第一章 観念論はどうなる
禅坊主の観念論 眼前一塊の雪 自ら大雪原に立つ 生活する地位の相違 地位に支配せられる観念
滞坊壬が一人、坐滞を組んでゐる。
と…i…戟cg「‥……‥袖郎碓
刊ヨ由或`lただ我々の心から埠訓針叫甘あるといふ意味になる。熱いと思ふも
我々の心から、苦しいと思ふ旦同様にまた我芸心からでゐる。我々が心に熱いとも1
苦しいとも思は牢ければ、外界には熱いものも苦しいものも存在しない。在るといへ
第一章 灘念論にどうなる
′
第一睾 観念論ほどうなる
ニ
ば在るだし、ないといへばないでゐる。すべては我々の心の持ち方、立て万一つだ。
ヽ ヽ ヽ
こんな物の親方を観念論といつてゐる。近頃では、極めて普通に用ひられる言葉
になつ七。
観念論の「観念」とは、我々の心の中に生起する纏まつたノまた至極簡学な思想の
ことをいふのである。我々が荏を想ひ浮べれば、心の中には花の観念が生起したとい
←
ふ∵】の観念がもう一つ複雑にまた抽象的になれば、「概念」d呼ばれるものになるが、
今の場合は現念概念などとはつきり瞳別しないでよい。とにかく心の中に思ひ浮べら
れるものは何でも、観念であるとして置けばよい‥すべては我々の心の持ち方だ、
いふとl名から、かうした見方を観念論と呼んだのである。観念論は、州鄭琉州州1祁1璃
かい馳吋や執嶽副郭笥窃ガ封概観H吋引郎議硝、それの特色だ。尤も
観念論の中にも幾通りかの直別があり、その見方の精しく進んだものでは、一寸考へ
たところで観念論かどうか分らないやうになつて来るが、ともかくも観念論町抑もの
出番鮎はこんなところにゐつたのだし、祀坊主の或るものは、今もなほ先きに述べた
程度の観念論を考へてゐるやうだから、今の場合それ位の観念論を考へて行かう.
ー山
r‥
いかにも観念論のいふところには、尤もな道理も潜んでゐるやうだ。熱いと思へば
熱いし、熱くないと思へば熟くない。夏などになると我這よくさうしれ澄験写ノ
る。暑くてたまらないから上衣を脱いで見る。それでも凄くてたまらない○すつかり
着物を脱いで、眞裸かになり、室の眞中に横臥する。やつばり暑い、暑いりどうにも
仕方がないぞ。象のやうにうなつて見る○さうだ、大悟哀なあんだ。こんなこと
パ拘泥してたまるものか。考へて見い。今つ頃埠頭で荷上げ\をしてゐる仲仕達を。こ
の室の中で眞疎かにな。つてゐてまだ暑いなどいつては、全身町があたる。自分よりも
まだまだ暑い人を考へて見い。寒暖計の水銀柱が何んだ。夏が何んだ。熱火の肯坐。
祀を組んだと思へば、この室の暑さなんか、何庭かへ滑し飛んで了ふ。才すべては
我々の心の持ち万一つだ。
●
眼前 l 塊の雪
昔はいかにもお題目を唱へながら焼け鍋をかぶり、宗教迫害に堪へた傑偲がゐた。
観念論が世界への勝利を誇つたのである。人間もその位の気概を持たなければいけな
\
節二早 親念論はどうなる
三
▼音はW
絶網
野′
第一睾 執念論托どうなる
四
lll1−1−−11−11−1111−1111111−1−1−−Illll−1Illl。−11−−1
い上私為思ふ。1。
しかし外界の世界、我々が斯様に解れてゐる外界の も すべて叱カら じ†も
ほ考じのだ、と観念論がいふやうになると、そろそ
ろ問題はこみ入つて来る。先づ我々の心がなければ、外界は在れども無きが如し、と
いふのであれば、一應はうなづける。外に千金ゐりといへども、これを見る人なけれ
ば、千金は在りともなしともいへない。千金が存在するのは、千金を見る人があるか
らだ。人間∵日元んで了へば、世界は在るともないともいへない。山の彼方に都合が
存在するにしても、山に阻まれて見ることが出来なければ、都合は存在しないも
でゐる。そこで外界に何物かが存在するといつでゐる限りは、それは我々に見ら
我々の心に捕へられてゐる限りのものでゐるに相違ない。
併し我宗認識しないところには、何物も存在しないのであるか、と嶽へ絹
同然
`ヽ1
れる、.
