭、しまひには
熱河まで行き、北平(北京)近辺まで延て、遂に向ふが頭を下げた。大和民族の積
極活動が全満蒙を蔽ひ、さうして更に北平方面にまで延て行つたのである。
現場に於て、何が出来たかといふと、先程申したやうに満洲国といふ独立国が
出来た。あなた方は、あれをこの頃は当り前のやうに考へておいでなさるが、
若し誰かが、二三年前に、満洲に独立国が出来るなどゝ云ふ予言をしたら、瘋
癲病院ものだと笑はれたに違ひない。それが立派に出来たのである。
それから満洲国の承認すら、我が国では御承知のやうに逡巡躊躇をした。けれ
ども、時の勢ひには如何なる人も勝てない。今日では、日本で満洲国承認は俺
れが一人でやつたといふ顔をしてをる方が幾人もあるやうだが、それは本当で
はない。何に誰れ彼れではない。時の勢ひであり、我が国民の元気である。さ
うして、遂に余儀なく満洲国承認を時の政府に決行せしめたのである。「世界は
認めぬ」と云ふ。「そんなことは構はん。我は認める」と。我が国民は答へ、毅然
たる態度を取つたのである。諸君そんな元気ゝが、二年前
― 九月十八日のたつ
た一日前にあつたらうか。日本が世界に対して、毅然として、勝手に或る一国の
独立を認めるなどゝいふことは、それは思ひも寄らぬことであつた。諸君、こ
れだけ考へて見た丈けでも、どれだけの変化が起つたか。まだある。たうたう日
本が聯盟へ行つて「あなた方がそんなに分らねば、御免蒙りませう」といつて、
引揚げた。これ亦今日は、モウそろ/\国民が狎れて、当り前の事のやうに思
つて居るかも知れないが、聯盟脱退などゝいふことは、天でも落ちて来るや
うに思つた人が、日本に、殊に有識者の間には非常に多かつた。国が滅びると
いふやうに恐れて居た人が少くはなかつた。今日でも左様に考へてる人は
ある。
併し、大和民族はものを直感する。それが大和民族の本能であり、又それが
特長だ。人間としての純真さを尚ほ多量に持ち、直感的に行動し得る所の我が
大和民族全体としては、それは今日は、最早問題ではない。私は、聯盟脱退な
どで国は断じて危くはならないと信ずる。然るに今申したやうに、まだ頭が働
いて居る人達は、私が先程言つたデフィーチズム、敗北宗の信徒であつて、ま
だその迷信にかゝつてゐるのだ。私共は、これからこの宗旨を根こそぎにしな
ければならん。どう日本国民が奮起したといつても、一人残らず奮起したと考
へたら大間違ひだ。どうかして敗北宗だけは、この日本にないやうにしなけれ
ばならん。
私はこの敗北宗について ― 後戻りするやうでありますが
― 今一言国民に
ハッキリ申上げたい。聯盟が出来まして以来、こゝに十四年、聯盟員たること
十三箇年、日本は真ッ正直に、誠意聯盟に在つて努力したのでありますが、日
本国民といふものは、由来まことに正直な国民だ。論語や孟子、あれは支那で
は文学として扱はれてゐた。孔子様でも、あんなものが行へると思つて言つた
のではない。それを日本へ持つて来るといふと、日本国民はこれを実行に移し
た、実践躬行する。欧洲戦争中、ウヰルソンが人道の旆を掲げて大演説すると、
日本の新聞デカ/\と出す。あれを一番随喜の涙を流して論評したのは、世
界の新聞の中で日本の新聞だ。まことに良い国民だ。それは大和民族のジニア
スである。そこが私は日本民族の偉い所だと思ふ。真剣だ。真面目だ。正直だ。
だが、ウヰルソンにとつては、人道演説は雄弁学の発揮だ。日本人が聞くと、
唯弁論とのみは思はない。真面目にこれを受け入れる。現に日本には「ウヰル
ソン会」といふ会まで作つたほどの人があつたではないか。私は、まだ外国で
「斎藤総理会」といふやうなものをつくつた人の有るを聞かないが、日本人
は、ウヰルソンは有難いといつて「ウヰルソン会」を東京の真中でつくる。日
