満蒙に対する認識と政策の確立

            −

   近頃蒲蒙に於ける形勢が、甚だ面白くなくなつて充たので、在蒲田胞の問に放てはもとよ少、潜水我が内
  地に於ても満蒙閏担と云ふものが、各方面の詩者の間で大変唱し〈論議せられる様になつて充た。朗し一段
  今頃満蒙問題などと、今更の様に論議をした少、満蒙攻究の縫立を叫んだ少、乃至満域幹部の恒久性とか伊
  南浦域の包尉憩守と云ふことに就いて諭するなどは、寧ろ可笑な詣である。これ等の問匝は我が国として、
  とつぐの音節究もきれ、論議も轟され、腋定されて居らなければならなかつた筈である。
  今頃軋び旋大回収を呼ばれ雷、滞蛾扶警雪れ誉ソ、若しくは瀦蛇田収を目論まれたダ、日本卦カの
  駆逐密令が壕せられたと騒いだか、又日くネ常課税、貿易魔迫、鞍山製践併町歴滅運動、日く吟爾賓、奉天
  虹於ける邦人凌辱事件、蕗男山に於ける鮮農燃迫事件、日く何、日く何、殆んど迎接に逸なき班日事象の走
  馬燈舶たる光景、これは故なくして其の打、その日忙突餞するのではない。其の根抵に横はる重安繚囚の二
  部或は大部は我れ免づ滞蒙に野する認誅を放ぎ、彼れ亦史賓を衆統し認講を演つて屠るからの事である。
   日清朝黎は、何時あつたか、日蕗戦寧から臨時何年たつて屠るか、こ・の琴一の戦争の結果として、決定縛
 ・に日本が瀞蒙に舜出してから一憶本年は何年目であるか、既に四年世紀も過ぎて居るのである。寂静が魂出

 した漂漂流赤ん抄は、もう二十五虚になつて替るではないか、個人で云へば既に姦丁農業して替る卑
 である。今日満蒙間鰐に勝山首持ち、怠して屠る人達む少くとも年数は、恐らく日落髪丁の噂、転に墓
 .冊凄これに閲奥し叉或者は、その後の帝京に於ける、我が国の施故にも尉係した人であらえ
 ・それでゐて今何かやうな議論をすると云ふ、香しなければならぬと云ふこと1それ自身が、鴎虹奇ガ政事
  ではあるまいか、若し閏担白煙が我が図に取つて、直ちに存亡の閏担であると云ふ様な重大牲を呼びて屠ら
  ぬものでゐつたならば、私はこの有様を寧ろ滑稽祓したい様な窮感に、さそはれるのであるが、資性、超
  その沌のが今首つ・た棲に、如何にも重大である凋、これを軽く滑稽な少と許し去る気にもなれない・
  と胡姦は、重囲灯取つて宰劇≠云ふべ」、節りにも軍大佐を符びて屠る頻に、悲劇と許する方が雷つて
.居るであらう.如何に絹構ないぎまである.

            〓                               .∫.丁∫
                                                                                                                       ’. .丁・。− −いT」・1
 、藷蒙攻先の確立といふ音素をよくをく.今更鰊立でもあるまいと首ひたくなる、が革の叢は如何である■
 かと云ふ町卜何虚針捜して見ても、真の良そん姦発の持合せはな表で霊0或は・私が蕗言る彗あ
 るかも知れない畑、四牟世紀に渡つて、直壌間凄帝蒙閑担に昭博し?その何に埼蒙の現窃に一庖も職を停学


