第三章 理想主義と社会 (一)



三六
一−。−−−−1。。。I−。1−11■1.111.【
                    −
弟三章 理想主義と就曾(一)
提出する二つの問題
 ここまでに私のいつて来たことは、結局二つの事柄に蹄著する。
第一は、人間銘々の考へることは、どんなに公平正直に考へたにしても、結局はそ
の人の生活する地位をその思想の中に反映せしめるもので、この地位の反映を離れた
考へ方をすることは、甚だ御難だ、といふことである。
第二は、人間の相互関係によつて出来上つた社会は、同時にそれに特定の社会制度











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の存するも濯あるから、その鞋曾の人間の爪首理想的に改造して見たところで、蔽州
                                                        l
合悪はなくなるものでなく、鹿骨悪をなくするには、心の改造でない物の改造、即ち岬
                                                                                                               一
社会制度の改造を必要とする、といふことである¢

ー〕
                     ∧ −
                        1
                       ●
                    −
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r雀畑げり
留J几け琢
  ヽ■








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発言、然らば人間は、全く公平正直な、どの人間にも適用するといふ考へ方をす仙
                                                                                                                 −
                                                                                                            一
さて私はなは進んで、次のやうな疑問を提出して見たい。
一策二の結論に封應するものだ。
疑問はそれぞれさきの第叫
                                 一
滋肘

ることは出衆ないものであるか。自分の地位を離れ、自分の地位に孜逆し、どの地位
の人間にも成る程と分つて貰へる考へ方を取るわけにはいかないものか。言ひ換へれ
ば、人間社会には萬人共通の眞理などいふものは存在しない.針のか。
第二に、鞋曾悪をなくするに物的改造はどうしても必要のものであ貸してヰそ
の物的改造をする方針は、心的改造をいふ時の方針とは、全く無関係のものであ礼かP
心的改造をいふ人は、個々の人間を道徳的、理想的の人間にしようといふのだが、そ
の方針は物的改造の時にはもう無用のものになつておるめであるか○それともこの方
針がやはり物的改造の時にも働らき出してゐるのであるか。
 この二つは重要な、また解決に相常困難な問題である。我々は次に、その第一の問
題かち始めて順次に考へて行くことにしよう。
節三牽 理想主義と絶食 (」)
三七

n紺
第三事 理想主義と政令、二)
三人
     相封主義と理想主義

                                       l
 第一の問題である。  ′1
.すべて人間の考へることは、生活の地位を表現するものだ、といふことは、また言
ひ換へれば、人間社会には萬人共通の眞理などいふものは存在しない、といふことに
                      ヽ ヽ ヽ ヽ
なるであらう。かうした見方を、相封主義と呼んでゐる。それぞれの考へ方は、それ
ぞれの地位に対してのものだ、といふ意味である。
 我々はこの現賓社会の眞理を見てゐると、どうも頓封王義に傾かなければならねや
うになる。銘々のいつてゐることが、なかなか屑唾もので、それぞれ自分の地位に都
合のよいことをいつてゐるからだ。我々は社会の現象を見る場合、第一にこのことに
気附かな胡ればならない。正しい眞理を教育するなどいひながら、いかに多分の御都
合主義を含んでゐるか。新開は社会の木鐸だなどいひながら、自分の鹿に都合のわる
いことは決して掲載しない。だが、これと同じことは、社会の至るところに存在する
のだつ 世間の人達はその 「教育」 でない御都合壬義の 「宣侍」 に動かされ、またいか
馬丁 表
                                                   汁昨

