満蒙に於ける日本の権益

 

 

本窮は昭和五年入月鍵東京事大革に放ける英語靖溌の桝守で
ある。英文にて常潮とあれどl邦文にては多く滞蒙なる呼各
に鞍嘗す●・

           −                               二フLdづ¢

  撞く一般時に論じて、清洲漑西暦一九〇担年士で欧米人の周には全く知られてゐなかつた.即ち掃各に至
 って、彼の日蕗戦役が始まつて玄に満洲土革ふ土地が存在してゐると云ふこと臣二般人に謬護せしめたに外
 ならない。庸が此町戦役後、蒲洲は再び人々の記憶から滑えて待つた。併しそれも経めて僅かな間で、最正
 数年の間に、此の土地へ向つて支那人移民が急激に流入して来たこと打線つて、故に漸く各囲人の間にその
 重大性が知られ、外国の新朗にも蒲洲に紺する色々な記事が現はれて来るやうになつた0併し乍ら再び蒲洲
 が廉く一癖からアクティヴな興味を持たれるやう町なつたのは、昨年秋の蕗支紛争が一般に海外諸団の多大
 の任意を喚起した常時からである.
 此の粘から叔て、瀦洲が常に戦術に俵つてその名と世界貯に茸樽せられ、者外財と交渉を持つに至つたこ
 と、而も度々済故に著述に此の地域が傑出した戦乱の中也地帝であると特異特に強調せられて来たことが自
 ら寧日である・彗蒲洲が∴極東のバルカンL又は「次電界義蒜僚地」と攣られ、狸奇特な南もセン
 サIショナルな名穣がこれに附せられてゐることは吾々の夙に和く併であつて、是等は勿論漁て臭味の抑な
 らぎるは無い0多←の外団新開記者は好んで清洲を斯く見ることそれ自身に三丁スとしての虎虐を見出す

 

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 のであつてJ彼等にとつては「滞珊に戦争があると云ふことは考へられれLな・ど土式ふ穏健な詮はてん官記事
  にもなんにもならない秒である。併し乍ら一方に於て、国際間笹の鼻面日な研究者は、少くとも今後数年の周
 に清洲に於ける戦乱の可能性−余は斯かる可能性は全く無いと信ずる看であるが−あ少と見るととに依
 つて猟洲の重大性が凌生して来るもので町ないと云ふ理論を樹て▲来てゐも郎ち賢明なる観客者は、毎年.
 内乱、徒つて起る餞饉、其他意まれぬ国内事情の食めに、支那本土を追はれて清洲に這入つて来る移民達が、
 其虚に定住し荒涼未開の地域、而も驚くべき豊穣な土地の開墾に徒事し、倉琴Hm及び原料品の世界需要に勤
 して極めて大量的に寄輿しっJぁる革質有線諭すると共に、此の粘から生する清洲の眞の重大性に今や全特
 注怠カを傾注し七ゐるのである。建汲であつて破壊を包戎しない、重大なる所謂清洲閏挺の存在意義も賓に蛮
  にあるので多づて、余は此等の要鮎に立つて、清洲を以て破壊の潜勢カとして見ることなく、寧ろ犬なる建
 設軋活動.の光明の内にあるものと全世界に依つて認められるべきであることを明かにすべく壷を進めて見
                                                        伽
  たいと思ふ看である●


  本文に入るに裁ちしばらく蒲洲の歴史的起源に漫つてこれむ磯謝して見たい.滞洲灯は西暦革空事年以
       トングl′ス
  瀞既に沌盲斯族と耕する民族が定住し、蒙盲人、棒観民族等が其の閑に雑居してゐた.是等の民族は王とし,






 て遊牧的で、家畜飼か野武士を生業としてゐた。此の通古研族が建設した王国の内で最もよく知られてゐる
 めは、鴨凝江叫帝に其の部族を免申してゐた高層であつて、ごれは北部朝鮮及び南描洲の大卒を預有してゐ
 ′鞍Y朝鮮竺王餞別ち高魔が、層暦革凛別田三三年及び革空ハ六二年頃日本に使者を追はして朝貢し、日本
 佗交サ嘉ふに嘗て「欝膚魔と是との臨盟協約が成つたと云ふ記録が残つてゐる畑、これが是が此
 等の土地に利害閲儲を持つに至つた覆鴇であることを粛す最も菖a澄左セあるけ此等王図は等しく盛衰興亡
 ノ・の跡を辿つ凌が、内一王国漸時其の勢力を南方は渡張し、逸に西暦一二1コ九年揚子江北部の支那全土む共の
 女配下に窪くに至つ・たJ斯くして薙設きれた王朝もやがて忽必烈冊統治下の蒙古人の虐めに滅亡さる1に至
 ′か表び蒲洲の大挙は渚瀞族む掌中にあつたが、逸に是等の部族が結合しサ上玉絢とな少、漠民族を倒して、
 西暦ニハ四四年貨に清朝晶て、・∵空言寸二奉の辛音命に俵つて倒壊の茸に出遭ふ書嘉
 め統治樺を凝って打た」
 併で清朝は満洲を以て其の凌肺の地として−支賂とは特別の闊係に届いた。即ち支那本土は民政官に依つ
 て統治されたに反し、拳天、音林及び黒碓江の三省は将軍々治の下にあつたのであを。歴代の皇帝は庸謂清
 洲旗人を滞洲住民より招致したが、反掛に漢人の満洲移住は極めて厳重に之を禁止した。漢人の満蒙潜入は
 其後年と共収その敷を加へて行つたが、漢人来任禁止に閲する最後の制限が】九〇五年に至つて漸く解かれ

