(三)明治時代第一期
                                                                          ′
(明治初年より八、九年に至る)

078


 徳川時代に於て西洋の文化と云へば云ふまでもなく和蘭の門を通過したるものにして総て洋学は主として和蘭学なり、稀に独逸、英国の書の翻訳又は重訳せられたるものありと雖も殆どいふに足らず、然るに北米合衆国のカによりて我邦は開国の運に向へるのみならず、爾後合衆国の我邦に対するや恰も新附の門弟子に於けるが如く、引き続き誘導の労を執りたり、従て明治維新の前後より其先進国として(英米思想の輸入)其文化を仰ぐ所は主として北米合衆国及び英国なりき、之れ英国は米国と同文なると、一は当時東洋に於ける和蘭の勢カを一蹴し、印度を根拠として盛に東方に経綸を行ひたる時機なりしが為めなり。米国ギルレットの「共和政治」が明治六年、中村正直に依りて訳せられ、同アルデンの米国政治略論が同年錦織精之進に依りて訳せられ、合衆国憲法が林正朋に依りて訳せられ、七年にはフランシス.ウエーランドの修身論が阿部泰蔵に依りて、同ウォードウエルの修身論が尾見季吉に依りて訳せられ八年には英人ヱモスの英国政治概論が安川繁成に依りて、ミルの代議政体が永峯秀樹に依りて訳せられ九年には英国ペンサムの民法論綱が何礼之に依りて訳せられ、其他福沢諭吉が蘭学より出でて英学に入り、其功利主義を携げて文明論之概略以下幾多の通俗的著書を公にし盛に実用学を鼓吹したるも此時代なり、斯く内には大政維新の余勢を以て専ら旧習一洗の風潮を作り、外は英米の
実用功利主義一世を風靡し、人々の思想只管新を追ふ時代に当りて我国固有文明の精髄ともいふべき國體は全く棄てゝ顧みられざらしかと云ふに決して然らず。
(王政復古の原動力)
 (維新の政治と国学者)
  抑も王政復古の原動力は復古国学派の勃興が其主なるものにして、維新の政治は云へば、我國體の本領に反りたるものと称すべく、平田派の国学者、例へば篤胤の門人矢野玄造、同大国隆正の門人福羽文三郎を始めとして平田鉄胤、六人部是香等同沢の人々にして比較的重要の地位に立ちたるもの尠からず。一方明治天皇亦御敬神の念極めて厚く、従て新政に於て、我國體観念の中核ともいふべき神祇を重じたる事近古以降殆ど其比を見ず、新政の始め天皇は政綱五条を天神地祇に誓はせ給ひ、又太政官七科の中に神祇科あり、次で神祇事務局となり、二年七月には神祇官を置きて太政官の上に斑し以て祇神尊崇の実を挙ぐ、此間神社の荒廃したるを

208

 

 修め、細事の絶えたるを復興し、又新に神杜の祀られたるもの極めて多し.
 之よ阜さきこ年五月には皇遊興隆に就きて五等官以上及び親王公卿諸侯等に
 御下問あみ。日く、
   中世以降人心倫薄、外数乙れに乗じ、皇道の陵東経に近時の甚きに至る、天運循
  環今日維新の時ほ及べり、然れども漑綱未だ侯張せず、治数未だ決拾ならず、是皇
 造の昭々ならざるに由と乙ろと御苦慮被レ馬鹿、今度祭政一致、天鹿以本国有之皇
  造復興被レ免レ牢億兆の蒼生報本反始の義を重じ、敢て外誘に塵惑せられずガ実一
  定治数決治候様被レ魚レ進度思食候。
 と表ハで十月には宣教使を置き翌三年正月健神の大道を宣揚するの勅語は焼凝せ
 られた鼻。 日く、
   険恭健、天神天租宰極垂レ統、列皇相承墟d之述レ之、祭政一致億兆同心、治数明主丁上り風
  俗筆手下り而中世以降時有汚隆−遣有二顧晦‥総数之不レ治也久尭、今也天運循環官度推
  新、軍明二払数】以軍揚健神之大道上也、因新命二宣教使由布二数天下汝群臣衆庶其憶L斯買
 と虚神の大温を明にして敬神崇祖の念を盛ほす頂は我国腔を凝揮するに外なら
 ず。此時に留らて矢野玄造三偉大意を著はして我囲他の基くと乙ろを遽ふ。貰
大要に云ふ、壷瀾欄M点礪題1憎畑盛凋憎眉淵濁欄1い頭ヨ凋瀾……嘗頭巾頭エ雲雲当……、〔ペ…
  我が魂神を裁たるは我形憶なれば、先づ我形憶を愛しみ、又形憶の本質を温ね
 て其本主たる魂神々保養し、又其因らで出づる本線む三尋ねて・上は皇祖天神現つ
 御神ほ能々心カを毒して仕へ奉り、父母に孝敬を致し、近き兄弟妻子よら近親疎
 族ほ及ぽし、且其朋友に及びて−さて郷寒よ絹】園、又一天下と粕延て親愛すべき
 道理にて、それ即て皇祖天神にも天神地祇にも皇上ほも父母にも平生に受け賜
 れる御恩琴を報ひ奉る所以なら・又天下ほ有る者東経日の大御徳を蒙らざる
 者なく夷津日の大御徳を蒙る程の人は天皇命の大命には更に遽払奉らでは成
 ら氾道理なら。そは磯が天皇は八幡大神の御託宣ほ天敵の閑願イょら君と臣
 の分定まら氾と仰せられて、古人も既に説ける如く戎天皇のみは天地瀾餉てよ
 り生え氾きの天子棟ぞと申し奉る如く・大抑宮の御嫡統に虚し・て、御代を御嗣遊
 ばすL、直ほ大神宮の御子と仰ぎ奉る御事なるが故に、豊実廃車とも天神御子命
 とも申奉らて近く申さば大神宮の甚御寵愛遊ばす具貨の御子様と申すほどの
 事なみ.さて天下の萬民は轟く大神宮の御物にて、御代々の天皇はその萬民を
 大神宮の御手代として治め賜へば、是を祭ら事と申すも0 止は皇祖天神・又地祓

207   甘明治時代第一期
                                                                            ′
             (明治初年よら入、九年に至る)

