校正中

 

現代日本教会史論     山路愛山

 

緒言

 日本人民の精神的活動を軟了せしめたる最大なる原因は蓋し徳川氏
の政策ならざるを得ず。
 仏教は徳川氏の時に於て殆んと唯一の国教となり、其保護を受けた
り。僧徒は自ら進んで伝道せざるも人民は自己の邪宗門の徒たらざる
を証せんが為めに籍を信者に連ねざるを得ぎりき。他の語を以て之を
曰へば所謂寺証文なるものは恰も今日の戸籍の如く良民に取つては欠
くべからざるものたりしを以て僧侶は坐して信者を得べく坐して飽食
暖衣するを得べかりしなり。而して政治上の此恩恵は僧侶をして伝道
心を失はしめ、人民をして道を研究するの心を鈍らしめ遂に宗教をし
て儀式の一種に化せしめたり。而も人心は霊なり。人心は空虚に堪へ
ず。日本の人民は寺院が国家の恩沢の中に眠つて起たざるを見て別に
寺院の壁外に於て精神的活動の自由を得んと欲せり。朱子学、陽明学
は之が為めに唱へられたり。仁斉学、徂徠学、折衷学は之が為やに出
でたり。真淵、宜長、篤胤等の国学者も亦一種の信仰を唱へたり。国
学と儒学を連結せんとしたる水戸学も亦起れり。されど是等は士君子
の学たるに過ぎず。平民の間には別に心学者なるものありて儒、仏、
禅を混じたる哲理を教へたり。是は如何なる時に於ても根本的原理の
研究は人心固有の要求にして幕府の威力も全く之を鎮圧するを得ざる
ことを証するものなり。然れども日蔭の草木は遂に十分なる発育を遂
ぐることを得ず。原則に於て思想の自由を許容せざる幕府の政策は著
しく当時の思想界に影響し、学問ある階級をして宗教そ似て単に教化
の具とし、之を見るに政治の一方便を以てするに至らしめたり。所謂
神道教を設くるとは彼等が宗教に対する最好の態度にして彼等は遂に
是より以上を以て宗教に要求すること無く、又しかすることを欲せざ
りしなり。

日本人民の醒覚(一)

 既にして世界の大勢は旧日本の重関を打破して此に所謂維新の革命
を生じたり。維新の革命を以て単に政治機関を改造し、政治の当局者
たる人物を変換したるものに過ぎずと思はゞそは皮相の見解なり。維
新の革命は総体の革命なり。精神的と物質的とを通じての根本的革命
なり。政治と云ひ、社交と云ふが如き一部の革命に非ざるなり。何を以
てか之を言ふ。余は嘗て安井息軒先生の文を読みて実に此事実あるを
知れりき。息軒文集に依れば先生の知人某は明治の初年に於て同学の徒百余人才有したりしが彼等は盛んに共和政治の美を唱へ、此れに非れば、以て国を富まし兵を強うする能はずと主張しつゝありきと曰へり。余は其所謂某の何人なるやを知らず。されど横井小楠の日記に明治元年の未に於て森金之丞(故子爵森有礼)と大に米国議院の事を論じ、快談夜を徹すと云へる一節あるは事実なり。翁が当時に於て血統を崇ぶの旧習を排斥し、適才をして適所に在らしむべきを主張したるは事実なり。今の男爵加藤弘之すらも当時に於ては極端なる民主々義の論者たりしは事実なり。明治二三年の頃当時の外務大丞たりし上野景範が酒楼に於て喋々として米国共和政治の美を説き其上下貴賤平等の自由国なるを賞讃したるも事実なり。大名の華族と改称せられしとき熱頭冷舌なる福沢諭吉が「煮た飯を喰ふもの之を華族と言ひ、生の飯を喰ふもの之を乞食と云ふ」と罵倒したるも事実なり。之を上は天子将軍より下は百姓町人に至る迄一定の種姓と階級とありて相踰越することを得ざりし昨日の天地に此すれば其思想の根本的変化、何ぞ其れ甚しきや。支那の史家趙翼は嘗て春秋時代より秦漢の時代に移りたる改革を形容して天地の一大変局なりと云へりき。余は此形容の最も善く維新の歴史に恰当するを知るなり。宜なる哉其思想の傾向に於て恰も老カトーに此すべき息軒老先生が此の如き新思想の勃発に逢うて深憂に堪へず、敢へて儒学の孤城を守つて之と戦はんとしたるや。人或は此現象を見て日本人民は新主義に泥み易く、珍らしき議論に染み易き性癖あるが故に然りしとせん乎。是れ未だ深く考へざるのみ。其実は思想の自由を妨害したる幕府の政策は日本の人民をして真実の信仰なきものたらしめしかば、遽かに文明の光輝に射られ、忽ち思想の解放を蒙りたる彼等は鼓舞顛倒自ら為す所を知らず、総ての外国文明を生呑活剥して以て直ちに新日本を作り得べしと信じ、容易に古来の政治機関を破毀し去りしのみ。

 斯くて天地一変、乾坤一洗、世は愈々新主義に謳歌し、之れと共に外国模倣の傾向は日を追うて盛んになり行けり。其眼光が常に時勢の暗き半面を射るに慣れたる井上馨は明治六年に於て上書して曰へり。

 現今在官の士、足未だ其地(外国の地なり)を踏まず、日未だ其事(外国の事なり)を見ず。僅に訳書を窺ひ、写真に関するも亦且奮然興起して之と(外国となり)相抗せんとす。況んや比年海外に客遊する者に於てをや。其帰るに及んでは或は英を以て優れりとし、或は仏を以て勝れりとし、蘭や、米や、孛や其皆長ずる所を以て我に比較し、街衢、貨幣、開拓、交易に論なく、兵に、学に、議に、律に、蒸気、電信に、衣服、器械に、凡そ以て我文明を資くべきもの繊毫遺さず、細大漏さず、以て具備を求めざるなきに至らん。

と。彼れは唯官吏の状態に就て言ひたるものなり。然れども一般に通ずる神経は全躰にも通ず。凡そ当時に於ける所謂進歩主義の人々にして誰か日本の旧物を賎として外国の新主義を慕はざるものあらんや。開拓使長官たりし黒田清隆が米国人某の説を聴きて山川(今の大山侯爵夫人なり)、津田、瓜生等の女学生を米国に留学せしめたるも此時期なり。仏学者たりし大井憲太郎がドラクルー氏の仏国政典を飜訳し司法省が之を出版したるも此時期なり。モンテスキューの万法精理が飜訳せられたるも此時期なり。洋学の流行、恰も火の原を燎くが如く、酒楼の少女が客と語るときも猶洋語を挟まざることなかりしは此時期なり。東京の八百八街、各所に洋学指南所の看板を掲げで未熟の英語を教へ、依つて以て衣食の資とするの徒が日に多かりしも此時期なり。福沢諭音が「文学の教」なる小冊子を作り、其文例として

  「私儀此度親類相談の上、学問のため東京へ罷出、同所浮世小路、竪板水四郎君の周旋を以て明殻町一丁目有名堂無実先生方へ入塾致侯処、中々盛なる学校にて塾生の数三万三千三富三十三名当時雇人の外国教師は英人「シユウメイカル」米人「セイロル」の両人、日本教師は洞尾福太郎、呉摩嘉七郎、摺子義一郎先生等七八名にて日日教授被致侯」

てふ一文を掲げ、人才して時代の弱点を諷刺するの妙に三歎せしめたるも、此時期に在り。福沢論者、中村敬宇、森有礼、西周等の人々に依つて組織せられたる明六社が盛んに欧化主義を鼓吹し、就中最も極端なる改革論者たりし森有礼が「日本語は支那語を待つに非れば到底共用を為す能はず。国家の法令の如きはとても日本語にては言明すべきに非ず、故に日本の普通教育には英語を代用すべし」と論じたるも此時期に在り。余は猶ほ記す。当時余は静岡に在りしが家君は余の為めに自らABCを写して余に与へたることありき。余はいろはを学ぶと共にABCを学ぶべく家君に促がされたり。余に始めて筆取ることを教へたる所謂寺子星の先生は併せて余に英語の発音を教へ、余をしてバーレー万国史の講釈を聴聞せしめたりき。余は論語と英語階梯とを携へて此先生に行き其素読を受けたりき。而して余は当時近隣に英語を教ふる若き先生の任したることを記憶するのみならず、静岡在に川辺村と称する村落あり、此村に任する妙齢なる士族の一女子は女ながらも猶ほ其頃流行したる書生羽織なるものを着外国の書を腋挟みて歩行し而も彼女が余の叔母の友たりしことを記憶せり。是れ明治七八年の事に属す。東京を去る四十六里の静岡にして猶ほ且つ此の如くなりしとせば当時の風習略ぼ察すべからずや。


     日本人民の醍覚(二)

 勿論、此の如く西洋の文明に向つて先走りしたるものは日本人民の全体に取つては真に少数の人に過ぎざりき。そは福沢諭吉の慶応義塾が猶ほ士族の子弟を以て其大部分を占めたるを見ても察し難からざるなり。然れども此少数の人士は実に日本の運命を指導せんと自らも期し、他人よりもしか期せられ、而して実際日本の運命を指導したる人人なりき。彼等が其極瑞なる改革論を実際に行はんとする前途には、言ふまでもなく、多くの障碍ありき。維新の改革に与つて力ありし国学者は彼等を異端外道視せり。漢学者は彼等を以て軽挙妄動して国家を誤るものなりとせり。徳川時代の泰平無事に慣れたる一般の人民は彼等が制度を換へ法律を変ぜんとするを見て恰も魔法を以て国を治めんとするものゝ如く思惟し血税とは人民の血を取つて運上とするものなり、戸籍を調べ、人別を改むるは娘を外国に渡す為なりと唱へて竹槍蓆旗の騒動を起したり。東京の市街を歩みて書籍の売れ行きを見れば中庸は露店に曝され、論語は蜘蛛の網に縛られ、仏書の如きは大般若経の鴻翰なるも其価猶ほ洋書の零本一冊にだも如かざるの観ありしと雖も、翻つて地方に行けば碩学老儒の後進を睥睨して反動の時機来れかしと待設くるものあり。旧例故格の日に頽れて子弟の気風日に疎放に流れんとするを慨する長老あり。武士道の標榜たる剣槍の術、全く廃して小子後生日に柔弱ならんとするを慨する剣客あり。所謂文明流の急進家は其実は猶ほ四面楚歌の声を聴くを免れざりき。然れども彼等は自ら信ぜり。今の時に於て欧米の文明を移植するの外、何の良策あらんや。日本の総ては非なり。欧米の総ては是なり。今日の計唯日本をして欧米たらしむるに在るのみと。彼等の反対党は感情に於ては固より此議論に切歯せり。而れども説に於ては此議論に勝つべきものを有せざりき。進歩党は最少数なり。保守党は最多数なり。されど時代に必要なる智識と学問とは少数党の専有する所なりき。少数党の為す所を危み、其議論に切歯したる多数の人民は自ら如何にして当時に処すべきかを知らず。自ら新時代の謎を解くべき親密の鍵を有せざるを知りしかば、無念ながらも少数党の為す所に任せ、其所謂欧化主義の快馬を馳するに任じて、しばらく之を傍観せざるを得ざりき。斯の如くにして日本は急進党の舞台となれり。かゝる時期に於て基督教が始めて頭を擡げ来りたるは怪しむべきに非ず。当時に於て英学書生の淵藪たりし横浜は嘗て「ダッチ・リフホームド」教会の宣教師ゼームス・バラ氏等の伝道する所なりしが、当時氏を中心として基督教を研究したる幾個の青年は始めて決心して洗礼を受け此に後の日本基督教会の基礎を為すに至れり。余は今之を語るに先ちて先づ維新の当時に於て政治家を苦心せしめたる長崎の耶蘇教騒動に就きて語らざるを得ず。維新の政府は幕軍を破りて王政復古を宜言すると共に、外国交際の己むべからざるを看破し、容易に其幕府打撃の標語たりし撲夷論を抛ちたり。されど彼等は心より外交を好むものに非りしかば、其政治は猶ほ攘夷家の心を以て開港論者の事を行ふに過ぎざりき。而してかゝる口是腹非の政略は長崎の耶蘇教騒動に於て事実として現はれぬ。余は当時の事情を明かにせんが為め羅馬教徒の手に成りたる鮮血遺書と題する書より下文を摘録せんとす。此文の前には先づ長崎附近には幕府の厳重なる禁令ありしに関せず、窃かに祖先の遺訓を奉じて基督教を信ずるものゝ存在したることを記し、此徒の中に於て浦上に住するものが慶応元年三月十七日を以て不意に長崎居留地の羅馬教会に現はれ出でしことを記し、而る後浦上の信徒が仏僧の嫉妬を蒙りて長崎奉行所に訴へられたることを記し、遂に維新の政府が如何に彼等を処したりし乎に及べり。

 日本教会が復活するや直に一の災害こそ出来たれ。そは仏僧が嫉妬の心を生じ、昔時の如く基督教会を圧倒せんと欲すれど、基督教徒は少も弱らず。倍す信仰を固め死者あるも仏僧に告げず、布施を為すこともなさざれば、仏僧は憤怒心頭に発し、浦上の庄屋を説き、近時浦上に於て禁制の邪教を守る者が多く在る由を公儀の奉行所へ訴出さしめたれば一千八百六十七年(慶応三年)三月、不意に浦上の信者は奉行所へ呼出され、厳重なる調を受けて戸主六十名が無理に監獄へ入られしかは、同年十月に至り、西洋諸国の各新聞紙は頻りに此事を論じ、日本政府に向つて人民の宗教の自由を許すべしと切に諷したれど更に効なかりしが、一千八百六十八年(慶応四年)一月四日伏見の戦争に於て徳川の圧制は一日に破れ教会の敵は亡しかど尚ほ其余波ありて、同年四月大政官の日誌を見るに基督教人才責る布告あり、一千八百六十九年(明治二年)七月浦上と長崎の信者百三十名を捕へ教を捨さす為め長崎奉行所に於て惨酷なる拷問に掛け肥前大村五島の端々まで布告して頻に信者を捕へ、四百有余の罪なき人才監款に繋ぎ食物も十分に与へず、非常の苦を見せ、大村監獄に繋がれし百二十三名の信者の中一年の間に饑て死たる者四十五名あり。尤も慶応四年閏五月十八日の布告には諸国の基督教人才悉く捕へ之を分ちて三十四の大名に預け教を捨さす為め強く責めよとありしかど、国事多忙なるより未だ此事の実施なかりしが、漸く国家平定して錐新の初に当り諸寺の仏僧は鬼の如く成り基督教人に逆ひ悉く之を亡さんと欲し百瑞の工夫を以て三年以前の布告実施あらんことを大政官へ頻に請願したり。一千八百七十年一月一日(明治三年十一月十三日)、不意に長崎の港へ諸大名の旗を建てし蒸気船が十三四艘も集り、東都より太政官の渡辺侯が出張ありて長崎の野村知事に参議の達書を渡し、浦上の基督教人才悉く此蒸気船に乗らしむべしと命ぜられしかば野村知事は直に捕人才分配し、四日の間に基督教人才残らず縛らせ命の如く船に乗せたり。此時は実に目も当てられぬ有様にて身体衰労、歩行自由ならざる老人の鬼を欺く捕人に追立られ、蹌踉きながら歩み行く姿、また頑是なき幼児の母と共に縛られ、乳に離て泣き叫ぶ容など他所の見る目も憫れにて遉に情なき拝像教者も涙を浮むる程な れば、同じ基督の道を歩み真の人たる欧羅巴人は胸に釘さす思にて我しらず悲声を揚げ涙に襟を濡すものあり。或は其惨酷無情なるを憤り拳を握て身を振はす者あり。天も亦之を悲み之を憤りたるものにや俄に一天かき曇り、雷鳴東西南北に走り、今や落ちかゝるさまの恐しきに、諸人戦き慄ひながら是は全く無罪の人才苦め天の道に逆ふ故に天の誠しめ給ふ者なりとて各自一室に閉籠り謹み切てありけるが、基督教人は毫も騒がず、何事も天主の思召なり、我等基督の名に由て苦む事は限なき福なり。進め/\と互に励まし、洗礼を受けし日に清めの式に依り祭司より授かりし白布を首に戴き経文を唱ながら進み行く信仰の程こそ有がたけれ。漸く日本教会が復活りて間も無く亦かゝる迫害に遇ひ無残にも消滅するかと深く案ずる程なりしが実に不可思議なるは天主の定めにて吾主基督が宗徒に向ひ若し麦の種が土に陥り腐るに非れば芽を出して実を結ぶ事あたはずと仰せられし如く、日本の昔時の聖人が致命して子孫が芽を出したるものなれは実を結ぶ事は天主の定めにて天主は其僕を守り、其僕を不思議に助け給ふ事あり。見よ今度の事件に就て一千八百七十年一月二日(明治三年十二月一日)長崎に在る欧米諸国の領事官が直に野村知事の許へ書翰を贈り、我は貴国内治の事に聊か関係なしと雖も浦上の人民が宗教の為めに責を受くる点に至て傍観座視するに忍びず、敢て一言の忠告を試む。抑も彼等は何の罪かある。彼等は天の教に順ひ人の道を歩まんとするものなり。然るに之を捕へ之を責むるは天に逆ひ、人に逆ふものにて、文明開化の諸国より嘲笑を受け怨恨を招く種なれは疾く彼等を放免し天に順ひ人に順ひ以て国の安きを保ち給へかしと頻に諌め、横浜に在る欧米諸国の公使は太政官に書を呈し此事の論判を請て遂に、英国公使パークス侯が総代となり岩倉右大臣に向ひ浦上の人民が守る宗教は即ち我等の守る宗教なり。之を責むる事は即ち我等を責むることなり。依て今度の一件は折角交際の条約を結びし欧米諸国と貴国の間に紛議を生ずる基なれば閣下幸に熟考あれと諌めしかど右大臣は容れられず。否な我国の人民は基督教を憎み嫌ふものにて我国の政治は天孫の権を以て固むる故に我等は飽まで基督教人才責めざるを得ざるなりと憚る色なく述べられしかば米国公使ドロン侯が傍より声を発し我等の国は信仰の自由を得て皆基督の教を守る故に今日本国に於て基督教人のに至り閣下と我等の厚誼も変じて仇敵の如く成るならん、真に遺憾の事ならずや。閣下善く思案あれ我等再度忠告せず。抑も人の信仰を検束するは天の理に戻れりと云放ちしかば右大臣不興気にて将さに一場の葛藤を生ぜんとする容なれは外務卿沢信嘉及び寺島宗則の両氏双方を宥め、兎も角も捕縛せし基督教人才別けて諸国の大名に預け、成るたけ叮嚀に扱ひ、親子、夫婦、兄弟の如きは一所に在らしめ追て何分の所置を為すべしとて各国公使を還されしが、此事忽地欧米諸国に響き各新聞紙の記する所となり、一千八百七十一年(明治四年)八月三十一日刊行の米国シンシナチ電報、および其頃の仏国巴里新聞英国「タイムス」等の記者は各自頭脳を絞り、深く此事に裁て論じたり。然れば日本の大名は二百有余年間の習慣に因り基督教人才罪人の如く扱ひ仏僧も亦之を責め頻に我意を逞うしたれば基督数人の艱難一方ならず。想像(おもひやる)さへ憫然にて無理に教を棄てさす為め親子夫婦は離々に此所彼所へ預られ、涙に袖のかはく間もなく、其上食物充分ならねば死する者も多くあり。石州津和野へ送られたる十六人の中に饑て死にたる者十一人あり。尤も是等の甲乙(ひとびと)は寒中裸体にして氷の池へ入れられしかば大に弱はり、僅の食物を以て気力を回復する能はず遂に死したるならん。加賀へ送られたる二百五十名も強く責められ、信仰の固きものは寒中に着類を脱がされ一枚の莚を身に纏ひ監獄の中に振ひながら夜を明す杯、なかなか筆紙に尽くし難き辛苦を嘗めしかど、一人も教を捨つる者なく死して天国の楽に至るもの多くありし。其他長門へ送られたる者、また和州郡山、芸州広島など諸国へ送られたる者、皆な百瑞の責を受けしかど聊も信仰を損することなく却て男気を増し、責むる役人才感服せしめたり。此頃基督教人才責めし役人が教の道理を悟り改心して基督教人と成りし者の多き挙て数へ難し。現に伊勢の天主教会などは此頃基督教人才責めし役人が改心して組立たる教会にて目今盛大なるは能く人の知る所なり。殊に感ずべきは諸国へ送られたる基督教人の中に最も信仰の深き者が看守の隙を窺ひ竊に監獄を脱けて昼夜の別なく急ぎ、大阪の天主堂に来り秘跡を受て復た原の監獄へ帰る者の多く在りし事なり。其頃大阪在留の宣教師が自ら認めし日記を見るに、祝日を考へ機内、四国、九州より五人三人と打連て監獄を脱れ来る者の姓名および模様を委しく認め格別に八十里の旅  して加賀より来りし者が大に労れ歩行も自由ならぬ容子なれば暫く休み養生して帰れと勧めしかど承知せず。否な我等は看守の目を盗み来しものなれば早く帰りて謝すことを急ぐと云ひ、秘跡を受くるや直に立ちて帰りしことを宣教師も感心して認めたり。此等は実に得がたき信者にて昔時の貴き致命人に此して恥ざるものなるべし。

  斯る不思議の信仰に因り、日本教会の上に天主の慈悲が現はれ、王政復古の勅ありて諸国の大名は領地に離れ基督教人才敵視したる仏僧は島津侯の建白に依り仏法廃止令のあらんとする危急存亡の秋に際し、心配一方ならねば基督教人の事は暫らく措て己が身上に狼狽し、漸く歎願して仏法廃止の令を拒(ふせ)ぎしかど、寺領は悉く取上げられ遂に教道職を廃せられ大に世上の信用を失ひ果は生活に苦む姿となれるものも多し。聖路加伝一章五十一節の金言セリヤ聖歌に臂の力を発し驕る者を散らす云々とあるを思ひ起し天主の定めを惧れて悟るべきなり。其後引続きて日本政府は欧米諸国と交際を固め条約を改正する為め英傑を撰んで海外に派遣せらる。此時に当り昔時天主がタマスコに於て敵将ぼロを使徒の中に加へ給ふ如き不思議あらはる。即ち日本政府の海外に派遣せられし英傑は右大臣岩倉具視、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、外務卿寺島宗則、工部卿伊藤博文の諸公卿なりしが、初め右大臣は基督教を駁し恰も教会の敵の如き人なりしに、元来才智衆人に勝れ、曲直を正す事は縄の如く、邪正を照らす事は燭の如き性質なれば、忽ち連理を悟り、世界万国に芳名を轟かさる。そを如何にと云ふに一千八百七十一年(明治四年)十二月二十二日海外派遣の諸公卿は汽船に搭じ日本横浜を出発して米国ワシントン府に渡り、合衆国共和政治の摸様を実見し、名所古跡の縦覧も済み明治四年の暮に米国を出発し、日を経て欧洲に着せらる。是より英仏独の三国を初め其他諸国を回巡する見込にて順路日限など予定せられしが欧洲諸国の各新聞紙は日本貴顕の来着に就きて種々の議論を掲載せし中に倫敦「タイムス」新聞は、特に強く論じて道(いへ)らく今度来着ありし日本の右大臣は曩に日本政府が基督教人才捕へ惨酷を負はせし時、各国公使が百瑞忠告したれども聞入ざりし人なり、殊に長崎の基督教人三千余名を日本政府が捕縛したるは専ら此右大臣の計画に因ると云ふ。之をして信ならしめば、此右大臣は真理の何物たるを知らず。徒らに自己の僻説を主張し、自ら身を誤り、他を誤らしむるものなり、云々と。此論「タイムス」新聞に出るや、、直に英国の人心激動し敢て公教に関係なきぶロテスタン徒の甲乙も黙止する能はず。学士は外務省に書を呈し、今度日本の右大臣来着ありしを幸ひ、我国の外務卿は真理を述て日本の右大臣を諌め教会の兄弟たる日本の基督教人に自由を与へ、今尚は日本各地に残り在る切支丹禁制の高札を取除られんことを望むと云ひ、民選議員も強く此事を論じて外務大書記官に迫りしが、仏国の民選議員も之を聞て忽ち勃起し有名なる論者セネロン侯は特に憤発して日本政府が無罪の基督教人才責むる事は世界の人情に対し大なる不業なり。故に文明開化の国は日本の為めに之を愁ひ之を悲む。希くは欧米諸国の政治家よ。同心協力して日本の政治家を諌め、以て厚意を示すべしと憚る所なく論じ、独乙に於ても亦是と同じく日本の為めに尽くす所ありしかば、右大臣は頴敏(えいびん)なる性質に因て忽ち 真理の在る所を認め、徳川幕府が三百年間の誤を悔み、遠く欧洲より電報を以て日本朝廷に意を奏し切支丹禁制の高札を除き日本監獄に在る基督教人才放免あらせられんことを請願ありしかば朝廷も深く喜び給ひ早速有司に命じ此事の実施あらせられしは明治五年五月なりしが、是上り右大臣の芳名は欧米諸国の四隅に達し過を攻むるに吝(やぶさか)ならざると公明正大なる所置の速かなるに感服せざるものなく、遂に万国の歴史に掲て独り右大臣を賞讃するのみならず、畏くも右大臣を日本人民の代表として日本人民の義あり、勇ある事を賞讃するに至りしは実に日本人民たる者の喜ぶべき事にこそあれ。

思ふに是れ仏国宣教師の手に成りたるものならん乎。行文往々誇張に流れ、想像に過ぐるものありと雖も、而も其記す所の大体に於て事実なるは疑ふべからず。蓋し徳川幕府の威力を以てすと雖も、一旦盛大の域に達したる耶蘇教の信仰を一掃して全く其痕迹を滅するは甚だ難事ならざるを得ず。されば吾人は島原乱後殆んど二世紀の文政十二年に於てすら猶ほ京都に在つて窃かに耶蘇教を侶ずるもののありしことを見るなり。何ぞ況んや従来、此教の藪窟と称せられたる九州に於てをや。長崎附近に於て始めより其信仰を易へず、世々窃に其数義と礼文とを伝へたる人民が幕府の勢既に衰へ、外国人の去来漸く多きに乗じで、忽ち自ら耶蘇教徒たることを告白し、其信者の意外に多きことを以て長崎奉行を驚殺せしめたるもの真に故ありと謂ふべし。而して幕府に取つて代りたる新政府は直ちに此国禁を破りて勃発したる異教徒を処分せざるべからざる任務を負はせられたり。

 

      維新政府の緩和政略、大隈重信の驚歎、最初の新教会

維新政府の政治家が基督教徒に対する処置は始めは脱兎の如く、終は処女の如しと謂つべきものなりき。彼等は始めに於て幕府の政策を継承し、全国各地に「切支丹邪宗門の儀は是迄の通り堅く禁制の事」てふ高札を掲げたり。既にして外国公使より耶蘇教に附する邪(evil)の文字を以てするは不都合なりと難詰せられたるを以て邪の字を刪ることゝし、此一款を改めて左の二款となしたり。

