第六章  マルクス主義の勃興



マルクス主義

 我々は今や初めてマルクス主義(マルキシズム)の中心点を考察しなければならない場処に達した。思想は必ずしもマルクス主義だけには限らないし、思想問題は、マルクス主義の問題だけには限らない。また社会思想だけについて見ても、マルクス主義は必ずしも社会思想の全部である訳ではない。然るに今日のところ我が国で思想問題といへば殆ど全部マルクス主義の問題であり、思想対策といへばそれを防衛する方策であるやうな観を呈してゐる。随つて我々もまたこのマルクス主義を考察することについては、特別に力瘤を入れる必要があると思ふ。


カルル・マルクス

 先づマルクスの伝から始めて、見て行かう。
 カルル・マルクス(1818-1883)は、一八一八年五月五日ドイツのプロシア、ライ
ン州のトリエルに生れた。両親共にユダヤ人である。父は法律家であり普通の生活を
営んでゐたが、マルクスの幼年時基督教新教に改宗した。その理由については種々の
説があるけれども、ユダヤ人の上に加へられる特殊の迫害を避けるなどいふ理由のも
のではなかつたやうであるし、父は元来情熱的な愛国主義者であつて、ナポレオンが
敗北した時にはプロシアの勝利を謳歌するといふやうなことであつた。併しをこの
家庭はフランス風の教養の影響を受けてゐて、父はフランスの唯物論に興味を持つて
ゐたといふ説もある。父も母も特別の才能を持つではなく、彼の兄弟の中でも一人
だけが特別に卓越性を示してゐた。故郷の中学校へ通ふやうになつて、彼の才能は忽
ち教師達の注目するところになつた。彼の妻イェニイは、この時代からの幼馴染であ
る。ボン大学へ入学することになつて彼の家族と分れ、大学では一年間法律学を勉強
したが、この時は勉強よりも遊ぶことに精を出してゐたやうだ。途方もない勉強家に
なつたのは、ベルリン大学へ転じてからのことであつて、ここで彼は哲学法律学を勉
強したが、勉強の範囲はそれだけに限らず、歴史、地理、文学、美学何にでも亘つて
居り、詩や短篇小説をさへ創作してゐる。この間彼は哲学的にだんだん深か入りして
いつて、精神的の危機に立ち病気にもなつた。ところがマルクスの善良な父は彼を弁護士にしたかつたし、なはそれよりも、官途に就くことを内心希望してゐたのである
から、マルクスがそんな風に立身出世とは関係のない方向へ動いて行き、精神的の苦
悶をなしたり病弱になつたりするのを見て、これは全く法律に縁遠い本を濫読するか
らであると考へるより外はなかつた。併し結局は、マルクスの思ふ方向へ進ませるこ
とになつたが、マルクス自身では大学の教職に就かうと考へた。
 そこでギリシア哲学についての論文を提出しイェナ大学の学位を得たので、ボン大
学の講師にならうとし、その任命の来るのを待つてゐたが、ここに一つ困つたことが
出来た。当時はへエゲルの官僚的な哲学に対する反対が起り、唯物論的な傾向を持つ
た哲学が勃興してゐた時であつたので、
マルクスもその方向に進んでゐた。然るにプ
ロシアの教育制度としては、反動的空気が強く正統派の見解に一致しないやうなもの
は大学の講師に採用しない方針を取つてゐたので、彼の友人のフォイエルバッハなど
も教職を失ひ、彼に地位は与へられさうになかつたから、彼はつひにこの方面への進
みを断念し、新らたにジャーナリズムの方向へ進むことになつた。
 それ以後の彼は、「ライン新聞」「独仏年誌」と引き続き政治上の時事問題を痛烈に評
論した。この頃彼の妻イェニイとも結婚した。彼の思想もまたその頃より大いなる発
展を遂げて行き、社会運動のためにフランス、ベルギイ、イギリスと転々その居を転
ずるやうのことになつた。併し結局彼の永住の地は、ロンドンであることになつた。
多くの論著をもなしてゐるが、殊に重要なのは、「哲学の貧困」「共産賞宣言」(一八四八
年共産主義者の同盟により発表せられたものであるが、マルクスがその友エンゲルス
の考へをも取り入れつつ執筆したもの)「経済学批判」などである。一八六四年第一イ
ンターナショナルがロンドンで創立せられ、マルクスはそこを根城にした運動を続け
た。インターナショナルといふのは、無産労働者の国際的な団結のことであるが、か
うした団結は由来仲間割れのしやすいもので、第一インターナショナルも御多分に漏
れず、仲間喧嘩をした。なほこの場処でインターナショナルのことをついでに言つて
了ふと、その後第二インターナショナルが出来(一八八九年創立)、それも頻りに仲間
争ひをして、世界大戦の勃発と共に一旦壊滅した。併しまた直きに再建せられたが、
さきの第二インターナショナル中の最左翼派は一九一九年モスクヴァに於いて第三イ
ンターナショナルを創立した。これはいふまでもなく共産主義者のインターナショナ
ルである。第二インターナショナルは先づ穏和な社会主義といつたところで、イギリ
ス ベルギイ、フランスなどの社会党又は労働党といつた風の分子を集めてゐた。
 元へかへつてマルクスの伝であるが、ロンドンに於けるマルクスは、インターナシ
ョナルを中心にした運動に多忙であると同時に、従来の経済学を根本より転覆せしめ
る経済学の力著をなす為めの学問的精進に絶倫の努力を費さなければならない。その
力著とは 「資本論」 のことであるが、その全部は彼の生前に出版せられたものでなく、
僅かに第一巻が一八六七年に出版せられたに過ぎなかつた。この著に於ける彼の思索
が実に綿密なものであることはいふまでもないが、少なくもその著を成すための読書
的準備だけでも大したものでゐり、専門に学問ばかりをやつてゐる学者もちよつとそ
れの真似は出来ない。彼の晩年の十数年は貧乏と病気と、その他の苦難とのために、
全く惨憺たるものであつた。この病気も専ら彼の貧乏と過度の骨折とより来たもので
ある。喘息と肺及び気管支の炎症とがひどくなつた最後の一年半などは、ただ緩慢な
死の過程とでもいふべく、彼は一寸でも病気がよささうに見えると もう「資本論」
の準備や執筆にかかつてゐた。彼の妻は絶えずマルクスを助けて来た点では、実に模
範的な良妻であつたが、一八八一年冬その妻が死に、つゞいて一八八三年に長女が死
んでからは、マルクスの健康は見る見る衰頽し、娘の死んだ年の三月十四日、少しば
かりの喀血の後死んで了つた。彼の老下女と友人のエンゲルスとが、その臨終に会ふ
ことが出来た。「資本論」の第二巻第三巻は、後にエンゲルスの手に完成せられ、刊行
せられたものである。