  徳川時代に於て西洋の文化と云へば云ふまでもなく和蘭の門を通過したるも
 のにして総て洋準は主として和蘭学なら、稀ほ狗逸、英図の一審の翻謬又は重謬せら
 れたるものあらと雄も殆どいふに足らず、然るに北米合衆餞のカにょらて我邦は
 開園の遂に向へるのみならず、爾後合衆固の我邦に封するや恰も新附の門弟子に
 於けるが如く、引き続き誘導町歩を執らたら、従て明治維新の前後よら其先進国と
 して英文化を仰ぐ所は主として北米合衆圃及び英陶慣らき、之れ英固は水団と同
 文なると」は常時東洋に於ける和蘭の勢カを一蹴し、印度を根墟として盛に東方
 に経給を行ひたる時機ならしが食めなら。米国ギルレ ソトの「共和政治Lが明治六
 年、中村正直に依らて謬せられ、同アルデンの米国政治略論が同年朝織精之進に依
 らて謬せられ、合衆固憲法が林正朋に依ろて謬せられ、七年にはフラ ンシス.クエー
 ランドの修身論が阿部泰蕨に依らて、同ウォードウニルの修身論が尾見季音に依
乱那那
 らて澤せられご八年には英人ヱ モ、スの英図政治概論が安川繁成に依らて∵、、ルの代
 議政憶が永峯秀樹に依らて謬せられ九年には英国ペ ンザ ムの民法論綱が何砲之
 ほ依らて謬せられ、其他編棒詠音が蘭聾よら出でて英撃に入ら、其功利主義を携げ
 て文明論之概略以下幾多の通俗的著凄を公にし盛に費用章を鼓吹したるも此時
 代なら、斯く内ほは大政維新の飴勢を以て専ら薗習一洗の風潮を作ら、外は英米の
 賓用功利主義一世を風靡し、人々の思想只管新む追ふ時代ほ常らて我・図固有文明
 の精髄ともいふべき図憶は全く棄てゝ顧みられざらしかと云ふに決して然らず.
  抑も王政復古の原動力は後台岡畢派の勃興が其主なるものにして、維新・の政治
 は云へ接我固捜の本領に反らたるものと稀すべく、卒用派の覿章者痢へば篤胤の
 門人矢野玄造、同大園隆正の門人編御文三郎む始めとして平田銭胤、六人部是香等
 岡沢の人々にして比較的宴要の地位にふ几ちたるもの砂からず。一方明治天皇亦
 御敬神の念極めて厚く、従て新政に於で、我固偉観念の中核ともいふべき紳祓を重
 じたる事近古以降殆ど其此を見ず、新政の始め天皇は政綱五條む天紳地誠に誓は
・せ給払、叉太政官七科の中に紳祓科あら、次で紳祀事務局となら、二年七月には紳祓
 官む置きて太政官の上に斑し以て成紳尊崇の資を畢ぐ、此間紳敢の荒厳したるむ

208

修め、細事の絶えたるを復興し、又新に紳杜の祀られたるもの極めて多し.
 之よ阜さきこ年五月には皇遊興隆に就きて五等官以上及び親王公卿諸侯等に
御下問あみ。日く、
  中世以降人心倫薄、外数乙れに乗じ、皇造の陵東経に近時の甚きに至る、天運循
 環今日維新の時ほ及べら、然れども漑綱未だ侯張せず、治数未だ決拾ならず、是皇
 造の昭々ならざるに由と乙ろと御苦慮被レ馬鹿、今度祭政一致、天鹿以本国有之皇
 造復興被レ免レ牢億兆の蒼生報本反始の義を重じ、敢て外誘に塵惑せられずガ賓一
 定治数決治候様被レ魚レ進度思食候。
と表ハで十月には宣教使を置き翌三年正月健紳の大道を宣揚するの勅語は焼凝せ
られた鼻。 日く、
  険恭健、天神天租宰極垂レ統、列皇相承墟d之述レ之、祭政一致億兆同心、治数明主丁上り風
 俗筆手下り而中世以降時有汚隆−遣有二顧晦‥総数之不レ治也久尭、今也天運循環官度推
 新、軍明二払数】以軍揚健紳之大道上也、因新命二宣教使由布二数天下汝群臣衆庶其憶L斯買
と虚紳の大温を明にして敬紳崇租の念を盛ほす頂は我国腔を凝揮するに外なら
ず。此時に留らて矢野玄造三偉大意を著はして我囲他の基くと乙ろを遽ふ。甚




大要に云ふ、壷瀾欄M点礪題1憎畑盛凋憎眉淵濁欄1い頭ヨ凋瀾……嘗頭巾頭エ雲雲当……、〔ペ…
  我が魂紳を裁たるは我形憶なれば、先づ我形憶を愛しみ、又形憶の本質を温ね
 て其本主たる魂紳々保養し、又其因らで出づる本線む三尋ねて・上は皇租天紳現つ
 御紳ほ能々心カを毒して仕へ奉ら、父母に孝敬を致し、近き兄弟妻子よら近親疎
 族ほ及ぽし、且其朋友に及びて−さて郷寒よ絹】園、又一天下と粕延て親愛すべき
 道理にて、それ即て皇租天紳にも天神地紙にも皇上ほも父母にも平生に受け賜
 れる御恩琴を報ひ奉る所以なら・又天下ほ有る者東経日の大御徳を蒙らざる
 者なく夷津日の大御徳を蒙る程の人は天皇命の大命には更に遽払奉らでは成
 ら氾道理なら。そは磯が天皇は入幡大紳の御託宣ほ天敵の閑願イょら君と臣
 の分定まら氾と仰せられて、古人も既に説ける如く戎天皇のみは天地瀾餉てよ
 り生え氾きの天子棟ぞと申し奉る如く・大抑宮の御嫡統に虚し・て、御代を御嗣遊
 ばすL、直ほ大紳宮の御子と仰ぎ奉る御事なるが故に、豊実廃車とも天神御子命
 とも申奉らて近く申さば大紳宮の甚御寵愛遊ばす具貨の御子様と申すほどの
 事なみ.さて天下の萬民は轟く大紳宮の御物にて、御代々の天皇はその萬民を
 大紳宮の御手代として治め賜へば、是を祭ら事と申すも0 止は皇租天神・又地祓

209

 等に仕へ奉ら賜ひ天下萬民の平安無事を所構し給払、叉下むよくまつろへ治め
 賜ふは即ぢ皇租天紳に仕へ奉る事となみ、天神地舐を祭るは即ち萬民をよく憐
 み恵み賜ふ所以にて祭政一致といふ大道は此に立つなら。
と・即ち紳舐を崇び、皇上を奉戴するは我国の大道にしてやがて我図膿も之に依つ
でこ且つ所以を論ぜるなら・五年に蜃布せられたる三條数憲なるものは箕に此論
に範らたるものにして・今其発布の事情を考ふるに、明治四年入月に至ら紳祓官を
改めて紳祓省とせられ、五年三月叉紳祓省の廃止と共に宣教位も廃せられ、宣教に
閲する事は敦部省に属する事となら、四月二十五日紳官簡侶合併の教導職置かれ
 て宣教の任に骨る、之よらさき偶数各沢連署して、神官と合同し、以て教導の任に常
 らん事を請払しかば、之む漉して、簡侶むも紳官と共に教導職に補任する事となれ
 るな` 斯く神官滑侶合同にて宣教するに於ては、其数旨の標準む樹て、墟る所
 む定めざる可らず、即ち玄遣の三條大意に基きて所謂三條故意は定められたるも
 のにして.蓋し其間、玄造以下皇聾沢の人々之が議に輿れる事はいふまでもなかる
 べし.三條は次の如し.
  第一條敬紳愛国の旨を捜すべき事、