」血
.必
これ
は大分疑問でゐる。成る程我々は、認識しないLころのものを存在寸右と一指存確しな
いともいへないが、存在しないと断言することには確かに危険が潜んでゐると思ふ。
私は日本全図の人間を、
一々認識してゐる謬ではない。併し日本に私の認識しない人
照付鵡H絹ハ瑚H川湖W漑鸞州畑仰増パ稲川川祁祁刈硝欄彗壌朝川パ袖卜H、」瑞
間の存在することは、疑へない事葺でゐる。アフリカの内奥、
人跡未到の場析に美し
い湖水があつて、その湖畔にささやかな秋草が吹いてゐる。この湖水は宇寧初まつて
以来、何人に絹見られたことはないの又をの秋草には冬が来、春が発て、幾星霜何人
めために粧ひするでもなく、地にとどまつた根からは美しい在室を拙くのである。然
らばこの湖水この秋草は、人間に認識せられないから存在しない、といひ得るかと言
へば、決してそ〃な暫口は出来ないでゐらう。が、我々の心による認識を離れたと∴
窟用笥召、と互いつたとする濁らば、その掛臥後我々には観念論以外
の立場が出来てゐるのでもる。何故なれば、その時以来我々は、心の持ち方では何と
も左右の出来ないものの厳然たる存在を、心の外に許さなければならないからだ。I
ヽ ヽ ヽ
かうしたところから唯物論といふものの立場が出て来るが、今は一先つ講をそこまで
進めない。
ヽ ヽ ヽ
観念論はまた唯心論とも呼ばれてゐるが、その理由は、観念論の意味を考へれば分
かることでゐる。さて今は観念論を心の持ち方といふ位に見て来たが、もう一段進め、
勒笥、と考へたとするならば、大分重大のものになつて来る。
藤一事 観念論ほどうなる
五
ョ.YJ雅娼げ瑚寸凌絹柑ザ」ヽHナ
ノソ
1Jqlq丸一ノー与 り小ノ′イ〔Y‥≠≠メ1叫′r、。パ.、メ一。.、d
淵凋憫瀾瀾瀾凋瀾瀾渦瀾瀾欄欄瀾憎湖凋淵欄欄瀾欄瀾 欄畑川奥州.
埠頭撮t‥J」。一寸Jl。。。JつJ−け。妻1Vl沌1I主j
第一事 貌念論にどうなる
六
つまり本営に存在するものは観念だけで、外界け見い勺即男しJ一湖水.垂 すベ一句
患、笥、緻封り
桝仙封mィといつたとすれば、。大欒の意味のものになつて来る。本営に、外界に存
在するものノは学なる観念であらうか。外に雪が積もつてゐる。これは雪といふ外界の
存在物ではなくて、学に雪といふ観念だといふならば、いかにも雪はつめたくはなか
らう。我々の心の持ち方如何で、その雪を滑すことも出来よう。これならば外界は、
恐れるに足らないしろ物となる。
併しこの観念論は甚だ危険である。何といつても外界は、はつきり外界として存在
し、数々の観念はたはその観念の投げ也された働や何かではない。雪をどう治さうと
思つても、心だけでは出来ることでない。目をつぶれば雪は見えない。それで雪は滑
えたかといへば、断じて雪は滑えてゐないのである。併し先つ目をつぶつて雪を滑し
たと考へてもよい。手を出して雪をさぐつて見る。相攣らずつめたいものがそこにゐ
る。それが雪だ。これではいけないから、次にはその手も引つ込めて、雪のつめたさ
にも解れなければ、つぶつた目で雪をも見ないことにする。成る程これならば、一應.
