動く満蒙

           一

  滴輩問題は、我国の珂家的生存と増壌なる翔係を有し.我国の死清に増するま審問虐である忙も拘らす」
 濃撼乍j未だ充分に我固民に理解されてゐないゃ殊に和は浦蛾に放を奉じで以来共の感を一屏深くしたので
 ある。馳つて本給収入るに先立ち「満栄間層とは何ぞゃ」と云ふ問ひ虹封する私α朗見澄簡単に述べて見庇い.
 此質問を便宜上こゥに分けやう、;は満蒙問題は日本及び臥本瀾民に放つて如何なる衷轟を持つて居る
 か、と云ふことでか少、今→つは来由の全局から見て浦安開傍とは如何なる意義七持つてゐるかと云ふ事で
 あを0
  第一の日本及び日本瞬艮にとつて満禁開揺とは如何なる意義を持つ七廃るかと云ふ鮎に就いて、私は蕗贅
、問題は日本麟民の経済的存立の必窮條件であタ、国防上の」太宰件であると確信して居る。更に之を鶴首し
 て満蒙問題とは我国及我国兇に取つて井生存棟を香諷するかせめか、と云ふ重大なるファクターであると息
 りて居る¢
 浦贅間蕗が日本国艮初経済的存立の必窮傭僻である鮎につい七井の項目だけを鵜ぐれば
  人H食瑞間侮・我瀾のエ共闘髄 我囲の貿易上・の市場閲潜 大和民族の文化的教展開留

                                                             ヽ

   囲防止の鮎よ少しては
   罪囲に封すを防備 共他の強周と一朝事を樺へた場合に於ける物資供給の同学.
 〔 大饅項目丈けを濁ぐればか1るものであらう。それから満蒙問題とは何ぞやと云ふ第二の親方、跡ち東亜
 全局の上から見て如何なる意義を持つてゐるかと云ふ閲ひに対する私の二十年来抱懐してゐる断案は、従来
 の東三省に熱河省を加へた東北凶省は質に東亜全局を左右する鍵であると信じて居る0支部の同額それから
 朝鮮問題及日本自鰹む問題、是等の間悔む相峯閑係と云ふものは結局東北四省の事態によつて決定せらる⊥
 ものである。か1.る窓薙が今日典して我国民に徹底してゐるか、且つ滴蒙に封す名我国是と云ふものが兵し
  ェて存するか。
  私の見る併では、現に清栄でなしつ▲あることについて、我国艮はどの程度まで諒解を凝って居るか、又
 明確な理解なり叡念な少を持ち、T定の方針を持つて居るか、香こ般国民とは言はない、歴代の内閣すら果
 して確たる方針なり凱念な少を持つて居るか、私は之を頗る疑はざるを得ない。
  冬日か上る疑掛を何ほ抱かざるを得ないと云ふこと、それ自慣誠に惰ないこと▲して痛嘆に堪えない・
  結局我囲には浦蒙に封する囲是は無いとしか首へない0歴代の政府は内政に汲萌するの飴少満蒙問題に左
 在室きを乾いてゐないととは革質である。清談問顧は我国民の生存樺を香認するか、せぬかと云ふことに直



                                     〓‖ピ



  ちに交渉を持つて居る重大間頗である。此の鮎はどうしても政府常局を初め国民一般に徹底せしめなければ
  ならぬとおもふ。是は一朝一夕で行く事ではないが、極めて損重に考慮を要することである。
  政府に眞に撤廃した囲是の無いと云ふことは、満蒙、朝鮮、滑準二州に於ける帝国の横紺の間に何の聯絡
  もないと云ふてとを見ても判る。それに何等の理解なく、.方針なく、識見なく、たゞ浸怨として人を流して
 ゐるに過ぎないと云ふて針よい位である。昔々が滴蒙た行つて直ち漑響eことは・紺東虚あ少、浦繊あ少・
 更に軍司令官がある。一歩我租借地外の渚域滑線に出づれば領事館が控へてゐる。質にうるさいと感するの
 外は払い。
                                                            ′
  政見玉瀕太郎大将は浦繊をつくつて(東印度倉敷の型を取つたもの)之に観べてを支配させ楼との意固を
 寂してゐたのであるが、児玉大脾の急激によつて、遽に共の形骸丈けが乱して、.資質上児玉大婿の意簡の仝
                                      ★
 部を欝現するに至ら確かつたと云ふ詮があるが、兎も角も滴蒙の事菜1あれだけの大事共に取少輯つてゐ
 乍ら、それに封しで棟梁た渇べきものがない。之はどう℃ても改めなけれ灯ならないと思ふ0それのみでな
 ′く、満蒙問題は朝鮮問題とそれから蕗領滑海三州と切り放して考へられるものではない。
 ′之は飴りにも明白な事柄であるにも拘らす、朝鮮親督府及共の施設キ満蒙に於ける帝国の諸横閲及共施
 殴との問に、叫顔何の聯絡を見ることが出来るであらう心。況や更に北方である掛海三州に於ける日本領事

 偲及それ此封する施設と、浦安檻於ける俄糊扮施設、朝鮮に放ける地紋との臥に何虚に毒した朕結がある
 か、立搬滅裂と云ふよ少は、預から方針むなければ計劃もない、何故にかさる惰態を点せねばなら払かと云
 ふと、再び繰り返す様であるが、理解も識見も全くなく、徒つて歯是と云ふものが決つて居らぬからである0
 誓出腎Hの情態を以て浦蒙と西此利亜滑健二州及び朝鮮、是嘗妄レた東蓋壷紬並の大開数寄菜一
 新くの如き大事兼はいかに望め.ばとて、到底建し得られぬことは火を階るよ少明らかなことである0

