第十二章 左翼運動及び思想対策批判



思想に対する態度

 最後に私は、所謂赤化の方向へ向はうとする現代の青年子女達に一言の忠告を寄せ、同時にその所謂赤化を惧れて種々の対策を講じようと努めつつある人達に多少の苦言を呈したい。
 先づ前者に対し忠言を寄せよう。第一に、マルクス主義を研究し或はこれを信奉しようとする青年子女達は、もう少し思想に対し批判的になる修練をして欲しい。流行であり、現に最も有力な思想であるからそれに赴く、といふ事大主義から我々は離れなければならない。マルクス思想により我々の教へられるところは決して少なくないけれども、マルクスの主張した儘が今もなほ真理である筈はないし、なほこれを批判し、たえず生長せしめて行くことこそ、真のマルクス主義者の態度であらう。率直にいへば、現代の青年は、まだ何程もその内容を理解してゐないマルクス主義を、事大主義的に信奉するところがないとはいへないと思ふ。克服すべきものは、つねにその無意味な事大主義でゐる。第二に、知的遊戯に陥ることを避けなければならない。若い所謂マルクス主義者のかいたものなどをよむと、どう見てもこれは思想の中核を掴んでゐないのだと思はれる場合が少なくない。そにも拘らずむづかしいさうな言葉を使ひ、煩項な議論をしてゐるが、これは社会にも立たない知的遊戯だ。我々はもつと思想の中心をはつきりと掴み、平易な言葉と論理でそれを取扱ひ、社会の実行に結びつかなければならない。現代の青年はあまりにも容易に知的遊戯に誘惑せられようとしてゐる。
 第三に、自分とは違つた思想でも。一応はその主張者の立場になつて考へて見るといふ、公平寛大な態度を養はなければならない。マルクス主義が流行してから、思想のこの寛大性を人々が欠くやうになり、内容空疎な罵言が流行してきたことについては、前に書いた。自分と違つた思想の意味をよく考へ、それをも自分の中へ取り入れればこそ、自分の思想も高められて行くのだ。
 第四に、どんな場合にも、自分の人間を下落させてはならない。理想的態度を捨ててはならない。他人の人格を安つぼく手段に使ふものに、何の社会改造があるか。社会をより正しく改造する情熱に燃えるものは、自分の人間の品位を以てそのことにあたらなければならない。


     運動に於ける態度

 第五に、現代社会に欠陥があり、社会悪が含まれてゐることに就いては、。今日何人のこれを否定するものもないが、これを改造し社会生活を理想化して行く方法については、十分に熟考するところがなければならない。今日我が国では、右翼も左翼も、その点では大いなる誤謬に陥つてゐる。我々の改造する目標は社会であるとすれば、極右主義者のやうに甲や乙をたふすなどいふことを目論んで見たところで、それが何の役に立つか。これ程愚かしい行為は又とあるまい。人はたふれても、制度はたふれない。また社会に対し、急激な手段を加へて改造を計らうなぞいふことも、徒らに犠牲多く、実功の乏しい遣り方である。今日の社会は、網のやうに、前後左右へ複雑の関係の出来てゐる社会である。これと比較することの出来るものは、人間の身体であらう。身体のほんの局部に病気がゐれば、これに外科手術を加へることも出来ようが、絶えず動いてゐる心臓に外科手術を加へることは出来ない。今日の社会や急激な手段
を加へてこれが根本的の改造を計つたとすれば、社会生活は忽ち混乱紛糾に陥り、改
造せられるどころか、社会生活のものが壊滅せしめられるであらう。そのことは今
日の金融現象の病気を見てさへ分明ではないか。不景気といふ病気れなほさうとして、
通貨を一時に収縮させたり、またその反対に急激に膨脹させたりする場合に起る、社
会生活の動揺を見よ。今日我々の身体に対する病理学的研究や治療法は大いなる進歩
を遂げて科学的のものになつた。社会の病気に対する治療法もまた十分科学的のもの
でなくつては、文明人の資格は得られない。
 第六に、所謂潜行運動なども、現代のやうな社会で何の実功をあげることが出来る
か。私は、これほど犠牲の多い、勢力の濫費はないと思ふ。これ程純真な、有為な青
年が、何故こんな実功のあがらない仕事に頭をつつ込んで、あたら一身の活動の自由
を失ふのであるか。それ程の犠牲をも敢へてする情熱を持つならば、もう少し組織的
に改造の方策を考へることにもなほ一段の努力をして欲しいものである。今の所謂潜
行運動には、安つぽいセンチメンタリズムも潜んでゐるし、時勢おくれの英雄主義も
混じでゐる。そのセンチメンタリズムや英雄主義を清算しなければならない。
 私は現代の青年子女に訴へたい。より自由に、より批判的に、またより実際的であ
れ。一つの党派に忠勤を抽でることは、その修練の後であつてよいと思ふ。私はこれ
までマルクス主義者を以て自任する学者とは、幾度となき論争をつゞけ、マルクス主
義に対し倦まざる研究を続けて来たから、これが正しい理解については、世の研究者
の後に落ちないだけの自信を、乏しい身ながらも持つてゐる。また私は野に立つ一介
の思想家として、社会の荒浪の中に立ち、多少の苦闘は経験して来た。私をまで世の
無力な所謂観念論者と同視するならば、誤つてゐる。私はその謙虚な研究者と社会人
の体験とを以て、心より諸君に右に述べた忠言を寄せたい。なほもし諸君が私の言に
何の価値もないといふならば、私はまた何をか言はんやである。立つて諸君と戦ふこ
とをも、辞するものではなく、私は私の信ずる理想主義的精進を社会の中に推し進め
ようと決心するものである。


