日本的性格


      一

 日本的性格の構造内容に関して先ず問題となることは、いったい何に対して日本的性格なるものを特色づけるべきかということである。日本的性格は日本文化の性格として具体的に把握されるから、この問題は日本文化とは何に対していうのであるかという問題と結局は同じことになる。我々は出来るだけ現実に即して考えて行かなければならぬ。すなわち今日の我々にとって、いったい何が日本文化として浮き出ているのか。徳川時代の国民精神の自覚は、一方に仏教の齎した印度文化に対し、他方に儒教の中に含まれている支那文化に対して、日本固有の文化を擁護するという形を取ったのであるが、それは過去に於ける歴史的意義は別として、今日においてはそのままでは厳密には妥当し得ない観念形態である。今日でもむやみに漢学や漢字を排斥して「大和ごころ」というごときものを考えている人々もあるようであるが、それはむしろ抽象的な理念にとらわれているのであって、今日我々が日本文化というものを考える場合には印度文化や支那文化を摂取して渾然として一つに融合している日本文化を考えなければならぬと思う。日本文化は今日の現実の問題としては主として西洋文化に対して考えられているのである。西洋文化の浸潤によって醸された国民的自覚の衰退に対して日本文化の特色を強調し日本的性格の構造を解明して国民一般を自覚にもたらさなければならぬという歴史的危機に我々は立たされたのである。徳川時代に国学者の置かれた歴史的状況と今日我々の置かれている歴史的状況とは同一ではないのである。今日何に対して日本文化を考えるべきかという問題に当面した場合に、東洋全体を背景とする日本文化を西洋文化.に対して考えるということが最も現実に即した考え方であるといわなければならぬ。
 西洋文化に対する東洋文化、東洋文化を背景とする日本文化を念頭に置いて日本的性格の本質をとらえて行こうとするのであるが、西洋文化を構造するギリシアの知的文化とアラビアの意志的文化とに対して東洋文化は一般に情的文化であると見る人がある。また東洋のうちでは印度文化の思弁的知的性格と支那文化の意志的功利的性格とに対して日本文化は特に純情の発露を生命とする勝義の情的文化であると見られている。私はかかる特色づけに全体として賛意を表した上で、日本的性格を構造する諸契機をなおすこし細かに見て行きたいと思う。それは日本文化の標識を閘明することであり、日本精神の正体を掴むことであり、日本主義の根拠を具体的に検討することである。
 普通に日本的性格、従って日本文化の特色として挙げられることは、日本人の同化力に基づいて外来文化を受容し集大成して文化が複質性または重層性を示しているということである。むろんそれも一つの特色として挙げられるかも知れぬ。しかしどこの国の文化を見ても外来文化の影響を受けていないところはなく、そしてまた大抵の場合にはそれを同化して独自の文化を発展させ、そこに複質的または重層的文化を形成しているのである。また仮にそれが日本文化の特色であるとしても、それは単に形式的な原理であって、日本文化の内容そのものを具体的に捉えているものではない。更にまた、そういう形式がすべてであって、日本文化の内容そのものは常に変化して何等一定の形態を有(も)ったものでないというような懐疑的な見方も理論上は可能であるかも知れぬが、現実を直視した結果として生じたものとは考えられぬ。
 それならば何がいったい日本的性格であるか。何がいったい日本文化の内容上の特色であるか。単に情的と云ってもなお余りに漠然としている。日本的性格または日本文化にはどういう諸契機が見られるか。それをはっきり捉えるのは甚だ困難なことであるが、一つの試みを提出するのも必ずしも無意義ではなかろうと信ずる。大体において日本的性格、従って日本文化に三つの主要な契機が見られるように私は思う。自然、意気、諦念の三つがそれである。

     二

