第十五章 思想問題への根本的態度




     理想主義的統一

 世界に現はれた幾多の思想問題につき、私は一わたりの説明を試み、且つこれに多
少の批判を試みた積もりである。最後にそれら諸種の思想に対する総括を述べて置き
たいと思ふ。
 思想を総括しようとして第一に問題となるのは、社会主義とアナーキズムとの対立
である。前にも述べたやうに、これら二つの思想は、傾向として全く反対のものを含
んでゐる。尤も社会の理想態を考へる場合には、双方のものは違つたものを考へて居
らず、マルクスとクロポトキンとに共通の思想が見られる。例へばマルクスも、銘々
の人達の能力や個性の相違を認めないのではなく、理想的の状態としては、銘々の人達
が自分の能力に応じただけの仕事をし、自分の要求に応じただけの消費をする世界を
考へて居り、この見方を以ては、人間が全く質的に考へられてゐるのでゐる。クロポ
トキンもまた全く同様の主張をなしてゐる。併し斯様の社会になるには、先づ社会の
中に消費することの出来る品物が実に豊富に存在しなければならないが、マルクスも
クロポトキンも共にそのことをいつて居り、クロポトキンはそのために科学を高度に
応用することの必要を熱中に説き、科学が高度に応用せられた社会の一見本を提示し
てゐる程でさへある。併しそれに似寄つた考へは、もつと古く藝術家であつて同時に
社会主義者であつたイギリスのウィリアム・モリスも説いてゐたのである。
 これに開聯して興味のゐるのは、近来アメリカで喧しく論ぜられたテクノクラシイ
であつて、それの主張者スコット等は、機械を高度に使用すれば、各人の労働が著し
い程度に縮少せられることをいひ、その理想の社会に於いては、社会の経済生活は技
術家により統制せられ、技術家は諸科学の知識を適用して社会を支配しなければなら
ぬとした。テクノクラシイとは、その技術家統制の政治のことでゐるが、かうした思
想の起つて来ることも無理からぬことでゐらう。
 話は脇へそれたが、社会主義とアナーキズムとには、右のやうな共通点があり、帰
着して行くところは同一であるから、密接の関係を持つものであるが、その理想の社
会へ達する経過につき、社会主義が社会的統制を重んじ、時には独裁主義をさへ取る
に対して、アナーキズムが自由聯合を重んじ、強制を否定することは、著しい対照を
なすものである。我々は先づこれら二つの思想を統一しなければならない。これにつ
いては前にも多少述べて置いたが、私は両者は合一出来ない思想ではないと思ふ。。
 理想的の社会を説く点では、アナーキズムは長所を持つてゐるが、強制が全く省か
れて社会の統制が取れて行くかどうかは疑問でゐる。自由とは、本当に人格的な自分
を生かして放縦にならうとする自分をおさへつけて行くことであるとすれば、斯様に
おさへつける部面も人間にはなければならない。ただそれが他人に対してである場合
には、その人の心よりの約得を得て行きたい。その納得を得なければ、たとひよいこ
との勤めでも強制になるであらう。ここに社会的統制は、社会全体の幸福の立場より
なされる限り、決して学なる強制でないけれども、それをなすには社会人の教育が必
要の準備であらう。組合を下から上へ積み重ねて行く仕方は、専制を除く一つの方法
である。それ故社会的統制と人間の自由とは、結局のところ合一出来ないものでなく、
組合組織を出来るだけ自由のものに組み立てて行き、単なる専制を避けなければなら
ない。尤もこの組織が実際問題としては面倒のことであつて、アナーキストがいふや
うな全くの自由聯合は行はれ得るものでないし、組合組織は折角出来てゐても、その
中へ何等かの勢力が独裁制的に入り込むことはいくらでも起り得る。現にロシアやイ
タリイでは、さうした組合の組織をつくつてゐるけれどや政治は独裁主義的に行は
れてゐる。併しとにかく社会主義とアナーキズムとは、理想主義的な態度をその基礎
に置くならば、結局に於いては同一事に帰着することをここに述べて置きたい。