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に愚劣にその宣停に踊らされてゐる。か.我々は先づかういふことを暴露して、物の正
憶を見る目を持つやうにならなければならない。
 併しそれ故に萬人共通の眞理などいふもの。は全く存在しないか、といへば、またさ
ぅもいふことは出来ないのである。我々は、がほ何虞かにそんな眞理が存在するやう
な気がする。現責に存在しない甘もよい。我々は何庭かにそんな眞理が存在すると信
じて、それに憧憬を持ちたいではないか。どんな苦労をしてでも、その眞理を獲得す
るやうに、精進したいではないか。ここが何より肝腎のところだ。人間は、さうした
憧憬を持てばこそ、精進を取ればこその、人間である。その憧憬、その精進の払くな
                                                                                       」●▼
つた時に人間の値打は下落して了ふ。何につけてでも、萬人共通の目安はなければな
らぬ、
我々は
よし現賓にはない場合にも、必ず何虞かになければならぬ、と信ずる態度を、
ヽ ヽ ヽ ヽ
理想壬義と呼ぶのである。人間は、どうしても理想主義的の動物だ。理想王義
より離れないことが
、人間が人間である所以だといつてもよい。学問につけ、聾術に
つけ、道徳につけ、我々はその萬人共通
個々の人間はその地位にふさはしい考へ
の目安が存在しな
を取つたにせよ、
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.レヽ
ばな
信じ
第三審 理想主義と組合 (一)
その地位を敢れ、番人共通

        三九

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   \
第三事 理想主義と祀禽 (一)
四〇
の考へを取るやうになり得ない筈はないと信じてゐる。その信念の動くところ、人間
の社会は生々とした輝きを放つて来るのである。
 近来は、理想王義は泣落した、といふ挙が屡々開かれる。そして理想だとか憧憬だ
とか、、乃至は人格の光だとか人間の品位だとかいふと、ただそれだけで空疎な説教を
してゐるもののやうに軽蔑して了ふ空気が甚だ濃厚である。或はまたさうした見方を
取るものは、極右壬義的な、社会に封して全然色盲的な人物のやうに言ひ放つて了ふ
                         //
のでゐる。併し我々は、断乎としてこの空疎な反封の孝と戦はなければならない。融
合人の考へるところがそれぞれの地位を表現した内容のものになつてゐるニュも眞賓
でゐる。併しまた人間が萬人共通の眞理を憧憬れつつ生きてゐることも眞賓でゐる。
その何れも否定せられはしないし、その何れもが平行しつつ眞賓なのだ。そして理想
主義に反封してゐる人も、その害は言葉に出さないといふだけで、甚ビ熱烈に理想王
義的な考へ方と行動とを取つてゐるのである。

 それぞれの地伎を表現した眞理心かない、萬人共通の眞理などは何庭にも存在しな
い、と考へるものは、先づ次のことを考へて見るがよい。
 現賓の社会を観察して、社会には地位的の眞理しかないと主張するものは、この主
張もまた学に地位的に主張せられただけのものと考へてゐるのであらうか。言ひ換へ
れば、その見方もまた自分の地位にふさはしい表現をなしただけのものであり、自分
とは達つた地位の人間には全く適用せられないと考へてゐ絹、のであらうれ。それなら
ば、主張が全く主張にならない( 社会の観察が、学に主観的のものでゐるにどどまり、
客観的に何の値打をも持たないものとなる。そこで罪々は少なくも、「社会に存在する
眞理は、それぞれ地位的の表現をなしたに過ぎないものだ」 といふ考へ方だけは、
人がそれぞれの地位を離れ、萬人共通の眞理として容認しなければならぬものだ、
いふ強い信念を持たなければなるまい。少なくもこの眞理だけは、相対的の眞理では
なくて絶封的の眞理でなければならない。柏封壬義は、Iあ点で破れてしまふ。
 もう一つ形式的にいひ換へて見ると、次のやうになる。相封主義によれば、「萬人共
通の眞理は存在しない」 といふのであるが、この相封壬義者によつても、少なくも「萬
第三]革
理想主義と祀曾
(一)
持一