本人といふものは結構な国民である。そんな良い国民は世界に居りません。
かゝる国民性を持つてゐる日本人は、聯盟に一度はいると、真ッ正直に、誠
実にやる。さうして何をしたかというたら、日本の一般社会に聯盟と、それに
関聯して、世界の平和を強調するとこみの教育を普及させた。進んでは、中学
校、小学校にまで世界の平和協調、国際主義といふものを徹底さすべく文部省
が一緒になつて大童ではなかつたか。諸君、私は悪口を言ふのではない。これ
は立派なことかも知れません、がこれだけは諸君、心得て置かれたい、「左様な
国は、欧米には一国もありませぬ」。国際主義を中学校、小学校にまで徹底さす
やうな国は、欧羅巴にはない。あるといふならば見せて貰ひたい。本家本元、
聯盟の所在地である瑞西でさへもやつてゐない。欧羅巴に左様な結構な国は一
国もない。そんな国があつたら、疾うの昔に滅んでゐる。彼等は欧洲戦争が済
んだら、すぐに国家主義を真ッ黒になつて鼓吹した。これに反して、我が国では
聯盟といふものは有難いものだ、平和ぢや、国際協調ぢやといつて、一生懸命
小学校からしてやつた。そしてデフィーチズムといふものは遠慮会釈なく行
はれるやうになつて来た。
これは短所とも見えますが、私は、これは実は大和民族の長所だと思ふ。大
和民族ほど正直にして、実行力の旺盛なる民族は、今まで世界の歴史にないと
いふことを、外国人に向つて誇つてよい。宜いけれどもこの美点も時と場合に
より弱点、短所に変ることがある。世の中では、長所が短所に変る時がある。
場合がある。これだけは我が国民も能く考へて置かなければならん。私は、大
いに世界平和を主張しなければならんと思ふ。けれども、まだ今までのやうに
聯盟主義、協調主義、国際主義を我が国民に、小学生に到るまで徹底さすべく
世の中の実際に顧みて、ちよつと早過ぎると云ふ事を諸君に申上げたい。そん
なことをやるといふと、国が滅びます。私はこの点について
― 少し細かくは
いるやうであるが ―
御参考に今少し言つて置く。ジュネーヴからの帰途、イ
ギリスを通りますとき、一昨年以来可なり猛烈に日本を攻撃したセシル卿に会
ひました。この人は非常な立派な人格者でありまして、又理想家であります。
聯盟信者でありまして、徹頭徹尾聯盟の為に、世界平和の為に、闘つて来た人
であります。かういふ点に於ては、無論私は尊敬致します。正直な、立派な人
であると思ふから、私は態々この人には忙しい中を差繰つて会見致しました、
四十分ばかり話をしました。結局双方が意見の交換してどこに落着いたか、セ
シル卿曰く、
「あなたは世界の平和を信じますか」
「然り」
と私は答へた。するとセシル卿は、
「苟くも世界に平和を齎さなければならんといふなら、その平和をつくり出す
より外、仕方がないぢやありませんか」と言はれた。之に対し私は、
「然り」と答へた。すると同卿は、
「それならば、聯盟を通じてつくるより、今の所道がないぢやありませんか。
さうであるならば、聯盟の決定は、たとへ聯盟員たる国に如何なる影響が起ら
うが、それは甘んじて承服せねばならぬ。さうでなければ聯盟の目的は達し得
ないぢやありませんか」と述べられた。私は、
「左様で御座る」
と答へた。そして今度は私の方からセシル卿に言つた。
「それ位の理想は、世界中であなた一人が持つて居ると想つては居られまい。
憚りながら、それくらゐの理想は私も持つてゐる、日本国民だつて持つて居る。
然しそれは理想なんだ。悲しいことには、吾々は人間であつて、現実を正視せ
ざるを得ない。あなたと雖も、現実を正視せん訳はないでせう。現実を正視し
て見るといふと、どうでせうか。吾々日本国民は、今日の人類発達の階梯に於
きましては、日本国民の安全問題については、聯盟又は他の平和団体或は日本