.●「
外の雪を滑したやうに見えてゐるであらう。だが、この雪が学にそこに存在する一塊
の雪ではなくて、大雪原であつたとしよう。大雪原の寒気の中に、祀坊主が一人坐つ
てゐるのだ。凋に雪を見ず、手に雪を解れない、雪は全く滅却した。併し見よ、。滞坊
主はその大雪原の寒さに堪へないで、次の朝旭日が東天にのぼつた時には、凍死した
つめたいむくろを雪の上に残してゐたのでゐる。雷〇.
けれども世間には、いかにこの死んだ祀坊主のやうな人が多いことだらう。一塊の
雪は、以て観念としてこれを語る可し。これを語るものは、その
塊の雪より離れ、
塊の雪のつめたさに解れてゐない。滑えようと滑えまいと、彼に何の影響をも与へる
も町ではない。がY凛叫血苛
眞賓如何を考雲仙州「封。祀的風見竺興しで、句仙慧窺m呵仙州嘲盟測
を淵脚却せ
u均、封印Nいこ,ハか。の‥問雫瑠る。
尤も世間には、この大雪原に置かれた後まで、外的世界の存在を儲念だけのものだ
といひ切り、それに何の遠慮をも持たないで行かうと−いふものがある。ギタシアの昔
観念論を信ずる
人の哲学者があつた。彼によると、外界は学なる観念に過ぎない。
第一睾 執念論はどうなる
七
〜 。。=_‥ぎ1達箋jJ一。弓涼、†
Z瀾瀾瀾瀾瀾瀾欄欄。
ルJ
第一拳 親念論托どうなる
入
そこで彼は勇敢に、その外界の姿などに頓着せず、思ふままのところへ進んで行つた
が、つひには谷へ墜落して死んで了つたといふことだ。後れ哲学者こそは、徹底的の
観念論者であつたといふべきであらうむ .
自ら大雪原に立つ
すべては心の持ち万一つだといふ挿坊主は、現今の社会問題にも口を出し、蔽合間
題の群的解決などをいふや,aになる。
繹坊主は批評していふのである。世間では社会問題だの何だのとやかましく言つて
るが、それはみな利慾小を捨てないところより起ることぢや。よい着物が看たい、う
まいものが食ひたいとゐつて、人間が我利我利亡者になり、その利慾心で寧ふから、
労働学議頂どいふものが起る。よい着物、うまい食べ物も、心の持ち万一つぢや、人
間がみんな、そんな下らない利慾心を捨てて見い。蔽合間題など、滑えてなくなる.
わしを見るがいい。この老年になつて、何一つ利慾心を起さぬから うまい物もたべ
ヽ
ぬ、よい着物も著ない。それでゐて、結構生きて行かれるぢやゐないか。世間の人間
仙
軌
は一つわしを見習ふことぢや。ト
il一−卜」■■l一l」
−
−
成る程かうした見方に立つと、蔽合間題はすべて観念論的の問題になり、人間が心
の持ち方をさへ欒へるなら、即座に解決せられて了ふやうに見えて来るし、世間には
かうした見方への賛成者も少なからぬやうである。現に宗教家が思想善導の説教をす
ると、大なり小なりこの祀坊主の言葉に似た趣旨のことを述べてゐるし、。その宗教家
に官吏などが思想善導の運動を頼み込む時には、やはりこれべ似た趣旨の説教をして
貰廿たいと希望してゐるやうでゐる。併し今思想問題に情熱を寄せ1ゐる若い青年達
一■
は、その説教位で納得せられるものでもなく、またこんな仙翌日町説教ならば、最初よ
りそれに寄りつかうとさへしないから、宗教家だちはその青年達の考へgところをも
よく理解して置くことが必要でゐらう。
この祀坊主の考へ方は、要するに私が先きにあげた、」塊の雪を限軋に眺めその雪
のつめたさを語つてゐる人間の立場と、同一のものではなからうか。雪を眼前に眺め
るものは、その雪のつめたさから離れてゐる。それと同様にこの藤坊王は、社会問題
を、自分の生活卜は大した開係のない、眼前一塊の雪上して眺めてゐるのだ。社会問
蜃
ヽ
レ ト
第一章 観念論にどうなる
九
上一一一ll一−上●.rllll肝腎
笹心象
鸞ル延アほ
伊嘗一浪
第一尊 敬念論托どうなる
一〇