      マルクスの性格と事業

 彼の性格がどんな風のものであつたかをいつて置くことは、その理論やマルクス主
義運動の性質を理解する上に決して冗のことではないか、一体に性格の解剖は甚だ困
難な仕事である。彼は現代の社会に対し巨大なる反抗者として立つたが、然らば彼の
家の血統の中にはさうした大反抗者の血があつたのかといへば、先きにも述べた通り、
彼の父は善良であるし、その家庭は普通の暮らしを立ててゐて、特別に反抗者的な血
は見られないやうでゐる。傍し彼の思想や行動の上には、当時の社会情勢の急激な変
化が強い影響を与へてゐる。預言者風に時代の趨勢を洞察する能力は、彼に於いて
非常に強い。併しまた運動の中へ這入ると、偉い人物であるには相違ないが、親しみ
のある人物ではなかつたらしい。彼の情熱は、不幸なるもの圧迫せられてゐるものに
対する同情を以て燃え立たされるが、また支配する要求をも随分強く持つてゐた。非
常に自信が強く、他人のあとにつくことが嫌ひで、常に第一人者であることの自負心
を捨てない。随つて他人の思想の独創を容認する寛大さを持たず、自分に反対する立
場に立つものの上へは仮借するところのない罵言をあびせてゐる。或る人は彼を批評
して、憎悪の方が愛情を凌駕してゐたのだ、などといつたが、全くあたらないもので
もない。クロポトキンもマルクスのその弱点を突いてゐたことについては、既に述べ
た。ラスキのやうにマルクスに高い尊敬を払ひ、「民衆の解放に力を尽した人の名簿を
読み上げる場合、マルクスほど名誉ある、高い地位を占めるものはないであらう」と
言つてゐる学者でも、マルクスの性格を全部的には容認しよぅとせず、「マルクスに取
つては、一つの運動に参加することは、それを支配することだつた。そして彼は次席
に甘んずることは出来なかつた」と書いてゐる。
 斯様にいふと、マルクスの性格は欠点ばかりのやうに聞えるが、決してさうではな
い。家庭にあつては、愛情の深い夫や父であり、心より許した友人に対しては思ひや
りが深かつた。彼が娘に与へた手紙を見ると、この厳格な人間がどうしてこんなやさ
しさを持つてゐたかと思ふ程だし、親友エンゲルスとはその死にいたるまで兄弟も及
ばない交はりをなした。マルクスの死後エンゲルスがマルクスの労作を整理し刊行す
ることに、あれ程大きな骨折をしたことを見ると、勿論エンゲルス自身の友情の美し
さにもよるが、またマルクスがエンゲルスに対し美しい友情を傾ける人であつたこと
が分かるであらう。
 マルクスの経歴だけではなく、かういふ風にその性格をも併せ記したことには多少
の理由がある。学風といふものは恐ろしい伝統力を持つもので、単純にその学問の内
容を継承して行くだけではなく、またその創建者の性格をまで継承して行くものであ
るが、我が国の所謂マルクス主義者を見ると、やはりマルクスの性格のその弱点をま
で継承してゐるものがゐるし、また他面にはそれとは反対に、マルクスといへば鬼畜
思想を持つた、人間にして人間に非ざる人物であるやうに考へてゐるものが、可なり
沢山にあると思つたからである。先づその後者から見て行くが、マルクスは学者とし
て比類のない頭脳の持ち主であり、人類解放史上には何とんても没却の出来ない功蹟
を立てた人である。共産主義には反対するにしても その人間をまで鬼畜同様に非難
するのはあたらない。また彼がユダヤ人であることなどから類推して、何か特別にひ
ねくれた遺伝や性格を持ち、随つてこんな歪んだ思想を主張して世界に害毒を流すこ
とになつたのだ、などと考へたとすれば、それも全くあたらない。一体マルクスを鬼
畜同様に非難するもののゐるのは、世界に於いて近時の日本に限る特殊現象であると
