文部省教学局編纂 教学叢書第九輯 紀元二六〇〇年教育勅語渙発五十年記念号 今上陛下御日常の一瑞    鈴木貫太郎 神武天皇の御鴻業      吉田静致 惟神の大道         筧克彦 教育勅語と我が国の教育   吉田熊次 興亜の大業         松岡洋右 科学する心         橋田邦彦 今上陛下御日常の一端  教学局の御依頼により今上陛下御日常の御一端について謹述致します。私は昭和 四年の初から昭和十一年の末まで八年間侍従長として今上陛下の倒近に奉仕してを りました。その関係上御聖徳について御話申し上げますことは自分として甚だ恐催 に堪へませぬので、滅多に御話を致してをりませぬ。ところが、この二三年前から 内務省の関係の御依頼がありましたので、已むを得ず二三度講演を致したことがあ ります。今回また教学局からの御懇請がありましたので茲に謹述致す次第でありま す。  そこで先づ御紹介申し上げたいことは、昨年の六月に雑誌「婦人之友」に掲載さ れた宮内省帝室会計審査局長官木下道雄君が昨年四月自由学園の天長節奉祝式場で 講演せられた「軍艦榛名後甲板上に拝す聖なる一瞬の光景」と申す題の御話であり ますが、これは御聖徳を拝しますのに洵に好い材料でありますから、今その全文を 茲で御紹介申し上げたいと思ひます。木下君は、今上陛下が東宮にておはす大正十 三年東宮侍従となり、陛下御即位後の昭和四年まで侍従を勤められ、本文の昭和六 年には行幸事務を主管する宮内大臣官房総務課長の任にあつたのであります。その 御話をこれから御紹介申し上げます。  本日天長節奉祝の厳粛なる式にお招きに預り、陛下御左右の御事につきまし て、私の拝し得ましたことの一瑞をお話する機会を得ましたことを光栄に存じ ます。私は陛下の御民の一人として、この時代に生きることの譬へがたき喜び を実例を挙げて皆様とともに頒ちたいと思ひます。話は拙いのですけれども、 どうか意のあるところをおさとり下さつて、ほんたうにこの大御代に生きる喜 びと想ひとを深くし、各々その業に励む決心を一層堅めらるゝならば、これこ そ天長節に当り、私共から陛下に差上ぐる何よりの御慶びの印でありませう。  只今からお話することは私が他人から伝へ承つたことではなく、私が現にこ の眼で偶然拝しました一つの聖なる光景、それは鹿児島湾上夕闇に包まれた軍 艦榛名後甲板上、あたりに人なく声なき一瞬の光景についてでありまして、私 は我が日の本のおのづからなる姿を、この時ほどありありと眺めたことはない のであります。  お話の本筋に入るに先だち、私は一つの随筆を皆様に御紹介して置かなけれ ばなりません。  私の同窓に三宅正太郎といふ方があります。今大審院判事をしてをられる人 でありますが、その人が昨年一つの随筆ものを出版されました。その本の中に 「宮城前」といふ一篇があります。その内容はと申しますと、ドイツ東プロイ センの或る裁判所に昔勤めてゐた一人の老判事が、昨年旅行の途中日本に立ち 寄り、一日旧友の三宅君を訪ねました。或る日二人は相携へて宮城遙拝に出掛 けたのでありますが、丁度事変中のことであり、宮城前の広場には、風にひら めく日の丸の旗、鳴り響く勇ましいラツパの音、多勢の人が雑沓し、出征の若 い人たちは親兄弟や友人に囲まれて、おごそかに頭を垂れ、宮城を拝し、心か らのお別れを陛下に申し上げてゐる。その雑沓の中で、三宅君達二人は一生の 中でも滅多に遭遇することのないやうな感激に胸を打たれて、この真剣な場面 を眺めてをつたのですが、ふと見ると群集を少し離れた所に三人連れの親子が 祈つてをります。出征する兄とその妹と父親の三人、今しがた田舎から東京駅 についたのでありませう。旅の荷物を傍らに置き、遠慮勝ちにお濠の玉垣の側 近くへ寄つて一心に祈つてをるところです。この光景を先程からだまつてヂツ ト観てをつたドイツの老判事は、声をのんで、そつと三宅君に尋ねました。 「皇帝陛下(カイゼル)はあの城の窓からこの光景を御覧になつてをらるゝのか」 と。お濠の向ふに聳える白壁の櫓の窓を見上げて、かう尋ねました。察すると ころ老判事は、民衆のかくまで敬虔な態度は、陛下が御覧になつておいでにな る前でなければ見られる訳がないといふ考へが浮かんだのでありませう。その 瞬間に三宅君の頭に閃いたことは、眠を瞋らせ腕をふるつて民衆の前に獅子吼 する独裁者の姿でした。又さうしなくては国民の心をとらへることの出来な い国と、我が日本の國體との著しい相違でありました。三宅君は決然として 「否」と答へながら、世に又と比類なき我が國體の有難さに感泣して、再び謹 んで宮城を拝したと、かういふ話の一篇であります。  陛下が御覧になつておいでにならうが、御覧になつでおいでになるまいが、 日本国民の忠誠には変りはない、それが日本の國體の尊いところであるといふ のが、「宮城前」の骨子であると思ひます。  私がこれからお話いたす事柄は三宅君の「宮城前」に対する応答とお考へ下 さつてよろしいのです。三宅君にお会ひいたしたならば、是非このお話をした いと思つてをりますが、未だその機会がなく、皆様に先にお話することになつ てしまひました。  昭和六年の秋のことでありますが、熊本に於て陸軍特別大演習が陛下御統監 の下に行はれまして、私も供奉の一員としてお供いたしてまゐカました。