                           …‖‖耶W


  席私でさへ、どんな攻発があるのか、今日まで明磁少した指示を、何れの方面からも受けた見えはないと云ふ
 櫻なていたらくであるのであるから、我が嘲野を通じて、棒固たる攻柴な少、方針な少として、一般拘民が
 ⊥知つて屠らう筈がない.今日突如として、こんな論題を諜せられるのも具に条理からぬ話ではある¢無論過
・去に於ても蒲蒙の閑蟹と云ふ位の方針はあつた。その男に満域も創立されたのである0併し誰山男めに何の
 凋めに閑息寸るのであるか、又閑凌逸行の褒めには何を為し如何やうに敷くべきであるかと云ふやう革具醍
 時の事になると一向ハブキクした方針も柴もない。それは一には香主として基礎殉教議を放いで屠るからで
  はる渇せいか。.商租横間題すら今伶は愚図付いてゐる。香次符に.影が薄らいで行くのを見ても如何に我が国
 民がとの罫礎均認識を快いで屠るかと云ふことが窺はれるではないか0
  政党と云へば序であるから言及するが、世人絹黙知する様に、蒲蒙攻策に就せ、陛下に故田中治理大臣が
 容量レ瀬上葵文なるものを、諒年来盛んに支那で流布して屠るのであるが、これはその内容を表しただ
 臥で、形式から音つ七も、壷赤な野物であつて、筋宗くの如き形式の上奏なぞは、日本ではあり符ない革
 であると云ふこと瀬、筍くも月本の団情を少しでも知つて屠る者には、詑萌する蓬もなく明かな事である●j
 七砂上秦文なるもの1原本は」北京に居住しておる某国人(わぎとそ秒団名はさしひかへる)が、璧氾したも
.ので、擬革なる茫揺さへあると音はれて居るが、私を以つて見れば、或は日本人の或者が金備の男に偽造し

  て、・これを支那人に相嘗の高い値段で資付けたのであつて、これを買ひ取つた支那人は、兵惨と信じて居♪
  叉その人が、今日その虚偽なると上を倍つても、自らその虚償なることを各自し符ない標目漑陥つてゐるの
   ではあるまいかと想像せられる筒がないでもない.」
                                                                ●

            三

   一燈日本国民、少くとも日本の名攻者達蛙、欧米その他の国民から飴程買被られて居るのではあるまいか
  と私は度々思はせられたことがある。以上私の率直なる昏白も恐らく彼等は、容易に異質であるとは想はな
  いであらう。あの有能なる而して、怜悌なる日本人が日本の国運に重大なる囲係を持ち、且短大なる犠牲と
  努カとを梯ひ、響つてその囲邁までも隋して朝つた程の滞蒙問題に就いて、砥固たる攻究を、とつくに建て
  七屠らぬと云ふ様な、々んな馬鹿くしい話があるものかと云ふであらう。これは、真の良かく鬼る者の方
   が常識栂である0
  少くとも欧米にはト困らしい固をな⊥て屠る団民で、か1る香気至極な者はあるまい0森にヨエツ・ハ等
   や国境を相援し、僅かに図際栂離合に依る凍衡に依つて、団命を保つこと多きに居る、情勢の下にあつては、
  筍しくも泣亡を欲しない以上、寸時も日本威民の如き、香気さを血鸞挿する像裕はないのである、彼等の悶で



                                                   L「皇
                                          .■いHl


 は、日本の塙蒙に於けるが如き、重大なる関係を持つて屠る問題に就いて、だらしのない行き方、又は孝へ
 方々許さないのである。又瓶蒙に閲して、日本が梯つた櫻な、巨大なる犠牲と努カの如きものを忘れる接な
  お人好しも隠な小のである。とれが現賃の世界であるO
  P本人は如何にも世離れして居る卜も言へないことはない・1」は再び、今更瀦蒙攻発の辟車でもあるまい
  と叫びたくなるのである。が前此も音つた様に、日本の現貰は如何せん、か上る同日を課して囲民に呼びか
  けなければならぬのである。何故かような始末であるのであるかと考えて見ると、それは、指摘した様な我
 国民性にも依ることではあらうが(この我図民性は、具に集積であると思ふ?けれセも悲しいことには、こ
  んな美徳は平和論の盛なる今日と駈も、まだ囲際攻局に就ては、飴り効果的でない棲である・今は二十せ鹿
  であるが、そして、人顆が人間らしい形を取つて地上に頼はれてから、既に六十苗年を経て居るけれども、
 身を瓢tて仁を膚すと云ふ様な図柄は、像少見常らないのである);は香その最大原尚は−何んと言ふて
 も日蕗戦役直後我が璃攻者も、我が】般団民も蒲蒙の地域に掛して・ト掛たる而して哀したる基礎約諾誠を
  把持して居なかつたことであるJl