     思想対策への苦言

 併し私はなほ他面、赤化運動の防止とかそれへの対策とかいつてゐる人達に対して
も、次の苦言を呈しないではゐられない。
 第一に、我が国の教育を、根本的に改造しなければならないといふことでゐる。私
が今意味してゐるのは、我が国の教育制度をどういふ風に改造しなければならないな
どいふことではない。教育の精神の改造である。事大主義的になつたり、没批判的に
なつたりするのは、我が国の教育の精神が、余りにも信仰的であつて批判的でない為め
であると信ずる。信仰的に或る教条を教へることは、有効でありさうに見えて実際は
さうでない。その教条に幻滅を感じたものは、またそれとは違つた別の教条に対し、
批判的ではない信仰的の態度を取るのである。といつて私は、ただ批判するだけで何
の拠るところもない青年をつくれといふのでもない。日本の青年は今教条を信仰的に
教へられはするが、それに対し情熱的の帰依をすることも出来ず、ただ漫然と拠ると


ころのない生活を送つてゐると思ふ。批判とは、深く内に省み、自らの体験を掘り、
疑はうとして疑へない確実のものに到達することだ。私は日本の教育にその精神が欠
け、益々教条的信仰的になつて行くことを遺憾に思ふ。教育の制度が批判的精神の生
長に障害を与へてゐることは、言ふまでもない。
 第二に、無意味に思想を圧迫することは甚だいけない。思想を徹底的に論じょうと
思つても、世界の一等国の中で、日本ほどその批判の不自由になつてゐる国はない。
思想に対し、十分な検討を加へないで、どうして思想対策が構ぜられるのであるか。
ただ取締れば、またただその思想をなるべく耳へ入れないやうにして置けば、それで
思想対策は講ぜられたといふものではない。国を挙げて批判的の空気が乏しければこ
そ、ただ信仰的の所謂赤化主義者も出て来るのだ。
 第三に、赤化思想は外来思想だといふ見方の下に、外来思想とてもよいものは取り、
悪いものは捨てよ、といふやうな声は頻繁に開かれるが、この見方の間違ひであるこ
とは前にも述べた。マルクス主義は、単に頭で考へる思想ではない。資本主義が世界
的に発達して行き日本もその制度の中に這入つたとすれば、資本主義制度の害悪から
免れることは出来なくなる。マルクス主義はその資本主義社会の発達を科学的に攻究
した思想であるから、日本が資本主義を廃棄しない限り、マルクス主義が日本に発達
して行くことを全く禁止する訳にはいかない。思想は今日では単なる観念ではなくて、
一々に社会の制度に結びついたものである。観念である思想は、いかにもそれの長を
取り短を捨てることも出来ようが、制度に結びついたものはそれの長だけ取つて短を
捨てることは困難である。鉄で食器をつくれば、丈夫で長もちのする長所はあるが、
錆の出る短所はどうしてもそれだけ一つを除き去る訳にはいかない。この短所を避け
ようと思へば、もう一段進んで、鉄そのものについての攻究をなし、錆の出ない鉄、
または表面で錆どめの出来る鉄をつくること工夫しなければならない。