    国際主義と国民主義との統一

 次に果たすべき統一は、国際主義的の思想と国民主義的の思想との対立である。
 社会主義とアナーキズムとは、共に国際主義的の思想であつて、国境を超越してゐ
る。これに対し、ファシズムは国民主義的思想であつて、寧ろその国際主義的な思想
を排斥するかに見えてゐる。然らば両者はどうしても結合せられ得ない思想であらう
か。私はさうは考へない。一体国際的とは、人間的といふ意味でゐる。人間が理性的
に反省し、凡そ人格としてはかうした態度を取らなければならないと判断した思想は、
あらゆる障壁を突破し、すべての人間を人類的に結合せしめようとするから、結局に
於いで国際的になるのは当然のことであらう。人類的国際的になり得ないやうな思想
は、本当の思想ではない。また国際的思想を根本的に排撃しなければならないやうに
なつては、その思想は何処かに誤謬を含むに相違ない。
 併しながらすべての人間は、理性だけを持つてお互ひに共通の意識になつてゐるだ
けではなく、銘々に建つた個性を持つた人間でゐる。その個性が違へばこそ、人間が
社会をつくれば、どの社会もすつかり同一の社会になるといふではなく、それぞれ違
つた色彩を持つたものになるのである。この違つた特色の時間的なつながりが歴史と
呼ばれるものである。即ちすべての人間は、理性だけを持つた人間ではなくて、歴史
を経営して行く人間になつてゐるのである。この銘々の個性は、理性に全く背反する
ものであらうか。決してさうではない。人間は銘々個性的になり、その個性にふさは
しいものを以て、人間的な世界の結びつきに参与することが出来る。個性的なところ
を持たなければ、参与し得るところも貧弱のものとなる。そこで国際主義的な思想は
人類を人間的に大きく統一する思想であるが、我々の実際的な行為としては、銘々の
個性を以てこの大きな人類的な理想の実現につとめるのだ。民族国家は、その人間の、
個性的な、共同社会的な結びつきである。民族国家の正しい国民主義が、国際的人類
的な立場に立つ思想に背反する筈もない。その国際的人類的な思想が理性的に正しい
ものである限り、もしもこれに背反する国民主義がゐるといふならぼ、それは誤つた
国民主義であらう。国民主義と国際主義とは、何れが上に立つともいへない。国際主
義は、国民主義をより大きく導く理想だ、といつてもよい。また逆に国民主義は、国
際主義を自らの中に含みこれを具体的に実現して行く実行形式だ、といつてもよいの
である。
 併し現在世界に起つてゐる国民主義は、必らずしもさうした目的を以て撞頭したも
のではなかつた。それは世界全体が未曾有の困厄に陥つてゐるために、その世界全体
を目標にした恢復などは期せらるべくもなく、ともかくも自国は自国だけでその国民
の生存権を確保して立たうとして起つた国民主義であるから、各国の国民主義の上に
強い国際的人類的な理想が動いてはゐないのである。言ひ換へれば、今日ほど国際的
世界的な道義を支持する世界的な政治力の微弱な時はないのでゐる。この結果は恐る
べきものである。何人が、第二世界大戦は絶対的に起り得ないと確言し得るであらう
か。これを避ける道は、国際的世界的な道義を世界に確立する運動を続けて行くこと
である。私は、今日のやうに世界が大きな困厄に陥つてゐる時に、何故さうした大平
和運動、大道義運動が擡頭し、潮のやうに世界を蔽うて行かないかを不思議に思つて
ゐる。平和や道義の運動は、それの大して問題にならない平和の日にしか起り得ない
ものであらうか。