 自然ということは日本的性格の重要な契機である。賀茂真淵が「天地のまにまに」とか「天地の心のまにまに」とか「天地に随て」とか云っているのはみな自然のおのずからなことを云っているのである。「凡そ世の中はあら山荒野の有か、人の住よりおのづから道の出来るが如く、ここもおのづから神代のみちのひろごりて、おのづから国につけたる道のさもらふ」と云っている。道とはおのずからな自然の道である。「凡そ物は理りにきとかかる事はいはば死たるが如し。天地と共におこなはるるおのづからの事こそ、生きてはたらく物なれ」。理窟はものを殺してしまう。生き生きして働くものはおのずからな自然のことである。仁、義、礼、智、信というようなものもおのずからな四季の移り変りに譬えることができる。「凡そ天が下に此の五つの物はおのづから有ること、四時をなせるがごとし」。冬から急に春になったり、春から急に夏になるものではない。漸時に春になり、漸時に夏になるのである。すべてがおのずからでなだらかである。「いつくしみも、ゐやも、いかりも、ことわりも、さとりも、おのづからあること、四時の有かぎりはたえじ」。仁、義、礼、智、信などとさかしらに窮屈な名をつけて狭いことを云うからいけないのである。「ただ、さる名もなくて、天地の意のままなるこそよけれ」。天地で人間だけが貴いと思うのもおろかなことである。「教へねど犬も鳥もその心はかつかつ有は、必ず四時の行はるるが如し」。生きとし生ける者はみな同じである。人も獣も鳥も虫も同じである。自然へ帰ればそこにおのずからな道が行われているのである。「ただ何事も、もとつ心のなほきにかへりみよ」。本居宣長にあっても同様である。宣長が「皇国魂」とか「御国ごころ」とか云っているのは、神ながら言挙げせぬという意味の自然を体得した魂なり心なりにほかならぬ。神ながらとは神の道に随っておのずから神の道あるをいうのである。言挙げせぬとはいささかもさかしらを加えないことである。神の道とは「ただ物にゆく道」 である。すべてがおのずからで自然である。「古へは道といふ言挙なかりし故に、古書どもにつゆばかりも道々しき意も語も見えず」。道とは理窟によって築き上げられる道ではない。「何の道くれの道」と云って論議されるような道ではない。おのずからな自然の道である。「いささかも人のさかしらを加へざる故に、うはべはただ浅々と聞ゆれども、実にはそこひもなく、人の智の得測らぬ深き妙なる理のこもれる」ものが道であり、斯かるおのずからな道を行くのが「すがすがしき御国ごころ」である。
 日本の道徳の理想にはおのずからな自然ということが大きい意味を有っている。殊更らしいことを嫌っておのずからなところを尊ぶのである。自然なところまで行かなければ道徳が完成したとは見られない。その点が西洋とはかなり違っている。いったい西洋の観念形態では自然と自由とは屡々対立して考えられている。それに反して日本の実践体験では自然と自由とが融合相即して会得される傾向がある。自然におのずから送り出るものが自由である。自由とは窮屈なさかしらの結果として生ずるものではない。天地の心のままにおのずから出て来たものが自由である。自由の「自」は自然の「自」と同じ「自」である。「みづから」の「身」も「おのづから」の「己」もともに自己としての自然である。自由と自然とが峻別されず、道徳の領野が生の地平と理念的に同一視されるのが日本の道徳の特色である。更にまた日本の国民道徳が忠と孝とを根幹としていることもそれがおのずからな道であるからにほかならぬ。神を祭る「祭り事」と人民を治める「政」とが天皇において一つになっていることもおのずからな自然であり、一家の奉仕を受ける主体と一家の統御を司る主体とが親において一つになっていることもおのずからな自然である。同じことが日本の芸術の理想にもあらわれている。和歌にしても俳句にしても、絵画、建築にしても、茶道、花道から造庭術に至るまで、日本の芸術では自然と芸術との一致融合ということが目標となっている。日本の生花と西洋の生花とを比較したり、日本の庭と西洋の庭とを比較するときに、この特色が著しく目立っていることは今更いうまでもない。日本の道徳にあっても芸術にあっても道とは天地に随った神ながらのおのずからな道である。なお、自然ということは自然の情という意味をも取って来るから、日本的性格の有っている自然という契機を捉えることと、日本文化が情的であるという見解との間にも深い関連が看取されるのである。