たのである.
 周朝が滅亡†るや、張作寮が東ご蚕の貰樺を握少、革質時にはこれを自己の領有となレ、時に北京攻府
と壌捜し、時に濁立を維持するの状燈にあつた0張作霧夜後、満洲は囲民攻府の壬樺は之を認めたため民
由の一部をなす要とはなつたが、而も其の行攻は多くの鮎に於て、依然として自治時に行はれてゐるのであ
′る0
 支那とロシアは款世襲別よ少、既に北逢で接解してゐた。唯だ常時の南国の接鱒は畢に地方栂なる通商上
】の関係及び南団周の紛争、談判等に依つて行はれてゐたに過ぎない。斯かる談判の結果、現在の東部シべヮ
・ア少なペともその大部分むなす庸の地である女那の庚犬な右傾土がロシアへ割譲された0座し乍ら清洲が廉
く鹿代世界七初め・て重大なる交渉を持つに至つた歴史は、西暦一入六〇年牛証(脅口)開港の日より始まつ
たものと看赦すべきであらう0越えて一入九四年朝鮮間医に鴇を委した紛学が因となつて、日清問の戦端は
開かれ・清洲の天地は砲煙の琴と化した廿

           〓
ノ 日清戦役の結果は、日本の大野清囲の敗北に終身、下ノ閲蒲和倹約め締結に依つて支那は一と先づ、鴫野





 江河口より牛正に至る沿線南部全額域を永久に割譲した・然るに下ノ尉倹約調印直後・突如ロシア、ドイブ
 及びフランスの一こ拷は、易の友情拇指紳の黎蕗に基」ものであると浴し、日本に勤して・遼東牛島の領有は
・榛東の平和を危殆に陥れるものであると云ふ理由を楯にトこれが拗棄を動態する研があつた0日本はこれに
 屈従し潅、徒つて、…アが一入九六年確づ支那に要求して北満洲に於ける束帯横道の敷設樺を箆得し、次
 いで】入九入年遼東牛島の二十五倍年間租借樺を得、更にハルビンより施脈及犬連に至る曙道支線の敷設を
 可能ならしむ.る譜契約を取り結べるを見て、日本の驚愕性質にニカ恕針なかつた0而かも此等はシベリアよ
 り垂海に至る地域一帯を征服せんとするロシアの侵略時方柴の鴻締に過ぎなかつた・ロシアは更に斡図にも
 漸次その勢カを及ぽしトその租税及び尉魂の支配に偉力を示し、同数府から熟多の利樺を獲得した0而かも
 同時に囲匪事傭直後よりロシアは、東侵攻繋を確立すべく清洲に大兵を派擬し、国際取極めを無成して敢へ
 て撤兵の畢に出づる模様を示さなかつた0ニカ支那はロシアの此め侵略に対して抗争的恐度に出づることの
 不可能な状厳にあつた。支野にとつて更に不幸なことは、同団の外交問題の良理は李沌章の手に委せられてh
 ぁゎ、李は蒙古及び清洲を全く自己の利慾の虜めに、賓質的にロシアへ賓却したので、撞いて必然特に日本
 のみならす全極東を奉げて最も怖るべき危険粥磨に陥れたのであつた・
 桝つて常時む日本の状態は如何? 日本がロシアと戦端を開いた常時・清洲に於ける日本人は極めて少欺

であつ・た0叉殆んど投資針特殊利益もなかつた0支群がPシア例の要求を全く承認せんむするの辟度整がし・
て来警告依つで∵重大なる危機が必然に招来されるゑであると七斯←て事態が既に日本宗活的面
寧こ、濁立臥家としての存立に雅静的なる影響儀ふるまでに進展してゐることを叢するや、蕊に日本臥
初めてロシアに最後通牒を迭少、宣戦空口の感度を決定したのである。約一年牛飴町亘る日露の戦役に於て
日本は畢彗ロく戦ひ、ロシアを排礎して一緒世界に名を揚げたが、戦後ロシアの東侵攻策は果敢なく滑え−
 日本は只管東洋全局の平和を障立すべく、漸次満洲の綬螢にその勢カを傾けて待つた。日本が満洲に乗込ん
 だのは二十億胤の巨費と十蕗の生宝鑑犠牲とし、図遊な勝して戦つた雷然の麒柘であつて、何等侵略的意図
を表現せるもの甘はなかつたのである。曾ては宅那ぜロaアの侵略に委して顧みなかつた満蒙の天地は、日
本の援護の下にト卒潮安住の地域と化し、空歩経済倒閑澄む進展と文化の打上とを見るに至り、更に偉大
 なる賂来を限前の展開甘んとして居る.L


           ≡

 余は滋で、所謂清洲岡挺の横顔を明かにする上に於て時に興味あえこ革質に言及しょう.


                                                                                                                   FトrLr.