                                                                                                              irLT   1.【
             四

  d我々は動もす・ると、.非常に大切な事柄に就いても、只ぽんや少と観念するにとゞ怠ることがある.これは
 東洋抑であるとも云へやチ。漢文中毒にか1つた日本語は、これをヨーロッパ語に比すれば、もの土官ひ表
 し方に明確を映ぐ事が少くない.漢文には、白攣二千丈や森厳有高と餌す位は愚か、過去現在、未来のない
 卦詞すら平気で使はれて屠る.
  最近の日本文は、ヨーロッパ語の直琴を見た様なものが多いので†その文澄の妙味は別として、椅々との
 弊を免れたる観は濱る。一憶言葉が、明醍を炊ぐと云ふことは、左様な言葉を使つてゐる人の頭の働が、喝
 取を快いで居ると云ふことであつて、日本語の故鮎は、やがて、これを使つて居る我々日本人−少くとも
 過去の計本人11町税念や孝へ方に遺憾ながら、鉄陥があると云ふこj堅牢すものである0
  欧米藩閥民億らば、蒲蒙岡垣の如き重大なる閑短に裁ては、最初から緻密なる研究思索を逮げ、極めて、】
 はつきサした認識を持つただらうと想ふ。満蒙の地域に裁て、既にハブヰヅした観念も認識もなかつたので
 あるから、徒つて又樅たる政策が樹丸され枝道理がない。少くとも此の事は日露戦役常時の我が団男攻者の
 畢犬なる責任閏担であらねばならぬ。朗⊥吾人は、箆ら過去を追ひ、過去針かこちた少とて、何の役にも立
 たない.それよやも今伶我が朝野を挙げて、紫紺む女声はうか.この事に勤して、我々は異例に反省し考慮し
 てもよい‖秋々は計るまいか。故に私は、これ蓬度々我が図民は、.免づ蒲蒙に掛する認識を新にせよと叫んで


                                                              ノ
                                                                                                              ∩/
                           ■…り   “


.居るのである.」
                                                                                ヽ
           五
 ∵表し彗た認識があるならそれを正すが宜しい・若し嘉認藷を快いで居るのならば1渥しと革も今日こ
 れを擬音全掛違じて、表し姦したる認識蒜つことが、何よ呈羞であつて、これが満定
 数東経立の必須前拍條件である0而してI・この認識を確立するに誓は、どうしても歴史的考察を行ふ外
 思い箸ある0表、との歴貴孝警逸↑ると云ふ事に就て、政治家初め我が犀壷は飴程これを等閑に
 紙駁∴.〃
 附して居りは貰いか0これを等閑に附して居るからして、何時書撃ても・根慧る正確なる嘉が生
 れて来よう道理がない。故に私は何よりむ・草々に・蒲蒙に閲する歴史拇考察を−我が朝野の人達にお勧めし
                                                   」
 なければなちぬ。私は遺憾ながら此虚に、私の簸げ・た歴史拇考察の耽要だけでも述べる除白を持つて屠ない
.のであるが、窮者諸君には京都犬拳教授である、私の農友矢野仁】君の之に闊する著者の表を靂めす
.】る0
 との著書は、中華民幽人が盛んに攻撃して居るのであeが、それは彼等灯取つて殴り都合がよくないLと
 があるからのことで、曳ら攻撃したからとて、との著書に掲げてある歴史的革質は−これを寸竜も曲げ得る

 ものサはない0叉日本大挙教授でか名現野刹三郎君の蒲蒙特使健に紺する著書も一読の償櫓がある一塊に、
  今の民図攻府の外交組長である王正延君等が、小供の時支那の小拳銃で習ノつた教科書で盾る支那地蹄には瀦
.山琴は入つて居らなかつたのであるOL


            穴

  要するに滞蒙は中肉よ旦古へば、逮填の地であつて、先づ犬暦の時が、支那が一番そのカを逮境に及ぽし
  たのであるが、その時と蹄も滞蒙に野しては、今日の観念で云へば宗主撥位のものしか及んで居なかつたの
  であつて、領土とは決して言はれないのである。更に下つて、元清の時代に至つては、宗王樺どころか全戯支
  部の色彩はないのである。僅に元な少、清なりの帝冠に偶つながつて居る帝望の私的領地であつたに過ぎな
  い0即ち欧洲史上に見る所謂クラウン・ランドと同様のものであつて、とれを以つて支那本土の餞土と同一
                                                                                                ‘
  現するととは、もとよ申出来ないのである。.
 ・現に、清朝のもとに於七は・蒲洲は蒲洲民族の居住地であつて、漢民族に野しては封禁の地であつたので
  ある0それを種々の事情からして(主にワシヤ人の東漸南下に掛する一篤として)雪二十年前頃から、それも
  小慣域を限つて除外例的に、ぽつく漢人の移住を許した様なわけである.支那人に掛する最後の禁令を解・