  第二條天地人造を明にすべき事、
 第三條皇上を奉戴し朝旨を遵守すべき事、
悉く我国憶の旨に依壊せざるなし.
 此に於て此故意宣侍の食めほ書を著せる開聾者一二に止らず、近衛忠易の教義
綱領、府中租庸の三條演義、岡本経春の三則示蒙、鴻春侃の三條要論破国富南の三偉
大意、堀丘宗奥の三條叢詮等之なら.何れも為政壷三條を義解し敷街して固膣の
基本と紳祓との関係離るべからざるを説きたるものなら.此際、造貞道等の語は
多く神道といふ意味と近似して用ゐられ、鈎憶といふ事も此紳造の行はるゝ有様
む指したるものにして紳代の状態を述べたるもの多し.明治四年三月春川持家
の著したる造の莱は紳代の偉詮を略説し忘年六月ほ池田瑞英の公にせる量感論
には、皇遣とは外固に慣らざる皇図の神道にして、天皇親ら紳ほ事へ給ふを第一と
し虚て世を治むる業を施し給ふ整式ふと論じ・七年に藤原敵陰の著はせる皇造唯
一論には、
  天紳世界を修め給以て高天原は天照大御紳しろしめし、大御紳の御心1ほて華

 原瑞穂圃を皇孫ほ授け賜へら.古事記に「科顔日子番能邁々蛮命鹿豊輩原水穂

20a

 囲者汝野知周言依瀾、故轡命以可夷降ことあみ.日本書紀に「葦原千五官秋之瑞
.穂図、虜子我可呈之地也、宜爾皇藤就冶焉▼衛兵意祀之隆常襲天革無窮上者奥」と見え
 て、図の大本五倫の基根、大‥造之に依て立つ.賓に萬竺系高御座の動かざる潮以、
 民庶轟く皇上の他.に尊敬す可き物を求むる事なく、紳祀叉種々の御薗有らて萬
 類を主宰座ませど天紳の依し賜ふ史上に座せぜ官事皇上の御免ならざるは無
   し.

 と遇べ、亦耶蘇数等を信ず可らざる旨む設けら。
 図健に就きては杓中知邦の建圃之性格記ハ七年)太田秀敬の固憶訓蒙ハ同上)加藤照
 の皇固憶歌轟ハ八年)字喜多小十郎の図憶夜話ハ同上)石村貞一の図絶大意ハ同上)等あら.
 皆紳代の有椋む述べ、紳凝を敷街したるものにしてほゞ同軌に出づ、今代表的ほ字
 音多小十郎の固捜夜話の大要を記さん、
  富岡の開催は健界萬駒に比類なき鱗鰹なら、其理由、ど魂かんに、紳世の太古よ
 ら日の御徳を似て閑々治め給ふ乙と連綿として今上に至る、日の御徳とは大の
 埋矛の事にして之を表はすは即ち三種の紳器なら・鋸は針の明なるを表し・剣は
 日の物せ椅すに普へ、玉虹日の固やが故如何なる所にも曲ら入るに普ふ.故に
        巨h打巨巨レLL巨「リードhfr L.−a−トト巨n、r.¥こ.′.         ル



 神代よら歴代の天皇三種の神器を称賛として皇位の緻とし給ひ、蕗民を撫育し
 瀞ふ事偏頗なく、清く直なる畢鋸の如く、囲を境香し萬民を因むる者あれば剣を
 以て退治し、叉玉の如何なる、朗へも曲ら入るといふは、日め固くして其光輝少し
 の透間あれば苧絹ざる乙となきが如ノ\席民に仁慈を施行し給ふむ二言ふ・故に
 我紳固は紳世よ心歴代の天皇、日の徳を以て固を治め給ふ乙と蕗世不易の図牒
 な→。我図を紳圃と稀するは諾カニ紳の時までは諸図の人民を子として数へ
 導き給以有ら上下の別はあれども咲と天子の位、萬民の格式と細分れざるが故
 ほ、天子の宴を祭らて夷紳と云払、臣下萬民の宴を祭らて地蔵といふ如き差別は
 定らず卜紳代食に天地相去る乙と未だ慧らずとあるは此謂にし芸は天言
 ら、地は臣下萬民度ら、席も親子の祀の如く相去る事速からざる整式ふな寸云々・
と、畢意図鰹上は皇駒の造即ち紳造の謂なる事を知るべし0 皇固鰹歌轟の如きも
亦図の成ら立ちを歌へるものにて神代切線詮及び諸紳凍の故賓等を五五諷を以
て述べカサ 其他ほゞ同巧なら、然eに此時代に現はれたるものとしで二異彩を
放てるは加藤弘之の明治七年に公ほせる開腹新論なら、常時漸く我邦に破梱せん
とせる俳駒民権平等読に毎払泰凍の保守的固腔思想に反対し、藤澤諭吉が「蜃閏の

20b

 すゝめ」に「天は人の上に人む造らず、人の下に人を造らず」と論じたると同一思想に
 基き一啓激趨なる論調を以て、拘畢者の固憶観む批評したるものにして、其論旨の
 極端なる、是迄一般に我開腹を以て茶園に対する誇となし凍れる我周民に取らて
 は青天の霹靂と云ふべきものならき.然るに幾も無くして此書・ど紹版しイ蕗び
 著者は同一意見を凝表する事なかみきハ此香は十五年に至り、更に曾命を比て閤頚禁止せら
 れたり)曹に固憶新論む徹回したるのみにあらず、爾後、加藤弘之は板垣退助等の図
 曾開設論に反対したるを初として、所謂天賦人権詮に極力反対したるが如き−又後
 年基督致を攻撃したるが如き、固憶新論の著者とは全然別人在るかの戚あみ、其事
 は次期に入らて之を述べん.
  加藤弘之の図憶新論はあまらに奇数に趨らたる結果、世の容る〜朗とならぎら
                                   オ
 しと雄も、此七、入年頃に於ては其他一般の思潮も自ら次期自由民権読破硝時代の
 先騒牢なせる事は寧ふべからず、然れども此時代に於ても又自由民権詮に封†る
 反抗的思想又は反抗的機運あ多しは看過すべからず、六年十月凝布せられたる新
 聞紙條目第★條吋
  由膿む誹し同律む蒸し及び外港を主張賃詮して周法町肪音を生ぜしむるを




 禁デ.
とあるは官権が民論に反抗したるものなれば暫く論外とするも、国際新論の論鋒
む飲めたる加藤弘之及西周、森有意等の人々が或は囲合開設反対論或は其侍早論
を唱へたる如き、必ずしも単純なる保守思想のみにあらずして狗逸の国家主義的
見地に立ちたる人もあれど、何一種保守的色彩を轡びたる事は寧ふ可らずQ 又漢
学を修め懐古の備に富み、飽まで保守的思想を以て由由賞一派に反対したる静倹
杜あら戚中異彩む放ちた.るは西村茂樹ほょらて唱道せられたる遺徳主義にして、
那珂通高、杉事二、辻新次、大井鎌音と共ほ明治九年三月、東京修身聾合を起した.るも
の即是なら、是れ後の弘道曾の前身にして次期及び次々期ほ入らて大に活動せる
                    一
 ものなら.
 九年入月締田長民の著せる大道本義ハ十ニ・年改訂再放〕の如きは一の押遣誼を披涯
したjものなるも、中に紳組宏菜の遺蹟と皇位尊厳との鵬係を遊べて日く「華原千
・五官秋之瑞穂囲は是杏子孫王たるべき地なら、爾皇孫就て拾むべし.行け資蕨之隆
なる乙と天壊と窮らなかるべしと、叉貿鋸を手にし、之に勅し・て日く、吾鬼・此蛮鋸を
洩る乙と書を見るが如くすべし、同床夷殿、以て粛鋸と為せと、此二勅は萌世の大訓