  一 切支丹宗門之儀は是迄御制禁之通固く可相守事

  一 邪宗門之儀は固く禁止之事

されど是れ唯文字を改めたるのみ。彼等は依然として耶蘇教を国禁とするの政策を株守したり。されば浦上村信徒の事あるや先づ大村藩士渡辺昇を長崎に遣はして信徒を捕縛し、禁令を厳にせしめ、尋(つい)で参与木戸準一郎を長崎に遣り、耶蘇教徒として逮捕したる土民三千七百余人才諸藩に配付し、之を説諭して信仰を易へしめんとしたれども彼等は皆刑を畏れず、一人も説諭に従ふものなかりしのみならず、仏国公使等の異論は此時に至つて鋒鉾甚だ鋭かりき。是に於て始めに耶蘇教退治に鋭意なりし政府は方針を一変して教因を赦免し、其帰村することを許し、且金を与へて家屋及び田地を修復するの料に供せしめたり。是実に明治三年の事なりき。即ち維新の政府は耶蘇教に対する迫害を始めて猶ほ未だ三年ならざるに初心を飜へして緩和政略を取りしものなり。
 斯の如くにして長崎近村の耶蘇教騒動は藁火の焚ゆるが如く焚え、藁火の消ゆるが如く消えたり。されど此一事は久しく日本に於て伝道の好機会を捉(つか)むべく待ち設けつゝありし外国宣教師に取つては其勇気を鼓舞すべき実物示教なりき。彼等は是に依りて日本政府の意思の強硬ならざるを知れり。是に依りて耶蘇教が人民の注意する問題となりしことを見たり。是に依りて信教自由の必ずしも事実となりて現はれ難き理想に非ることを察したり。
 彼等は是に依りて日本人民の殉教者たり得べき徳操あることを確めたり。蓋し此の事実は此の事件に依つて最も明白に証せられたるものにして、日本人民の道徳的性格が他の東亜人種に異なることを示したるものなり。当時政府の官吏として此の事件に関係したりし大隈重信は曰へり。

「官の威光を以て、区々たる二人の小女に臨み、厳然として其信仰を棄よと命ずるに何条違背することのあるべきぞと思ひしに、其弱々しげなるにも似ず。不思儀にも毅然として更に動かず。「お上(かみ)」を恐れざる不届物と怒つて弥(いよい)よ強迫すれは弥よ固し。此に於てか余は宗教なるものは到底、政権を以つて動かし難きものなることを発見したり」

と。二八(にはち)の小女を以てして法廷の威厳を恐れず、官吏の叱咤を念とせず、寧ろ死するも其信ずる所を易へず。此の如きは此事件に依つて証明せられたる日本人の道徳的性格なりき。外国宣教師たるもの之を見て何ぞ感謝の念なきを得んや。彼等は時機の既に近づけるを知つて盛んに伝道に勉めたり。彼等を語学の教師として日夕彼等の家に往来したる青年は固より時代的精神たる革新の元気に感染しつゝあり。彼等は社会の旧物が総て一掃せられんとするを見たり。大胆至極なる新議論の先輩に依つて唱へらるゝを見たり。彼等何ぞ遂に新宗教を捉(つか)まずして己(や)まんや。彼等は遂に信仰を告白せり。他の語を以て之を言へば人才網せんとして待設けつつありし外国宣教師の網に罹れり。而して此に横浜に於て日本最初の教会の成立するを見るに至れり。是れ恰も岩倉右府が欧洲に於て其輿論の痛撃に逢ひ留守の政府に電報を発して耶蘇教禁制の高札を撤去せしめたると殆んど同じ時なりき。

 斯の如くにして明治五年三月十日、横浜の外国人居留地たる海岸に於て十一名の会員を以て最初の基督新教会は創立せられたり。(当時日本基督公会と称す、今の海岸教会是なり)。此教会は将来の基督教社会を支ふべき運命を有する人々を其会員名簿に有したりき。即ち押川方義(まさよし)、熊野勇七の如きは其創立者たる十一人の内にして本多庸一は五月を以て入会し、井深梶之助、植村正久も亦此年を以て入会したり。今や歳月は此等の人々をして耶蘇教会の長老先輩たるべく老いしめたりと雖も当時の彼等は春秋に富みたる紅顔の青年なりき。彼等は其若き血に革新の元気を沸騰せしめて精神的の戦場に進むべく決心して起てり。彼等の多くは未だ善く英語を解せざりき。未だ善く神学書を読む能はざりき。されど彼等は天道溯原を読みて早く新しきものに説したるの感あり。熱心なるバラ氏の口を通じて出づる片言交りの日本語説教に於て従来未だ聞くを得ざりし貴きものを聴き得たりと感じたり。日本に現存する総ての旧き信仰に勝れる信仰の甘きを味ひ得たりと思へり。而して喜んで新信仰の味方となれり。彼等の一人たりし本多庸一は自己の経歴を我等に語りて曰へり、余が藩(弘前藩、津軽氏)は朱子学を以て土人の学と定めたれども、余は朱子単に満足する能はざりき。余は固より朱子学の宇宙観(コスモロジイ)の如き高尚なる哲理に就て深く味ひたるには非ず。さる哲理は余の教へられたるものに非ず。余は唯、洒掃応対の末節に汲々たる朱子学の煩瑣なるに満足する能はざりしのみ。されば余は洋学校の庫中に在りて学生の容易に見ることを許されざりし陽明文集、伝習録等を辛うじて借り得て之を読みたり。余は又同じ理由に依つて、熊沢蕃山の集義内外書を読みたり。而して陽明学の朱子学よりもより多く自然なるを喜びたり。余が基督教徒たるに及んで、藩の故老は曰ひき、果然彼れは陽明学の書を読んで先づ邪径に陥りたるが故に更に基督教に陥れりと。此外余は固より特に精神的訓練と云ふ程のものを有せぎりき。余は神仏を信じて之を拝したるものにも非りき。余にして若し当時宗教的礼拝を献げたる或物ありしとせばそは余が藩の名君たりし津軽正信侯の廟ありしのみ。正信侯は我藩第三世の英主にして其廟は弘前の城下を距る三里、岩城山の麓に在り。余は其廟前に跪く毎に自ら敬畏の念を発せざるを得ざりきと。是れ唯一人の経歴のみ。されど当時彼れと共に教会に加はりたる青年の精神的素養は大抵相似たるものにして一人才以て他の人々を類推し得べきなり。最初の教会に関しては奇談殊に多かりき。たとへば其会員の一人は長崎騒動の時の信者にして一旦総ての信者と共に獄中の人となりしが、解放の令ありしとき、偶然にも取残されて猶縲絏の中に呻吟しつゝありき。然るに教会創立の後に至つて司法省の官吏にして信者たりし某が、省中に於て古き帳面を閲みし彼れの猶獄中に在るを発見し、英米の宣教師に依頻し、政府に交渉し、漸くにして自由の身となることを得せしめたるものなりと云ふ。今日に於て之を聞けば殆んど信ず可らざる物語なるも当時は実に斯かる疎漏なる処分もありしなり。又教会に於て執事の職を勤めつゝありし某は、長崎より迯来りたりと称するものにして、信者たる行儀に於て申分なく、善く聖書を読み、総ての集会に出席し、一も非難すべき点なかりしかども、唯彼れの何処より来りしものにして、共郷貫と素生とは如何なるものなりしか何人も之を知るものなかりき。されど馬脚は遂に現はれたり。彼れは仏僧より遣されたる間牒にして教会の秘密を探らん為めに故(ことさ)らに信者を粧(よそほ)ひつゝありしものなりと。彼れは其後再び袈裟を纏ひて立派なる、一個寺の住職に還原したり。


     精神的革命は時代の陰より出づ

 我等をして余り多く閑話を誇らしむること無く要点に向つて進ましめよ。最初の教会に於て青年の多かりしは固よりなり。そは青年に非れば大胆に新しき信仰を告白すること少きは古今の常態なればなり。されど総ての種類の青年が悉く新しき信仰に動きたりと思はゞ是れ事実の重要なる性質を看過したるものなり。試みに新信仰を告白したる当時の青年に就て其境遇を調査せよ。植村正久は幕人の子に非ずや。彼れは幕人の総てが受けたる敗者の苦痛を受けたるものなり。本多庸一は津軽人の子に非ずや。維新の時に於ける津軽の位地と其苦心とを知るものは誰れか彼れが得意ならざる境遇の人なるを疑ふものあらんや。井深梶之助は会津人の子なり。彼は自ら国破山河在の逆境を経験したるものなり。押川方義は伊予松山の人の子なり。松山も亦佐幕党にして今や失意の境遇に在るものなり。新信仰を告白して天下と戦ふべく決心したる青年が揃ひも揃うて時代の順潮に棹すものに非ざりしの一事は当時の史を論ずるものゝ注目せざるべからざる所なり。彼等は浄世の栄華に飽くべき希望を有せざりき。彼等は俗界に於て好位地を有すべき望少かりき。福沢諭吉嘗て当時の人心を語りて曰く

維新政府の基礎が定まると日本国中の士族は無論百姓の子も町人の弟も少しはかり文字でも分る奴は皆役人になりたいと云ふ。仮令ひ役人にならぬでも兎に角に政府に近づいて何か金儲でもしやうと  云ふ熱心で其有様は臭い物に蝿のたかるやうだ。全国の人民、政府に依らねば身を立てる処のないやうに思ふて一身独立と考ふ考は少しもない。偶々外国修業の書生などが帰て来て僕は畢生独立の覚悟で、政府任官は思ひも寄らずなんかんと鹿爪らしく私方へ来て満腹の気焔を吐くものは幾らもある。私は最初から当てにせず宜い加減に聞流して居ると、其独立先生が久しく見へぬ。すると後に聞けば其男はチヤンと何省の書記官になり、運の好い奴は地方官になつて居ると云ふやうな風であつた。

 維新の政府は新世帯の繰租はしには新人物を要するの道理を知りしが故に人才の収攬に就ては固より宏量なりき。凡そ新時代の要求に応ずべき才幹あるの士は、政府の好んで共用を為さしめんとしたる所なりき。されば昨日まで薩長を敵視し、共に天を戴かずとまで決心したる佐幕主義の人と雖も往々にして遽に図を改めて新政府の朝班に列したりき。然(され)ど戦勝者が何程宏量を示すとも、彼等は遂に其自負を棄つること能はず。戦敗者はたとひ戦勝者より優遇せらるゝも猶ほ其自負を毀損せられたるの感なきこと能はず。戦争は既に過去の物語となりたれども戦敗者の心に負へる創痍は未だ全く癒へず。かくて時代を謳歌し、時代と共に進まんとする現世主義の青年が多く戦勝者及び其同趣味の間に出で、時代を批評し、時代と戦はんとする新信仰を懐抱する青年が多く戦敗者の内より出でたるは与(とも)に自然の数なりきと云はざるべからず。総ての精神的革命は多くは時代の陰影より出づ。基督教の日本に植ゑられたる当初の事態も亦此通則に漏れざりしなり。

但し当時と雖も此論旨と矛盾するが如き現象なきに非りき。即ち大久保利通、西郷従道の如き顕職を占めたる薩人の子弟より往々基督教徒を出したるものありしこと是れなり。而も是れ当時在朝者の 間に行はれし所謂貴族的急進主義の一現象にして身を伝達の職に投ずるものに至つては実に失意者の子弟に多かりしなり。


     中村正直論

此時に方(あた)つて若き耶蘇教徒が自己の同主義者、若くは同情者として頼もしきものに思ひたるは嘗て幕府の儒家たりし中村正直なりき。彼れは其人と為り無我の善人好個の先生にして其生活は書斎的なりき。彼れは固より福沢諭吉の如く「ラッパ」を鳴たして聴衆を集むるの術を解せず。新島襄の如く畳の上に死することを屑(いさぎよ)しとせざる有志家的の気胆を有せざりき。彼れは唯博く学んで善く消化したる学者たるに過ぎざりき。彼れは固より物徂徠の如く、独り乾坤を闢(ひら)いて八面敵を斫(き)るの宗祖的技能なきものなりき。然れども彼れは冷々淡々として、而も無遠慮に所信を語るの江戸人的勇気を有せり。先入の為めに偏せず、感情の為めに移されざる江戸人的冷淡を有せり。彼れは極めて聡明なる心を以て極めて冷かに判断し、而かも毫も誇張する所なく、毫も修飾する所なく、毫も躊躇する所なく、所信を語り得るものなり。斯の如き性格を有する彼れは幕府の末造より英国に在つて其文物を観察し、而して其文明の根本に宗教あることを看取せり。彼れは其友人大槻盤渓(ばんけい)の所謂二十年の功を以て研究したる漢籍の内に教へられたる性と天道との教理の基督教中に衣て更に活溌なるを見たり。孔子の教の決して陳腐の物に非ずして現に欧米を風靡する基督教はより高く、より大なる孔子の教なるを見たり。彼れは是に於て其仕ふる所の幕府の亡びて帰朝を余儀なくせられたる後も敢て憚る所なくして基督教に同情を表することを隠さざりき。彼れの愛敬の歌なるものは蓋し当時に於て作られたるものにして彼れが如何に基督教に傾倒したりしかを示すものなり。

        歌敬愛

致愛敬尽愛敬。順境何足言。逆境可錬性。使親非頑囂。何見舜徳盛。使君非殷紂。何見三仁行。西聖瑣刺底。其妻性頑硬。怫意動輙怒。百事悖命令。他人娶若婦。其必謀再嫂。瑣謂此乃福。幸受此暴横.理学根脚堅。試験要風勁。妻気百変動。瑣性一泰定。妻躁情如火。瑣静心如境。祇因愛敬深。後世称為聖。吁嗟此二字。勢力存全勝。愈鉄艦巨[石馬交]。超千軍万乗。況且似鏈鎖。操執合一柄。能懐柔携弐。能馴化梟猿。構兵息奏楚。交悪和局鄭。四海可ー家。六合可同性。 我願今世人。子弟務温清。夫妻善諧和。朋友懇中傚。万国慎交際。信義互問聘。将見景星現。慶事相照映。愛敬尽事親。徳教四海亘。千年口徒誦。今日未見応。学愛敬行愛欲。一人徳兆民慶。小家法大国政。勿怠忽宜二敬聴。此二字神攸命。

 蓋し是より先き久しく日本の人心を支配したる攘夷論は余りに甚しく外人を卑み、余りに甚しく外人の動機を疑猜したるが為めに識者の内に反動を起すことを免れざりき。凡(すなわ)ち横井小楠が先づ良知良能論より演繹して外人と雖も人類なり。之を待つに良心を有するの人類を以てせば彼れ何ぞ我至誠に感悟せざらんやと主張し、人生の同一を基礎として外交を論じたるは先づ此反動に向つて明白なる道理と声とを与へたるものなり。而して中村正直が基督教と孔子の教との調和すべきものたるを発見したるは同じ途上を歩める人心の百尺竿頭更に一歩を転じたるものなり。明治四年猶ほ二十前後の一青年たりし小野梓(あずさ)は世界混一論を作つて音ひき。

  今、宇内の計を為すに、一大合衆政府を建て宇内に望を負ふの賢哲を推し、之をして宇内を総理せしめ大議院を置き、各土の秀才を挙げ公法を確定し、宇内の事務を議し、其政を善くするものは之を勧め、其政を善くせざるものは之を懲らし、大に生民政青の道を起すに如くはなし。始めて宇内の民を挙げて相生じ相養ふの道を得て自主自由の権を伸ぶるを得せしむべきのみ、豈人間の一大楽事に非ずや。(原、漢文、今仮名交りに改む)

 一青年の心にすら此の如き四海同胞主義の生ずるを見る。攘夷主義の反動は此に至つて明かに当時の思潮たりしを知るべきなり。而して中村正直は此思潮を代表するものとして基督教化せられたる儒教主義 − 他の語を以て曰へば儒教を以て説明したる基督教を仮りて、其議論を行(や)るべき基礎とせり。彼れは此点に於てたしかに時代の潮頭に立つものなりき。若き基督教徒が彼れを以て隠然たる首領の観を為したるは怪しむべきに非るなり。而して横浜に基督教会の建てられたると同じ年を以て彼れが外臣某天皇陛下に奉るの書(「外臣某天皇陛下に奉るの書」傍点)を擬草し、匿名を以て之を「新聞雑誌」と称する定期刊行物に掲載し、朝廷、既に欧米の制度文物を採用す、宜しく形而上文明の要素たる耶蘇教を公許するのみならず、之を奨励すべしと論じたるは益々以て彼れが耶蘇教徒の輿望を一身に集めたる所以なりき。

 一波動いて万波動く。少さき耶蘇教会は所有(あらゆる)迫害に抵抗して其活動を始めたり。教会に属する青年の或るものは其邪宗門の徒となりしが為めに養子先きより追はれたり。或る者は其師の義絶する所となれり。されど彼等は屈せざりき。恰も泉の岩を拆(くだ)きて噴出するが如き勢を以て新信仰を受入れたる彼等は所有迫害を念とせずして一直線に其信ずる所を歩めり。野に叫ぶ声は遂に反響を聞きたり。耶蘇教は漸く世人のロに上れり。新奇を好める青年は足近く宣教師の門を訪へり。而して当時、英学の流行したる一事は此勢を助長するに与りてカありき。

 

     安井息軒の「弁妄」(一)

 此新信仰の活動に対して懸念に堪へず、弁妄と題する論文を作つて基督教の妄信なるを論じ、先づ一撃を加へたるものを安井息軒となす。余の静岡に在つて漢学塾に往来して未だ多く耶蘇教を聴かざりし時、余は友人の机上に此書の在るを見、之を一読して其議論に感服し、直ちに筆を把りて、汲々五篇弁妄作。白兵斯道泰山重と題したることありき。是れ今より二十二三年前の事に属す。当時と雖も此書は既に古本屋に於てのみ贖ひ得べき時勢後れの書たりしが故に余は其論旨に感服したるのみ。此書の日本思想史の一時期を代表すべき好個の紀念物たりしには心付かざりしなり。されど今にして思へは此書は実に耶蘇教会が最初に日本に植ゑ付けられたる時に於て先づ蒙りたる非難の声なり。日本の旧き思想を以て新しき信仰を批判したる最も聡明なるものなり。余は此意義に於て此書の甚だ興味あるものたるを知る。請ふ余をして少しく此書の内容に就て論ずる所あらしめよ。

 此書を読まんとして巻を開くものは先づ島津久光の序文に接せざるを得ざるべし。久光曰く

 我邦西洋百工技芸ノ霊巧二服スルモノハ必ズ併セテ耶蘇教ヲ信ジ、併セテ其教ヲ国中二敷カント欲ス。是レ大患タリ。(原、漢文、改めて仮名交りとす、以下之に傚へ)

 当時に於て保守党の代表者とも云ふべき久光に既に日本人民が耶蘇教を歓迎せんと欲するの勢あるを見たり。彼れは此情勢を坐視するに堪へずして起つて之れと戦ふものゝ出でんことを願へり。而して息軒に於て其戦士を発明したり。余は此事実に依つて当時の耶蘇教に既に保守党をして痛心せしむる巷の勢力を有し、若くは有せりと思はるゝに至りたるを察し得るなり。

 島津久光の序文を一読して更に進めば余は此書の附録として載せられたる息軒の共和政治を論ずる文を見る。息軒曰く

  洋学ノ徒、忠孝仁義ノ何物タルヲ知ヲズ。粗(ほ)ボ能ク蟹字ヲ読メバ則チ便(スナハ)チ浮慕艶称シテ至当不易トナシ。其理非成敗ノ在ル所ヲ究(キハ)ムルコト能ハズ。其言悖逆、此ニ至ル、(共和政治ヲ唱フルヲ指スナリ)而シテ自ヲ赤族ノ罪ニ陥ルヲ知ヲズ。故ニ異ヲ好ンデ巳(ヤ)マズ、流レテ耶蘇トナル、耶蘇己マズンバ陥ツテ無君無父ノ人ト為ル。邪説ノ人ヲ惑ハス、阿片ノ歓夢ヲ醸スガ如シ、日ニ其楽ムベキヲ覚へテ而シテ其害ヲ受クルコト既ニ深キヲ知ヲズ。之ヲ侮ント欲スト雖モ復タ及ブベカラズ、慎マザルベケンヤ。

 彼れの眼中に在つては共和政治と耶蘇教とは殆んど同義なり。日本の思想界を今や攪動しつゝある舶来の新主義は其政治たり宗教たるを問はず彼れより云へば共に流を同うする思想なり。此点に於て彼れは総ての新しきものは、単に其新しきが故に之を憎むてふ保守党の習癖を脱せざることを示すものなり。されど更に進んで本論たる五篇に達すれば余は彼れの討論家たる態度の甚だ尊敬すべきものあるを感ぜざること能はず。何となれば彼れは感情に依つて議論を行りたるものに非す。先づ自ら耶蘇教の経典を読み、更に耶蘇教に関する数種の著述を読み、或る程度まで之を咀嚼して而る後痛撃したるものなればなり。

 

      安井息軒の「弁妄」(二)

 

  彼れの耶蘇教に対する智識は固より狭隘なりしと云ひ得べし。そは彼れは蟹行の書を解せず、直ちに自ら外国の神学書哲学書を把つて之を読むこと能はざりければなり。されど彼れの耶蘇教に対する智識は後の井上哲次郎の如く不精確なりしとは云ふべからず。何となれば彼れが善く聖書を読み、其数理の要点を捉むことを得たるは此書の明かに証する所なればなり。余は此一事に依つて彼れの智力が老いて而して衰へざりしに敬服せざること能はず。彼れは此の如くにして先づ自ら基督教を学び、而る後之を批判せり。彼れが最も痛快に非難したるものは旧約書の記事なり。彼れ曰く、

  我レ聞ク神ハ霊アリテ形ナシ、耶和華(エホバ)六日、能ク天地万物ヲ造ル、神焉ヨリ大ナルハ莫シ、乃チ其形幺麼(エウマ)ニシテ人ト相像ル亦奇ナラズヤ。

と是れ創世記の【神人同形説】を非難したるものたり。又曰く

  耶和華ノ亜当(アダム)ヲ造クルヤ塵土(チリ)ヲ聚メテ以テ之ガ質ト為ス。夏姓(エバ)ハ則チ亜当ノ一脇ヲ抜キ、肉ヲ以テ之二実ツ。是レ人ヲ造ル必ズ其材ヲ須(マ)ツナリ。知ラズ天地日月万物ヲ造ル、又何物ヲ以テ之ガ材トナスヤ。

是れ【材料原因】の欠乏に裁て創造論を非難したるものなり。又曰く

  凡ソ生物、蛇最モ狡ナリ。則チ之ヲ造ラサルニ如カンヤ。何スレゾ又蛇ヲ造リ、之ヲシテ夏蛙ヲ誘ヒ、其禁ズル所ノ果ヲ食ハシムルヤ。

是れ罪悪の原因に関して創世記の説く所甚だ詳(つまびら)かならざるものあるを

難詰したるものなり。又曰く

  夏姓、禁ズル所ノ果ヲ食フガ如キハ罪ナシトナサズ。之ヲ罰スルモ亦可ナリ。夏蛙ノ罪ヲ以テシテ併セテ後世ノ婦女ヲ罰シ、之ヲシテ子ヲ産ムコト是レ難カラシム、何ゾ其レ冤(エン)ナルヤ、凡ソ血気アルモノ皆雌雄牝牡アリ。各相配シ以テ其類ヲ蕃(シゲ)クス。彼レ亦何ノ罪ヲ犯シ、其雌ト牝トヲシテ胎孕ノ苦ヲ受ケシムルヤ、仮令へバ夏娃(エバ)ヲシテ禁ズル所ノ果ヲ食ハザラシメバ、将サニ終身子ヲ産マザラントスル耶(ヤ)。則チ複タ塵土ヲ聚メテ人才造ルコトヲ免レズ。何ゾ耶和華(エホバ)ノ煩ラザルヤ。

是れ婦人産子の難を以て罪悪の結果なりとする創世記の説を非難したるものなり。

 彼れは更に進んで洪水に関する揶亜(ノア)の伝説に依れば耶和華は不仁の甚しきものなることを論じ、上古洪水ありしと云ふは支那にも同一の伝説あれば或は真なるべし、されど支那に於ては此洪水は人類を殲滅したりとの伝説なければ揶亜の記事は妄誕に過ぎずと云ひ、耶和華が人類の言語を混淆せしめたりと云ふ記事を笑ひ、耶和華がアブラハム、ヤコブの家庭の小事に干渉するを笑ひ、而して創世記の宇宙説(コスモロジイ)たる大淵説を非難して曰へり。

天気下降シ、地気上騰ス、雨是ニ於テ乎降ル。天ヲ視ルニ蒼々タリ。我又所謂大淵ナルモノ、何処二在ルヲ知ラザルナリ。

 人心は一なり。第十八世紀の仏国哲学者に依つて為されたる純理的、懐疑的の聖書批評と同じものは日本に於て先づ息軒老先生の口を仮りて為されたり。而して余は此議論の着々として当時の耶蘇教義の弱点を指摘したるものあるを認めざる能はず。人或は曰はん。是れ未だ創世記の何物たるを解せざるが為めのみ。創世記は教義と神学の書に非ず。猶太人の間に保存せられたる旧き伝説の一たるに過ぎず。之に向つてかうかうたる理論的批判を加へんとす、是れ寧ろ書籍の性質を誤解したるものなりと。されども当時の外国宣教師はしか教へざりき。彼等は聖書を以て殆んど一首一句も誤謬なき神の示授に成るものなりと教へ、創世記の記事の如きも亦此例に漏れざるものなることを教へたり。余が耶蘇教会に入りたるは此書の出版せられたるより十三年を隔てたる後なるも教会の牧師は猶ほ創世記の記事を以で近時の地質学に矛盾せざるものなりと主張せんと欲して解説甚だ勉めたるものあることを知れり。況んや当時に於てをや。彼等は疑もなく「バーバル・インスピレーション」の説を唱へて敢て異説あるを思はざりしなり。然らば則ち息軒が創世記の妄誕不経を指摘したるは最も善く教会の時弊に適中したるものなり。勿論千九百年間の歴史を有する耶蘇教会は数(しばし)ば同種類の攻撃に逢ひしが故に之に対する解記の如きも、教会に在つては猶ほ嚢中の物を探るが如きの観なきに非ず。外国宣教師は巧みに弁解学の庫中より其青年信徒の疑惑を解くべきものを出して教会内の物論を沈圧し得たるべしと雖も、教会外の青年に在つては此書の為めに動かされて新信仰を軽侮し、敢て其門に近づくことを止めたるものもなきに非るべき歟。

 

   安井息軒の「弁妄」(三)

 読んで後章に至れば彼れの鋭敏なる批評は益(ますま)す痛切なり。其の約瑟(ヤコブ)が七年の饑饉を知りたる記事を難じて

 約瑟能ク七年ノ饑ヲ知レバ、則チ耶和華(エホバ)亦能夕之ヲ知ラン。耶和華安息日ノ例ヲ推シ。嘗テ第七年ヲ以テ安息ノ年−為シ、民ニ其業ヲ勤ムルヲ許サズ。或ハ食フ所ナキヲ恐ル、乃チ曰ク我レ第六年ニ於テ爾ノ為メ二三年ノ食ヲ生ゼント、是レ宇内ノ豊凶、其心ニl在ルナリ。彼レ既ニ天地ノ主宰タリ、則チ宇内ノ民、皆其民ナリ。何ゾ饑ヲ変ジテ豊トナシ之ヲ救ハザル。必ラズ其有ル所ノ財物ヲ竭シテ以テ約瑟ニ就テ米ヲと糶(テキ)セシム、約瑟ヲシテ其名ヲ成サシムルナリ。

と云ひ、モーセの埃及を出づるとき耶和華が埃及王の心をして剛愎(かたくな)ならしめ、紅海に於て埃及の人民を掩殺したるは残忍の甚しきものなりと云ひ、更に耶和華の賞罰が倫を失へるの甚しきことを論じ、