     所謂赤化思想の見方

 第四に、所謂赤化思想でゐるところのマルクス主義の内容を、何か非常に偏狭の思
想のやうに考へ、これを主張するものはその頭がどこか狂つてゐるか、または特別に
わるい境遇の下に育つた為め世を偏頗に見たものであるかのやうに考へることも、
なりにひろく行はれてゐる見方であるが、その見方は間違つてゐる。人間はどうも、
自分の考へだけは健全であると自惚れ勝のものだ。マルクスの人物は、先きに観察し
た通りだし、その思想の内容は、よくもかく精緻に考へ通ほしたものだと敬服させら
れるものである。その卓越した、独創的な思想に対し、我々はなほ深く批判を加へ、
これを凌駕しなければならないのである。マルクス主義を劣等の思想のやうに最初よ
り予定して取りかかるから、間違ひが起る。況んやこれを鬼畜思想であるとまで罵倒
し排撃するなどは、排撃になつてゐさうで、その実何の排撃にもなつてゐないのであ
る。日本人は何故ここまで浅薄になるのであるか。現在赤化防止だの日本主義だのと
いつて運動をする人達の中には、批判も何も持ち合せてゐない、こんな狂信的な態度
の人達も多数に混じてゐるが、日本の健康な発達を念願するにつけても、私は痛歎に
堪へないものがある。
 第五に、資本主義制度そのものが、自らの中にやむを得ず含んだ罪悪を論議し、或
はその真相を解剖し或はこれが除去を考案しようとすれば、その論議をさへ危険思想
であるやうにいひ、これに圧迫を加へるのは甚だ心外である。不景気や失業は、何か
ら起つたか。それは明らかに、資本主義制度そのものの中に何等かの誤謬が含まつて
ゐたからではないか。その誤謬の真相を精確に解剖しないで置いて、どうして不景気
や失業に対する治療法を考へ出さうといふのであるか。
 第六に、近来よく聞かれる声は、マルクス主義は我が國體と相容れないからこれを
排撃すべし、といふ批判でゐる。併しこんな言ひ方が、果して人間を心より納得させ
る、正しい批判であるといへようか。或はそれも一つの批判であるかも知れないが、
私はこれ程能のない批判はあるまいと考へる。これは事理を胡白ならしめ人をしてい
かにもと肯づかしめたのではなく、ただ人を圧倒したに過ぎないではないか。國體を
持ち出せば、いかにもすべてのものが鳴りを潜めるであらう。併し人間の考へ方には
二通りの道がある。一つは人間の理性に随ひ、道理にかなつたことをそれからそれへ
と考へて行く道であるし、もう一つは人間が伝統的に伝へて来た人間歴史の精神を継
承して行く道である。これら二つの道は違つたところから出発してゐるけれども、結
局は統一せらたものにならなければならない。後者の歴史的精神を以て、人間理性
の推論を圧迫すれば、理性はおさへつけられた儘で満足してゐる筈はない。これは圧
抑であつて、統一ではない。我々は前者の人間理性を以て後者の歴史的精神を証明し
て行かなければならない。ここに本当の統一が成立する。マルクス主義は、その人間
性の推論の道を追うた思索であるから、直ちにこれを國體の歴史的精神を以て圧抑し
たにしても、マルクス主義を考へてゐるものは、直ちに約得する筈もないのである。
 日本人は、政治の上では、議論がこんがらかつて来ると、議論を超越した××××
ものを持ち出し、これならば一言字句の反対も出来まい、とやりたがる悪癖を持つて
ゐるが、とかく政治家などが思想問題を論議すると、そのいつもの悪癖を出すのは苦々
しいことである。マルクス主義は、國體でも持ち出さなければ克服の出来ない思想で
あるか。それならば、何といふ能のない、貧弱な頭脳をしか持ち合さない対策である
か。國體を持ち出して勝つのは、実は理論では負けるからこれ以外に拠り処はないと
した窮余の策に外ならず、正直に考へるものに取つては、心の内では「マルクス主義
克服の理論はないと見える」としか考へられないであらう。理性で考へる問題、世界
的にひろく学問として考へてゐる問題は、一先づその水準に立つてこれを学問的に考
察しなければならない。國體を持ち出してマルクス主義の理論的批判の標準にした國體世界の何処にあらうか。勿論政治的に共産主義者を圧迫することは、イタリイでもドイツでも見られたが、それは共産党の政治的運動に対し政治的に対抗したと
見るべきものであり、理論の善悪の議論に、標準として国家を持ち出したものではな
いのである。××××を持ち出すのは、早過ぎる。我々は理論の戦線にかへらなけれ
ばならない。