  次に涛蒙を主位とした、叉払之を中心とした外交紬俵と云ふものは主として日支蕗の紬係、共中でも臼井
 の紬係之に横合から米囲の翔係と云ふものが出て来て居サそれに多少英俳猫の閲係が存して居る0
  今主として臼蕗の紬係と、米堵の浦洲に対する紬俵を述ぶるに首♪、先づ概念として便宜上之を三一期に分
 りて簡単に其朝岡の特徴だけを拳ぐるとしよう0
 ノ第忘椚を明治二十七入年む日渚戦役よ空‡七ル年の日算数役までの十ケ年とし此の期陶を無為時代又は
 準備時代としト第二期を是戟笹よタ大空ハ年のレ11ン革命までの十二ケ年とし・此期尚を我国の進出時代
 又は日露鎗携時代とし、弟三期はレ;革命よ少今日に至カ・此期間を不定時代又は浮動時代と・私は仮に
  名づけて居る。


            \


      言・れ                             ‥‖F



  罪→期を無為時代、又は準備時代と云つたのは、明治二十七八年の臼滑戦役によつて我国は満洲に進出は
 したが、遺憾乍ら三園干渉をうけて沸蒙よ少退却するの止むなきに至タ、爾苦節戦争に至るまでの十ケ牛山
 問が菅力を封撃備に響、満蒙の地には蒜をも染め得なか完0併し彗て之姦幽に就いて見る時
 は非常な清純期であつて昇朗は三飼干渉によつて「日本が遽東牛島を占有して居ることは、極東の中和を阻
 管するものである」.と云ふて之を支部に返遺せしめて置き乍ら、共の膚め塊の未だ乾かざるに.破竹の弊と
 もつて南行し来たカ、金速力をもつて鋳造を敷設し、猿傾大越にせまタ、.更に鴨線江を渡つて危く釜山にま
 で叔壕地を占めんとする灯至つた。此のことは既に周知の事資であるから詳詮は省く七して、此の朔拗に於、
                                                   一
 て→般駒に知られて属らなかつ舞重大周髄が秘められてゐた。頻もそれが浦蒙問題を諭するに昔つて虐めて ノ
漣箸農礎の妄なすもので為るから、それを指摘して竜虎の注蕾虚し漂と思ふ.小
山 蕗囲が破竹の数々もつて滞蒙を滞捲し、更に朝鮮にまで共のヰを伸ばし来たづたのは、持上身カづくであ
 つたことには粕踵ないが」併し乍ら如何に横車な蜘と雑も一方檻入拗と云ふ者は偽書約性質を持つて居るl
 のでせるから卜たとへ筆為す忙しても罫なる名目責めるもの芸る・
  夜囲も央溌少積分の行動を正常づける名目が軽少たかつた袖共結糸井拷の清下鼓舞モ正音づくる虹室りた
 ものが、新市李拍車サバノフ締青柳に放ける解析協約であづた.

 李沌辛町・ル′フ慧H協定璧円客は・→鹿宰同盟偉約即ち嘉は蕗囲完了蚊警蓋し・殊に軍事上の行動
 滋設備に封してあらゆる便雷痕掛するL、と云ふのであつて・、蕗支共同の敵は明らかに日本車指嫡してゐた
  のであつた。血の秘密協定を基礎として蕗囲はどしく南下し来たつたのである。
 珊之量感普請に警、米尉働から支芸樺に対して、李鴻誉.ハノフ密約なるものがあるさう芸学
  べきであると督促したので、支部全様願絆釣は止むなく本国政府に電報を打つて、共の要領なるものを敬一
  寄せて之を登録したのであつて、其折温つて全文を繰出すると云ふて、今日に至るまで未だに共の全文は放
 出しない。併し其全文なるものは、夙に他の方面から暴蕗され1居る。
  李鴻睾Pバノフ協約なるものが存在して居つたと云ふ事資が」斯くの如く明白になつた以上、我拘は支郵
  政府を相手に、常点滴洲書後談判を遽少直しする樺利があるわけである。(勿論資行するや香やは叉時の事
 掛もあ少、且つ外交上の閑係もあカ必すしも茸行上之を主張するものではないレ何故かと云ふに、一九〇五
 年のポーツマス使約の前墟たカ基礎たる朗は、支却は日露戦争には全然無路係であつて」坤つて支部は単にノ
 鹿拗係なるむみに止まらす、支郵,の中立を日本も俵したことは相済まなかつたと云ふ感情すらあつたのであ
 る。然るに何ぞ知らん、女却は蕗飼の立浜な同盟図で、戦寧のバー≠シバントであつたに拘らす、それは牟
 く辟して撞いて、自拘の中立を南強歯が壌欄して怪しから屯と訴へ禿たつたのである。此の度粕を早く探知

                                      \





                                                                                                                」了.■■■■■l
                                             灯il山

                                                ′

  し樽なかつたととは、我が外交横幽、殊に牒報糠幽の鉄路と云はねばならぬ。併しそれは別として、我国は
  此の度相を知らなかつたが故に、支部に封し誠にお東の専であると云ふ考をもつて清洲書後談判を終結し」
   た0
   頻る虹後になつて此の轟資が判明した.支部は日清戦率の惨敗の敵を打つために、蕗拷と組んで日本を肘
 たんとレ、然止濠射に反して蕗団が些返するや、嘉▼の慧首侵し豊を揉欄したと云ふ立場の↑に警の
 跡始末を解決せしめたの・である。・若し常時この蕗支鞠係の虜相が判明し廿居つたなちば、日本灯恐らく南清
  洲全部倣を支郷から取つてむ差支へ】ない立場に立ち、且つ支部も多く異論蜃式ひ得なかつたであらう.
   弟二崩に至つ.てd、見本は三十七入年の日蕗戦役によつて初めて決定的に浦蒙に足をかけ且つ歩を進めた.
 ・就は前に此時代を進出時代又は日露揖携時代と解したが、此時代の特徹漑、日本の清栄準出によつて、昨日
  の敵であつ准霹西金と日本とが相提携して、日霹は各々勢力取囲を劃して、清瀬洲及東部角蒙古を日本の妙
 力範囲とし」北端抑上内蒙古の或部分計れに外家とを蕗西並の勢力範由として、各自共地域内の安国を推綽
  するに至つた.のである一
  何が故虹日蕗縮図がかく捉壊するに室ウたかと云ふと、これは米飼が野心清々滞洲に進出しようとしたら
  とが、日欝雨滴を痛く剰戟し途に接近提携するに室ちしめたのである。