 亜倫(アーロン)、金牛ヲ作リテ之ヲ拝スレバ則チ之ヲ罰シ、隣国他神ニ事フレバ則チ之ヲ滅ボス。哥喇(ハーロ)ノ輩己レニ逆へバ地ヲシテ之ヲ呑マシム。以色列(イスラエル)ノ二女嫁セズ。姉妹相謀リテ其父ヲ酔ハシメ、代ツテ之ト寝ヲ同クス。其既ニ寡スルノ姫、面ヲ帽シ妓ト偽リ以テ男ト淫ス。皆公然子ヲ産ム、其醜トスべキコト禽獣ヨリモ甚シ、而シテ未ダ嘗テ之ヲ罰セズ。是レ淫ヲ縦マニシテ且父母ヲ慢スルヲ許スナリ。

と云へるが如きは筆端火を発するの慨あり。遂に之を断じて曰へり。

 其書ヲ通考スルニ、蓋シ揶亜(ノア)ナルモノ始メテ夭神(ユウシン)ニ事(ツカ)フ。其之ヲ敷衍スル則チ亜拍拉罕(アブラハム)ニ剏(ハジ)マリテ摩西ニ成ル。摩西ハ姦雄ナリ。耶和華ノ威福ヲ張皇シ、以テ民心ヲ蠱惑ス。而シテ後、兵ヲ以テ之ニ加フ。敵国未ダ撃ツベカラズ。則チ曰ク耶和華許サズ。其乗ズベキヲ見レバ則チ曰ク耶和華之ヲ導クト。偃然トシテ其境ヲ拓カンヲ思フ。是ヲ以テ其書未ダ嘗テ他族ニ及バズシテ其記ス所ノ地、亜細亜、阿非利加辺隅ノ堺ニ止マル。是レ其ノ明証ナリ。

是れ既に旧約の時代が国民的偏執の時代なること、旧約の宗教が国民的偏執を主張するものなることを洞見したるものにして眼光真に紙背に徹すと謂つべきなり。
 後れは旧約論を終りて後新約論に入れり。而して先づ耶蘇を以て忠孝の道を軽んずるものなりと為せり。彼れ曰く

 耶蘇曰く、父母ヲ愛スルコト我ニ過ギタルハ我ニ宜シカヲズ。其子女ヲ愛スルコト我ニ過ギタルモ我ニ宜シカラズト。耶蘇方(マ)サニ衆ト語ル、其母兄弟ト外リ立チテ之ト語テント欲ス。或ヒト之ニ告グ。耶蘇日ク何者ヲ我母ト為シ、何者ヲ我兄弟ト為スト。蓋シ其徒ニ示スニ至公ヲ以テセント欲シテ、而シテ自ヲ悖逆ニ陥ルコトヲ知ヲザルナリ。其徒父死スルモノアリ。往テ之ヲ葬ラント請フ、耶蘇許サズシテ曰ク、爾ハ我ニ従ヘ、彼ノ死者ノ其死者ヲ葬ルニ任セヨト。言フハ父ト父ヲ葬ルモノト同ジク尽クルニ期ス。爾我ニ従へバ則チ其霊永ク死セズト云フナリ。人ニ君タル者ニ至ツテハ則チ眇然之ヲ(バウシ)ス。未ダ嘗テ之ニ事フル所以ノ道ヲ説カズ。唯未ダ嘗テ之ニ事フル所以ノ道ヲ説カザルノミナラズ。国君己ヲ信ゼサル者アレバ之ヲ称シテ敵ト為シ必ズ之ニ克チテ己二服従セシメント欲ス。而シテ税吏ヲ讐視スルコト盗賊ト同ジ。其源ニ溯ルニ則チ是レ其君ヲ讐視スルナリ。蓋シ彼レ自ラ称シテ天主ノ子ト為ス。則チ天下己ヨヨリ尊キモノナシ。其人主ヲ蔑視スル固ヨリ宜ナリ。故ニ其徒北拉魯(ペテロ)、己ヲ論シ王ヲ拝スル者ニ答へテ曰ク我レハ地下ノ王ト神トヲ知ラズ。唯天ニ在ル上帝ヲ崇拝ス。我レ大道積ム所ノ金ヲ以テ税ヲ輪シテ王ニ与へ、之ヲ尊ンデ主ト為ス。而シテ之ニ向ツテ膝ヲ届セズ。是レ税ヲ輪シ主ト為スヲ以テ己レ息ヲ君二施スト為スナり。鳴呼聖人忠孝ヲ以テ教ヲ立ツ、道ノ行ハレザルニ当ツテヤ猶ホ君ト父トヲ弑スルモノアリ。今ヤ君父ヲ以テ仮ト為シ、別ニ真君真父ノ君父ヨリ尊キモノアリ。耶蘇ノ故ヲ以テ罪ヲ仮君父ニ獲(ウ)レバ真君父ハ深ク之ヲ愛シ、之ガ為メニ天上ノ栄ヲ増スト為ス。其罪ヲ受クル益ス甚シケレパ、栄タル益ス大ナリ。之ヲ以テ民ヲ導ク、民復タ畏憚スル所ナシ。凡ソ以テ己ヲ利スベキモノ何事力為サヾラン。是ヲ以テ其教ヲ奉ズルモノ寧(ムシ)ロ君父ニ背(ソム)クモ敢テ耶蘇ノ教ニ違ハズ。寧ロ肉身百年ノ命ヲ害スルモ、敢テ天上無窮ノ栄ヲ失ハザラントス。蠱惑此ニ至レバ、刑罸以テ之ヲ威(オド)スニ足ラズ。爵禄以テ之ヲ勧ムニ足ラズ、之ガ君父タルモノ亦難カラズヤ。

 羅馬(ローマ)の賢明なる諸帝も亦嘗て彼れと同じ批判を以て耶蘇教徒を苦しめたり。博士井上哲次郎も彼れに後るゝこと十余年、同じ論鋒を以て耶蘇教の国躰に合せず教育に害あることを非難せり。独り此の如き非難の学者の間に存するのみならず、実際耶蘇教徒は嘗て数(しばし)ば神の名に依りて王と戦へり。清教徒の歴史は明かに耶蘇教が時として王を弑するものゝ辞柄となり得ることを示すものなり。天草の騒動は耶蘇教が時として謀叛人の勇気を励まし得ることを示すものなり。されど是を以て耶蘇教を責むるは蓋し酷論たるを免れず、試みに思へ孟子は性善説の唱導者にして口に仁義を説くことを絶たざりしものなり。されど彼れは一夫紂を誅するの論を為して後世の纂奪者に口実を与へたるに非ずや。書経は漢学者に依りて古聖先生の大経大法を記すものなりと称せらる。されど其禅譲、放伐の記事は数ば後世の其君父を弑するものに辞柄を与へたるに非ずや。仏教は柔和忍辱(にんにく)を説くものなり。されど一向宗の徒は数ば英数義を借りて君父に抗したるに非ずや。頼山陽は北条氏の禅学を以て其不忠不孝を悔ゆる良心を殺したるものなりと説きしに非ずや。老荘の教理は聖人死なずんば大盗己まず、斗を焚き衡を折りて民始めて争はずと説くものにして正に之れ疑もなき無政府主義に非ずや。されど余は未だ嘗て聡明なる政治家が政府の力を以て此の無政府主義を鎮圧せんとしたることを聞かざるなり。何となれば主義と実行との間には鴻溝(こうこう)あればなり。マコレー卿の嘗て曰へるが如く総ての教理、総ての哲学は若し其一端を取つて論理的に其趨(おもむ)く所を窮詰せば何物か現社会の秩序を破壊するものならざらん。然れども其実は是れ一点の星火を見て直ちに林を焼くの危険ありと感ずるの類のみ。君臣、父子の倫常にして若し自ら其堤防を堅くし自ら其根底に培ひ内より破るゝことなからんには百の耶蘇教ありと雖も決して之を恐るゝの要なきなり。況(いは)んや君臣父子の義にして若し天の定めたる倫教ならんには耶蘇教は天を敬するを教ふるものなり。天を敬するものは天の定めたる倫教を重んずべきなり。されば余は耶蘇教は君臣、父子の義を以て仮なりとするものなりてふ息軒先生の説に敬服する能はず、君臣、父子の倫を以て単に人間の相互的関係に成れりとする無宗教の道徳は或は之を仮なりとするものなりとも云ふを得べし。君臣父子の倫を以て天の定めたるものなりと主張するものは是れ豈其仮に非ずして異なるを主張するものに非ずや。
 されば息軒の不忠不孝を以て耶蘇教を責めたるは耶蘇教徒に取つては謂はれなき非難なりと曰はざるべからず。而も是れ独り彼れの声に非ず。総ての耶蘇教反対家の声なり。余は嘗て明季に於て耶蘇教の支部に輸入せられたるとき多くの儒生が之を非難したる論文を集めたるものを読みたり。而して其非難の焼点は実に此に在りしことを知れり。余は又水藩の士会沢伯民が幕府の末に於て耶蘇教を非難したる書を見たり。而して其趣意も亦同じきことを知れり。唯彼れの博弁強辞、論鋒甚だ鋭利なるに如(し)かざるのみ。此故に彼れの議論はたとひ誤謬のものたるにもせよ、猶ほ代表的論弁たるを失はずと云ふべきなり。
 然れども彼れが此の如く危険なるものなりとして耶蘇教を見るに至りたるには教理以外、更に他の理由あるに似たり。何となれは此書の示す所に依れば彼れの眼中に映じたる耶蘇教徒は固執的、破壊的、迷信的のものにして到る処に争論の種子を蒔(ま)くものなれはなり。彼れ曰く

 耶和華、自ヲ嫉妬ノ神ト称シ、其徒ノ他神ヲ拝スルヲ許サズ。耶蘇益(マスマ)ス其法ヲ厳ニシ誓ツテ他神ヲ滅セント欲ス。故二亦曰ク、我ノ来ルヤ世ヲ平カニスルニ非ズ。乃チ乱ヲ興スノミ、今一タビ其教ヲ奉ズレバ神祖而下、聖君賢佐忠臣烈士ノ廟、尽夕之ヲ毀タザルヲ得ズ。而シテ下、士庶ニ至ルマデ亦其祖禰(ソビ)ヲ祭ルヲ得ズ。是豈我忠厚ノ俗ノ能ク忍ンデ為ス所ナランヤ。
 我聞ク、其教ヲ奉ズルモノ西洋既ニ新旧ニ岐(ワカ)レテ之ヲ二ニス。米利堅(メリケン)則チ分レテ二十五トナル。彼此(ヒシ)相軋り毫モ仮借セズ。他故ヲ以テ争フ者ハ和ヲ乞へパ則チ之ヲ聴(ユル)ス。教ヲ以テ兵ヲ構フレバ肯(アヘ)テ復タ其降ヲ納レズ。必ズ其類ヲ殲シテ止ム。夫(ソ)レ所謂教ハ将(マ)サニ以テ其民ヲ治メテ而シテ天下ヲ平ニセントスルナリ。今ヤ教ヲ争ヒ相殺シ以テ其類ヲ殲ニスルニ至ル。何ゾ教ヲ以テ為サン。且彼レ同ジク耶蘇ヲ宗トス其争フ所蓋シ分毫ノ差ノミ。然モ猶ホ相殺シテ相仮借セズ。俘屠ハ則チ彼レノ所謂像教ナルモノナリ。其力ヲ尽シテ攻撃シ以テ必ズ之ヲ滅セント欲スル所ナラン。而シテ我又神道者流アリ。其力微ナリト雖モ亦皆ナ鬼神ヲ奉ズルヲ以テ教ト為スモノナリ。三者並ビ立タバ、斯民ノ争、豈窮己(キユウキ)アランヤ。

 是れ十字軍時代、若くは宗教改革時代、若くはロヨラ、サヴィエー時代の耶蘇教を以て第十九世紀の耶蘇教を見るものなり。是れ神の名を以て異端を唱ふるものを焚殺(ふんさつ)し、若くは神の名を以て異教民を誅殺したる時代の耶蘇教を以て自由寛容を主義とする第十九世紀の耶蘇教を見るものなり。此の如き見解を以て耶蘇教徒を見、而して其教理を論ず。焉(な)んぞ其危険を感ぜざるを得んや。天保の名儒古賀(どうあん)は嘗て海防臆測を著はし宗教戦争の時代が欧米に於て既に過去のものとなりたることを説きたりき。余は菴の卓見に敬服すると共に菴以後の唯一人たりし息軒先生の遂に時代を解するの眼なかりしことを惜しまざるを得ざるなり。
 然れども此書の短所は時代を解せず。時代の基督教を解せざるに在りて、其聖書批評の技倆に在らず。其耶蘇の十字架に就きたるは好んで自ら死地に赴きたるに非るを論じて

 耶蘇若シ身ヲ殺シテ以テ罪ヲ贖(アガナ)ハント欲セバ、将サニ刑セテレントスルノ夕ニ臨ミテ当(マサ)ニ坦然トシテ憂悶スル所ナカルべキノミ。而シテ之ガ為メニ々然トシテ終夕寝スル能ハズ。其徒ヲ喚起シテ強テ之ト語レリ。況ンヤ其死ハ猶太(ユダ)三十両銀ヲ利シテ之ヲ売ルニ成リテ耶蘇自ラ之二就タニ非ルヲヤ。耶蘇猶太ノ将サニ己ヲ売ラントスルヲ知ヲズ、之ヲ択ンデ十二使徒ノ数二充(ミ)ツ其不智甚シ。又焉ンゾ己ノ血ヲ流スヲ以テ衆ノ罪ヲ贖フベキヲ知ランヤ。

と云ひ耶蘇の死を以て已むを得ざるに出でたるものなりとして其贖罪説の道理なきものたることを証したるが如き、更に永生に関する意義の前後矛盾するものあるを説きて

 耶蘇既ニ死シテ復タ蘇(ヨミガヘ)リ其徒ト相見ルニ至ツテハ顕(アキラ)威カニ其曾テ説ク所ト相戻ル。夫レ耶蘇云フ所ノ永生不死ナルモノハ特ニ其霊ヲ謂フノミ。肉身ノ如キハ則(スナハ)チ一タビ壊ルレバ得テ復スベカラズ。耶蘇此ヲ以テ其徒ヲ誘ヒ、而シテ独リ自ラ其身ヲ蘇ス、豈肉身ヲ貴ビテ以テ其霊ヲ賤シムニ非ズ耶(ヤ)。且耶蘇将サニ天ニ昇テントス。天ハ空ナルモノノミ。則チ能ク肉身ヲ蘇ラスルモ将夕何ノ足ヲ着クル所ゾ。夫ノ肉身ヲ須(モチ)ヰザル亦明ナリ。故ニ耶蘇ノ将サニ死セントスルヤ大声喊(?)ンデ曰ク、父ヨ、児、重魂ヲ托シテ父ニ交(ワタ)スト。何ゾ曾テ肉身ヲ交スト云ハンヤ。仮令(タトヘ)バ耶蘇ヲシテ且肉身ヲ蘇ラシ以テ其神ヲ顕サントセバ宜シク広ク世人ト相交り之ヲシテ益ス其教ヲ顕ゼシムベシ、而シテ其徒及ビ諸老婆トノミ語ル、世人固(モト)ヨリ疑ハザルヲ得ザルナリ。何ゾ耶蘇ノ人情二通ゼザルヤ。

と云ひたるが如き今日に在りても常識を以て聖書を読むものゝしか感ぜざるを得ざる所にして、彼れの眼光はたしかに所謂正統教理の窮所を衝きたりと謂つべし。

 

     安井息軒の宇宙観


 余は弁妄に関する批評を終るに臨んで息軒先生の宇宙観を紹介せざるべからず。蓋し儒教が組織整然たる哲学の形を取りたるは中庸の記者に始まれり。中庸の記者は宇宙の法則と人性とを同一のものとし、宇宙の法則は具体的となりて人性に現はるゝものなれば、人性を鍛錬して宇宙と矛盾することなきに至つて人間より云へば人生の目的を達し、宇宙より云へば宇宙の目的を達したるものなりとす。是れ則ち性と道とを一として以て天道としたるものなり。而して此の如き哲学的見解を思想の出発点とするときは、自ら分れて二種の哲学組織を生ぜざるを得ず。即ち性を以て宇宙の発展なりと説くときは宇宙は霊なり。宇宙を以て性の源とする時は性は物なり。他の語を以て之を曰へば中庸の哲学は天道に重きを置くときは唯物論となり易く、牲に重きを置けば唯心論となり易しとす。今仮りに此二の傾向が儒学に免れざるものなりとして、而して古今の儒学を評するに王陽明の如きは即ち唯心論に傾きたるものにして息軒の如きは即ち唯物論に傾きたるには非る歟。何を以て之を言ふや。請ふ彼れが如何に万物の根源を説きたる乎(か)を見よ。彼れ曰く

 地、五星ト皆太陽ヲ以テ心ト為シ、日夜虚空中ニ運転ス。各其度アリ。地ハ則チ日ニ一度転ジ、三百六十有六転ジテ乃(スナハ)チ能ク太陽ヲ一周ス。是ヲ一歳ト為ス。四時、十二月、二十四節、七十二候アリ、皆太陽ノ遠近ヲ以テ之ガ名ト為ス。万物以テ長ジ以テ成り以テ収マル。英気ノ及バザル所ハ、地物ヲ生ズル能ハズ。万古一定シテ未ダ嘗(カツ)テ其度ヲ変ゼズ。然ラバ則チ地球ハ太陽之ガ主タリ、既ニ之ガ主タリ。而シテ能ク其生ズル所ノ物ヲ栄枯盛衰ス。則チ太陽地球ヲ造成スト謂フモ亦可ナリ。其五星ニ於ケルモ亦当サニ然ルベキノミ。積灰蠅ヲ生ジ、腐水鱗ヲ生ズ。此ヲ以テ之ヲ推スニ生民ノ初メ、蓋シ亦気化ノミ。其陽気ヲ禀(ウ)クルモノ、男ト為り、陰気ヲ禀クルモノ女トナル。男女既ニ判ル、各相配シテ以テ其類ヲ蕃(フヤ)ス物皆然(シカ)り、人何ゾ独リ然ラザラン。…月、地球ヲ以テ心ト為ス、二十九日有奇ヲ以テ其外ヲ一周ス。乃チ天ノ地ヲ衛(マモ)ル所以ナリ。故ニ能ク其陰類ヲ感ズ。互物ノ肉月ニ随テ盈(エイキヨ)ス。而シテ潮汐ノ進退、其出没ニ従フ。是レ其明証ナり。婦人モ亦陰類ナり。故ニ其経水月ニ必ズ一タビ行ル。而シテ其胎ニ受ル歳ニ只四月、月ニ只三日、其歳ト経行浄後トヲ以テ之ガ度ト為ス。則チ月ノ能ク男女ヲ参成スル亦何ゾ疑ハンヤ。…故ニ所謂(イハユル)霊ハ肉身ト偕ニ生ジ、其歯(ヨハヒ)ニ従ツテ増ス、猶ホ肉身ノ年ヲ逐(オ)フテ長ズルガ如シ。父母先ヅ肉身ヲ与へテ然ル後耶和華人々ニ霊ヲ授クルニ非ルナリ。

 彼れは未だ嘗て泰西の唯物論を聞かざる也。未だ嘗てペインを読まざりし也。未だ嘗てチンダル、ハックスレーを読まざりし也。而も彼れの哲学は物と霊との間に気化てふ橋梁を化して之を混一せんとするものなり。純然たる唯物論なり。殊に彼れの性論に至つては最も明かに唯物論を応用したるものなり。彼れ曰く

  霊ノ知覚ハ肉身ヲ主トス、故ニ口ノ味二於ケル、目ノ色二於ケル、耳ノ声ニ於ケル、鼻ノ臭ニ於ケル、四躰ノ安逸ニ於ケル物先ヅ之ト接シテ後、霊始メテ能ク之ヲ知ル。耶蘇、肉身ヲ以テ冥頑知ナキモノト為スト雖モ、亦未ダ耳ヲ首ハシメテ日ヲ聴カシムルコト能ハズ。肉身既ニ壊レテ、物ノ接スル所ナケレバ即チ五慾七情固(モト)ヨリ動ク所ナキナリ。而シテ其教ヲ述ブルモノ(耶蘇ノ教ヲ述ブルモノゝ意ナリ)猶ホ強テ之ヲ説イテ曰ク、夢ニ苦楽アレバ則チ霊亦必ズ苦楽アラント。知ヲズ。夢ノ感ズル所ハ亦肉身ニ因テ発ス。世未ダ夢ニ首モテ行キテ足モテ執(ト)ルモノアルヲ聞カズ。何トナレバ即チ肉身ノ必ズ無キ所、夢モ亦至ラザレバナリ。然ラバ即チ情慾ハ肉身ニ因ツテ動キ、苦楽ハ情慾ヨリ生ズ。霊既ニ肉身ト離ル、則チ其苦楽ナキ亦明カナリ。

 即ち死後の霊魂なるものなし、たとひ有りとするも、苦楽なるものなしと説くものなり。余は彼れの心が著しく唯物的にして且現世的なるを見る。夫れ彼れは当時に在つて固より時世の圏外に逍遙せる隠君子なりき。固より旧時代の代表者にして新時代を解するものに非りき。されど、其議論の唯物的、現世的なるは恰も時代の半面と相呼吸するものゝ如く然り。何ぞ知らん浮世の風は此老先生の閑居をも訪ひて其心を誘ひしに非ることを。


     新島襄論


 息軒の論文は当時の智識を水平として之を評すれば固より非凡の傑作なりき。其聖書に関する批評の如きは固より耶蘇教徒をして深く自己の信仰を吟味せしむるに足れるものなりき。されど今や饑渇の如く新主義を追求したる青年は此の如き一老儒の議論に傾聴す可き態度にてあらざりき。彼等は先づ深き信仰を以て泰西文明を敬長せり。而して耶蘇教を以て此文明の支柱なりと信ぜり。彼等は一冊の書に動されんには余り多く泰西の文明を信じたりき。彼等は一老儒の論文に潜心せんには余り多く多忙なりき。何となれば外国宣教師は彼等の心が耶蘇教の信仰に傾きたるを見て、絶えず之れに宗教的練習を与へてしきりに其信仰の培養発達を計りたればなり。されば老儒の丹精に成りたる折角の著述も耶蘇教の流れを阻止する為めにほ殆んど無用の観なきに非りき。かくて若き教会は日に発達して、各地に新しき信者を加へたる時に方(あた)つて新島裏は米国に於てアマスト大学を卒業し、組合教会の宣教師となり、其寤寐(ごび)に忘るゝこと能はざりし日本に帰りて伝道の業を始めたり。
 新島襄は上野(かうづけ)安中の藩士なり。後れは日本の人心が世界の大勢に攪醒せられ「いでや身を挺して海外に赴き、観国の壮挙に従事せはや」との慾望、有為なる青年の心を挑発しつゝありし維新前に於て当時の進歩的政治家板倉勝静(備中松山藩主)の周旋に依り、藩主と父母の黙諾を得て脱藩潜航の手段を取り、米国に航したるものなり。彼れ自ら当時の事を語りて云へり。

 予一日江戸の市中を散歩せし時、偶々(たまたま)玉島航海中、(是より先き彼は旧侯の親戚松山侯の持船なる小蒸気船に乗じ江戸と中国玉島の間を航したることあり) の一友に邂逅せしが、彼告ぐるに君公の汽船三日を出でずして箱館に向ひ抜錨すべきを以てし且つ、予に同行を促せり。こは唯一時の情誼的勧誘なりしと雖も、予に取りては決して興味なき問題にあらざりき。かくて友人と袂を別ちし後、新なる望の光は雷の如く我心に閃めき終に箱舘渡海を好機会として年来の宿志たる海外に出づるの企望を実行せばやと、心窃に決する所ありき。然れども如何にして此志望を達すべきか。旧侯に謀るも到底此行を許るさるべくも見へず。故に余は先づ予の胸中を松山侯に告げ、旧侯及び父母には此事を知らしめずして今回の企図を成就せんと欲し、直に松山侯の寵臣某を訪ひ事情を明かして懇願せしに、嘗てより相識(あひし)れる間柄なりしかば、大に其企図を賞賛し、予の請を容(い)れ即刻藩邸に赴き藩侯に告ぐるに実情を以てせしかば松山侯も深く予の志を嘉(よ)みせられ、予の藩主に使者を送り、予をして自由の身たらしめんとし給へり。かゝる懇切なる使者に接して藩主も否(いな)むに由(よし)なく、終に予を許して自由の身となし給ひければ、茲に始めて予の計画も漸く其緒に付き、箱舘航行を妨ぐべき何等の障碍をも見ざるに至れり。父は此報を耳にするや親子の情として予の航海を欲せざりし者の如くなりしと雖も既に旧侯の命令ありたる後なれば今更予を留むるに由なかりき。此事の決定後二日にして祖母及び愛姉の尽力に依り旅装全く整ひしかは祖父は予の知己朋友を招きて此行を壮
んにせんが為めに小宴を張れり。主客席定まるや、祖父は先づ酌む
に水盃を以てし再び相見ることの難きを語る、一座愁然として頭を
挙ぐるものなく、唯予と祖父とのみ呆然として相対せり。祖父は胸
中涙を以て塞がれん斗(ばか)りなりしと雖も尚ほ強て笑を頬辺に湛へ、予
も亦敢て悲哀の情を表さゞりき。宴終るや祖父は予に告げて曰く、

爾の将来は恰も百花爛漫たる山頂を攀(のぼ)挙るが如し、其快や名状すべか
らず。何等恐怖の念を抱くことなく其志す所に向つて勇進すべしと。
予は祖父よりかゝる忠言を耳せんとは夢想だもせざる所なり。然る
に今や此勇壮なる別辞に接して予の勇気は茲に一倍し感恩の情を以
て祖父を拝し、父母愛姉及び一座の知己友人等に別を告げ宿昔の希
望たる世界を見ずんば再び家郷に帰らずとの決心を以て多年住慣れ
たる我家を後にし万里孤客の身とはなれり。

是れ正に成島柳北が、半生志業一難成。怒気如兵夜有声。墨海風濤
紅海月。偏舟何日載2吾行1。と歌ひ、慶応義塾がウエブスターの大辞
書を得て之を珍蔵したる時にして、彼れは侯禽時鳥の四囲の光景に感
ずるが如く時代精神に感じたりしなり。彼れは斯くの如くして成功し
たる
吉田松陰となりて始めて米国の地を踏みたり。発する時歌ふらく

