〇徳川時代後期 
 徳川時代の前年に於ては固憶論の記すべきもの未だ多からず、後年に及びては
                                           ′
儒寧に対立して固聾の勃興あり、所謂復竜思想を破壊上して連みに固輝計こ局唱す
 るあら.水戸準亦此期に入みて烈公を中心に異常の凝達をなし固憶なる語も殆
ど此に成熟し、又図章の勃興につれて儒学者上の間に支部日本の固憶に舶する論
争盛になみ其他洋学者の立場にあらて猶且つ国捜を論議するものあみ、前牛に此

203

して其論壇甚だ股盛を極めたら.
 今筏古沢団聾者の固憶論む述べんと.するに先ち、此復古固畢の気運漸く盛なら
んとする頃即ち、前期の終ら後期の始めともいふべき時ほ昏り、身儒聾者にして、猶
故の儒家者流れ徒に漢土を尊んで自固の貴ふべきを解せざるを攻撃し、殊に物門
の徒の態度せ批難せるものあら。大坂に於ける朱子聾者中井竹山即ち之なら.、
其著「非徹しの如きは寄ら粗徳の論語徴を攻撃せんが食め.に書けるものなら.就中
                                                                 ●
竹山は常時の聾者が支邦崇拝の弊に陥らて名分を乱し、皇室に対する尊眈を慢ほ
幕府ほ僑稀するを排したるなり、其、大室第一に答ふるの審に、名分の乳るペからざ
 るを論じたる後、
  蔓宗、願宗感宗、信宗などと宗を以て祷軍家を解し玉へるは何の義例に▲や」僕は
 かねて物服の徒の廟を以て稀するをあやしと思へり、尤も廟は崩廟にて三陶廟
 諸葛廟我邦にても藤公廟、菅公廟など、ひろく稀へけれども崩廟を指で云は格別
  の事なら.明のふ世已凍ほ始て天子む指て廟と栴す、今溢故につらねて廟と癖一す
  るは全く明を撃ぶなり、全く天子の稀なら.物氏の文に憲廟、貞享元年な.どあり、
 廟館を以て年故に冠するは尤も倍乳の甚しきやのな卜;今宗の字を用ひ玉



 へる、仝く廟と同じき事と見へ、廟よみ又古く熟用してなほさら慣用びがたきや
 ぅなら.宗も本は宗子宗周の宗ほて・…専ら天子の廟鍍として率故につdbねて
                                                 ●
 用ゆる事束子よら外ほかつて例夜しニ=・我邦官王一姓の謬ほて今日」統江都
 御恭頓の時に収用ゆべきに非ず.
と云へら。松平定信嘗て大阪む過み.で竹山む引見して時勢を諮諭するや−竹山避
いて宰茅危言を著して之に答ふ.共第一巻ほ「主宰の月を設けて我国法統連綿た
 るを述べ、同時に淫神、倖悌の弊をも論ぜら白く、              n
  大日本、毅凝櫨州の太古よら入官萬代の未ほ官王不易の澤は四海萬国ほ超越
 せさせ玉以たる御美章今苧どざノ1申奉るにも及ば氾御事ゆゑ姑く之せ掛で、
 其中東已凍漸にして表紙し玉払た′るは其原由て凍る朗も有れども・過牛は芦神
 侍馳の惑よら事起れ` 凡そ朝延の大曲とならたるは攣礁薦蔵の類に非るは
 解し.天災地妖兇荒痛疫、姦究好乱筆時の襲化あ1るごとに、それ新藤、それ供養な
 ど府頗の財を傾け金由を押し、妖巫滑繹む寵褒するよら外はなく−劫冥荒唐の事
 のみを頼として天下の大政要瀞は嘲も腐られ拍壌となら行しょみ、舵弊官瑞と
 なり、夫よみ以凍乙の神体窟誕の詮を以て生民の書をする事故琴するは退あら

204

 ず.委く其書む論ぜんに、南山の竹も轟き沿可し、されども千有除年深滴となら
 凍みたる事にて今更如何ともすべからぎる者多し、嘆ずるに飴ある者多L.
と、又先きに物門の徒太宰純が野道書を著はして、日本には元水道徳なるものなく、
儒教行はれて始めて道徳あり、甘州ハ澄墟には仁義忠鵡等に和訓なし、又神造なるもの
は元聖人の数の一端にして周易に観」天之神道諒川四時不レ硫、蛮人以二神遣→設レ致而天下
服奥とあるもの之なり、我邦の神道は巫祀の邪道なり、と論ぜるほ勤して鳥羽義は
元文元年r弊々遺書しを著はして之む厳し、其蛮人の固よりも我邦の図柄の却て優秀
なる所以及び神造との■絢係を論ず、大要に日く、
  我邦には遺徳上の名目なしとて道徳なきに非ず、遣は由然に備はらたれば儒
 も僻も入らざる以前よケ上下の分明かに、天下よく治まらたり、却て支那の上
 代、三代の盛世なるものも後に見れば骨資力あるものが其君主の子を追ひて自
 ら天下を奪へるものに外ならず.全然崩由強食の禽獣の敢曾なら。之に反し
 て我国の造は一度人造立てょら君臣と乙ろを襲る事なし.かくて君臣の位一
 定するが故に先租の祭永・く絶えず_氏神と稀し虚神と稀して家毎に祭む断たず▼
 是ヱそ我神造にして巫祀の郭造にあらヂ、我国柄と支那の図柄と異なる乙と斯




題 の如し、而も故に阿らて我を罵る純の如き大在る逆賊の心を有せるものなら.
と、斯の如く物門一次の外食内卑の思想は一部儒者の反対々招きたるが、同時に皇
聾者の憤起を促し、所謂後台図革勃興の一動機とな・り、遊に幕末に於ける儒学者封
闘聾者の固腔ほ崩する論季を惹起するほ至れら。固よら後台周章勃興は之を以
て主なる動機ならとはいふ可らず.−寧ろ所謂俗神造即ち全く迷信の弊に摺れる
諸派神造誼の不純を斥け、寄ら我純正の台遣を開明せんと欲するもの其勃興の原
動カならしと錐も」南、儒者の外食主義ほ射する反抗的思想が其気運を助長した
 る事は零ふ可らざるなら.
 復古固畢なるものが簡契沖、荷田春満等に始まり、賀茂眞淵▼本居宣長、中村篤胤毎
によらて大成せられたる事は今更述ぶるの要なし。復古図撃といふも契沖、春満
等は只古語の研究ほ全力・で費したるものほして所謂古道の開明に歩を進めたる
は鼻緒よら始まる.而して其園意考は貸に其古単に対する識見を纏めたるもの
 なムソ.

・即ち支那の図柄の随しきを詮き、之に対照して我邦の優雰なる鮎を示したるも
 のなら大要に、日く、

205

  支部はすべてよき人に天子の位を譲るといふに、虚の未に射の如き悪人の出
 でたるは如何に、Lきに譲るといふは初の一二代の事にや、其後も購しげなる人
√出で、君を就し、自ら帝といへば世の人骨頭む垂れて頓以仕へ▼四方の固をば夷な
 どい払て卑しめつるも、其夷てふ図よら立ちて虐図の帝となれる時は管領突き
 て咽へら.
  我固は天地の心のまゝに治め給ひて」儒の如く客なる小理屈を云はざれど、古
 ょら数多の御代御代漸費えまし給ふを、此儒の乙と渡らつる程に成らて東武の
                                                                           −
 御時大なる胤出家て夷よら奈良の宮のうちむ衣冠調掛など雅にならつゝ邪の
 心多くなみ氾.
  凡そ世の中は、鹿山荒野の在虞自ら遣の出承るが如く、乙ゝも自ら神代の造の
 虜ごみて自ら固につけたる造の費えは、患いょノd費え、まさむものをかへすJr・
 も儒の遣乙そ其国を乱すのみ→
  又我固は同姓相要らて禽獣に類したらしむ虚寧入ら凍らて改まろたらと∴云
 ふ人あるも、支那にては同姓要ら氾を理想とせるに過ぎずしで、革質は必ずしも
 理想の如く行はれず、却て生母′を犯すものさえあら【 我邦は異母妹を宴とする

【■■■■l


 もの乙aあれ、支郷の如く破倫の事は其例多からず・女支却に文字あるむ質す
 る人あれど、之れ最も支部の煩しき闘なる朗にして.印度は五十字にて五千除巷
 の経を書けみ.我邦も漢.字ゴヘ渡らざらしならば簡明なる音字の行はるべ・か
 らしにl虐の字む樽へてよら誤られて我国字は遂に凝逢せずに終れら.
  腐図は心意き閥なれば深くゝ敢えてしも表は書き桂にて終に大在る悪事して
 世を、乱せら.此図は元よ身心の直き図にて少の数をも良く守ら侍。るに、はた、天
 地の陰に行ふ串故ほ数えずして宜しきなら.
  或人此図の古に仁義祀智侶てふ乙となければさる和語も夜しとて革も購し
                                                        ●
 き乙とゝせるは未だし.、天下に此五数ある乙と四時をなすが如し、春夏秋冬の
 名なきときは四時の気候の鍵も無くなると考ふべきや.
 唐囲の畢びは其始人の心もて作れるものなれば聞くにた惟からあらて心得
 易し.我皇御固の古道は天地の随に九べ卒かにして人の心詞に言以毒し難け
 れば、後の人知ら得難し、さらとて造の絶たるにはあらず.支那にて臥姓要ら氾
 を手柄と思へるは如何なる愚昧にや、凡そ天が下は小き事はとても斯†も、世々
 天皇の樽はら給ふ乙と乙をよけれ、唐人の言の如く、産も動かね官年あらんょら

