第七章 マルクスの中心思想 (一)
九二
♯
マルクスの主張、それに更にエンゲルスやそれ以後の人達の考へ方が加はつて行き
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
最近にはロシアのレニンによつて大いなる進展を釆した所謂マルクス主義(マルキシ
ズム)の内容は、可なりに複雑でゐつて、さう一挙に理解の出来るしろもZではな
い。マルクス自身の思想、例へばその一部分を占める唯物論にしても、マルクス打よ
りすつかり完成せられた姿で示され、どの部面から突かれてもびくともしない、とい
つた風のものではなく、暗示深.い形で提出せられはしたものの、考へて行けばまだま
弟七葦 マルクスの中心思想(一)
思想の 中心鮎
マルクスの壬増忘想の忍鮎是つ紹介し、
d見ようと思ふ。
その後これに封する批判を述べて
\
だ多くけ点に疑問が湧いて来るといふ性質のものでゐるから、その内容を正常に理解
するのは、なは更困難のこdになるのである。現にロシアの学界は、哲学も文学も自
然科挙もマルクス壬禿で統一せられた観を睾してゐるが、「斯様に論じて行けば唯物論
を完全に成立せしめることが出来る」といつた風に、学説をたえず批判し反省し.マ
ルクス唯物論の完成につとめてゐる程でゐる。頗るに我が図では、さうした努力がマ
ルクス主義者の中に賓に少ない。マルクス主義Jいへば、もa金城蛾璧を築いたもの
のやうに考へて久準、これに批判や反省を加へず、ただ軍陣に於ける旗印とJるにと
げまる。私は今さうしヤ垂気に自省を輿ぺるためにもも,みしはつきりとマeス
ヽ
主義の中心鮎を述べて置きたい。マルクスの言葉などを貼交屏風旬やうにして持ち出
ノ
し、讃んでもやつぱり意味り取れなかつた、といつた風のマルクス主義にせず、私の
理解したマルクス主義を、私自身の言葉で述べて行きたい。「資本論」 の中にはいろい
ろと細かい経済論などかあるけれども、今はさうした部分の全部を語らず、彼の思想
は一饅どうした土重石の上に立つてゐるものでゐるか、をの土重石の説明にカを入れ
て行きたい。今もいつた通り、
第七睾 マルクスの坤心思想 ハ一)
彼の思想には疑問になる鮎が少」ないけれども、さう
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九三
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第七審 マルクスの中心思想 (一)
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九四
した部分は、
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現在のロシアの学界で決定
ヽ
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に成る可
て行かうと思ふ。
唯物論 の 構造
ヽ ヽ ヽ
他のどれよりも根本になる土重石は、マルクスの唯物論で
ルクスは
鰹ど
いふ風に唯物論を建設していつたのでゐるか
簸じめいふならば、マルクスの唯物論はエン
づ
よ
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つ建つたものでゐる。エンゲルスはゐれ程マ
りマルクスとは多少建つた形の唯物論を主張
は、名は唯物論でも、言はばまだ極くおつと
なると、後にいふ自然科学的唯物論の特色
投銭く自然科挙的唯物論になつて了つた。併
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劉
めるだけに、
これらの危険からは最も速く離
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帯びて来る。
流石にマルク
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流石に最
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唯物論と