                      …畔を

・いたのは、僅に二十六年前であつたのである0か1る史寧豊富の眼前に於て、これに加ふるに李鴻章ロバ
 ノフ秘密同盟條約に依少、日本を露支共同の敵となし、支那が進んでワシヤを引き・凡ゆる便宜き繰供して・
・これを満袋の野に突進せしめ、ひいては鴨緑江を越えて、韓牛島の南端にまで、蕗のカを延さしめんとした
 史彗見方に俵つては而して此の見方の方が貰際に糾して屠ると思ふがその見方に依れば、蒲蒙は既に支那
 自らワシヤに切貸したも同様であ少、且支那が資つたのであらうがあるまいが、北済事菱に乗じてワシヤは−
 現賞に満袋を占領支配し、而して支那は故意忙しろ或は、己むを得なかつたにしろ、此の事態をその偉に看
 過(支那から言はすと、との事態に勤して抗議したと云ふかも知れないが、常時その抗議を且虚化すろ何等
 の堵カを有せぎ少しはもとよ少、常時の清朝なるもの1外交は、二重にも、三重にもなつて居つたのであつ
 て、表面の;二つの抗議等を盟て、直ちにその裏面に於て、ワシヤの占領を認めて屏つたのではないと云■
 ふ櫻な焦邪気な見方捻出来ないめである)した事箕と、8本が麒麟起つて自図の存立と−東亜全局の保全と.
 の虐忙強儀を撃退し、蒲蒙をその手かち奪淫して、これを支那に返したと云ふ革賓、そしてこれが名には、
 質に、囲選を晒し十苗の生重を犠牲となし、二十億の戦費を負捨し、今伶我が図民がその元利償却の男に噂
     \‥サ
 ぎつ▲あると云ふ現賓なる事室等を冷辞に公平に、正成したならば、この滞蒙の地域に勤して、如何なる革
 念なり、認識なりが生れて来るであらうか、加之四中世紀この地域の治安維持と、異常なる閑蟹とは申す苧

  息なく、主として日本のカ此倹「つたのであると云ふ事官に想到する時払放てJけ本の蒲蒙に甜する挙富樺は.
  如何なる程度のものでなければならないか、と云ふ事は荷くも常識ゐる者ならば、自ら瀾常の見破な少立答
  なやが生れて来なければならない筈である0
 .若し夫れ、我が図の囲防と経済生藷に閲して非常に重大憤る交渉のあると云ふ事を惰るに於て、賂た卒‥
  蒲蒙閏現の辟決は明治以来の我が団是なる東亜全盾の保持の鍵であると云ふことに徹底するに於て、我が軌
 民として蒲貸に勤し如何なる認識と、而してその認識を前提として如個なる攻乗を樹立せなければならぬか、
  と云ふことは、怨理に私が此虚に具憶時に卑見奇遇べすとも自ら分明となるであらう.L

         、七

  更濫極めて率直に言へ.ぱ寛け届感吟認識どころではない、日本人の多く廿今日の満蒙現場に於ける革揺す
  ら具に知つてはゐない。たとへば、田中内閥の積極政策若しくは張作森爆死事件が蒲蒙の客気を悪化せしめ
・潅と臆面もなく揚言してる攻荒すら我が国にはあるり虚凝と知少ながら攻略上故意に斯かる音読をなすので
                                                                                †
  あるなら、々れは別であるが、若し虞にさう信七て首つて居るのならば、′その無智と無邪気とに驚くの外ない.
 ∵在浦竜郷人の日本に対する反感は昨今に萌したのではない、叉誰彼.が特に激成レたと云ふ事でもない0閲東:′