    ノ


  ワシシーン軍備制限針議に於て、ロシアの蒲洲に封する大使略の直凍動機又は井の虜囚は李沌章とロシア
 の芸ノaとの将に締結された扁約、即ち蕗支秘密臥盟倹約にあるこjが明るみに出された・…アと奉
 約を績んだ支部は、・日本を共瀾の敵とし、畑シア軍陳の南下に封レあらゆる便宜を輿ふることにした・これ
 だけの革質が明るみに也された也止、支部は日本が瀦洲に進出し軒層々儲渕に於ける新事恕とに就いて不済
 々抱く道瀾はない冬至Jぅ」           〈−▼d
 瑞日露戦役終鶴後、白木は憩東学鳥南部の¢シア租借地の縛譲を符、更に旗願及び犬達より長審に至る威道
 を獲得し湾尤も本疎道路線は戦欝に依つて攻撃。れ、殆んど殿道線路樺しか残つて屠なかつたのであつて、
 各層南緯汲をしたやうな有様である。日本に掛する打シア樺盆む譲渡は其後の顔約で支那に俵つて綻謬され、
 更に−九一五年の像約で其欄間む九十九簡年に延長した。
  日本が満謝に於ける璃籍的な協同者としての地位に於て.飽意其の洋脅に雷つて以来.縮洲に於いて現貨に
・着々綴乎たる少を準めた琴々の瀾筆先に酎志しっト、日本に幣破きれる首聖櫛洲に於ける事瀾に表む
 挿ふことは然賓ではあるまい。ロシアは斑際に於て日団の支配下にあつた清洲に於て、外国貿易を奨励し又は
 とれ々許可するの碓踵を有し▲てゐなかつた。徒つてロシアを除く瑞醐の封外貿易は噂だ牛非宮地じて行はれ
.てゐたのみであつて、此の男易額はす髄紀む初期に於で年攣事務海謝帝劇下であつた。然る竺九二九年

・の柄渕封外貿易街竺招七億五千五古市雨を算するに蟄つた.し

            q

  灸は玄で日本が日産戦役の結果、清洲に於ける重要樺益を箆待した常時の磁洲の状態を暫く娘前に浮べて
  】兄たい0
  前述せる如〜今日南満洲蹴道として椅平たる歩を占めてゐる抜道路線は、共の常時交逼横掲としての漬
 動力極めて後々たるものであつた0大連の築港工事も畢に一部分出来上つたばかりの状態で、又近代的都市
 であを大連市もそのナ小部分をなす基礎的工事が施されゐたに過ぎなかつた。而して戌道の建設.邁樽並に
 充代拇築港事業等は・絶てその目的の虐めに役立された南清洲威道曾故に委ねられたのである。同倉敷は先
 々外野から多額の敢債を募り又横道材料を一重に米国から−購入し、着々其の経皆々進め、斯くて犬蓮
 汚は捗狼修築せられ、最も近代的な港増設備計盤ふるに至つた0常時特筆すべき外因貿易漉く、極めて貧嘗
 なる∵小港から】和して支那に於で上海に次ぐ筆意の貿易港と化し、各国共に日本と全く平等の立場に匂
 つて交易し得る自由港とせられたのである..
  常時の満洲は、これを支那本土の状轡に比較す虐仏ちば文化的には極めて屠れてゐた。即ち支那の爾除の、





  各地では港増に限らず域道、電信、電燈等の譜設備其の他文化的黎素が備は少、近代文明の紆左著しきもの
  が卦つたに虜し」清洲些ニニの商業中心地及び野道滑線を除いては全く海外商人には知られす、馬賊が横行
  する本宅の地に過ぎなかづた。人口極めて稀薄な一.偶の荒燕の土地満洲が、..世界の経済約動きに重大なる紺
  ノ係を持つ筈はなかつたのである。
   前瀾の如く清洲に於ける横道も、ウシアの支配の下にあつては、†般に野外貿易上重要なる要素を楚すも
  のではなかつた。昔時外国貿易が主として河川に由少行はれざるを得ぎる関係上、河口に位置してゐた魯口
  が、特に重要親された併以である。
   頻る瓜今日」蒲洲の状態を支那本土のそれと比較するとき、優るとも決して劣る併はない。即ち支那本土
 に於ては、引掛く朴乱に、所望ハ産東員の暴虐に、又漑大現像なやェ匪草畝の横行に、其の建設時事業は、
 二三の例外を除き、殆んど中止せられ、支那近代化的頚達に要す頂施設の多くは一時に蛾造−遺棄せら
       \
 れ若しくは破壊せられつ1ある。これに反し蒲洲に於ては近代文明の譜要素は虐激に増加を見、域道を始め
  渚工場、電燈装置等α近世特設備監刀成は、全清洲む頚展に貢献する析極めて大である0更に比軽時に上掲
                                        」†
 の如き災害が少くト卒和と秩序が保たれてゐる清洲と爾除の支部とのこの掛照は嘉の人達に阜明瞭に看
  取されると見えて、籍えず清洲方面に移民が流入して来るのである。既に戦乱.土匪、餞饉等の災宰的要素

∴に俵つて=其の各層忙掛へ耗増磨迫を受けつ1ある莫大なる数の支瀾人が」札束及び北部支那地方から荷洲に
 入り込み、腐大々る未開働沃地が提供す訂諸般の利金を利用し、全朗新打しき生活に入るの横合を求むる者.
 韓息しき数に身のでむる。此の魂の移民は最近毎年言人を超えてゐるが、而も伶ほ滞洲に於ける可緑地
 ′の約年は、未/貯鋤鍬を入れす拗野されてゐる。萌洲の人口は現在約三千再人を款へてゐるが」最近二十五
  年間に満謝の人口は約ご】倍となつてゐる事賓に想到するならば、これが少くとも七千五官拓には砥ぐ逢する
  であらうと思はれるのである.