大演 習終了後、陛下には鹿児島市に行幸あらせられ、御帰りはそこから軍艦榛名で 海路を横須賀港へと向はせられました。  十二月十九日、御乗艦時刻は午後の四時過ぎ、御召艦は日没とともに錨を上 げ、県民の熱誠なる奉送裡に桜島を後に鹿児島湾を静々と南下して行きます。 間もなく夕食の時刻がまゐりましたので、私共供奉員一同は食事を致してをり ましたが、私は海上の様子が気に懸りましたので、早く食事を済ませて皆より 先に後甲板に馳せ上りました。  後甲板と申しますのは、軍艦旗の立つてをる後方の甲坂で、かなり広く、大 きな大砲の備へ付けてあるあの甲板をいふのです。榛名では最後方の司令長官 室が陛下の御座所に当てられてをりまして、それは後甲坂の真下に位置してを りますが、司令長官室からは後甲板へ専用の階段が通じてをりますので、陛下に は何時でも随時御自由に後甲板にお出ましが出来るやうになつてをりました。 後甲坂には御乗艦中と雖も何等特別の装飾はなく、一個の海図の机と数個の脚 付の望遠鏡と簡単な椅子が五六脚あるのみでありますが、陛下はこの後甲板が 殊の外お好きで、御用のおありにならない限りはと申し上げてもよろしい位、 いつもこゝにお出まし遊ばされます。  さて、お話が前に戻りまして、後甲板へと急いだ私は、陛下はまだ御食事を 御済ませ遊ばされぬであらうと思ひながら、別の階段を馳せ上つたのです。も はや日はとつぷり暮れ、月はなく海上は真暗で、甲板上には小さな電燈が只一 つ灯つてゐるばかり、電燈の下ならとにかく、少し離れたら人の顔もよく判ら ぬ位の夕闇に甲板は包まれてをりました。  甲板には誰もまだ出てをらぬとばかり思ひ込んで馳せ上つた私は、思ひ掛け なくも間近な夕闇の中に只御一人陛下の御後姿を拝したのであります。右舷の 手摺り近くに海の方をお向きになつて直立遊ばされ、今し方望遠鏡から御手を 離させられたかに拝し、畏くも御右手を挙げさせられ、何者にか御挙手御会釈 の御姿であります。思はず私も陛下の御覧遊ばされる方向を遙かに凝視致しま したが、夜闇の外何も見えません。直ぐ私は側の望遠鏡に眼をあてました。時刻 から推し測つて艦は未だ依然として鹿児島湾内を南下してゐる筈です。そして 艦の航路は湾の中央線に当りますから、左舷大隅の海岸にも右舷薩摩の海岸に も六哩位離れてゐる筈です。そんなことを考へてゐる中にだんだん眼が慣れて きて、レンズにうつる山々のぼんやりした姿をとらへることが出来ました。艦 は今薩摩国指宿の沖合の辺を航海してをるのでありませう。尚も眼を凝らして 覗いてをりますと、その山々の下に海の色と陸の色との境に海岸線が見えるや うになりましたが、その海岸線一帯に赤い灯の流れが連綿として果しなく続く のが見えます。更に又少し小高い所に、何丁おきかに点々と海岸一帯連続して、 大きな火のかたまりがぽうつと煙を上げてをるのが見えてきました。この時初 めて私は万事を了解したのであります。  遥かあの海岸地方に住む人達が、今頃は御召艦が自分達の村の沖合を御通過 になるに相違ないと思つて、夜分艦影を拝することは出来ませんけれども、山 山には篝火を焚き、老いも幼きも悉く海岸に立ち竝び、手に手に提灯松火を振 りかざして、海上遥か陛下在しますと思はるゝ方向を伏し拝んで、心からなる 奉送迎を申し上げてをるのです。陛下は今し方望遠鏡でこれをお察し遊ばさ れ、只御一人闇い海上の甲板の上から、遥かにこの村人達に御会釈を賜はると ころであつたのであります。  彼方の海岸に立ち竝ぶ無数の人々の中で、誰かこの有難き大御心を仰ぎ知る ものがありませう。私は改めて軍艦榛名の山のやうな堂々たる姿を仰ぎ見かへ したのでありますが、海岸からはこの巨体も僅かに二つ三つの灯火としか見え ないであらうと、真に残念に思ひました。あゝ何とかして陛下の大御心を伝へ る術はないものか、無線電信を打つても今篝火を焚いてゐるあの人達の耳にま で届くのは恐らく明朝になりませう。そこで私はせめてもと思ひまして、艦長 にお願ひして艦全部の探照燈に点火し、数条の光芒を以て左は大隅、右は薩摩 の山や海岸一帯を隈なく撫で廻して貰つたことでありました。  これが軍艦榛名の後甲板上でゆくりなくも拝した真に感銘深き一瞬の光景で あります。海上数浬を距てて陸から海へ、海から陸へ闇を貫く一筋の真心の光。 拝する者は期せず、陛下御挙手の尊影。陛下又御言菓もなく闇に向つて応へ給 ふ。鳴呼何たる荘厳な光景でありませう。  毎年今日私共は「光遍き君ケ代を」「恵遍き君ケ代を」と天長節の歌を唄ひま すが、この歌の詞は決して決して唯の形容詞ではありません。私共は皆大君の 御光を、また御恵を知らずしていたゞいてをるのであります。この事は日本国 民たるものが常に心に銘してをらねばならないと存じます。  私は勤務上毎日宮城に参入致しますので、二重橋前に幾百千の国民が熱いお 祈りを捧げてをる光景に屡々接するのでありますが、その度毎に私の想ひは狂は んばかりに燃えて、過ぐる夜の鹿児島湾上の聖なる光景を追つて行きます。  皆様は「国民は祈るもの、陛下は祈られ給ふ御方」と軽々しく思つてはなり ません。日本国中、陛下の御祈こそ最大最深のものと恐れながら申し上げなけ ればなりません。遠き古の神代より天津日嗣の御位を代々継々に受け継がせら れ、我が国治(しろ)しめす日夜の御苦心は、只管祈りに祈り、祈りて止まぬ御生活と ならざるを得ないものと、恐れなが拝察致します。