いつてよいのだ。思想は思想として、批判すればそれで宜しい。人間のそれぞれにや
つて来た事業に対しては、我々はどんな場合にももつと冷静寛大な態度を以てあたる
習練を欠いてはならない。

    マルクス主義者への影響

また我が国のマルクス主義者といふと、他人の主張などには一切耳をかさず、下劣
醜陋の言葉を用ひて、ただ漫罵しようとする空気が強いが、これはマルクスの性格の
まづい部面をもう一段と誇張したものである。私などもこれまで始終自称マルクス主
義者から、あらゆる下劣な言葉を以ての漫罵を受けて来たが、自分の主張の弱点を突
かれた上か何とか反省させられたことは、一度でもなかつた。大体この人達には、他
人の主張をその人の気持ちになつて理解しようとするところがない。日本の思想界も
それ以前はもう少し寛大でもあれば公平でもあつたが、このマルクス主義が流行して
来てからは、他人の言ひ分をともかくも理解する態度が、さつぱりなくなつて来たの
は遺憾のことだ。論争でもしようものなら、ただ支配欲だけを露骨に出し、外見の勝
ち敗けに神経過敏となつてゐる。私はこんなのは大嫌ひだ。そして何かを批評すると
いへば、法則的にこれは 「マルクス主義に合はぬ、ここはマルクス的でない」といふ
だけで、肝腎のマルクス主義そのものには盲従して居り、そのマルクス主義にも自己
批判を加へていつてそれでない外の思想ともう少し大きな立場で統一しようなどいふ
ところがない。「我が仏尊し」も、これ程宗教的の偏執でやられてはたまらない。とこ
ろがかうした特質が何処から来たか、といへば、やはりマルクス自身の持つてゐた性格
や態度の欠陥に帰着せられるのは、恐ろしいものだと思ふ。尤も我が国の所謂マルク
ス主義者は、その弱点をもう一段大袈裟にし、こんなところが闘士的である所以だな
どと考へてゐるらしい。
 「資本論」は実に驚歎すべき綿密な構想より成るものであるが、これも突き詰かて行
けば、もう少し簡単な形で示すことは出来た筈である。ところがこんな風にガチガチ
と固くなつた、分かりのわるい仕方で論理を進めるのは、ドイツの学問の遣り方で、
マルクスもまたその風を受けてゐたのである。尤もマルクスは宣伝文を書くことも非
常に上手で、情熱的であり具体的に分かる書き方をしてゐて、恐ろしい程の煽動力を
持つ人であるから、そんな平易な表現が出来なかつたのでは決してない。元来ドイツ
の学問には、その論理のガチガチと固苦しいこと、プロシア的な支配慾を含むことが
一つの特徽であり、クロポトキンなどもそのことをいつてゐる。マルクスの出た時代
に勢力があり、彼自身大いなる影響を受けたへエゲルの学問といふのが、何よりその
概念で固まつた特色と帝国主義の代弁者になる特色を併せ含んでゐたのであるが、マ
ルクスもまたその風から免れる訳にはいかなかつたのだ。我が国にには自称マルクス主
義者は多いが、弁証法的唯物論の本当の意味の分かるものなどは、その中に幾人ある
か、甚だ怪しく、口でだけは立派に、唯物論だの弁証法だのといつてゐる。それでも
面倒くささうな論理をガチガチと書きつらねて、いかにも学問らしい体裁をそなへよ
うとしてゐるが、こんな悪い風が学問の上に起つたのも、正にマルクス主義流行以後
のことである。何故学問の内容だけを本質的に吸ひ取つて、マルクス自身の性格の欠
陥から来た弱点を抛棄しないのであるか。学問については、我々はもう少し淡白に、
公明に、寛大になり、自分の考へは誰れにも分かるやうに表現し、他人の考へはその
人の気持になつて正直に受取り、さてお互に批判し合ひ、自分でも反省した結果、正
しいとお互ひに許し合へる立場へ進んで行くやうにしたいものだ。