            五
.∧何が瑞洲を斯くの如き頗柴各望の地とレたか†紗斗前納をして今日あらしめたものは.卒和、運輸及び
 支瀾農民の勤勉と節約と云ふ三つの蟄粛に外なら々い絹此の卒称及び運輸竺垂儀監氾出に勤しては、日本
 のカ各針に居るっく云つセも決心丁碧ぢはあるま・れ。而しでおこ簡素紛存する森」んば、撃誘惑素性殆ん
・a無効凛均であ・つたらa.ノ
・繋がト首に漁イは、多年戦乱根絶ぐ状澄であると孟ふ冬山欝想到するとき、満洲の天地の卒穏なることが
 一屏暗奥の感を弾むるであらう0薪洲は張作寮時代に放では、屡々支那の内乱に参加を際俵なくされたが、−

          廿

 費際の勒は全然再思の長城盟南で行はれた0従つて潜洲の住民は斯かる軍事的行動に勤しては・其の賓紹と
 悉仰せぎるを符ない不利な立場に忠心れ.た忙も拘らず、支那の各地に於ては殆んど常事とされてゐる戦乱む
・現儀の災宰は、之を安つてゐ穎いの甘息る戎在張串良の治下に計る東三省支那人は東北四省と呼ぶ)の行攻
.は、・東郷本土の軍事的発働に一引込まれるととを避ける費明なる方虜を瀾サてゐるのであつて、此の先見の崩
 ぁる攻究は清洲の賂衆の凝展を促進するものに外ならぬのである盛洲の月で最も文化の進んでゐる粘から・
 最草地域と臼さ袖てゐ考雨滴洲が勒絢に見舞はれた唯忘事跡巧彼竺九二五年の郭松齢に依る薮乳で
 ぁる・が、而絹此の事件け極めて矯期間で倍定した.⊥方北櫛潮欣何うでれるかと云へば、一年・の秋・蕗支
 簡単に彗てト戦禍音では云へないとでも卜殆んどその状慧彗塑曹を受けた0之に上古な是打
 凝を受けた他掛地方もあつたか、其被替地域が鴇儲せられて居り、結局非常な府晋であつたとは音へまい・・
  如上の二三の例外を除き、瀦洲に於て戦率の庇いと云ふむとや′日本が特に刺客閑係を有する潜洲の地に・
 敬意を有する勢カが侵入して来ることに反勤であると云ふ故紫せ執つて進んでゐるからである。勿論此の攻
 発は時に日本に勤して快からぬ人々に俵つて兎角の批判を受けるのであるが、斯くの如き攻撃の下に清洲に
 於ける支那入が革受する恩恵は、喝蟹に澄明されてゐるのであつて、斯かる批判の理由なき里ボして屠る・
 掛越した清洲内の薬学であつた郭松齢事件の際1日本は何等干渉的鮮度に出なかつたが−日本の成邁附屠粗

 爾の「定距捷以内で磯田を交へることを禁止する旨の山雲Pを覆した0その結果、南瀦洲に戦争はあつたけれ
 ども、兎も角南清洲蛾道は無事に交池轟職の機能を鍵瀦し、叉蒲洲貿易も通常」蒙りなく行はれ、而も渚外
 閑障留民のれならす、支那住民の生命財産の安全も・彼等が我が威道附巌地帯に避難することに依つて、保
 障せらる1の状恐に卦つた0抄ち此の事件は偶々以て月本が清洲に於て樺愈々有することに依り、言泰葬
 のあ計際−清洲住民の生命財産と温海の安国が保障せられるものであると云ふ事を立澄したのである。更虹
 箔洲内地到る虚括威を挿ふ土匪革賊の群も、多く慧地帯外へ泊はれる。横道は斯くして清洲全穀の平和と
 琉序の糠持にも貫蹴するのであると云ふ革質を霞めねばならぬ0

           穴
 題切完全なる交通蓮輸上の設備が−新しい餞土の閑竣に極めて粛要であることは多音更しないことであ
 濁表君も御熟知の如〜アメリカ合衆買部沿岸地方の雲著の跡に就いて見ても、庚犬なる未開の地
.切々開発し入口の埠頼と繁柴を因るには、十分なる威邁網の完成を倹たすしては不可能であることは疑ひを
 容れぬ盛洲に初めて横道を敷設した名容は何としても之を…ウ人漑奥へなければならぬ。彼等の威道敷汲
 の目的は如何なる攻治的魂腱思Hでた漬で嘗たにせよ1彼等の創意が今日の清洲の近代的交通網の根幹