殊に今日の如く内外の惰 勢が容易ならぬ時代にありましては尚更のことです。  国の為、民の為一刻たりとも大御心を休め給ふ御時なき陛下に、せめて今日 の天長節の日にでも、ほんたうにごゆつくりと御休息を御願ひ致したいもので す。しかしどうすれば私共のこの願はかなふでせうか。どうすれば大御心を安 んじ奉ることが出来るでありませうか。その方法は唯一つ。私共国民が一人残 らず正しく逞しい人間となり、陛下が一番御心配遊ばさるゝ方面を自ら進んで 担当し、挺進奮闘各々その業に邁進して「私共がをりますから陛下どうぞ御安 心下さいませ」と申し上げることが出来るやうにするより外に途はないのです。 この奮闘こそ、最大最深の陛下の御祈に添ひ奉る私共の祈に外ならないのであ りませう。  天長節のこの佳き日に当り、軍艦榛名後甲坂上の光景を皆様にお伝へ致しま すと共に、自ら省みて私共が陛下の御民として陛下に御誕生日の御祝ひの詞を 申し上ぐる資格がほんたうにあるか、ないかについて、お互に真剣に考へなけ ればならないと思つてをります。  これが木下君が御話になりました全文であります。夕闇の中に国民は至誠を以て 陛下を奉迎送し奉り、又陛下は至誠を以て御会釈を賜はつたこの美しき聖なる光景 のうちに、真に神ながらの道は実現せられてゐるやうに存ずるのであります。丁度 この時私も陛下に扈従致して榛名にをつたのでありますが、夕食の漸く終つた頃、 探照燈の報告を受けましたので、早速後甲坂に出て見ましたところ、丁度木下君が 述べられた通り、榛名の探照燈は全力を挙げて、大御心の通ふ光を、空に山に又海 に、四方八方あますところなく貫き放つてを少ます。供奉員一同この光景を拝しま して、深く陛下の大御心に感激致した次第であります。この一事を以てしても御聖 徳の全体を拝することが出来るのではないかと思ひますので、特に茲に御紹介申し 上げた次第であります。  これから今上陛下の御日常はどうあらせられるかといふことをやし上げたいと思 ひます。  陛下は御奥に於て毎朝御食事前に必ず御朝拝あらせられ、伊勢神宮を始めとし御 歴代の皇霊竝びに天神地祇に御祈念遊ばぜれるとともに、宮中三殿即ち賢所・皇霊 殿・神殿に侍従を御代拝として差向けられるのであります。御食事後に大抵新聞を 御覧になるのでありますが、その新聞は東京・大阪は勿論、他の地方の大きな新聞 にも及び、広く御覧遊ばされます。新聞については世の中に誤解があるやうで、切 抜を差上げるのではないかといふことを時々質問されることがありますが、決して さういふことはありません。重要な内外の諸問題はよく御目を御通しになりまして 毎日拝謁の時にも「今日はかういふことがあつたが」と御尋ねを蒙ることが再々で ありますが、私共の方が却つて未だ見てをりませんので恐懼致すことも度々であり ました。九時半頃に表御座所の方に御出ましになりますが、その時に侍従長・侍従 武官長・皇后宮大夫などに謁を賜はるのであります。それから正午まで御政務その 他定例の御用を行はせられ、正午には一旦御奥へ入御あらせられまして、又一時頃 から表御座所に御出ましになつて御政務を臠はせられるのであります。定例の御用 と申しますのは、従来私共奉仕中は御日課を定めておいでになりまして、殆ど午前 中はその御日課で満たされてをつたのでありますが、只今は余程変つておいでにな るだらうと思ひます。それにしましても、水曜日は枢密院会議の定例日になつてを りまして、本会議は宮中に於て開かれるのでありますが、この会議には必ず臨御に なつて御前会議が行はれるのでありまう。本会議のない時でも顧問官にはこの日に 謁を賜はります。木曜日の午前は定例の一般拝謁の日になつてをりますが、拝謁も 近年なかなか沢山になりまして、一年を通ずるならば謁を賜はる者の員数は凡そ三 四千の多きに達するのではないかと思ひます。それに外国人の謁見を願ふことも相 当に多いのであります。右の外軍事について或は外交について、御研究の為に時を 定めて御進講を聴し召されます。軍事上のことは軍令部次長・参謀次長が交代に一 週おき一回御進講申し上げるのであります。それから外交の方は松田道一博士が 御進講申し上げてをります。この方は御承知の通り元在外の大使をしてをられた方 であります。御運動は大抵午後の二時から四時頃までの間に遊ばされます。従来御 運動は御乗馬とゴルフを隔日位に行はせられたのでありますけれども、この事変以 来ゴルフは全く遊ばされぬやうに承つてをります。御乗馬は御差支のなき限り勉め て行はせられますが、それも現在御政務がいろいろ御忙しい為に充分には御出来に ならぬのではないかと、私かに恐懼の至に感じて居る次第であります。雨が降る時 の為には覆ひ馬場がありますので、そこでやはり御乗馬の御運動を遊ばされるので あります。御運動はすべて宮城内だけのことでありますが、併し吹上御苑の方から 元の本丸跡にかけて相当の場所があり、障碍物等も設けてありますので、その内を 駈足で御馬を御進め遊ばされるやうなことも相当御出来になる余地があるのであり ます。