206

  は少し閑はあれど千年治まる乙そょけれ.
   次に係数にて飼果等いふも奉安かと見るに取囲の頃一人も殺さゞらしもの
  はたゞ人となみ、人を少し殺し1は旗本侍、少しく多く殺しゝは大名となり、更に
 一層多く殺しゝは一団の主となれみ.是れ何の報ぞ▼其外我開国有の武勇の心
  む鈍らしめしは備数なみ.
 とて悌数も亦我国柄に適せざる事を論ぜら.
  具抑の拳銃む冶げるもの数十名、村田春海、前田夏蔭、小山田輿清.栗田土浦等皆名
                                                    ●
 あるも、就中最も大成して出藍の柴を得たるものむ本居宣長となす.宣長一代の
 事業は盲寄託の研究にあり、其結果大成せる古事記樽には宣長の所謂「古道」観、図憶
 観、神道戟、随所に散見すと錐も、之を一に纏めたるものは英明和入年五十歳の時に
 著せる直日登一巻なゎ.今直日登にょらて其図憶に陶する意見の大要を渇rれ
 ば、
   皇大御図は掛くも可曳き神御租天照大御神の御生座る大御駒にして、大御細
  大御手に天つ璽を捧持して萬千秋の長秋に書御子のしろしめさん図ならと乙
 とよさし賜へ頂しせに」〜、天薯のむかぶすかぎみ、谷蝮のさわたるきはみ、患御


・表孫命の大御食囲とさだまらて夷下ほはあらぶる神も在く−まつろは氾人も在く・
 千萬御世の御未の御代まで天皇命はしも、大御神の御子とましくて天つ神の
 御心を大御心として、神代も今もへだてなく、神ながら安国と卒けく朗知看しけ
 る大御固になもあらければ台への大御世には造といふ言畢もさらに夜か多き0
とて、我邦が萬団ほ勝れたる朗由は天照大神の生れ給へる由なるが故にして夷津
日嗣の天地と典に動かざるは此大神の神勅に依りて夙ほ定まみたるものなれば・
幾萬代む経とも、何人と雄も大君に背くものあるなく・天皇は又此天租の心を心と
して神代の古事のまゝほ蒔事神意を卜して行払給へば直下に至るまで猶舌の如
く、此かばねむ重んじ家々の家業むうけつぎつゝ神代のまゝ朝廷に事へ奉り、特に
彼是「遣」と乙ちたく論議する必要もなからし事を論じて、我皇団の図柄の尊ぶべき
を詮き、之に此して、兵団は如何なる団ぞといふに、定まれる主もなく、邪神所を得<
常ぶるよら人心慈しく、智はし軋みかはしく、図を取れば賎奴も忽ち君と夜み▼君た
るものは臣下に奪はれじと構へ、下は上の払まを窺払軽はんと豆に仇とならつゝ
                                                                      ▼
古家固甚だ治まら難し、其治まら難き固を治めんと努め又図を奪はれじと欲する
が故に、蛮人なるもの、仁義祀譲孝悌忠信などの徳数も生ずるなみ・然らば支部の

207

蛮人、名数何の債僅かあらん蛮人の一造なるものは団を治めんが翁めに作らて却む
                            ヨチ タ
て岡を乱すなら・我皇閲ほは古へはか〜る言痛き数も無からしかど、下が下まで
胤るゝ事なく夷下は穏に治まらて天津日嗣いや遠長に樽はら衆座せら.然るに
やゝ降らて書籍といふ物渡ら承らて、そを畢ぷ事始まらて後真の図のてぷらむな
らふにつけて−其と直別する免めに皇団の古道を神遣と名くるに至れるなみ.之
よら御代々々を綴る′ま1に益々その漢図のてぶらを慕ひて撃ぶ乙と盛ほなり、遂
に天下の政事までも漢様にな多妻けく平らけからし御同ほみだらがはしき事出
でゝ異国に似たる事も生ずるに至れるなり、と論じて、彼此図柄の到底同日の談に
あらずとなし、
  天照大神高天原に大座して大御光はいさゝかも曇らまさず、此世を御照しま
 しまし天津御璽はた、はふれまさず侍はら座て、事依し賜ひしまほく天の下は
 御凍命の朗知食て天津日嗣の高御座はあめつちのむだ、ときはかきはに動く世
                                            シルシ
 なきぞ此の造の霹く奇く異団の萌つ道にすぐれて正しき高き貴き徴ならける¢
とイニ旦長は我国憶を以て何事も神代のまゝ心神の意に依りて自然に行はれて何
等の人魚的に策の用ゐられず、之を一系の皇統永遠に挟承して鍵る事なき囲健在



 かといふならか
 又玉くしげにも我邦の萬団の元本大宗たる原拇なるを論ぜら日く・
  豊岡は、此四海萬図を照させ給ふ天照大御神の御出生ましノ〜し御本図なる
 が故に、蕗図の元本大宗たる御図にして、萬の番兵図にすぐれてめでたきは英一
 々の品どもは申Lつくしがたき中に、まづ威一に溜殺は人の命をつゞけたもち
 て此上もなく大切なる物なるが、其相殺の萬図ほすぐれて比類なきを以て其飴
 の事ども准へ知るべし.然るほ此図に埋れたる人は、もとより、なれ凍らて常の
 乙となる故に、心のつかざるに乙そあれ、睾ほ此御閑人と生れて、かばからすぐれ
 てめでたき潜む朝夕に偽悪で食するほつけても、まづ・皇神たちのあらがたき御
 恩赦を温も以奉るべき乙となるに、そのわきまへだになくて過すはいともいと
 も勿憶なき乙となら.さて又本朝の皇統はすなはち此世む照します天照大御
 神の御未にましまして、かの天壌無窮の神勅の如く萬々歳の未の代までも動か
.せたまふ乙となく、天地のあらんかぎら侍はらせ給ふ御事、せづ造の大本なら0
                                                            1
 此事かくの如く、かの神勅のしるし有て現に撞はせ給はざるを以て、神代の古侍
 詮の虚偽在らざる乙とを知るペく、異飼の及ふと乙ろにあらざる乙とをも知る

208

  ベし.

 と云へみ。
 宣長の門人無慮数千人、就中有名なる者十除名あう.各々師の思想を紹越せし
が、其中最も著しきものむ毅後の門人平田篤胤となす.異淵、宣長の思想を受けて
内尊外卑」儒備排斥の旗色一層鮮かなるものにして、其古道を鼓吹する、殆ど熱狂的
 の態度む以てせ` 著書官飴部、数千巻、其最初ほ著はしたるものは呵妄事にして
 太宰純の押遣善が徒に支部む食んで我皇国を虚しめ、我邦に大道なるものある乙
 となく、支那よら蛮人の造輸入せられて始めて我邦も禽獣の固を脱せみと論ぜる
                                             ヽ
 を憤らて、著はしたるものにして、太宰純が蛮人の出でゝ教を設くる以前は人間の
 行為すべて禽獣に類したらとむ説けるを、そはすべて支那の事ほして我神図に於
 ては最初よら道徳論乙を無けれ、英資行は完全に挙がみ居みしならと論じて、扱が
 我邦に生れながら却て支那を尊むむ罵り、彼図の図柄の卑しきを極言せみ。之よ
 ら以後療々著書として公ほし、或は講演したるものはすべて豊岡の尊厳を開明し、
 挿せて異国む攻撃しJ又異数を排斥するにあらざるは無し。就中寺ら我邦の古道
・む開明し以て我固憶の尊厳を詮きたるものは、文化六年三十四歳の頃講演せる古




 道大意即ち之なら。先づ我日本の神団として萬図に此静なが尊き団ならとて
  我御図は天神の殊在る御意に依て神の御生なされて萬の外国等とは天地懸
 隔な達払で、引比べにはなら氾結構夜、あら難い囲で、尤神国に粕達をく、又我々墳
 の男購の女に至る迄も、神の御未にちが払無いでござる、…=資に御固の人に限
 らて、凡て此天地に有とあらゆる萬固の人とは、とんと謬が達以塵く勝れてゐる
 乙とは尭乙の御固を神図とい払初たは、もと此固の人の、我ぼめに申た乙とでは
 ない。先其濫飯む申さば、萬国を御閑閑なされたるも、皆神世の尊き神々ほて、其
 神たち悉く他の御固に御出家針されたる乙となれば如御囲は、神の御本国なる
 乙と故に神国と稀すは、箕に宇宙畢ての公論なる乙と、更に論なき乙とならゥ
とて神代の神々が我国開開園土総督の事蹟む詮き、又我邦が渚外因ほ此して最先
 に生成したるものならと詮きて、
                              も と
  是を思ふにも皇図は乙れ天地の根膚で、諸の事物惑く萬固に優れてをる所以
 も又渚の外国のものどもの、何もかも皇固に劣るべき乙とをも・考へ知るが宜い
    Y
  てござる.
と云払、又我邦は小闘ならと錐も囲の大小は必ずしも尊卑を分つ凛準にならざる

209

を裔じて日ぺ
  低間の外臥びいきの聾者どもの能くいふ乙とには、我固は小固で、又闊の開け
 も遅かつたなどとよく申すが、先御団を、小団々々と云て.虚さうとするけれど、図
                         上い
 ばからで無く、凡て物の尊いと卑いと基天と悪いとは形の大小にエるものではな
  い、敷丈の大石も方寸の玉に如ず、又牛拐象など云頼の一獣は大きいけれども人に
 しかず、何ほど魔大在囲じやと申ても、下図は下図、狭く小くても上固は上図で、=
 =又御拘の開けの遅いと云は頑慧づきの晩かつたと云て誹るので、濱は思慮の
 至ら氾のでござる、其故は御固は萬固の租岡本囲じや・に依て、自ら地気厚く、申さ
 ば大智大器景の人の智慧の開けの晩いやうなもので∵…唐団の老子と云書に
  も大器は晩成と云てある.
 と云ひ‥亦我邦の皇統連綿たる事、他に比類なき国健在る事と、其然る所以を述べて
   神武天皇は大和闘橿原宮と申すにあはし座て天の下を御治あそばし此天皇
 棟よみ、骨今様まで御血脈が連綿と御績あそばし、官二十代と申すまで動きなく
・御輿え遊すと申すは、実ほ此の大地に有身上ぁる団々に、比類なく有がたい御囲
 で、是が実に道の大本で、大席などとはとんと謬の違て砲る乙とで、な人と天地初