     思想問題に対する我々の態度

 さて我々は最後に、現実の思想問題に対し、いかなる態度を取るべきであらうか。
現に存在する問題の一々に対し、私は短かい答案を書いて行かう。
 第一は、資本主義に対する我々の見方でゐる。幾度も述べて来たやうに、今日の資
本主義が何等か訂正せられなければならない欠陥を含むことは、否定せられない事実
であり、我々はそれについての、はつきりとした認識を持たなければならない。或る
人は次のやうにいつて、資本主義社会が自己矛盾を含むことをいつた。資本主義社会
は、各人に商業的活動の自由を容認する社会であるが、その自由を確保しようと思へ
ば、社会秩序を平和に維持しなければならない。ここに個人の自由性と、社会の秩序
性と、互ひに矛盾する要求を同時に含まなければならないこととなり、資本主義社会
のあらゆる困難がその矛盾から生れて来るのである、と。この見方は面白いと思ふ。
併し資本主義が欠陥を含むことは、何も資本主義自身が特別に担はなければならない
恥辱ではない。今日現実するものの中に、非難を超越した、全く完全なものは、存在
する筈もない。それ故資本主義社会の欠陥をいつたからもう左傾がかつた思想だなど
と思ふ迷妄からは、速かに離れなければならない。我々は資本主義社会の含む欠陥を
合理的道義的に改造しつつ進むのである。ここに我々の社会は、社会主義的な改造方
策を、次第に濃厚に含んで行くであらう。イタリイやドイツの国民主義運動は、国家
主義を取りながら、実質的には濃厚に社会主義的政策を取つてゐる。我が国などでも、
統制経済の要求が近来次第に国民の常識になつて来たのは、やはり社会主義が常識化
せられて来た一つの反映であると見なければならない。
 第二は、急激なる変化を希ふ思想を、我々は排しなければならないことである。現
代のやうに社会生活に於ける相互関係の網が複雑に張られてゐる時には、社会の急激
なる変化は、進歩ではなくてまさに退歩である。この点に関して、大衆は明らかな認
識を持たなければならない。漸進主義は、社会の要求する道義でもあれば、また最も
賢明なる技術でもあるのだ。況んや個人に対し暴力行為を加へるやうなこと程愚劣な
る行為はない。今日の社会が、僅かに二三の人間により動かされてゐるものであらう
か。我々の着目しなければならないものは、社会進化の必然的な形勢であつて、二三
の個人ではないのである。個人はただ制度により動かされてゐるに過ぎないものだ。
 第三は、民主主義(デモクラシイ)か独裁主義かにつき、明らかな批判を持たなけ
ればならない。政治運用の形式として、政党政治は民主主義であると考へることは一
つの常識であるけれども、事実に於いては、政党政治も一の独裁主義に陥らうとする。
よた独裁を行ひ得ないやうな小党分裂の状態を以ては、実行が不活溌になり、政策に
永久性がなくなるのである。政党については、今日世界一般に不満と失望とが多くな
つた。独裁政治の謳歌者が多くなつたのは、それらの原因から来たことであるけれど
も、また公然と独裁を許した政治ほど危険且つ不自由なものはない。今日のやうな世
界情勢を以ては、世界何れの国でも民主主義か独裁主義かを理論だけで決定すること
は全く不可能であるといつてよい。併し我々はとにかく、大衆の中に理想主義の情熱
を起し、十分な反省と知識と情感とを持つた、理想主義的青年者の団結をつくつても
よいと思ふ。政治運用の形式を決定するには、先づそれの基礎になる集団の道義性や
理智や実行力やを知らなければならないことだ。
 第四は、唯物主義か精神主義かの問題であるが、私は既にこまかに論じて来た如く、
唯物論は理想主義を欠くことが出来ないし、理想主義は唯物論に結合しなければなら
ないと考へてゐる。単なる唯物論や精神主義には、私は賛成することが出来ない。現
在の日本には、その単なる唯物論と精神主義とが行はれてゐるが、私はこれを遺憾に
思つてゐるのである。
 第五は、世界思想か日本主義かの問題であるが、これも既に論じた如く、結合の出
来ない立場ではなく、単なる世界思想と日本主義とには、私は賛成することが出来な
い。今日マルクス主義も一つの抽象に陥り、実行力を欠くものになつでゐるが、また
そのマルクス主義を克服するといつて出て来た幾多の日本主義ほど内容の空疎な、反
省の乏しい、社会の動きに縁遠いものはない、元来日本主義を以てマルクス主義に対
抗するといふのが、大きな誤謬でゐる。個性的なものは世界的なものを含む。マルク
ス主義を含み得ないやうな日本主義であるならば、日本主義でさへないに相違ない。

    最後の自誡

 以上のやうに観察判断して来るならば、現今の思想問題に対する我々の態度はすで
に定まつたといふべきである。私は最後に、思想問題を考へる人達へ、次のやうな自
誡の言葉を送りたい。
 先づ何より見きに、人間的であれ。自分の頭で考へ、最後まで考へ抜け。つねに反
省を忘れず、他の立場に寛大であれ。一隅に停滞せず、何度までも大きく統一的であ
れ。体験に立脚しつねに実行的であれ。 ――私は今や完全に自分の任務を果たした。