御運動後は御入浴の上、再び表御座所に於て、各方面からの上奏書類を御允 裁あらせられ、夕刻六時頃御奥へ入御遊ばされるのを常としますけれども、国務御 多端の今日に於ては恐らくこの御常例を破つておいでになるのではないか、又御夕 餐後御寛ぎの御時問にも屡々再び表御座所に出御遊ばされるのではないかと拝察致 し、寔に恐懼に堪へぬ次第でございます。  それから御政務のことでありますが、先づ書類について申し上げますと、内閣・ 軍部或は宮内省その他から奉呈する書類が随分沢山あるのであります。午前の内は 少うございますが、これ等は午後一時から二時までの間に御済ませになります。午 後はなかなか多く出て参りますが、これは五時から六時の間に御処理遊ばされるの であります。尤も緊急な書類につきましては、予てから御沙汰を拝して居りますの で、これは時を選ばず奉呈、御親裁を仰ぐことになつてをります。何れも書類は迅 速に御点検なられまして、重要な書類はよく御覧遊ばされ、その上で御裁可にな るものは御裁可の御印を御捺しになり、又御署名を仰ぐものには御署名遊ぼされる のであります。皆これは御自身で遊ばされ、決して他に御命じになることはありま せん。このやうに御執務は洵に御厳格であらせられるのでありまして、大権を御総 攬遊ばされる思召の明確なることがこれによつても拝察されるのであります。これ らの書類は年に少くも五六千通はあるだらうと思ひます。それだけを御処理遊ばさ れますのは御容易なことではないと拝察するのでありますが、併し陛下は摂政宮御 時代から今日までずつと御政務を御執り遊ばされておいでになりますから、御処理 はなかなか御速いのであります。併しながら書類が沢山奉呈されました場合には六 時から七時過ぎまでも御掛り遊ばされることが珍しくありません。それが御済みに ならなければ決して御奥へ御入り遊ばされるといふことはございません。随つて御 食事等も御遅れになるやうな次第でありまして、さういふ場合には洵に側近者は恐 懼致す次第であります。  御政務と申しましても、事柄に現れて参りますことは、拝謁であるとか、又たゞ の拝謁のみならず拝謁の上にいろいろ奏上申し上げる、或は文書によつて上奏しそ れによつて御裁可を仰ぐ、又いろいろの報告を奉呈する、或は又親任式・親補式と か、御前会議とか、いろいろな形式になるのであります。この事について側近はど ういふ径路で御取扱ひ致すかと申しますと、これは侍従職と侍従武官府との二つに よつて御取次を申し上げてをるのであります。侍従職で取扱つてゐることは一般の 政務に関係する方でありますから、内閣或は各省から来る書類、或は拝謁のことも 取扱ひ、又枢密院・内大臣府・宮内省・会計検査院或は貴衆両院等から来るいろい ろの書類等、これは皆侍従職で取扱つてをります。それを侍従長が一々御取次いた してをるのであります。それから軍務、即ち陸軍省或は海軍省・参諜本部・軍令部・ 教育総監部・各軍隊の司令部から参ります事柄は侍従武官府の方で取扱つてをるの でありまして、侍従武官長が御取次申し上げることになつてをります。この区別は 洵に厳格になつてをりまして、軍事関係のものを侍従職で取扱つたり、或は又軍事 以外のものを武官府で取扱ふことは決してないのであります。陛下には国務の御進 行につきましては常に迅速に御取扱ひ遊ばされますことを御努めになります。例へ ば大臣とか参謀総長・軍令部総長の拝謁願出があれば早速に御許しがありまして、 時によると御運動を御取止めになられまして謁を賜はるといふことも再々あるので あります。今日のやうな時局下に於きましては緊急な上奏や重要な報告を申し上げ ることが相当にあるのでありますが、さういふことにつきましては、いつでもよい から直ぐ上奏・報告せよとのかねがねの御沙汰がありますので、時によると夜中で も上奏や報告を申し上げることが屡々あるのであります。又親任式等についても同 様でありまして、これもその必要に応じて出来るだけ迅速に御処理遊ばされる思召 であらせられますから、或場合には夜の二時に親任式を行はせられた例もあるので あります。さういふ風に陛下は非常に御真剣で、重大なことは時を移さずに御実行 になります。これは洵に恐懼感激に堪へない次第であります。平常の御政務の御取 扱の御模様を拝察致しますと、陛下は大抵のことはその日起つたことはその日に御 処理遊ばされます思召に、どうも拝するのであります。その為に随分遅くまでも御 執務あらせられるのであります。たゞ場合によつて各省から提出された書類の中に 御疑問があらせられ、それについて御下問をいたゞいたり致します。その場合には その事柄のはつきり致しますまで御留置きのことも再々ありますが、大抵はもうそ の日の中に御処理遊ばされるのであります。  次に申し上げたいことは、宮中の御祭典のことであります。陛下に於かせられて は御祭典のことは非常に御鄭重に遊ばされます。これは敬神崇祖の範を国民に垂れ させられることは勿論でありますが、殊に皇祖皇宗から御継承になりましたこの国 家を常に立派に御統治あらせられるといふことについては非常に御熱心な思召が拝 せられるのでありまして、御祭典に際しての特に敬虔な御態度を咫尺の間に拝しま しては感激の外言葉もない次第であります。  宮中の大祭は申すに及ばず小祭と雖も御祭のことは皆陛下御親ら遊ばされるので あります。小祭とは歳旦祭とか、或は祈年祭、賢所の御神楽とか、或は御歴代の式 年祭、例祭といふやうないろいろの御祭を申すのであります。