  螢の時に、其天地を御造なされたる細々の、世に殊なる思召で、厚く御心を入させ
  られて、神の御生なされ、又其御未として世ほ殊なる御威勢のあはしましたる大
  穴牟遅神−少彦名神の御経督あそばして扱四海萬団生としいける吻、鳥獣草木に
  至るまで、其の御蔭に潜ると云乙となき、天津日すなはち日輪の沸上つたる本の
  御国で、其天つ日を朗知食て、天地の有ん限らに、世を御めrみ遊ばす日の神夷照
  大御神の御生固で、高皇産室神の御曾孫、天照大御神の御孫にましノ\て殊更に
                                            すぐれ
  此二柱の神の、御愛みあそばさるゝ魂々杵命へ天に坐ませる細々の、殊ほ卓絶た
  るばからを右二杜の大御神の御目盤を以て御撰びなされ御附属あそばし、又天
  照大御神の殊に大切と御蘭遊ばさる\三種の神器を天子の称璽として御授あ
  そばし女御口づかり、豊華原の瑞穂の固は、我が御子孫の次々に知し召し天地と
  共に無窮なるべき固ぞと、御祀言を仰せられたる其神勅峯しからず皇孫壇々杵
  命より、普今様まで、唯一日の如く御代む知し食て、御附属な3れたる細々の御子
  孫とても、今以て其如く連綿と御績きなゴれて、其末々が世ほひろがり、又世々の
  天子様の御未の御子だちへ、平氏や源氏などを下ゴれて、臣下の列にもなされた
  るが、其未の未がふえ弘がつ、てつ以ノ\御互の上と戌たる物で、なんとかやう電

20a

  謬じやものを御囲は誠の神国であるまいか¢               1
 と云び、斯の如き固なるが故に、其生産する朗の米穀も萬団随一にして、人民は命武
 の気に富み又聴明ならと述べ、更に西川如見の日本水土考、及びケンブルの日本紀
行を引きて、我国土の優秀世界に此なしと論じ、然るほも拘らず徒に外野を恐るゝ
 は我抑図の神図たる朗∴以を知らず、固憶に昧きが故なうと論ぜト。大道或閏に、或
▲人の間に答へて皇図の食費なる所以を述べて、日く、
  皇固の貴き所以は天皇の御血統りは天照大神よみ御連綿にて、神代よら千萬年
 の今に至る迄、天下の大君に被遊御座侯バ中吟着臣の差別明白に御定ら被免在、天
 子よら五世までは王親を稀する事を御ゆるしにて、臣下の列には無之候、ハ中略)又
 皇囲む神飼、君子図など稀し候事は、皇図にて自ら稀し家僕唱には無之、他国よら
 稀し条壌に侯、又天下を治め給ふ革を御マツリゴトと唱候は神図の御風儀にて、
  神虞に依て故む治め給払、神祭む以て第一と被遊候故に、御政事といふ文字を御
  マ ソヅゴトと訓中条、然は御祭事御政事は元よら一つほて候、是則神団と奉稀侯
 御いはれに有之侯、ハ中略)皇図君臣の道正く夷子は閑閑以衆、御一粒なる事と承り、
 大に歎息、稀芙奉ろ侯事有之候、是は全く天照大神の神勅に御子孫萬々世天地と




りJY代メ,、′ Lパ一」リ・  ▲r壷.=均・.・.ヅノー一」.ボ」。。{‥J、r‖寸々亡 り化l、
 共ほ長久に天の下を治め給へと仰られ候む、皇固の落人能々相守ら候故に嘩ハ中
 略)天照大御神の御魂は伊勢の内宮拒ましノ\て御本憶は世界萬固を照し給ふ
 日輪に被遊御座重囲は其誕生の御本固にて天皇は英子孫に被褒在候へば、世界
 萬囲悉く豊岡に従以奉るべきは勿論の事に候、猫皇固は君固にて萬囲は臣固な
 る設壕は別に委く認使物有候間今は省略中条、又皇国は武を以て本憶とする事
  自然の勢ひに有之侯、ハ下略)
と、其外」倍遣弊−伊吹於呂志等の講談を始めとして玉だすき以下其等身の著述悉く
此内奇外卑の精神を以て薯はさ打たるものならざるは無しと維も、我国鰹に就き
て説く朗、上に掲げたる所の範疇を出でざるが故に此に述べざるべし.
 同じく宣長の門人夏目餐麿も文化六年に「竜野の若菜」を公にして支那の礎薩の
造の我皇固の遣と相容れざるを述べ、儒は∧の所行を主とし、備老は人の心を旨と
し、皇固の造は人の素生を宗とするのたがひあるむ論ず.
 本居太平は溜掛棟隆の子にして本居宣長の養子となり、其聾の正統を橙ぎし人
なら.文政十年に盲準要を著して中に、我邦の兵団に対して上位にあり、而も相斥
くべきものにあらざるべき由を論ず、日く、

20b

   御固は萬固の租国.なり、君なら兵団は臣なり、たとへば人の身に取らてはかし
 らの如く、兵団は手足の如く人のゆからにとらてはおや先租の如く、昇図は族類
  縁者のごとく、く払ものにとらては五穀のごとく、輿図は野菜海魚などのごとく
  なるものなら.されば観光あらても族類縁者なくては寄せ1のは氾ごとく、か
  しらあらても手足なくては乙とは足ら氾ごとく、五穀あらても野菜海魚なくて
  は足ら氾がごとく、兵団は骨御国のたすけそなはらとなるべきもの在ればたえ
  てほくみきらふべき物にあらず、あへ むつふべきものなら。
 と.次に卒田篤胤の門人ほして幕末、明治初年、殊に、推新の際ほ.皇畢派の中心人物と
 して新政上にも重きをなせる矢野玄造は、文久三年に玉鉾物語む著はし、中丁君臣の
 造Jの項に於て我邦の−皇統連綿として萬世一系なる所以を論・ず.日く、
   廣幡八幡大御神の大御詔に、我飼は天地の分れしょら以衆君と臣と定多き、臣
              フソニ アラ
 を以て粛とする事は未曾有ずと詔賜ひ、天萬豊日鮨天皇の詔詞に虐神我子天下
  治者せと乙と寄し奉らき.是む以て天地の初よら粛とます囲也と詔賜以」天命開
                     ハウマレル
 別紙天皇の詔旨ほ、天地開閑よら革臣初有乙とむし賊真に詮て起る所む知らし
  め給へる御勅等に因て恭て秦に、天地の元始を戌給へる掛くも暴きに皇産重大



                                         アヱ
 御神の比台此実二杜ほ坐して、その蕗造し賜〜る天国は即此古神ほ停奉Jて成
 り、大地は即此貞神に宵奉らて成出て、天は地を覆払うつくしみ、地は天を載せ事
  へ.つ\萬の物を造成氾る物なれば、天は君、又父煎り、地は臣、又母とtて上下尊卑
  の別は先此にぞ立たらける.かくしてハ中略)天照座日大御銅の大御詔に天皇命
 の知者す天津日つぎは天地のむゼ日月と共ほ窮みなかるべしと詔賜以東鬼屋
 命の天神毒詞を皇美麻命の大前ほ稀へ奉らて天地のむだ月日と北ハに照し明か
  しあはします事に本末傾けず厳杵の中取持て仕奉る亭々と宣へるほて君臣の
 大義は乙ゝに定らて終舌に動くまじき乙とに成しを、上にあ灯し入ぬ大御神の
  御詔はやがてそを受つぎて詔賜へみと恐かれど窺奉られた`
       ヽ
 .と

  入田知紀も亦同沢の皇聾者にして弘化二年ほ公にせる桃岡雑記に我豊岡の教
 は自然の造にして天照大神の榊勅以衆君臣上下の分定まれる事、又文武両.造一致
 なるべき事を論じ、之れやがて我闘膣の依て凍る所在らと断て、併せて支那の河津
 を批評せり、日く、
  i そもノ1皇国の造は其旨玄妙にしてあのづから義理備はり、天照大神打勅言

20c

 ′のまにノ1君臣上下の等うごかず、萬代不易の至遣なる乙と申すも更なり、漢土
 蛮人の造はかの天下は・一人の天下にあらずといふ理屈にもとづき、聴明なるも
 のを天子と仰r作法なるほよら≠も不肯なれば頼らず、湯武が放伐をさへ蛮人
 の権道ならとして許せるを見るべし。其造畢孟利書得失の分別よら出.でて、貸
 は天の真理に惇り、君臣父子の大倫む矢へるものなろパ中略)
  さて尭舜の碑譲、湯武が放伐をしも天命とする如き、即ち今日の道理を為して
 天に経せしめたるにて、実はそれ異理に悸れるものなら。ざる故に、豊岡にては
 里人の法を折衷して帳合格式の上には慣ら用ゐたまへども、かの天命の詮はし
 も更に信用したまはず、いつセでも天照大神の勅言の字にJ〜三種の神器もて
 皇統を樽へ給ひ、かつ公卿大夫等の家々も上古のまゝに置き給払、もとよら祭祀
 の式夜どはもはら皇図の台義む用ゐ給ふめり、もし蛮人の遣になづ′み給払、理屈
 の馬めに皇統など‥動かしたまふ乙とおはしまさんには、即ち天照大神の御意に
 背き給ひ、かつ萬民をして天倫を失はしめ給ふなれば、臣たるかぎら死を以ても
 諌め奉らずんばあるべからゲバ中略)
  皇国上古の列蛮骨武む本として治めたま以し乙と論なし。さてそが中ほあ