武士(ものゝふ)の思立田(おもひたつた)の山楓(もみぢ)錦着ずして帰るものかは
一襲衣三尺剣。回頭世事思悠々。
男児自有2蓬桑志1。2五洲1都不休。

是豈宗教巡礼者の口吻ならんや。彼れは維新前の所謂志士の心を以て
五洲観国を思立ちたるなり。
 されど斯の如き壮心雄図も故国の革命を見ては何ぞ撫然たらざるを
得んや。彼れの米国に着して未だ久しからざるに彼れは幕軍の薩長二
藩兵に破られたる報知を得たり。安中藩の首鼠両端を懐きて為す所な
く空しく人後に落ちたるを聞けり。彼れの保護者たりし松山侯の悲惨
なる運命に就きて開きたり。彼れは早く既に功名心の氷の如くなるを
感じたり。而して彼れを保護し、彼れを教育したるハーデー氏の家庭
は心寂しき彼れをして深く耶蘇教徒の温情を感ぜしめたり。自由と民
政の耶蘇教国たりし当時の米国的感化は彼れをして自由の使徒、民政
の使徒、耶蘇教の使徒として其新運命を故国に試むべく決心せしめた
 彼れが日本耶蘇教会の伝道者中に於て特に異彩を放ちたる所以は彼
れが有志家たる木地(きぢ)に耶蘇教の訓練を加へたるに在り。彼は耶蘇教の訓練を受けざる前に於て既に日本武士の醇乎たるものなりき。彼れの初めて米国に航せしとき、船中に在りて自ら武士の品位を害すべき羞辱を蒙れりと感ずるや、彼れは憤慨して刀を把り面目の為めに死せんと欲したることあり。船中の賤役を課せられしとき過つて船長の食匙を海中に投じたることありしに彼れは毫も隠す所なく、船長の室に至り形容を以て自己の過失を謝し、自己の携帯せる金銭を尽く出し賠償として受領せんことを請ひしことあり。上海に於て支那訳の聖書を買はんと欲し、船長の許に所持の短刀を携へ行きて之れを米貨八弗にて購求せんことを請ひ其の快諾を得て始めて欣然として之れを買ひしこともあり。其已むを得ざる境遇よりハーデー氏の庇護を受くる時に当りても彼れは成るべく自己の武士的体面を維持せんと欲し、恩に狎れて必要以外の物を請ふが如きこと無かりき。此の如くにして彼れは其素質に於て既に雄心烈志の壮士なりき。面目を重んじ、独立を尊び、気節を挫かざるは彼れが日本に在りし昔しの家庭に於ても、其交友に於ても、主として把持したる道徳にして、此道徳は米国に植ゑらるゝに及んで熱心なる耶蘇教徒となり、之れと共に熱心なる自由の信者となり、之れと共に熱心なる民政の信者となりたり。是れ彼れが他の伝道者と撰を異にする所以にして、又其帰朝して少しく手腕を伸はすに及んで耶蘇教趣味の青年が渇仰尊信して置かざりし所以なり。
 果して然らば怪しむこと勿れ。彼れが始めて日本新政府の使節たりし岩倉、大久保、木戸等の一行に会せし時、日本在来の慣習に依りて此等の長上の前に平伏頓首するの礼を取らず、却て米国風なる平民的の礼法を取らんと欲したることを。是れ彼れの如き性格より自然に生ずべき決心なりき。此時彼れは又日本政府の公金に依りて留学し居れる十二名の書生と同様に取扱はるゝことを欲せざる旨を公言したりき。そは彼れは自ら自由の国に育ちたる独立の紳士なりと信じたればなり。彼れの胸中に於で此感の如何に強かりしかは彼れが当時フリント氏に寄せたる書簡に於て最も明白に現はれたり。彼れ曰く

  過日森公使がハーデイー氏に会見せられし時、今日迄予の教育のために消費したる費用の目録を請はれしを以て或はハーディー夫人に今日迄の予に対する失費を償還せらるゝ事なきかを懸念せり。予はハーデイー氏が其目録を渡さるゝなからんことを希望す。若し一朝公使の手より凡ての失費を支弁せらるゝが如きことあらば予は日本政府の束縛を免るゝ能はざるに至らん。予は自由なる日本平民として主の御旨をなさんが為めに一身を献げまつらんのみ。故にハーディー氏に一刻も早く会見し此事情を陳せんことを希ふ。予は主が此問題に対して賢明慎重なる判断力を我等に授け玉はんことを祈る。

 米国的自由独立の精神が深く彼れを感化したること察すべきなり。彼れは斯の如き素養と斯の如き抱負とを以て絶えて久しき故国を訪ひぬ。


     矛盾したる社会的現象

 余は此処に著しき社会的対照の存するを知る。見よ此時に方(あた)りて日本の政治界に翔しつゝありし青年政治家伊藤博文は欧洲文明の中心たるパリ市に於て早く既に其風流の遊戯を縦にしつゝありしに非ずや。
 岩倉大使の一行巴里に着す。随員某蝙蝠傘屋に至り傘を需む。店頭美人あり、芳紀十七八、顧客を迎へ問ふて曰く君は日本人なりや。某答へて曰く然り。曰く然らばモッシェル伊藤を知るか。曰く伊藤は余等と同行なるが、阿嬢の伊藤を知る所以は何ぞや。美人笑ふて答へず。某大に歎じて曰く何ぞ博文の神速なるや。(明治豪傑譚)

 成島柳北は其東京の傾斜を記したる一小冊に於て雄藩の所謂政治家が戦勝者たる勢に乗じ到る処の阿嬌を悩まし去つて大に旧江戸の風紀を紊乱したることを諷したるが、今や彼等は得意揚々として虚栄の九十春光に酔へり。而して見よ。彼等の隣には自ら生涯、世界に安住の所なき伝道者たらんと期し、密室に跪きて神に祈りつゝあるものありしに非ずや。薩長氏は日本の歴史に於て素より大なる使命を有しき。されど彼等は今や其使命を遂げたり。而して所謂歓楽極まつて哀情多きの状なき能はざりき。而して戦敗者として社会の影に投げられたるものゝ子、若しくは之れと同臭味の或青年は眼を事業と功利の外に放つて日本の精神的革命に就きて前途の光を望みつゝありき。彼処には桃の夭々たる春光あり、此処には一陽来復を期する冬の野あり。余は此社会的対照を看過する能はざるなり。

     花岡山盟約

 此の如き社会的対照の生ずる重(お)もなる原因は人心に存する反動の法則に帰せざるを得ず。而して此反動の法則が最も明白なる事実となりて現はれしものを熊本に於ける花岡山盟約の一事なりとす。此事実たる新島襄の帰朝を隔つる纔かに一年余の後に於て起りたる出来事にして小さき日本の耶蘇教会は今や殆んど歩々吉兆を告ぐるが如き不思議の光景を見つゝありしなり。
 何を以て花岡山盟約の一事は人心に存する反動の法則に帰すべしと云ふや。読者請ふらくは余を以て余りに多く歴史の鎖(チエイン)に重きを置くものなりとせざらんことを。余と雖も人事を説明するに単に原因、結果と云ひ若くは正動、反動と云ふが如き形器的原因にのみ依らんとするものに非ず。余は歴史の内に存する神秘を信ず。人事の内に天意の存するを信ず。されど余は形器的の原因を以て説明し得べき或事件に強(しい)て神秘的の名を加ふるの要なきを見るなり。花岡山盟約の一現象の如きは熱心なる宗教信者に説明せしむれば或は天の摂理なりとも云ひ得べく、或は所謂聖霊の恩寵に基けりとも云ひ得べし。其結局の原因が何であるかは暫らく問ふことを止めて余は歴史家たる位置より、其直接の原因は実に人心反動の法則に基けりと曰はんと欲す。何となれば此時に方(あた)つて九州地方の教育ある青年は大抵好んで政治を談じ、政府の官吏となつて其使役に甘んずるに非れば政府の反対党となりて乗取策を講ずるの外他なく、而してかゝる政治的空気は熊本に於て最も濃厚なりければなり。夫れ竹外の桃花両三枝が其姿致殊に多き所以は何ぞや。緑竹を見るに飽きたる人心の反動のみ。熊本に於ける一部の青年が好んで身を宗教界に投ぜんと欲したるも亦唯此の如き反動の結果に過ぎざるなり。
 九州諸藩は其徳川氏の為めに戦ひたるを以て殆んど国を亡ぼすの厄運を蒙りし小笠原氏を除くの外は大抵、或は少く、或は多く、幕府に対して戦勝の分捕を分つべき位置に在りき。即ち佐賀藩の如き始めより其態度極めて曖昧なりしものすら薩長土三藩と共に維新政府の四柱と称せられて要路に立つもの多かりき。独り此間に於て此較的不平の位地に擠せられたるものを熊本藩となす。熊本藩は其封土の大なるに於て鹿児島に亜(つ)ぎ、其文学の盛んなるに於て殆んど関西無比と称し、其人才の多きに於て他の雄藩に敬畏せられたり。彼れは幕府の時代に於て最も文明なる一部落なりき。其ツンツルテンの短袴を着け、質朴なる国侍の粧(よそほひ)したる裏面には何ぞ図らん花を見ては懐を詠じ、月を見ては情を述ぶるの雅懐あり、夙に江戸人士をして九州又侮るべからずとして、三斎、幽斎、銀台諾公の流風余韻を欽慕せしめたる所なりき。彼れは水足博泉の故郷として、秋山玉山の故郷として、薮孤山の故郷として、辛島塩井の故郷として、木下士勤の故郷として九州の最も文明なる国なりき。されど彼れは寛政三博士の一人たりし柴野栗山が嘗て予言したるが如く文学に勝ち、議論に勝ちて、節制と統一とに乏しかりしかば維新の前後に於て進退共に宜しきを失し、九州の雄藩たる位置に適当すべき待遇を受くる能はざりき。是れ熊本藩士の心に蒙りたる負傷にして彼等の多くが新時代を睥睨する不平の徒となりし所以なり。既にして中原の形勢を見れは征韓論の破裂となり、西郷党の引退となり、民選議院の建白となり、而して佐賀の乱となり、而して大阪会議となり、而して漸次立憲政躰を起すの詔となり、形勢稍定まりたるが如くにして更に保守党たる島津久光と急進党たる板塩退助の聯合辞職となり、政府は恰も保守党と進歩党の包囲攻撃を被るものゝ如く、天下将さに乱れんとするの兆あり。此時に方りて熊本の人士が南は薩岸の西郷派と消息を通じ、北は九州の不平連と呼吸を合し、以て大に為す所あらんとせしは蓋し自然の数なりと曰はざるべからず。されど極端は他の極端を生む。此の如き政治的空気の濃厚なる地方は俄然として新信仰を告白し、之が為めに精神的戦争を為さんとする一群の青年を生じたり。
 是より先き熊本藩は他の大藩の為せしが如く、宣教師フルベッキの推挙に依り英人大尉ゼンスなるものを招聘し、藩学校の生徒を教導せしめたりしが此学校は廃藩の後までも依然として旧藩子弟の教育に従事したりき。而して大尉ゼンスは当時の各地に招聘せられたる外国人の多くが為せし如く英語を教ふるの隙を以て基督教を伝へたりしを以て之を聴きたる子弟の中には次第に彼れの説く所に感化せられたるものも少からざりき。斯くて此等の青年は明治九年の夏を以て熊本の郊外花岡山に会し精神界の改革に従事すべきことを盟(ちか)ひたりき。此会盟者の一人たりし小崎弘道をして当時の事情を語らしめよ。

 全躰、私が基督教を信ずるやうになつたのは随分古い話で、御承知か存じませぬが、維新の際に私の藩、即ち熊本でも洋学をやつて有為の人物を養成せねばならぬと云ふので、藩の費用で学校を建てまして英国の或士官を雇ひ入れて先づ頻りに語学をやらせたので、そして此学校に入れては藩中の青年から最も有望な秀才と云ふのを抜擢して藩の費用で勉学させたので、第一期は至つて僅な人数で。第二期第三期と続いてやつと彼是五六十名出来たのでありますが、私共も幸にして其中の一人に撰ばれて居たのであります。夫れからまあ段々勉強して居たうちに、其英語の教師と云ふが至つて熱心な信仰家であつたので生徒の中にも追々と聖書などを読んで見ると云ふものが出来たのです。私は全体、家が儒学の方ですから決してそう云ふ方には手は出しませんでした。友人が頻りに参考の為めによいから読んで見ろと云ふので到頭読んで見ましたが色々と疑惑も起り煩悶もあつたのですが、遂に確な所を発見してやつと安心することが出来たので、爾来今日まで唯一の神を信ずることは決して変改せぬのでありまして之が尤も正しき信仰、真の教、真の道と堅く執つて動かぬのであります。夫から遂に同志の者が集まつて互に誓約をして、吾々は政治とか軍事とか云ふことに従事すれば随分相当な位置を得るであらうが、夫等の事はまだまだ下等な仕事で、且そう云ふ事はやる人も沢山あるから、吾々は夫より多くの人が容易にやり得ぬ仕事、即ち精神界の方面に向つて尽力し、迷へる人心を攪醒して之を正しき真の遣に導かう。其の為めに如何なる辛苦も如何なる災難も辞すまいと云ふことになつたのであります。之が私共の宗教界に這入る首途(かどで)であつたのであります。所が此の事が追々発表されて来ます。藩の方では、(記者曰く此時は既に藩なし、宜しく父兄の方ではと改むべきなり)大変に驚きまして折角手を入れて勉強させて耶蘇坊主になつてはなんにもならぬ。又そう云ふことは天朝に対しても相済まぬと云ふような騒ぎになりまして、夫れから到頭学校は閉鎖する吾々同志の者をば父兄に預けて謹慎させると云ふことになつたのであります。所が私は最早父がなかつたので、余り八釜敷云ふものもなく、母は勿論大層心配しましたけれど、なんにも悪い事をした訳ではなく、之から尊い事をしようと云ふのであるから決して彼此案じるには及ばぬと申しまして、母も大略理解し別に六ケ敷親族もなかつたので私の方は先づ私の考通りですむことになりましたが、同志の中には随分大騒ぎをやつたのであります。横井君の如きは儒者の家から、そう云ふものを出しては祖先に対しても藩主に対しても済ず。殊に亡夫に対して何とも申訳がないから母公が自害すると云ふ次第で、夫から其叔父に当る矢張漢学の先生があつて頻りに説諭して改心させようと云ふのに横井が頑として動かぬので叔父からは絶門されるなど、至極八釜敷かつたのであります。又同志の一人なる吉田と申す者は父が丈夫であつたので手打にすると云ふ次第で太刀を引抜いたら青田が道の為には止むを得ぬと云ふて首を差出した所が父君も元来嚇して改心させる積(つもり)であつたのでまさか斬る訳にはゆかず、この馬鹿野郎と云ふて椽から蹶落して奥に入つたと云ふことなのでありました。夫から徳富などはまだ極く年少であつたので、仕方なしに父の言に従うて改心すると云ふことになつて庭で火を燃いて一切の聖書などを焚(や)いて仕舞つたのです。金森君や、海老名君なども矢張りそう云ふ風に騒いだのでした。(新仏教に依る)

 官吏となる乎。政権の争奪に従事する乎、殆んど其他の事を知らざりし九州青年の内に於て独り所謂熊本「バンド」の一隊のみが精神的改革を以て自ら任じたりしは関東及び其他に於ける戦敗者、若くは戦敗者と同じ位置に置かれたるものゝ子が関東に起つて精神的革命に任ぜんとしたると東西一双の現象にして耶蘇教は此時に於て早く既に日本の人心に根を生じたるなり。
 斯くて種々なる妨害と戦ひつゝ小さき教会は日々其地歩を広げつゝありき。


    欧化主義に対する最初の反動 福沢諭吉論

 然れども此時に当つて若き耶蘇教会の前途には早く既に面白からざる思潮の湧き来るものありき。他なし、極端なる欧化主義に対する反動是なり。明治の初年に於ては進歩主義の人々は多くは純粋なる外国模倣論者なりき。されど此の如きは久しかるべき現象に非ず。彼等は更に深く欧洲を学ぷに及んで漸く欧洲文明の深き素養と長き歴史あるを知り、日本をして一朝にして欧洲たらしめんとするの不可能事なるを解するに至れり。即ち彼等の或る者は漸く国民的醍覚に近づき来れり。余は其何時頃を以て此の如き反動が彼等の心に生じたるやを劃定する能はず。されど此反動の徴候は総ての点に於て見るを得べし。田中不二磨の米国より雇来りし文部省の学監博士モルレーが国語を保存するは国民性を保存する所以なりと論じて森有礼等の極端論を抑へたるも是なり。加藤弘之の議院尚早論も是なり。木戸孝允の政治上に於ける漸進論も是なり。西郷南洲が

  猥りに外国の盛大を羨み利害得失を詮ぜす家の構造より玩弄物に至るまで一々外国に仰ぎ奢侈の風を長じ財用を浪費せば国力疲弊し人心浮薄に流れ結局日本身代限りの外有る間敷也(まじきなり)

 と説きたりてふ風説が東京に伝へられたるも是れなり。而して其最も著しきものを福沢諭吉が風俗保存論を唱へ、銀の急須に番茶を煎ずるは不相応なりと説きて政府の急進的欧化主義を攻撃し、天地一家四海同胞を主義とする「コスモポリタニズム」に向つて非難の声を揚げたるに在りとす。蓋し単に純粋の宗教として之を曰へば人民の保守的たると進歩的たると何ぞ其宗教の盛衰に関係あらんや。而も耶蘇教は日本の人民に依りて、外国より来りし教なりとせられつゝあるものなるが故に、外国の文物が歓迎せらるゝ時代と然らざる時代とは其発達に大差なきを得ず。此の如き反動の気運が若き耶蘇教会に或る苦痛を与へたるは勿論なり。
 果然、福沢諭吉は花岡山盟約の事ありし同じ年の九月二十二日を以て雑誌「家庭叢談」に於て今や前途の希望に満帆の風を孕ませて進み来れる耶蘇教徒の動静に対して其嘲罵の筆を加へたり。彼れの論文は短かかりき。されど其嘲罵は深酷なるものなりき。彼れは先づ耶蘇教伝道者の内には海外万里赤の他人の厄介となりて平気の平左衛門たるものありと称し、之を目して字を知る乞食書生なりと呼び、彼等は自己の一身すら治むる能はざるに、しきりに日本人の精神的状態を苦にし、日本人の迷には困ると云ふ其有様は恰も日本人の為めに極楽の桂菴、道徳のロ入をするものゝ如しと揶揄し、天地一家、四海兄弟の理想はたとひ高尚なるものなるにもせよ、必竟架空の黄金世界たるに過ぎず。日本人民たるものは唯応(ま)さに日本国の独立自治を講ずるを先きとすべしとの趣意を以て結論せり。彼れの論文は安井息軒のそれに比すれば更に短かきものなりき。されど彼れの思想界に於ける位置は息軒翁の隠君子たるが如くならず。彼れの論文も亦何人にも解し易く、甚だ露骨なるものなりしを以て余は其人心に与へたる影響の「弁妄」に勝るものありしを信ぜざる能はず。
 余をして少しく新日本のポルテールたる彼れを論ぜしめよ。余の見る所に依れば彼れは日本の思想史が感謝を以て英名を記憶すべき豪傑の一人なり。彼れは其反対論者より黄金崇拝を説きて日本の士気を銷沈せしめたる怪物なりとせられたり。彼れの思想には唯物的の傾向ありとして痛く彼れを嫌ふものあり。されど彼れが新日本の市民に黄金の貴重すべきを説きたるは猶ほ封建時代の武士に剣法の貴重すべきを説くが如きのみ。彼れは新日本の地盤は独立の市民ならざるべからずと信じ、而して市民の依つて以て其独立を維持すべき干城は黄金の外なしと信じたるが故に甘んじて黄金崇拝を説きたるのみ。彼れは日本の旧き学問が心性の詮義にのみ急にしてべーコン流の経験を軽んじたるの弊を知りしが故に甘んじて形而下の研究を鼓吹したるのみ、彼れは此故にベンダムを説きミルを説き、実用的の科学を説き、市民的の道徳を説けり。余は此点に於て彼れが時代の要求を代表したるものなるを知るなり。されど彼れの為す所は此所に止まりき。彼れほ到底処世接物の現世主義より外に眼を転ずる能はざりき。されば彼れの宗教を見るや亦唯浄世の一方便を以てするのみ。「手を合はせて拝みさへすれば神なり仏なり」とは彼れの嘗て説きたる所にして彼の宗教に対する思想は遂に此範疇を出づること能はざりき。此の如き立場よりして今や思想界の水平に頭を擡げ来りたる耶蘇教徒を見る。彼れたるもの何ぞ之に被らするに三斗の冷水を以てせざるを得んや。余は彼れの心の傾向より演繹して後れが固より耶蘇教の味方にあらざりしを察し得るなり。されど人心は遂に処世接物の現在主義を以て満足するものに非ず。宗教は彼れの思ふよりも深き根拠を人心に有し、彼れの天地万物に対する態度より更に高き敬長を人心に要求す。此要求は日本青年の一部をして彼れに往かずして新島裏に行かしめき。
 されど斯の如き反動の機運も西郷騒動のどさくさ紛れに於て一時中止の有様を呈したりき。


     四種の思想、人才の分離作用


 既にして西郷掻動は終れり。不換紙幣の濫発は米価を騰貴せしめ米価の騰貴は農民の財嚢に余裕を生じ之が為めに民権論の勃興となり、天賦人権論の繁昌となり、世は世論の春とはなりぬ。而して此間に於て耶蘇教徒は左の四種の議論を観察して之を批評する位置に立ちたりき。

  (一)仏国派の民主論 − 仏学者之を代表す。
  (二)英国経験派、功利派の影響を蒙りたるもの − 慶応義塾派之を代表す。
  (三)保守的反動 − 文部省之を代表す。
  (四)進化論、不可思議論 − 東京大学之を代表す。

 蓋し西郷騒動の鎮圧と共に嘗て明治政府に包囲攻撃を加へんとしたる島津久光一輩の保守党と土佐派の急進党とは一たび其鋒鉾を収めたるの観なきに非りしも尋(つい)で政論の勃興したると共に人心再び激動し、従来政府に仕へて其経営を助けたる或者は漸く政府と離れて人民党に加はり、嘗て官海を游ぎながら民間に往来して自由民権を唱へたる或者は漸く民間と遠ざかりて政府の保守的政策を助け爰に政府と人民との鴻溝を画すべき人才の分離作用を始むるに至れり。馬場辰猪は英国に留学中一たび政府の保護を受け帰朝して後人民党となりしものなり。彼れ嘗て当時の人物を論じて曰ひき。予が十年間の実験に依れば嘗て欧洲に在りしとき自由自主を唱へたる少年官吏は帰朝すると共に保守主義に変じたるもの多し。其(その)然る所以は知り難からず。欧洲に遊学したる青年は日本武士の子なり。武士は其子に依頼して生活するの外此世に存在するの道を解せざるものなり。されば彼等は帰朝すると共に先づ其家族を養はざるべからず。家族を養はんとすれば職業を求めざるを得ず。而して新智識を有する士族の青年が求め得べき職業は政府以外に多からず。是れ彼等が官吏となるの勢、已むを得ざる所以なり。然るに日本官吏の多数は保守党なるが故に彼等は遂に節を折りて之に同化せざるを得ざるに至れりと。此言実に之を得たり。薩長氏は嘗て人才を収攬するの急務なるを感じたるが故に成るべく其門戸を広くして有為の人物を歓迎したり。彼等は又摸倣政策の信者なりしが故にしきりに外国の文物を輸入せり。民政自由の議論すらも成るべくは之を輸入したり。然れども彼等は漸くにして民政自由の議論を盛んならしむるは虎の子を養ふよりも恐ろしきものなることを感ずるに至れり。自ら余りに進み過たるを疑ふに至れり。尋で民権論の勃興するに及んで保守的反動は緊しく彼等の心を捉めり。彼等は是に於て乎、鎮圧的政策を取らざるを得ざるに至れり。彼等を助けて新日本を経営せんとしつゝありし新智識ある青年官吏の一部は馬場辰猪の説きたる理由に依つておめおめと保守政策の手足となれり。されど是れ血性あり、気慨あり、信仰あるものゝ堪ふる所に非りき。是に於て乎、彼等の或者は官海を去つて人民の中に住する人民の味方となるべく決心せり。


    仏学派 − 権利論


 此の如き決心を為せる青年官吏の多くが仏国思想に養はれたる仏学者なりしことは注意すべき事実なりとす。即ち沼間守一の如き、大井憲太郎の如き、中江篤介の如きは共に政府部内より反撥せられ、若くは自ら政府の僚属たることを呪詛して先づ官海を去りたるものにして均しく仏蘭西学者たりき。
 此の如くにして仏学派の一派は最初に政府と離れて其敵国となれり。而して彼等は先づ権利てふ思想を鼓吹するに勉めたりき。即ち明治十二年に於て東京府会議員、区会議員が聯合して東京府民の総代と称し、天皇陛下の臨駕を上野公園に乞ひしとき、沼間守一が公開演説を以て是れ東京府民の名を濫用して府県会規則を無視せんとするものなりとなし、「若し此貴重なる法律をしてロあらしめば艴然其冤を訴ふるならん。若し此法律をして眼あらしめば潸然、涙を流して其誣妄を悲しむならん」と論じたるが如き、中江篤介の政理叢談がルーソーの民約論を祖述して盛んに人民の威厳を唱道したりしが如き、西園寺公望を社長とし松田正久等を記者としたる東洋自由新聞が仏国革命史の光栄を論じ純理的改革を唱へたるが如き是皆当時の所謂仏学派の如何なるものなりしかを示すものなり。勿論彼等の思想は甚だ単純なりき。彼等は唯社会は民約に成り、主権は国民に存し、法律は衆庶の好悪に成るてふ信条を露骨に宣言するものに過ぎざりき。されど新に政論に醍覚したる人民に取つては其議論の単純なるは却つて理解せられ易き所以にして自由党が旭日天に昇るの勢を以て進み来りたるものはかゝる単純なる権利論を其旗幟としたればなり。斯くて彼等は権利論の一本鎗に依り国会開設請願を名として政府に突掛かれり。而して政府も亦此一本鎗には辟易せざるを得ざりき。何となれは政府も其実は権利論の雰囲気中に育ちたるものなればなり。試みに当時の新聞紙に依つて太政官の門に迫りたる国会開設請願者と政府の官吏との問答を見よ。金井書記官は曰く権利は固より天与の物なり、政府の法律之を禁ずるにあらざるよりは決して制限すべきにあらすと。岩倉右府は曰く日本人民天稟の権利は政府決して之を奪はずと。彼等と雖も権利論の鋒先に正面より盾穿く術を知らざりしものなりとせば権利論の如何に強く人心を支配したりしかは蓋し察し難からざるなり。


     英学派 − 経験主義

 されど泰西の新学を修めたる人々の中に於ても斯る権利論に対して稍冷眼之を見るものなきに非りき。即ち英国の経験派、功利派を代表したる慶応義塾一派及び之と臭味を同うするもの是なり。余は便宜の為めに之を名づけて英国経験派と云はんと欲す。彼等の口にする所はヒユーム、バックル、ミル、ベンダム、ギボンにして彼等の鼓吹したる所は科学に対しては実験、政治に対しては功利、宗教に対しては懐疑なりき。余は此派の当時に於ける勢力は仏国派の権利論に此して更に大なるものありしを疑ふこと能はず。何となれは権利論はたとひ一時期に於て著るしく人心を鼓動したるにもせよ、其性質は寧ろ煽動的にして学術的に非ず、寧ろ疎枝大葉の議論を事とする一部の政論家を満足せしめ得べきものにして更に緻密なる思想を有する智識ある階級を甘心せしむるに足らざれはなり。近代史の示す所に依れば維新の前後に於て始めて秦西の文明に接触したる日本の聡明なる人士が先づ其心を動かしたるものは所謂実学なりき。他の語を以て言へば泰西の物質的文明なりき。而して維新の政府が先づ意を致したるものは此物質的文明の輸入なりき。是れ実に宋学の空疎に飽きたる日本人に取つては然らざるを得ざりしものなり。たとへば栗本鋤要は幕末に於て幕府を代表して仏京パリに在りたるものなりしが、当時の境遇が先づ彼れの心を動したるものはナポレオン法典の整備せること、法廷の事、弁護士の事、警察の事、気燈の事、地下隧道の事、動物園、植物園、博物館の事。「ヲペラ」「グランド・ホテル」の壮大なる事、株券の事、汽車汽船の事なりき。(明治六年上梓暁窓追録)日本の青年政治家たる伊藤大隈井上の徒が先づ意を致したるものは京浜間の汽車を通じて全国に電信を課し、勉めて泰西の物質的文明を輸入することなりき。明治六年木戸孝允の井上馨に与へたる書に曰く

  久翁へは昨春相論じ見侯得共、今日の時勢にては取込丈け取込、其弊害は十年歟、十五年歟の後には必ず其人出侯て改正可致との事にてばつとしたる大人らしき論に侯へども云々。

