前 論

 徳川時代以前に於ける國體観念の発達

國體なる語の意義  國體に関する学説の沿革を研究するに当り先づ國體なる語は如何なる意味に用ひられしか、更に、支那に於て國體なる語は如何なる意義に用ゐられしかを見る事は無用の業にあらざるべし。
支那における用例  抑も支那に於て國體の語の最も早く見えたるは管子にして其君臣篇に、四正五官國體とあり、四正は君臣父子を云ひ、五官は五行の官を、即ち君臣父子五行の官は即ち国家を組織する骨子なりといふ意味なり、次に春秋穀梁伝に大夫國體とあり、註に國體とは君の股肱たるをいふとあり、即ち国を支ふるの器といふ意味なり、是等は今茲に論ぜんと欲する國體とは関係なし、漢書成帝紀、陽朔二年の詔に、「儒林官四海淵源、宜皆明2古今1、温故知新通2達國體1、故謂2之博1、とあり、又色雌煢`而堕2國體12朝廷序1、不位、とあり、晋書に、明2達國體、朝廷制度1、多2経綜1とあり、旧唐書に、帝王所重國體、所切人情、苟得2其体1必臻2大和1、如失2其情1是曲2小利1とあり、是等人に依りて各其解釈を異にすと雖も大体に於て国家の組み立てを指せるものに似たり。
日本に於て用ゐたる「國體」なる語  然れども是等は我邦に於ける國體なる語の直接規範となれるものとは思はれず、我邦に於て現今用ゐる所の國體なる語は徳川時代学者の用ゐたる意味を継承せるものにして、上述支那に於て用ゐられたるものと頗る内容を異にせり、されど我邦にて単に國體なる語の見えたるは頗る古き事にして早く既に出雲国造神賀詞の中に「國體」といふ字あり「クニガタ」と読めり、されどこは国の状態、有様等いふ意味に用ゐたり、即今云ふ國體なる語とは関係あるなし、徳川時代に入りて所謂儒家神道の唱道者の我国家を論ずるに当り國體なる語を用ゐる事多く殊に水戸学派の人々に至りて最も盛に用ゐたり、是等は皆現今用ゐらるゝ所の國體なる語と略同一内容を有す。
 斯く其用語の一般に認識せられたるは比較的新しきものならと雖も、同一の観念の起り、且つ之が言明せられたるは頗る古きものなり、即ち、外国に対して我邦の成立の特色、国家組織の優秀等を認めて其観念を言語に現はしたる事は古来甚だ其場合多し、其特色優秀と称するは主として我邦が神国なる事、皇統連綿として国に二君なき事等なり。
我国が神国なりとの観念  我国が神国なりとの観念は国民固有のものなる事は建国に関して我祖先の遺せる神話之を明証して今更論議の余地なし、すべて国を治むるに祭政一致の制を採るも此思想より来る、其外、日本書紀九神功皇后九年三韓征伐の条に
神功皇后三韓征伐条  新羅王於是戦々粟々、身無所、則集2諸人1曰、新羅之建国以来未嘗聞海水1レ国、若天運尽国為海乎、是言未訖之間船師満海旌旗耀日皷吹起声、山川悉振、新羅王遙望以為、非常之兵将滅2己国1焉失志、乃今醍之曰、吾聞、東有2神国12日本1亦有2聖王12
 皇1、必其国之神兵也、豈可2兵以拒1乎、即素旆而自服・・・
とあるもの、新羅王をして言はしむと雖も、実は我国民の観念を述ぶるに新羅王の口を藉りしものなるべし、大化改新に当りて何事も其範を支那に取りしが独り神祇官を八省の上位に置きしは之亦神国なる思想よら来れるものなり、三代実録、貞観十一年十二月十四日新羅の賊船の来る事を聞召して其祈攘に対する伊勢神宮への告文に、
貞観十二年神宮への告文 日本朝所謂神明之国奈利神明之助護兵寇2近来1

と云ひ、二十九日石清水八幡への告文にも、
石清水八幡告文 若賊謀已就兵船必来倍久境内入給須之天逐還漂没我朝神国畏憚来礼留故実太之不奈
とあり、十二年二月十五日宇佐八幡に奉れる告文にも
宇佐八幡宮告文 伝聞彼新羅人我日本朝世時与利相敵而今入2来境内12取調物12懼憚之気12其意況1兵寇之萌自此而生我朝久無2軍旅1専忘2警備1多利兵乱之事尤可2慎恐1然我日本朝波所謂神明之国奈利神明之助護賜兵寇2近来1