20c

なら、賓舵の勅是皇統を垂る\なら・賓鋸の勅、是祭祀を興すな卜・皇統垂れて君臣の
分定まヶ、祭祀興れば則ち父子の倫明なみ、是よら後生子細孫敬戎怠らず、資舵を践
1み以て皇魂の食を准「、賓鋸を拝し以て祭祀の鵡む毒す、是を以て君臣の分、父子の
倫、萬年一H確乎扱けず、皇基準団として王化侯弘、衆善甘美此に由て出づしと叉同時
に田中智邦は「大日本同数之層旨」を著して観光捜パ敬の主張を述べ人格の父母を趣
らて尋泊れば観光皆紳ほあらざるなく、造化の主宰天御中主大紳に蹄せざるなし、
            ▲▼
人は遂に死すと錐も登魂は日月星辰大地と典に永遠無窮存在して浬せず滅せざ
る夜ら、社殿痢廟を設け人宴を招き、至誠異質を零して粛祭懇新するときは蜃魂之
を軟け、幽に園家を鎮護し、人事を保蕗す」と論じで我固是の速くべき朗を首唱せら.
 是等在凍の見地ほ立ちて図膿む宣明せんとしたる二三の開聾者、紳道家の外、新
Lき見解ほ擦る囲鰹論は殆ど見る能はざらき。

   許セ治時代第二期
            (明治入、九年よら十入、九年に至る)





 征韓論の事あらて廟堂二流に分れ、共一は野に下らて以水朝野判然として相対
 す、共野にあるものゝ内、江藤、西郷−の如き武井者流は次々に滅びて、板垣週助の率ゐ
 る巾P由真一泥の人々を始めとして在野の政客、一に言論を以て政府ほ対抗し、固曾
開設む主張し、専ら自由民権を高唱す。是れ⊥は英図の政治ほ憧憬したるものに
 して、ミルの代鶏政膣論が眈ほ明治入牢に永峯罪科にょみて獅謬せられたるを始
 めとして十年には同人の自由之理が中村正直に依らて翻謬公にせられ.十一年に
 はスペンサーの代議政憤論が鈴木義宗に依らて公にせられ、十二年にはミルの官
 民樺限論が渡凌恒音ほい依みて紹介せられたる等、英囲の政治論の輸入せられたる
もの績々と⊥て枚挙ほ退あらず、之と同時に備蘭西の北ハ和思想亦輸入せられたら、
 ルーソーの民約論は既に†年に服部億に依らて紹介せ、ケれたるが明治十年頃よ
                                                  一                          ●
み梯蘭西思想な漸く英固思想を厳するの傾向あみ.悌人ポアソナードが我政府
に増せられで立法事業に輿る傍ら子弟に数ふる朗ある外・モンテスキユーの萬法
構虚は由ほ九年頃我固に鹿介せらるゝあら、ギゾーの欧洲代議政憶史、文明史等頻
 々として脇介せられ、十五年に及びて民約論が蒋び中江兆民ほ依らて謬出せられ、
駒豪の起原意主、人民、土地等ほ鴇する最も過激なる部分を鼓吹するあ多、之等滑々

20d

 決河の勢を以て推し寄せ凍れる西欧思潮の洪流は.西洋文化に眩惑し、釆、備共和国
 の民樺の蹟大を羨望し、内には政府者が、新教輿の民論に対する自衛策上の厘迫に
簸れね桓桓吋蕾臣魅転L短音‥拝顔わ享
 詮に惑新したる観あら.自由民樺を口にせぎるものは殆ど人に伍する能はぎる
 の有様にして点間購貸せらるゝ所の些々たる食料品、物品にまで自由の名を冠し「
                                                                                  ●
 民樺の語を附すれば好評む得る状態に⊥す−、文章の如きも殆ど自由民樺思想鼓吹
 の機願たるに過ぎざる観あら、藤に秋田嬢月報敢々員鈴木喜一の輩の如く天皇の
 紳垂を犯すの言を弄するあるに至れろ.明治四、五年頃よろ漸く撞頭し凍れる諸
 新聞紙の明治十二三年頃よら益々其内容を整へ凍れるも此自由民権思想の潮発
 に轟ぜるの結果にして、叉同時に其新聞紙が其思想を宣揚する原動力となれるな
        ●
 1ハソ .
 思想界の大勢斯の如くなるが故に、我固粋の如さは精紳的方南に於ても、脾、物質
 的方由ほ於ても殆ど棄て\顧みられず、総て我固有固腔の精華を説く如きものは
 殆ど見る能はず、今是等新しき思想家の天皇と人民との閑係等を論ずるものを見
 るときは思牛に過ぐるものあら.今「二の例を奉げん、十二年」ハ月に枯木枝盛の



 著はせる民樺自由論には→官姓、商人土人、醤者惑溺、馬かた、猟師虚革乳母惑卒民に一
 様に告ぐ、各人は皆資を有す、そは由由民樺なら人民が囲の事に心を用ゐるほは此
 自由民権を得る必要あら、一団は人民の自主自由及び憲法によるにあらざれば固
 ょら護る事能はず、又民樟を張らざれば、国権を張ら・狗立を保つ能はず、専制の政治
 は図を亡ぽし圃を二男るに至る虚君も亦、君は紳にして自分は獣とにても思へるや・
 人は皆同じく天の造らたる同等の人なら、君も人虚も人なら・囲とは人民の操る所
 のものにて、決して政府ほ依らて出家たるものにあらず、君に意つて立でるものほ
 もあらず、固は全く民・に拘つて成れるものなみ、其澄壕には昔よら王なくとも民あ
れば囲は成立すれども、王あらても民なきときは固ある車なノ1叉全く民無くば王
 なるものある事なし」と云以、十三年山本憲の燦慨憂国論には−国家の民樺あるは猶
樹木の根底あるが如し。政府の樺を限ら志気む振ひ濁立の気象を作ら生産を治
め品行む修め意識を研き、義務を毒し、職分を守ら、以て政府の苛政む正し民権を童
顔すべし」と詮き、同年十一月に公にもられたる民樺論編ほ於て高椅矩正は「民樺は
                                                                             ●
人の精神を補ひ、飲食は人の肉憶を養ふ、肉膣、飲食を得首れば則ち柴れ、精紳虚構を
失へば、則ち衰ふ、而して民樺あれば開盛に虚樺なければ竺裳ふ戎邦には異の民樺

20e

家少し、故に開曾を設けて宜しく之を鼓舞作興すべしJと論じ、西河義武は、r民選議院
は由由.の結果、民樺の貸及なら、該院あらて後初功て甘争公明正大の極鮎に辟著し、
奴隷卑屈は不壊自由と面目を改めん専制政治は立憲政憶と壁稀すべし、然れども物
瀧本末あら、先づ人民の気力智識を養ふべしJと述べ、長岡護実は「開化の歴史は自由
の歴史にして人膚権利の政事上に進むや一団の開化も亦必ず随て進捗するもの■
ならLと論じたる等、此々とし七此類ならざるは無し.
 之等の鞄に伍して我圃膣の粋む詮くもの殆ど無くして僅にあら、西村茂樹が保
守的立働地に立ちて明治九年ご一月、東京修身寧合を創立して掴有道徳の類勢を挽
回せんと欲し、同志却珂通高、杉亨二、辻新次、大井鎌首と共に起ちたるも、勢微々とし
て振はず、其の農の活動は後明治二十年以後保守的反動思想期に入らで弘道禽と
改解せ」bれたる後に保たざる可らず.
 明治十二年六月に丹翳純一郎の著せる鯛日本民樺異論は常時町在らてはやゝ
出色のものをみ.其大要に云ふ.