瀾凋Z
 のづから文造も備はらしなり、そは天照大神の御心ほて君臣上下の等を堅め給
 ひしは更なり、代々秒藤絶々に時代粕鷹の法則をたてたまひ天下を経皆し給ひ
 しは即文造にて、文とい払武といふもの元来同一憶ならしなら。然るを外図の
 法にょらて文武の造備はれらとするものは文餓の上にして論ずるに足らず.
 又かの文質彬々など云へるは一人の徳をさたせしにて、全く固憶にかゝれる論
 にはあらざるなら.凡て文としもいふ名のあるかぎらは妓菜未事の上にして、
 そは却て固憶をよはむるの弊ある乙と既にもいへる如Lさ 武も亦蛮造にあち
 てはほいなけれど、武術は義気を助け勇気む養ふものなれば国腔を強むるの良
 薬なる乙と論なし。

と、

 次に前期.度合延佳が伊勢神道を復興し、殊に其陽後記を著して内・を尊ぶの風潮
ほ資したる事は前に云へら.英子妊経又後を粒ぎて家撃を興せらと維も主とし
て考澄に傾きて神定論又は国牌論は見えず。妊経の門人喜早清在、陽復記街義二
巻を著して、我邦は囲常立食」天照大神に初り、神武天皇よら首六十大代の今日に至
         まC
るまで、他姓む接へず、神器を倖へ奉る事、世に無比なる事を論じ、次で度合常典は神

20d

 駒岡答を著して我国の神国なる所以、飴図に勝れたる所以む論ぜり、日く、
   それ吾図を神国と稀する乙と誠ほゆへ有.今其大旨を畢ていはん.失我国険
  項を開き.神明統を侍へ給払て官王の今日に到て不窮の皇統を侍へ給ふ.是其
  大本也.惣じて日月の照す朗、霜路の落る朗、方図多しとい へども日本唐土天竺
  の三閲は世に三の鼎のごとし、自飴の図は論ずるほ足らず、就中吾岡む鯛図と稀
  し、日本と.解する乙と.天地の間、いづれか中、いづれか偏.をのノ1其いたる朗中な
  れば、いづ■くも同じ中開也.されど天は固にして気なり、地は方にして形なれば、
  大にしては萬図、小にしては一団、形にしては形は限ら有て各方なるものは四方、
  四隅ある事也、よつて天地と閑関しては陰陽二束にて寒暑室夜とわかれ、陰陽室
 夜tわかるゝ凍、骨太陽日徳を以てわかる\事なり、天地の開日月の運行なくん
 ば何によつて固といふ事も人といふ事もあらんや、況や萬物をや。然れば日月
 は天地人倫萬物の主也。その日の出る朗、東方に出て西方に入る乙と、もとよら
 貴賎上下皆知と乙ろなら.ざれば天地の大在るよらみるときは、日は日本よら
 出て唐土に申し、天竺に入ものなら.日本よら東に固なく、天竺よら西に固なけ.
 れば、今日の形托して、見るときはしかみ、小にしては吾団は我固虐土は唐土、天竺



 は天竺、団々にも亦一団一州のわかれあら。我闘犬十鎗州を分つ毎に其一州J′\
  にあらて東西南北に分ち、其朗々の束よら日出でて西に入ものなら.その一州
 ほも大州も中州も小州もある事皆々日徳の出入にょつて山川に従て四方む分
 ち定る事也。ハ中略)我閥諾丹二尊此図を経督し給以しょら■、今日に到て神図神明の
一神藤なれば、神図と稀する事勿論なら.よつて我固日の本と解する事萬図の鼻
 租にして、日の本図にして日は乾物の神なれば日の御本国として神秀の気始る
 朗、鐘る所にす−、人倫にていはゞ人の幼稚よら二十此までの如t。と」
 次に度合常数は元文二年十二月、神造明群を公にして我国憶成立の君先民後−皇
 統天地と典に、無窮なかる.べき所以を論ず、日く、
   央れ西土には儒あり、印度には悌あり、二図共に由る朗の造なら.日本は特ほ
  神遣を以て立つ、登他あらんや、是開園の運、水土の性に繰り、塵妙不測に縁るなら.
  姶ち遣、本土ら殊なり、物の解しからざるは物の′傭なら.日本は中正なるに依て
  其造西土と落しからず速ハ本を瑞らずして其未を脅しうす、誠に鼻鶴の陛其長短
 脅しからんを欲するが如し、捧腹すべきなら。我邦は君臣一憶祭祀と囲政と粕
  分れず∵租神を煎るの外蓋し他無し。林羅山先生日、我朝は神図也、神道は即ち

20e

 王道也。央れ其根を培擁すれば則ち枝葉扶疎、是故に神道は本を堅貸にする也“
  則ち頑節義くるなし、所謂国王一姓、侍纏臣下皆世官、拷天之下比倫無し、異邦の人
  数由以て讃美する朗写り、譲たるほ非ず。
                                               コレチ
  書に日く、鳴呼惟れ天、民を生ず欲あろ、主なければ乃ち乳る、惰れ天聴明を生じ、時
    オサム
  父、意ふに聴なるものは主なり、初めは民の食めに主を立て、後には主のためほ使
  はると、萬邦或は然らん、歴代裁奪鼎革之鯛有る、職として之に由るなみ。神国は
  特に然らず、天地開くる時、華牙の如くきもの化して神と在る、固常立尊と就す、又
 神あり、伊弊儲蜜伊弊蕗尊と戟すご神建ち大入洲及山川草木を生む夷が下の▼主
  を生まんと欲して天照大神む生む、光気明彩六合に照徹す、遂に天位.を授く、所謂
  天地の初よら君臨の図なら。然らば則ち囲常立尊と天照大神は開園の剋宗に.
.して初めょろ立たるなら。彼は民あらて後主を立て、此固は農民あらざるの前
  既に以て主たら♪ 前後の差、殆氷炭の冷熟異なるが如し。天下一個も神物に非
  ざる夜し、故に王網滞終を固め、嘗て乳臣威子纂立の畏英し。是れ租神威壷の錐
             タす
  挿する朗、何ぞ抵億載のネならんや、天壊と輿に窮らなきに普る.是れ其挺立萬
  固に勝つて窺測すペからざる所以なら.と▼



 次で雄二尿五年寄越せる日本園風食一「神国」の題下ほ、我邦の神図なる朗以を▼大観
図常立食よら紆々として今上に至るまで樽へたる皇統が神胤にして図民亦すべ
て神孫なる事に依りて詮明し、又神岡と稀せられたる所以を、古代の和歌、国史家轟
 等に現は打たる神岡なる語、又は紬囲在る観念が現はれたる場合を澄引して漁明
 し、神国妄謂太伯又徐礪後の項ほ、僻儒の輩が妄に日本を以て夏廉少康の子孫なら
 との魂音の詠む用ゐ、又瀬秦後顧の後ならとの詮、又は臭太伯の⊥傭在らとの訣を採
                                                  ■
 るを攻撃し、」々史実ほ故諾して其然らざる所以を論ぜら.
 次に後期水月撃滅の固憶論を述べざるべからず.我邦ほ於ける同性論凝達の
 其絶頂に達したるものを後期水β撃沈となす.所謂復領国畢朕の由憶尊崇詮甚
 だ盛なみんと雄も衰儒準排斥に熱心なるの鎗り、第三者よトハ見て或は囲随燭断ほ
 椙れると乙ろ無きにあらず、水月畢沢に於ては即ち然らず、嘗て義公が其碑陰に由
 ら銘して革紬虐政紬儒一と云へる如く虜に眼を一歩高所ほ置うて、偏せず補はれず・
 磯頭徹尾批評的の見地に立ちて、而も其内ほ最も熱烈なる愛国蜜王の精神を抱懐
 せるもの、即ち水戸畢朕の特色ならとす.′今共立なるものを云へば、烈公徳川率昭
 牢中心とする人々に起みたるもの・にしセ、藤村轡谷沓澤安感田東潮塵甲賂岡等患

20f

 なら.就中、曾澤安の如きは識見高邁、最も公平なる見地を以て固撃を批判しl癌詮
 を考索し真岡に一家の固憶詮を樹立せら.図憶合成論を中核とする水下畢は安
 心禽澤を以て大成せらといふべく高徳川時代に於ける固憶論は曾澤安を以て其
 極致に達せらといふも過言にあらざるなら。之む率ゐて水戸聾の大をなさしめ
 たる烈公務昭亦天資英邁にして自ら我固憶に対して一隻眼む有したら.自ら創
 設せる弘道館の主趣由凍む記せる弘道舘記、弘エ造館準則、合志篇及び嘉永五年地球
 儀を天皇に奉れる時の表に就て其識見を見るべし.弘道舘記に円く、
   恭惰るに上古神聖極を立て統を垂れ、天地焉に位L、萬物焉ほ育す.其六合に
  照臨し宇内を統御する所以のもの∴未だ壇畑て斯道に依らずんばあらず.実舵之
  を以て窮なく、國體之を以て貧賎に、蒼生之を以て安寧に、攣夷戎秋之を以て率服
  す。而して垂子神孫伶自ら足れらとせず、人に取らて以て善七為すを欒む.乃
  ち西士膚虞三代の治数の若き、とらて以て皇鉄に資す.是に於て斯道愈大に愈
  明なら.復飼ふるなし。中世以降異端邪論民を誕払世む惑はし、俗儒曲撃之を
  合てト彼に従ひ卓化陵夷桐乳相踵ぎ大道の世に明かならぎるや蓋亦久し、云々.
 と、亦普志篇には、