第三章 理想主義と祀骨 (一)
四ニ
/人共通の眞理は存在しない」といふ一つの眞理だけは、萬人共通の眞理として容認せ
られなければなるまい。斯様にいつた時に、相封主義は我れと我が武器を以て殺され
なければならない。柏封主義者は、かつてこの非難に答へたことがない。
 いかにも眞理はそれぞれの地位を表現した、地位的のものになつてゐるであらう。
併しそれは眞理として理想的の状態ではないのである。地位的でありつつ、しかも萬
人共通的の眞理を憧憬れてゐなければならない。地位的であることに不満を持つて、
地位的でない理想的の眞理を持つことに、精進しなければならない。このことを言ひ
換へれば、人間はそれぞれ地位的の存在の仕方をなしつつも、その地位より自ら自己
を解放せしめ、地位により束縛せられない眞理を持たうと努力するところがなければ
        ヽ ヽ
ならない。批判とはその努力を意味してゐる。
            ヽ ヽ
 近来は、世間で暴露といふ言莱がよく使はれてゐる。暴露とは他人の祓事や私行窺
を探索し、それを世間へさらけ出し以て快哉をおぼえるといふやうなものではない。
またどの曾融がどんなひどい儲け方をしたとか、官吏の誰れが.どんな私利を計つたと
かいふやうな事軍をさらけ出し、世間に示すのも、本営の意味の暴露ではない。それ
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巾 を暴露するとは、萬人の目で
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はただ、現賛に在つた事賓をその備に示した上いふだけのことだ。本営の意味の暴露
は、地億的の暴露.でなければならない。といふのは、.或る人が自分の本心からこれは
正常だと信じて主張し又は賓行してゐることを仔細に観察して、その賓これは正しい
主張又は害行ではなく、その人の地位を知らず識らずの間に拝護レた御都合主義に過
ぎなかつ。たことを、明らかにして行く遣り方をいふのである。この場合暴露は正しく
批剤である。
傍し暴露や批判は、或る正
を意味する。或る正しい標準
いふやうなことをいつてゐる
ばなるまい。社会生活の眞相







い基準を目安に置く
のである
て正しいと認識する
との出来る事賓を提示すきこ
なければ、
暴露も批
もないであらう。随つて暴露
は、
誰れよりも熱烈
理、想主義者であるといはなけ
暴露するといふ時に











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相を世間に示す、といふだけのものセはない。
で社会生活をよいものに改造しようとする準備
その

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相を暴露することによ一り、進
隠され蔽はれたも
自然科学者が地質や地震の
つてゐをのであ′る。改造する














要がなければ、暴露も起らない。地質学者と地震学者せを比較すれば、地震学者は自
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償ニニ華 理想主義と紅曾 ハ】)                        四三

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第三事 理想主義と統合
ハ一)
四四
                                                  d
然科学者ではゐ潰なは改造の考へをも頭旬沖肺曾物持つてゐぺ七つてま。何度
      一             .へ′.ヾも耶。影y、 ノ
の地層がくづれだど「暴露」をする時には、或る地震を濠知し世間の人に警告しよ
                                                                                   }川

ぅといふのでゐる。これは地東学が、直ちに人生と結びついてゐるからである。社会
の問題になれば、誰れも改造を離れて暴露をしようといふものはない。   、
     自 己 批 判

         ヽ ヽ ヽ ヽ
批判は結局は自己批判でなければならない。今他の悪品事件を暴露するといつて
も、自分の取る標準が間違つて居れば、批判は批判にならない。世間には、自分がよ
い加減の知識や信念しか持たないくせに、他人の忠想の暴露批判などとい。つてゐるぺ
のは少なくない。併し、「誰れのどの思想は間違つてゐる」といつたにせよ、それを批
判したものは、紳ではなくて自分であるから、自分が間違つた思想を持つてゐる限り、
他人に封する批判が正常である筈はない。出りコ旬
や批判をすかJ吋、噂1何よ」いWハ
に自分の持つてみ引瑚惑封印矧詞頭轡卜掛折れ笥。身効鵡