     彼の友エンゲルス

 マルクスを語る時には、どうしてもその友エンゲルスのことを語らなければならな
い。フリードリッヒ・エンゲルス (1820-1895)は、マルクスが生れたと同じいライ
ン州のバルメン市に、マルクスが生れたよりは二年おくれて生れて来たのは、ちよつ
と面白いことである。バルメン市は紡績毛織物業の中心地であつたが、彼の家は紋章
など持つた由緒の正しい家で、父もまた紡績工場を経営し、国際的にも手びろく取引
をして、相当に富裕な暮らしを立ててゐた。彼は長男であつたから当然父と同じい職
業に携はらなければならず、少年の時代にさうした躾けを受けたけれども、いつの間
にかへエゲル極左派の哲学の信奉者になり、著述家となつて世に出ようとした。ここ
に彼と父との争ひが起つて来る。兵役が済み、父の関係してゐたイギリス、マンチェ
スターの紡績工場へいつて仕事をさせられることになり、その途中で「ライン新聞」の
編輯局にマルクスを訪問したのが、両人交友の初めである。マンチェスターでは、エ
ンゲルスは商売の道を覚えるよりも却つて当時に於けるイギリス資本主義の発達と無
産労働階級の貧乏、それにつれての社会労働運動を観察したことから大きな影響を与
へられ、つひにマルクスと提携して社会主義運動に身を打ち込むことになつた。今な
ほ普通に使はれてゐる 「産業革命」といふ言葉はエンゲルスのつくつた言葉であり、
彼は実際その産業革命の事実を痛いほど目に見たのである。
 その後運動と共に著作をしたり、転々と住処を変へたりすることはマルクス同様で
あつたが、さうなると貧乏はつきもので、後には友人マルクスの生活を支へるため、
また父の会社へもどるやうになつた。父が死んだ少し後まで彼はその商売の道にある
こと二十年の長きに及んだが、この間にも彼は、学問と研究とに異常の精励をなして
ゐる。その後になつて初めて彼はロンドンに住む身となり、ここにマルクスと兄弟も
ただならない交はりを続けた。マルクスに取つては、学問と運動との双方に於いてエ
ンゲルスほどよい女房役はなく、エンゲルスがなければマルクスの学説も今のやうに
は保存せられなかつたかも知れない。マルクスの死後も彼はまだ長く生存して 「資本
論」の第二巻第三巻を刊行し、運動をも続けてゐたが、その晩年に於ける社会主義は
議会主義的な微温のものになり、唯物史観をも弱めたといつて彼を非難するマルクス
主義者もゐる。併し死んだ時の彼の遺言はいかにも唯物論者らしいもので、死骸を火
葬にし、その次を海中に投ぜよといふことであつたが、彼の同志は結局はその遺言に
随ふことになり、彼の火葬の灰を納めた骨壷が海中に沈められたのは、一風変つた遣
り方である。