 革二期卜風吐此の期間を不定時代と前に法べたが、レ;革命葺は大空ハ年の春ケnスキー革命が租
 完甘あるが・ケレyス千草含外交は係殊に満夢間臥に就いては何慧費上の遜丁是さな完にレ
  が
 ;革命を見るに至つた)になつて従来の外交は悉く打ち切ってしまつた。徒つて浦蒙に就いて存して居ク
 た臼昇の涼解な妙叉條約なタは全く中絶の薮となタ、以後満蒙に於ける持支昇の繍係は不定の情態に密かれ
 たのである。〜顔るに大正十三年五月蕗支協定が成立し.更に井年の九月革昇協定が結ばれ、次いで昨年→月
 二十日に日蕗国交基本條約が調印され.ポーツマス億約が蕗固の関する択か完全に復活することを得たので
 ある。此のT二期聞を洩じて今日まで満蒙の事態を決定して来た重大なる国際文音妊何であるかと云ふと、・弟
 −8蕗講和偉約、第二、清洲尊後日清解約日清諒解事項、及秘密協定、革ニ、明治四十二年ノ務洲拳後協約.
 第四.故大租借條約及東支鋳造に拍する協東.持契約並に條例.弗五廿日蕗協約(三周訂綺東新)第六、日
 英同盟に陶する協約・ハ三回訂結更新)節七.孝府倉強の浦袈忙糊する訂議祀撥及伺曾積に於て成立したる東
 郷に翔する九ケ囲條約、第入.日♯糊焚基本偉約」第九、麻雀基*協定末女♯法曹事理協定及革舟考
 空丁卜満叢革周庖に閲する俵約及契約・此の外に季沌睾エノフ協約、更に石井ヲyシソグ協約も満薫河
 瀬女鹿史的に研究するに昔つて和音正大な外交丈‡である.外交発育た穎じて康史的▲把沸薫同席た珂耕すも
・ことr滅東和膚モ研究するに昔つて廃せてエ覿すべき上とであ官


                                                  ■.■【■r−111





             〓

  舟蒙間嘩を中心とし、叉沸まと舞姦とした外交に於て見適すことの出発1払いのは兼辞甜係であつて・こ¢
 脚係は相常翼硯すべきものである.鉄灯ハサマンの蒲鉾買収計劃の如きは、満蒙に於ける外交史の上に於て
  到底見穎し得ぎる重大事である●
  明治三十入牢十月十二日、常時外交草津を条拝し・て居ら打た桂鶉凝とハサ†aとの間に協定発音と作成しI
.桂親蝕は之に調印するや、ハす▼ツ.は直ちに其の打の内にサイベタヤ丸で故鱗へ出帆した。それと入り蓮ひ
            L ノレ
 やこ払担おくれで小村僕が掛御飯紛の成文を魂へ七辟朝され.との卦を閑ぺや・敢必として之に反封し途に
 蛙ハエy協定発音取り消ん収決定し、直ちに桑鞄扮日本餅事館に電報をもつて、人す;瀾桑港に着くやこ
 の協鹿は未決であるとの旨を体簸せしめ、をれから温駆けて、昔時の潔染銀行級数添田氏から詮明的電膚を蟄
 して、翌年め一月十五自途に之を取滑し・て仕舞つた。昔時詮をなす者は、之は軽公と小村侯とが腹を合せた芝
 居であ領土云つて居る。私は昔時の点相は知らないk併し想像する畏は蝕卜穿ち響た藷ではないかとさ
 もづて居る。恐らくは桂公は已むを待ぎる事として一廠ハサマンの計割に賛成されたのではあるまいか、殊
  把常時の配線の中には、井上侯の如を払好埠逢すべから車として勢ひ込んで費成の怠と表せられた形跡さへ

  ある。ハaマンが乗少込んで発たのに卸し、常時我囲朝野の主なる人は之を趣めて重大親し∵且つ多少怖じ
  けたのではないかと想像古れ得るのである.
  I英次には明治四十二年十一月から十二月にかけて、常時α米団々酋長官ノックスの清洲諸鋳造中立碇議で
  あe0
  壷は我囲朝野にとつて茸に晴天の斉藤であつた。米国は極めて巧妙なる遣少口をもつて.、かの有名なを錦.
 確繊道をやるぞ、即ち満鋳の並行線を儀って、浦鋳の数兵を学ば抹殺するぞと威嚇しておいて.、それに引つ
  かけて清洲の諸鋳造中立と云ふ塊議を持ち出した。
  ノックスの鍵議は、我図にとつては正に晴天の欝靂ではあつたが、之をハクマyの計劃に遡つて見ると、
 根本の考に自づから一貫した系統が立つて居る様に想はれる。′サクス程の政治家がどうしてハyマンの鑓
′ 議を知らぬ筈があらうかバ併し英囲は之に賛成せす、そして日本は欝西亜と相提携してノックスの碇議を宰
 返し針0
‥ポーツ†ス俵約及満洲尊後談判で決めた日本の浦蒙に於けe又は浦蒙に対する地位な卜閲係なタの基礎軋
 なす身は云ふキでもなぺ蒲鉾であつて・日本は滴錬車中心に諸般の施警始め−朗詞満銭幹儀羞なる方
 針を樹てたのである。点るに此の錦竣鞍道問題は満繊の幹線主義を脅威するものと見られたのである。昔時