ほ卦馳窺
伽地鮎恥如如桝卦卿抑浄即那加掛レ払いか、
ー一Il−1一11−!一−Il−IIll−−I−−1−−11I−1−Il−−−−I−−−−−−−II−−I−−−I−II−−−I−!−I!トーllllllllliI●






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〆ん。
戎サ
と反省をしt行ぐのでゐる。斯様にしてたえず自己批判をして行かなければ、他人の
批判は出来るものでない。自分が或る地位的の要求を持つてゐる癖にその歪んだ知識
や態度を以て他人を批評すれば、これは決心て正しい意味の批判ではない。例へば鷹
誌の上に意見を掲げ、他人の思想を木葉微塵にやつつけるやうなことをするにしても、
内心では
がこの批
論が流行
それによ
列の何廃
してゐる
り自分の評判を高めたかつ。たりしてゐるとすれば、その歪んだ立場
かに自然に表現せられて来るものだ。近来漑やたらに悪口をいふ評
が、さうした評論には大抵の場合自己批判が足らなくな′つてゐるの
′音▲一1
そこで▼目
とは、結局也〕U吋分q卜男ノ地位畝離
赴か引」いし
が出来な
うと精進
 ヽ


寸ノ
己批判−
割引
けれドこ。
る性質ユ
を持つのでゐる。在りの嘩 生れついた儀の人間から、それでない
も、また人間なる限り、その地位より離脱し、理想的なものになら
習だけ常人共通の比婆理に
りH」盟倒嘲刊留人間は且儀的にはそれぞれの地位より離れること
人間へ進んで行きたい希望を本来持つのである∩▼ そこが人間の尊貴なる所以であり
これを否定
   けY ▲y
我々は地位
しようとするものは、何虞かでその理論の破綻を衆すより外はない。今や
かい伽執いで軌伽如執軌巾かh−l仇飢熱賛〕とが出来た。
 †



 へ
第三牽 理憩主義と紅曾 (一)                         四五

第三事 理想主義と敢骨 二)
四六
      イデオロギイとは何か

 併し地位よりすつかり超越して理想的のものになるのは容易のことではない。人間
は生涯の努力を以て、その超越の旗を歩いでゐるのだ。人間は学なる紳でもなければ
また僅なる動物でもない〔■動物として生きて行くことは膚する謬にいかないが、また
その天性として紳に向はないではゐられないのだ。さてまた地位にかへつて見て行く
が、私はさきに官吏の地位、商人の地位といふ風の地位を壷叩つた。併し所詮はさうし
たいかなる地位も、人間の食つて行くニュに関係を持つてゐる。食つて行くために、
                                                                    .●
それ等の地位も成立したのであるバその食つて行く生活が基啓になり、コ慧日には所謂
 ヽ ヽ ヽ ヽ
社会階級の成立することは後に述べるが、さうした階級が社会の中にあるものとすれ
ば、この階級捻ど有力な地位はあるまい。そこで各階級はそれぞれ自階級にふさはし
い思想傾向を持つやうになるの触曾の中に存在してゐるいろいろの思想も、睦つて結
局はそれぞれの階級を地盤にした思想でゐるこ七になる。階級を地盤にし溌思想は、
                              ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
最も強力な地位的な思想だ。階級を地盤にした思想は、イデオロギイと呼ばれてゐる。