又その他に旬祭と申 しまして、毎月一日・十一日・二十一日と一の日に御祭があります。これは常に御 親拝あらせられ、而も大抵朝早く御親拝遊ばされるのであります。さういふ訳で、 一年の中には六十回位の御祭典があるのでありますが、悉く御親拝あらせられるの であります。斯くの如く御祭典のことにつきまして少しの御緩みなく洵に御厳格に 御実行あらせられるのを拝しましても、如何に陛下が日夜国家の安泰と臣民の幸福 とを御祈りあらせられるか、大御心のほど恐れながら拝察するに余りあるのであり まして、ほんたうに日本は神国なりといふ感激が湧くのであります。  次に行幸のことについて申し上げますが、数多き行幸の中でも陸海軍特別大演習 の行幸及び地方の行幸、これ等が一番規模の大きな年中行事と考へられます。この 行幸に御供を致しまして、その間に感じますことは、如何にも御日程が繁く、随分 朝早くから遅くまで御行動遊ばされるのであります。さぞ御疲れ遊ばすであらうか と常に御心配申し上げるのでありますが、併し陛下には御元気旺盛であらせられま して、その為に別段御障りのあつたこともありませんでしたが、何と申しましても、 御日程が余り激しすぎますので、時によるともう少し緩やかな御日程に変更した方 がと存じ上げまして思召を御伺ひ致すこともあるのでありますが、陛下はやはり国 民の希望について思召が真に御深くあらせられ、一旦御決めになりますと、随分困 難な御日程でもそれを御敢行遊ばされるのであります。それ等の例を茲に一二申し 上げますならば、昭和七年の大阪の大演習の時、丁度その前日まで多少御風邪気味 でいらせられました為に、野外統監部への行幸も御控へあらせられ第四師団司令部 内の大本営に於て御統監遊ばされてをりましたが、観兵式の朝になつて見ますと、 折悪しく雨風は烈しく、侍医あたりも御風邪が御再発になつてはと非常に御心配申 し上げたのでありますが、陛下は「いや大丈夫だから」と観兵式場に行幸を仰出さ れ、さうして尚「兵は既に整列してゐるではないか」と、そのまゝ御出まし遊ばさ れたのであります。私もこの際御供を致してをりまして、侍医がさう申すものであ りますから心配致しまして、朝御伺ひ申しますと、どうも御自信が非常におありに なるやうな御様子を拝見致しましたので御出馬を願つた次第であります。この時風 は凄じく雨もなかなか強く降つてをりましたので、御外套だけは召されましたが御 頭巾は御用ひにならない。さうして御帽子から盛に雨が滴るやうな次第でありまし たが、一向それにも御構ひなく親兵式を御済ましになりました。私はその時にもな ぜ御頭巾を御用ひにならぬのであらうかと拝察致しますと、兵が皆かぶつてをらぬ のに御自身一人御頭巾を用ひさせられることは忍びないといふ思召であらせられた やうに拝したのであります。併し果してこの時には寧ろ御元気で、御風邪もどこか へ吹飛んでしまつたやうに、少しの御障りもなく行幸を終へさせられたのでありま す。又昭和十一年北海道の大演習の場合にもやはり雨が大分降りましたが、その時 にも御外套は御用ひになられましたけれども、やはり御頭巾は御用ひなく雨の降る 所に御出ましになりまして、いろいろ戦況を御展望になられました。侍従から天幕 の中に御入りを願つても一向御構ひもなく、一番展望の良いところに御出ましにな つて演習を御統監遊ばされました。丁度その時に参謀総長が御報告に参られました が、やはり雨の中で御報告を御聴きになられたやうな次第でありました。又先年宮 城前で青年学生を御親閲になられたことがございましたが、丁度その時小雨が降り 風もあつて頗る寒い日でありましたので、宮城前に御出ましになりました時に侍従 が御後からマントを差上げましたところ、壇上の玉座に御立ちになるや否やこれを おぬぎ捨てになり、そのまゝ一時間二十分の長きにわたり分列部隊の敬礼を風雨の 中で御受け遊ばされたことがありました。それもやはり学生が皆外套をかぶらずそ のまゝで行進をするので、やはり御自身だけマントを用ひさせられることは忍びな いといふ思召であらせられたのであらうと拝察するのであります。それからこの地 方行幸の時毎に、学生・在郷軍人その他地方青年団体の御親閲がありますが、これ 等はいづれも数万の大人数であり式の時間は三十分から一時間もかゝるのでありま すが、その間直立不動の御姿勢で敬礼を御受けになるのであります。洵にこの時の 御様子は畏れ多い限りでございまして、少しも御足を御くづしになりませぬ。御く づしにならぬといふよりも殆ど御微動だもなさらぬのであります。これは私共も相 当軍隊にをりまして訓練されてゐるのでありますが、なかなか長い時間微動もせず にをるといふことは容易なことではないのであります。これ等によつても御修養の 程が拝察せられるのであります。或地方では非常に感激致しまして、御足跡の型を 作つて御記念にしたいと願ひ出たこともあつたといふことであります。陛下が御立 ちになつた御跡は、白い布のところに初めに御置きになつた御足跡そのまゝ一分も 動いてをりません。つまり一ペん御立ちになつたらほんたうの直立不動の御姿勢で いらつしやるのであります。大抵の将軍でも幾らか足を少しつつ動かしてゐる位で なかなか御真似は出来ませぬ。