 書中の久翁とは即ち大久保利通を指すなり。然らば則ち新日本の韓魏公たる甲東氏も亦物質的に於ては、壌端なる改革論者たりしなり。沈重の人斯の如し、其余は則ち知るべきのみ。天下将に写真に驚き、汽車、汽船に驚き、望遠鏡、顕微鏡に驚き、電信機に驚き、総ての物質的進歩に驚く.。此時に方つて人々唯新学を以て経世実用の具と為すに急なり、何ぞ深く心性宇宙の如き深大なる問題を論ずるに隙あらんや。是れ人心の傾向に於て既に経験を重んじ、功利を尊ぷの一端に奔りたるなり。艸の乾くときは火の之に麗くこと易し。かゝる時期に於て功利論者たるべく懐疑論者たるべき性癖を有する福沢諭吉が時勢の潮流に棹しヒユーム、ベンダム、ミルを唱へて多くの子弟を其門下に集めたるは殆んど自然の数にして小野梓(あずさ)の如き英国仕込の青年学者が均しくベンダムの信者たりしも亦是れ同一潮流中の現象なりと云はざるべからず。此に新に家を為したるものありと仮定せよ。彼の急務は家の器具を取揃へ、家の粧飾を為すに在り。即ち家の物質を具(そな)ふるに在り。彼れは未だ家に安居して静かに他の問題を思慮するの隙なきなり。明治の初年に於て外国的影響が一部の人士をして哲学に於ては懐疑派、実験派となり、政治に於ては功利派たらしめしもの亦唯日本国が新世帯の境遇に在りしが為めのみ。
 此一派こそ折角勃興し来けたる仏国派の権利論に取つてはたとひ正面の敵ならざるも猶親しき朋たり得べきものに非りき。何となれば彼等は権利論の如き空想の為めに戦はんよりは寧ろ少しなりとも事実の上より人生の状態を改良するを以て人生の能事とするものなればなり。権利論は自ら革命後の天国を画き之に向つて突進せんとするものなれども、彼等は理想を有せず、「ユトピア」を有せず、唯一歩、一歩現在を改めんとすればなり。されば此学派に連るもの、及び之と同臭味の人々は所謂権利論者の為す所を見て空想に馳せ過激に失したるものなりとなし、容易に政府と絶つことを肯(がへ)んぜず、未練にも猶ほ官吏たるに甘んぜしものもありき。されど此学派も亦遂に政府の容るゝ所とならざりき。何となれば彼等はたとひ其思想感情に於て権利論者と相距(へだゝ)ること遠かりしも其新学の徒にして、改革を好むものたりし一事に於ては歩趨を権利論者と同じくしたるものなればなり。たとへ実際に於ては然らざるも今や政論の覚醒に恐怖したる政府の眼より見ればしか感ぜざるを得ざりければなり。されば沼間の去り、中江の去り、大井の去りたる後も小野梓、矢野文雄、島田三郎の徒は猶は官途に在り。慶応義塾出身の秀才は恰も今の大学出身の青年の如く官途に在りしと雖も、政府の保守的分子より見れば是れ実に謀叛人を抱へ置くに類するの観なきこと能はざりき。かくて夏日の炎天に電気の両極を蒸生するが如く、政府は愈(いよいよ)保守的空気を濃厚にし、人民は愈進歩的空気を濃厚にし、天下将さに何事かの調和手段なかるべからざるに至つて政府中の進歩分子たる伊藤博文、井上馨、大隈重信の聯合となり、一転して大隈の密策となり、薩長氏の恐慌となり、再転して明治十四年十月十三日「クーデター」となり、官吏中の人民党は殆んど全く一掃せられ、政府と人民とは正に両璧相対立するの状況に至れり。


     保守的反動 − 政府の政策

 詩は曰はずや深山無麦独相求。伐木丁々山更幽と、おちこちのたつきも知らぬ山中に住むときは跫然たる人間の足音を開けば愉快の感なきを得ず。政府は既に純理党たる人民党を敵とし、進歩主義の人才と絶ちたり。何ぞ自ら寂蓼の感なきを得んや。顧みて今後自家の朋友たるべきものを求むるに唯一あるのみ。則はち保守的反動是なり。余は我読者が当時の思想界が仏国派及び英国経験派の為めに殆んど両分せられたるの観ありし間に於て別に保守的傾向の一潮流を捲き起したる事情を看過せざらんことを希望す。余の信ずる所に始れば当時の保守的傾向はたとひ其一部分は単純なる懐古恋旧の情に奨(はげ)まされたるに過ぎざるものなるにせよ、其根底に帰りて深く其由来する所を尋ぬれば之よりも更に大なる、更に真面目なる原因ありて存せしなり。試みに之を語らんか。 (一)は泰西の新学が人民に十分なる満足を与えざりければなり。何となれは日本国民はたとひ宋学の凡神論に厭(あき)たるものなるにもせよ、道徳の本原を以て動かすべからざる威権に帰せんとするは総ての時を通じて人心の底に潜める要求にして権利論は固より経験派、懐疑派も亦此要求に満足を与へ得べきものにあらざればなり。(二)且彼等の説教のみにては唯物的傾向の反影なる当時の淫風悪俗を匡正すべき何の権威もなきは説教者自らの認識せざる能はざる所なればなり。余は当時を回顧して日本人民の獣慾を抑制すべき威権の甚だ微弱なりしを驚かずんばあらず、試みに当時の出版物に就て一瞥せよ。明治七年に出版せられたる東京新繁昌記の如き、此年頃より十四五年頃まで連続して出版せられたる東京新誌の如き、各新聞紙の雑報の如き、好んで閨房を画き、好んで痴情を写し、好んで肉慾を挑発し、殆んど春宮、淫書に異ならざるものありしにあらずや。而して政府之を禁ぜず、学校之を門外に拒まず。青年子弟も亦之を読んで恥づることを知らざりき。

 余の自ら記憶する所に依れは静岡師範学校の学生は其頃東京新誌を読むもの少からざりき。又明治十四五年頃と覚ゆ、静岡警察署が落成式を挙げたる時、娼妓来りて酒席の間を往来したるを見たりき。偶(たまた)ま明治十二年の新聞を閲するに六月十八日日比谷太神宮に祭礼ありて吉原より娼妓等参詣し大数正、中教正等彼等に応接し其信仰を讃称したりとの記事あり、併せて以て当時の流風を察すべし。去年十一月故ありて青山基地に行く、故大警視川路利良の墓を過ぐ。墓門に大石あり。刻して須崎貸座敷中と云ふ。是れ蓋し明治十二三年頃に建つるところならん歟。今日ならしめば士君子の墓門に於て何ぞ此不倫の観あるべけんや。

 一事は万事なり。人心の放縦は独り淫慾の躰的なるにのみ現はれざりき。試みに当時の社会に還りて其生活の状態を察せよ。何ぞ夫れ秩序なく、制裁なきの甚しきや。一書生あり。洋傘を揮つて東京の市街を横行潤歩す。警察官之を尤(とが)む。書生曰く是れ我が運動の法なり。他の行人を害せずんば何ぞ警察官の干渉を容れんや。警察官聴かず。強ひて之を屯所に拉し去る。書生怫然たり。既にして警察官の喫煙するを見て曰く、貴官にして喫煙するの権利あらば吾亦之を喫し得るの理あり、請ふ之を許るされよと。彼れは権利自由の議論を生呑活剥して直ちに其放縦の行為を義とせんとしたるなり。是れ明治七年の事にして実に後の明治の一紳士たりし人の為せし所なりき。加之(のみならず)公然の文書を以て他人を讒謗し、而して毫も自ら恥づる所なかりしは当時の操觚者の常態にして洋行帰りの一団たりし共存同衆は之が為めに其弊害の太甚(たいじん)なるを憂ひて讒書律を設くべきの議を建つるの已むを得ざるを感じたる程なりき。是れ明治八年の事なり。制服も無く、制帽も無く、麻裏草履を穿(うが)ち、或は穿たずして寄宿舎に在り、時としては土足、下駄の儘にて副課室、寝室に上下するのみか、果ては講堂に於ても下駄の儘にて出入するものありきとは明治十二三年頃大学に在りし人の当時を語れる所なり。斯の如くにして社会の各方面は放縦なり、乱暴なり、制裁なきなり。余は固より此の如き放縦、此の如き乱雑の時代が寧ろ小廉曲謹徒らに外貌を修飾するを以て能事とする偽善の時代に優れることを知る。されど是れ実に人心の懐疑的唯物的にして信仰なく、畏敬する所なかりし反影なりとせば、余は当時の人心が顧みて自ら或者の不足を感じたることあるべきを知るなり。是れ社会の一部に保守的反動を生じたる所以なり。泰西の新学は権利を説き、経験を説き、科学を教ふ。されど彼等は儒教若くは仏教の如く性命の原を説き、天道を説かざるなり。泰西の新学は思想の自由を唱ふると共に其根本に於て懐疑的なり。彼等ほ儒教若くは仏教の如く人道の依つて立つべき教権を説かざるなり。天下今や新学の風教を維持するに足らざるを苦しめり。否新学の淫奔(いんぽん)、放縦の炎に油を注ぎつゝあるに苦しめり。夫れ酔ふものは必ず覚むるの時あり。宴は必ず散ずるの時あり。余は此時に於て人心の一部に天道を説き性命を説き、教権を説くの儒仏両教が復活したるを怪しまざるなり。而して斯の如き保守的反動の潮流は今や思想界に於て孤立の位置に立ちつゝありし政府の注目する所となりき。諺に曰はずや棄つる神あれば助くる神ありと。政府は是に於て維新以来与に事を共にすることを肯んぜざりし保守分子に向つて流盼したり。待てば海路も日和を得ることあり。久しく時に遇はざりし保守分子は此に於て乎(か)、始めて政府の友人たるを得たり。明治十五年の朝野新聞に曰く

 今年以来、何となく、忠孝仁義の貌が出現して参る。

と、又曰く、

 地方官出京の際は宮内卿徳大寺公より地方官の面々に今後忠孝を本とし仁義を先きにすべしと厚き御諭(おさと)しあり。

と。十六年の同新聞に老儒の苦心と題する戯文あり。曰く

 大先生曰く天運循還、近頃大に斯文を再興すべきの目的あり。

同新聞又曰く

  近年は世間一般に古き事を追慕し盲き物を保存するが流行になりたり。

と。余はかゝる反動が必ずしも一に政府の誘導に基きて生じたるものなりとは信せず。されど政府が、此反動を利用し、時を得ざりし儒者、古神主、山寺の坊主を味方として純理主義、人民主義を抑へんとしたるは即ち疑ふべからず。

 

      保守政策の結果

  政府が此の如く保守分子と結托して進歩の気運を抑留せんとしたる一事は日本の文明に取つては必しも尽(ことごと)く悲しむべきものゝみに非りき。そは余りに外国の模倣に急なりし日本は実に自己の内に在るものを反顧するの必要あれはなり。数世紀の間日本の人心を支へたる儒仏の両教は其中に猶ほ日本人民の脊髄となるべき原理を蔵するは固よりにして時としては此の如き古典の教育を以て余りに物質的、模倣的に流れんする人心を警誡するは亦是れ応時の良策なりとせざることを得ざればなり。余は今日に於ても気力逞ましく、骨格強く、恒心あり、操守ある人物が常に保守的教育を受けたる経歴を有すること多きを見て此事実を看過する能はざるなり。されど余は政府の保守政策の一理あるを諒とするの故を以て其保守主義の極端に流れたる弊害を否定する能はず。余の駿河に在りし記憶に依れば此政策の為めに多くの青年は従来読みかけたりし英書を抛ちて再び漢籍を手にするに至れり。一たび繁昌したる英学の先生は次第に其門戸を閉ぢて彼等の生活に易き東京に移住したり。学枚の教育は当時の文部省の所謂普通教育に重きを置きて外国語の素養は却つて閑却せらるゝに至れり。久しく田舎に蟄伏したる漢学先生は再び師範学校中学校に聘せられて其教師の椅子に座するに至れり。嘗てバーレー万国史を読みたる青年は節を折りて再び左、国、史、漢に還らざるを得ざりき。余の如きも英語階梯を読み、万国史の講釈を聞くたる昔は殆んど忘れたるが如く漢学塾に往来して安積艮斎門下の老先生より論語孟子の講釈を聴くに至りたるは当時を顧みて漸塊に堪へざる所なり。斯くて余が自ら外国語を修めざるべからざるを悟りて之を親戚朋友に詢るに及んで当時中学校の教諭たりし一人は曰ひき、足下の如き年齢にて(余は当時十八歳なりと覚えたり)英語を始めたりとて、とても自由に英書を読み得るやうになるべき見込はなし、今や英語よりも必要なるは普通学なり。余は足下の志を飜さんことを望むと。是れ当時余に与へられたる最良の忠告なりき。而して余が当時の朋友を顧みるに余と志を同うして英語を修めたる青年は三万の人口を有する静岡に於て士族の子弟中、殆んど五指を屈する能はざりき。言ふこと勿れ、是れ唯余一人の経験なりと。一葉の落つるに依りて天下の秋を知るべしとせば、政府の保守的政策を取りたる結果が天下の青年をして外国語の研究を怠らしめ徒らに陳腐なる古書を読ましたることの多かりしや察すべきなり。


     耶蘇教徒の態度

 此時に加つて耶蘇教徒は此思想の争闘に介在して種々なる経験を歴たりき。彼等は時として民権論者と同視せられたる事ありき。勿論彼等の或者が政論の勃興したる始に於て純理主義人民主義の味方たらざるを得ざりしは自然の勢なりき。其然る所以ほ知り難からず。耶蘇教徒は欧米の思想界に最も緑近きものなり。而して純理主義、人民主義は欧米思想界の産物なり。是れ其相近づき易かりし所以の一なり。耶蘇教会の有力者中には新島襄の如く自由の空気を呼吸し、心より民政の信者たるものあり。外国宣教師の多くも亦、民政自由の中に育ちたるもの也。是其相近づき易かりし所以の二也。耶蘇教徒の多くが戦敗者、若くは戦敗者と境遇を同じくするものゝ子たりしは余の既に述べし所なり。而して純理主義、人民主義を唱ふるものゝ多くが社会の不平分子たりしは是亦然らざるを得ざるの勢にして此の如き境遇の人物の間には共に相憐れむの情なきこと能はざるも是亦自然の勢なり。是れ其相近づき易かりし所以の三なり。されど是れ唯傍因なるに過ぎず。其最も重もなる原因は政府が保守的反動派と結び、其機嫌を取らざるべからざる境遇に迫られたるに在り。政府の敵とする所は固より耶蘇教に非りき。されど保守的反動に油を注がんとする政府の政策は保守党の成るものをして純理主義、人民主義の政論を為すものと耶蘇教とを混同せしめ、或は政教の固より同一ならざるを知るものも故(ことさ)らに反対党を傷けんが為めに彼れは耶蘇教徒なりとの讒誣を加ふるに至り、此に耶蘇教徒を馳(か)りて人民党に同情せしめ、人民党を仮りて耶蘇教徒を憐れむに至らしめたり。是れ蓋し耶蘇教徒と人民党と相近づきたる重もなる原因なりとす。
 本多庸一の語る所に依れば彼れは明治七年より弘前に帰り藩士の建てたる東奥義塾の教師たりしが耶蘇教徒たるが為めに困難を惹起したることは前後二回なりき。即ち第一回は明治九、十年頃の事にして岩倉右府より出でたりと知られたる干渉なりき。されど当時は兎角して言遁がれ彼れは猶ほ教師として任を離れざるを得たりき。次に来りたるは十五六年頃の干渉にして文部省より宮内省に伝はり近衛家の家令たりし海江田信義より旧藩主に伝はりたる干渉なりき。こは津軽氏と近衛家とは本末の関係ありてふ伝説ありて因縁固より浅からざるものありしを以てなり。当時干渉の口実たりしものは自由党たれ、耶蘇教徒たるものが義塾に在つては相済まずと云ふに在りき。彼れ曰く余の思う所にては政府の主意は寧ろ余が自由党たるを悪むに在りて重きを置きたるは此方なりしならんも、余が耶蘇教徒たりと云ふを以て善き捉まへ所となしたるならん。此時は余にして若し退かざれは学校の運命に関するを以て余は已むを得ずして東奥義塾を棄てたりきと。余は此事実が最も善く耶蘇教の当時に於ける位置を説明したるものなるを知るなり。而して此事実を以て明治十五年三月十日甲府に於て自由党の首領板垣退助が神儒仏の三教を以て国家の進運を害するものなりとし耶蘇教に同情するの意を公言したりとの風説ありし事実と併せ考ふる時は当時に於て権利論の代表者たりし自由党の或部分が耶蘇教徒に向つて声援を与へんとするの惰ありしこと察すべし。


     大学派の運動、進化論、不可思義論

 されど耶蘇教徒の正面の敵は儒仏の反動に非りき。何となれは当時の反動派はたとひ耶蘇教徒を好まざるものなるにもせよ、彼等は耶蘇教徒と共に時代の懐疑放縦に対して起たるものなれば也。されば当時の耶蘇教徒が理論として正面の戦を挑みたるものは所謂英国経験派なりき。既にして久しく勢力の集中に従事しつゝありし東京大学は遽かに起つて活動を始め進化論不可思義論を鼓吹し、此に精神界に新しき感動を起し耶蘇教徒をして更に一敵国を生じたる感あらしめたり。蓋し明治十三四年以後の大学が日本の精神界に寄与したる活動二あり。一はモールス博士に依れる進化論なり。二は加藤弘之に依れる人権否定説なり。
 此時に当つて日本の思想界は常に十数年を隔てゝ泰西の思想界を追蹤するの状態に在りき。是は新たに世界の文明に向つて醒覚したる日本の位置に於ては免かるべからざる数なりしならん。たとへば福沢門下の鼓吹したるミル、ペンサムの如きも彼に在つては既に哲学史上のものにして、現在の問題に非りしに、日本に在つては彼等の名は新しき感情を起し新しき騒動を起すに足りき。彼等の唱へたる経験論、功利論はたとひ英人に取つては爛熟したるものなるにもせよ、日本人に取つては新鮮なるものにして其新鮮なるは則ち特殊の感動を惹起したる所以なりき。東京大学の進化論、不可思議論に於けるも亦実に此の如くなりしのみ。夫れダルウヰンが其種源論を公にしたるは安政六年に在り、スペンサーが不可思義論者として現はれたるも亦慶応若くは明治の始めに在り。而して東京大学が彼等を祖述して思想界に旗幟を樹てたるは明治十三四年以後に在り。余は猶は最も明白に当時の事を記憶す。大学に教授モールスなるものありて、井生村楼(ゐぶむらろう)を始め各所に進化論を演説し、人類の猿に似たる原始の動物より進化したることを説き、而して共通訳者たるものが多くは大学教授菊地大麓たりしことを。然ればモールスと菊地大麓の名は日本に於ける進化論の歴史を書くものゝ忘るべからざる所にして、日本の人心は二人の勤労に依つて、こゝに始めて泰西に於ては既に珍しからざる種源論を紹介せれたるなり。されど大学が世間の物議を頼きたるはダルウヰンの進化論よりは寧ろ進化論を基礎として天賦人権論に痛撃を加へたる大学総理加藤弘之の挙動なりき。彼れは明治十四年の七月を以て大学総長となれり。彼れが昔に於て民政自由を主張したるものなりしは、彼れの嘗て著はしたる国躰新論、真政大意等の書の明かに証する所なり。されど彼れは新たに大学総理の任に上ると共に従来民主論者たりしは青年時代の過失に基けりと称し、悉く此等の著述を絶版し、同年の末を以て人権新説一篇を著はし以て自己の立場を明かにせり。此書は一頁十行三十字話にして百頁に過ぎざる小冊子なりしかども進化論を以て政治学に応用し、権利論者の口実たりし、天賦人権論に対して正面より戦闘を挑みたるものにして其思想界に与へたる激動は頗る大なるものありき。人権新説の論旨が如何なるものなりしやを明にせんが為めに余は其数節を摘録すべし。

 吾人々類モ亦夕動植物ト同ク体質心性ニ於テ祖先父母ノ遺伝ヲ受ケ、並ニ自己生存中遭遇スル所ノ身外万物万事ノ感応影響ニ由テ体質心性ニ変化ヲ受クル所各異同アルヨリ、各人ノ体質心性ニ於テ必ズ優劣ノ等差アルコト果シテ疑フべカラズトスレバ、其間ニ生存競争ノ生ズルハ決シテ已ムベカラサルコトナリト云フべク、而シテ此競争ニ於テ優者ガ常ニ捷ヲ獲テ劣者ヲ圧倒スルコト、即チ自然淘汰ノ作用ヲ生ズルハ是レ亦タ決シテ免レザル所ニシテ、是レ即チ所謂優勝劣敗ナリ。是ニ由テ之ヲ観レバ万物法ノ大定規タル優勝劣敗ノ作用ハ特ニ動植物世界ニ存スルノミナラズ、吾人々類世界ニモ亦必然生ズルモノナルヲ了知スベシ。優勝劣敗ノ作用必然吾人々類世界ニ生ズルノ理、已(スデ)ニ疑ヲ容ルベカラズトスレバ、彼レ吾人々類ガ人々個々生レナガヲニシテ自由、自治、平等均一ノ権利ヲ固有セリトナセル天賦人権主義ノ如キハ敢テ信ズべカラサル妄想祝タルコト甚ダ明瞭ナルニ非ズヤ。

 鞏固ナル団結共存ヲナサシメント欲セバ必ズ先ヅ専制ノ権カヲ用ヒテ人衆中諸優勝者ノ自由放恣ヲ禁ズルノ術ヲ施サヾルベカラズ。然カラザレバ人衆中ニ只管優勝劣敗ノミ行ハレテ優等ナル各個人ハ妄(ミダリ)ニ劣等ナル各個人才圧倒シ、……鞏固ナル団結共存ヲナス能ハザルコト必然ナレバナリ。果シテ然ラバ最大優者ガ専制ノ権カヲ用ヒテ人衆中諸優者ノ自由放恣ヲ禁ズルノ術ヲ施ストハ抑モ如何ナル術ヲ施シタルコトナランカ、是他ナシ。全人民ニ稍権利ト義務トヲ授与シタルニ由テ能ク諸優者ノ自由放恣ヲ禁ジタルナリ。……妄ニ人ヲ殺傷シ或ハ人ノ財産ヲ奪掠シ、若クハ人ヲ侮辱スル者等アルニ際シ、彼最大優者即専制者ガ此犯者ヲ或ハ誅戮シ、或ハ放逐シ、或ハ其他ノ方法ヲ以テ之ヲ罰シ、併セテ他人ヲモ懲戒スルトキニ之ニ由テ大ニ将来ノ罪犯争訟ヲ予防シ、随テ人民ガ互ニ他人ノ生命財産栄誉ヲ毀傷妨碍スベカラサルノ義務ト互ニ之ヲ毀傷妨碍セラレザルノ権利トヲ有スルニ至リタルナリ。是レ即チ権利ノ始テ生ズル所以ニシテ全ク専制ノ権カヲ掌握セル治者、即チ最大優者ノ保護ニ由ルモノト云フベシ。

 之を要するに彼れは先天的に人権の存在することを否定し、所謂権利なるものは強者が便宜の為めに設けたるものに過ぎずとするものなり。昔しは第十七世紀の英国に於てトーマス・ホップスは有名なる「レビアタン」を著はし、人類自然の情態は戦争なり、各の人は各の物を欲し、各の物に対する要請を有す。此の如き修羅的状態より免れんとせば人類の要務は唯一の権力を仰ぎて之に服従するに在るのみ。此必要の為めに社会は生ず。社会の組織せられざる前には正義なるものなし。社会は便宜の為に造らる。力は権利を超越するものなりと説きたりき。独りホップスのみならず。享保時代の荻生徂徠も亦人道に天然なるものなし、人道は聖人が人民の安全を図らんが為めに作り設けたるものなりと主張したりき。歴史は孤立の現象を有せず。加藤弘之が自ら新説なりとして世間に風聴したるものは之を要するに進化論の仮面を蒙りたるホッブス、物徂徠の再現のみ。人間を支配する法律若くは道徳を以て単に社会を維持する便宜に出でたりとするものゝみ。されど彼れは日本に取つて新思想たりし進化論の武器を以て其議論を粧ひしが故に、且其議論が根本的にして社会組織の基礎にまで論及するものなりしが故に世論は之が為めに動かざるを得ざりき。
 斯の如く東京大学はモールスに依つて人祖論を唱へ、加藤弘之に依つて天賦人権説を排したると共に、外山正一の徒に依つてスペンサーの哲学を唱導し、人間の知り得べきものは現象のみ。人間は直ちに宇宙の本体に面対すること能はず、万物其自身は不可知的なり。万物の本源も亦不可知的なりと主張したり。東京大学が此の如き活動を始めたるは仏国派の権利論、英国派の功利論が稍や人心に飽きられんとする時に乗じたるものなるを以て頗る世上に新鮮なる感覚を与へたりき。
 余は当時を回想して大学の此活動が日本の思想界に与へたる影響の甚だ大なりしものありしことを想像せざるを得ず。何となれば此の如き思想の波動は当時静岡に住したる余が小さき友人の一群にも及び青年会の討論会に於てすら時として不可思議論の起りたることあるを記憶すればなり。余が一たび有神論に傾きたる後、再び大なる懐疑に陥りたるは即ち此感化を受けたるが為めにして余も亦当時に於ては人権新説の愛読者にして、且其信者なりき。当時余が友人中には法律を修めんとするものありてポアソナード氏の性法講義を読み、之れを余に紹介したるものありき。余は時に之を斥けて曰ひき、性法とや、足下は猶ほ自然法なるものありと信ずるや。法律は主権者が便宜の為めに定めたるものに過ぎざるのみ。余は性法なるものゝあるべきを信ずる能はざるが故に之を読むを屑(いさぎよ)しとせざるなりと。斯くて余等は天を恐れず、神を信せず、人生の約束を以て便宜の仮定に過ぎざるものなりとする危険なる状態に陥りき。而して是れ実にモールス、加藤、外山の徒が日本の思想界に与へたる感化の一結果たるに過ぎざりしのみ。

 

     東京大学派対基督教会

 