とあり絶対に神明に依頼して疑はず。
小右記長元四年八月二十三日条に見えたる宣命草文の中にも、本朝神国奈利の語あり、玉葉亦所々に此語あり、保元物語一、新院御謀反露顕竝調伏事附内府実能意見事の条に「吾国辺地粟散の界といへども神国たるに依て」の語あり、源平盛衰記一、清盛捕2化鳥1の条に、「日本は是神国也、伊弉諾、伊弉冉尊の御子孫、国の政を助給ふ」と見え同書六、小松重盛が父清盛を諌むる条に「日本はこれ神国也神は非礼を受給はす」云々の語あり、果して史実なるや否やを知らず、暇令盛衰記著者の造言とするも重盛に仮托して其思想を吐露せるに外ならず、同二十九三箇馬場願書事の条に、「日本秋津洲は本是神国也」とあり、吾妻鏡元暦二年五月二十四日にある源義経の書状にも「我国神国也、神不2非礼1」の語見え、其外大神宮諸雑事記、東大寺要録、玉承久二年四月十三日の条、平戸記仁治三年正月十九日の条、撰集抄九、内侍所御事の条、続後撰和歌集に収めたる土御門院御製の歌、風雅和歌集十九神祇の中にある慈鎮の歌等に或は「当朝は神国なり」「神の国」「我朝者神国也」「日本は神のみ国」等の語見え、貞永年中始めて武家法制の定めらるゝや第一に神社の崇敬すべきを述ぶ、又文永弘安蒙古襲来事件の際に当りて文永七年正月、我太政官より蒙古中書省に贈るべき牒文に、
文永七年蒙古への牒文  凡自天照皇大神耀天統至日本今皇帝受日嗣聖明所覃莫不属左廟右稷之霊得一無貳之盟・・・故以皇土永号神国・・・(本朝文集所収)
とあり、蒙古の兵船覆没を以て国民は専ら神明の加護と確信せり。



菅家遺誡
 又世に菅家遺誡なるもめあり、果して菅原道真の自ら遺せるものなりや否やは
今詳にする能はずと雖も我国の神国にして我皇民の神孫なるを明にし我國體の
尊厳に及ぶ。
  本朝之綱教者以敬神明為最上知徳之微妙豈有他哉、凡本朝者天照太神之裔国
  而天孫瓊々杵之尊臨位之地、嘗祭之法無可因漢土之法
   凡神国一世無窮之玄妙者不可敢而窺知雖学漢土三代周孔之聖経革命之国風
  深可加思慮也
神皇正統記
と、北畠親房は神皇正統記を著して曰く、
  大日本は神国なり天租はじめて基をひらき、日神ながく流を伝へ給ふ、我国の
 み此事あり、異朝には其たぐひなし、此ゆゑに神国といふなり、神代には豊葦原の
 千五百秋の瑞穂国といふ、天地開闢のはじめより此名あり、天祖国常立尊陽神陰
 神にさづけ給ひし勅に聞えたり、天照太神天孫尊にゆづりましゝにも此名あれ
 ば根本の号なりとは知るべし。
と述べて我邦の神国なるを明にし、更に進みて萬世一系の國體自ら他と異なるを
論じて
北畠親房の國體論
   唯我国のみ天地ひらけし初めより今の世の今日に至るまで日嗣を受給ふ事
  よこしまならず、種姓の中におきてもをのづから傍より伝へ給ひしすら猶正
  にかへる道ありてぞたもちましましける。
と云ひ、「是れしかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれな
り」と結ベり。又同書応神天皇の条に、「この国は神国なれば神道にたがひては一日
も日月を戴くまじきいはれなり」とあり。太平記三十五、北野通夜物語事の条にも
「我朝は神国の権柄」と見え、一条兼良が将軍義尚の請に任せて治世の要道を説きた
樵談治要
る樵談治要の第一に「神をうやまふペき事」と題して
   我国は神国也、天地開けて後天神七代地神五代あひ継給ひて万のことわざを
  はじめ給へり、又君臣上下各々神の苗裔にあらずと云ふことなし、是によりて百
  官の次第をたつるには神祗官を第一とせり。
秀吉の対明通告
と云へり、豊臣秀吉が明使に対して告報せる条目第一条に、夫れ日本は神国なり、神
即ち天帝、天帝即ち神なり、全く差なし、之に依りて国俗風度天徳を崇め、天に体し地
に則り言あり令あり」と云へるも又同一観念に基くなり。
之等今一々挙ぐるに及ばず。
 此「我邦は神国にして我皇室は神統を承く」との信念は、古来国民が外に対して常
国民的自覚
に国威を損ぜざるべき毅然たる覚悟となり、皇統万世一系に対する国民的自覚と
なる。
 応仁天皇二十八年九月高麗王使を遣して朝貢せしむるや、其表文中、高麗王教日