   民樺は天子の人民に輿へし樺にて人民の勝手次第に有する物にあらざる夜
 卜・天子若し此樺を輿へざれば人民の生命家産とも私有物に似て箸は官有物



題といふも可なら.抑も確立密固の稀ある図は法律皆一大子の胸臆に出で、其拘
 民たる者は必ず其法ほ従ふペきなら.天子若し此樺を寄らにする儀はず、或は
 法の為に束縛せちるれば乃ち一帝固の大子たるを得ず。人民若し其天・子の狗
 卜事績の権を有するを危く思へば、共闘民たるを止めて外固の籍に編入するよ
 ら他策なし.何故に民権は大子に出ると云へば、蓋し図法一団内最上の権威あ
 る人に出で、而して民樺共闘法よら生ずればなら.一帝固にて牝成樺を占むる
 は天子一人よら外に有る頚をし、具の法と稀する者は必ず三つの要あら.第一
 ほ此最上の植を有する者令む出し、第二に人民之に服徹し、第三に若し之に反せ
 ば忽ち罰す.則ち帝図の法は天子に・出で三法立君固の法は天子滋に議院よら
 出づ.此際人民の植利を伸すは明治元年三月の五條御誓文に壕ら主張すべき
 なみ、自主月由の樺は生得の物に非ず、世人文明に赴て漂k拠り如孝樺知∴牢考.
                                                            ′11・■1′−−!−
 へ出すに係袖ば座禅や囲おk七之準備こ塾すれは難し宅
1・〜11之患dk臥一の思想を公にしたるは加藤弘之在ら・そは後段に述ふべし・
 十三年ほ著はされたる紳邑忠避打働愛開閉答も亦百目的なる民権論に反対せ
るものほして囲憶とは囲の立て方なら、固鰹は囲に依らて大に差異あみ、是れ々の

20f

土地風土に依らて自ら定まれるもの頂ら夷に共和政治の行はれずして倉民同治
が行はれ壷水利加合衆固ほは君民同治が行はれずして、典和政治の行はる\が如
し.自由とは固家の法制を守ら.一身の権利を按張するを云ふ」、とは其大意なら。
同年外山正一の民樺弊惑、亦極瑞なる民樺論の防止せ目的として著は苧れたるも
のにして英固、併固、水図等の意法藤生の由求む述べ、すべ†極端の歴制が却て反動
として民権自由論を誘致するものなるを論じ、我為政家も大に之に鑑るべきを設
けぁノ.
 愛に明治十四、五年の交は、此期即ち民樺思想旺盛の時代に於て自ら一時期を形
れるものにして、従凍の百目的欧化主義に対してやゝ反省の色を聯び凍れるを怒
むべく、第三期保守思想期に入る階梯をな.せらとも見るべし.即ち由由民権思想
敢て衰へたらと云ふほあらざるも亦是迄の暴遊的の慨なく、共同に介在する囲粋
思想の漸く濃厚なるを見るなら.是れ一は是道民樺論家の一大療語となら居た
る民選稀院開設も十四年十月、詔勅を以て衆滝二十三年を期して賓行すべき旨公
布せられたれば、自然其気勢を殺がれたる戚あら.或は其期を以て長きに失すと
夜し急遽算現論を唱ふるものdも少からざ阜きと錐も、大隠に於て之を是恕したる「
                                                               _.臣ト■♭ピ,】ぎ巨 し.1.転「−′ぎトトEゝtrh材已.Fr、h.こ、メ. .トn..:














−Lld〓1HjJ
[ が故に、其突撃の目榛・を失へる有様となみし夜阜.其と共に幾分国民の自覚する
所あらて、自ら固憶を省るもの出づるに至れる鮎もあるは云ふまでも無し.
 今之等の例を畢げんに、十四年十月千家食痛が著せる大道要義は出書数曾の数
旨を説けるものなるが、項目二十三章の中、天壊無窮の紳勅む奉戴して固憶の尊厳
む群ふべき旨の一條あみ.之に就きて述べて日ふ、「皇統の萬世一系連破たる事は
皇租天神の期すると乙ろ、天壊、無窮の紳勅は皇基の因て立つ所、図捜の因て定まる
所の根墟なみヵ 高量産蜃大紳の幽寂を区別し、主宰を分任し給ふは、斯民を愛養す
るにて.皇基を萬世不易に定めた▼るは斯民の心を一にし、穎る所を確定して其保護
に安ずる事萬世一日の如くならしむる紳慮なゎ.故に銅勅を奉戴して益々皇基
の永昌を補佐し、図膣を確守して益其光輝を表すべきは国民の義務にして、叉敬神
 の主眼なら」と、同時公にせられたる佐藤茂一の日本憲法論纂には第三早に密室に
就きて論じて日く、「皇統は紳種なら、我日本国の砕位は天照大御紳の御子孫のみ天
位を践むペき軍是れ我建固の憶に於て最も貴重すべき第一義な` 此葦原の中
開は我御子の朗知固と言依し賜へる固なら、萬世一系の皇統む天壊と共に不窮に
綾承し奉らん事臣子の本分なら」と述べ、第三章政府の條に於て「天皇は至蜜にして

210

紳重なら、法む以て問ふべきにあらヂ、蕗機の政治に鋼し、図民に対して大臣其責に
任ずべきものならしと設けみ.殆ど現今に於ける固絶後と符合せるを見るなら.
 此年十二畑文部卿福岡拳悌は府械戒撃官を召集して教育の方針を訓示す、共旨
 趣に云ふ、

   教員たるものは唯修身教科書の意む知るを以て足.れらとせず、必ず言行端正
 にして其仁愛すべく、其威敬すべく、且つ世故に老練し、能く渦童を統理するの人
 ならざる可らず.ヨれば教員には碩撃醇備にして徳望あるものを選用し、生徒
                                    0 0 0 0 0 0 0 つ 0 0 0 0 0 0 0 J O・〇 〇
 むして易々恭敬整粛ならしむべく、修身を教授するほは必ず皇図固有の道徳数
    0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
  に基きて儒教の主義に依らん乙とを要す。Lと.
 儒教は明治時代に入心て金団主義の重ぜられたると、薗習一洗の風潮の膀礪、泰
西思想の隆盛とにょら、自ら沈冷するを免れざらき、僅ほ宏揺安井息軒が群妄を著
して基督数を攻撃したる或は西村茂樹等が東京修身聾合を創立して揺教主義の
道徳を鼓舞したる等一、二の見るべきものあらし外殆ど云ふに足らざる有楼なろ
しと錐も.教官年凍日本.の道徳を支濁したる思想は然く容易に根絶せらるべきも
 のにあらず、衝暖約の内に鶴首の資力計裏みたる事は章ふ可らず、鳥尾小蒲太が王
                     巨rrしlb訂l■l「〔r臣rLFい卜巨ん一巨F■トトトー ト.−..卜卜l臣L▼卜.