以外の国にこれをお頼みする、委すといふことは、断じて出来ないといふこと
を信じ、且つ知つてゐる。故に日本国民の安全問題は自力を以て、これに当ら
うと固く決心して居るのだ。これだけは、この場合あなたにハッキリ申し上げ
る」
そこで私は、「あなたに最後にお尋ねしたいことが一つあるがお答へ下さらん
か。それは、先程からあなたが、聯盟の決定は聯盟員たる国に如何なる影響を
生じようとも、これを承服しなければならぬものであると、仰しやつた。宜し
い。そんならば御尋ねするが、将来聯盟が、スエズ運河を含んだエジプトを、
今度満洲に関して議決したと同じやうに、憲兵制度を布いて、さうして、名は
幾ら胡麻化さうが、これを聯盟管理又は国際管理の下に置く。結局そこに落ち
るやうな決議をした、と仮定致します。その場合に、大英帝国民の多数がこれ
を遵奉するであらうか。あるまいか。イエス、又はノウだけでお答へ下さい」
さう問うたら、それは英吉利人は能く出来た人間であります。
「・・・・・・・・」
答へられぬ。黙して答へぬ。能くさういふ人が世の中にある。善人であり、
理想家であるが、ちよつと都合の悪いことには ―
ハッキリさうと意識するの
かどうか知らんが ― 答へない。他人を抓るのなら、ちつとも自分は痛くない。
よその事だと、直ちに理想の尺度を出してピチンと仮借せずに寸を取る。自分
の事になると、その物差は棚に上げて、黙して答へぬ。世の中には思想家又は理
想家と言はれながら、斯ういふ人があるといふ事だけは、あなた方国民は能く
記憶して置かなければいけぬ。
実際欧羅巴の現状を見て、私共は非常に同情に堪へないのであむます。日本
といふ国は有難い国である。中学校、小学校に至るまで国際主義を徹底させ、
誰が頼んだか知らんがそんな教育をして、まあ/\国は滅びなかつた。欧羅巴
の真中でそれをやつたら、数日にして滅びます。あのやうに境を接して居る
と、油断も隙も見せられない。下手まごつけば、明日にも討たれるかも知れな
い。そこで国際主義に徹底したら、忽ち滅びる。否実は政治家が外交上国際
主義を相手に向つて強調するのも、実はこのやうな環境に在るからである。
その点から言へば、欧羅巴の国民は哀れな環境の下に居るのであつて、私は
何も彼等が極東問題に於て、日本の主張に同意せぬからといつて、攻撃的に言
ふのぢやない。欧洲人になつて見ると、容易に同意は出来ない事情があるのだ。
それは主として環境の差から来るのである。兎に角先程申上げたデフィーチ
ズムは、よそでは唱へられたけれども、それは少数者、無責任者、別に国の運
命に障りも起さぬ。宗教家、理想家などの間であつて、責任のある政治家なんか
がデフィーチズムを唱へたり、デフィーチズムを謳歌するといふやうな国は、
日本以外にはなかつた。
今まで申上げた所で、九月十八日の前の日本と、後の日本がどれほど違つた
かといふことが略々お分りでありませう。その中でも私が言ひ漏らして居りま
したのは、九月十八日の事変以後、国内に於て、特にどう云ふことが起つたか
といふことでありますが、国内では、御承知のやうに ―
満洲事変後に ― 私は
それを善いとも悪いとも言ふのではない。唯起つた事実を申上げて、あなた方
の記憶を喚び起したいと思ふだけの事である ―
井上日召先生、その外のあゝ
いふ躍動的事変が頻々として起つた。五・一五事件が起つた。これは私から見
ますと、満州事変そのものが ― 劈頭に言つたやうに ―
漸く目覚め来つた日
本精神それ自身の爆発であつたのである。それが又非常な刺戟を人心に与へ、
た。そこで、斯ういふ事件が頻々として起つて来たのである。私は、その事の
善い悪いは諭ずるのでない。これについては議論がある。それを云うたら縛ら