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になると、
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らの点の清算を果たしつつ、哲学的にガツシソした形のものを建設して行つてゐるの
は悦ばしいことだ。日本の学界では、まだどの唯物論を取るのか五里霧中だ。
素朴的唯物論
唯物論を取るといふものは、観念論セどは取るに足らぬ愚説で、我々の目にゐるす
べてのものみなこれ物質であるに拘らず、これを観念り所産であるとする観念論ほど
つまらないことを考へたものはないやうにいつてゐる。我が囲の堂々たるマルクス主
義者しかもその第一人看であるやうに世間から見られた学者さへも、その位の墨縄な
意見を誰れ悸らず述べてゐたが、観念論とて堂々たる世界古今の哲学者の壬張である
以上、そんなたゐいもないものである筈がない。現にロシアのマルクス主義は、その
観念論のすぐれた立場を十分に容認しつつ議論を立ててゐる程である。哲学の歴史を
ノ
見て行けば、観彗「周桑頭珂割
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節七草 マルクスの中心点想 ハ一)
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九五
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第七睾 マルクスの中心思想 ハ一)
九六
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いふのが公平に見た観察である。
哲壌針反省の学問だ。何虞までも深く反省していつて、確貰不可疑のものに到達し
よぅといふのでゐる。反省も懐疑もなく、極く幼稚に見たままのものを語る態度は、
ヽ ヽ ヽ
責朴的と呼ばれてゐる。観念論にも素朴的の観念論があつた。見た儀のこの世界は心
の所産だなどといふ立場は、素朴的観念論である。それと同様に、唯物論にも素朴的
唯物論がゐる。見た儲り世界は物質から成るものだといふだけで、その物質について
特に本性を明らかにするでもない。かうした素朴的唯物論は、攻のやうに反問せられ
直ぐに困難に陥つて了ふ。鈍ら賃
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唯物論にはいつでもこの封難が伴なふし、また観念論にはいつでもその長庭が存す
るのだ。唯物論者が、物質的世界の存在をいはうと思つても、そのことを確認するもの
は心でゐるからどうにもならない。例でいへば、ここに室の中にいろいろの品物の存
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在することは確かであるにしても」その室が眞暗でゐればどうにもならず、電燈がと
も。つ七初めてそれと判断することが出衆るのと類似する。普通の哲学者は、大字観念
論者であつて唯物論者でない理由は、唯物論にこの困難が存するからでゐる。哲学者
の中に埠唯物論の名をさへ開けば、直ぐじこの困難を想超する窺めに、その内容の
如何なるものであるかを開かず、とにかくしはやその主張を凝視しようとする空気が
可なりに強いのも、全く無理のことだとはいへない。
仏
これに反し観念論は、我々が自分自身の生活を以て、何としても疑へすはつきりと
掴んでゐるものを根砥にする鮎で、大いなる特色を持つてゐる。かつてデカルトとい
ふ哲学者は、「我れ思ふ。故に我れ在り」といつたが、デカルトは言葉の正しい意味で
観念論者ではないにせよ、ともかくも「我れ思ふ」といふ心の働きが、いささかも疑
はれず、直接に、我々により掛まれてゐる−†とを見て取つたところは、観念論のすぐ
れた思虜の長所を追うたものだといへ与フ。観念論は、その長所を何産までも純粋厳
格に推レ進めていつた。
′抑止
′鵬
かつて歴史上には、次のやうな唯物論が存在したことがある。
宥在するものは物
第七睾 マルクスの中心思想 ハ一)
憮。
九人
斗
耕
質の世界だ。たとへば我々にしても眞に存在するのは、この生理作府を営む身鰹であ.