、 卜¶、11ノ 】..q.一くハト一Y¶〜止血
   抑日本は神聖の陶にして天瀬天孫統を垂れ極を建紛ひしょ鼻乙のかた・明雄
  の撞き太陽とゝもに照臨まし′〜、実藤の隆なる天壊とゝもに窮ら夜く.君臣父
  子の常道よら衣食住の日用に至るまで皆乙れ天剋の思実にして蕗鼠永く飢塞
  の思を免れ天下敢て非望の念を耕さず、錐有と申も恐多き御事なら.然れども
 数千年の久しきうちに盛衰なき事あたはず、或は治ら或は乱れ京祓天正の瀾に
  至て天下の乳極らしかど東照宮三河に起らせられ、風ほ櫛ら両ほ沐し、辛苦難雑
  まし史して上は天朝を輔翼し奉み、下は諸侯む鎮撫し給ひ、二宮鎗年の今に至る
  まで天下泰山の安きむ保ち人民塗炭の昔を免れ、うまれながら太平の徳澤ほ搭
  し虐使は、乙れ亦雑有御事ならずや.されば人たるものからそめにも神国の食
  きゆゑ止と天租の思費とを忘る可らず.ハ中略)恐多くも今の天朝はまさしく天租
  の日嗣に被馬準今の牌軍は即ち来由官の神孫に破鏡在ノ乍示肯或等は威公の血
  脈む停へ、各は先剋々々の家系を椴承候事に候へば、此所能く相群へ天租東照宮
  の御恩む報んとならば盛君先租の思を報んと心懸候外有之間数候。ハ下略)
−と云以南れも我皇統の神聖にして萬世無窮、図膣の尊厳にして君臣の名分明かな.
 るを示L−之む憶するは一ほ観光尊崇を以て根本義とせざるべからざるむ逃ぢ
       ●

210

嘉永五年地球儀麒上の表には、
   臣痺昭恐み々々も申す、高天原に事始め賜ひて遠天皇祖の御世々々に天津日
                       夕 へ
  嗣の高御座の大御業と入坂魂の如く曲妙ほ天下を知し食し、白銅鋸の如く分明
          モソ ナハ
  ほ山川海原を看行し、速き闘をば千尋携細以て懸依せ給払、鹿ぶる図をば大御楓
 にて卒げ給ひし跡の如く、今現称神と天下知めす我天皇の大御代に骨身て磨く
  周き大仁慈は、吹風の至ら拍隈なきが如く、降雨の活さ氾際なきが如くほして、天
 益人掌打畢てなも、染みあへらける.故伏して思ひ給ひけらく、神故に素蓋鳴奪
                                       カン ロギ
  は天壁立つ極み、廻ら座し、大穴持少彦名二柱の命は高天の神主の事依し賜へる
  随に兄弟と成らて天下の団々む経皆み賜へら.其事績往々古畠−御輿に書き樽
  へたら.然ある時は萬囲も固よみ我神州の枝固とぞ云べからける、如是て乙そ
  五十猛命は韓神を稀へて韓招し、水臣津野神はしも、拷貪新羅の三埼及び遥々し
  高志の三埼等を固め鎗有と詔ら賜ひて引きたま払、瑞瀦宮の御宇天皇の御世に
  は大物主神の御故に海外の図服払て蹄化なんと詔ら賜払、息長足姫食は神の御
  故に依て三韓を事向けたまひけれ。然らば萬周の有状は知らヂしては得有る
  まじき事ならけらP



とあみて、我建陶の囲是が生々凝展にあら.之む統ぷるに千古不易の神藤を以てせ
る尊き国膣なる事を毒せら.弘道館準則第二条にも我邦神道喪章既に備ら▼賢麻
の無窮、君臣父子の大倫天地と異ほ易らず、所謂惟神の造在るものは天地の大道な
 るを遊ぶ.
 列公ほ事へで第三十一次の彰考館総裁と覆れる幽谷藤周一正は藤田東湖の父
にして大義名分む高唱せるが、其寛政三年十入歳の時著せる虚名論は我皇室の政
事の外に超越して千台不易の尊位を保ち給ふ所以む論じ、名分の正しく且つ厳に
する乙と我国捜の本領なるを説く日く、
  甚しきかな名分.の天下国家に失はるゝや正且厳にせぎるべからぎるなら・
 其猶天地の易ふべからざるごときか、天地あらて後君臣あケ君臣あらて後上下
 ぁら上下あらて後感義あり、朗措筍くも君臣の名正しからずlして上下の分厳な
 らざれば則ち尊卑位を易へ、急場朗を先払、強は崩を凌ぎ▼衆は寡を暴せん宕略)日
                        ●
 本は盛観固を開きてより、父夷たり、母、地たり、盤子神孫世々明徳を拇ぎ以て四海
 を照蹄す.四海の内、之れを尊んで天皇といふ。入洲の磨き、兆鳩の衆き、絶倫の
 ヵ療世の智有らと錐も盲よら今に至るまで未だ嘗て一日も庶姓ほして天位を

211

 好すものあらざるなら.君臣の名、上下の分、正しく且厳なる乙と濁天地の易ふ
 可らざるが如し.是れを以て皇統の悠遠、固舵の■長久、舟車の■至る所、人力の通ず
 る所、殊廃絶域、吾邦の如きは有ざるなら.豊偉ならずや.然らと錐も天下の冶
                      ●
 や久し、世治乱あ阜.時に盛塵あら。中葉以衆藤民権を専らにし其幼主を輔けて
 撮政と戟す、然れども特に其政を擬して其位む擬するには非ざるなら.政を天
 子に還すに及んで則ち閲白と験す1萬磯の政は関白英人なら。是皆上の命ずる
 朗卜敢て倍故む為すに非ず、而して天子垂洪の勢亦由来あら.鎌倉氏の覇府を掬
 東に開くや天下兵馬の横寺焉ほ辟す.室町氏の覇、蟄毅の下ほ鴇て確度の政、以
 て海内に墟令し、生殺賞罰の柄威其手に出づ.威稜の■在る朗加ふるに昏命の隆
 を以てし、傲然尊大公卿を奴親し、撮政関白は名有らて実無し.公方の貴も敢て
 其右に出る嘗なし、則ち武人大君たるほ発きか.豊臣氏天歩難難の臼に曹り、自
 ら旺夫に起り、覇立の菜を致し、天子を挟んで以て諸侯に命じ、良策む振ひ以て域
 中を凝使し、遂に藤氏閑白の汲む奪て之を有す。其強始眈ほ此の■如し、而て猶巨
 砲を執て以て皇室に事へ敢て自ら王と解せざるもの名分の存するを以ての故
 老ら.名分存する所天下之を仰ぐ、堀覇の主、西ほ滅び東に起つて而も天皇の尊



 自若たみ。東照公戦国の際に生れ干弐を以て海内を定め.魂に勝ち殺を去り、皇
 室を翼戴して其正朔を奉じ、其官爵を受け、征夷犬洛軍の食む以て東海に居つて
 四方を横臥し、天下を鎮撫す.父子武藤世々先烈を光かし、尺地一民も焉に躇徒
 せざるなく、君臣の分正しくして上下の分段夜毎、共至徳たる豊父王の下にあら
 Åや.舌の聖人朝動の鵡を刺し天下に教ふる所以のもの■、人臣の馬めにする在
 多.而して天子至尊台ら属する所無ければ則ち郊祀の祀、敬を以て上天に事ふ、
 宗膚の穐以て皇デに君事す、其天子と雄も猶命を受くる朗あるを明にするなら−
 聖人君臣の遣に於{其謹む乙と此の如し、而も況や天朝は開鋼以水星統一姓之
 を無窮に侍へ、神器む擁して実固を捉る、祀築香車何改めず、天皇の貧、宇内無二、則
 ち宗奉して之に事ふ、固よ多央の上天杏冥皇デの如き戯に乾きの此に非ざるな
 み.而して天下の君臣たる者をして取らしむれば則ち焉よら近きは英し.是
 故に幕府皇室を尊べば則ち諸侯幕府を崇び、諸侯幕府を崇べば則ち卿大夫諸侯
 を敬す.夫れ然して後上下相樽へ、萬邦協和す.甚しいかな名分の正且厳にせ
 首る可らざるや.今夫れ幕府天下国家む冶むるや、上は天子を戴き、下は諸侯む
 撫す、覇王の菜なり、其天下同家を治むるもの天子の政を壌する在ら.天子垂洪

212

 政を鵜かざるや久し、久しサれば則ち経じ難きなヰ.幕府天子の政を擬するも
 亦其勢のみ〕異邦の人言へるあら」天皇は図事に輿らず.晦団王の供奉む受くと、蓋
 し其資を指せるなら.然ヰと錐も天に二日なく地に二王なく、皇朝自ら具天子
 あり、幕府は王を稀す可らざるなみ。則ち王と稀せずと錐も其天下図家を拾む
 る王道に非ざる覆し.伯ほしてlせざるは文王の至徳花る所以、共王事に輿つ
 て覇術を用ふ、易ぞ其覇にして王道む行ふに若かんや、日本竜よら君子祀儀の岡
 と稀せらる、感は分よら大在るは無く、分は名よら大なるは無し、慎まざる可らざ
 るなち.夫れ既に天子の政を壌すれば則ち額政と謂ふ.亦名正Lくして言頓
 凝らずや・、名正しく主口頓にして然る後感染興る、鵡染輿つて後天下治まる、為政者
 登正名を以て迂ならとせんや.
と、其幕府の名瀬ほ群ずるもの虚帖め時勢を考ふる帖は必ずしも深く答めずして
可在るべし.
 磯谷の門弟にして第三十三次彰考舘線裁となり、朗謂水月畢を大成せる曾澤安
は字を伯民とい以眈を正志粛といふ、著すと乙ろ閑盤漫銀、下季題言、過食閑話、新論、
迫藤編、草侶和言等あら。是等悉く図憶を論じ、名分を詮け去ものに非ざるなし.