 されど東京大学派の説教は遂に人心に真個の満足を与ふるに足らざりき。人は如何なる時に於ても人なり。人は其心の内に最奥の根底に達するに非んば休せざる大要求を有す。人は其道義感情を以て一時の仮定とする能ず。徂徠の便宜祝は此の如くにして再び寛政三博士の朱子学に復らざるを得ざりき。何となれば朱子学は人生問題を以て究竟原因に連結し道義感情を以て永遠の約束とするものなればなり。ホッブスの抗論はたとひ、一時を風靡したるにもせよ、英人は再びジョン・ロックに帰らざるを得ざりき。何となればロックは道義感情を以て神なる思想に結ばんとするものなればなり。同じ原因は同じ結果を生まざるを得ず。たとへば当時に於ける一少年たりし余白身の感情に就て言ふも、余は既に人権新説に感服し、不可思議論に感服し、心窃かに人生の約束を軽蔑するの態度を取りしと共に其心の奥には猶ほ自ら不満とするの念なきを得ぎりき。余は儒教の教理を捨てたり、されど人道と天道とを結合し、道義感情の基礎を不易の位地に据ゑたる儒教の甘味に至つては遂に全く忘るゝ能はざる所なりき。余は大学一派の説教に依つて我心の旧き信仰より解脱したることを感じたり。されど解脱は直ちに安心に非ず。余は大学派の説教は余を暗黒の谷に陥れて之を救ふの方法を講ぜざるものなることをも感じたり。余は猶ほ光明に向つて模索せざることを得ざりき。是れ豈余が一人の心状ならんや。凡そ人生問題に向つて多少の心を労したる当時の青年の少くとも或る部分は皆余と感を同うせしならん。
 之を要するに当時の思想界は無政府なり、無統一なり、乱雑なり。帰趣なきなり、群雄割拠の状態なり。固有の思想は反訳の思想と戦ひ、反訳の思想は更に他の反訳の思想と戦ふ。是豈思想界の六雄八将時代にあらずや。此時に方つて余は耶蘇教徒の最も善く戦ひたるを見る。即ち京都に於ては新島襄の同志社は花岡山に誓約したる所謂熊本「バンド」の青年が来り投じたるに依つて其活力を加へ、而して彼等の内の年長者たる人々は早くも四方に分れて伝道の戦線を張り、東京に在つては耶蘇教会中の学識あるものに相合して「六合雑誌」(明治十四年発刊)を出し此に益々精神的戦争の機関を精鋭ならしめたるが如き是なり。聞く所に依れば「六合雑誌」を発刊すると同時に東京の耶蘇教徒は野外大説教会を上野の磨鉢山に開きて以て大に示威的運動を為さんとし、当時教会の先輩たりし津田仙を使者として予じめ内務卿伊藤博文の内意を尋ねたるに伊藤は其不可なかるべきを答へたりしかば喜んで其準備に従事せんとしたりき。然るに警視庁は若し耶蘇教徒に許すに此の如き野外の大集会を以てせば自由党にも亦之を許さゞるべからずとの懸念を以て遂に之を許可せざる旨を達するに至りたれば耶蘇教徒は已むを得ず其計画を廃し上野清養軒に於て大演説会を催し以て之に代ふることゝ為したりとぞ。斯くて同志社を始め所謂宣教師学校は次第に其機関を整頓して精神的戦闘に従事すべき勇士の教養に勉め、「六合雑誌」は益(ますま)す其鋒鉾(ほうぼう)を鋭くして先づ懐疑派、経験派、功利派と戦ひ更に大学派と戦へり。余は当時に於て文壇の珍品たりし六合雑誌が其勢力の微弱なるに屈せず、善く大学派と戦たる迹を見て其健気(けなげ)なる挙動に感ぜざること能はず、彼等は先づ進化論の必ずしも完全なる学権を有するものに非ることを唱へたり。此点に関しては築地病院長たりし博士ホールツはモールスの好敵手にして、モールスの到る所ホールツも亦到り、盛んに進化論の必しも悉く信じ得べきものに非ることを論駁せり。然れども彼等の或ものは進化論の遂に防ぐべからざるを知れるを以て更に論法を一転し、進化論の必しも有神論と矛盾するものに非ることを主張し、進んで進化論は即ち神の大なる智慧より出でたる経験を示すものに外ならずとせり。彼等は曰ひき、昔しはコペルニカスの発明、ベーコンの実験哲学、科学の新研究は嘗て一たび耶蘇教会の信仰を根本的に破壊せんとするが如く見えき。耶蘇教会は之が為めに大に恐怖したりき。而も其実は是れ信仰の名に銹(さび)着きたる執迷を払ひ去りたをに過ぎずして此等の科学は却つて神の光栄を讃美するものに過ぎざりき。進化論の現代耶蘇教会に於ける亦実に此の如くならんのみと。彼等は進化論を以て其信仰を妨ぐるに足らずとし、不可思議論者の如きは其実宇宙の本源に帰り尋ねんとしたるものなれば是れ実に経験派に対する反動にしてたまたま人間の神を模索せんとする要求を現はしたるに過ぎずとなし、をめず臆せず、其の抗論を続けたりき。余は当時の六合雑誌を見る毎に未だ嘗て彼等の意気の甚だ壮(さかん)なるものありしことを感ぜざること能はず。
 斯て当時の耶蘇教会は静かに、しかしながら確実なる歩調を以て進み来れり。而して明治十七八年以来生じたる政論沈静の状態も亦耶蘇教会の進歩に取つて不都合なる境遇には非ざりき。

 

     欧化主義の勃興

 

 条約改正の問題は久しく我政治家の頭脳を悩ましたりしが明治十六七年の交より世論再び之に傾き明治二十年井上案の将さに成功せんとするに至つて此問題に対する人心の激動は其絶頂に達したり。蓋し単に政治的の一現象として見れば是れ固より日本思想史と何の関係なきものなり。されど当時の日本政府が其所謂改正案をして円滑なる結果に達せしめんが為めに泰西流義を以て日本の法律を制定し、外国語の教育を奨励し、内外人の交際を盛んにし、日本人をして、能ふべくんば泰西の皮毛を蒙らしめんと勉めたる結果が所謂欧化主義なる一種の傾向を生じたるは則ち疑ふべからず。而して政府以外の人士と雖も、始めより泰西的の教育を喜ぶものありて此潮流に乗じ盛んに日本を泰西化せぎるべからずと唱道したりき。吾人は此の如き思想の変化を総ての現象に於て見ることを得。たとへば外国行の漸く増加したるが如き、多くの政治家、有志家、学者、軍人が勉めて世界観光の壮途に上りたるが如き、羅馬教会、演劇改良会の起りたるが如き、書方改良、言文一致、小説改良、美術改良、衣食住改良等の有らゆる改良論の唱へられたるが如き、殊に其甚しきに至つては人種を改良せんが為めに勉めて泰西人を配偶とすべきことを主張するものさへありしが如き総て日本を化して精神に於ても、衣粧に於ても、公法学上の所謂国際団躰たる泰西の一部たらしめんと欲するにあらざるものなし。余は猶ほ記す。当時駿河に在りて一洋学先生を訪ひ応(ま)さに日本の風俗慣習を如何にすべきやとの問を発せし時、彼れは答へき。余は全然泰西を模擬すべきことを主張するものなり。即ち建築に於ても、衣粧に於ても文学に於ても、尽く泰西を学はんと欲するものなりと。余は必しも心より洋学先生の説に服したるものにあらざりしも、而も彼れが此の如き説を為すを以て常識を失ひたる言なりとは思ふ能はざりき。何となれば当時に在りては此の如き思想を懐きしものは独り先生のみならざればなり。余は猶は当時流行したりし多くの小説の趣向を記憶す。たとへば男女の自由なる恋愛を写し、書中の主人公は英仏の語を操つり、其生活は西洋式なる紳士、貴女にして、其恋愛の大団円は或は耶蘇教会の婚礼に於て結局するは此等の小説が往々たどりたる径路なりき。而して作者の用ひたる文躰も亦多くは全然日本固有の形式を離れ、欧文直訳躰にして好んで!?=等の符号を用ひたるものありき。此の如き流行が英学の興隆を来たし女学校の勃興となり、而して之と共に男女宣教師学校の生徒を多くし、之と共に耶蘇教会の勢力を増加したるは怪しむに足らず。日本に於るスペンサーの唱道者たりし帝国大学の外山正一すらも従来耶蘇教に対して皮肉の批評を試みたるに関せず、今や其論鋒を一転して好意を表するに至り、日本外務の当局者たりし井上馨は数(しばし)ば礼を厚くして耶蘇教伝道者中の有力者を其邸に迎へ、暗に其歓心を求むるに至れり。是に於て乎(か)耶蘇教徒は恰も幽谷を出でたる鶯が百花爛漫の間に其得意の喉を転ぜんとするが如く、唯前途の洋々たるを見たり。モーセの如く其約束の地の眼前に開かれたるを見たり。多くの青年は此潮流に動かされて自ら教会の門に集まり来れり。耶蘇教の演説会は政党の政談よりも多数の聴衆を集むるに至れり。「いざ日本に基督の国を建てよ。野は色づけり。収穫の時は来れり」とは当時の耶蘇教徒が均しく感じたる所にして彼等は大なる希望に包まれたる好運児となりにき。既にして井上案は失敗せり。其故(ことさ)らに現出せしめんとしたる仮粧の欧化政策は冷笑の下に葬られたり。されど此間に養成せられたる泰西的の学問と趣味とに至つては彼れの政策が失敗したるが為に遽に衰へざりき。たとひ一たび保守党の手に落ちんとしたる思想界が再び泰西の新学に復へり、一たび旧物保護に傾きたる人心が遽かに西洋式を摸倣するに至りたるは其実は条約改正に熱心なりし政府の鼓舞作興に基きたるにもせよ、大に覚めたる人心は政策の一蹶に依りて忽ち其歩調を変ずべくもあらざりき。されば井上案は恥辱なる失敗に帰し、其滑稽なる仮装舞踏会は世人の呪詛する所たりしにもせよ、日本を新たにせよ、新たなる日本を打建てよ、日本に授くるに第十九世紀文明の洗礼を以てせよとは猶ほ識者の唱ふる所なりき。吾人は此の如き思想の猶は日本の人心を支配しつゝありし徴候として当時最も流行したりし徳富蘇峰氏の国民之友と、巌本(いはもと)善治(よしはる)氏の女学雑誌とに就きて少しく説く所なきを得ず。

 

     「国民之友」及び「女学雑誌」

 

 此に不知火の筑紫の一隅、熊本の東郊に大江義塾と称する一個の村塾ありき。是唯真に少(ちひ)さき学生の一群に過ぎざりき。此学校の中心たりし老先生は則ち小楠門下の実学派たる徳富淇水先生なりき。されど学生の依つて以て其精神的首領としたるものは実に先生の長子たる蘇峰君に外ならざりき。此塾は明治十五年より十九年を以て共存在の時期としたるが故に当年の蘇峰氏は二十歳乃至二十四歳の青年たるに過ぎざりき。されど彼れは新島門下の秀才にして政治に於ては自由、趣味に於ては泰西的なりき。彼れは当時に在りても固より正当なる耶蘇教徒を以て自ら標榜したるものに非りき。されど彼れは所謂熊本の「バンド」の一人にして、新島先生の愛好したる弟子たりしのみならず、其朋友には多くの耶蘇教徒を有したりしが故に、若し類似の思想を有するを以て人民の類属を定むべくんば当時の彼はたしかに耶蘇教徒の類属として観察すべきものなりき。而して読者は之と共に当時の熊本県が紫溟会の世の中、佐々友房の済々黌の世の中たりしことを記憶せざるべからず。国権論、保守論、若しくは時として神政論すら実に大江義塾の周囲を廻りて喊声を揚げつゝありしなり。されば当時の大江義塾は半夜数ば反対党の悪少年より瓦礫を投ぜられたることありき。義塾の門を潜(くゞ)るものは謀叛人に非れば、少くとも謀叛人の卵の如く思はれたりき。然れども見よ。此の如き保守党の胎中に育ちたる進歩主義の信者が一たび足を揚げて東京の文壇に乗り出だし、明治二十年二月の十五日を以て国民之友第一号を出だすや、世間は直ちに喝采歓呼して之を迎へ、其演行闊歩に任じたるに非ずや。吾人は巌本善治氏の女学購誌に就ては不幸にして国民之友の歴史を知るが如く許ならずと雖も、雨も此雑誌が国民之友と前後して世に出で大胆にも基督教主義たるを告白し、其泰西趣味を鼓吹して、而も多くの読者を有したるを見れば吾人は此二雑誌が時代の潮流を知べき二個の明白なる徴候たることを信ぜざらんと欲するも能はざるなりや吾人は固より蘇峰氏の才を敬し、巌本氏の怜悧なる人なるを認む。されど此の如き成功を以て単に個人の才能に帰するは蓋し誤れり。二君が当時の日本人に寵愛せられ、恰も文壕の双璧として尊敬せられし重(お)もなる理由は、二君の才能よりも二君が最も善く時代の要求に応じたるが為めなりと云ふは冷静に当時の思想界を観察するものゝしか認めざる能はざる所なり。されど吾人は此二の雑誌が盛運を有したるを見て日本が恰も新主義新信仰を要求しつゝありしことを証すると共に耶蘇教が好意を以て世間より眺められつゝありしことを証すべき一材料たることを断言せんと欲するものなり。


   同志社大学の運動 

 基督教会の前途が此の如く希望に満ちたる時に方りて、新島襄の同
志社大学設立の運動は始まれり。是れ実に基督教徒に取りては最も大
胆なる計画なりき。何となれば、此時までの日本に於て教育界を横断
したる勢力は大学及び文部省に隷属する所謂官学と、大隈伯の専門学
校と、福沢諭吉の慶応義塾とを三個の中心としたるものにして恰も天
下三分の形あり、基督教徒は此間に介在して別に各所に「ミッショ
ン・スクール」を有したりしに拘はらず、其勢力猶ほ甚だ微弱にして
到底彼等に比肩するに足らざりしを、今や百尺竿頭一歩を進めて、直
ちに基督教主義の教育を以て日本教育界に一王国を劃せんと欲するも
のなれはなり。新島襄は始めより日本の精神的教育に関し深くして且
大なる興味を有したりき。彼は伝道者なりき。されど彼れは教育と伝
道とを分ちて二と為(なさ)んとは欲せざりき。伝道と教育とは精神的訓練の
両面にして、就中日本に於ては教育を以て最も急務なりとせざるべか
らずとは彼れの深く信ずる所なりき。久しく自由の国に在りたる彼れ
は独立自由の尊ぷべきことを知るに於て、高く日本紳士の水平以上に
在りき。彼れは米国に在りて始めて新日本の使節たる岩倉、大久保、
木戸の一行に会せし時、日本従来の慣習に依りて此等の長上の前に平
伏頓首するの礼を取らず、却て米国風なる平民的の礼を取らんことを
欲したるのみならず、当時日本政府の金に依りて米国に留学し居たる
十二名の書生と同様に取扱はるゝことを欲せざる旨を公言したり。そ
は彼れは自ら自由の国に育ちたる独立の紳士なりと信じたればなり。
彼れは其人と為り寧ろ保守的なりき。寧ろ感情を抑へて現はさゞるに
傾きたるものなりき。彼れは青年を煽動し若しくは青年に拝まれんに
は余りに開放的ならざりき。彼れは物徂徠の如く快濶ならず、日蓮の
如く放胆ならず、寧ろ其性情を抑へて外に表はさゞる人なりき。され
ば彼れは決して世人に好愛せらるべき性格をのみ有せざりき。否彼れ
は時として世人に誤解せられたるのみならず、同じく基督教徒たるも
のにすら其心事を猜疑せられたることなきに非ざりき。されど彼れは
此の如く退一歩的、抑遜的、非開放的の外衣の下に恐るべき熱誠を包
みたりき。後れは何処にも友を作り得べき愛嬌者に非ざりき。されど
彼れは少数の友に熱愛せらるべき誠実を有しき。而して彼れは此の誠
実を以て民政の信者なりき。斯の如き素養は彼れをして官学の勢力あ
る日本教育の闕典(けつてん)に目を閉ぢしむること能はぎりき。彼れの見るとこ
ろに依れば日本政府の教育は固より多少の功無きに非ず。日本の帝国
大学は固より幾多の人才を出さざるに非ず。されど子は母胎に宿り、
母胎は子の躰質に関係するが如く、官学の産出したるものは遂(つひ)に官学
的たるをまぬかれず。利巧なる秘書官は出でたり、熟練なる技術家は
出でたり。煩瑣なる法律の糸毫を分析し得る弁護士は出でたり。然れ
ど彼等は単に学問、技芸の人たるのみ。真骨頭あり、抂ぐべからざる
品性あるの人に至りては則ち此の如き学校制度より其産出を望むべか
らず。先づ官吏の手より教育を解放せよ。是れ彼れの深く信ずる所な
りき。思ふに此点に於ては専門学校派も、慶応義塾派も共に彼れの主
張に異議なかりしならん。何となれば官学の跋扈は彼等の均しく愚と
する所なりければなり。されど彼れは之と共に慶応義塾派、専門学校
派よりも更に高き壇上に教育を祭らんと欲せり。彼れは単に当世有用
の人物を作るを以て満足せんとするものに非りき。当時の「国民之
友」記者が最も書く説明したるが如く、彼れの教育主義は人をして
「より高尚なる生活世界」に立たしめんことを欲するに在り。例へば
之を宗教家としては啻に祈祷讃美をなす宗教家たるのみならず併せて
上帝の眼中に於て義とせらるゝ宗教家たらんことを欲し、之を政治家
としては独り利巧なる政治家たるに止まらず、併せて民を愛し国を愛
するの政治家たらんと欲し、之を文学者としては独り能文(のうぶん)なる文学者
たるに止まらず併せて正義を愛し真理を愛する誠実なる文学者たらし
めんと欲し、之を人民としては独り其衣食に汲々たるのみならず、併
せて其品行、性質、気風の上に於て更に高尚甘美の生活を得せしめん
とするは彼れの教育主義なりき。彼れは此主義に依りて所謂同志社大
学なるものを設立すべき企図を懐き明治十八年を以て再び其第二の故
郷たる米国に渡り、到る所の慈善家に訴へて資金の義捐を求め、其帰
国するや明治二十一年同志社大学設立趣意書を公けにし以て自ら京都
より東京に出で奔走尽力到らぎる所なかりき。当時彼れは既に心臓病
の大患に罹(かか)り人をして死期の遠からざるを危ぷましめたれども、其雄
心烈志は彼れをして病床に横臥すること能はざらしめ、殆んど自ら死
の手の彼れを覆ひつゝありしを知らざるものゝ如くなりき。彼れは心
臓病の仇敵とも云ふべき沍寒の時に向つて京都より東上し、此残忍な
る天気を対手(あひて)として上野に入り、更に進んで福島に到らんとし、傍人
の諫止するが為めに、僅に其行を思止まり、上野よりして再び東京に
帰れり。若し彼れをして行く所に行かしめば彼れは其骨を白川関外に
埋めしならん。夫(そ)れ風起れは雲飛ぷ。彼れは実に精神教育の大風を捲
起したるものなり。されば当日まで基督教会の勢力を蔑視したる社会
も此に至つては些か驚かざるを得ず。主我的感情の盛なることに於て
はたしかに一個の江戸児たりし帝国大学の教授外山正一は此の如き形
勢を見て盛んに帝国大学の効能を吹聴して以て之に対抗せんとせり。
されど基督教会は当時に在りては日本に於ける進歩主義者の歓迎する
所なりしかば、新島氏の事業に同情を表するもの中々に多く寄附金の
高も亦少からざりき。


     新島襄の事業が有したる欠典


 余をして新島氏の事業を評せしめよ。不幸にして中道に斃れ其事業
の結果も亦思はしからざりし新島氏其人は固より日本現代史を論ずる
ものをして深き同情を寄せしむべき価値あるものなり。然れど事実を
語れば新島氏の事業は其根底に於て大なる欠陥を有しき。他なし彼れ
が外国定教師と事を共にしたること是なり。余は嘗(かつ)てデビス氏の著は
したる「新島襄先生伝」の批評に於て之を論じて左の如く曰ひき。

 日本に於ける幾多の敬虔なる人士が外国宣教師と事を共にしたる
が為に無益の精力を消磨し不思議の濡衣を着せられ、思想の活動を
失ひしもの多きを見れば余輩は真に痛歎に堪へず。正直なるデビス
氏は此書の内に於て同志社の存在が始めより或る外国宣教師の為め
に猜疑せられ、無用視せられ、反対せられ、妨害せられたることを
記るしたり。先生(此には新島氏を指す、以下同じ)も亦嘗て米国
伝道会社に対して外国宣教師が聖書を教ふること過度に失し、学術
の教授を怠慢に付したるが為に有為の青年をして同志社に失望せし
めたることを非難し、彼等が自ら日本の国情に迂(う)なるを知らず。自
ら進んで日本の教役者を養成することをせず。却て本国より宣教師
の来援を求むることを譏(そし)れり。先生が彼等の難有迷惑なる干渉を
(いさぎよし)とせざりしや知るべきなり。若し先生にして始めより洛陽の一
布衣を以て自ら居り、閑雲野鶴。真に孤独の伝道者たるを覚悟した
らんには、余輩は先生の流風余韻更に大なるものありしを信ずるな
り。然れども是唯備るを君子に求むるの言のみ。ハーディー氏の
(ふところ)に投ぜし時より先生は外国伝道会社の捕虜となるべき運命を有
したり。先生が伝達会社と離るゝ能はざりしは殆ど宿命なり。余輩
何ぞ之を酷論すべけんや。余輩は唯独立を喜び正直なる信仰を喜び
し大なる精神が外国伝道会社の桎梏に苦しみつゝありしを哭(こく)せんと
欲するのみ。(明治三十六年独立評論第九号)

 同志社大学の企図善しと雖も、同志社にして外国宣教師の勢力範囲
たる間は是亦真個の独立自由を有する学枚にはあらざるなり。新島氏
は官吏の手より教育を自由にせんとせり。されど官吏の手より自由に
したる教育を取りて之を宣教師の手に渡さば是れ唯五十歩百歩の論の
み。是れ唯一の自由を買はんが為めに他の自由を売るものゝみ。余は
此点に於て福沢諭吉の独り群碓に卓然たるを見る。何となれは彼れは
何人にも依頼する所なく独力を以て其教育事業を建てたれはなり。

 

       神学論の紛争

 

 日本の基督教会は同志社大学運動の前後を以て蓋し其の幸運の絶頂
に達したるものなりとせざるべからず。何となれば是より以後の基督
教会は一面には保守的反動の為めに外部の庄迫を蒙り他の一面には神
学的紛争の為めに内部の解弛(かいし)を来たし、爾来(じらい)殆んど二十年間、遂に著
しき進歩を見ることなければなり。請ふ余をして先づ神学論の紛争を
説かしめよ。此処(こゝ)にも日本思想界の遅鈍は明白に現はれたり。ダルウ
ヰンの種源論が安政六年の著述たるに関せず日本に於て進化論の声が
人民の間に聞えしは実に明治十三四年の交、則ち四半世紀の後に在り
しが如く、日本の神学界は亦それよりも更に久しく泰西の神学界に後
れたりき。夫(そ)れストラウスの基督伝を著はせしは天保六年に在り、
「ちうびんげん・すくうる」の祖バウルが「馬可(マルコ)伝の研究」を公にし
たるは嘉永四年に在り。其歿したるは万治元年に在り。日本に在りし
神学を研究する学生にして若し其志す所、飛耳長目広く世界の智識を
集むるに在りしならば、神学界に大波動を起したる此の批評的、歴史
的の新思想は決して看過され得べき筈のものにあらざりき。されど不
思議にも基督教会に連りたる日本の学者等はバウル歿して三十年の後
に至るまで遂に所謂高等批評派の何ものたるを知らず。外国宣教師よ
り黴(かび)の生えたる旧神学を教へられて、而も多く之に疑義を挟まざりき。
余は嘗て明治二十二年頃当時日本に於て有力なる伝道師の一人がバウ
ル、ストラウスの名を知らざりしことを知れり。是はたとひ偶然の事
なるにもせよ、当時の日本に於ける基督教神学が極めて幼稚の状態に
在りしことは此一事之を証して余(あまり)あり。此点に於て当時の基督教会は
決して当時の帝国大学を笑ふべき権利を有せざりしなり。されど一た
び覚めたる人心は再び眠ること能はず。明治十七八年頃より日本の基
督教徒の内には新神学に注意するの人を生じ、此に始めて基督教義の
根底を動揺せしむべき新智識に対する摸索は始まりたり。而して之に
(つい)矢野文雄氏の報知新聞紙上より「ゆにてりあん」教義の日本に採
用すべきものなることを唱ふるあり。「ちうびんげん・すくうる」の
流を斟(く)める独逸普及福音新教伝道会より牧師スピンネル氏を送り来る
あり。同二十年の春米国「ゆにてりあん」のナップ氏渡来し、其秋独
逸普及福音新教伝道会シュミーデル夫妻来り。同二十一年にはナップ
氏所々の宴会に出席して其教理を陳(の)べ、独逸普及福音新教伝道会なる
もの起り、同二十三年には「ゆにてりあん」教義を主張すべき機関と
して雑誌「ゆにてりあん」出で、「ちうびんげん・すくうる」の高等
批評を伝播(でんぱ)すべき機関として雑誌「真理」出で、更に「ゆにばさりす
と」の宣教師べリン氏の渡来を見たり。「ゆにてりあん」と「ゆにばさ
りすと」とは日本に於ける耶蘇教徒も嘗て其教義に関して聞く所なき
に非ず。且其説く所も主として哲学的なりしが故に未だ必しも所謂正
統教会の信条を動かすに足らざりき。何となれば彼等は「ゆにてりあ
ん」等の武器が哲学たる問は猶ほミル、スペンサーの哲学と戦ひたる
が如く之と戦ひ得べければなり。独り「ちうびんげん・すくうる」を
代表する独逸普及福音教会の主張に至つては恰(あたか)も自刃直ちに我が心臓
を突かんとするの勢あり、殆んど之に対抗すべき所以を知らざりき。
何となれば此学派の武器は科学的、歴史的の批評に基きたる旧新約の
研究を基礎とすればなり。従来耶蘇教学者が哲学者の論難に逢ふや、
之に答ふる所は基督は歴史上の人物にして、基督教は歴史的産物なり、
聖書は歴史的に信憑(しんぴよう)すべき書籍なり、哲学者と雖も歴史的事実を動か
す能はずと云ふに在りき。されど「ちうびんげん・すくうる」は一歩
を転じて直ちに基督教の歴史的価値に向つて科学的穿索(せんさく)を為さんとせ
り。是れ一躍直入我室を襲ひ、我刀を奪はんとするものなり。無学な
る外国宣教師の言ふ所をのみ信用して久しく神学界の進歩に日を閉ぢ
たりし日本の耶蘇教学者も此有力にして而も根本的なる論難に対して
は何ぞ狼狽(らうばい)せざるを得んや。諺(ことわざ)に曰はずや盲人は蛇を恐れずと。蓋し
当時の耶蘇教会に於ても固より蛇を恐れざる盲人ありしならん。され
ど苟(いやしく)も相応の思慮あり、教会の前途を速察し得るものは何人も雑誌
「真理」なるものは所謂正統教会に取りては其信仰の根底より動揺せ
しむる恐るべき革命の星火たるを認めざるを得ざりしなり。而して不
思議にも此新主義の渡来と前後し所謂正統教会内に在りても新神学の
声漸く高まり、明治二十二年の七月六合雑誌に於て小崎弘道は聖書の
「インスピレーション」を論じ、従来聖書は神の聖徒の手を仮りて書
かしめたるものなるが故に過誤なきものなりとしたる正統教会の主張
に反し「インスビレーション」の意義は単に記者が神の感化を受けた
りと云ふに止まれりと論じ、同二十三年、新たに欧米の観光を終へて
帰朝したる植村正久は信条制定論を唱へて従来の信条を改正すべしと
論じ、同じく世界観光の帰朝者たりし横井時雄も亦進歩主義を唱ふ。
或は三位一躰の教理を疑ふものあり。或は贖罪の教理を難ずるものあ
り。或は処女降誕説を笑ふものあり。当時迄は世間より日本基督教会
の総機関なりと認められたる「六合雅誌」は今や全く進歩派の手に落
ちたるものゝ如く盛んに新神学の声を掲げ、同二十四年の六月に至り
ては遂に金森通倫の「日本現今の基督教並に将来の基督教」なる小冊
子の出版を見るに至れり。然り是れ真に小冊子なりき。されど彼れは
此小冊子に於て最も大胆に、最も明白に、高等批評派の主張を是認せ
り。彼れは実に直線的大蹈歩の態度を取りて正統派を蹂躙せんとせり。
夫れ小崎、植村、横井、金森の諸氏は当時に在りて日本の基督教会が
仰いで以て其案内者とする学者なりき。「六合雑誌」が日本の耶蘇教
会に属する青年の為めに唯一個の蜂火台たりし時に当りて、其論壇を
華麗ならしめたる重要なる記者は実に此等の諸氏なりき。此等の諸氏
を除けば当時の「六合難破」は殆んど白紙たるに過ぎざりき。而して
今や此等の諸氏を挙げてたとひ其調子には緩急あるにせよ、たとひ其
議論には漸進あり、急進あるにもせよ、共に均しく新神学を唱へ、若
しくは新神学に同情を表するに至りては是れ実に我国の基督教会を挙
げて大波瀾大変動の中に投ずるものに非ずして何ぞや。是よりして後、
基督教会は全く其思想の鎮静を失ひたり。彼等の或ものは儒教的趣味
を其説教に調和するものあり、或は生噛りの禅学を振舞はすものあり。
奇々怪々、突梯滑稽殆んど名状すべからず。遂に明治二十七年に至り
て横井時雄の「我邦の基督教問題」と題する書を見るに至れり。此書
の論ずる所大要左の如し。