る。その身鰹の一部に脳髄が存在し、脳髄は、恰も汗の腺が汗を分泌すると同じやう
にして、いろいろの考へを分泌する。人間の考へる観念的な思想は、みなその身饅の
分泌物であるに過ぎない。11かうした見方は、ニュによるとまだ我が国一都のマルク
ス主義者によつてさへ信奉せられてゐさうでゐる。マルクス自身はこの見方を排斥し
てゐるけれども、エンゲルスは、この唯物論べ陥りやすい危険を含んでゐる。渦想が
脳髄の分泌物であるかどうかは、生理学的に考へてさへ大分怪しいが、それはノ一先つ
常時の生理学が幼稚であつた窺めとして許すとし、何より有力な抗議となるのは、こ
んな風に脳髄から針想が筋泌せられるとれ何とか考へる、その思想そのものが。完来
心により捕捉せられるものであり、心を離れては身饅、脳髄、分泌、何一つとして語
ることが出来ないではないか、dいふ批評であるつ唯物論は、これに答紆や」いとが出
発ない。随つて脳髄云々の見方の唯物論も、析詮は素朴的の唯物論でゐるといはれる
より外はない。(後の自然科挙的唯物論の一種と見てもよい」
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留啓′超過隈は何か、と考へて行くのだ。この思索のことを、掛静粛轡と呼んでゐる○第二は、
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形而上学的唯物論
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▲a 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
ところ汎パ遂にまた形而上学的唯物論と呼ばれる一種類の唯物論がゐる。
それには先つ形而上学といふ言葉の説明をしなければなるまい。宇宙人生の根本原
理を理窟の上で考へる学問、これを酔弊といつてゐるが、哲学の仕事は大鰹に於いて
二部門に分れる。第」は針笥餞似魂膣′憐憫か一といふ思索でめる。斯様に我々が現に
● 一
経験して偽る世界は、ぞの経験するが饉のものでないかも知らないが、然らば異の本
。俄界増礪勺q川引い叫州餞凋増詔習州苛純なか、我々札引叫餞別珊q¶川やの知識出嘗リlr′
てつ。“郎等崩感か、といふ思索であつて、これ
ヽ ヽ ヽ
詔諸藩と呼ばれてゐる。さて次は形而上学的唯物論の
必要でないポ
上撃的
呼ば
れるからには、何等か世界の本懐に関係したものでなければならない。この唯物論は
也界の.魂憶は.物質であeL王張するのであるい世界の本懐は、心などではなくて、
贋だ。物質と呼ばれるものが全く疑はれずに、宇笛人生の本建として存在するのだ。
▲
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節七睾
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マルクスの中心思想 (一)
九九
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第七草
マルクスの中心思想 ハ〇
傍
第一
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一〇〇、
しその立場を壬張
することの困難は、直きに次のやうなところから起つて来る。
には、形而上撃といふものが元衆成立に困難なしろものでゐる。だから形而上学
の否定は、つい最近までの哲学の一つの重要な傾向でさへあつた程だ。何故なれば、
よし我々は宇宙の本懐などを考察して見七ところで、その本懐はやつぱり我々により
認識せられない限十本饅でゐるともないともいへないし、また我々により認識せら
れた程度のものなら、本懐などといふ根砥的のものでゐるかどうか、大分に怪しくな
つて衆るからでゐる。が、それは一先つ問題にしbいとしても、、さて今の本膣として
の物質なるものが、最も疑問的でゐる。物質は一饅何であるか。−どんな性質を持。つた
ものが物質でゐ渇か。机掛物質、石は物質でゐるといつても、我々は机といふ物饅、
L卜&
淋
だけであつて、物質といふものは知つてゐない。机や石を粉々に
石といふ物鰹を知るだけであつて、物質といふものは知つてゐないく 研や石を漑々に
砕けば、イれが物質であるか。物質と呼ばれるからには、どの部分も均等の性質を持
たなければなるまいが、いかに細かく個々にしだものでも、すべて均等の性質を持つ
′とはいへ払いし、また竪さとか、垂さとか、何とかそれの性質をいつたとするならば、
その性質は我々の五感に解れ、心により知られた限りの性質であつて、本鰹としての
滝臼巨E
物質の性質だとはいはれない。ここに形而上学的唯物論に於ける物質は、如何とも壬