題がどう推移して行かうと、青年達がどんな運動をつづけて行かうと、この礪坊主の
生活には何の欒化も起らない。礪坊主は柏攣らず食ふことの心配がない○この老坊主
の一生などには、食ふ心配の起る気配は見えない。そこで祀坊主は庭の植木の技振り
をどうのかうのと考べると同じ態度で、その社会問題を考へてゐるのゼ。本営は考へ
たくも何もないのだが、官磨から思想善導の説教の依頼を受けたりするものだから、
ちよつと思想問題をも全くの責人の見方よりいぢつて見たといふに過ぎ.払い。
が、青年達の立場は、それとは達ふものになつてゐる。青年達は大雪原の寒さの中
に置かれ、日夜轟々と、その寒さにより攻めさいなまれてゐるのでゐる○警、
ともかくも看たり食うたりするに事を快かない。何一つ仕事らしい仕事をしないで
も、食つて行く分七は心配がない。恩汎融軋
濱ノ。けな
い。漣たどうにか幸運に仕事にありつけたにしたところで、貰ふ賃銀俸給では、容易
く家族を養ふことが出来ない。召了はぐ−一例励坤ノ
観すでにそれを考へるにいたる、
勿易廃
誓,
\り
生活の立場が達つてゐるのだから、.考へることの内容の達ふやうになるの収已むを得
ない。 .
そこで見よ、礪坊主は利慾心があるから社会問題は起るといつたが、今食ふに困つ
てゐる青年達の何庭に利慾心がゐるか。青年達は、ともかくも食物を咽喉に適ほした
いのだけれど、それが果して利慾心だらうか。これが利慾心ならば、滞坊主も食つて
ゐe限り利欲芯を持つてるといはなければなるまい。また潤歯壬はわしのやうに質素
の僅活をせよといつたが、青年達とて何も特別に費澤をしようとは思はない。最低の
生活に甘んじて、→家何人かがともかくも息をしてゐるだけの生活はしたいといふの
である。成る程この洋服細民は立派に洋服などを著込んでゐるから、祀坊主よりは贅
澤であるともいへようが、稽坊主は一人でひろい庫裡に董寝をして居ればよいので、
どんな着物をでも看てゐられよう。この洋服細民は、その洋服を著なければ合融での
仕事がつとまらない、そこでこれは自分でどうにもならない、やむを得ない服装だ。
これとて月賦で仕沸つてゐる以上、費澤どころか身を細らせる重荷の洋服だが、どう
絹、
「。す
にもならない。そこで球壬のいふ批評は、
つとしてこの青年達の上に瀞月て験らない。
■
第三早 瀬念論はどうなる
ほ絹欠b⊥覆さ喜▼学恥葦.丁.1モhd j..き盲l
≠
第三単 数念論ほどうなる
一二
蜃問盛召琴へ、割嘗
して血円死q「生畝求掛る、一一流習思索をなしてゐクaで鵡る。撃方の生きてゐる物
質的の基礎が達ふ。問題は、笥】だ! お互ひの
結論が達つて来るのは。
生活する地位の相違
それぞれの人間が、この鹿骨の中にそれぞれ建つたか釘を得て生活してゐる。築に
暮らしが立てられ、食ふことなどに心配しないで行ける人間の地位と、さうでなく一
日食ふに一日の苦しみをし、日夜の仕事といつたらただその衣食の資を得ることを眼
目にしてゐる人間の地位と。また官吏といふ地位と、商人といふ地位と。なほまた農
民といふ地位と工場労働者といふ地位と。人間は、言はば澤網のいろいろの結び
目の上に、一それぞれ一つづつの住み場庭を得で生きてゐるやうな析のだ。aたかうも
「
いへよう。子供が二人づつ重なつて輪をつくる。輪の外では鬼が子を迫つかけ廻つて
ゐる。子は達るに疲れると、何虞かの二人の重なりの前へ飛び込む〇三人になつて、
ーか
岨
鮒
′
♪
菜▲…猥j*t
うしろにはみ出された一人が今度は子になつて、輪の外に飛び出し、鬼に取つ掴まれ
な♪ゃぅに輪の外を走らなければならない。子供の時に学校でよくそんな遊戯をささ
れたが、今の場合この一人一人の子供達がそれぞれの遽つた生活地位を得た人間であ
り、輪と鬼と子と渦我々の社会といふものなのだ。 .