11■lll


今是尊の著書ほ就て其図憶ほ鵜するものを繁を厭はずして列挙せÅ.滋志粛が
多数の著書の内、固頗論として最も有名夜絹ものを新論とす占く.
  謹みて接ずるに神州は太陽の出づる朗元気の始まる朗、天日の嗣、世々農極を
 御し′終台易らず、固に大地の元首にして萬囲の綱紀なり、誠に宜しく宇内を照臨
 し虚化の築ぶ朗、皇室の食、厳乎として犯すべからざる在ら。ハ中略)夫れ空費人を敢
 ふる掛己を修め人む治る所以の遭に非るなし・近世随儒俗撃大憶に達せず意
 に任しで汲祝す、その経義を牽強して新む競ひ悼む術ふものゝ好き、砥竃の詞を
 開はし以て名を鈎ら如を要するもの、流の如き、紛々稜々▼固よも三白ふに足滝な
 し・而して或は名に味く、明、清を解して華夏中固と稀し・以て図憶を汚辱す・或は
 時計遂ひ勢に狗以、名を乳ら義を過れ夷朝を親る席公の如く∫は列整の化を傷
 り、下は萬府の義を害す、或は細故を毛畢し、唯々貸倒是汁談じ、由ら稀して経済の
 撃と為す.或は遽幅を修飾し、口に憤命を談じ、エ頂高砂に似て行、惇護に似たみ.
 をの資は郷慮にして国家の安危牢亡似れ、而して鳩勢に逢せず。凡そ是れ皆忠に
 罪ヂ、孝に非ず、而して尭舜孔子の所謂造なるものに非るなら.
 夫れ君臣の義は天地の大義濱→、父子の親偲天下の至思怒ら。義の大なる者

213

 は恩の大在る者と並び天地の岡に立つて漸漬積累人心ほ拾決し、久遠にして壁
 ぜず」 是れ帝王の天地を経緯し億兆を綱紀する所以の大資なら.普天租輩め
 て沌基を鐘て以て天下を皇孫に倖ふるほ造び、手づから三器む授け以て天位を
 千蕗世ほ樽ふ、天胤の筆厳乎として犯す可、カず、君臣の分定る.而して大義以て
 明なら.天租の銅器を樽ふるや特ほ実鋸を執つて祝して日く、是を破る乙と猶ほ
 吾を祓るが如くせょと、而して萬世奉祀して以て天租の神と為す垂子細孫実鋸
 む仰いで以て影む其中に見る朗の者は、即天租の遺膣、而して慮る乙と猶ほ天租
 を破るが如し、神人相戚以て已むべからず、即ち父子の親敦くして至思以て隆な
 ら.天租眈ほ斯の二者む以て人舵を建て、訓を蕗世に垂る、至思内に隆んに大義
 外に明かなり、忠孝立つて天人の大道昭々乎として以て具れ著はる.忠以て貴
 を貴とし、孝以て親を親とす.億兆の能く一心なる、上下の能く相貌しむ良ほ故
 あるなら.是れ帝王の悼みて以て四潅を保つ朗、而して租宗の図を建て、基を建
 る所以の大憶なみ。
と、其云ふ所備に非ず、和に非ず、一個狗立の見地に立ち三後の水戸聾者栗田寛博士
が天朝正撃と命名せるもの在ら‥重囲の食費、皇思の宏犬、之む奉鰭する図民の思想
の人為dに凝ず、して自然に出づるを詮くと乙ろ凄む人をして淑然として襟を正さ




しむ・曾澤の行諭すペて斯の如し、新論に次で人口に噌噂するもの計共著過多篇
に収むる朗の囲捜論となす。萬固の内、濁ら易姓革命の跡無く」皇統連綿として神
世よら今日に至れるむ以て我邦の最も貴き所以の第一義なる事む論ず.日く、
                                                                                 ●
  天地の間に萬囲あり、萬掛に各君あらてその掲を治む、君あるものは各其君を
.仰ぎ†}天とす.▼団々みな其内を貴びて外を賎しとする事同じき理らなれば、互
 に自国を尊び他国を夷攣戎秋とする事是亦定れる習也。されども萬固には骨
 易姓革命といふ乙とあらてその.図胤るゝ時は其君を戟し.或は是を放ち、或は寡
 婦私見を欺て其碑をうけ、或は世嗣紹る時は他姓のものを以て其位を嗣しむる
 の類にして其君の種姓他に移る事、開とし.て是なきものあらず.乙れ其天とす
 る併しばくかはる習なれば、其天地とい へどもみな小天地にして其君主とい
 へるも小朝廷なら.萬図の中に只神州のみは天地開闘せしょら以凍天日嗣無
 窮に侍て一姓綿々として庶民の天と仰ぎ奉る所の皇統かはらせ給はず.是其
 天とする所の大在る事宇内に比なし.今乙の■萬民天地の間に蟹びなき貴き団
 に生れながら吾固憶を知らざるべけんやノ固の偲と云は人の身に五段あるがご
 とし、我国の膣を知らざるは己が身に五憶あるむ知らざるが如し.是にょらて

214

 むかし、北畠准后世の乳を欺き神皇正統詑を著しイ皇統正しき事を論ず▼.
とて親虜の神国論を掲げ、之を世の乱れを救・ひ人の心を正しくすべき格言ならと
論じ、更に三種神器の由衆を詮き、天地の間に蕗因数多しといへどもか\るめでた
きためしある事、異域には曾て開かざる事なれば祓州の実き乙と宇内に蟹びなく、
日嗣の君乙そ宇内の至蜜と稀し奉るべく、天下の民かゝる舎き邦に生れながら我
図の膿をも知らずして過ぐる事鳥獣鹿魚の無智なるに均しと論ぜら.又別に下
撃選言の中にも我邦の地理上の位置、皇位の安泰等の鮎よら戎神国の優雰を詮い
て日く.
 一君二民は天地の造なり、四海の大、萬固の多きも而も其至食は宜しくこある
 べからず.東方は神明の合.太陽の生ずる所、元気の発する朗、時に於ては春と馬
 す、萬物の始まる所在ら.而して神州は大地の骨に居る、宜しくそれ萬図に首出
 して四方に君臨すべきなら.故に皇統綿々として君臣の分一定して浸せず、太
                                                                                 ●
 初よら以て今日に至る、天位の尊き乙と由若た・・り、是れ卦国の未だ昔てあらざる
 所なり、何となれば則ち天下の萱草宜しく二あるべからざれば在ら0 而して所
 謂一君二民の義はそれ誰か得て之を岡せんパ中略)余謂へらく、神州漑萬固の元首

                                                                                                  1】 ●.・jl−−;…一一‥.一、皇一l一_一一一l


 なら皇統二あるを得ず、萬民む以て一君を奉ず、aの義、富子の分む轟すにあら−漢
 土は則ち神州の二、その君臣一定不壁なる能はず、猶ほ武滴下士を鎮撫し、代ら興
 ら遽に替るが如し、故ほ三豊五帝、上古よらして易姓革命、一斉を以て萬昆を養ふ
 乙と其成功に取るのみ。故に祀譲あるは猶ほこ藤氏、四親主の鎌倉を承くるが
 如し.その放伐あるは滑ほ織田氏の室町に代り、豊臣の織田に代るが如し、而し
 て其他の夷攣戎秋、固その始を易へざるはなし、亦何ぞ、狗ら漢土ほ於てのみ之を
 兵士ん。夫れ遣は天に出づ、既に天地の大道を見れば則ち必ず∴君二民の義を
 知る、苛も⊥君二民の義を知らば即ち萬固の元首宜しく二あるべからずして、而
 して萬民一君を奉ずるの邦二あるむ得ぎるてと牢知り、亦天胤の.必ず移すべか
 らざるを知らん、而して蒔囲の易姓なき能はざるは即ち是れ天地の造にして勢
  の然らざる乙と能はざるなら.
と、又「閑垂漫録」に尊王壌夷の論あり、世人碇に尊王を口にするも、其何が故に王の尊
ぷべきかに就きては、茫として異質を知らざるは耳食の随を免れざるが故に、今其
質事を論ぜんとて、東照宮政教を四海に施すに常らて天下め諸侯を帥ゐて京師に
                                                           ヽ
朝し.君臣の義を正し威固の鎗.豊富の筐乏なみしも、禁垣む埠廣修理し庚御の田々

215

 増し、秘籍驚器の散失せるものを還し約め、伶散の薗職む復し、其他美顔多く」威公も
 神道む崇敬し−義公亦神様を撃び、元旦には京師む遁辞あり、療王公卿に至るまで鵡
 をたゞし.名詞大敵よら里巷の叢詞まで、或は修理を加へ或は凍由を正し、轟く正鵡
 を行はしめ、淫荊を毀ち、人心を正して迷はしめず、図史を修しては皇統を正閏し、攣
 夷内外の名分を厳にし、鵡儀類典を編纂して天朝に戯じたる類、骨尊王の義にあら
 ざるなしと、云ひ」又「過食閑話」は弘道舘詑を義稗せるものにして、皇統の神盤を論じ
 て開憶の尊厳に説き及ふ乙と更に詳に、且つ人倫の大道元初よら既に具はれるむ
 明にせり、日く、
   君臣の義とは天昭州大神高天原にましまして皇孫天津彦火魂・々杵車に天位む
  倖へたま払し時に、入坂魂曲玉、入曜鎗、事故剣三種の神器を授け給払て輩原千五
  秋之瑞穂図是吾子務可王之地也と詔給ひしょり、此神器を以て永く天位の信と
 し給払しかば、是よら君臣の大義著れて驚藤の隆なる乙と天地の分れし日Jら
  今日の今に至る迄▼一人も天位む犯すものなきは、即ち君臣の義にして其数自然
 に備れる乙と言語を待ずしてtるべきな卜・父子の親とは天照大神神器を授
 給ひし時、御手に箕銘を取らせ給ひて吾鬼洩】l此層鋸南独議盲を語らた・まひしょ