   .1山
階級の中には、。グ、ルジョア階級、燕優階級といふ風のものがあるが、随つてイ、ナオロ
ギイにもブルジョア的屯イデオロギイや無産者的イデオロギイがある。これら二つの
イデオロギイの内容は、それぞれに相違しJ柏反封するものに打つてゐるが、秒反封す
る点は、尊ら社会階級そのものの利害の反封する鮎を表現してゐるのだ。
思想をすべてイデオロギイと⊥て見る人は、いかなろ思想もイデオロギイに外折ら
ず、それの地盤になつた社会階級又は食つて行くための物質基礎を表現するものであ
                                                                ■一
つて、その物質基礎により一も二沌なく指図せられてゐる.と考へるのである∵言ひ換
へれば、患想には自分で一人立ちす.るカがなく、それ々ささへてゐる瑞のは物質基礎
であるから、物質基礎は思想を限定するが、思想は物質基礎を限定しないと考へるの
                 ヽ ヽ ヽ ヽ
である。かうした考へは、唯物史観と呼ばれてゐる。それについては、なほ後の場所
で詳しく説いて行く。唯物史観はたしかに否定せられない一面の眞理を持つてゐると
いへよう。我々がこれまで考へて来たところを推し及ぼして行けば、唯物史観を肯定
する立場にもなつてゐる袖併しこれはやはり思想の一面観であをを免れない。第一に、
この見方では、物はすべて相互に影響し合ふものだ上いふ肝要な見方を忘れてゐる。
。一_
                       ′
弊三審 理恕主義と杜曾 ハ〓
四七

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第三事 理想主義と組合 (一)
四人
思想が地位的に支配せられてゐるといふ思想さへ、賓は根本的にその見方の上に立つ
てゐるものであつた。経済的基礎、物質基礎、階級地盤が思想に或る力を如かるなら
ば、思想もまたこの基礎、地盤にカを加へない筈はない。舟にのつてゐて他の舟を押
                                           ▲−
せば、他の舟が動くと同時に自分の舟も動くといふニュウトンの動反動の法則に似寄
つた関係がここに存在す鞋だから思想はまた地盤の上に影響を与へるであらう。
盤が存在寸る如{思想もまた存在するものでゐるが、存在するものはお互ひに押し
合ひへし合ひするのである。そこで思想は、その存在を以て析謂物質基礎の上にカを
伽へるのだ。かうなると思想は学純に、他のものにより限定せられるだけのものでな
いぐ斯様に思想もまた物質的地盤に或る限定のカを加へる止見る方が、微底的に地位
的な見方でゐるし、ま七正しい唯物史観の見方であるといへるのでゐる。
物質的地盤が思想を限定して町思想はまた逆に自分から物質的地盤を限定すると
                                                                                       一鞋
ころに、さきに述べた思想の超越性が現はれて来る。思想は学純に他のものに侍りかか
             ヽ ヽ ヽ
つて立づ性質、即ち依存性を持つだけではなしに、その依存したものから離れて自分

              ヽ ヽ ヽ
人立ちをしようとする超越性を持つのである。そして最もよく超越した思想は、
一「一−I■l

最.も強力に、物質的地盤をも限定サるでゐらうつ 思想が物質的地盤を限定するとは、
思想が理想王義的に働らき出し、物質的地盤を改造しようと努力することをいふのだ。
私は思想に唯物史観的な見方の一面を容認してゐるが、またそれより理想王義的な見
方を取り去らうとは思はない。唯物史観的な見方を徹底的に推し進針ようとすれば、
最後は難関に漠著するが、その時はどうしても理想王義を許nなければならなくなe。
それは今分析して発たところでも分かるであらう。理想王義については、またそれの
逆のごとがいはれ得る。私は、異質の思想は、その唯物史観と理想王義との結合に蹄
著し々ければなちぬと考へるもの】であイカ_
  ●
        甘
攣二孝 理魔王義と杜骨 (こ
四九、

     第四睾 理想主義と政令 (ニ〕                             五〇
一「一l■−一−■一∫ll■■l】−一一一一■−■■一lll■1−11一l■■一一lI一■ll■■l■l■■■l1−1,l■▲一1−Ill】一一一lll1−一一l■−●ll■l■■lIlll!一









仙 の周儀問題である。∵物的改造が必ず必要であることは明らかになつたが、然らば次に

小 生活を透るものになつてゐる。さてその社会及び社会制度を見て行くと、それは或る
1

仙 ゐるか。このことを我かは次に考へて見よ,d
一    _

別  人閏は必ず社会生活の中の一員となつ‡ゐる。


1

仙 第一の地位の問題の考察は、これで絡つた。