満蒙問題とは何んぞや

 第一に満蒙の地理及概念に就き御話致します。満蒙とは大体東三省と東部内蒙古とを併せて指すのであります。今日では従来の東三省即ち奉天省今は遼寧省と申して居りますそれから吉林省、黒竜江省に熱河省を加へて之を東北四省と呼び表面支那本部に統一せられて居りますが、実際は張学良氏及張作相氏等が軍事行政共実権を握り、必ずしも中央政府の威令が悉く行はれては居らないのであります。此の地域は北緯三十八度四十五分から五十三度三十分に亙り、(我が岩手県から樺太の大部分)東経百十一度から百三十度二十五分、(我が和歌山市、神戸市、宮津市から支那の海南島や南洋のボルネオ辺と略同じ)に亘つて居ります。気候は大陸的であつて大体冬が長くて夏が短い、そして概して干燥して居りますが、温度は黒竜江省の北半分を除いては、秋田県から北海道にかけての温度であつて、防寒設備其他の事情からしてむしろ内地の東北よりも遙かに凌ぎ易いのであります。
 山脈は大ザッパに言へば、東に長白山脈西に大興安嶺が南北又は東北から西南に連なり北に小輿安嶺が東西若くは西北から東南に走つて居る。豆満江、遼河、鴨緑江、黒龍江、ウスリー江等主なる河は皆源を此等の山脈に発して居ります。其面積は六万五千方里で日本本土の約二倍年であります。併し日本は山嶽が総面積の四分の三、平地が四分の一であるのに反して満蒙は四分の三が平地であつて、山嶽は四分の一であるに過ぎません。此の広大なる地域に人口は僅か三千万人で一平方哩に日本本土は四百人余りなるに対して僅かに七十人余りであります。尚ほ我国の耕作面積は約六百万町歩でありますが、満蒙は既に一千三百万町歩即ち日本の二倍余耕作されて居り、此の外に尚ほ未だ可耕作未墾地が一千二百万町歩も横はつて居つて、それが毎年三十万町歩開墾されつゝあります。近来一ヶ年百万前後の支那人が、支那本土殊に山東、直隷、河南方面からどし/"\満蒙の新天地に流れ込んで来る情勢でありますが、かゝる民族の大移動は人類史上稀れに見る所であります。
 満蒙は農業国であつて、現に一年一億数千万円を我が国に投入して居る、大豆、豆粕等を始め多量の農産物を出して居ります。鉄道は此の広大な地域に僅かに六〇〇〇粁しか無い。其内満鉄が一一〇〇粁、東支鉄道が一七〇〇粁他は少し許りの日支合弁鉄道を除きあとは純然たる支那鉄道であります。最後に貿易の大体に就いて申上げます。昔名も知られざる荒磯に過ぎなかつた大連は既に支那に於て第二位の貿易港となり、日露戦役直後僅かに三千万円であつたものが今日では十億円に達したのである。過去二十年間に支那本部の貿易が約三倍になつたのに対し、満洲の貿易は七倍余に躍進した。之は支那本部に比して満蒙の地がそれだけ経済的に伸び得る力を持つて居ると云ふ事を物語るものであります。
 第二に満蒙問題とは何ぞやと云ふ事に就いて私の所見を述べます。私の見る所では「満蒙は我国の生命線である。ニ、満蒙問題の解決は東亜全局安定の鍵である。
 一、の満蒙は我国の生命線であると云ふ事は、日本が満蒙より退却する時は日本が衰亡に赴く時であると云ふことであつて、何れの国にも皆此の生命線と云ふものがあります。例へば英国がジブラルタルやマルタと云ふやうな地点から退却を余儀なくされる時は、之即ち大英帝国が瓦解に赴くの時であります。又米国のカがカリビアン海に及ばなくなつた時は即ち米国が衰亡に向ふ時であります。
 満蒙は単に我国の生命線に当つて居ると云ふだけではない。尚は歴史的事実に基き我国との緊密不離なる関係を持つて居る。殊に満蒙問題が今日世界の一大問題と化するに至つた主なる原因をなして居る満蒙の開発、即ち満蒙が世界の注意を喚起するに足る程度まで経済的に価値づけられたる事につきまして、日本が最も偉大なる貢献をなしたのであります。第一若し日本が露国と決然起つて闘ふだけの決心と実力ととを持つて居なかつたならば、其後の形勢は如何になつたでありませうか。勿論今日支那の論議する満蒙問題と云ふものはなかつたでありませう。即ち疾くに満蒙は露国の版図となり延いては支那本土の瓦解分割に結果して居つたであらうとさへ言はれるのでありまして、満蒙問題を兎や角論ずる本尊の支那さへなくなつたでありませう。