 ノ り、床を同じくし殿を共にして、実鋸を以て神の神宴といつぎ給以しよら▼父子の
 親彰れイ天日嗣を艇せ給ふ.大君は必ず日神の御未にましまして、神代の台よ
 ら今に至るまで皇統易らせ給はず面鏡は天租の神にて永く伊勢にまします、今
 も天皇、大神宮む押し絵は\驚鋸ほ映卜給はん御容は即ち日神と同鰹の観み轟
 きさせ給は拍は、父子の親是よら惇きはあらざるべし、天地の始に伊弊碑食研哉
 の歌を伊弊諾尊に先だちて唱給払しよら男神改め唱給ひしは、昔時よら夫婦の
  別明在らと申べし.二神此図にましノ〜て天照大神、月夜見食、素蓋鳴蜜を生給
  払し時、天照大神は高天原む治すべし.月夜見尊は夜の食囲む治すべし、素蓋鳴尊
  は漁港を治すペしと任し給払しは長幼の▼序なみ、思余命▼手力雄句鬼屋命、太玉命.
  鐘富命、猿田彦命等の諸神心む伺して天神を輔翼奉り、各其長ずる所を轟L以て
  粕輔けしは朋友の信と申べし、かくの如く五倫の数は天地の始よら立て今日に
  至るまで易る事なし。人たるもの君臣父子夫婦兄弟朋友の遣と離れては一日
  も世に居る乙とかなはざるべし.されば今日仰ぎ奉る空車は天照大神と同性に
  ましせし、大牌軍は教官年の乳を卒げ萬民を安んじ給ひし東照宮の御嗣胤なら.
   繁藤以d之無窮国憶以`之尊云々と云ふは、天照大神三種の神器を授給以しょ多▼

216

  君臣の義正しく、実鏡む見る乙と吾を硯■るが如くせょとのたま以しょろ、父子の
  親惇く、卑孝の数南つながら仝し.是ほょらて人心一定して他に移らず、千萬世
  といふといへども天使かはらせ瀞はず、今日仰ぎ奉る所の至尊は即ち天照大神
  と同濃ほましませば人情風衷も自ら厚くtて天鎖を親戚する人もなく、資祀窮
  らなきも史た乙とわら在らヂや.固鰹の食掛なる事は、甲海の′外に萬固多しと
  い▲へども天地の間ほ至て食きものは只一つならではなき道理なるほ、外図にて
  は其塙王と稀するもの其種姓塵々遷か易らて一定せず、天朝のごとく皇統綿々
  として天地と典に窮らなき事は萬国等のかけて及ぶべきにあらず、かゝ&め
  でたきた・めしも其本を尋氾れば」天地の始めょ身皇祖の詔勅にまします君臣父
 ■子の大倫正しく人情風気厚きにょらて斯の如し蒔図に勝れたるなれば、あのづ
  から固憶も是によらて奇蹟なるにあらずや.蒼生の安寧といふは、台は異論邪
  論と云ふ事もなく、台言に惟神とて前状いへるが如き神蟄の致のまゝにして意
  匠父子の大倫乱れざらしかば、兵域にて五胡十大団など云るがごとき大乱は曾
  てなか卜しなら・されども一治一胤は天下の常怒れば、太平久しくして摺神宴
  奨ほ溺れ、神垂の教義へて世道いょJ′\降るに憤で、君臣父子の.遣湾正しからず、



 保元平治の乳あらて執成衰へ、苧水、承久、元弘虚武等の乳あらて四浄鼎沸し威困
 暫くも止む乙となし.されども東照宮桐乳を卒げ給払しよら点始めて干弐を
 免れ、其父母妻子を養以て安穏に身を終る事む得たみ・神聖ら致正しく君臣父子
 の大倫漸減せざるによらて天下の軋も遊ほ正しきに反らしは・蒼生も是によら
  て安寧なるに非ずや.
  天照大神神器を皇藤に授け給ひし時より、忠孝の造顧れて君臣父子の大道眈
 ほ明なら祓武天皇天下を】統し給払橿原の宮心即位ましノ〜てよ†君臣の祀
      \
 益々正し、霹時を鳥見の山中に設て皇祖天神に孝を申べ給・以しょみ、父子の思念
 隆なら.然ば今天下の臣民、父に事へ君ほ事Jる誰か天照皇大神と神武天皇と
 の教化を仰がざらんや.されば教化の本に服ひ奉らんには、天照大神祓武天皇
 を祀るべきは勿論なれども、今至尊かたじけなくも日神の正胤にましまして、天
 使に居て皇祖天神を奈多給ふなれば、海内の人同心同徳ほして天朝に誠敬を毒
 さばその誠敬は白から皇祖天神にも通ずべし・
と女共著江湖負瞳の中ほも「建国の大憶萬世と錐も不可襲事」と題して、馳捜.の襲ヂ
                                                                                              ●
可らざる所以及び三種銅器と我固絶との牌係を論じてI

217

  天下の事千希世と錐も鍵ずべからざるものあら人情時勢の宜しきに随て魔
                                                                                              ●
 通せざるを得ざるものあら.此南端を知>ケÅと欲せば速くは天照皇大神、神武天
 皇以凍歴朝整瀞明王の深意に本づき、近くは東照宮孫謀を飴し給ひし神算を奉
 承して深謀遠慮すべきなり、襲ず可らざるものは建闘の大憶なら.
  ▼鐘図の大障と云ふは天地拗けし始めょら天照大神黄世の基を開かせられ天
 位む皇孫に俸給ひし時祓垂、貿剣.内侍竺二種の神器計授け給ふ.是智仁勇のご}
 徳を備.て天位の′信となし給ひ、千萬世と錐も天日嗣易らせ給はず、君臣の義の正
 しき事四瀬高固に比類なく、又三神器の中にも実鋸をば書を洩るが如くすべし
 と宣ひしょり、日嗣の短資鋸に映じ給ふ御容は即ち天租の遺嘘にして≠萬世と
 雄も天租と同性にてましませば、念租修徳の孝を毒させ給ふ轟、天地と共に窮み
 なく恵臣の義と父子の我と惇き事五大洲に等倫あるべしとも覚へず.かくの
 如く天地の初よら忠孝の数立て天地有ん限らは轟る乙となし.加之應沖天皇
 の・朝に尭舜孔子の数侍らて是む以て忠孝の数む潤飾せられ、文実彬々たる大道
 益々陰にはならし在ら」 依て東照宮も日本の大貿は三種神器ならと仰せられ
 たり、是神州建囲の大憶にして千萬世と錐も襲更すべか、ちざる虞也.



と云以又盛固の大健を明にして天下の人心を一にすべき事しと超して感興を修め
て天下の民の迷を絶しめ人皇の世の租宗の祀典を興し、線に諸図の名祀を寄興し・
名賀功徳の神牢も祀典に列し、皇親以下貴者の子女を虞置し・諸鋼神南の制を産正
する等は、以て建国の憶に添ふ所以なる事を論ぜ` 其他正志露文稿牧むる朗の
諸篇由憶に関すると乙ろあるもの一こむ左に掲げ几・
 輿小林子敬岡崎子衛書
    (寄ら大日本史命名に就きて論ぜるものなら)
  月日、彰考舘散生曾澤安、僅致轟小林子敬、岡崎子衛足下祓以−義公之修数也−其要
 牢正名一革也、然大典未顔、中道損世奥戎公生二於官年之後近海二党籍毒見偉論虚出“叫
 人章之表窮督二励史臣顔討不急、遼至レ上之木義公正名之志、穎以不海奥・欝尭之時高
 橋藤田二先生、狗以名、大日本史之眈於顔不妄・反復持論、自之先公転以二史痛論後名
 正言順義公正名之義虚以下儲奥青年積攣一朝氷稗1李亦快事、然而集意亦不レ襲撃
 窃憂義夫日本史之名其播二於些也久臭、而上梓之褒成功在近衰削岡合議戚乏天関り
 叡蟄嘉納壷南廷議有二賜眈之事蛮地可二以命乏者、則恐亦取エ其久播二於世者致命乏・日
 本史之壊、出熟朝廷朗由如於東洋衰捜若無数考然以払命塾、大願二囲頃日胤之統、由y

218

 是而輿二役異邦易姓革命挙以別、神明之邦、由衰而以見エ其廣大無外延、然則此故非l勤
 在所X宜レ賜也、故其自我命d之、輿三朝延賜ア之三者雄レ如y有二小異−而自a天下而大二親之→其腐二損
 固準則一臭、縦令本藩狗免宜ハ洩叫而誤賭レ蹄;於朝廷り豊義公正名之意哉.不レ宜レ冠二以団塊り
 藤田先生論d之眈備、安復何敢容味焉、今本藩修史之憶、欧傲こ漢土歴史例り則其命名亦
 不浄不敏頒此−也、漢土之俗、其君数易知事桓而其歴史各紀叫二代之事故冠以二団故考
 皆封重代之稀議非下野外固繭云上也衰其卦二外団知自稀日二中国南其歴二畢数代衰如二史
 記三臥志如−五代史等二不レ可じ短岩一代之験】者、葬嘗開レ有申冠以二中岡妻上若東通鑑、通典之類、
 亦皆泣二畢歴代一雨不レ以二中開意d之則、其寧代塊)非}勤二外囲】而栴上也明臭、無レ朗L封者、所二以示二
 虜大無外一也、然別傲d此而命名、豊得a以¶勤二外国−之栴上而冠中之哉、今若神州固、無;異代可j封
 南日本云考亦封二外夷乏稀、以冠二日本二者.錐レ似二漢土之史】而、英資則不レ免二大相径庭「也、夫
 無二兵代之可X封而傲γ封二異代】之構い宜二其不ソ免二牽張一也、僕久持二此譲りハ下略)
 三器集詮序.
  天地之間正気之敬、日ソ仁日レ義、仁義之施莫レ大二於君臣父子「也、神州大陽之所レ生、正気
 之朗y番、自二天地割判−両君臣定、神胤相承皇統連綿、停以至こ於今り錐ヱ時有二治乱−未…昔有こ
                                                                            ′
.入来二倍神器り内臨二中開り外御二戎秋‥神器之重、宇内無二、何其盛也、昔者天租之侍こ位皇準