j▲dl一媚M相   席絹瑚1 月“月増周式り※H鴻プヨ 璃彰d鴇uり」              ・l旦−f ∵1
た蝕論を著はしたるが如きも其一端な与.今文部省の訓示に儒教の主義に依る事
 を合したるも共滑息を語るものに外ならず.
 翌十五年三月に、痛地顔一郎丸山作欒等政府の旨む受けて立憲督政賞を組織す
るや其綱領ほ、「内は詫世不易の図腔を保持し、公衆の鹿瀬権利を筆団ならしめ外は
固権を培張し、各図に対しては光螢を保たん乙とを真空芯々とあむ、又其第三條ほ▼
「我皇固の主権は盤天子の現鼻紙撹し給ふ朗たる乙と勿論夜空茶々と云へる如き、
普へ昔時の自由民樺を標梼する諸政寮が頻らほ固曾開設に対する促進運動む起
すほ対して、政府が之に対抗せしむる免めに組織せられたる御用纂の云ふ所在ら
とは云へ、倍音時一部人心の蹄胸として鬼るべき屠ら.
 されば徹頭徹尾功利主義を以て終始したる編棒諭吉の如きも時勢に推されて
か、十五年四月.畑違払ともいふべき辟宴論を.公瀧するあら・其大要に云ふ0
  密室は政治社外のものなみ.塘室は高槻を統ふるものにして萬磯に常るも
 のにあらず、我碇笠は日本人民の精銅む牧増するの中心なら・此鮎に於て我軒
 壷は周囲のそれほ冠絶す、之れ周曾を開aて櫛室む政治外に讃くも密室の茸要
 なる所以なみ.泉南曾がこ振以上に分九て寧ふ時に英一に箪隊を委ね苧bん

211

 には由々しき革なれ、此時雀除及び和戦の樺密室にあるは最も必要なら.
   保守論者の云ふ所は異なら、固よら保守論者も立憲政憶、図曾開設に就ては異
                                          ●
 論なし、其主権論を見れば維新前の台勤王の臭気む帯び、要は神代の事典持出し、
 我密室は開聞の初に放て斯の如く在らしが故に今日に在て斯の如し、今後も亦
 斯の如くなるべしとて、唯歴史上の奮事のみ稀揚し、今の日本固民が帝室を奉戴
 するは恰も唯其薔思に報ずるの義務の如くに披露するのみにして、其密室が今
 日に在て人心牧撹の中心となら以て融合の安寧む維持するの理由を知らず。
 畢覚保守論考皇聾者流の革士は其心術忠茸なるも、経世の理ほ暗きが危めに忠
 を毒さんと欲して之を轟すの法を知らざるなら.
と云ひ、叉密室を以て準術の特別保護者たらしむ.べき論等あら、何所までも功利主
                                     ● ●
義の立場を離れず、用、無用を根墟として皇室を論じ煎るはよくその本家の面目を
 忘れざるものともいふペきか.
 次で六月瀧雪み虐木背二郎亦「主権論Jを公にす.日く、
  人類が其事頑を安金に保持するには不承の樺カあらて之を統Tし、以1民人
.の離散む防ぎ、姦を諌し、邪を温め、外患む挿ひ、内憂を醤し、天輿の幸福計仝くする
                                     lPa.‖Hトド声PF邑nレトh..rn巨aり沌r臣レト「hhEIF少巨一臣荻Pレ臣」−トト
llPE.卜..L                                         こ.1【r巨..F.Ell1.El


絹州」T.頭」碩ヨ一 当巧勺 ・つ穎8つq 3q州づ八丁¢ノ叫”笥J沌、″−1JI。バ一‥増。1′「潔∴_勺憎”竜一ぷ
 者を要す−而して之計なし得るものは敢曾にあらて至強至食の樺力在らざる可
  らず、之を主樺とい.ふ、太古の民は自由なら幸福なれと静ヂるものあるも之れ詩
  人の妄想のみ.−
   詳言すれば主権とは一団為政の大横にして、一、全図普及、二、恒久、氷績三、単純唯
  「四、最高政樺壷、所在確箕なる事を要す、然るときは主権のカは分ち行ふむ得る
  も主権の憶は分つ可らざるなみ、主権を有するものを主樺者といふ、而して、一、閑
  人の多数に服徹せらるゝ事、ニ」服従を受tるは一人又は数人の確定したるもの
 むる乙と三虚従を受く、る一人又は故人の集合憶は他の確定したる一人又は故
 人ほ服従せざる乙と、四、主樺者は一団に唯一なる事の四性質を具備するむ要す.
   憲法は主樺者に.対しては竃も法律の効力あるものにあらヂ.
   立寒政絶とは.多数なる異性質の人ほ主権の存するものにして英、燭、等に行は.
  るゝ現時の政憶之なみ.而して其主権は畢に国王に存するものに非ず.亦狗
                                                                       一r
 多食族院若くは平民院払存するものに非ヂ.国王上院議員及び下院議員、選挙
  者なる三異性質の階級人む以て組織せる一大集合憶に存するものとす.
  ′ルーツーが主張する主樺論の救援は牡曾起原艮約詮にあ均と錐も其詮の如
                                                                                                                                                                                                                                                                 ●

212

 きは之を各国の事跡ほ照すも.亦之を臆剖となすも畢竜保蒋せらるべきものに
  あらざるなら.

 と、其論ずる朗、我図膣と抵触するものあらと錐も亦彿蘭西流民樺論に対する反抗
 の思想に外ならず、同じく卜彿南西流の所謂天賦人樺詮に反対しで女主特権詮を稀
 へ、受ほ瑞夜ペも論亀一場の紛諌を成したるものは加藤弘之なら.
  加藤弘之が前代固鰻新論の論調七翻して、敢然として保守沃の陣頭に立ちたる
 事は欧化述ペたみ.共動機ほ至らては世論区々とtて一定せず†或は彼が進化論
を知るに及びて、前詮の非を知むたる怒らと見る人もあれど.其論ずる所を仔細蛇
 瀞すれば寧ろ其立脚鮎を扶けんが翁めに進化論を應用せらと見るペきに似た多.
 濁逸流の図家主義にょ多て支配せられたる思想在らと見るむ常れらとすべきか、
 或は又彼が私簡約動機を推定して其性格論にまで触るゝ論者鳥あらと維.も膚人
 愛には之む論ずるの要なt.
 銅も知慮が常時左性々の勢む示したる自由平等.天賦人権詮に対して敢然として
 反射り意見を教表せるは†五年九月にして、此時公托せる「人権新設」即ち之怠ら
 其大審に日ふ、
臣        ・臣lll      臣r賢一hr一.監賢.トい卜L♭‥Er.,rゝし..ど一.LF芦.rト痔 :≡ こ.rこ■こ亡≡F r..iナL几ゝ.巨rl巨†i卜Ll−.巨