                                                            ・音量・rllrlbr〉▲章已Tち一■■L
                                    銘.ツーしL⊆‘、撃仙夢,篭入妄ミ漕ぎ芸ELL簸1.ぎ巨..−戸トミゝ】FE.1巨 ▲と邑lFk転野−臣m岨断臣附転臣LとlrbL



  の我国の政府は固より国民も皆そう信じてゐた。我は満繊に職を奉じて以来鋳造問超の質際について多少の
  督識を養ひ、d叉満蒙現場の一切を考究した結果、こんな鋳造を造る程の造柴はいかに米国と錐も賢際には出
  来得ざる併と思つて居る。併し常時の日本としては頗る大問題硯したのである。是より前法庵門鋳造問題な
 るもαが惹観せられたが、こんな小さな鋳造問題にすら、時の霞ケ閲は非常に之を重大祀して−英国と支部
 上に材力阻止の方法を講じニケ年の時日を費して漸く日本の主張を貫徹した経である0今日より常時を迫俵
 す名と、・奥問に日穎の飛確的黎展があ少、時代α激しい変速などあつて今日と嗣二に鈍ることは出来ないが・
 昔時の月本は飴針灯固くなり過ぎたと云ふことは香み得ない析であらう0
 東風は讐石満蒙進路に倫ほ懲少ず†明治四十四年四方・簡制改革及賛美閑費借款契約とを碇げて臨んで
・H禿た†是は有名な計サイj・Iド、ストレートと云ふ求人が作つた昇で−常時私は北京に居つて多少此問題に
 紺係したのであ接が、此の幣制改革及資菜閑費借款契約の中・第五條に満洲に於ける痙酒税・生産税、滑費
 税率む脇保とする・ことを規足し、東町第十六條の下[廣汎なる範囲で膏四囲財囲実米璃併)より資金の供
 聴を受寸むことを取り極めたる外特に満潮の企共に閲して「本公債により計劃せらる⊥又は之と閲聯して経
 曹せら.る上浦洲企糞を東郷人と共同経費すべく外国資本家を悠漉せんと欲する時漑前記銀行囲は優先して海
 舟を受寸べきも打とす」と規定して居カー卦り満洲の牧人を押ふるのみならず、満洲の企業に就ても亦之セ

 和占せんとするの概を示した.日露南国は共同して之に統汚し丼の結奥野サ六使は断じて打落南瞬の特殊利
 金を優曹するものと解せすと、此案を濁し、井後に至つて東郷の革命が也タ、次いで民歯改称とな少・四均
 財臥に故費借款を申込んだ.のを概として・日本は本借款は轟も粛満洲及び南滴洲に凍乾せる内蒙古の東和
 地方灯於ける特殊柿利及利益を毀損するが如せことなし」との諒解の下に本借款に参加する旨を言明し序
.囲も亦略々同趣旨の黎明をなして、日露雨図が之に参加して六囲借款鞠となり、他の四囲政府は月本の蟹
 明を承認した。之は繊造には何等師係はないが、米国の満蒙に対する劃魔の■一瑞として附晋をしたのであ
 る0声
 .更に本来の鋳造問題に立返つて、共の衆に大正六年蕗西盛事命の勃費と共に、之に閲聯して米国の企紐は
 堅剛J少も一昏形を大きくして接頭して釆た。ケルンスキー革命が起ると直ちに、ルート氏を委月長とした
 訪蕗委員を米国で組続して、常時混乱の渦中にある凝固に出掛けた。革命路西虚に同情する、表面の名目は
 そうであるが、併したゞそれだけで、年老ひしルート氏初め多数の人が態々露西亜まで出鏑けるわけはない0
 ∵殊に一行中¢頼憐れにはチヤールス、クγ−y共他租常知名の士が多い。吾々は何か大きな意味があるので
 はないかと.、‥軋鋭してゐたが】向に判らない。研が突如として、米国に於てレールウエー、エンジニヤの多
 ∵】人者と云灯れて居るスチーダンスを筆頭nした鉄道抜何等で組掛された→除が、西比札正に向ふと云ふ誌


                         ノ
  ・トぎ       て             ト‖〓H島l



 が停はつて禿て、間もなく一行は我国に着いた。スチーダンスは横浜に発たが共他の一行はどう云ふ紺俵か
・長崎に着いて同地で様子を見て西此利金に渡らうと云ふ手首と定めてゐた。
  此時日本と云ふと言葉は少し大きいが、少くとも東京の有識者、殊に外交方南に摘心を持つて居る人等は
 相常驚き且つ騒いだ。
    カー
  私は是は結局スチーダンスに直接質すことが一番の捷経であると考へたので、本野外細から一應米団大
 使のモyス氏に話した上、我とスチーダンスと倉見することにな少、米図太使鎗でモyス大使とスチーヴγ
 スと私と三人鼎虚して合談した。私は埼的にスチーダンスに質閏を蟹した。「君等一行の来られたことに就
 いセ我図人は非常に衆の眠をもつて之を注醜してゐる。それは無理かちぬ話である。ハブマyのあの計劃が
 あ少、衆でノックスのあの捷耗があつて、今度西比利点繊潰を改尊するのだと云つて米周技師の】隊が水た
 のである。過去の経緯を知れる邦人が今度の米臍人の行動を無細心で見てゐることが出水す、叉ぞろ例む米
 国が撞朗した、と思ふのは無理からぬことではないか。そこで之に廃するに→番宜い粟は其農相を有タの士
 ま率直漑我が朝野に知らせることである。之がため哉は之を直接開き庇い秒である」
  哉の質尚に封しスチーダンスは同感の怠を表し何も随サペきものはないと云つて気祷よく話して呉れ、そ
 れから私の求めに感じてスチーダンスは横顔から本野外柏にあて1私に話した事、むち斉団と決めた裟鮎を