 を満したことは革質であつて、而もこの道稔系統が週ぐる三十年の閏に、克茫未開の全く重要牲を認められ
 なかつセ塙洲の土地々、今日世界経済に取つて重要なる一要素と化せしめ、又曾ては支那の畢なる接撥地と
  して一顧にも値ひしなかつた一僻地を、支那の最も緊柴なる重要地となすに至つたのである。
  上述せる鮎に於て日本は何々蒲洲に責猷したか?。日本は単に大逆より長春に至る横道路線を再建設した
 ばかりでなく、全線に立つて番式な畢腺を全然近代倒なる投線(一部分はまだ竣工しない)となし、更に奉天
 ょり安東に至る一線を建設すると共に、支那人の為めに金融上の便宜を掛り、伶は清洲各方面に達する敷石
  †イルの横道を敷設し其の経済的凌厳に資する伊藤めて多大であつた。一方南蒲洲横道曾鹿は、蛾道雄改革
 菜と何等艦壊賄係漉き近代約文化諸施政を完卑しっ1蒋洲α閲費に急いだ。即ち同倉敷は都市を建設し、電
 澄事業、譜工壌其他一般的企業を始め、各種産業上の経費に著昏したばか少でなく」一九二九年には曾融賓
 耽入の内一千二宮高尚以上を費して、拳校、病院等々始め、井他衛生上の庸役臓の完成に全カを傾注し、日
 本人のみに限らす、一般に支那人も均等にその恩恵に浴せしめ官吏に蒲蛾は、農事試駄用の団塊を改定経
 常し、最新式農具を購入して農事の改良に腐心した結果、一般農民の賓牧軽は漸埠すると共に、農作物の質
 も放めて優良となつて行つた。而も蒲洲の富源閑凌の虐め決定せられた向合融経費の化学研究庸は、其の畳
 教室に於て絶えす滞洲より産出する麻料品の分析試験を行ひ、是尊慮料晶の各耗製造品に射する捻定及び壁

 沸博打も府つで屠る.
  滞洲の一般栂閲蛍に勤して日本が有する純金の如何に京大なる闊係々有して居るかと云ふ事は諸君にも上.
 適せる伊によ絹玩に明かとなつたであらうが、質は日本の支配カの現賓に及ぶ埼囲は比校的小慣域である。8
.本の租借地帝性的一千三富平方噂であ少、威儀附廃地砕は平均瞞単音英尺で、各要所の成道騨都とを合し
・て軍事方噂である・即ち東三省の襲撃手入荷四千卒方哩に掛し、日本の支配儀域は優に三丁田宮渾方哩
 に過ぎない・併し乍ら日本の行攻下にある此の小囁域に於ては、常に秩序が舵挿せられ、低率にして隣定的
 なる徴収制度が布かれ、一般む文化均渚設備が完全してゐるので、支那人は好んで此虚に定位するの傾向を
 示して為る¢これは全蒲洲に於ゼる支那人人口が過去二十年の間に」虜となつたのに掛して、日本の租借地
 蒋に於ける支那八人口は約二十倍以上に達し、現在約管帯入の支那人を収容してゐる革質を見ても明白でれ
 あ。換言すれば滞洲一瀾に於ける〓や方哩の人口は七十二人に曹ぬが、日本観借地帝の人口は卒均七石丸
  十人とたつてゐるのである.

           セ
  南海洲成是曾敢創立常初、陶敢砕式に脛募するの域合性、倉敷窺款琴威に依つて支科人にも輿へられね





 のであるが、支那人側では之を利用することを欲しなかつた0併し乍ら蒲洲の支部人の多数が向合就の績勤
 と事業とに俵つて現に安くる恩恵は極めて莫大である威せば満餓の使用人は日本人より支那人の方が多く●
 一九三〇年三月を終少とする合計年度に於ける周駄株王配常金は三千汚濁であつたに勤し、支那人労働者忙
 支沸つた盛儀紐鶴は⊥千書H高河の巨額に達してゐる・更に日本は滞洲農竜物打数して極めて有カなや海外
 市場であつで、若し今日日本が滞洲灯於ける横道の運樽々休止し、その港増を閉靂すると共に、清洲産物の
 購買をやめ七仕舞つたならば、蒲洲は立ち併に犬恐悦に底面するこ患必鵡であらう・
 ・既に述べ鹿如く、絹本が横道の敷汲共の他】舵企業‥の経費に依つてヽ清洲の覆展に直接奇兵した屏は偉大
 であるが十更に日本の創業的努カが間竣に支那人々刺戦したと云ふ利金も亦看過してはならぬO日本の示し
 た手本はト儀等に憩奮の動機を輿へ↓粛くて針衰の指導に俵つて支那人自身が琴くべき建役時努力を示すに
 嘗ったのでゐる。日本人に依つて指針を輿へられたる支那人は自己の資本を以て、碑等が有する技師を使用
 し、教官哩の域道を数儲したが、右威道路腺と、日本が支那の虐めに柊汲工事を引受けて軟投し現に支那攻
 府の管理の下にあるものとを合せると、此り延長噂款は日本が有する鴇横道路響遠かに凌駕するのである●
 即ち支那人の統制下にある域道の穫長線約千七宵頓に勤し、日本は僅かに七官哩を占むるに過ぎない0膚1
 支那人は東支蛾道の千六十九喝に就いては宗・の描刹を有してゐるのである0而して更に支部人は目下遼束