 次に第二の契機として挙げて置いた意気ということに移ろう。この意気というのは特に武士道精神として日本人の血の中に流れている性格である。山鹿素行が「志気」と云っているのが、ここでいう意気に当っている。「志気と云ふは大丈夫の志すところの気節を云へり」と云い、「大丈夫たらんもの少しき処に志を置くときはその為すところ、その学ぶところ皆至て微にして大なる器にあらざるなり」と云っている。また「利害においていささか志を止めず」とも云っている。意気とは高い理想の実現のためには一身を賭すという気概である。「大丈夫の世に立つ、正直ならずんば有るべからざるなり。その義あるところは守つて更に変ぜざるの謂なり。その親疎貴賎に因らず、その改むべきところを改め、糾すべきことをたゞして、人に諛(へつら)はず世に従はざるの謂なり」。また「内にへつらふ処なく、外に屈すべき物なく、何くに行くといヘどもその気つねに万物の上に伸ぶ」。理想の実現には不屈不撓の精神がなければならぬ。「大丈夫の世に在る、剛操の志あらざれば心を存すること能はざるなり」。剛操の剛とは何であるかというに「剛はよく剛毅にして物に屈せざるを謂ふなり」と云っている。操とは何であるかというに「操はわが義とする志を守つて、いささか変ぜざるの心なり」と云っている。意気は死をも厭わない。「重きもののために害あらんに於ては速かに死して顧みるべからず」といい 「死を致し命を軽くして百年の寿を一刃の下に棄つ」というのがそれである。吉田松陰も「士規七則」の中で「士の道は義より大なるは莫し。義は勇に因つて行はれ、勇は義に因つて長ず」といい、また「死して而して後己むの四字は言簡にして義広し。堅忍果決、確乎として抜くべからざるものは是を舎きて術なきなり」と云っている。
 斯ような意気すなわち気節を立てるという理想主義は日本的性格の重要な一面であって、従って日本文化の著しい特色の一つである。真ごころから生れた自己犠牲の精神に結晶している。意気ということは武士の性格として初めに現われたものであろうが、町人にもそれが移って行った。文学にあっても軍記物語から浄瑠璃に至るまで、すなわち貴族文学から平民文学に至るまで武士道精神を反映していないものはない。そして男性の社会のみならず更に女性の社会へも押し拡がって行ったのである。この意気の精神が今日に於てもますます盛んなことは今回の支那事変に照して見ても何よりも明らかである。また単に道徳の領域のみならず日本の伝統芸術に高貴なところがあって気品を備えているということは気節としての意気のおのずからな発現でなければならぬ。俳諧が位すなわち品位を重んずるのもその一つの現われに過ぎぬ。


    三

 日本的性格の第三の契機として諦念ということに移って考察してみよう。日本人はいったいに諦めがいいが、諦めとは自己の無力を自覚することにほかならぬ。斯ような諦めの心はもちろん日本的な仏教に最もよく現われている。法然が「われらが解にて、ほとけの本願をはからひしる事はゆめゆめおもひよるまじき事なり。ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、意に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまるなり。かく意えつればやすきなり」と云っている中に深い諦念が感得される。それを簡明に言い表わせば「聖道難行のさがしきみちにはすべてのぞみをたつべし。ただ弥陀本願のふねにのりてのみ、生死のうみをわたりて、極楽のきしにはつくべきなり」ということになる。親鸞に至ってはこの諦念が更に顕著な形になっている。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかうぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。
 これは日本的な仏教にあらわれた諦念であるが、その他一般に諦念、諦め、あっさり、さっぱりしたところが日本的性格として日本文化の一特色をなしている。実践上でも物にこだわらないこと、思い切りがいいことが貴ばれる。執着に反対の恬淡、ごてごてした趣味に反対のさっぱりした趣味、それがあらゆる方面に看取される。食物にも淡泊な趣味があらわれているが、墨絵や能の好みから「寂び」の尊重に至るまでみな同じ根柢から出ているのは云うまでもない。日本音楽と西洋音楽とを較べて見ても、諦念を通って浄化された静けさが日本音楽の特色をなしている。
 日本的性格、従って日本文化の有っている三つの契機として自然、意気、諦念の三つを挙げて説明して来たのであるが、この三つは互いにどういう関係に立っているか。先ず外面的には、自然、意気、諦念の三つは神、儒、仏の三教にほぼ該当しているというように見ることができる。発生的見地からは、神道の自然主義が質料となって儒教的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたというようにも考えられる。そしてそこに神、儒、仏三教の融合を基礎として国民精神が涵養され日本文化の特色を発揮したと見られるのである。