また、行幸の際に特に感激致しますことは、成るべ く地方民の希望は叶へさせ給ふ思召であらせられ又傷兵や老人を御労りになる御様 子を如何なる場合にも絶えず拝する事であります。  次に御学問と御修養のことについて申し上げたいと思ひます。陛下には御承知の 通り御幼少の時代は学習院の初等科を御卒業になり、それから中等科に御進みにな りましたが、その中に御学問所が出来ましたので、その方に御移り遊ばされなので あります。そこで中等科の御教育、又高等料に相当する御教育を受けさせられまし た。それから更に大学の御課程といふやうに、やはり普通の学究的の御学問を御修 め遊ばされたのであります。併し御学問所の方針で他の学問と違ふところは、特に 天皇としての御修養に重きを置かせられた事であります。陛下の御修め遊ばされま した事柄を拝察致しますと、御学問所時代のそれだけではありません。御学問所が 閉鎖されました後に於ても、摂政宮殿下の御時代、更に御即位後まで、この御学問 の方面はずつと連続して御学びになつておいでになるのであります。それでありま すから、政治学・法律学・経済学などといふやうなものは、皆それぞれ斯界の泰斗 が御指導申し上げたのであります。それから古典とか、四書五経といふやうな方面 をも、いろいろ御進講申し上げてをるのであります。御学問のことについては随分 長い間各種の学科を御修めになつておいでになります。その中で私の拝察するとこ ろによりますと、陛下は地理と歴史に御詳しいのであります。陛下が生物学につい て深い御造詣のあらせられますことは、一般に知られたことでありますが、地理と 歴史に御明るいことは余り伝はつてをりません。陛下は一体御言葉の御少い方であ りますから、どういふことを御承知あらせられるのか傍からはなかなか窺ひ知るこ とが出来ないのでありますが、御平常の事柄について時々思召を拝しますと、その 御話の中に如何にも歴史上のことについて御明確なる御意見を承ることがありま す。それで陛下には大変歴史に御明るくあらせられるといふことを気付きましたの で、或時歴史はどういふやうにして御学び遊ばされましたかといふことを御伺ひ申 し上げましたところ、陛下の仰せられますのには、歴史は白鳥博士が御進講申し上 げた。なほ箕作博士の著書は全部見たと仰せられたのであります。それを承りまし て、成程歴史に御精通でいらせられる御筈だと、その時初めて陛下の歴史に御明る いことを承知致したのであります。御承知の通り箕作博士の著書は非常に多く、殊 に国家興亡の歴史については道徳的な見地からよく批判されてゐるのであります。 それから明治天皇の御伝記は編纂される度に御手許に奉呈して御覧を願つたのであ りますが、これは四五十枚づつ書列れたものが二百何十冊かあるのでありまして、 これを一々御覧願つたのであります。さういふことからでも明治時代の歴史は実に よく御承知あらせられるであります。歴史の御詳しいことについて以前奉仕の人 に尋ねて見ますと、丁度陛下が御青年時代--中学の程度から高等科程度の御時代 に非常に歴史が御好きだつたと申すことであります。それでいろいろの歴史的の書 物・雑誌なども御覧遊ばされたといふことであります。或人の話に、箕作博士の著 作が出来たといふことを聞し召されて、一冊御取寄せ遊ばされ、朝から夜通し御読 みになつて、何でも夜二時頃まで到頭一ぺんに御読了遊ばされたといふことであり ます。非常に歴史に御明るいことがさういふことでも解るかと存ずるのであります。 殊に歴史の方面から見ますと、世界各国の興亡の跡、又その由つて来たる原因につ きましても、実によく御承知であらせられることが拝察出来るのであります。この 事は世の中には知られてをりませんけれども、側近に奉仕致しましてから初めて気 がつき、如何にも有難きことであると存じてをります。  次に生物学について申し上げます。生物学には陛下は御小さい時から多少御趣味 がおありなされたのではないかと拝察するのであります。御小さい時に御採集にな つた動物・植物の標本も只今大分そのまゝ御研究所の方に残つてをります。それを 拝見することが出来るのでありますが、さういふ訳で自然に生物学の御研究に御入 り遊ばされたのではないかと思ふのであります。それで生物学の御研究は陛下の御 趣味の一つであり最も適当な御気分転換の方法ともならせられるのであります。平 常非常に御繁忙な御政務の間に偶々御研究所においでになつて、それで御気分が転 換せられ一つの御慰安にならせられるのであります。たゞ満洲事変発生以来御政務 極めて御多瑞で御研究所に成らせられることが極く稀とならせられましたことは洵 に恐懼の次第でございます。  生物学の御研究のことに関連致しまして、御田植のことでありますが、これは御 研究所の中に一反ばかりの田畑がありまして、そこでいろいろの稲を御栽培にな ります。その稲の中には愛国であるとか、或は農林一号といふ種類の稲、又印度・ 泰国辺から取寄せられた稲もあります。つまり米の種子を御植ゑになつて御研究に なつておいでになります。それによつてどれがよろしいか、又それ以上のものが出 来はしないかといふことも御研究にならせられまして、いろいろその事が国民の幸 福の上に役にたつのではないかといふ思召を拝するのであります。又御田植に於て は一面に於て日本伝来の農業の御奨励といふ意味もおあり遊ばされるのではないか と思ひます。