  時の西海岸胡蔑鳥の近代的築措工事に若草してゐるが、最近数年間に重要都市の近代化にもカを用ゐ、相富
  の成輯を輿げつ1席る。即ち重要各都市の街路旗張、車道及び人革の繍装、電燈の設定、電革の改良等悉く一
.蒲洲の→般倒進妙に貫蹴し居らぬは食い町清洲の如き土地の場合にあつては、絶えず流入し来る移民の定住
  も掛べき新しき地域を開拓するには∵常に交通蓮輸上の設備を改善し披大してゆく必蛮があるのであつて、」
  凌通上の設備の完成は、結局に於て、人口が急増する場合に於ても容易に安住し得るの土地をこれに輿へJ
  而も現在不生産的な土地を、生産的濫伐掲するの方法を提供するものである.
   勿論余は蛮で、満洲に於ける日本の重なる使命が支那人の藤刺を因るにあると故明せんとする看ではない.
 支那人が偶々藤利を享受してゐるには相薙ないが、射し日本として其月ら直面して居る重大なる諸岡短を解
  決せんとする慾望に依つて動いて居るのである。併し乍ら日本の摘心事は清洲の征取でもなければ、大規模
  の植民でもな小。後者に就ては清洲に日本の紺傾が改定せられて以来二十除年を経た今日、命ほ清洲に日本
  人は僅か1に二十笛しか昏ない、而もこの内大多数は鋪道又は攻府の使用人であると云ふ革質を見ても自ら研
  かであらう1。日本の人口は毎年七十蒔人乃至首筋人の埠加を示してゐる。斯くの如く増加する人口に勤して.
  題切なる生計の汲む輿へるには、日本は埠雷なる就職の途を頚鬼しなくてはならない。月本人居住の地とん
  て適富なる国土へ大鶴桜町移民すると云ふことは、主として其の囲に賓施されてゐる移民排斥法で不可能に





 されてゐる。而して満潮と妊も、日本移民に野してはけ口を逢供するものではない凄酷な−る同地方の気候が
 日本人に適しないと云ふこと1、日本人が殆んど信じられぬ程低い盤済標準を有する支那農民を野手にして、し
 碕洲や王要農産物に附する艇カ、農掌方面で大規模に転学することなどは・殆んど間魅外であるからである●叫伯
 そこで日本としては、その人口圃揖を解決する食めに、土筆団として草蓮すべく全力計乏蒜注することに
 H決した。即ち商品の葦靂側に立ち、これを外周へ貿却した金で成民の食料品を購入すると云ふ牢駒なので
 ぁる9勿論計本が斯かる撃嗣の下に革むには、自囲に鉄乏してゐる尿軌跡を外囲に仰ぎ、而せモの望富の
 市場も亦之を海外に求めなくてはならないのである¢此の論旨から云つて日本にとつては、モの原料品を、
 自団七最も近く、最も容易に求められる地方から得ると云ふことが極めて有利であつて1而もたせノ\アジ
  ア大陸が日本に野心最も有望な歪を鴇供して居るのである・これは同大陸が日本に積立してゐると云ふ事
 壷と、その告Hが、比校時に小さい個人斡購買力の犬集囲であつて、日本け製産品の大部分を庵す比較的廃
 侶なる商品に掛しては極めて良き御得意先きであると云ふ二つの革質に依るのである・L

          ・八

  斯かる理由からして綺桝は日本に取つて非常に玄犬である・日本が必要とする原料品を蒲酬は大食時に産

 出する濱ふとと−更に瑞洲人宗日本轡肘に掛す・る愛育蔑蟄あると云ふ蓬、此の二つの革質は
 日本生櫛測の野横転放射す音に於て、常に忘却すべからぎる櫻である0嶽づて蒲洲閑後は日本完本謁
 障わ解決に野して凝めて緊切骨要素をなすもの芸る.若し日本が清洲嵐七執治的野中を紬歳tてゐ
 丸首らば、支群人の移住者妄を如ふる毎に、蒋洲はそれ丈支那人化するもの首るとの理論からして、滋
 謝・に絶えず支部人が這入つて来ることに反掛する筈である成し乍ら日本の日時とする伊は繹培的であづて.
 ′政治的では兜い0であるから現に日本は支群人移民を輿勤してゐるのである0賓は8本としては滞洲に昇任
 せんとするま新人移民一人を加ふ】頂上に償って、日本が要求する原料品の生産者妄を増加し、此の意味
 滋於て更に打本の捻出工柴瀧に掛する有望なる購買卦一名を払へるものであると孝ふるのである。此の観鮎
 すすれば−是がエ方凝で、清洲雀及豊かに閑誉れんことを驚希苧う野むLの・達成に依つて
 自ら刺せせ箇レつ⊥あそ同時忙、何故他方に於て義人に掛し甚大a助カと利金を輿ふるに嘩躇し
 ないのや骨頂理解せ濱去告ケe本は管開警蜂励し芝に協カすeのみならモ更に清洲の
 濁林表替の霧に掛し毒警貸して障葛でみる卜・
 滞洲が擬生瀬る頚達を逢ぐる痛め打遍1鹿洲の閑費卜象螢計義塾す渇ことに埠て、P本人と義人の心持
 がたま卜卜和合攣するてとを必警寸々併↓乍ら支那人は往々灯して斯くの如き論理に於て開陸を取扱は