 質料とか形相とか云ったが、この二つを内面的関連に於て見ることが肝要である。形相というものは外部から質料に加えられるというようなものではない。質料の中にもともと形相が潜んでいて、それがおのずから発展して自己創造して行くと共に、自己に適合したものを外部からも摂取するのである。理想主義のあらわれの意気ということと、非現実主義のあらわれの諦念ということとは外来的な文化によって始めて新たに附け加えられた性質ではなく、既に神道の自然主義の中に萌芽として含まれていたものが次第次第に明瞭に現勢化されて来て、それと同時に外来的ではあるが自己に適合した要素として儒教や仏教の契機をも摂取し同化したのであると考うべきである。すべて生物の発展とか自己創造とかはそういう形式を取っている。外界から単に機械的な影響を受けるというようなことはなく、自主的に発展し自己創造する過程の中途で自己に適合した外物を摂取して肥え太って行くのである。こういう内的発生的な見方は北畠親房の次の言葉の中にも言い表わされている。「君も臣も神明の光胤を稟け、或は正しく勅を受けし神達の苗裔なり。誰かこれを仰ぎ奉らざるべき。この理を悟り、その道に違はずば、内外典の学問も、ここに極まるべきにこそ。道の弘まるべき事は、内外典流布の力なりと云ひつべし。魚を得る事は網の一目によるなれど、衆目の力なければこれを得る事難きが如し。応神天皇の御代より儒書を弘められ、聖徳太子の御時より釈教を盛にし給ひし、これみな権化の神聖にましませば、天照大神の御心を受けて我が国の道を弘め深くし給ふなるべし」。二宮尊徳の次の言葉も同じである。「それ神道は開闢の大道皇国の本源の道なり。豊蘆原を此如き瑞穂の国安国と治めたまひし大道なり。此の開国の道則、真の神道なり。我が神道盛に行はれてより後にこそ、儒道も仏道も入り来れるなれ。我神道開闢の道未だ盛んならざるの前に儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず。我が神道則開闢の大道先づ行れ、十分に事足るに随ひてより、後世上に六かしき事も出来るなり。其の時にこそ、儒も入用仏も入用なれ。是誠に疑ひなき道理なり」。
 更に具体的に云えば、神道の自然ということと武士道の意気ということとは乖離的な対立をなしているものではない。武士道の意気は儒教の影響ももちろんあるに相違ないが、日本人の自然の性情からおのずから生れて来たことでなければならぬ。賀茂真淵は神道の自然主義の視圏にあって「海ゆかば水漬くかばね、山ゆかば草むすかばね」の句を引いて「あはれあはれ上つ代には人の心ひたぶるに直くなむありけれ」「直き中に雄々しき心はあるなり」と云っている。雄々しき真ごころがすなわち武士道の意気であるが、それはすでに日本人の自然の質料の中にも含まれていたものである。儒教という外来のものによってはじめて附け加えられたごときものではない。平田篤胤も「御国の人は、その神国なるを以ての故に、自然にして正しき真の心を具へて居る。其を古より大和心とも、大和魂とも申してある」と云っている。自然の質料の中に理想主義の形相が含まれているのである。自然に生きる生き方が力としての意気でもある。
 諦念と自然との関係を見ても同様のことが云える。自然主義は現実主義であって、諦念の中にあらわれている非現実主義と相容れないようであるが、必ずしもそうではない。自然に従うということは諦めの基礎をなしている。諦めとは自然なおのずからなものへの諦めである。自然を明らかに凝視することによって自己の無力が諦められるのである。本居宣長も「そもそも天地のことわりはしも、すべて神の御所為にしていともいとも妙に奇しく霊しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智もては測りがたきわざなるを、いかでかよくきはめ尽くして知ることのあらむ」と云っている。自然な神の道は人間の諦念によって受容されるのである。なお親鸞に「自然」という思想があるのもそこから理解することができる。「自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去今生未来の一切のつみを善に転じかへなすといふなり。