又国民の田植の困苦をも思召さるゝのではないかと拝するのでありま す。それから御収穫になつた米はそれぞれ神祗に御供へになります。いろいろな意 味で御田植はこの非常に御忙しい今日の場合でもやはり御実行になつておいでにな ります。  それから又海上の生物学の御研究でありますが、葉山に御出ましになりますと、 そこで海の中の非常に小さい微生物(プランクトン等)を御採集になります。その御 研究に於てもそれがやはり漁業その他人間社会に将来有益な指針を与へるのであら うといふ思召を拝するのであります。この御採集も非常に御楽しみに遊ばされまし て、葉山に御駐輦や御政務のあらせられないときは、午前は屡々海上に御出ましに なります。御出ましの時は、小さな御船に御召しになつて御出掛け遊ばされます。 陛下は御熱心にその小さい御船の中で而も炎天でさういふ御研究をなさつておいで になるのであります。これは御健康の為にも非常に御宜しく、葉山に行幸遊ばされ ました年には御風邪も余り召させられぬといふ次第でありまして、側近者は御健康 の方面からも洵に有難いことと感激致してをる次第であります。それから陛下には 曾て、さういふ海上の小さい微生物の如きものを研究することは、なかなか普通の 学者では出来ないから、幾らか学者の手助けにもなるであらうといふ思召を御洩ら しになつたことがあります。御承知の通り、陛下には御煙草も召上らず、御酒も召 上らぬのであります。御楽しみと申したならばたゞ生物学一つありますが、これ は洵に高尚な有難い御楽しみと拝する次第であります。  御修養のことについて一言申し上げたいと思ひます。陛下には大変御熱心であら せられまして、曾て修養はどうすればよいか、徳を修めることについてはどうすれ ばよいかといふ御下問を拝したことも度々あるのであります。さういふ風に終始御 修養のことについて御考へ遊ばされておいでになる次第でありますが、だんだん拝 しますのに、結局御自分を反省して行く、己に克つて正しい道に進む、所謂孔子の 克己復礼の外にはないのであるといふことを御自身で御自覚あらせられたのであり ます。さういふ思召によつて常に御熱心に御実行遊ばされるのでありますから、御 聖徳は彌が上にも益々広大無辺に御進達になることと存ずるのでありまして、有難 き極みであります。  それから御仁徳のことについて申し上げたいと思ひます。御仁徳と申しましても 大きな事柄につきましては始終発表せられてをるところでありますから、茲にはさ ういふ大きな事柄は大略に止めまして、たゞ日常拝見致します御事実の二三を挙げ て申し上げたいと思ひます。  陛下の御平常を拝しますに、所謂言行一致といふことを明瞭に拝察する次第であ ります。陛下の賜はる勅語或は御沙汰は決して単なる文章ではないのであります。 陛下御自身にそれを御実行になる熱烈なる思召を拝するのでありまして、常に国民 の上に憐みを垂れさせられ、常に国民の幸福を御祈り遊ばされます。今日のやうな 事変に於きましては、戦地に奮戦苦闘してゐる軍人の上については特に御軫念あら せられまして、屡々侍従武官を御慰問の為に差遣はされ、又戦死者・傷病兵・遺族の 上にも御労りの恩沢を垂れさせられるのであります。曩には満洲事変の時に多数の 戦病死者がありましたが、厚き思召によつて顕忠府を建てさせられ、戦病死者の写 真を御納めになり、さうして忠魂を慰めさせられることになつたのであります。元 来写真は先の御府に於ては士官だけに限つてをりましたが、今回の顕忠府では兵に 至るまで写真を御取寄せ遊ばされたのであります。又平時に於きましても天災とか 大きな火災とか特別な出来事がありますと、窮民賑恤のことに対して御仁徳を垂れ させられ、屡々侍従を御差遣になつて御慰問又は御視察を賜はるのであります。こ れ等の顕著なる御仁徳は新聞等にも現れてをるのでありますからこの位にして置き まして、平常細かいことで御仁徳の二つ三つを申し上げます。  天候不順で旱(ひでり)が続く或は又その反対に霖が甚だしいとか風雨が激しいとかいふ やうな具合でありますと、旱が過ぎるから田の植付が出来ないのではないか又暴風 雨で水害がありはすまいかと御軫念になりまして、侍従に御命じになつて中央気象 台に天侯の調査を御問合せになることが屡々であります。又これは葉山に行幸遊ば されました時でありますが、海上に御出ましになつて、その先に漁船等が釣をして ゐるのを御覧遊ばされ、それが丁度航路に当つてゐる場合などは、針路を変へるや うに仰せられまして、その漁船を避けて迂回しておいでになるといふやうなことも 再々あるのであります。それはどういふことかと申しますと、御通りになる前に警 察の船が行つて漁船の位置を変へさせることがありますので、さういふことになる とこれ等の人々の生業を妨げて気の毒だといふ思召からであります。  上海事件がありました後、野村海軍大将と植田陸軍大将、この二人が凱旋を致し まして御陪食仰付けられたことがありますが、御承知の通り野村大将は片目である し、又植田大将は片足であります。拝謁に先だち陛下は特に侍従を御召になつて、 「あの二人は怪我をしてゐるから、何時何処で休息しても差支ない。形式に拘泥せ ずに無理のないやうにせよ」と有難き思召を伝へさせられたのであります。