   ルーソーは天性使慨激烈にして.偶、彿国王樺棲盛の世に出で.其専制摩抑に遇
 て憤漆の備に堪へず、食めに着茸ほ事理を研究する能はず、蕗に己れが妄想に誤
 られて彼著名なる民約論七著し盲人は皆生れをがらにして自由増僑の樺利と
 平等均一なる廃刊を有する人民なるが、各其志望意思を以て自在ほ吐露し粕協
 議して始めて融合を設け如図を建てたるほ出づるものなれば吾輩人膚たるも
 のは各終始無限無量の樺利を保有すべき事骨然なるに、後世に及び君主若くは
 貴族簡碇等起ら、揖樺を以て妄ほ此至尊至食なる人民牢燈抑し、其自由自治を奪
 払衰平等均一を香し虚に今日の惨状を現ずるに至らたるものなれば盲難至簿
 至食なる人民は今日に方ら首方心カを毒して彼檜惑すべき君主若くは貴族簡
 徒等を願逐し壷公至正なる共和政健を設け以て吾輩人民が天賦の権利を快復
  するの道を求めざる可らずといふほあら.
  然れども之れ妄想主義なら.金は進化主義を以て天賦人権主義を厳牽せん
  と欲す。            ●
  要は萬物に嶽する優勝劣敗の理法が人間ほも存するもの托して・此押にょ町
 人圃に優d劣ある以上、自由自治平等均一の樺利を固有せらとする天賦人樺主義

213

  は誤れら.
   即ち樟利は∴人民が邦組を形成し始め、其形成が漸々教逢すみに徒ひ之と平行
  しで教達したるものなら.詳言すれば、始め邦図を形成せざる間は只崩肉強食
 にして権利なるものを有するもの忽きも、其最優勝者の下に図絵して邦家を形
 くるほ後払、其優者が保護する事にょらて部下の各人は亙北柏犯されざるの樺
 利を生ずるに至るなら.然れば優者の権力渇くしすし邦家の図絵固くなる程部
 下各々の享有する榛利も安全となるなら、然らば権利は天賦に、あらずして鞠結
  せる邦家の最優者の保護にょらて生ぜるものなら・即ち優勝劣敗の理にょみて
.最優の専制者む生じ、此に始めて各人の権利を生じたるなら、而して一旦受けた
  る樺利を各々粕犯さ↑らん乙とに努力するにあらされば其権利は進歩するも
 のほあらず、即ち権利は競季にょらて進歩せるものなら.而して政府貴族等が
 其樺力む揖にして人民の樺利を歴抑するを得るも亦人民が政府貴族等の麿抑
 を防過して着資に自己の権利の進歩を謀るを得るも虐に是れ優勝劣敗に外な
  らずと雄も、甲は敢曾の不利不孝を生ずるが故に慈しく▼乙は敢曾の利益率頑を
  残すが故に其健良正なら、さればとて′人民もし妄に政府貴族等の凝力権利を凌




 辱して敢て之を観るの心なく、只管自己の権利の態歩をのみ是れ謀るに至らて
  は是れ賓に敢曾を尊する朗の邪悪なる優勝劣敗なら.
   人力を以て樺利の進歩を謀るほ就ては.経線急劇なる手段は之を避けざる.可
 らず.参政権判の好きに至らては、其許輿の方法僅に急激なるも忽ち敢曾の盛
 衰興亡ほ掬すみ事甚大なれば其注意最絹周密鄭重なるを要す、須く先づ制限遊
 歩法を用ゐ漸次ほ制限の度を低減せざる可らず.
                                  ●
 猶優勝劣敗の文字を誤解して累を我皇室に及ぼさゞら人事を望む.
 と、故に於て反・駁の世論諾々として起る.植木妓盛の天賦人権弊、石川正美の入植
新設駁撃新論、矢野文雄の入植新説駁論ハ報知新聞社認)虐場辰猪の領加藤弘之君人権■
 新設ハ朝野新開併戟).東京横濱毎日新開の杜詮等之なら.或は加藤の詮を罵倒し、進ん
 で其人身攻撃にまで捗れる1ものあカ.今之等の内最も琴健にして鼻面目なる為
 のを略記せん.                           \
  矢野文雄の入植新説駁論には、加藤弘之が人権新説に於て進化論の見地よら人
                    ●
間にも優劣あらて決して平等なるもの.にあらざるを述べたるほ対して、優勝劣敗
 は萬物の状態なるも、人類を範鞠とする造理樺利は自ら別物ならざる可ちヂ.然

214

れば人数には優者強者摩制む行ふ権利あみと云ふ可らずと論じ、叉加藤が人衆は
優勝劣敗のものなるに依ら、其強者の我意を刺せんと欲せば其中ほ⊥の専制の大
樺カを掌捜せる治者即最大優者を定め、其保護に依て敗者の犯さるゝを防がぎる
可らヂと云ふに封L、之れ存在と賓行とを混同せるものならと論じ、次に権利を求
むる後々とせょと云ふは固曾侍早論に蹄するものにして、其澄佐に英図が印度、濠
洲等に本図と同一の法律む布かざるむ以てせふも此論は骨らず、自由権利を一時
ほ人民に輿ふるは却七人民を刺せずと云ふ、されど我人民と印度の民とは同一に−
あらず、又渓洲譜図は、資は自治を輿へられ居るならと論じ、叉東洋の文明の度が未
だ西洋と同tく人民ほ自由を輿ふる程進み居らずといふに対して、物理の畢は東
                                       」†
洋は後れ居為も.持紳上の畢は後れ居らずと論じたるものなら.
 次川東京横濱毎日新開の私設大要に云ふ、
  予輩も亦進化の理を信ずるものにして、人類の性質力量等に千差萬別あるを
 否定するものにあらず、然れども之も備態の差異にして権利の差異にあらず.
 もし央れ睾頑を追及し、由由に券働し、良家の獲取せる物品を由由に使用する如
 さ此等の自由は人之を天性に毎次るもの托しで人力む嘆ちて生でたるほあら




 ず、要は動砥物湛化町傭態を取て人類一切の僑態を現せんとする加藤氏の所詮
 は服する能はざるなら.
  人類には戚悸あら、故ほ同僚相成の性あろ.之れ単純無情在る優勝劣敗の作用
 を緩和する朗以な多.
  氏は世間の民権論者を奉げて念躁過激無知無寧無謀不良の徒と目し、一網に
 打轟せんとす絹も、乙は非理の護誘なら虚二章に於て権利は敢曾の最大優者が
 賦」興せる者なみとせら、吾人此詮を否定せず、然れども之れ法律上の樺と進化論
 者の云ふ経とを混同せをもの▼なら庇二者文字同じ.くして資質全く同じからざ
 針・なら、加藤氏は更に進んで権利も叉進化の理にょらて優勝劣敗の結果を鬼る
 と論ぜら、之れ亦人希法の轟音を以て由然法の事資を否定せるに外ならず.
と、叉馬場虜猪のr漬加藤弘・之君人樺新改Lには、加藤が民心の自然に凝展し伸暢せん
とするを張七抑へんと欲するもの■ほして由Pら進化の主義を詮きながら進化の主
義を群ぜざるものならと駁撃せら.
 斯の如く、一度反平等論、階級思想を是認する議論の出づるあれば畢世之を駁撃
するの有榛なれば殆ど図砕の保護を論ずるものなく、只僅ほ鳥尾小浦太の王法論