−
蜘蛛の網の一つの結び目の上に坐つてゐる人間は、その線に掛係のな■d他方の紡
が、風に吹かれて樹の枝から取り放されても、大しだ驚き娃風ハへられない。がJ樹の
枝から取り放された兢の上に坐つてゐるものは、大いに騒ぎ、づたその錬に近いとこ
ろに坐つてゐるものは、それに次いで騒がなければなるまい。併し蜘蛛の練のあつち
卜Jつちもが切れて了へば、自分の鶴だけ切れないからといつて、最後には安閑とし
てゐる澤にい価ない。他の線すべての切れた時は、自分の練もまた切れたと同様に、
蜘蛛の巣仝健が、随つて自分の地位が破壊せられた時でゐる。
二人重なつた輪になると、内側の人はゆつくりした気持になつてゐるし、外側の人
はいつ子に飛び込まれるか知れないから、始終そはそはし、目を鬼と子とにやり、
成した気持になつてゐなければならない。それよりも眞愈なのは子と鬼だ。中にも鬼
第∵写 執念論にどうなる
一三
■紹ク凋刀甘多Z
朗々カ雀あ
a一
叫 になつて輪の外をいつまでも走り廻されてゐては、へとへとになる○何とかして子を
仙挿へない分には、自分の誉苦しさは中断せられないのである。私などは、この遊戯
仙 で鬼にさせぺれると、了ひには苦しくてたまらないものだから、鬼であること皇芸
−
叩 たやうに、ゆつくりゆつくりと子のゐとを追うで行く。つまりは遊戯のサボクアジュ
叫をやつたのでゐる。さうなると遊戯姦がいつになつても尊展せず、さつぱり面白卜
叫 ないものだから、先生が「鬼交替」といつてくれて、ほつと忘ついたものだ。よた
一
∵いつになつてもこの馨がかからなければ、こつちから先を越して了つて、何虞かの二
一仙 人の前へ飛び込み、「鬼」といつてうしろの一人をはみ出してやつた叶これなどは遊
叫 戯秒法則をすつかり破つたむのでゐる。
す 憤。子
すは子、鬼は鬼の考へ方姦つのである○尤も私の遊戯では、鬼が苦しくなればこつち
●
一
一
伽 から、「鬼」といつて交替をせまる非常手段もあつたが、人間の社会では、生活がどん
一
仙 なに苦しぐなつても、その鬼に等しい苦しい生活を他人に章りつけることは出来怒
叫 い。直ぐに交替の出来るものなら、輪の内側へ飛び込んで休息したい人間は澤山ゐよ
−
1■−き−−−−−−I王…1I一首王…I…!III−−−−−I−I…I−−…−I−II−I−III−−1I−−1−−I−−。…I−−−I壬…−!‡I−1王=l!