…弥陀の願カを信ずるがゆゑに如来の功徳をえしむるがゆゑにしからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはざれば自然といふなり。誓願真実の信心をえたる人は、摂取不捨の御ちかひにおさめとりてまもらせたまふによりて行人のはからひにあらず、金剛の信心となるゆゑに正定衆のくらゐに住すといふ。このこころなれば憶念の心自然におこるなり。この信心のおこることも釈迦の慈父、弥陀の悲母の方便によりて、無上の信心を発起せしめたまふとみえたり。是れ自然の利益なりと知るべし」。行者のはからいでなく自然の利益であるからそこにおのずから諦念が湧いて来るのである。諦念は自然ということからおのずから出て来るものである。自然をそのまま明らかにすること、明めることが諦めである。
 以上に於て、自然という質料の中に意気とか諦念とかいう形相が内的におのずから含まれていてそれが次第にあらわに大きく成長して来る可能性が見られたと思う。自然主義からおのずから理想主義や非現実主義が発展して来るのである。理想主義や非現実主義を単に外来的のものとして大和民族の本来性と相容れないように考える機械的歴史観に賛意を表するわけに私はゆかぬ。
 然るになおここに問題が残されている。それは意気と諦念とは果して相容れるものであろうかということである。意気とは武士道に於て見られる自力精進の精神である。諦念は他力本願の宗教の本質をなしている。この両者は果して相容れるであろうか。いったい気節のために動く意気は動の方面である。物に動じない諦念は静の方面である。そして動の中に静があり、静の中に動があるという可能性が見られる限り、意気と諦念との結合の可能性も目撃されなければならぬ。武士道でも命に安んずるということを云う。山鹿素行は大丈夫が天命に安んずべきことを説いている。「命に安んぜずしては、しひて妄動し妄作せんこと、大丈夫の甚だ慎しむべきところなり。……今、命に安んずるを以て存心の工夫と致す」。なお、武士道が死を顧みないという裏面には死をあっさり諦めているという知見が窺われる。一般に「死への存在」というようなものは「諦念を基礎とする意気」という形で明瞭にあらわれている。死は生を殺すものではない。死が生を本当の意味で生かしているのである。無力と超カとは唯一不二のものとなっている。諦念は意気の中に見られる否定的契機として欠くことのできないものである。こういう意気と諦念との弁証法的綜合の現実化は禅の心境にも見られるように思う。例えば道元は「只思ひきりて……飢へ死にもせよ、寒ごへ死にもせよ」とか「ただ思ひ切つて身心ともに放下すべきなり」とかいうように、よく「思ひ切る」ということを言うが、それが無力と超力との合一である。禅の心境は歴史的に見ても武士道精神とよく合致した。武士道は意気から諦念へ行ったものであり、禅は諦念から意気へ行ったもののように思われる。意気と諦念とは互いに相容れないようなものではなく、むしろ両者は相関的に弁証法的関係を有って成立するものである。日本の国民的性格を「戦闘的な恬淡」とか「しめやかな激情」とかいう二重性格で和辻氏が言い表わしているのもそのためであると思う。
 なお自然と意気と諦念との関係は次のようにも考えることができる。自然とはおのずからな道であった。道はたとえおのずからな道であっても苟くも道である以上は踏み行かなければならぬ。その踏み行くカが意気である。然るに道には踏み出される出発点と踏み終る終点とがある。出発点と終点との明らかな自覚が諦念である。それ故、自然というおのずからな道は一方に於て生きる力の意気という動的な迫力と、他方に於て明らかに明める諦念という静的な知見とを自己の中に措定しているということができるのである。ただし弁証法を徹底させようとする者は次のように考えるかも知れぬ。自然という定立に対する反立が意気である。そして自然と意気との綜合が諦念である。なぜならば自然にあって意気が発動する限りは必ず諦念へ導かれる。また意気が自然によって制限されたものが諦念である。自然、意気、諦念の三者は正、反、合の過程を示していると見られ得るのである。序(ついで)に云って置きたいが、この具体的な例が示しているように、調和法と弁証法とは必ずしも相敵視すべきものとは限らない。

    四