(一)旧神学破壊せざるべからず。
(二)新神学建設せざるべからず。
(三)教会の基督教を説かずして基督自身の基督教を説くべし。
(四)万法の絶対的大原は不可知的なり。
(五)神は万法に顕現す。基督は神の顕現なり。
(六)吾人々類は遂に人類たるの立場を脱すべからす。而して人類
として吾人の最も確かに覚知する所は倫理的理想を発揚実現すべき
の任務なり。此任務は走れ吾人に取りて最も確実、最も高尚なるも
のなり。吾人の仰で神といふ所のもの又神ありと信ずる所以のもの
は要するに人類としての道心の要求に基かざるべからず。

 彼れの説く所は決して珍奇のものに非ず。苛も神学史の一頁をも読
みたるものは彼れの如き凡神的思索家の数ば教会を騒がしたることを
知らん。彼れの態度は必竟哲学的にして科学的に非ず。彼れの思想は
固より未熟にして無数の矛盾を有す。事実を曰へば精神的に一個の新
世界を開拓せんには彼れの思想は余りに幼稚にして余りに浅薄なりき。
されど彼れをして此の如き告白を為すに至らしめたる所以は実に後(おく)
(ば)せに欧洲の神学革新の思想に触れたる日本基督教会の動揺なり。彼
れの著述は此点に於てたしかに日本思想史の一地標として見るべきも
のなりき。

 

     神学論の紛争(二)

 

 新神学を唱ふるものゝ此の如く簇起(そうき)したる時に方(あた)りて所謂正統教理
を固執すと称する人々の間に於て、敢(あへ)て明かに其旧信仰の旗幟(きし)を樹(た)
て神学的争論に立入るものゝ甚だ少かりしは余の深く遺憾とする所な
り。余の知る所に依れば当時に在りて植村正久は曾て一たびは進歩派
たるべき気色を示したれども、中ごろより其の態度を一変して旧信仰
に還(かへ)り、正統派の一(げうしやう)として善く戦ひたりき。内村鑑三も亦其の嘗
てダルウヰンの信者たるを公言したるに関(かゝ)はらず、常に正統派の側に
立ちて其犀利(さいり)なる評論を逞しくしたりき。されど其他の人々に至つて
は当時既に基督教会に在りて先輩の名を贏(か)ち得たるものと雖も多くは
神学問題に触るゝことを避け、或は故(ことさ)らに遁辞を設けて進歩派と戦は
ず、只管(ひたすら)教会の壁内にのみ蟄居(ちつきよ)し、纔(わず)かに不平の語を発するに過ぎざ
りき。夫れ精神界に出陣して他人の戦を挑むに逢ひ、壁を堅うして出
です、天下の人心を惑はしめて、而も之を救ふ所以を知らず、是れ豈
怯懦の振舞ならずや。此書の記者が当時日本「メソヂスト」諸派の機
関たりし「護教」の紙上に於て大胆にも自から神学問題に容喙し、進
んで旧教義を維持せんとする一人たるべしと告白したるは実に此の如
き先輩の態度に憤慨したるが為なりき。事実を曰へば当時の記者は神
学の智識に於て其有する所の材料甚だ稀薄なりき。されど記者は信ぜ
り。教会にして其信条を護持すべき理由を明白にせずんば是れ三軍向
ふ所を知らざるものなり。記者は自ら神学の戦場に出づべき兵糧弾薬
に乏しきものなるを知る。されど信仰の野は既に戦場となれり。一張
の弓、一本の槍の持主と雖も亦出陣を辞すべからずと。彼れは此の如
くにして所謂正統派の為めに戦はんとせり。彼れ思へらく今や神学の
分野は紛々擾々殆んど寸前暗黒の観ありと雖も是れ決して珍らしき現
象に非ず。教会歴史は数(しばし)ば恐るべき批評と懐疑の教会を襲ひしことを
記せり。されど風雨の後には必ず晴天あり。流動的なる泥土の一掃せ
られたる後に堅固なる岩石は残る。天下正に神学の不定に苦しむと雖
も神学は直ちに信仰に非ず。況(いは)んや一方に偏理派、高等批評派あれば
他方にはオックスホルド運動の如きものあり。一方に科学に重きを置
くものあれば他方には古典に重きを置くものあり。科学も一個のカな
り、されど古典も亦一個の力なり。歴史の研究は固より宗教に達する
一方便なり。されど歴史は直ちに宗教に非ず。「ちうびんげん」派は
基督の基督教を研究せよと云ふ。然れど教会が依つて立つ所は自己の
基督観なり。基督は歴史家より曰へば固より史的現象の一なり。歴史
の連鎖の一片なり。されど信者の眼より見れは是れ神なる人なり。夫
れ神と云ひ、英雄と云ひ、人間と云ふ。是れ唯人が其逢遭したる人物
に対する信仰のみ。一個の流星ありて天に輝くとせよ。物理学者は是
を以て単に物質の焼燃したるものなりとせん。されど詩人をして之を
見せしめば別に其以外の意味あらん。宗教は心の経験なり。神秘的解
釈なり。歴史家の眼中に映じたる歴史上の基督は宗教家に在りては基
督の衣粧に過ぎず。宗教家は更に自己の宇宙観、自己の神秘眼を以て
内なる彼れを見ざるベからず。ベテロは斯の如くにして彼れを見たり。
バウロも亦此の如くにして彼れを見たり。信心深き昔しの教会も亦此
の如くにして彼れを見たり。所謂基督教なるものは基督に対する教会
の信仰に外ならず。是豈批評的研究、考証的研究の全然占領し得べき
区域ならんや。宗教は詩歌の如し。論理分析の達し得る所に非す。凡
人は英雄の伝記を解釈し能はず、宗教的研究を為さんとせば、予じめ
研究者の心に宗教的生命あるを要す。所謂新神学を唱ふる人々の如き
は此一点に於て未だ深く思を致さゞるものゝ如し。何となれば歴史的、
科学的の研究を以て最初にし且最後なる方法とすれはなりとは彼れが
其論拠とする所なりき。今日の彼れより当時の彼れを顧みれば是固よ
り年少の客気に凝られて徒(いたづ)らに勝を求むるものなりと云ふべけれども、
当時に在りては、彼れは実に自ら神学の戦場に乗出すべき余儀なき運
命に迫られたりと感じたりき。されど是れ遂に徒労なりき。所謂正統
的基督教会の全躰は「ちうびんげん・すくうる」の侵入に対しても、
新神学の挑戦に対しても、冷々として殆んど之に取合はず、異論者の
為すが儘(まゝ)にして敢て之と争ふこと無く、彼等に対して自己の旧信仰を
維持せんと勉めたることも無く、さりとて進んで彼等の説く所を研究
し相応の譲歩に依りて、新しき信条を造らんとしたることもなく、苟且(かりそめにも)
偸安(とうあん)を事とし徒らに正統教会の外貌をのみ粧ひ居りしは共に無責
任の挙動なりしと云はざるべからず。さればこそ此時よりして後、教
会内の信仰は自然に冷却し、其智識ある階級は自ら自己の属する教会
の信条を軽蔑するの傾向を生じ、爾後十余年間の運動、殆んど見るに足るものなきに至れり。記者は敢て自ら先見の明ありと云はず。されど当初若し教会の所謂先輩にして進んで神学の争論に入り、大に戦つて衆志を一定し、其信仰の旗幟をして明白ならしめたらんには、合すべきものは合し、離るべきものは離れ、教会内に於ける自由なる精神的化学作用を見るべかりしに、事、此に出でざりしが為に、教会内に於ける人心は所謂面従腹背の傾向を生じ、明治二十年頃迄の基督教会が特色としたりし誠実にして熱心なる信仰を失ふに至るは返す返すも惜しむべきことなりけり。

 

     新神学に対する教会の態度、公明ならず

然りと雖も神学の争論を生じたるは基督教会に取りては必しも悲しむべきことに非ず。何となれば是れ基督教会をして更に新しく、更に堅固なる基礎に立たしむべき準備とも見るべければなり。たとへば「ちうびんげん・すくうる」をして全く勝利を得せしむるも是亦基督教の滅亡を意味せぎるなり。科学の進歩が詩歌を亡ばす能はざる如く、批評と考証とは如何ほど清細を壌むるとも遂に宗教を亡ぼすこと能はず。智識は現象を見る、現象の背後に至つては則ち宗教の領分ならざるを得ず。「ちうびんげん・すくうる」の人々と雖も聖書と教会との内に存する宗教的要素は依然として之を敬重す。否元来「ちうびんげん・すくうる」なるものは批評的、考証的、偏理的の独逸純理派に抗して、基督教会の宗教的要素を維持せんが為めに起りたるものなり。されば神学の争論は、たとへば如何ほどの極端に達するも、そは決して恐るべきものに非ず。独り日本の教会が此神学的争論の為めに全然其活力を失ひたるは蓋し別に理由あり。他なし、其教会に属するものの多くが外国宣教師と事を共にしたるが為めに神学問題に対する態度の甚だ公明を欠きたること是なり。新島氏の場合に於て発見し得べき同一の桎梏は均しく日本に於ける基督教会の他の伝道者を苦しめたり。彼等の多数は外国伝道会社の補助に依りて其伝道事業を支へたり。而して外国伝道会社の多数は依然として所謂正統教理を固執するものなり。是に於てか基督教会の伝道者は新神学の起ると共に気の毒なる位置に陥れり。彼等にして若し自由に其所信を吐露せんには彼等は直ちに其事業の財源を絶たれざるを得ず。彼等を目して衣食の為めに其信仰を曖昧にしたりと云ふは固より公平の批評ならざらん。されど彼等の此の如き位置が彼等をして自由に、大胆に、正直に神学上の争論に入るを得ざらしめたる事情ありしは疑ふべからず。是れ実に日本の思想家として赤面すべき事実なり。是れ実に基督教会をして新神学の勃興と共に之に対する適当の動作を為すを得ざらしめたる所以なり。是れ実に教会が遂に其活力を失ひたる所以なり。討論の自由は真理を亡ぼすものに非ず。教会が神学的争論の為めに衰微したるは討論の自由ありしが為めに非ず、其数会の思想家が自由討論を掣肘せられたるが為めに曖昧の態度を取りしに依れり。是は日本基督教会史の拭ひ消すべからざる汚点として痛悔すべきものなり。

 

     保守的反動(一)

 

 余は更に筆を進めて恰も神学紛争と同時期に起りたる保守的反動に対する基督教の位置を記さざるべからず。井上伯伊藤侯等が条約改正の一策として欧化主義を鼓吹し、而して遂に失敗したること、条約改正事業はかく失敗したりと雖も、一たび泰西的の学問と趣味とに啓発せられたる人心は依然として世界文明の輸入に急がしく、従つて基督教に対する世間の感情も甚だ良好なりしことは、余の度に説きし所なり。されど反動は遂に来らざるべからず。最初の動機の外交政策に出でたる欧化主義は、当分其政策の必要頂きと共に遂に其活力を失ふの時期なきを得ず。況んや世界的趣味に対する国民的趣味は早く既に数年の前に発現し、次第に一部の人士を改宗せしめつゝありしをや。余は明治十七年頃より大学及び官吏の間に所謂独通風なるものゝ吹き来りしことを知れり。独逸風とは何ぞや。若しマンチェスター派の自由放任と世界的精神とを以て英国風といふを得べくんば独逸風はマンチェスター派の自由放任を尊ぶに反して制度立法を重んじ、其世界的精神の盛んなるに反して国家的精神を重んずるものなりと云ふを得べし。次で同じく十八年伊藤内閣の成立するに至りて森有礼は文部大臣と為れり。彼れは現代日本の文臣列伝中に於ける一個の珍品なり。彼れは何時にても極端に立つ。彼れは何時にても余り多く時代に先ちて進む。彼れは封建制度の倒るゝと共に直ちに廃刀論、男女同権論を唱へ、国語を廃し英語を以て教育上の語と為すべしと論じたるのみならず、自ら其生活を欧洲人の如くならしめんとせり。彼れは天下の秋を告ぐべく最初に落つる一葉なり。彼れの転意は常に余りに早きに失す。然れど十年後に至りて彼れの為せし所を見れは彼れは常に時代の先頭に立ちて進みしものなり。此点に於て彼れは常に来るべき時代を予期しつゝありしものなり。而して彼れが此年に於て文部大臣となりしと共に専ら力を国民的教育に尽くしたるは当時の思想史を論ずるものゝ特に注意すべき点なりとす。彼れ曰く

 今日の教育に於て大切なるもの三。曰く品格を保つこと。曰く従順なること。曰く他人に対して同感情を発すること。而して此三個のものは武事教育に由て達せらるゝことを得べし。何となれば武事教育は人才して厳粛ならしむるものなり。長上の命に従順ならしむるものなり。各々行伍の間に於て相互に昆弟の好を発せしむるものなり。而して此三者の性格を備へたるは即ち国民の本分を尽すを得べきなり。

 彼れは学生は国家の為めに学問を為すものなり。学校は国家の為めに人民を作るものなりと信じたり。天下正に自由を説き、世界的文明を説き、ミル、スペンサーを説き基督教を説き、国家を以て必要の害悪なりと説きし時に方りて文部大臣たる彼れは国家の為めに忠良なる臣民を作るを以て主眼とし、忠良なる臣民を作るは武事教育に在りとし、凡そ教育の世界を挙げて、上は大学より下は小学故に至るまで生徒として学校に在るものをして、悉く兵隊たる資格を帯ばしむるを以て其数育の骨子とし、小学校生徒に木銃を担はしめ、師範学校生徒に向つては半ば兵営の如き生活を為さしめんとす。是豈常識を失したる行為に非ずや。されど其実は森有礼が森有礼の為すべきことを為したるのみ。彼れは実に其身を以て来るべき国民的反動(欧化主義に対する)を予報したりしなり。されど是れ猶ほ未だ滔々たる欧化主義の大潮流を廻らすには足らざりき。既にして井上案は失敗せり。天下始めて欧化主義を厭ふの情あり。尋(つい)で明治二十一年に至りて雑誌「日本人」出でたり。是れ実に国民的反動が文壇の声として現はれるものなりき。一派又一派、細流も合すれは大河となる。天下正に貴族的急進主義に飽き、摸倣的文明に飽き、英国流の政論に飽く、奚ぞ反動家得意の時に達せざることを知らんや。諺に曰く山上寸許の雲、麓に至れば沛然たる雨となると。国家主義なるものは恰も沛然たる猛雨の如く日本思想史の上に注ぎ来れり。而して之が為めに多大の苦痛を感じたるものは実に基督教会なりき。

 

     保守的反動(二)

 

 此に読者の注意を請はざるべからざるものあり。他なし、明治十四五年の交に起りたる保守的反動は具体的に曰へば漢学の再興に過ぎざりしかども明治二十年頃より起りたる保守的反動は国民的自覚の一現象に外ならざること是なり。勿論後の保守的反動と雖も、山寺の和尚、古神主、窮経を懐ける儒生等の喜んで之に投ずるものなきに非ざりしは事実なり。然れど此反動を生ぜしめたる党派の幹部は決して泰西の文明に対して見解を有せざるものに非ざりしことも是亦事実なり。彼等は明治四年の独逸統一を思想史の地標として其前後に起りたる欧洲諸国々民的運動の精神を呼吸せり。彼等は明治四年以来幾度か日本政府に依りて企てられ裁たびか失敗したる条約改正の事業を目撃して深く日本国民の意気地なきを憤れり。彼等は日本が思想と風俗とに於て殆ど泰西の一州たらんとするの傾向あるを以て最も危険なる現象なりとせり。彼等は欧洲列国が国語に於て、文学に於て、風俗慣習に於て勉めて国民的特質を維持せんとするを見たり。是に於てか敢て明かに国民に向つて宣言せり。曰く「摸倣する勿れ」。曰く「国粋を保存せよ」。曰く「日本国民の特質たる忠君愛国の精神を培養せよ」と。彼等は遂に思想の潮流を飜へせり。所謂国民的精神(当時彼等の議論に同情なかりしものは之を保守的精神と唱へたり)は遂に勝利を得たり。久しく世界主義、自由主義の一方に傾きたる思想の天秤は更に他の一方に傾き始めたり。何の世と雖も思想の潮流が恰も水の出花の勢を以て一方に激駛するや、遂に其の常度を超えて無益の犠牲を出すことなきに非ず。而して熱心なる基督教徒にして正直なる愛国者たりし内村鑑三は此の気の毒なる犠牲の一人として先づ世人の注意する所となれり。是れ則ち世人が今も猶ほ内村事件として記憶する所のものなり。是より先き明治二十二年二月十一日憲法発布式の日、当時の文部大臣森有礼は刺客の為めに殺されたり。こは是より先に森氏が伊勢の大廟に於て不敬の行為ありしとの風評あり、刺客は之を信じ、此の如き人物をして国家の文教に任ぜしむべからずと為し、遂に死を決して彼れを刺したるものなりと云ふ。当時の「国民之友」は此珍事に接するや、森氏の保守家たることを論じ、森氏を刺したるものは森氏が鼓舞したる保守的精神に外ならず。保守的精神は森氏に於て不思議にも其犠牲を発見したりと云ひ、人事の矛盾多きことを歎じたりき。若し「国民之友」記者の言ふが如く森氏を以て保守的精神の矛盾せる第一回の犠牲と云ひ得べくんば内村氏も亦同じく第二回の犠牲なりと云はざるべからず。何となれは当時の内村氏は基督教徒には相違なかりしかども而も最も熱心なる愛国者にして、最も痛烈なる外国宣教師嫌ひなりければなり。余は猶ほ記す。明治廿二年の天長節に於て余は麻布の東洋英和学校に於て内村氏の演説を聞きたり。当時彼はその演壇を飾れる菊花を指して曰ひき、此菊花は自然が特に日本を恵みたるものゝ一なり。菊は実に日本に特有する名花なりと。彼れは更に声を揚げて曰く、諸生よ、窓を排して西天に聳ゆる富嶽を見よ。是れ亦天の特に我国に与へたる絶佳の風景なり。されど諸生よ記せよ、日本に於て世界に卓絶したる最も大なる不思議は我皇室なり。天壌と共に窮まりなき我皇室は実に日本人民が唯一の誇となすべきものなりと。其粛々たる態度と、其誠実を表はして余ある容貌とは深く聴者の心を動かしたりき。彼れは科学者なり。彼れは泰西の文学に就て多くの興味を有するものなり。されど彼れは愛国者なり。当時彼れは聖書とシェーキスピーアと太平記とを愛読せり。彼は太平記を愛し勤王の精に焚(も)ゆることに於て醇乎として醇なる日本人なり。保守党なり。されど彼れは不思議にも保守的反動の犠牲となれり。彼れは第一高等学校の教師として翌年の天長節に於て賢きあたりの御尊像を宗教的の意義に於て拝む(オールシップ)することに躊躇したるが為めに世間より不敬なる漢子(をとこ)なりとせられ、教育界に対しては全く流竄者に均しき悲境に投げられたり。久しく基督教徒の態度に対して猜疑しつゝありし世間は氏の一挙に依りて基督教徒に加ふるに不臣、非愛国の悪名を以てして之を罵詈するに至れり。其の年十二月の雑誌「天則」(加藤弘之の発行する所なり)に曰く

 近頃聞く名古見の代言中に徳義家を以て称せられたる有賀某は耶蘇教信者の一人にして其教会中に頗る信用厚き人なりしが、一朝感ずる所ありて断然、該教会を引き去りしといふ。其原因を尋ねるに去月三日の天長節に同教会にて恐れ多くも 我が陛下の御写実の上に某国の国旗を画ける扇面を掛け置きたるを見て大に其の不敬を咎め、直にその扇面を撤せしめ、牧師等に対ひて懇々忠告する所ありしが其後国会開院祝祭の折にも又たこれに類せる所為ありしより、今はとて遂に袂を払ひて脱会するに至りしなりとぞ。

 是れ反基督教の潮流を示すべき一個の記事たるに過ぎず。次で明治二十五年の一月に至りて、熊本英学校長就任式の事あり。教員奥村禎次郎なる人あり、博愛主義を論じ、眼中国家なしの一句に及べり。保守主義の人々乃ち此一句を捉へ来りて盛んに之を非難したりしかば、熊本県知事松平正直は学故に向つて奥村氏の解雇を命じたり。是れ第二の内村事件と云ふべきものなりき。波瀾層々、国民的反動の大潮は今や必ず異教(基督教)を日本国内より一掃せずんば止まざるの勢を以て基督教会の壁外に吶喊し来れり。恰も侯禽時鳥の如く多くは時代思想の太鼓持たるを常とする新聞雑誌は競うて悪名を基督教徒に加へたり。即ち此年八月二十九日の「日本新聞」に

 肥後八代の某小学生徒何某は第一教場に掲げ奉れる聖影に向ひナンダといひ様扇子にて打落しければ、教師は早速呼び寄せ、其所因を糺したるに、傲然として曰く、我が信ずる伝道師は神より外に尊いものなしと申し聞けたるが故に之を打落したるのみと。忽ち地方の一大紛擾となり遂に其生徒に退校を命じたるよし。

と云ひ、此年十月十二日の絵入自由新聞に

 我邦の集治監、監獄は憲法発布以前は大抵真宗の僧侶、教誨師として幾多の手当にて専ら囚徒に教誨せしが、去廿二年二月憲法発布以来、宗教は信仰の自由なるより空知集治監にては典獄大井上輝前氏が仏教を廃し更に基督教誨師を置き囚徒に教誨し、其成績如何は知らざれ共次で官制改革となり。北海道の各集治監は樺戸を本監として空知、釧路、網走は各分監となし、失張り大井上氏は典獄なりしより、悉く囚徒の教誨を基督教として是まで例年一月の元旦には天皇陛下の御真影を囚徒に拝せしめしを本年一月の元且には大井上氏之を各分監に命じ、陛下の御真影を脱して物置の隅に押し入れ囚徒に拝せしめざりき。囚徒は何故に斯くの如くなるやを疑ひしに全く基督教信仰の結果なりとのことなるが、苟も集治監の典獄たるもの何たる不敬ぞや。

 と云ひしが如きは実に其一例なり。而して斯の如き時代精神は遂に明治二十六年に至りて博士井上哲次郎が論文として公表したる「宗教と教育の衝突」に於て最も明白に実現したり。井上氏の論点は要するに、(一)我国の教育主義は明治二十三年の教育勅語を以て基礎とせざるべからず。(二)教育勅語は国家主義なり。忠孝主義なり。基督教は世界主義にして国家主義にあらず。愛に差等なしと説くが故に国家に執着するものに非す。君父の上に天父あり、耶蘇ありと説くが故に忠孝主義に反す。(三)故に耶蘇教と教育とは衝突すと論ずるものに過ぎず。其数育勅語を以て自己の所謂国家主義を明白にしたるものなりとしたる一点を除くの外は彼れの論旨は要するに安井息軒の上に出でず。彼れの基督教に対する智識も亦極めて幼稚なるものなりき。何となれば彼れの全文を通じて彼れは当時の基督教会に存在せし神学の議論に就て全く智識なかりしことを掩ふ能はず。且彼れは聖書批評に関して全然無学なりしが故に聖書作者の全体の目的より、其前後の正当の関係より、其真実の精神より引離して恰も断章取義的の抜萃に依りて聖書の文句を摘録し、之に依りて其基督教非難の議論を築き上げたればなり。されど彼れは当時に於て文学博士として、殆んど帝国大学を代表すべき位置に在りしかば彼れの議論は日本教育社会の全躰に大影響を与へ遂に教育社会の大半を挙げて基督教を敵視するに至らしめたり。

 

     井上哲次郎と基督教会

 

 井上哲次郎氏は日本現代の思想史を論ずるものゝ看過する能はざる一個の形鉢なり。勿論彼れは大なる哲学者に固有なる独創カを有するものに非ず、彼れは一代の思潮を転ずべき壮心烈志あるものにもあらず。彼れの学問も其造詣甚だ深からず、彼の品性も亦必しも吾人の歎美を価するものゝみに非ず。彼れは或点に於て臨機応変者なり。思想界の時節物師(きはものし)なりと雖も、而も彼れは何時にても活動す。彼れは他の帝国大学教授等が多くは学校の壁内に蟄居して寧ろ隠者的態度を取るに反し、常に公々然として時代を批評す。彼れは世と疎なる能はず。世を忘るゝ能はず、何時にても時代の批評家たり、彼れは帝国大学教授としてよりも時代思潮の評論家として最も多く世人に知らる。是れ彼れが日本現代思想史の一人格として吾人の論題たる所以なり。是より先き彼れは久しく官費を似て独逸に留学しつゝありしが其帰朝の後間もなく「欧洲哲学の現況」と題し大学講義室に於て一場の演説を試みたり(明治二十四年)。されど此演説は必しも彼れが哲学者たる価値を増すべきものにあらざりき。彼れは此演説に於て実験哲学及び厭世哲学を以て現代思想の大潮流として之が代表的人物たるコムト、スペンサー、ハルトマンを以て現代に於ける最も大なる哲学者なりと論じたり。彼れがハルトマンを日本人に紹介したるは其新帰朝者たるが為めならん。何となればハルトマンが四十六歳にして「無意識哲学」を出だしたるは彼れが此演説を為したるより僅に二年前の事なればなり。是れ彼れが思想界の時節物師たる所以なり。而して彼れが此演説に於て厭世哲学を以て至高の智識なりと称し、個人の意思責任を無視せんとする汎神論を以て最も科学的、合理的なる思想なりと説きしが如きは哲学者として彼れの重きを為すものに非りき。事実を云へば彼れは当時に於ける欧洲哲学の現勢に就て明白なる見解を有したるものに非ず。彼れはへ−ゲル起り、ヘーゲルの反動として実験派を生じ、実験派の反動としてニウマンの唱道したる如く「哲学の進歩とはカントに還ることなり、政治学の進歩とはアリストートルに帰ることなり」と云ひたるカント復興の大勢を知れるものに非ず。彼れは唯新帰朝者より新しきものを聴くを得べしと予期したる公衆に対して其得意なる新智識を揮廻(ふりま)はしたるに過ぎざるのみ。既にして国民的感情の勃発するや、彼れは好機乗ずべしとなし、忽ち「教育と宗教の衝突」を公けにして日本の基督教会に向つて打撃を加へたり。彼れの論法は最も善く彼れの性格を現はしたるものなりき。彼れの内村事件に関して引用せる記事は実に基督教に対して常に激烈なる憎悪の念を示したる真宗派の機関令智会雑誌なりき。彼れが基督教徒に不忠不孝の挙動ありとして其記事を引用したる新聞雑誌「天則」の如き「日本新閲」の如き、「九州日々新聞」の如きものにして皆是れ基督教に対して敵意を挟むにあらざれば常に之を軽蔑しつゝありしものなりき。彼れは恰も其引用したる新聞雑誌が皆是れ基督教徒の所為とし云へば成るべく悪しざまに書かんとする傾向を有するものなることを知らざるものゝ如く、当時の文部省が基督教を嫌ひ諭告を発して学校教師の基督教に入ることを誡しめたるが為めに、学校内に反基督教の感情湧起しつゝありしを知らざりしものゝ如く、僧侶の嫉妬心と仏教の偏見とが常に基督教徒に向つて無実の悪名を蒙らせつゝありし時代を知らざりしものゝ如く、猶予なく斟酌なく反対の新聞雑誌を材料とし、其基督教徒に加へられたる罵詈を以て恰も確実な基礎の上に立ちたる事実の如く見做して其議論を始めたり。彼れは此点に於て全く学者の公平と冷静とを欠きたり。且彼れは基督教の研究に関して殆んど門外漢なりしかば、其論文中に於ても往々笑ふべき過誤を為したり。たとへば彼れは其論文の一節に於て左の如く曰へり。