れるかも知れない。私は、今晩縛られるのは御免だから申上げぬ。けれども、
その由つて来る所は、又その躍動の根柢を為して居る所の光輝ある精神に、又
その動機に、苟くも日本国民である以上、不同意の人、異論のある人が一体幾
人ある。同じ精神が、この九月十八日に爆発したのである。苟もも諸君が、九
月十八日を記念するといふなら、少くともこれらの事件の動機なり、精神なりを
悪いといふことは出来ない。それだけは、あなた方は御承知だらう。
で、かういふやうに考へて見ますと、先程私が述べました意味だけぢやない、
この九月十八日の事変を偶々契機として、我が国民がこの日、復活の途に上つ
たのである、日本精神に甦り始めたのである。既に甦りつゝあつたから起つ
たのであるが、それに拍車をかけ更にその速度を増したのである。一般国民はこ
の事変に刺戟されて、さうして、愈々ハッキリ意識して日本精神に甦る方向
に突進したのである。仮に満蒙がどうならうとも、蓋しこれだけでもが、この
事変は、我が大和民族史上にえらい光彩を放つものではあるまいか。次いで満
州国承認を断行したのではないか。それから、更に聯盟脱退を敢行したではな
いか。これ等は皆日本精神に甦りつゝある立派な証拠である。これらの事象
― この二年間に起つたこれらの事象を以て、諸君は何を物語るものであると
思ふか。即ち我が国民が、日本精神に甦りつゝあるといふ事実を物語るもの
ではないか。唯我が生命線を守り且つ東亜全局保持の国策を遂行するの途に上
つたといふだけのことでなく、実は之を契機として、精神的に消極であつたも
のが積極に変り、退却が進出となり、生気溌剌の心地に移り、漸く自主の気持
ちに転じて自己の使命に目覚め来つたのである。かくなりてこそ初めて 明治
大帝の御遺策を奉ずるに梢々庶幾からふかと云ふことになるのではないか。私
は従来、満蒙は我が国の生命線なりと、御承知のやうに叫んで来た。が、その
時は主に、国防上、経済上さう考へたのである。何ぞ知らん。今日になつて見
れば、満蒙は精神的にも亦我が国の生命線であるといふことに気がついた。斯
く考へますれば、益々以てこの日は記念せざらんと欲するもせざるを得ない。
更に事変の前後と事変後の経過に就てもう少し加へて申しますと、事変以来
二年間、この二年の初り頃と、真中頃と、今とは大変な差があります。初りは、
実は正直と申しますと、我が有識階級の人達は ―
我が政府すら ― 昭和六年
九月十八日の夜、号外で、それから翌朝の朝刊で、満州事変の勃発を見て、ビ
ックリ仰天した、呆然とした.その意義がハッキリ分らぬ。それは、私が今晩
の講演の初めに申しましたやうに、あの当時、国民が一体満蒙問題に無関心だ
つたので、この事変の報に接して唯「何んだらう・・・」といふ有様であつた。
現に廟堂に在つて、責任の地位に立つてゐる人の間ですら「あれは気の早い若
い出先の軍人達が、何か癇癪を起したのだらう。困つたことをして呉れたもの
だ。何とかして、早く鎮めんければならん」と云ふ位の気分で、一向にこの事
変の意義が分らなかつたのである。そして一面唯狼狽した。甚だしきは非難さ
へした。このていたらくがそのまゝ欧米に映じた、そこで欧米人も認識を誤つ
た。彼等の認識不足は実は日本自身の認識不足の賜であり、反映であつたの
である。当時のことをよく考へて見ますと、唯欧米人が認識不足ぢやと云うて
攻撃する訳には行かない。尤も欧米人の多くは、満蒙はどこにあるかさへよく
は知らんので、よし認識不足してゝも大した利害関係なく、それは当り前であ
る。私は十数年来、満蒙の事情を説き、近年満蒙は我が国の生命線なりと絶叫
して来たが、日本国民全体としては、中々認識を深めない。朦朧としてゐた。
現に九月十八日事変が勃発するや、狼狽措く所を知らず、又最初はその意義すら