張の出来ない、ただ紳祓的のものになつて了ふ。だが、マルクス主義のやうな現寒的
な主張でゐるべき哲学に衆いて、一その紳祓論的見方の許せる筈はない。また元来形而
上学は観念論でさへこれと絶縁しようとしてゐる立場であるに拘らず、今ごろマルク
ス違義ともゐらうものが、宇宙の本饅などを言つてゐるのは甚だ似合はしからぬもの
ではないか。
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
この困難を避けるために、自然科挙的唯物論と呼ばれるものを成立せしめた。
白熱科学殊に物理学や化学では、物質と呼ばれるものを取扱つてゐる。その自然科
挙の上では、物質はかくかくの性質を持つものと考へてゐるやであ`我々の住む世
界は、要するに自然科学の教へるが儀の姿を以て存在する世界であり、自然科学が検
討して取るところの物質を以て成るとするのは、自然科学的唯物論である。これはよ
く考へれば、哲学的な主張であるといふよりも、寧ろ自然科挙の理解そのものでゐる
自然科挙的唯物論
血町
第七睾 マルクスの中心思想 (一)
一〇一
節七葦 マルクスの中心思想 (一)
一〇二
といつてよからう。ただそれが哲学上の主張である限りは、観念論を排して唯物論を
推し通すために、観念的なものをすべてその自然科学的の所謂物質を以て説明しつく
さなければならない○エンゲルスの唯物論は、多分にこの自然科挙的唯物論の着色を
帯びてゐる。またレニンのそれが、エンゲルスのそれ以上に自然科学的唯物論になつ
てゐることについても眈でに述べた。我が囲のマルクス壬義者は、患た恐らく極く僅
かの例外を除いては、この意味の唯物論に傾いてゐるであらう∴さしづめ諸大挙で講
座を持ち、マルクス主義者としての経済論などをなしてゐるものは、この程度の理解
をなしてゐるに過ぎない。いや、これが最も学問的な、確賓な唯物論でゐると考へて…
一
一
ゐ′るのだ。 ■
自然科挙的唯物論は、攻のやうな難鮎を含む。この 物論に、、ける物質は、自然科
撃に於いて取る物質でゐる。然るに自然科挙は元爽幾名q彗は
r−\
「にユリ/ノこ
とは、人の熟知する通りである。自然科挙は、その前提又は公理の上に立つて我々の
。現賓他界を理解するが、この場合の前提又は公理そのものを説明することはいか、にし
ても出爽ない⊂自然科挙上の知識は、決して絶対り主張をなしてゐるも iァし。
一一ミーーl i I1111一1。1−−T。−!1−11−−−−!−−1−1−−−。I−−−−1−−−−−−J−−11−−−1−111−。−I∫。一■■−I一
榊
その自然科挙の取る物質を以てすべての土童であるといふならば、第一、鎗りにも垂
∴荷物を据はさ/れた自然科挙自身が迷惑するであらう。それのみならず、自然科挙上
」
の物質は、古往今来一定不欒で衆たものではないので、学問の進歩と共にたえず欒化
した。さうし七ものをどうして根本的のものとして取ることが出来よう。なほ進んで
いへば、最近の計然科挙では、物質といふやうな「物」を排斥して行く傾向になつて
ゐる。これまでの費達の進まない自然科学では、物質は否定の出来ないものになつて
見えたが、今ではかういふ風に「物」として在るも町を否定し、力として在るやうな
ものを取る傾向になつてゐる。自然科学は最近偉大な発達を逢げたのだ。白熱科挙
は、すべて賓験の上に立つて理論を進める。然。るに物質とルふやうなものを排斥する
見方は、学なる想像や任意の慣祝ではなくて、賓験を基礎とした、碓賓な自然科挙的
結論であるからどうにもならない。
唯物論者はなは飽くまでも自然科学上の物質に固執するであらうか。元来唯物論と
いふやうな見方は、多少ながらも我々の自然科挙的な物の見方と縁故を持つて蜜達し
たに相違ないので、自然科学が物質といふ「物」を基礎に取つてゐたから、哲学の思
第七睾 マルクスの中心思想 (一)
一〇三
第七竜丁
マルクスの中心思想 (一)
一〇出
索の上でもその物質を取つたものであらうが、自然科学そのものの中で、物質につい
ての考へがこれだけ襲つで了へば、自然科挙的唯物論がひとりでに解消しなければな
らないやうになるのも、もはや時日の問題でゐることにさへなら,ト。
幾分でも思想らしい姿を取つた唯物論として、また思想史の上に賓際に現はれ椙常
に有力であつた唯物論として、私は形而上学的唯物論及び自然科学的唯物論の二つを
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ †
眈に検討した。傍しこれはまた共に、マルクス自身が客燈的唯物論と呼んで排斥した
ところのものに、結局は所属するに至ることは、後に述べよう。
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