                             畑温

 恥ことは番人のめ外に堪へない析である。即ち支那本土に於て、支那人が廃◆外故人を池するに、支那を利
 己的に利用し欺瞞サるものとの部推を以てし、支那から輸出される貨物は悉←支那人から封奪したものであ
 ると看徹す偏頗なる感情を抱くが如く、清洲に瀧ても、彼等は大蓮秒如き立代的港河を始め、日本の最新式
 なる成邁が頼めて繁柴し、純卒を挙げてゐる状恕と、自団の港撃破意の不備盃九条なる肝憑とを比校して、
 徒らに日本の横道其の他の樺盆の存在を満席む取で鬼る傾向があるの浮掛る。革質はその反掛であつて、元
 来蒲洲の現在の寮費は諸外国(特にロシア及び日本)がその大動脈とも層徹さるべき蛾邁を捷配し、故意これ
 が開蜃に凝めた敵兵そのも・のに外なら払いのであ宅芳し日本の成立及玖港増設府を清洲から取り去つたな…
.らば、帝洲豊ち併に撃丁年の昔笠ち彗るととであらう卜・         川
 更に此の鞋を琴首すれば、清洲に於ける藷外斡居留民も亦主として日本に依つて保持される平和と秩序の
 下旬、而も日本に依つて輿へられる交海上の利便に依つて、利金を崇少つ1あると云つても過音ではない.
 南蒲洲横道は戦寧若しくは他の攻治栂菱動に依り累せらる▲と.となく.】年中を簸じて一日、一瞬もその蓮
 時を休止することなき支那唯一の主要横道である.徒つて清洲に於ける外国商人は、其の放出入商品む安全
 檻絶えず稔達し得らる上磯媚の存在せる地域に於て昇任脅菜して屠ると云ふ串箕に卸して具に感謝の意を求
 初心て屠るのである。それが支那に於て殆んど唯一の安全他者であるといふ払に於て秩にその彪を洗ふする

 ■等誉・車忙蚤野外封入は名義府焉苧卜及び病態挙党偶箕鵡穣琴は多生日本の袈虹官
 教義する息音字そ、並略号蒙洲忙経度轟?た悪疫苦他萱腐が壬モ盲支南国民の協カに彗
.せ董准儀衛せち名卜血壷完こ⊥虜に言古蒼軒して野犬誉慈の箸飽い去るの・言る.
                                                                 ヽ

           九
一勿冷静外噂が清洲の一掃凄に野して麓叉ほ滞積に守興宮駄し七ぬj卓空ことも郷国上砂看通すべきで栓
 簸い∵軌昔英国は其の重要部分が清洲に存する卒奉誉数配し、又南清洲嘩遺骨敢の竺次敵債は英国資本
 め碗輿骨る併ややつて、臥曾敵の創東町大義誉れ絶依?姦増せられためセある。更に痛感が創立常時
 襲し嘗溌備材称芙節分は、立已七ナノ鼻音購入したも等あつ七、今日南港観照率が全くティビ
 ′怠警メ町良式の1鉄管見らるd斯学ある三方…蒜蔓笠濱致し、a三蛮成豪
 儀サ音金の大部箸供給レ芸る・今遍界は笥に菅谷萱渉寧警虻重し督、且つ又
 ∴称来襲展等舘佐多悪者すると‥と町想到し子音が故に、鹿義歯掛臥野本が誉義転廃人し、務洲
 銭存竹港董に車打算臥する所々るであらうことは溌ひ瀬嘗併でみる..
  蒲洲汎掛際貿易打開放せられた義兵」藩外堵が野心らぬ刺盆音響費盟ノキやるとと鹿頚易統計が噴



    きγきT一111†嘗▲章睾董     ′、、与.
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  かに示してゐる。粂は姦で♯細なる統計上の数字を車げて漁申することを避け、翠忙英米南国の・封瀦貿易拡
 裁て簡嬰に之れを漣べて見るとと托する.一入九入牢た放ける夷尉筋舶の清洲に入港せるもの合計官六十入
 費=土ハ雪子トンに勤し、一九二八年に於ては船舶五官五十六隻旦音七十蒔†ンに達し、叉釆囲の野蒲
                                                                            /
 餐易紘」入九入年に放て僅かに帆柑担重合計二千田宮−.・シた過ぎなかつた絹のが、最些千丁卒研に賠新雪一
 十七隻什五十芹トaに毒するやう呼なつた.⊥九l京年に於小て南清洲の」.孟瀾温壊を池じて行はれた英臥の
 貿易額鞍手席海浦絹であり、同年忙放ける舟穎の嘉ゼ車六官五十再蒋瀾爾絶達してゐ.るれ最些事
 争闘虹於灯る北鷹洲の外留男易溝瀕は▼一千入首肯海浦爾上砂九千九官有南虹達したに反し、日本が最もアク
 サイダな憩敵地甘る南清洲め外観貿蛮琴八千三省苫海浦再よ少五億ム草木層帯革に達してゐる`

          十

  儲湘が・сVナと日本の努カに依¢先代文明の域に達したことは釣上の教材に依り諸君も認めらる1でみむ
 うが、殊に日本が多くの人材と約十五億以上の投資を済用して、との粛賓なる地域を世界貿易忙掲放する上
・に於て、甚大なる寄輿東欧な為してゐることは特筆に値ひす息庸である。故把日本が、今や此の土地に有す
 阜総ての揺盆を赦逢し、日本が成し簸げたる大事業と共の事績とを棄てゝ満洲を去るべきだとなす理論は.