215

三木整の皇国政教論等二三の保守論の一隅に其挙を奉るものあるに過ぎざらき.
 鳥尾小浦太の1法論は明治十大年二月に公にせらる−其空早計漢文む町ゐたる
巷なれば純然たる保守的思想なるも」儒教的思想を根底に置きて君臣伽の造を論ぜ
るもの在ら、名分、法原、図本、主義、性法、政本、事理、大権、為政、群雄の十項に分つ.名分の
項に云ふ.ハ探意)
  天地平等萬物一憶l奉だ昔て高卑物我の分あらざるなら、傭人は其間に生じ、仰
 で天となし府して地と怒し、見て色となし、開て以て馨となす、均しく是人なら.
 登に君民の別、尊卑の等あらて其名′介を異にせんや、其異なる所以のものは他無
 し、其徳を立つる為のみ、其温む修むる為めのみ、故に云ふ、名は天地のふ人章な入分
 は道徳の符節なら、蛮人之に由†生じ.王者之に由て興る.
と、又法原の章に云ふ、
  人あれば固あら、固為れば法あら、固は君民の威儀にして法は律令の正典なら、
 蓋し、君民分あ丸て其威儀を正し、律令あらて其正典む明にす、之皆遇然ほ非ざる
 なら.此に人あら同類相集ら、何気粕求め、一地ほ壕らて相生養す、之を図といふ、
 圃は糖の如し、皆共同の利益目的を以で浄む馬めに規約あら、地主騎らず、舟子怠
                                                                                                                   1 しHI‘「 .rr〉】巨



 らず、始めて自的ほ遽すべし、凶家又此の如し、君は能法たら虚は庸法たみ.所法は
 膣なら、能法は用なら、吾が法憲の大本とは君民の威儀律令の正典を明かにする
Jkり人の各其睾編を得るは単軌なる町占ず、必ず相よるべきものな入団誉Hら
                                       ′

 貴き事能はヂ、其貴き所以のものは民人之む愛するが故なら人民の其君を愛す
 るは其自ら華南を望むが故な寸故ほ囲む治むるの造は君民の威儀能←其誠を
 致すにあサ各由利を主とすれば互に相背きて固の冶は望む可らず.
と.固君自ら費き事能はず云々と云へる如きは功利詮に類似せるの嫌なきに非ず
と錐も、恐らく孟子の王道論よら凍れるものなるべ・し.即ち次期に興れる朗の皇
室尊厳論とは自ら異れるを見絹べし.然るに次の固本の章には、
  岡本は心を正しくし恵む誠にするのみ、かぺて始めて図治せる、然らずして利
 を同じべするもの朋を為j、欲を同じくするもの景を食み、朋糞此周しで其言行
 を素ら、其猛徳を捨て、徒に君民の樺利、律令の曹否を論じて治国経世の要造とす、
 邦家誤らざれば章のみ.
と、あら、似て民櫛論者に対する頂門の一針とせみ.
 第入の大穂論に云ふI     .                  よ

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  之を上托して君となし、之を下ほして民となし∨上下一致君民粕托し以て一同
 の安寧を致す、之を政権と云ふ、立法、審判、命令、任官、用兵の五あら、立法権は君民の
 然諾に出で、針利権は律令の成典に由ら、命令及任官樺は圃君の特権なら、町政樺
 を総べて.一国民人服徹して違はざらしむるは其貴賓ほ固君に在ら、故に固君は
 大樺を獲拝するの′重任なタ、大法を施行するの大官なら.
と、次で同年入月ほ公にせられたる三木整の皇国政教論は、一暦国粋の核子に観れ
たるものにして骨期に於ては最も出色のものなら・其大要ほ日ト、
  我大日本建固の憶たるや、長くも.紳人授受に基し、皇造天地と悠久、野政一致の.
 訓、古典に徹して昭々たら、抑政教の故本たる敬紳尊王を憶とし、大義を明にし、人
 心を正すを用となし、之を経とし武′を繚とするにあ身.
  我邦致は経樺を包絡し」儒備を以て補翼として高く儒悌の上に位す、何となれ
 ば則造化紳妙L用よら停へく以て天人の際を綱紀し、人倫夫婦■よら始て君臣に至
 れら、又君臣よら始て四倫を維持し、智仁勇を三器に萬して以て授受不言の数、無
                                                               ●
 拳の本となす、数の本、孝に在ら.之を重ずるに藩荘中正明潔を以てし、而して紳鬼
 に敬事し以て幽明を治し、痔誠敬ほ居み信を轟して天租を祭ら−天に配して以て

                                              け L



 大老を申ぶ、囲憶之れを以て立つ.
  頑澤氏の寧閏のすゝめに天は人の上に人を作らヂと云、言.紹だ我亀岡に放て
 以ての外の是認にしで1自然革上む軽蔑し、上下農場の別む乳増大に人心を授乳
                ヽ
 するを以て大塚襲水は一糾駁撃肝動劉を著し上之・を群威せら・
  加藤氏の固膿新論の如き狂暴の論のみ、明治五年四月二十入日数即三簡條を・
 教導職に頒布せる、共一條.に敬紳愛図の旨を捜すべき事、及第三條に史上を奉戴
 し、朝旨を遵守すべさ事に背馳すればなら。
 と論じ、吏ほすべて民権論及び圃倉促進主義に反対し、次」で績編む出してロム.
  我圃憶は常初天照皇大御紳御手に御鋸む拝して皇孫に授給へる勅は即ち圃
 憶の大基礎にして幾萬歳を経るとも襲吏なきは疑なき所在ら.
  我皇囲ほ生を票くるもの誰か紳孫在らざる者あらん、懲らば則敬紳を主とせ
 ずんばあらず、抑我国鰹たる天皇の統治するや萬古不易怒れば閑崩以凍祓譲放
 伐の事有eなし・撞くも皇統一系天壊と無窮の固なれば臣民たる者之を翼賛補
 護すべきなら.
 明治十四年十月十二日の詔勅にもあるが如く「立国の膣各貞宜しきを異ほするし

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  を以て固曾を開くも只欧洲を模擬すべけんや.




  めんとするの階上主義を以て喋々するや、我徒は決して瀾民の敢J議すベj分
  には非ずと信ず.我日本は萬図ら絶本固なら、紳典之を明かにす.
   小畢生徒をして第一固膣寧よら修身寧に徒事せしめ、又丁年以上の者へ神道
 数造職をして三條数憲の異戌の′造を講明曾得せしめ、人々忠孝廉恥の造を重ぜ
  しめば法律は設けずとも不知々々犯すものなきほ至ムん.
 と、之れ常期に於ける出色の論にして後に精練せられたる固憶論と錐も多く加ふ
 る所在きなら.されども常時の思想界は猶民権論旺盛にして斯の如き囲捜論に
 耳を傾くるもの甚だ少く、西村茂樹の東京修身聾合の如き十三年に至ら敢員僅に.
 三十二名に過ぎず、†七年四月に名を日本詩遺骨と改めて皐月一回詩遺骨叢詮を
 凝行して其薔道徳の宣樽に努めたるも多く顧みられず、具に盛況を見るに至れる
 は次期を待たざる可らざらき.       .こ