 日本的性格として日本文化の中に含まれている自然、意気、諦念の三契機が相即融合する貌を見て来たのであるが、この相即融合を象徴しているものが三種の神器であると考えることができないであろうか。玉は仁をあらわし、鏡は智をあらわし、剣は勇をあらわすとして、三種の神器は智仁勇をかたどつていると云われているが、そのことと関連を有っている。また玉は曲妙を、鏡は分明を、剣は平天下を意味するともされているが、それとも関連を有っている。自然と意気と諦念との中で、自然は玉によって象徴され、意気は剣によって象徴され、諦念は鏡によって象徴されていると考えることは不都合であろうか。
 玉は丸い曲線を有っている。曲妙と云われるのもそのためである。「まがたま」と云うのもまがった曲線を有っているからである。真淵も「凡そ天地のまにまに日月を初て、おのづから有物は皆な丸し」といい 「天地のゆくは丸く漸にして至る」ともいい、また「世を治めたまふも、此丸きをもととしてこそ治まるべけれ」とも云っている。丸い玉は自然のおのずからなことの象徴である。書紀にも「八尺瓊(やさかに)の勾れるが如くに、曲妙(まがたへ)に御宇(みよしろしめ)せ」と云ってある。丸い和かな自然が玉によって象徴されていると考えることができる。力としての意気が剣によって象徴され得ることはいうまでもない。「十握剣を提(とりひさ)げて天下を平けたまへ」とは意気を予想した言葉である。諦念は物に動じないで静かに明らかに物を映す心であるから鏡によって象徴されるのである。「白銅鏡の如くに、分明(あきらか)に山川海原を看行(みそなは)せ」と云われている。分明な智を以て山川海原までもありのまま心に写すのである。万物を静観して諦むべきことを諦めるのである。要するに、玉は自然の情をあらわし、剣は意志の力としての意気をあらわし、鏡は知に基礎を置く諦念をあらわしていると見られる。知、情、意の三つの領域にあって、自然と意気と諦念とが相即融合して、三にして一、一にして三をなしていることが、三種の神器に象徴されていると考えても差支ないであろう。
 なお三種の神器の中で玉が常に最初に出ていることは注意すべきである。意気と諦念という二つの形相的なものに対する質料としての自然を象徴している玉であるから、常に一番はじめに出て来るのである。またその基礎的な玉が自然の「情」をあらわしているということは、日本文化の特色が概して情的なものであるという見解とも直接な関係を有っている。
 更にまた、三種の神器に関する考察は日本的性格と日本独特の国体との関係の問題を暗示するものであるが、この間題には深く立ち入らずにただ一つの点のみに触れて置きたい。現御神(あきつみかみ)であるところの天皇は「すめらみこと」である。「みこと」とは御言(みこと)であり、命(みこと)である。命は御言を宣(の)る生命であるが、御言が永遠のロゴスである限り、「みこと」は神的生命として、神ながらのおのずからの自然にほかならぬ。「すめら−みこと」の「すめら」は二重の意味を有っている。「統ぶ」を意味すると共に「澄む」を意味している。「統ぶ」ことは意気を予想し、「澄む」ことは諦念の前提である。「すめらみこと」は自然と意気と諦念との融合相即としての現御神である。現御神の神器が玉と剣と鏡とであることはむしろ当然であると云わなければならぬ。
 日本的性格を三十一文字に言表したとされている本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の歌も同じ見地から解釈することができる。庭に植えた牡丹桜ではなくて山に自然に生えている山桜であるという点に自然という契機があらわれている。この自然の契機は真淵の歌「うらうらと長閑けき春の心より匂ひいでたる山桜花」を背景に置いて見れば更にはっきりと浮き出てくる。また同じに山に咲くものでも、椿などのように執着性の強い花ではなくて潔く風に散って行く桜であるという点に諦念の契機が明瞭に見られる。そして崩落性への諦念を内に蔵しながら馥郁として朝日に匂っているという点に高邁な意気が発露している。この一首の中に日本的性格の三契機である自然と意気と諦念とが融合して味わわれるのである。そしてこの自然と意気と諦念という三つのものの融合相即ということに、日本主義のよって立つ根拠が存すると考え得るのである。

    五

 以上に於て日本的性格、従って日本文化の特殊性を考察したから、終りに日本的性格と世界的性格との関係に就いて簡単に私見を述べて置こう。