 ・すつか勿書いて自分で著名した書翰を直ちに途つて寄趨tた。
  それに廿ると、■常時の事態よかして、欧霹の方から野部戦線に結びつけると云ふことは呼人出来ない・そ
  れで聯合諸国と連絡を取る唯一つの式として浦盤よ少酋此利亜を経て蕗都に掛る、是れよ少外方法がない。
  で此α交通路を米国式打二つ米人の力で迅速に飯復し故事して呉れと斯ふ云ふのであるとの事であつた・
  倫掛ス子−ダンスは私に→賛は俺も驚いた、蕗西並の鋳造を皆委すと富つたんだぞ、掛ら米国でもあの鹿西
`                       ヽ
  霞の鋳造を瞥引受けてはや少切れぬから、それで聯合諸周との野路上殆ど唯忘交通路である層此利亜鋳造
 k中萱細欝向つて居るものとをどうにかしよづと云ふことに話合つた0が;取卑敢へす西此利芸
  濃を何とかして快復したいと思つて居る」と語づた。
 ・共中にレニソ革命と恕つて欧蕗及西此利亜まで混乱町∵厚赦し(なカスチーダンスの一段も容易に西此利
    (
  更に行つて満足に仕事することが出来なくなカ、そうこうしてゐe中に、西比利亜にあつたチエツコ、スロ
  ヴアブク軍計数出し庇いと云ふ米国の碇議があつて・共同出兵と云ふことにな少・我図はこれが点多大な磁
 .牲を梯はされたのである。
  表聯合軍甘他の飼の軍隊jH本の軍隊が蒜に哉零する時は・何時でも日本の軍隊が彗線に立つて・
 ・一番先に裁つて正直に討死する傾向があるが、此時にも日本の軍隊はどんノ\進んで、主として何時も難局



                                             .‥‥‖Hl




   に富力却々の菅哉であつた。此戦況に、常時日本の常路着払頻少に憂慮して居つたが、英図、併南西、伊太
  刺それから浦塵に居つた米国の指揮官も共に日本の埠兵を講要して来た。殊に宮のチエツコ、スP−ヴアブ
   クの連中も泣いて急を我国に訴へて釆允。鼓忙至つて我国は途に檜兵した。此事についても米図一部の人達
  の宜倦に来つて日本人までが此の埠兵を8ホが不倫なことをした・不都合だと云ふ者eあるがそれは全く屁
   相を究めぎるものである」
  .兎に角日本の軍隊は尊ぐ戦つて、ヰつとチクまで敵を掃蕩して、イルクーツク速まで楷や連絡が取れた。▼
  頻るにそれまで打本の埠兵に対して頗る不横嫌で悪意の意味をもつて終始日本の行動を監祀してゐたのは米
  国の大統領であつ瞥
  ∴其内に西比利亜伊佐民に取つて極革の多能タが迫タ、凍死する者が絶て来るやうになつた。米国大統領は
  俄に之は人道上の問題であると云ひ出し〓町我が出征軍に関して金武無根の虚報を故げて詰糊しっ1、他面
  イルクーヅクまで早くスチーダンスの鉄道隊に一任せょとの意を暗示と云ふか明示と云ふか兎に角我囲に示
  し釆たつ女.・之に反対すれば人造に逆ふと云ふのである…誠に結構な議論ではある。
 一蓮飴曲折を経て遽に米畝のスチーヴンスが委員長となつて」聯合諸囲の政道技術監督局と云ふものが出巫
  て∵本部む油瞥に澄いたのであるが、共後スチーダンス以下聯合諸固の技師等は恰南寅に引揚げ」事賢上東

 女帝潰だけ払管理すると云きとに落ち着いたのであ・る町スチトがy∵繁以下米人働吐北浦と云ふものに対し
 て非常灯壷を轡し且ウ熱や忙なつで準たQ之計兵溝的汁芸へば畢支慧そのものを何とかして耗脊して行き
 庇い、モうして之を基礎として北浦の柑獲たや多度い・スチェア三等の考へは淑女斯う云ふ為に襲つて来
  瀬のである.
  スチーザyスは其後華府合耗に持つて、東支鋏武井何管理と云ふ賽を出すこと竺生態命に活動を開始し
 た¢スチーダンスS東支鋳潰管理案なるものは飴少に筋骨だつたので飴杜廉直して合議にかけたと云ふこと
 言る。朗が塞が萌彗て琴かない0ために此の共同管理案なるものは途に不成功に嘗た0此問に砕け
 名題封史をや心彗れば、此の儀には日本の拳骨賛成扮意と哀した・そうして常払首本政府む或者は之は
 喪同僚故実空将すペきものではない、と云つてゐたが・あの拳府合議に琴はれた案が共同管理の資質を億へ
 で腐る息でないせ云ふ解樺をする人は白い物竪見三Rくないと云ひ得るだけ望男箸彗て居る人である
  と云は血ビなる士い.
 官野中野埠自ら数等それ霊日食せきとであヤ少く畢事誉−表する鼻革がなくて知ら姦皇r由ら
 欺いて瀾少で名む安打る官払草鞋崩み出すのである・
 .兎頂角蓑の反嘗輿局管警云ふ形筈ぺ饗宴甲が葺卦象やて責恩義費レて行こうと至〈