 それから若し日露戦後二十数年に亘り我国が何等力を致さなかつたならば、今日見るやうな開発は果して出来たでありませうか。私は明白にノーと答へます。然してあれだけの開発が行はれなかつたならば経済的に、延いては政治的に国際問題として世界の注意を呼び起すだけの価値の生じなかつたことは明瞭であります。支那の人等も此の基礎事業を公平に然してはつきりと正視せねばならぬと思ひます。否何国人よりも先づ我が国民が之等の基礎事業に就て其認識を新たにし、明確にしなければなりませぬ。二の点、即ち満蒙問題の解決が東亜全局の安定に向つての鍵であると云ふ事については、朝鮮問題の将来と支那の将来と日支露三国の関係の将来とにつき思ひを致すならば自ら明らかになります。要するに満足なる満蒙の開発と安定とが、やがて東亜全局の安定を保証するものであつて、満蒙問題の解決の出来ざる限り東亜全局は動揺不安を免れぬのであります。前に戻りまして満蒙は我国の生命線であると云ふ事に付て、今一言附け加へて置きます。此生命線云々は主として国防上の見地に基く主張でありますが、又我国の経済存立上にも其将来を考へます時に同様の主張をなさなければならないのであります。掏摸工業立国の見地より之を見まして、我国の一大問題である工業原料を過般満蒙大陸より得なければならぬのである。又得られる見込みが充分に有るのである。
 次ぎに産業立国と云ふ見地よりしても、製品の捌け口がなければ到底真の産業立国は出来ないのであります。然るに今や世界列強は何れも関税障壁を高くし、現に自由貿易の本尊であつた英国ですら殆ど今日、自由貿易の実はないのであります。若し再び世界大戦があるとするならば、かゝる不合理なる、行き詰らざるを得ない経済戦を導火線として起るものではあるまいかと思はれます。たつた此の間あれだけ悲惨なる欧洲大戦を敢へてし、今尚ほ其の影響に悩まされ呻吟しつゝある人顆が、一面平和論を唱へつゝ浅果敢にも実は他面深刻なる戦争の原因を真つ黒になつて作りつゝあると云ふ事は、甚だ感心致し兼ねるのでありますが、如何せん人間と云ふものは、とかく聡明な動物ではないのであります。
 一体列強が各々自分の国には他国の製品は入れない、そして自分の製品は極力他の国へ押し付けて買はせ様と云ふやうな事が、果して何時まで行き詰らずに而して怖るべき爆発を招かずに居るでありませうか、此の傾向を緩和するために、国際関税会議等が催され、又近くはワシントンに開かれた万国商業会議所聯合会に於ても注意を喚起されて居ります。吾人はかゝる企てに対して大いに共鳴する者でありますが、又その事の容易に行はれないと云ふことも考へて置かなければならない。そして世界列強は各々経済単位の拡大に向つて努力しつゝあると云ふ事実を見ます時に、吾々は何としてもすぐ御隣りの満蒙、然も緊密なる我国との関係を設定して居る満蒙をいざと云ふ場合、我が最少限度の経済的勢力圏内に入れて置かなければならないと云ふ事は蓋し論を待たない所であります。私は決して領土的に之を取れなどとは云ふのではなく、たゞ我が製品の市場として、経済的の意味に於て之を確保しなければならないと云ふのであります。恐らく二十年後には満蒙の人口は五千万となり、五十年後には八千万となるであらうと想はれるが、吾々は更に満蒙に接壌してその北に広大なる地域露領シベリヤの在ると云ふ事を、忘れてはなりません。これを引つくるめたる東北部亜細亜の開発と人口の増加とに想到致します時に、此の方面に向つて経済単位の拡大と云ふ事が、やがて我が産業立国の上に於て市場を確保すると云ふ点からして最も重大なる問題となるのであります。商取引は一日にして成り立つものではありません。向ふ数十年に且り確固たる方針を樹て之に向つて一貫したる不断の労力を致さねば到底此の事は実現し得るものではありません。第三は我国と満蒙との経済的関係の輪郭だけお話致します。日露戦役直後明治三十九年勅令を以て創設せられたる満鉄会社が、今日満蒙に於ける経済活動の根幹をなして居るのでありますが、今日迄満鉄が満蒙に投資した総額は十億円であつて、此の他満鉄外の我が政府及び民間の投資は七億円に達し合計十七億円に及んで居ります。日露戦役後我が国はかゝる巨大たる資本を満蒙の地に投下し、然して此の二十五年間全幅の力を開発に注ぎ拮据経営今日に至つたのであります。
 満鉄の主なる事業は経済方面に於ては、鉄道の改築、建設それに港湾修築、主として大連港の修築でありまして、近年は営口にも相当の力を入れて居ります。更に海運業として大連汽船会社を設立したり、又撫順炭坑と鞍山製鉄所とが鉄道港湾以外の主なる施設であります。文化施設に於ては、荒蓼たる高梁畑であつた鉄道沿線に今日までに奉天、長春、安東を始め十数ケ所に亘り近代的の市街の建設を行ひ、或る事項を除いては大体其の行政に任じ、病院、学校それからホテルに至るまで操業経営して居ります。関東庁及び満鉄の文化施設に刺戟されて、支那側の都市其他の文化施設も之を三十年前に比し面目を一新しつゝあるのであるが、要するに我国は独り経済開発のみならず、実に文化についても指導者となつたのであります。又特に満鉄の誇りとするものは、大連に故後藤伯の創設せられた中央試験所があつて、満蒙物資の科学的研究に任じて居ります。