 日本的性格を自覚し力説する立場は日本主義であり、世界的性格を自覚し力説する立場は世界主義である。日本主義とは日本人の国民的自覚に基づいて日本独特の文化を強調して、自己の文化的生存権を高唱する立場ということができる。すなわち日本人の国民主義である。世界主義とは自国を価値の標準とするような独善的なことを考えないで自国以外の他の諸国の文化の特色や長所をもそれぞれ認め、その正当の権利を尊重して人類共存を意図する立場である。世界主義はまた国際主義ということもできる。
 日本的性格と世界的性格との関係、従って日本主義と世界主義との関係、更に広くは国民主義と国際主義との関係はどういうふうに考えるべきかというに、つまりは個別と一般との関係に帰着すると思う。従って両者は相容れないようなものではない。およそ一般というものはただそれ自身で自己を現わすというようなものではない。一般は個別の中にあらわれるのである。また個別は特殊な仕方で一般を表わそうとするのである。各国の文化というものはみなそれぞれの文化的感覚に於て特色を有ったものである。各国の文化は世界全体に対して、文化的個体とでもいうようなものを構造している。文化的個体は各々独自の感覚の仕方を有っていていずれも互いに同じなものはない。文化的個体は歴史的風土的に各々規定されている。世界的文化というものは各々の文化的個体の綜合の中に与えられるのである。各国の文化の特殊性を発揮することによって世界全体の文化が進歩して行く。個別を強調することによって一般が光り、部分を推量することによって全体が輝くのである。日本的性格と世界的性格、日本主義と世界主義とは乖離的に対立するものではない。むしろ相関的に成立するものである。
 日本的性格と世界的性格との関係を個別と一般との相関と見たのであるが、それらの二つに対して個人的性格はどういう位置を有っているか。日本的性格が世界的性格に対すると同じような関係を、個人的性格が日本的性格に対して有っているということができる。およそ一般とか個別とかいうことは相対的なことであるから、文化的個体としての一国の文化を一つの一般的なものと見れば、それに対して各個人は個別的なものとなってくる。そして文化的個体としての一国の文化に対して今度は各個人が各々異なったものとなるのである。文化的個体はいわば世界全体と個人との中間に位するものである。各個人は文化的個体に対して各々個別的感覚を有ったものであり、文化的個体は世界全体に対してやはり各々個別的感覚を有ったものである。個人的性格が日本的性格に対する関係と、日本的性格が世界的性格に対する関係とはほぼ同じである。個人と国民と世界人、従って個人的性格と日本的性格と世界的性格とは個と種と類とを表わしているとも云えるであろう。そして個人的性格と日本的性格とが両立するように、日本的性格と世界的性格とも両立しなければならぬのである。
 日本的性格と世界的性格との関係から実際的な格率を導き出すならば、我々は飽くまでも日本文化の特殊性を体得して日本主義の立場に立つべきであると共に、広く世界の文化を展望してその優秀なるものを包容するだけの雅量を示さなければならぬということになる。我々に日本国民として日本的性格の自覚がないならば我々自身の十分な存在理由もないことになる。有っても無くてもいいものになってしまう。世界的文化の創造に対して無能力者になってしまう。然しながら、それと同時に外国文化に対して或る度の度量を示すことを怠ったならば日本的性格は単なる固陋の犠牲となって退嬰と萎縮との運命を見るであろう。我々は日本主義の立場に立つと共に、日本主義を「天地の公道に基かせる」ことに努力しなければならぬ。また世界主義を採ると共に、国際的社会の一員として我々日本人の「祖先の遺風を顕彰する」ことを目標とすべきである。日本文化を指導する原理は日本主義的世界主義または世界主義的日本主義というような一見逆説的なものでなければ本当でない。我々は伝承と生長とを実存の中核としなければならぬのである。我々は一方にあって日本的性格の将来または日本主義の進路に世界史そのものを嚮導する理念をはっきり目撃しなければならぬと共に、他方にあって日本国民の世界史的使命は日本的性格の国民的自覚なくしては果たすことができぬことを腹の底から感覚しなければならぬのである。

                                     (『思想』昭和十二年二月)