 勿論不條挫幾怠るものである0玄に若し支那本土に於ける状轡妙ち支那人のみならす外因人の上にも等し
 く破浪々来すが如き混乱汝払なる現状と、溌序ある漁穿と繁粂とを簸げウ1あ福浦洲の‡状とを比密するな
 らば、日本の構蛮の箕在に彗て明かに改定されてゐる析喝清洲の安固を替る貫要なる要素Lを、此の際清
澄ら苧誓立つて仕舞ふと云ふことは、如何に望見悪法外なる行動言るかと云ふことが自ら明白
 であらう0彗満洲が、裔除の支那の各地の如き混乱せ・る事態に直面したならば、如時にこれが村拳を薫る
 者は是人のみではないが外層留民、特に義人が安くる損失呈し莫大であらう・滞洲に放ける豊野
 慧優埠的地位に野して不平を持妄群筋から度々、是は是が滞湘に於て狸得したる捷各は響これと
 軒念すべきであると云ふ要求を抑くのであるが、これなどは・現菅本の支配下にある極小なる笹域が是
 戦役に於て1.日本が其の持家拇葦を措け、十芹の生裳と二十億の大金とを犠牲忙して漸く革ち得た所の其
.まなる地域でかると云ふことに想灯したならば、如何に不合理棲まる要求であるかゞ判る。日本は畢に支那
 が既に…フに泉へ1ゐたものを獲得したに池ぎないのであ写、嘉からそれ以上何噂も得てゐないので
 、ある〇一
 滴洲町放ける淫Tの地位は明推にこれを定率するととが出水る・是は何等政治栂侵略的野き包戎して
 はねない0申本は畢特使約に依つて箆得⊥た構盆を永く保持せんことを欲するのみであつて、他意あるもの




                               乱

 ではない.而も日本は此の♯重々経済栂方面に済用し凄展を濁るに首つては、前適せる如く日本国民の和食
 を放慮すると共に、・支那人の利金も念演から去らしめなかつた。支那人が成慈保轟の庇にある日本檻屯軍の
 存在に掛して反掛の辞々放つならば、日本はこれに掛し率直に斯く答へる0帥ち8本姓條紛に依つて享受し
 てゐる軍除の約年数を檻屯せしめてゐるに過ぎない、而も此の軍陳たるや現下の妖鹿から見て蛾蓮の保さ並
・に域道附屠地帝に於ける住民の生命財革の安全を糊する上に放て、絶掛池必要であるからであると.斯かる
 軍隊の擬屯曳は毎年宮頻に達する.徒つて日本は蒋湘が日本軍除の保藤を必要とせざる士でに平和と秩序あ
 る常澄に夜するとき、欣んでこれを放浪せしむるに軒℃て事なるものではないのであ名.

         十−

  今日蕗洲に放て得てゐる日本の地位が、凄めて重要牲と辞びてゐるのは、日本が先見の明と私意と犬なる
 苛本の投下に俵つて、蒲洲に放ける比較的小笹域の掲蜃に其の仝カを傾注したからに外ならない.叔つて清
 洲に於て庚犬なる地域と好壌曾と々有する支那人が、日本と同一なる方先の下に清洲翔費に向つて努カする
 ならば叉同棲の成績を畢げ得るのである.般専は銑に斯かる希望と意志を有することヒ耗き稲鞘に五つて辞
 明してわるのみならす、決意はしてもその甘現の可施でない爾飴の嘉各地と比樫して、政事は清洲に於て

・現慧身くの虚数雀誉歳し港普も簿与上は、.僧嘗役僧払する1婁為る袖膚も賓朴悪警や働き支
 那各臥凝溜為せ湯華澤は鹿く、表題漕aれに驚審霊曹普農
でを女君准蜃・虜葦の童・の壌卜驚塵朝野濫発↓‥恵豪儀襲撃澄於
 て成延濠激役サるとと音感止サ孝の洩頻々藤厳して血葛藤態々楚澄も允領事劇場層々あウ本心斯かる場合月一
 本は義瀾竣心ギ1漸かヰ農凛を凛一朝河鹿名著蜃・ヰ旬由い季冬こ鳥山蜃鼻息Vやと痛撃
 しむる先例を残すことには反掛を唱へ、これに勤してはその都度外交栂抗領を頻出する屏があつた。併し乍
 ら日本は、敢へ・て蛾道建改の態度に出る支那側の行動を阻止するの貨カを有してゐても、これを行使するが
 響こと偲畢づ橋でぁる1背景収凝せ働響↓むる農の串還し羞、垂ソ慧で支響払
 カすること々衝心瀬小のである一」H惹.血書葡や渾エ朋満作磯ふ支那人が」年と共特筆■と上檻襲
 りて、・帝潮灯磨ける鹿朋貨物の掛加空沌進隻訳し、現奄の交儀磯瀾並檻胡塵首」やれ貰とれが運蓮セネ
 舟分ケなるであもケことを極めマ鯵く了頼tてゐるゃ故漑日本の潮心事は≠沌め刹を得〕‥雫盛嘗優れたる
パ層掛交濱層中普笹やことが智や君主泰阜−愚挙の瀾虐に瀕響き、革農何笠ば
 浦洲に於竹る鹿職磯能を改膏蜃達せしめ、其の蜃也来待る儀り膚劾且つ腐増収1せ敷布革へ彦碓也すこ
 ネが[来るかと云ふ蓬を月倒とす牽洩濱拍凝潅のセぁそh



                             ■刑眼


 此む協力を玄に招来せしむるには、蒲洲に刺青繍係を有ナる線べての膚、支那人、日本人、外国人が一横
 濱嘉助駁撃誉し、互凝カし共同の精カを挿誉とを層そ必要むナるの・で告て、如ちとれが今
★本蒜糾に督暴発の基調差す計である・ハ宕看八月草