、
節≡牢 観念論はどうなる
一四
うが、人間の社会でそれは許されない。
官吏は官吏の考へ方をし、商人は商人の考へ方をする。早い話がデフ
シ ョ ン
(通貨収縮) とインフレエション (通貨膨脹)、との可否如何に対する埜方の考へ方の
相違である。官更はデフレエションの方が堅賓だといふし、商人はインフレエション
をしなければ一般の不景気は直らないといふ。竪賛になるのも世間一般のため、不景
気の直るのも同様に世間一般のためとあつて、髪方はそれぞれ眞面目に考へをいつて
ゐeのだが、さてこの意見の相違はどうして起つたものだ卜「か。デフレエションを
すれば物慣は安くなり、インフレエションをすれば物慣は高くなる。官吏は極積つた
月給を黄つてゐるから、物慣の安くなるのを歎迎し、商人は物慣の高い時代に買込み
をしてゐるから、安くなつた物償がもう一段高くなることを歓迎するものだ。何もそ
こまではつきり考へ適ほしはしないのだが、頭の何虞かで、お腹の何虞かで、早くも
さう考へ通ほしてゐると見えて、等しく世間一般の利益に関する見方でありながら、
撃方でかうも達つて来るのゼ。
工場潜働は機械を壬とする労働であるから、そこで労働するものは、自然に規律を
′
ヽ ′
第一尊 敬念論托どうなる
一五
一■
瑠りハ
第一睾 勧念論ほどうなる
一六
悦び、能率的でゐるやうになる。愚図愚図してゐることが嫌ひで、物事をてきばきと
片づけよ。つとする。また仝饅として一つの組織をつくるやうなことにも慣れてゐる。
ところが農民は、すべてこの特色に反対する特色を持つてゐる。自然を柏手にし、
然に伸びる植物を仕事の壬憶にしてゐる以上、農民の気性はのんびりとして、仕事を
てきばき片づけないやうになる。いやてきばき片つけたいにも植物がさうてきばきと
は伸びてくれないのだ。ひろい農園で仕事をするから、
つの組織をつくつて活動す
き」とにも慣れてゐない。こんなところから、等しく無産労働者の組合であるに拘ら
ず、工場労働者の労働組合と農民の農民組合との問には指導精紳に相違が起るやうに
なつて来る。ロシアの革命では工場労働者が中心になつてゐるだけに、革命後農民と
の関係が何より軋むづかしいものになつた。反革命の運動は屡々農民の中に醸成せら
れて発たのである。
地位に支配せられる観念
この位例をあ折れば、人間の考へることはただ観念として頭の中で勝手に考へるだ
】「
一
一
一
一
【
■
−
1
−
−
−
−
■
−
■
−
一
一
】
一
−
■
−
一
一
1
−
巾
−
一
■
、
1
【
−
−
】
−
−
−
−
−
】
−
1
−
−
−
】
−
−
−
1
−
−
−
}
■
l
一
−
【
−
−
■
けのものではなく、それぞれの生活地
とは明らかになつたであらう。人山間の
念はもう一つ別の力により拘束せられ
その時我々は、所謂観念論を学純に壬
位に
観念
▲てゐ
張す
より内容もまた達つた
になつてゐるこ
は、観念だけで動いて
ものでない。観
る。
これが肝腎の結論
る。が、同時に
る立場からは離れてゐ
上のらう。
この場合一つの重要なことがある。I人間の考へることは、
ぞれの地位に
.Jト′
つてゐるといへば、人間はわざわざそ
てその考へを取つたや,つに闘えるが、
例をあげれぼ、さきの官吏は、本心で
が、自分には損だから衷心の考へに反
といへば、さうした例もゐらうが、必
分に眞面目に考へたところで、自分の
地位にふさはしい考へ方を取つてゐる
の
事
は
し
ず
良
。
位の利害を主張するた
は必ずしもさうでない
も全部さうではないと
の馨に開いたとこ≠で
はこのことに、特別の
〆
だ。然らば斯様に、自分の地位にふさ
ば、第一は、掌ら教育によつて養はれ
よ
l丘▼
た
地‥
也貰■
イ
て、
し.