                                             ‥〓l


 金観は速に成功しなかつたパ
 、大正十一年に到萌聯合諸国の技術監督局は昇止され.スチーダンス初め日卒り技師も骨放逸して.其後束
  安鋳造は完全に東郷の管理に挿した。
  最後に拳腐食頸に放て、満蒙収絢して柏音重大なる黎明が行はれた。鉢ち大正十一年の二月.今の外穎懲
  原男が東洋重点禽で孝明したのである。
  日本漣茶ふものは自分の勢力鵜飼である浦薫と云ふ直域に於いては、特殊の判事翔係と待つて居タ、段つ
 ・て此特殊の地位或は利益を列固をして硬骨ある毎に承認せしめ球とする方針で一貫して来て、そして石井ラ
 yツy〆協息皇で漕ぎつけた。之を表面だけから見ると世界大戦の捗る愛では大横此の方針耳故に向づて漸
 次成功して水たのである。然るに世界大戦以後睾腐食譲で長年の外交上の努力佃掠盤を−朝忙して粂朝晩♪
 治すが卿き事々敢へてし掛蒙に於ける我国の倭革横、筆先礁鳥食う誉の孟て彗た.少くとも主義
  ノ上は¢
  微原男の黎明に対して確か王租意であつたか、東郷の代表は、日本が渚蒙の使先堆.特殊利樺を租乗せる
  は執迎する、併し全部の農薬跡ち二十−ケ使に基ける並べての催約を夜来されなかつたの妊邁撼でrある.と
  云ふ意味のことを述べて居る0    ′

 欝之を表警外見ると一滴蒙に尉する日本外交のクー;グ・ポイント甘姦し芸ツク、メ呈ングの事
 をやつた。然らば日本は浦蒙で資質上大変な返却をしたのであるか漣茶ふと、将来此の主義上形式上の返却
 が如何なる経度きで、叉如何なる形、又は質に於てモーラル、ヱノフエクトを超して来るか、それは未知の間
 隙であるが、共の資質を討究致すと、多く失つた朗はない様な感もするのである0今までは、四囲財団幽係
  で、・取力極めた諒解などは有数なものとして穣つ.て届か、満踏も拍東租借地も、加藤高明偶のやられた九十
・九ケ各延長條約も共餞厳存してゐるし、叉現に邦人の経営な少紺係して居る事菜が飛んでしまつたわけでも
 なけ。商粗描等も依然存蹄して居る0併し何と云つても主義上は日本の満蒙に封する立場を叔低から攣へた
  ものであることは季へぬ事資である。将来其キーラル、ヱフエク†がどう動いて来るかと云ふことに就ては
  細心の注意と警戒を要することであると信する。
 ∵満蒙に掛ける日本の立場は他の圃とは違ふぞ、と頭振つて発たものが、是からは他の囲と違はぬと云ふだ
 けの表面の思前になつたと云ふことは牢記せねばなるまい。

            ≡

  ∵温欝の渚水はどa怒るかと云ふ考察を加へる前に、最紀の事情を威みること払、藤木を竣想する上に就い.



                                             ‥〓E



 て大きな参考になるだらう上思ふ。
  混沌時代ではあるが、混沌ながらどうなつて居るかと云ふと.是が近来入釜しく喧倖されてゐる鋳造問題
                                              \
  で現はれて発て居る。
  大憶の形勢は、日本が攻勢に出て居る。蕗西亜は支那を利用して日本に常らんとし、ノ日本は支郊を利用し
 て欝西亜に常らんとして、是が兵憤朗に現はれて来たのが鋳造敷設の問題である。
  日本掛昔の勢力範囲の南港及東部内蒙古の範歯を趨へて、直ちに以蹄霹西並の勢力範囲であつた北浦に突
、逢してしまつセのである。
  大速から北方に向つて虞中を経て、挑南までは日蕗協約に因タ、常然日本の勢力鞄図であつたが、それよ
 少先は蕗西並の勢力取囲であつた。研が労農政府は勢力範囲などは帝国主義的又は侵略的の事として一切認
 め・ないのみならす、日本も亦拳府合議以来左枝なものを認める繹には行かぬ。と稀してゐるので、少く共主
 萌上は日本は大手を振つて北満に喰ひ込むことが出来るのである。然し乍ら資際に於ては霹西亜は却火に猷
、つて居らぬ、却つて日本の進出を阻止せんと官方手段を講じて居つ漑のである。
 、露西亜は勢力範囲は認めない、そんな帝国主義的鸞式外昇はやらぬと云つ■て居るが、それは自分の利益の
  ために認めぬと云ふのであづて、他が自分の勢力を侵して来る時は直ちに勢力取囲論を持ち出して来る。日

                                                                                                                                                                     −

 ・旬協克をした儲少に俺の方の曹の勢力範留を突く様なことをするのでは国交快復は出発拍と云ふて居る点る
 ・に、日蕗協定をやる時には勢力範周など訟が認めるかと云ふ鼻意気であつたが・それは南瀦洲に進出せんと
  日給んで属をからである。
  此北浦に於ける鋳造駒岡顧は高から故ると支郵の棲準軌濃と罫西並の超棲準・五沢軌潰との尊であるQ
 市して此軌道の季は直ちに支型フラス日本封鹿西並の闘争を表敬して居るものである0兎に角日本は北稀に
 進也し、鉾西亜は段々と返却しっ1ある。東支鋳造すら支部に年分から押へられて居る0今や日本は支郵の
 尻押しをして東支線を超へて北の方忙伸びつ1あるQ之が支部を仲介せしめた日露翔係である0
 仙 大正十叫年にスチーダンスが引き揚げた後米埼は滴蒙に何もして屠らぬ、併蘭西が東支線に資本を出し
  た紺係ある以外英囲も渇為も別に差し象る紺係は満崇にない・
  斯る硯惰を出教鮎として照雄爪義想をする上に於て多少我の卑見を速べて見庇いと思ふ0日霹戦争後−日
 露の鵡携によつて芸を鮎し且つ琴二囲が満蒙に進出せんとするに常々、之む耕険又は之に封應すると云ふ
 妄針に復嘩するかト又は蕗西亜と塞が毒して日本に革るか・日本と嘉が埠携して慧H亜に常るか・そ
 れとも日露の喧嘩をやる尚豊つて塞が漁夫の刺を占めやうとするか・日本と嘉とを衝突させて蕗宝
 がよい雷しようとするかト若くは是が漁夫になるか、彗もコンビ、kション塞像することが出誉−
                                                                                             \