解せず ―
先程述べたやうな意義、即ち我が軍隊の行動は我が生命線を守るの
にある。明治大帝の御遺策を奉ずるのであるといふ、この意義さへ判然とは分
らなかつた。かやうな正体がソックリ欧米人に映じた。欧米人の間ではやはり
軍人が ―
軍閥が悪い。これは一つ反軍閥の先生等を声援してやつたら、日本
軍閥が抑へられるだらう。またさうして抑へなければならぬと誤想した。無理
はないではないか。我が国の一部の政治家若しくは所謂有識者達は「御苦労で
あつた」と彼等に謝意こそ表する義理がある。少くとも今日国民と共に彼等を
不都合呼はりするのは少しひどい。「冗談云ふものではない」と、云ふ方がある
なら、アメリカの国務省筋から資料の多くを貰つて刊行せられてる書物がある
から、それをお読みなさい。人の名まで挙げて日本の軍閥跳染を押へる為め、
リベラリズムを助けるのが当時米国政府の方針であつたと云ふ意味の事が書い
てあります。一国内で意見を異にすると、一方を外国が助けて、
― それはそ
の外国に都合のよい一方 ―
一方をやつつけようといふやうなことをするに不
思議はない。これはあなた方能く気を付けて戴き度い。国の意見が分れますと
いふと、さういふ事が起り勝ちのものであると云ふ事を、序でだから申し加へ
て置きます。
これを要するに、満州事変のこの日が、長く我が大和民族史上に偉大なる光
彩を放つであらうといふことは、期様な考へ方に依つて云ふのであります。こ
れを一言にして云へば、天の摂理である。これを楔機として、日本国民は真我
の再認識に甦りつゝある、と斯ういふのである。更に言葉を換へて申します
と ―
満州事変の意義は何んであるか。とお尋ねになるならば ―
それは欧米
追従、若しくはデフィーチズムに対する、日本精神の発奮であり、反撃である。
この反撃、発奮に依つて日本は甦りつゝある、と期う私は見て居るのである。
併し、それは諸君、やはり血である。大和民族の血の中に、欧米への追従、デ
フィーチズム、又は退却といふやうなことを長くは許さない何ものかゞ流れて
居るからである。この大和民族の血がこゝで以て躍つたのである。この事変に
於ける我が将兵の躍動そのものは血が承知しないからであるが、更にこの躍動
がこの血に異常なる反応を起さしめた。一時はいろ/\と誤解もし、又は意義
が分らなかつた人達も、遂にその自己の血が承知しない。この血が「やれ/\」
といつて終に国民総立ちとなつて、我が軍の行動を後援するに至らしめたので
ある。
これを若し疑ふ人があるなら、我が二千六百年史を繙いて御覧なさい。さう
したら能く分る。この日本といふ国は ―
我が日本国民は、随分支那かぶれを
したことがある。印度かぶれをしたこともある。吾々は子供の頃は、極楽と天
竺といふものは同じものだと思つて居た。今になつて見れば極楽どころではな
い。否、よし極楽であらうが、私はあんな暑い所はいやだ。日本国民には偉い
所があるが、又欠点もある。能く外国かぶれをする。御承知のやうに漢学者の
中には、支那の事と云へば、牛溲馬渤も有難く、王道と皇道を穿き違へた論さ
へ盛にした者がある。先人の書物を繙くと、王道と皇道をゴッチャにしたり、
又は丸で王道を皇道の憲法でゝもあるかのやうな事を書いてるのがあります。
満洲国は王道でやると云つてるが、それはよその国の事だから、私共の関知し
た事でない。然し若し日本で王道を建てるなんて人があるなら、私は徹頭徹尾
反対する。支那で王道といふのは、有徳の者が天の命を受けて帝王となるので
あつて、そこで禅譲放伐といふ問題が起る。尭舜禹は禅譲であつて、湯武は放伐
である。これを御覧になれば分る。日本ではさういふことは許さない。然るに