・租借地む支那に返へし、我が軍除を放し、滞球はじめ我が有カなる辟済施故を度しさへすれば・との反感の犬
.部分が滑滅することは講合である。が然しさやうな退却が我が団に出来ることであらうか0それが出来ない
 ・以上、野日反感の時流は断じて止まないのであつて、唯時と事とによつてこの潤流が表面に摂はれもし、又
  其の表はれ方が温くも溶くもなるだけのことである。そしてこの時流が表面に激化された形をとつて綴はれ
 1来る場合を大別すると二つに分つことが出来る。一つは.日本が積極托動くと見たときに之を防がん食めの
                                                                                                              l
 壊灯せ告つは、我が足許を見遣し、侮嘗切つて、彼より積極に我が勢カを駆逐せんとする場合とである0
‥由中杓槻時代レニ時儲はれた現象灯前者の場合であつて、濱口内閥以来今日に至る現象は後者である0前者
 ゐ場合は反感と恐怖≠ら準て居り、・後者の腸合は反感と侮蔑から生じたのである。彼の崩する限り前者は防
 懲であ少、滑極である。後者は進撃であり、積極である¢その執れも誠に困つた事であつて1その粥根を何
・とかして滴与自支の瀾和平の警簿じ七いので漕が、しかし何としてもその執れかの現象に甘んぜねば
・ならぬと倶定すれば」私は針本人として軋者を浮ぶ、少くとも侮蔑されては屁ない0今日の日本に前者の壊
 合身許張膚撃しへ支那例の昔々そのまト借少受けて)、反感プラス侮蔑を揮び支那側灯意頼進撃を喜ぶ、少く
一・ともjう≠ふ膚論に終らざるを得ぬやうな攻究を謳歌する徒撃、香攻焦すら在ると云け事はどう孝へても我
.が回の不健康状態を物語るものである.汲に何等積極清動なく、徒つて彼は何等防紫の劃繁々施す要なき褒

 竺呼水面に小波がた▲ないからと云つて、直に「満袋の名東大小虹改革せり、此の時交渉を開始せば手盛
 るべしLなぞと各音する人¢男気と大漁とには感脱の外ない、蓋し、か1る男気は官臼以外何ものが拳み得▼
 な.h奇形見であらう。水面の漣を観て贅も.その下を流れてゐる反感.の時流を簸せすして、大野疾呼客気の革
 化呼ば少する壌も軽躁であるが、貌貯水面に小波が起たないかちと云つて・四海浜卒かなaと歌つて得意がタ
 その下に恐るべき反感の時流に侮蔑の慕流さへ交流しっ\やがては】大政滴々捲き起さうとして居eLと
 に泉がつかないのも誠にお芽出産い限少ではある。波瀾として表面に顕はる▲場合む私は二大別して祝いた
 が、今一つの見方は宅那本土町排外殊に排日の峯叙がこの歌年来漸次蒲蒙にも及び、それが日を泊ふて激し
 くなつて来たのである。現場に於ける事箕を正直に括れば、この数年来日一日満蒙に在る支那人の間に排日
 の壊気が濃厚となつで来たのである重石ふ事を香定することは出来ぬ0我が団の何れの内閣かが特に之を激
 成したなぞと云ふことはないのである。若し敢へて指摘するならば、前の若槻内閲と今の若槻内閣の下に放
 て最もとの傾向が烈しくなつたのであるが」それは偶朗の事であるか、それとも我が外交の罪であるか、そ
 れは読者旬判断に委ねる。唯不思議なのはLの再度とも其の根底灯卦に掛する侮蔑の潮流の流れてゐる事で
 あつて、とれだけは偶戯と云つて故明するわけには行くまい。少し話が細かくなり過ぎたが、要するに基破
 均弛静どころか、かくの如く今日の瀞蒙現巷に於ける事情すら具に知つて居ないやうな事で†どうして我が






 滞家政繋が樹立されやう、叉樹立されたところで、どうして之が遽行できやう0序であるから話すが・浦安
 に鹿る支郷側要人達は今に始まつた事ではないが、たえす我が国の政情に細心な注意を沸つて居る、我が国
 の為政者達が彼の地の事情に暗い事と甚だしき封照である。彼は我が図の政情を手に取るやうに知つて居
 る、々して由中内閥の時、民政蕊の人が向ふに行くと盛に田中内閣の方針なり施設なりを攻撃して延かせる・…
 それから今頃政友合の者が訪問すると・民政賞内閣の漉す口を痛革し完せる0これが彼等の常習であう
 而して彼等の晋を鵜呑み忙して辟るほどのお人好しか若しくは政拳に之を利用することを壌躇しない日本人−
 の往々忙して存在してることをよく承知して居るのである。田中内閣が満蒙の峯束を意化させたなぞと云ふ
 皮相の故の出所も大概は推せられるではないか。東郷人の吹いた笛に踊る日本の政客が居る聞は瀦蒙政菜の
 確立もむづかしいが、よし之を立てた少とてその逢行は朗敵望み得ないことである・