此の外に公主嶺、熊岳城を初め各地に農事試験所を置き、又大連に地質調査所があつて、中央試験所の研究と相俟つて、満蒙資源の調査研究に努力をして居ります。尚ほ特に申上げたい事が二つあります。一つは昭和製鋼会社の問題、も一つはオイル・セールの問題であつて、前者は会社だけは既に設立致しましたが、其事業の遂行については満鉄幹部に於て考慮中であります。南満洲に於て現に満鉄及び其他本邦人の採掘権を有して居る鉄礦山だけでも、含有鉄分三〇%以上の礦石が大約十億噸と推定されて居ります。此の十億万噸だけの礦量を以てしても向ふ五十年間の我国の鉄国策を樹つる事が出来るのでありまして、此れだけに成功しても、我国が満蒙に足を入れた意義があるのであります。次ぎにオイル・セールの問題でありますが、之は既に満鉄が撫順に重油工場を造つて一昨年暮から重油の製造を開始して居ります。現に五万三千噸の重油と其搾り粕をもつて精蠟六千五百噸を作つて居ります。其原料たるオイル・セールは撫順で石炭を掘るについて、殊に露天掘りに於て嫌でも応でも石炭層に達するまでに掘り取らねばならないのであつて、以前は之を捨てゝおつたのである。撫順には油頁母岩が実に五十一億噸ありまして、之から平均四%の油を抽出するとして、我国が年々二百万噸の重油を使つても優に百年は支へ得るのである。重油の供給を外国に仰いで居る我国にとつて之は極めて重大なる問題であります。更に満鉄以外の活動と満蒙の実質的経済価値即ち農、林、鉱、水産、及び工業等については遺憾ながら時間がないので省略致します。
 第四に外交について略述致します。之は三期に分つて見る事が便利でありまして、第一期は日清戦役後日露戦役に至る十年間、第二期は日露戦役以後大正六年レニン革命に至るまでの十三年間、第三期はレニン革命より今日に至るまでゝあります。第一期に於ては、我国は満洲に進出は致しましたけれ共、所謂三国干渉に逢つて退却し、其後の十年間は臥薪嘗胆専ら対露準備を致して居つたので、満蒙それ自体に対しては全然無為時代であつたのであります。之に反して露国は満蒙を席捲し破竹の勢で旅順、大連にまで進出し、更に朝鮮半島の南端釜山にまで其力を伸ばさんとしたのであります。第二期は露国の退却時代であつて、我国は之に反して決定的に満蒙に進出し、爾来南満洲及び東部内蒙古の開発に力を傾倒したのである。露国の進出は全く軍事的侵略であるのに反し、日本のそれは国防上の事は固よりないではないが、出来得る限り平和時、経済的方面に力を注いだのであります。切言すれば露国のそれは戦争であり、日本のそれは平和である。尚ほ此の期間の特長は、日露間に協定を行つて、南北各々勢力範囲を画した事と、米国が満蒙に活躍せんとしたのに対して、日露両国が提携して之を阻止した事である。第三期はレニン革命以来日露間の協定が廃せられた事と、露国の革命に乗じて支那が北満に於ける露国の勢力駆逐に努めたことよりして、外交関係が混沌となり謂はば浮動時代とも云ふべき有様になつたのであります。其後露国と支那との間に露支基本条約と奉露協定なるものが成立し、我国と露国との間にも日露基本協約が締結せられました。幾分混沌から脱した観はありますが、満蒙に於ける三国の関係は大体に於て以前浮動して居ります。尚ほ茲に注意せねばならぬ現象は外蒙古が疾く已にソビエート聯邦の一として露国の版図に帰した事実と、も一つはレニン革命後北満に於て、露支の関係が転倒し支那が高圧的態度に出で、露団は閉息して居つたのであるが、一昨年暮露国が猛然と逆襲に出でた結果露国は再び盛り返したのであります。最近露国が東支鉄道を支那に売り渡す決意をしたなど云ふ新聞報道もありますが、現在モスクワウで開かれて居る露支交渉が果して如何になり行くか未だ見極めはつきませぬ。若しそれ南満に於ける日支の勢力関係に至つては、直接我国にとり極めて重大なる問題でありますが、支那側は満鉄の包囲線を建設して、之を屠らんとするの形勢にあり、其他極力日本の勢力を減殺せんとする傾きがあります。以上は外交のほんの輪郭だけでありますが、最後に結言として数言附言致します。満蒙は前申しました様に、其に我国の生命線であつて、此の天地より我が民族の退却を要求することは、我が大和民族の生存権を否認するものであります。私は満蒙に於ては日支露は固より充分なる諒解を遂げ相提携すベく、そして此の地域は東邦民族を主として内外人安住の地たらしむべきものであると信じて居ります。此の理想の貫徹も将又我が勢力の維持も更に進んで現在僅に喰ひ下つて居ると云ふ現状より、もつと積極的態度に出でゝ満蒙開発の大業を遂行すると云ふことも、一に国民の基礎的認識と牢固たる決心の有無に懸つて居るのであります。

昭和六年五月二十日ラヂオ放送)