吾人の先祖は、すつかり支那にかぶれてしまつた時代がある。これは交通や通
信が困難で、向ふの事情が充分に分らぬので、無暗と向ふのものを有難いと思
つたのである。あなた方も御存じのやうに、どこのお宗旨でも御本尊、御本体
はめつたに見せない。あれは一つは余り正体を見せると、「なアんだ」といふこ
とになり勝ちである人間の心理を考へての事だ。支那でも天竺でも、九州あた
らからエッチラ、オッチラ小船で行く。通信の途は当時殆どないと云ふ始末で少
数の人しか往来しなかつた。そこで少し何処にか向ふの文明が優れてると想は
れる点があると、御人好で感服病の持主であるこの日本人はスッカリ感心する。
さうしてこれにかぶれてしまふ。やみくも支那が偉く見えて、到底日本は及ば
ないと思ふに至つた。そして我が國體とその根源に於て絶対に相容れない王道
にまでかぶれた。そんな学者、そんな人は一人や二人ではなかつた。それから
仏教がはいつて来ると、ばかに天竺かぶれして、殆ど日本の神様は仏教の為め
に潰されかゝつた。これも亦日本人のこの短所、この性格乃至心理から来てゐ
る。然し有難いことには我が皇室に危難が生ずると、和気清麿が出て家る。国
が危くなると、北條時宗が出て来る。神風が吹く。今時の者は「神風が吹く」
といつたら、をかしいことを云ふと思はれるかも知れないが、実は僅かばかりの
科学知識を以て総てが解けると思ふ人の方が私はをかしい。私は日本の国に神
風があると信ずる。満州事変そのものは神風だ。聯盟脱退に至つたのも神風だ。
更に六十年前に遡つて考へて見ても、あの難局を切抜けて明治維新の大業を
全うしたのも神風だ。ひとり元冠の役だけではない。真の日本人ならこの私の
云ふことがわかる。そしてこの神風は主として日本人の血から吹き出るのであ
る。「血」と私は繰返して云ふが、一体ブルドッグの血を享けないものは、如何
にしてもブルドッグになる気づかひはない。又テリアーの血の流れない犬をど
う育てゝ見ても、所詮テリアーになりはしない。日本人の血を持つて居ない者
を幾ら教育しても、日本人になりつこはない。私は、御承知のやうに、日本精
神を取戻せと云つて叫んで居りますが、日本人の血を享けてる以上、それは望
みがあるから云ふのであつて、日本人の血を持つて居らぬ者に「お前、日本精
神を取戻せ」とか、「日本精神を植ゑつけてやらう」と、私はそんな馬鹿なこと
は云はぬ。
然らば私共は如何にすればこの日を本当に記念することが出来るか。この事
変に際して爆発した日本精神、即ち大和魂 ―
大和魂といふと、大学や高等学
校の学生などは、何か黴の生えた言葉のやうに思ふか知らぬが、由来真理とい
ふものは古くても黴の生えるものではない。若し大和魂と云ふ言葉に黴が生え
てゐると思ふ人があるなら、それは実は自身の魂に黴が生えてゐるのである
といふことを知らねばならぬ。イギリス人にはイギリス魂あり、アメリカ人
にはアメリカ魂あり、仏独伊人皆然り。然るにひとり大和民族に大和魂がな
い道理がない。そしてその魂を大和魂と呼ぶに不思議はない。而して私の云
ふ日本精神即ち大和魂は世界に冠たる魂であると私は信ずる。それに気がつか
なければならん。吉田松陰先生も云はれた。「備とは艦と砲との謂(いひ)ならず。吾が
敷島の大和魂」これが御維新をやつたのだ。明治の日本を産出したのだ。それ
が又二年前の今月今日爆発して私が先程から挙げ来つた幾多の事変を起し、又
大革新を催しつゝあるのである。この精神に依つて、吾々は躍進的にふん張ら
なければいかん。九月十八日に爆発した精神が、その後二ケ年、満洲に於て、
上海に於て、天皇の下に、我が帝国の為めに、身も霊(たましひ)も捧げて、討死をさせ、
犠牲にさせた。吾々が、この同胞達に感謝するの途は、この精神を引継いで、
