巻のはじめに



 長い間頭の中でだけ考へてゐて書き出す機会のなかつたこの本を、たうとうすつかり書き上げて世におくることの出来る時が来た。
 思想問題は今世間で一ばんやかましい問題の一つになつてかるが、さてその思想問題の内容はどんなものであるか。父兄はその子弟を膝下より手放し高等学校へ入学させるにつけても、所謂赤化学生になりはしないかを先づ第一に惧れるといふ現状であるが、その所謂赤化思想について根本的のことを簡単に書いた本は周囲にちよつと見られない。地方の青年なども、マルクス主義の通りの歴史や、主張の中心点を平易に知りたいと思つても、希望通りの本は得られない。尤もむづかしい術語を並べ立てた翻訳書などはないでもないが、それを読み通ほしても意味ははつきりと分らない。そんなところから、思想問題につき一わたりの知識を与へ、問題の中心点を平易に説明し、なほこれに公平な批判を加へた手頃な本はないものかといふ質問を、私自身幾度となく人から受けてはゐたけれども、これまでのところその目的にかなふ本も見あたらず、それならば不敏ながら自分で一つさうした本を書いて見ようと発願はしたものの、さていろいろの仕事に阻まれ今日まで着手の機会もなかつたが、今やつとその念願を果たすことが出来たので、自分としては義務を一つ果たしたやうな嬉しさを覚えた。
 私の書く本は、特別のものでない限り、たとひ学術専門書であつても、出来るだけ平易な文章で書き、ちよつと理解に困難だと思ふところは一々説明の文を書き加へて論旨を進めることにしてゐる。私は、どんなに深遠な研究であるにせよ、思想に関しての研究である以上は、一般に理解せられない言葉でしか書けないといふのは間違ひであるし、またそのむづかしい言葉でだけの公表をして行くことは、社会に対し一つの罪悪であるとさへ考へてゐる。概していへば、日本人の書く文章の方が難解で、西洋のえらい学者の書いた尊門的な文章の方が平易である。私は学生時代に丘浅次郎先生に動物学をならつたが、先生の講義はいつも至極平易なもので、恐らく中等教育を受けない人達にも、はつきりと分かるだらうと思ふやうなものであつた。さてそれをノオトに筆記して置き、別に教科書として定めてある外国の大きな専門書をひとりで読んで行くと、先生の講義はすつかりその教科書の要を取つてゐることは勿論、なほ先生独自の研究に纏め上げたものであつたので、何ともいヘず推服させられたことであつた。実験の御指導を受けてゐる間には、学問を研究し問題を考へる自由人の態度を自然の間に教へられたが、私は今なほその自由人の態度を支持することと、文章を平易に書くことについては、先生よりうけた影響を忘れることが出来ない。その後いろいろの本を読むやうになり影響を受けたものも少くないが、クロポトキンの自叙伝を読み、なほ彼のその他の本を読んだ時には、先づ彼の人間に感動させられた。殊に彼が大衆によせる平易なパンフレットに全力を注ぎ、大きな本の幾冊にも書き上げられるだけの準備をしまたその内容をつくり上げたものを、ただこの平易なパンフレットに打ち込んで了ふといふ意味のことを書いてあるのを読んだ時には、彼の社会愛の大きさに心を打たれた。 ラッセルなども、あれだけ深い思想をあれだけ平易に書いてゐるが、これも容易には真似の出来ない仕事だと思つた。
 話が少し脇道へそれて了つたが、これとて思想問題の一部でないとはいへない。それはさておき、私はこの本の中では、私の心の上に強い影響を与へてくれたそれらの先覚者に多少でもあやかりたいため、叙説を出来るだけ平易にして進めることにした。併し議論がすつかり浅薄になつては役に立たないから、思想問題の最も根本的な考察には勿論深く立入つてゐる。この本によつては、一先づ思想問題の全貌を知り、中心的な問題を理解していたゞけるかと思ふ。マルクス主義の内容などになると、我が国では肝腎の主張者までが本当の理解を持たず、堂々たるマルクス専門学者でありながら間違つた説明などをしてゐた程であるが、マルクス主義の立場を学問的に取らうとしてゐる人達にさへ、幾分でも正しい理解を喚び起す点で、この本を読むことは決して損ではあるまいといふ、多少の自信をも私は持つて、この本を社会へ送る。
 勿論単に説明するだけでは役に立たないから、私は更に諸種の思想の上に批判を加へてゐるが、それらの思想の追随者から駁論を聞くならば、これまで同様、私は応戦を避けるものではない。所謂思想善導をいつてゐる人達の思想批判は、正直のところ今日その思想へ進んでゐる人達殊に青年者に上っては、すつかり無視せられてゐるやうな状態であるが、その点についても、無力な所謂思想善導書を書いてはゐない自信を私だけでは持つてゐる。思想のすべてに対し、私は先づ謙遜に傾聴して、正しくこれを理解することに努め、更に自重して、思想を大きく統一して行く道を考へて来たが、正直に理解して行くことについては、絶えず読書と反省とを怠らずに来たつもりであるから、その思想の主張者によつても、私の批判はさう不公平には見られないであらら、この本全体の統一に、私の見方の眼目が存する。一部分だけを拾ひ読みしての論駁などは御免を被りたい。
 マルクスとはどんな人か、といふやうなところから始めて知識を得たい読者のために、思想問題として一通り知つてゐて便宜のことは大抵この小ざな本の中に織り込んで置いた。併し伝記などには数説あるのが普通であり、私はいろいろ考へた結果これが穏当だと思ふ説だけを取つて書いた。この本を書くについて、他の本の御厄介になつた部分はこれまた少なくないが、。それらも一々断り書きをせず、私の話としてすべてを纏めてゐる。
 私は数年前この本を書いたとほぼ同じ目的から 「思想問題」 といふ一書をかき、同じ発行所より刊行したが、それとこれと、論ずる私の思想的立場に相違はなくとも、これはその本と重複しないやう注意しつつ全く新らたに書き起したから、内容は違つたものである。「思想問題」から私は予想外に多くの反響を得て、望外の光栄を感じた。中にも思想事件のため高等学校を退学させられた青年が、最初よりその本を軽蔑しつつもふとした機会に初めの方を読んで見て、最後まで読み通ほすやうになり、思想的に一つの転換を果たしたといつて、手紙を私に寄せたのも、私の悦ばしい思ひ出の一つになつた。この本も社会へ送り出され、何かのつとめを果たし得るならば、社会人として私の悦びに堪へないところである。

昭和八年四月

      京都

            著  者