                                         ‥‖いlll



  勅の橡想する朗では(是は濠想と云ふよりも学ば意見である)日本は帯び同人種である支邦人を白人と手と
 鐙つて叩くやづなことはしてはならぬ。叉そんな事はせねであらうと信じて居る。それならば支郊人が無謀
 な例へば固匪事攣のやうな事を超した少、或は不償に外人を排斥し叉線之[危宰を加へ滝と云ふような事を
  しても不同に付すると云ふのかと云へば、無論そう云ふ意見ではない、是は問題が癌ふ。唯満蒙に臨む外交政
  策の根本は、人棟愛に立脚して行かなければならぬと思ふのである。いかなる民族でも支部人以外の民族と
 −緒になつて東郷人を叩くと云ふよう登を日本がするなら犬は日本の間違ひであると断言し得るのである
  √ 次に東郷と蕗西亜が手を撞つて日本が」囲で満蒙に向はなければならぬ時が来はせぬかと云ふ事であるが
  是は可能性が想像以上にあ少はすまいかと思ふ。理由は省略するが、それは日本は絶封にさせてはならぬ。
  昔々が鉾図人な少他の国民と捉壊して自らの兄弟分である支郊人を虐げる事は断じてしては相成らぬと同
 時に、其月本国民は支郊が霹固人など1手を組んで日本人を虐めに掛ると云ふやぅな事をしては相成らぬと
  云ふ虜格を常然持つて居る。私の唱ふる此の主義は勿静相互的のものでなければならない.
  L々れから米図に至つては泣き締求に於では滴蒙に飴少手を出さゞるものと思つて居る。では日本は如何に
 すべきかと云ふに、満蒙に於て大和民族が生きて行〈と云ふ此の叔本間題に封して非常の脅威を輿へない限
 旬は、日本は米図など1成るべく捉携して倶に共に浦蒙な少東北部亜細亜な身の閑蚤事共に精進すべきであ

                                                                             ∵∫ 】
 るト息ふ。盈は隠す米臥に対してのみならヰ、英固点す、併掛金少、濁叉点タである。

             四

  ∵最後に清爽青々は如何なる心得で居つたならば宜いかと云ふ事に就いて私の考の要項だけを簡単に略述し
  て見庇い〇
         一、日支共存共柴主義に立つ事
   是は早川さんが満鋳組長になられて初めて任地に赴かれた時に之をモットーにして進まれたのである。能
  く日本人の云ふ同文同種とか、唇歯輔事とか云ふ事ば支部人が冷嘲して居るが、是は此方のやり方及誠意の
                     ヽ
  有無によつて必すしも徹底しないとは限らない0現に故早川氏が行かれて僅か一年三ケ月で簸れられたが満
  蒙に於ける支部人の問では早川氏の云ふ事だけは虞資であると侶ぜられて発たので、是は瀞蒙に於て最も愉
  快なる事秒こであつた。満憩に於ける日本人の利容閲係から云つて、彼虞に現に有して居るあれだけの基礎
  め上に立つて、之を支部人に徹底せしむることは出来ると私は確信して居る。
         ニ、満蒙のための満家主義に立ち共基礎の上に満蒙経営を行ふ事
   月本人は無敵日本のために瀦蒙を論ずるのであるが、結局満毅で普々が健全なる頚展をしようと云ふなら



                                                                                                          ●
                                          卜l



  ぼ、先づ矢張り満蒙のために満蒙を閑脅するつ卸ち滴蒙の利益本位と云ふものに立脚しなければいかぬ。是
 が應て日本に封して大きな見地から本常の利益を封す所以である。今までと雄も、ハツキづ意識してやつた
  かどうかは疑問であるが、日本のなし来つた朗々見ると大鰐此主義であつたと云はざるを得ない。現に満授
  の如きあれだけの投資をして、而かも十萬の犠牲者と二十億樹の哉費との上に築かれた骨組であるが其浦拭
  から日本の国家は何を絞つて居るかと云ふと、今日まで差引勘定したら、まだ増足してゐる位である満鱗で
 儲けた金町結局大部分満洲に投資郎ち浦洲に還して居る0栽は此の方針竺昏ハブキ豊息識して更に之を苫
                                                               /
  寸様にしたいと望んで居る〇
        三、絶封に満蒙の勤務不安を耕険し内よりすると外よカナるとを問はす叉何者の所為たるに
           係らす満蒙を撹乱勤格せしめざる事
 ・日本の封浦家政先の見地よ少すれば是が第一に掲げら首べ導線封必要俵件である。若しも渚蒙の秩序を投
  乱しようと云ふ場合には」日本政府は積極的に共態度を明確忙して堂々と必要な措撞を誘サベきである。浦
  蒙で動乱齢租つた時に不干渉とか何とか云ふ人があるならばそれは日露戦争の事を忘れ、そうして現にあれ
  だけの重大な利寄贈係のある事を全く眼中に澄かない人で計ると思ふ。香満蒙の歴史すら放らぬ者であり浦
 蒙問題の意義計も解もない者である0青々は何が馬めに満蒙に来り弘んでゐるのか、浦読であれだけのもの