それを益々発揮して、内に於ては一大革新を断行し、外に向つては、満洲国の
完全なる発達を助け、依て以て東亜全局の安定に邁進しなければならない。今
は日支の国交が、満蒙問題に関聯して一時悩んで居りますが、それは一時的の
過程であつて、私は満洲国の発達安定により、必ず日支の間も誤解が解け、中
華民国四億の国人の多数は我が国の真(まこと)を悟る時が来ると信ずる。単(ひと)り隣邦中国
だけではない。世界を挙げて我が真の精神を認め、之れに共鳴し、これを歓迎
する日が必ず来ることであらうことを疑はない。
かゝる日が来なかつたら、世界の平和は来ないといふことを、今から断言し
て置く。私はジュネーヴでははつきりさう云つた。これは法螺を吹いたのぢや
ない。私はさう信じて居る。日本精神が本当に躍動し発揮されないでは、人類
に断じて平和の来ないことだけは、ハッキリ世界に向つて云つて置く。而して
私は、必ず欧米人もこの精神を悟る日が来ると云ふのであります。それには順
序がある、先づ満洲国を発達させなければならぬ。これが、明治天皇の御遺策で
ある。東亜全局の安定に向ふ鍵であり、径行である.その次に亜細亜民族の真
実の自覚甦生が来る。それから偽りのない平和の世界をつくることに邁進しな
ければならん。実はそこまで貫いて行くことが、九月十八日に火蓋を切り、そ
して、その後尚ほこの精神の為めに ― と云ふよりも、この精神を発揚しつゝ
犠牲になつた人達とその遺族に酬い、感謝する所以である。斯様に私は考へて
ゐるのであります。
これは私は、空想とも、夢とも思つて居りません。却つて物質文明に捉はれ
て、私の謂ふ西洋かぶれの人 ―
失敬な言分だが、あなた方の中にも、さうい
ふ人がある。それは無自覚的に、知らず識らずにさうなるのである。
― これ
等の人から見ると、これは夢見たいである。空想見たいだ。それは日本人にな
り切つて居らぬからだ。然し日本精神を真に取戻した人には、私の申上げて居
ることは、夢でも空想でもないといふことが分る。畏くも、聯盟脱退の通告に
際して、御承知のやうに渙発せられた、詔書の中に「大義を宇内に発揚し」と
ある。これなんである。御維新の時に、我が国士の中に「大義を四海に布く」と
云つた人がある。彼は決して法螺を吹いたのではない。その後西洋かぶれした
日本人達が ― 政治家初め、実業家でも、学者でも、その大義を四海に布くと
いふ精神を忘れた。恐らく、忘れたのではない。そんなことは法螺のやうに聞
えて、途方とてつもないことのやう思ひ出したのであらう。再びこゝに聯盟
脱退通告の瞬間に畏くも 今上陛下から「大義を宇内に発揚し」と宣うた事を
繰返す。吾々はこの大御心に甦らなければならん。私は、決して反動的にもの
を考へてはゐない。世界何処でも、良いものがあれば取つて来るが宜しい。長
所は皆取つて来るが宜しい。私の云ふ日本精神とは、日本だけに限るものでは
ない。世界に通用するものであり、世界を被ふものである。世界の長は飽くま
で取つて来るが宜しいが、唯「自分の魂を置き忘れるな」、と斯ういふのであ
る。
斯ういふやうに考へて参りますと、九月十八日は、私が先程申します如く、
単り我が民族史上に一大画期的光彩を放つといふことに止らず、更に全極東
史、亜細亜史、否世界全人類史上に燦爛たる光彩を放つ燈明台として、長く
仰がれるに至るであらうと確信するのである、これは決して大風呂敷ぢやな
い。こゝまで徹底しなければいかん。どうかこの日を、お互に真に記念しよ
うと云ふのなら、先程から繰返して云ふやうに、日本精神に甦つて、左顧右
眄、他国、他人の顔色のみを見ることは止めて、須く我が国民は伊勢大廟の
神鏡の前で、自分の姿を見直し、自身の姿勢を正し、自身の身を浄めて、さう
して出直さなければ駄目である。私は徒らに強りを云ふのではない。自分の身