両大将 はそれを承つて御仁慈の程に深く感激致した次第であります。その他、在外使臣が 帰朝して拝謁致します場合に於ても、よく在外臣民の状況を詳細に御尋ねになりま す。異郷に在るこれ等の臣民につきましてもいろいろ御軫念になりまして、確かア メリカ沿岸の何処でございましたか、在留民が病院を建てる企があるといふことが 天聴に達しました時の如き、特にその病院の為に御下賜金を賜はつたこともあるの であります。  それから、陛下の御質素であらせられますことにつき、一言申し上げたいと思ひ ます。御調度品は洗濯の出来るものは何回でも洗濯の上破れるまで御使用になり ます。それから又御調度品は殆ど総べて国産を御使用になるのでありますが、これ は国産奨励の思召からと拝するのであります。時計なども十五六円の腕時計を御使 用になつてをられます。クローム側の国産のものでありますが、よく合ふと仰せら れて常にそれを御愛用になつておいでになります。それから一体に華美を御好み遊 ばされず、万事が御質素にあらせられるのであります。側近に奉仕致してをります と、何とも仰せられませんけれども、不言の中に天下の華美を御戒めになつておい でなされるのではないかと常に恐懼致すのであります。それからこれは甚だ恐れ多 いことでありますが、陛下の御食事の御質素なことでありまして、これは世の中で は相当誤解もありますから御話申し上げるのであります。勿論公式御陪食等の場合 は別と致しまして、平日の御食事を拝見致しますと、朝は極く御質素なオートミー ルにハム・エツグスいふやうな極く簡単な御食事のやうに拝します。それから昼 晩の御食事は時々侍従長或は侍従なども御相伴を賜はることがありますが、所謂一 汁三菜とでも申しますか、少しも余計なものは附いてをりません。又御調度につい ても如何にも御質素で、常に陛下からは無駄を省けといふ御言葉を承つてをりまし た。無駄をしないやうに、無駄をするのは日本人の欠点だとまで仰せられたことも ありまして、御自身は質素を御実行になつておいでになります。これは地方官に曾 て達せられたことでありますが、宮中に書物とか写真帖とかを表装を大変立派にし て献上になることがありますと、これは無駄のことであるから、これからは書物や 写真帖の如きは本屋で配付するやうなもので宜しいから、よく内務省で地方官に達 するやうにと仰せられたこともありまして、今はそれが実行されてゐる筈でありま す。さういふ風に万事御質素で宮中で御節約になつた御費用は相当多額であります が、陛下はこれを学術研究や社会事業の御奨励に皆御下賜になつておいでになるの であります。かういふことは宮内省の内々のことでありますから、脇では気付かぬ のでありませうけれども、事実内廷の御費用を御節し遊ばされまして、多分にさう いふ方面に御振向けあらせられてゐるのであります。  以上御仁徳について申し上げましたが、まだ申し上げたい事は色々とございます けれども、この度はこれで終りたいと思ひます。平常側近に奉仕してをりますと、 陛下の思召が洵に深く感ぜられるのでありまして、御崇高の御態度を拝し屡々敬虔 の念に打たれるのであります。又いろいろの方面から拝察致しましても、陛下の思 召は、この国家は御自分御一人の国家ではない、皇祖皇宗から御継承にならせられ ました国家であるといふ思召が非常に深いやうに拝せられるのであります。さうし て、どうしたならばこの国家を立派に統治することが出来るか、又この金甌無欠の 国家をどういふ風にして万世に伝へて行くことが出来るか、又国民の幸福、所謂 陛下の最も愛せられますところの一切の臣民に対してどういふ風にすれば幸福を進 めることが出来るか、この思召で日夜深く御軫念あらせられることを拝するのであ ります。その外には御自身の御都合といふやうなことは殆ど何にも御考へになつて おいでにならぬのではないかと拝察致すのであります。如何にも洪大なる御聖徳に 感激措く能はざる次第であります。私の茲に申し上げましたことは勿論御聖徳の万 分の一に過ぎませぬが、これで終わりたいと存じます。どうかわれら臣民一同協心戮 力至誠以て至高至尊の聖慮に報い奉らんことを切望して止まぬ次第であります。 神武天皇橿原奠都の詔 "http://sizuka.tripod.co.jp/jinmu.png" 我東に征きしより茲に六年になりぬ。皇天の威を頼りて、凶徒就 戮されぬ。辺土未だ清まらず、余妖尚梗しと雖も、中洲之地復風 塵なし。誠に宜しく皇都を恢廓め、大壮を規_るべし。而るに、今 運屯蒙に属ひ、民の心朴素なり。巣に棲み穴に住む習俗惟れ常と なれり。夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。苟も民に利あ らば、何ぞ聖造に妨はむ。且当に山林を披払ひ、宮室を経営りて、恭 みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授け たまふ徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。 然して後に、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこ と、亦可からずや。夫の畝傍山の東南橿原の地を観れば、蓋し国の 墺区か、治るべし。