          八

 膚に附加へて置くが、よ←中団人望轟王様皇式ふけれども、一新に王梗と云つても支井本土に於ける主
 席と、浦真の如き逮境の地に野する重機とは、自eその内容も程度も異つて居るのである¢圭樺と云ふ較念
 は比轢的に、先代の凌達であつて、持と漁師とに俵つて−その戦念や嘗質の内容も異つて屠ると云ふことは

 申す慈もない小又中斡人が此頃我が用の入日岡担の噂しきに傲つてか・し針カー支那の人打開捏を論じ−藤・
・粛々以て温剰人口の漑け境野となし、此の鮎よりして、扁支掛から見た必要と樺利とを高唱しっ▲ある撞
 でかるが、若し支那が蒲蒙をその植民地な少と呼ぶならば、日本も又甲一程度に放て」或はそれ以上に滞京
 を以つで我が植民地な畑上玉張する構利と資格とがあると音へやう.
 } 叉瀦蒙の事厳に野して日本は、雷朗中岡と同一若くば、それ以上の響富樫を持つて居ると音ひ得る.この
 私む主張は上れ整削舞岡罫ながらも指摘した歴史時事箕に綴ればそこに何のこじつけもなく、何の紫理もな
・い常戯過ぎゑ誉田然な申分であると云ふことが首肯きれるであnう.
  我が瀾民は、須らく此の二鮎忙就て、ハブキク止した観念と識見とを持つことが必要である。私を以て切
 許せ⊥むれば、その出費鮎に於て、蒲蒙に野する認識を快いで居つた事が、満洲香後談判を通じての大枚臨
 であか、・撞いては、その後今日に至名迄、絶たる摘発も樹たず、又多くの野蒲豪虚置が不徹底に堕し終には
 や月眼のみ普見るが如き、行管を生じた謬であるu
 .奨は此の際史的考察と現前に横はる事貰とに野して、判然阻縫なる認詩計二定し、而して、これに基き棒
                                                                                  J
 固たる朗柴、跡ち何等の矛眉なイ、而して何等妖しき慮なき盈駒正大なる滞蒙国策を縫立せねばならぬ0何
 歯もよ少も発づ、我が囲民が蒲蒙に野する基礎的認識を】定しなければ、中鱗人はもとより欧米人造をも我.
                                                                                          、





  と同一の密議を持たしめることはとても出来ない相談である。而して筍しくも世界を通じて一定したる酷薄
  だに徹底すれば、之を基礎としたる我が団の瀦蒙攻発に野しても亦多くの非難はなかるべき筈である●

            九
  との瀾を絞る虹温んで誤解を防ぐ膚灯、今三臥加して置く0それは私の論調からして動もすれば−私は
・蒲蒙に紺しで非常に強硬ででもあるかの如き謬印象を潜たる⊥方があるサ絹知れないが、私は断じて不常な
  鳥強硬論を喝へて居るものでない¢どちらかと首へば、私の性質上叉私什宝義に於て、か▲る事柄に裁て
 は、極めて寛大なのである。唯動かナベからざる過去の史資と現前の虜賓と瀬、如何に寛大であるにせよ正
  萌しな竹ればならぬ町この正武を怠つた億らば、公正を矢しない認識も政党も出づるものでない¢
   これを計支関係の角度から見てもあ互に軋賓と現前の革質に裁ては、正直にこれを認め、そしてその上に
  各正な鳥瓢諭を免づ以て、持りととが日支南図人の膚香中囲の鳳にも、結局利金である・南して、これがや
  がで東温全局の保持は因よわ世界の平和と人鵜の藤批と町斉潮する併劇であを。
   命、私は瀦蒙攻柴の前提たるべき忍藷と.これに基く政策略立の急務なることは遇べたが、然らば如何な
  る攻乗を樹立するべきかと云ふことには、解れなかつたのであづて、読者には研か要餌を符ない接な、少く

  ▲とも、もの足少ない撲な、或は読者の最も粥かんとする斤のものを鉄hで替ると云ふ感を臭えるであらう
  が、それは私の立弟として遺憾ながら忌弾なき意見を迎べる事は、逝くるがよいと孝へたからである・こ¢
  ′鮎は読者諸君の諒恕を帝はなければならぬ。汚して私の適べた庚に俵つて、茫らに思来を簸げ、推断を行は
  るれば、自ら我が井蒙故柴の如何なるものでなければならないかと云ふ少くとも海岸だけは・隈前に浮んで
   来ることと思ふ●」・