体を浄め、真の日本精神に甦つて、堂々と世界の大道を闊歩せよと云ふのだ。
自ら反省して、我れを正さずして、私共は決して日本精神を世界に徹底さすこ
とは出来い。どうか此際諸君と共に、それを真剣に考へて私はやつて行き度
い。それが、この満州事変以来こゝに二ケ年、我が将兵が身命を抛ち、幾多の
人が護国の鬼と化し、その遺族は苦しんで居る。これ等に酬い、又これ等に感
謝する所以であると、斯様に考へるのである。どうか、内は小異を捨てゝ大同
に就き、さうして大革新をやる。外は、私が先程から述べて居るやうに、その
大使命に邁進する。これが私の国民に愬へ、お願する所であります。どうか、
斯やうな意義に於てこの九月十八日を長く記念し、さうしてその精神に甦つ
て戴き度い。尚ほこれだけを申上げて置きたい。我が国は非常な国難に、向
ふ五ケ年、頭を突込んで行くのであります。どえらい国難に遭遇する。大国難
とは何であるか、喬木風強し、木が高くなればなる程、風が強く当る。そんな
ことは当然だ。国が偉くなればなる程、国難は一層加はる。国難が嫌ひならば、
国を弱くするより外に仕方がない。そんなことはしたくも出来ない。日本はこ
れから、有史以来の大国難に、向ふ五ケ年出つくはすのである。併し同時に最
大躍進時代を劃するのであらう。これに向ふには、先程から述べた日本精神に
甦り、そして七生報国 ―
七度生れてこの国に奉公しよう、これしかあり
ません。
憂きことの なほこの上に 積れかし
限りある身の 力ためさん
これなんである。国難が来れば来る程、益真剣となり、身命を賭して、国難
来(きた)れ、何かあらん、これと戦つて見せるぞ、と勇猛心を揮ひ起さなければなら
ぬ。暗夜風浪と闘つてこそ、軈て明い平和の海に出る事が出来るのだ。来りつ
つある国難は、日本が偉くなるから遭ふのだが、又これを突破してこそ、更に
偉大なる民族として、世界にその英姿を現はし来るのである。これをあなた方
はハッキリ観念しなければならぬ。
極くかい摘んで私の求むる所を申上げるならば、この大国難に処するには、
属国根性を清算し、日本精神を取戻し、さうして皇道を世界に宣布せい、お互
にこれをやらうぢやないか、斯ういふのであります。偽は偽
― (今の世界には
余りにも偽善が多い) ―
真は真、邪は邪、正は正とし、先づ自分の身体が清か
つたならば、正しいならば、何んにも恐れることはない。堂々と進め、そして
吾々は何をするのかと問はるゝならば、軈ては吾々は人類の幸福に貢献し、さ
うして偽りのない平和の世界を実現すべき聖業に精進するのである。と、お答
へする。最後に私は一言全国民に特に注意する。それは、レーニズムは固より
我が国には行へぬが、ムッソリーニズムも亦行へるものではない、と云ふ一事
であります。現状に慊(あきたら)ぬといつて、レーニンやムッソリーニの真似をしよう
といふことは何事であるか。西洋の資本主義と、物質文化にカブレルを憤り乍
ら、依然欧米人の真似をせんとするのは片腹痛いことである。左するにも右する
にも何故、あくまで西洋人の真似をし、西洋の糟粕を嘗めねばならんのである
か。一体何のための西洋人崇拝か。須く二千六百年史の明示せる惟神道(ゐしんたう)に還
れ。日本には惟神道がある。それに帰れ。西洋人の真似をせんでも宜ろしい。
之が九月十八日を最も有意義に記念し、又多くの犠牲者の英霊を弔ひ、我が忠
勇なる将兵に酬ゆる、否、真に感謝する所以の途である。極く卑近に之を云へ
ば、この際属国根性と個人主義とを去れ、さうして我が民族の伝統たる不羈独
立と、犠牲奉公の精神に還れ、と云ふのである。即ちこれがこの九月十八日を
して愈々光輝あらしめ、又その精神を貫く所以である。と斯様に私は観ずるの
であります。