心▲
私▲
し
の」
だ.一つの鹿骨は、その
を維持して行
をよびたい
局は自分の生
ふことである
自分からつと
ンフレエショ ンがよい
つてゐるtの
デフレエショ ンをよ
主張してゐる
い考へ方はどうして出
もの卜
ゐるヰ
で上のク
るでよ
それガ
めに由
とい▲
と思ハ
しと+
いふl
、結巳
注意も
来たヰ
社会九
ものかとい
】と一で為る。
Mよ
ナ′
Jめ
YO
ヂ】
■ ナ
Yか
十
」活
の
へ
一lTノ
一 lUl
界一事
叔念論托どうな.る
ー七
つ−
粛一章
勅念論ほどうなる
一入
′小か
ぺ様な方針を持つてゐる。社会はその方針を元として子供の教育をして行くから、子
供は大頂くなつても∵】の方針を一点間違ひのないものに思ひ込んで了つてゐる。な
隠_あ方針が父組侍衆のものである場合は、息社会の中に育つ人間は、。すべて衷心
ぜ
よりこの方針の支持者になつて計るのである。このことが最も肝要の事賓なのだ。
アメダカの一財閥について、さうした驚くべき驚倒を解剖暴露したものがゐつた。
独
この財閥は、多くの寄附金をなして学校を建ててゐる。琴に堂々たる学校だ。さてそ
他
の学校の理事者には、この財閥の幹部が加はるから、この学校の教育方針がその財閥
の利害に衝突しないものになること秘いふまでもなからう」財閥は教曾を建て、病院
を建設し、新開を経営する。−いやもつとずつと基礎的なところでは、幼稚園をさへ澄
小■
脅して、幼鬼達に無償の牛乳を給興するのだ。学校の卒業者は、この財閥の事務員に
採用せちれて行く。アメヅカなれば∴そ、これほどの大財閥も存在する凋である。さ
てこの社会の生活を考へて見るがよい。そこで育つ人間が、何物にも拘束せトれず、
自分の良心より判断したといふ考へは、果していかなる色彩を持つものだらうか。我
一
叩 我はもはやその結論を開かないでよいことだ。
■
「■I−−■■■
ー●l一.■.
一
J
句柏Ju、は心の頴Y
bどいぶ観念論から出費して、私は人撃方といも
の埠礎慧白雪叫で瑚一ベJh彗じの頭メーれ有れ坐)轡り上で占熱仰叫地租
(
に却山意習せられ
確佗を支瑞ぜノ句笥ぢ考、へ方を切創J釧勿だ、上いふことを述
ベて来た。さて斯うなると、人間軌憤抱す叫周現川叫ば小ノ習
いこと、ただそ ‡佗を侍→一すると カt アいものであらうか 甲J乙とが言ひ
守つてゐる。俺の考へは正んい、お前のは間違仇だといふ。が、正しい考へは何虞に
もない。 もそれぞれの l活地位懲 らず議らず革 てゐる だ 今いつた
結論は
先づさういふことになる。いや我々は確かに人間の思想について、この見方
々根本的に持たなければならない‥それによつて我々の社会での出来事は、大分に
卦味の建つたものになつて来る。だ首想についてポ、ただこの見方しか許されない
ものであらうか。決してさうではない。自づからそれに反封する見方も成り立つこと
は、トフ少しあとに述べる。この輩では私は挿坊主をひどくこきおろした形になづた
が、全鰹の捕坊壬がみなく灯らないといつたのでないことはいふまでもない。こんな
捕坊壬もあると想像していつたのだ。いや全饅がさうだ上いつたにせよ、。すべては心
,上
一
−
−
1
−
仙
l
■
l
一
一
】
l
■
−
−
】
一
−
−
】
−
−
−
一
−
1
】
一
一
一
l
■
l
一
l
】
−
−
■
一
−
■
】
−
−
−
一
一
l
一
−
1
】
−
−
1
1
−
1
■
■
一
l
」
節一審 艶念鈴にどうなる 一九
警川.
甲.屯、す 、
.り−〜ん一′
′
第一章 勅念論ほどうなる
ニ○
血r
ヽ≠
」▼ 小
の持ち万一つだ。おこるやうな繹坊重なら、
てゐる。
どうせ精紳の錬磨が出来てゐないに極つ
.一 .■.■− 一 −一l−▲■.■l▲■l一■_▲■■_ 一 .一 ▲ 一 .一】l一】J●.一一】
ー
ー
ー
ー
】
−
−
−
−
−
仙
仙
−
−
−
−
−
【
†llL
1一
ll,■一rr.
一
−
が勿イ巾
懲〆β座
∧小。