  耶蘇(イエス)の愛国心に乏しかりしことは余が已に説明せるが如く其税を羅馬(ローマ)政府に納むべしと冷淡なる返答を為しゝによりて明瞭なるに横井氏は同一の返答を以て耶蘇が忠道を教へたるの証となせり、然れども耶蘇が単に税を羅馬政府に納むべしと云ひたるは果して忠君の主義と見做すべきものなるか、忠君といふは唯々滞りなく税を政治に納むるに止まることなるか、横井氏の弁護は決して余の首肯すること能はざる所なり、且つ又耶蘇が愛国者たりし確証は一も之れなく、却て愛国者たらざりしことは種々なる点より弁明するを得べきなり、然るに前に挙げたる文に拠れば、横井氏はユデアの国勢衰微して最早何んともし難きゆゑ、耶蘇は単に税を羅馬政府に納むべしと云ふに止まりしも、若し英国が独立して一天万乗の君主を戴きしことならば如何程忠臣たるの功績を成しゝかを知らじとの意を述ぶるものなり、然れども当時ユデア国にはへロッドと称する王ありたり、然るに耶蘇はへロッド王に対して如何なる忠義を為しゝか、へロッド王は固より暴君なるも、耶蘇曾て之を諌止したることあるか、又之れを矯正したることあるか、又策を之れに献じたることあるか。

 彼れがへロデの羅馬党にして猶太(ユダヤ)の愛国者より寧ろ売国奴として悪(にく)まるゝものなりしを知らざりしは此文、明かに之を証す。耶蘇伝中に顕著なるかゝる事実すら知らざりしとせば、彼れ何ぞ基督教を論ずるの資格あらんや。且彼れの論法は歴史的に基督教の経典を批判したるものにあらず。全躰として基督教の何でありしかを研究したるにもあらず。単に基督教経典中より数句を摘み来りて其教ふる所の非国家主義に外ならざることを論じたるに過ぎず。かゝる断章取義的の論法を以て之に対せば天下何の宗教哲学か非国家主義のものならざらん。彼れは頻りに基督教の個人主義にして国家主義ならぎるを尤(とが)めたり。然れど若し斯の如き論法を用ひなば儒仏の両教と雖も亦何ぞ彼れの痛責を免れんや。仏教の諸派爪の如く分れ、議論紛々たりと雖も、要するに個人の霊を満足せしむるに在り。所謂悟と云ひ、覚と云ひ、涅槃と云ひ往生安楽国と云ふ。皆是れ個人心霊のことに非ずや。大学に曰く「大学之道、在明明徳。在親民。在止至善」と、所謂明徳を明かにし至善に止まるは是皆個人の事に非ずや。故に又曰く「知止而有定。定而后能静」なりと。是れ先づ己を修むるを以て倫理の基礎となせしものなり。之を要するに国家てふ観念なき若しくは極めて稀薄なりし時代に生れたりし世界諸聖の教訓に就て彼れの所謂国家主義の存在を求むるが如きは是れ無中、有を生ぜんとするものゝみ。是れ実に取るに足らざる空論なり。但し彼れが

 勅語の意は一身を修むるも国家の為めなり、父母に孝なるも、兄弟に友なるも、畢竟国家の為めにして、我身は国家の為に供すべく、 君の為めに死すべき者也

と云ひたるは必しも非難すべからず。国民教育の趣意は実に此の如くなるが故に宗教を信じ良心の独立を重んずるを以て勅語の趣意に反したるものなるが如く論ずるに至りては是れ実に謂れなき空論なりと云はざるべからず。良心の自由なき処には誠実なし、誠実なき所には情なし、情なき所に何の忠君愛国あらんや。彼れの論法は要するに自殺的なり。況や彼れの論題に対する極めて軽卒にして全く学者の態度を欠けるをや。彼れは其論文の冒頭に於て下の如く曰へり。

 余は久しく教育と宗教との関係に就いて一種の意見を抱き居りしも其事の極めて重大なるが為めに敢て妄(みだ)りに之を叙述することを好まざりき。

 何ぞ夫れ学者らしきや。何ぞ夫れ勿躰振れるや。されど、彼れが高橋五郎の痛撃に逢ふや、忽ち其の態度を一変して休戦を請ふに至れり。彼れが高橋に寄せたる公開状は実に左の如し。

  拝啓小生が数月前教育時論に投載したる「教育と宗教の衝突」は全く一時の談話を敷衍したるものにて其文も未だ完備せず且つ引例中多少不確なるものも有之侯故追て正誤致し一冊子として世に公にする積に有之侯故君の御批評は其上にて充分被成下度侯早々寸不備

   三月二十八日             井上哲次郎

    高橋五郎様

 是豈一個の滑稽劇に非ずや。されば全躰より之を評すれば此論文も亦井上氏に取りて成功したるものなりとは云ふべからず。されど大学教授たり、売出しの博士たり、独逸仕込の学者たりてふ氏の名声と、国民的反動思想の潮流とは此論文に虎の翼を加へたり。教育家の大部分は此論文を以て恰も金科玉条の如くに見做し、盛に反基督教の感情を焚(も)やしたり。学校内の基督教徒迫害は始まれり。学枚教師は自ら公然基督教徒たるを白状する能はざるに至れり。田舎の小学校に於ては其数師に煽動せられて瓦礫を教会の窓に投じたる者さへありき。余は明治三十二年の長崎県に於てすら其小学校先生の一部には此の如き反基督教主義の行はれ、而も其人々が多くは井上氏の論文を読み、之に感化せられたるものに外ならざるを見て氏の勢力が決して侮るべきに非ることを感じたりき。

 

    所謂国家教育論者の勝利

 井上氏の論文に対して基督教徒は固より黙して止まざりき。基督教青年会の機関たりし雑誌「基督教青年」は教育と宗教とは其根拠を異にせり、一は国家の上に立ち、他は宇宙に横はる、其衝突の有無を論ずるは論理に反すといひ、本多庸一、横井時雄、丸山通一、植村正久、大西祝、石川喜三郎、前田長太等の諸氏亦各論ずる所あり。就中最も異彩を放ちたるものを高橋五郎の弁駁なりとす。蓋し井上氏も高橋氏も共に基督教に関して組織ある智識を有するものに非ず。今日より彼等を評すれば彼等は基督教の新しき研究に対しては共に所謂読まぬ同志、書かぬ同志なりき。彼等は共に聖書批評に関する最近の智識を有せず、基督教に対する論法に於ては共に断章取義的、哲学的にして歴史的にあらざりき。加之(のみならず)井上氏の論文に対する批判の価値より曰へば高橋氏のものは其の識見の精透なるに於て、其の態度の学者らしきに於て遠く大西氏のものに及ばざりき。されど高橋氏が其の論文を載せたりし「国民之友」は当時の出版物中に於て最も勢力ありしものなりしが故に、其論文は最も名高きものとはなれりと雖も其実は井上氏が基督教聖書の彼句、此句を引き捕へて基督教の非国家主義、非忠孝主義なるを論じたるに対し、同じ方法に依りて基督教聖書の彼句、此句を摘みて其然らざることを弁じたるに過ぎず。固より取立てゝ言ふべき程の価値あるものに非ざりき。而も世間は二氏の誇学的なる大言壮語に驚きて遂に此争論を以て井上対高橋の討論となしたりき。斯の如くにして基督教徒は頗る其の信仰の弁護に勉めたりと雖も、教育世界の輿論は全く井上に謳歌し、教育は須らく国家主義に立つべし、耶蘇教は教育勅語の趣意に反すてふ概念は彼等に在りては殆んど動かすべからざる命題となれり。

 

     基督教会振はず

  此(かく)の如く日本の基督教会は内は神学の争論に疲れ、外は教育家の排斥に逢ひ遂に全く不振の状況に陥れり。かくて明治二十五六年以後の基督教会は其進歩殆んど見るに足るものなく、遂に明治三十五年東京に於て刊行したる一小冊をして

   基督教の萎靡として振はざるや久し。信徒の数は十年以前と異りたることなく、教会の数に至つても亦然り。今日の基督教会は十年以前の基督教会なり。吾人は此に頭数の多少を以て政界の振、不振を論ずるものに非ずと雖もそは亦以て教会の内部生命が萎靡せることを証するに足るべきものなり。

 と云はしむるに至れり。実に日本の基督政界は最近十五六年間、殆んど進歩の徴候を見ざるのみならず、総ての点に於て其衰弱を現はせり。而して其殊に著しきものは所謂名士の次第に基督教会と縁遠くなりしことなりとす。金森通倫は新島襄の高足弟子として、一たびは基督政界の驍将たりしかども彼れは早くも教会より退きて実業界の人とはなれり。横井時雄も亦何時の間にやら政治家となり了(をは)れり。大西祝の如きは青年なる進歩主義の基督教を代表する学問ある紳士なりしかども彼れも亦教会に遠(とほざ)かれり。彼れは教会に出でゝ説教を聴かんより寧ろ家に在りてエメルソン集の如きものを読むこそ我霊性の修養となるべきものなりと云ふに至れり。同志社出身の基督教教師の如きも其俊秀なるものは多くは職を他に転じたり。各派の「ミッション・スクール」にて教育せられたる所謂神学生中にも同一の例を逐(お)ふもの少からず。教会は次第に人才の寂寞を感ぜんとし伝道職は青年有為の人士には寧ろ軽蔑せらるゝものとなれり。外国宣教師の圏外に在りて独立の伝道者たりし内村鑑三は此の如く教会の人才が次第に教職を抛ち去れるを見て深く彼等の軽薄を責めたり。外国宣教師の或ものは其学校に於て養成したる日本書生が其業成るや兼ねて約束したる如く伝道の事業に従事せざるもの多きを見て窃に日本人の不信をつぶやけり。されど斯くの如きは独り彼等の軽薄不信にのみ帰すべからず。其実は教会自身の内に天下の人才をして離れ去らしむべき弱点を有するに至りしなり。此事実は将来伝道に従事するを目的として宣教師学校の神学部に入り来る青年の数次第に減少し、其品質も亦漸く劣等となりたる点に於て更に著しく現はれたり。斯くて教会は人才を失ひ、出席者を減じ、活気少く信仰冷かに徒らに形式を追ふものとなり果てたり。夫れ一時は洋々たる前途の希望を懐きたりし日本の基督教会が此の如く萎靡不振の状態に陥りしは何ぞや。単に之を神学の争論、教育家の反抗、外国宣教師の愚昧に帰するが如きは未だ観察の全体に亘りたるものなりと云ふべからず。余は猶ほ他に大なる二個の理由ありと思う。他なし国民生活の進歩と海外教会の大勢是なり。


     実業熟の勃興と基督教

 何をか日本に於ける国民生活の進歩は基督教会の不振を助けたりと云ふや。明治二十四年の「国民之友」は当時に於ける所謂実業熟なるものを評して曰ひき。

 此頃まで切歯振腕ステッキを振り舞はし、高下駄を着けたる世の所謂壮士等すら手提革嚢を提げ、新形の背広を穿ち実業家になれりと吹聴し歩るくを見れば亦以て実業風の社会を吹き渡るを見るべし

と。是れ実に時の徴侯を告ぐるものなり。日本国民の冨と生活とは維新以来殆んど世界に比類なき長足の進歩を為したり。明治二十二年に於て一億四千万円なりし外国貿易の輸出入は明治二十六年に於て一億九千万円となり、明治三十三年に於ては五億円となれり。久しく武士の隷属たりし日本の商工業者は今や一変して逆まに政府を指揮せんとするの位置に進めり。是に於てか実業界は比較的多額の報酬を払ひて人才を其圏内に集め得ざるを得ず。昔しの青年は政治に志なきものは文学に走り、文学に志なきものは身を宗教界に投じたり。是れ宗教界の時として高才逸足の士を集め得たる所以なり。されど時勢は一変せり。実業界は其広漠にして而も収穫多き野を以て青年を招けり。所謂「野は責ばみて収穫時(かりいれどき)となれり。而して苅る人は少く、収穫物は多し」とは日本精神界の実況に非ずして寧ろ其実業界の実況となれり。基督教界に在りて其数師たらんには労多くして功少く徒らに外国宣教師の残杯冷肴に甘んぜざるを得ざる時に方りて一方に於ては幣を厚くし、俸を重くして歓迎せんとするものあり。天下の人才が教会に赴かずして実業界に行かんとするもの、人情として之を論ずれば決して無理ならぬことなりといふべし。是れ余が国民生活の進歩を以て基督教界に一時の不振を来たしたる一原因なりとする所以なり。


    海外教会の大勢、日本の基督教会に影響す

  文明の進歩と共に交通機関の発達を促がし、交通機関の発達と共に世界と日本との精神的距離を短縮せしめたるは最近の日本思想史に於て最も著しき事実なり。而して此事実は日本の基督教会をして漸く欧米の諸教会と水準を保つに至らしめんとす。それ欧米に於て第十九世 紀の下半期が基督教会不振の時期たるや掩ふべからず。たとひ其部分に於て之を論ずれば或処には信仰復興の花火ありたるにもせよ、或所には古典にのみ潜心したる結果として時代に超越したる古流の信仰を維持するものありしにもせよ、大躰の傾向より曰へば何れの国に於ても、教会に集るものを減じ、聖書を読むものを減じ、安息日を守るものを減じ、処女誕生、奇蹟、復活昇天の如き従来神学者の指して以て基督教の根本原理としたるものを信ずるものを減じ、三位一躰の教理に対する確信を減じたるは明白なる事実なり。即ち明治三十二年乃至三十三年に於てハルナック教授がベルリン大学に在りて数回の講演を為し基督教の本質は基督の人格よりも寧ろ彼れの教訓に在り。基督論は基督教に非ずと論じたるが如き、同三十四年に於て露国の文豪トルストイが小説「復活」の内に於て「余は神を信す。神は愛にして万物の源始なり。世は人なる基督の教訓は最も明かに、最も包轄的に神の意を解釈したるものなりと信ず。然ど神として基督を考へ、神として基督を拝むは大なる涜神の業なりと信ず」と云ひしが如き、共に明かに此傾向を証するものにして保守主義の塊とも云べき仏国の旧教徒中にすら公然高等批評の結果を採用するものを生じ、英国の「キングス・カレージ」すら明治三十五年に於て遂に久しき歴史的の学校制度たりし宗教吟味(レリジアス・テースト)を廃したるを見れば益す以て彼れに在りても亦基督教会の大革命に近づき来りしことを見るべきものにあらずや。

  外国の形勢此の如きものあり。日本の教会が独り其旧位置を維持する能はざるもの亦宜(むべ)ならずや。是れ余が海外教会の大勢を以て日本教会不振の他の一原因なりとする所以なり。

 

     基督教の将来は悲観すべきものにあらず

  然らは則ち日本の基督教会は全く将来なきものなる乎。何ぞ其れ然らん。余は基督教会の将来をしかく悲観すること能はず。見よ、最近数年の日本精神界は更に宗教的要求の復活を示しつゝあるに非ずや。余は此著しき事実を看過すること能はず。請ふ余をして時代の徴候を語らしめよ。


       (一)所謂国家教育主義の破産

  井上氏等の唱導し、大学出身者を以て殆ど其全部を占めたる文部省の官吏に依りて強行せられたる所謂国家教育主義はたとひ其善良なる国民を作らんとする目的に於ては敢て議すべき所なきにもせよ、其手段の余りに機械的にして学生の本能を抑圧するものなりしかば、固より少数にして微弱なる基督教徒を迫害するに於ては稍成功したるが如くなりしかども、遂に其学校の圏内に入来れる学生を満足せしむるには足らざりき。彼等は同一の主義を以て全国の学校に及ぼし斯くてめでたく彼等の理想としたる忠君愛国の士を作らんと欲せり。されど是れ遂に空想に過ぎざりき。日本の青年は忠君愛国主義を鼻声にて説教する坊主(学校教師)より有り難き御法談を聴きたり。最初は謹厳なる態度を以て之を迎へたり。されど其数ば繰代さるゝに及んでや彼等は遂に大欠伸を催せり。彼等はたとひ如何ほど道理ある主義にても、外部より強て注入せらるゝに堪へず。其気慨あるものは遂に起て之に抗せり。帝国大学の秀才たりし高山林次郎が其学校を出づると共に美的生活論なるものを唱へ、登破竹風がニッチエを担ぎ出し、しきりに仁義道徳の繩墨主義なるを攻撃したるが如きは是れ学生の遂に所謂国家教育主義に謀叛するに至りしものなり。而して此放縦自恣なる傾向は日に長じ、月に進み、遂に日露戦争の最中に於て国民新聞記者をして左の如く日はしむるに至れり。

  現代青年は個人的自覚を得たると共に国家的自覚若しくは其の一部を失墜したるが如し。

   個人的自覚の物質的に偏したるものは所謂る拝金者となり、其の比較的健全なるものは当今の所謂成功熱中者となる。而して其精神的に偏したる者は所謂失望、苦悶、落胆、厭世の徒となり、其比較的健全なるものは所謂人生問題の研究者、若しくは空想迂僻の大天狗となる。

  青年の或者は遼陽の大激戦よりも寧ろ壮士芝居の評判に多く心を動かしつゝあり。小児の伽物語に曰く雌難あり、数個の卵を其羽実の下に温めて鶏たらんことを期せしに、其孵化したるものを見れは何ぞ図らん尽く家鴨の子にして競うて水に赴かんとは。慈悲ある雌鶏は之を見て悲歎に堪へざりきと。所謂国家教育主義の唱道者、維持者たりしものは亦何ぞ此可憐なる雌鶏に殊ならんや。彼等は其教育機関の羽翼の下に忠君愛国の士を生ずべしと期したり。而して見よ、其育ちたるものゝ中には恋愛を歌ひ、星と菫花を詠じ、唯自己の慾望を満足するものを以て理想とし、国家の存亡を見て念とせざる極端なる個人主義を生ぜり。彼等は是に於て乎、自己の主義の破産を感ぜり。たとひ公然しか自白する能はざるも、猶ほ従来宗教を学校の門外に放逐せんとしたる態度を一変して稍相宗教家を歓迎せんとするに至れり。井上哲次郎が明治三十四五年の頃より、新宗教の製造に着手せんと欲し、其趣意を公言したるが如き、文部省の官吏沢柳政太郎が昨年を以て其「教師論」に於て宗教的信念ある人士が国家社会に貢献するの厚きを認め教育家自身の修養として宗教を信奉せんことを勧告し、嘗て井上哲次郎の応声虫(おうせいちゆう)となり悪罵を基督教に加へたりし谷本富も亦同じ年を以て岡山教会に於て大西祝の人と為りを論じ、宗教と教育の両立せざるべからざるを論じたるが如きは均しく是所謂国家教育主義の自ら昔年の主張を抛ちたることを示すものに非ずや。実に最近数年間に於ける日本の精神界は或る一点より観察すれば権威と本能、国家と個人との衝突として見るべきものなりき。乃ち晩年の福沢論吉が明治三十三年に於て慶応義塾の生徒一同を会し、独立自尊を主義とする修身要領なるものを講じ、更に其門人才全国に派遣して其主義を拡張せんとしたるが如きは是れ実に国家の権威を藉りて器械的に人心を圧せんとする当時の教育主義に対して、日本の教育史に功労ある一巨人の揚げたる反抗の声なりき。所謂国家主義を以て動かすべからざる天の法則の如く思惟したる官学の徒、何ぞ異論なきを得んや。かゝる時に於ては必ず黙する能はざる井上哲次郎は此主義を評して曰ひぬ。

 服従なくして社会は一日も成立し難し、社会の成立するは服従あるが為めなり。真に独立自尊を実行せば其結果は人の自滅に帰するか、若しくは社会の秩序を破壊するか到底二者其一たるを免れず。

 分業によりて結合せられたる人類相互の関係は有機的団躰となりて増大す。之を称して社会といふ。是に於て人類は其自然の性として社会を組織せざるを得ず。古来之を社会的生類と云ふ。寔に当れり。

 服従なきの独立自尊は社会の基礎を動乱せしむるものなり。第十八世紀の陳套思想なり。

 当時政府の機関新聞たりし東京日日新聞も亦曰ひぬ、修身教官の準規は全国画一なるべしと。されども福沢氏の一派は敢て之を念とせざりき。彼等は政府が修身道徳の主義を一定し、教育の力を以て天下の人心を左右せんとするは到底能はざる所にして古来之を試みて成功したるものなく、其結果は勿論社会に害悪を残したるに過ぎずと信ぜり。彼等は眼のあたり、官学に育てられし学生の機械的なる画一教育に飽みたるを知れり。是れ彼等が機械的なる国家教育に対して先づ個人の独立自尊を唱へたる所以なり。徳は孤ならず、必ず隣あり。歴史の法則は単一の現象あるを許さず。個人の自由判断を重んじ、本能を重んずるの声は均しく所謂国家教育に対して揚げられたり。高山、登張の徒の如き共に此風潮の産物たるに過ぎず。此の如き個人主義の反動は今や却て其極端に達し、帝国大学出身の文人にして、公然文を著はして青年は酒を飲まざるべからず。花柳の遊を為さゞるべからずと咽唱ふるものあるに至る。而して此の如き従欲主義(センシユアリズム)の勃発すると共に、他の一方には個人性の自覚と共に進んで神秘の境に入らんとするものあり。或は無我愛の真理を発見したりといふものあり。或は「我は神を見たり」と唱ふるものあり。甚しきに至りては自ら「我は予言者なり」と称するものあるに至れり。之を要するに日本の精神界は今や国民としての人の価値を討論するよりも寧ろ個性として人の位置を研究するに傾けり。而して是と共に宗教的要求は復活し来れり。是れ基督教に取りては多年の沈睡より覚め来るべき機会に非ずして何ぞ。

 

        (二) 社会主義の勃興

  日本に於ける国民生活の進歩が日本の人才をして競うて実業界に投ぜしめ而して其の結果として教職に赴かんとする青年を減じたるは余の既に説きし所なり。されど総ての勢には必ず其達すべき区域あり。物質的の満足を追求するに汲々たりし日本の青年は今や現時の社会的組織に於ては其希望の或は空しからんことを恐るゝに至れり。個人主義、自由主義を基礎とする現時の資本制度に在りては国民全躰の富は日に進むと雖も、而も其分配に与るものは独り冨人の階級に留まることを知れり。かくて多年の間泰西思想の一潮流たりし社会主義及び社会改良主義は今や日本帝国の門戸をも訪ふに至れり。片山潜は先づ其陳勝呉広たりき。尋(つい)で明治三十四年に於て政界の落武者たる大井憲太郎は曰ひき「我は力を労働問題に致さむとするの外、他の意あることなし、政界の事、復た我れの与り知る所にあらず」と。彼れは労働者救済の旗幟を翻へして社会的戦闘に従事せんと欲したり。政界を退隠すべく余儀なくせられたる板垣伯も亦其老後の事業として社会改良に従事すべきことを広告し、矢野文雄も亦社会の遂に改造せざるべからざるを論ぜり。今や社会主義者として世にあるもの安部磯雄あり、木下尚江あり、堺利彦あり、幸徳秋水あり、帝国大学及び京都大学には独逸の講壇社会主義者に同情を表するものあり、国家主義者あり、基督教社会主義者あり、其説く所必しも揆を一にせずと雖も而も人類社会全体として其会員たる個人の利害に対してマンチェスター派経済学の流行したる個人主義自由主義の時代に比すればより厚くより切なる同情を懐くに至らしめんとするに至りては則ち一なり。此の如き傾向は基督教の根本義たる「神の父たること、人類の兄弟たること」に対して人間の注意を喚起せしむべきものにして、是亦基督教会の前途に取りては悲しむべき徴候なりと云ふべからざるのみならず、物質的満足の現制度に於て到底最ち得べからざるを知りたる青年は再び宗教界に帰りて伝道に従事せんとするものなきに非ず。嘗て一たび産業界に飛び去りたる人才は却て其旧巣を懐ふの情を生じたり。是れ亦基督教会の前途を、楽観すべき一理由ならざるを得ず。

 

        (三) 国家的関係の変動

 日本の国際的位置は最近十余年の間に於て真に驚天動地の激変を経たり。日本は今や国際法学に所謂強国の列に入れり。世界の総ての問題に関して発言すべき権利と責任とを有するに至れり。他の語を以て之を曰へば日本は今や世界を支配する主人の側に立てり。是れ豈に日本国民の精神的状態に大変動を起すべき時期に非ずや。夫れ区々たる東洋の花彩島に蟄居して其独立を守るに汲々たりし時代と世界の訴訟を判決すべき法廷の一判事たる強国の時代とは国民の思想に於て固より大に殊ならざるを得ず。今や日本国民は世界の万民が同情を表し得べき宗教と哲学との上に立ちて其指導者たらざるを得ず、是れ亦日本の人心をして久しく文明世界の信仰たりし基督教の再調査に還らしむべき好機会なりと云はざるを得ず。

 

     将来の基督教

 以上の理由に依りて余は基督教会が更に新鮮なる勢力を以て復活し来るべきの時期あるを信ずるものなり。然らば則ち如何なるものとして復活し来るべき乎。余は予言者に非ず、何ぞ之を知れりと云はん。されど大躰の傾向は則ち察し難からず。余の見る所に依れば日本に於ける基督教神学は全く自由派の勝利となれり。植村正久は「福音新報」に拠り、内村鑑三は「新希望」に拠り、猶ほ正統教会の信仰を一方に維持すと雖も、而も殆んど大軍に囲まれながら孤城を嬰守するの概あり。科学的、歴史的の自由研究は教会内に氾濫して自由派の巨魁海老名弾正の雑誌「新人」は翼なくして天下に飛び、日本メソヂスト諸派の機関「護教」の主筆高木壬太郎すらも公然として自由研究の止むべからざるを唱へ、論理の許す所は如何なる教理にても歓迎せんとするの態度を示したり。思うに是れ独り日本の神学界に於てのみ然るに非ず。一八七〇年(明治三年)以来の欧洲神学界の現状に通ずるものは、かゝる運動の実に世界一般の大勢なるを知らん。然らは則ち今日の計他なし、大胆に、明白に、自由研究を盛にし以て静かに其帰着する所を待ち、斯して新神学を樹立せんのみ。而して此の如き自由研究の精神が之と共に外国宣教師の手より教会を自由にせんとするの傾向を生じたるは是亦勢の必ず至るものなりと謂はざるべからず。たとへば去年の組合教会総会に於て委員を撰みて米国伝道会社と交渉したる結果、愈よ本年一月二日を以て従来外国人の補助に依りて其財政を維持したる教会を挙げて組合教会日本伝道会社に附属せしむることゝ定めたるが如き、日本基督教会の大会にても同じ頃に於て教会の全部独立を計画したるが如き、日本に於けるメソヂスト諸派の有志者中五年を期して教会政治と財政との独立を計らんとするものを生ぜしが如き悉く此傾向を示したるものなりと云はざるべからず。斯くの如くにして日本人が自ら研究し、自から解釈して自ら満足し得べきものなりとする新神学を基礎としたる日本人自己の教会を有するに至りて日本の基督教問題は始めて完全なる結論に達したりと謂つべき乎。余は日本に於ける基督教会の人士が力を此に致さんことを切望するものなり。

                        (明治三十九年七月)