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本国あ語あり、太子蒐温雅郎子其衷む凄みて怒∵ソて高麗の使を責め其衷む破む給
                           0 0
へる事あり、雄略天皇七年の条ほ新羅王不潅申開あ譜あり、伊企難が新展に捕へら
 れて滑降服せず、新鹿の賭逼つて祥を腹して日本に向つで1日本耕我鹿雁を噛へと
叫ばしめんとするや却て新羅王我臨席む噛へと叫びたるが如き、又遣虎非望を起
せるとき、和気清磨、宇佐入蹄の神託を受けて辟サ奏して
   我国家開聞以凍君臣定奥、以y臣為y君未モ之有「也、天之日嗣必立二皇儲■無道之人宜【ニ早
  掃除り
と云へる如き又此闘民思想の崩現に外ならず、大化二年改新の勅む換教し施政の
方針を宣明し給ふや、中大兄皇子、詔を膣し奉答して日く、
   天に鸞日なく固に二王なし、是故に天の下を粂ね併せて萬民を使ふ可きは唯
  天皇のみ
 と.以て皇上の神垂に封する理解を表明せるなり、
 降らて鎌倉の未、樺師錬が其著元事繹膚にも我陶の皇統連穎として萬世替る事
 なき所以を論ず」日く、
   寄れ国史を凄むに邦家の基由然に根ざす也、支那の・渚囲未だ嘗て有らず、是れ


 寄の吾岡を稀する所以なり、其れ所謂自然とは三鍾神器なみ三器とは神鎗神創
 神重なり、此三つのもの皆由然の天成に出づ■る也・初め天照太神の弼釘ハ即在すや、
                               スべシラスルクニ
 其藤凛々杵尊を召して日く衰原の中つ図は吾が孫胤の統御地な鼻面離の隆ま
          ムダキハ†ザナカ
 さむ乙と天地の輿無窮るべきものぞと如ち入侍鋸、八浜塵i草碇創む以て之に授
                               丁・イ・マシ
 けたまふ、及天鬼屋根命等五神を陪従と為して昔日く、杏璽三器五神む徒へて下
           .   チ サ       スナハ  ハナレ               サブ
 土に降り、斯民む照臨めょ、今爾ち離索んとす、故此鋸む付く、此の鋸は是れ吾が南
                           ア・
 を照す具なり、我が面常ほ乙の中にあサ各層此の■鋸む持てば常に我む南る也束
                                                 ゝ一ノ
 だ嘗て須里も離さゞれ、今我れ汝に付く威其れ斯の鋸む汝の居に置け、斯の鋸又
       ミク ラヰ
 能く汝が国難を鎮めん、其の剣と魂と骨然り、汝夫れ徒け、慎めや、是を以て言へば
 我が囲は東方海極の域ならと錐も其統御の蜃なるや天地の開聞と兆を同じう
 するか、然らずんば三種神器何ぞ錆創の先に出でて天よら降ちんや、是れ我が国
 運の自然なる者なら戚の支那は中固と稀し文物の開と云ふも初めょら信器な
 く、夏に至らて始めて九鼎を躊て固器と覆せみ、皆人工にして天造に非ず戎が園
 小なクと維も基を開くの神芸針を樽ふるの蜃なる−日を同じうし三語る可ら
 ぜるなり、(中略)我駒一種系連綿週無窮なる者天造自然の器の致す朗乎、是ほ因て

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  言へば千蒔世の後と雄も擾奪の奥有らざるなり、ハ中略)固有らて以凍攣夷の擾奪
    カ・
  ほ埋らざる者未だ吾が閥の純金なる如きは有らざるなら。
 と、又北畠朝易が皇統の一系をカ論したるが如き皆我国悼の依て定まる所を明か
 にせるものといふべきなら。