 せ現に彗て居つて動乱をやられたら之がどうなるのか、正くは奉周東ゼ瀞落があ絹が、井野学者どれだけ
 甘本人が受けて居るか、それでも飴併の事だと思つて居るのであるか。
  沸蒙の事は最早今抒では東郷むみの事ではない。併せて日本の事なのである。之払我が国戌のどうしても
 人ブキy怠致せねばならぬ事である。支郊の本土、山海紺以西の本土の岡腐と東三省の岡野を、唯地尚一の上
 に是が東郷の領土だからと云ふので同一覿する事は、過去の軍費な♪、現在の革質に対して色盲患者と云は
  ねばならぬ−
  之を庭史的収税ると、清村人が彼虎に典つてそして東郷を溌→した.東郷を取つた時に自らの頚群彗自は
 ば浦朝のクラウン、ランイとして韓に支那に之をガぎ付けて砥いたのであつて、現に漠民族の清洲移住を許
 されたのですら.住に官二三十年前の事である.之れを支部が共和図になつて五族共和なぞと云ふ題目の下
 に粛人が膠手に東郷に併合したのである。英猶が互に支部保全懲約したに拘らす、蕗西壷が浦湘に乗少込ん
 だのを知ら[頚して濁逸が屈′つた時に、英固の方から一懐英猫の協商があるじやないかと云つて安めたとこ
 ノろ卜時の猫準帝国宰相フォンービTては革曾で「清洲は蓑に非きと雪た0之は読府の如くであつ
 て‡は必すしも鶴痢ではない.井昔時の茸際の事態からして云ふと少k共浦蒙を支郷本土と亀広岡忘帆する
 ととは少し瀕理であつたとも云へぬ事はない。現に拳府倉革に勢てすら支部領土と払どれ丈けを指して云ふ



                                        払l



  のかと云ふ問題が怨もルートのやうな人からさへ捷話されたではないか。
  打本国民は資に陶を渚し血を流して、そうして随分借金をもして支部自らが露西亜に殆ど輿へたも何じで
 ある満蒙の地を取り返したのであつて、此鮎からすると満蒙に倒して日本は支却以上に撃首樺を主張し得る
 のである。そして現に大和民族の生瀬上重大な幽係ある地域として、是は他所事とは思はすに乗り込んで我
 国属は欠いにやらなければなちない。第一催件としては、組封に東三省の秩序を素さぬ事を確保しなければ
 ならぬ_是は畢り日本人が自己の軋存櫓を擁護する所以の途のみではない・支郊人は固より此地域にある諸
 外国人の均しく渇望する朗であると信するのである。
       由、前瀾「即ち日支共布共柴主義∵「満洲の篤めの満洲主義に共鳴し秀つて同心協力せ
        んとする者は其何図人た甘を間はす歎迎捉携する事  .与
 ∴滴琴の閑薗事菜.に米を耕すべし蕗と結ぶ可からす、英を逝くべし、など云ふやうなそんな小さな料簡を持
 った研がそれは出水ないのみならす1それは大いなる誤クである。如何なる国人と錐も今日最早あれ丈けの
 基礎を据へて居る朗打束るのであk革も懸念する必嬰はない0如何なる国人との協力に俵つて開かれても
 掲致さるればされる程利益を一番多く受くる者は東郷人と日本人とで居らう。斯かる主義乃至方針に立脚し・
 挿して非常の決心を固めて固是を判然と立て上進むなちば・満蒙乃至東北部亜細亜に於て有年の後には相首

の開発事業に成功し得るものではあるまいか、又斯かる主義なり方針なりを採つて堂々と進むならば英米はじめ列強が日本の立場を是認し且つ協力して呉れることは疑はない。米国初め各国共満蒙に於て日本国民が活きて行く所以の途を講ずる為に至当である事を為すに決して異論はないと固く信じて居る。唯我国民なり政府なりは満蒙に進展をなさんとする場合、予め率直に忌憚なく遅疑する所なく世界に向つて能く説明をする必要がある。そうして改め世界の誤解を防いで置くならば、事更為めにする所あらんとする者以外英米其他何れの国の有識者間にも我が民族生存のため必要且つ正当なる満蒙施設に対して異議をさしはさむやうな者はない、此点我国民は安心して可なりと思ふ。
 最後にもう一つ附加へて置くが、日本はどうかすると力を散漫に用ゆる、一言に支那と申しますけれども今日の我が国力では余りに大き過ぎる。彼方にも此方にも気を配ると奔命に疲れてしまふ。どうも日本の遣り方にはさう云ふ所がありはせぬか。私は正直な所、今日の日本の国力、絶対観としての国力、それに国際関係を考慮打算の中に入れて見た国力から見れば、東三省だけに放て、向ふ百年位に大体開発の基礎を据へ得たならばこれ丈けで実に偉い仕事ではあるまいか、果して我国力は此大事業に堪へ得るであらうか、私の満蒙問題とは満蒙だけを云ふのではないのであつて、前にも述べた様に朝鮮を切り放して考へる事が出来ないと同時に、西此利亜沿海三州をも眼中に置かずして考へることは出来ない問題である。
 此東北部亜細亜の開発事業は非常な大業であつて、今日までアングロサクソンですら此東北部亜細亜に於て吾々が遭遇するような非常な錯雑した関係、又不利益である諸条件を以てして、エンパイヤ、ビルデングをやつた事はない。かゝる大開発事業(これを私はエンパイヤ、ビルデングと云ふのである)に殆ど無経験とも云ふべき日本人がアングロサクソンさへ未だ曾つてやつた事のない事業を是から敢へてしようと云ふのである。是は頗る日本にとつては難事業であつて果して成功するや否やさへ疑問である。併し之は成功せざるを得ない、且全幅の国力を傾けてやるべき事であると私は信ずる。日本が満蒙を退却しなければならぬと云ふ日は大和民族の生存権を抛棄した日であると思つて居る。
 将来世界に貢献し、人類に寄与する事を大和民族の天職なり、義務なり、生命なりと信じてゐる私の見地から云へば、満蒙を放棄した日は大和民族の生存権を抛つた日である。
 我国人上下を通じて今少し満蒙問題に理解を持ち、之に徹底し、そうして早く国是を樹てて非常な決心を以て立向はないと或は数十年を出でずして、或はその前に、大陸に足をかけた日が大和民族の呪ふべき日となりはせぬかと私は衷心より之を憂へて居るのである

大正十五年夏)