 授以入曜鋸草碇剣八坂魂玉三種質物、、勅日喪章原中図書子藤可主之地也▼爾鹿
 而治焉、驚舵之隆欝輿二天革無窮奥女持】面鏡白、各鬼親施猶議レ車於基乎列整告奉以
 鳥夷租之神以寧天位之信惑此二譜玉由比二藷鎗衰比二譜剣ね−敵天喪敵民矢車地牢而
 君臣定奥、仰二実鋸議コ天租精光痴態形影粕惑者垂子神藤莫瀬夷租遺準而父子之思
 申−敵萬世奏、仁之輿義大本眈立輿二天地示易夷胤典祀萬斯年二於此衰、而神器則自二太
 初繭侍二之無窮議租神武天皇筆知橿原】奉衰之正殿姦沖天皇健真横二神威顔二之笠縫り
 別模二造銃創改名二護身殉璽及レ車後些王網野紐盛則躍女於天徳長久如則準海於毒
 永論神代薔物則垂仁天皇藩移二安於伊勢甘本武蜜奉二神剣南東征、及;凱旋‥留乏尾張り
 即熟村神是也、玉則議永之乳失乏、常陸人片岡経春得二之海中轟乏天関南驚録三奉二
 祀於伊撃寧天下率如天租之神童器歴然至み猶存衰臣一定祓胤相承、繁藤之隆、輿−
 天壊転義、内臨二中開如御戎秋頑音攣願顔執敷革趨閑下也濾准后之牢常陸l著紬皇
 正統記砧義公之修兎虐撃皇統於神器朗牢共意深近世聾降二士庶古議二孔孟示レ牢敵
 忠孝之大本垂論開講、不レ知顔憶之寧何物衰不敏、兢憂乏久奥.我真有二小川翁友義倫、
 字子革世名工常陸那珂郡青柳痢宮下卜略)
      天保壬辰仲春常陸曾澤安識、

219

 擬エ新井筑前認二逓増人一書.
  ハ上略)今我日本自」天地割判一雨神明垂レ統、天胤相承以革臨四海り愛拳由物り域内朗′崖
 民用無b閑、ハ中略)君君、臣臣、父父≠子、夫婦長幼朋友皆虜二其居一重衰架〕中略)我偽者串太
 初】垂二無窮り風土之宜固自有レ在焉.ハ下略)。
 答二合衆闘犬統領革叫赫転、
  =・・・我日本自L天地剖判∵天神建レ極天孫舷承鐙二歴千高年∴==.
 欒侮策、                、
  天朝開闘而衆、以二天月之胤由州二臨四海り萬世歴々輿二天川琴無レ窮、朗l一以首一出萬固】徐威塀′
 震海外実服観光揚烈、栄転日辱三園鰹「下略)
 以上正志藩の論ずる朗、要は皇統導線として上下の正しき事と」ニ器の食費及び
皇国の地位、優秀萬固に此なきを説く打外ならずと雄も、論を行る一線煮れざるも
のあ阜、今日と錐も囲膣を論ずるもの多く加ふる能はざる怒り、其他復台同学者の
図憶論に対する批評あ阜」備に補はれず、和に泥まざるの達識見るべきものあり、後
章復清岡聾浜と揺聾者との論季を叙するに常→て詮か人と欲す.
 倉澤安の門に、藤用彪、豊田亮あみ、藤田彪は幽谷の子にして東湖と親し.蛮性至拳、




熟烈なる尊王愛国の士ほして、其回天詩史、正気歌、何れ尋我神州の光輝、国時の精華
む絶唱せるものにして、最も著名なみ.正気歌に日く
  天地正火気、坪然鐘紬州秦寧不二攣魂々撃千秋議多大寂水窪々琴入州蛮屡萬
 粂楼り衰芳難L輿侍「凝名二宮錬銭貌刹可ノ断レ泰、丑臣骨熊累、武夫轟好j仇、神州軌君臨、萬台
 仰k天皐皇風拾l六合二明徳倖二太陽】不二世無i汚隆正気時放」光、乃蓼二大建議相川々排=攫曇「乃
 助二明主断‥飯々焚】−伽藍申郎昔用乏、宗敵儀石安、清九曾用乏妖簡肝臓琴忽揮二寵口剣】
 虜使頭足分、忽撃西l梅観一怒涛敬ら胡京「志賀月明夜陽気鳳費巡、芳野戦酎日、又代工藤子
 屯恵投…飯倉窟義憤正帽々、或伴飯井騨意訓何感攣或殉二車目山南囚不レ忘女、或守二伏
 見城二身常】海軍甘升卒二首歳、斯気常獲レ伸.然方叫衰欝届垂由十七人一刀知人雄ヒ、英蜃
 未喪温衰在哀地間議然叙喪偏執能扶轟之直立東海漬、忠誠尊皇軍孝敬革夷神惑レ
 文発奮レ武、誓欲レ清二胡慮り一朝天歩難.邦沖心身先倫、頑鈍不レ知レ横、罪庚及L瓜臣り弘臣飼二葛革
 君尭向」誰陳、弘子遽二墳墓南以謝二先観り荏蒋二周星.狗有二期気随り嘘事錐−高死l豊弘輿レ汝
 離り虐伸付二天地→生死復稟疑.生曹レ一軍君菟叫復見レ痕】由推「死為二忠義鬼「極天護二皇革
 又烈公の弘道館詑に対する述義を著し、我国捜に於て皇室は必ず日神の一系に
限る・べきむ論じて臼く、

21a

  台は天皇と解して須明良美盲登といふ、須明良の言たる統御なみ.美音登の
 言たる尊稀なり、蓋し猶ほ宇内を統御するの至食と云ふが如し。又天業を解し
 て阿麻都斐と云は天日なり、都岐は総嗣なら.蓋し必ず臼神の胤にして然る後
 皇緒を根ぐべきを謂ふなら.爾衆天日の嗣世々神器を奉じ以て萬姓に君臨す、
 群神の胤亦皆其職む世々にして以て皇軍を堺戴す.是れ蓋し神州基を建るの
 大瑞なら。鴨呼天租天衣統牢垂れ業を創る所以盛々乎として其れ大在卜、刀ち
 驚舵の隆なる天壊と窮らなき者は登に偶然ならんや。ハ弘道舘速義巻上)
 と、又正志粛.の池舜篇に序して臼く、
   真字之磨き、仁厚.威琴神州よら付きは美し。人類の衆き大義の沌、なる君父よ
 み隆きは美し。是れ愚夫愚櫛の知ら卦き朗、薬ぞ多言を侯たん0 抑夜謀詭計を
 逢しうするに至つては、則ち夷攣の邪気或は是を以て神州の威宴を間するに足
 らん.乳賊の詐術亦或以て者父の恩義を奪ふに足らん、是れ愚夫愚好の惑ひ易
 き所、而して利書得喪死生駒頑の単に臨んでは則ち所謂才臣智士も亦或時は首
 鼠両端示測の綱由て以て構す、豊深く慮らざるべけんや.我友曾澤伯民斯ほ憂
 ふるあみ、昔て新論若干巷を著はし、以て天下の大計を述ぷ、斯の篇の若きは蓋し



題其緒億のみひ 然れども其推廣する所以、愚夫愚好も知ら易き朗、鯛襲を未粛に鍔
 せんと欲するもの、深切著明と謂ふべし.恭しく健ふに神州は武を以て基を建
 っ、若夫れ文物の盛は則ち西土因乳の教育に資るもの砂からず・今や西土既に
 胡元に浸し、又満清に隋り、所謂鷹懲の訓塵接の義、徒爾之む」苧言に付す、加之、堅昆
 丁客の類盲人の一小夷親するもの、往々傲然として坤輿の竿に顔属す・宇内の
 襲亦大在ら.濁ら赫々たる神州、賛藤の隆なる乙と蕗世由若上下の分内外の群、・
 厳乎として易ふ可らず、則ち彼の之を峯言に付するもの−我れ安ぞ畢て之を資事
 に施す乙とを得ん、姐奔篇の作其れ已むべけんや・
と、以て西土と我固と其建国の膠、其根底を異にして其尊厳確乎・我邦は到底他の団
 々の比較にあらざるを明かにせるなみ.
 豊田於岡も亦曾澤正志の門に入り、後を襲以て彰考舘総裁となれる人にして、束
湖の著弘道館越義に序を附して其所謂銅盤一源の大道在るものを説く占く、
  ハ上略)夫れ世の所謂文武の士、其普初の心む用ゐカを毒す、豊大に美ならずや癌
 貴に阿狗し、名利に奔走す、流弊の極此の如きに至り、終身皆々として頬骨俗束の
 寵絡顛倒する朗と為る.有略)凡そ是皆神聖一源の大道を知らぎ&の故のみ・夫

21b

 れ銅盤一源の大道を知らざれば、文士必ず俗撃に流れ、武士は必ず詐術に椙ら−終
 日延々精細を疲弊して自ら是なみとす.何むか銅盤一濾の大道といふ.蓋し
 天租の鎗剣を天孫に樽へ、下ほ降臨してよタ、神明の象見はれ、君臣の分定まり、父
 子の倫立ち、萬方を統ぶるの遣行はる.即ち垂訓に所謂実節の隆なる乙と常に天
 壊と輿に窮なきもの、其言千萬世ほして惑・はざるべし、則ち以て一源一道の自ら
 凍る朗を想見すべし.
と丁又曹て君侯に戯ぜる欒虜策なるものに、我日本国の神重なる所以、神明の尊厳を
民ほ知らしめて以て邪教聞入のひま無からしむペきを論ず、日く、
  蓋し我中開開嗣以水神遣を柴立し、天地神武に奉事し、租宗嘗て斯道を執ら以
 て天下に数ふ、故ほ民俗純∴天下太宰、中葉の振はざる鬼を侵し憤す、彿氏なるも
 の其間に出て邪説を皇張し、脅民を煽惑す.是に於て蛮人神道の意混然として
 明≠ならず、民人疑惑、適徒する朗を知る美し、今邪教を防がんとす、陶土ら神祓祀
 典を明にし民むして趨向する所を知らしむべし.夫れ天下の神破、音き乙と天
 租に加ふるなく、厳なる乙と天組ほ越ゆる無し、赫々の神室天地に照臨す、即ち天
 子の観光ほして萬生の望む所在み.是に由て次第して、下、固邦官神に及ふ、骨民




 に功徳あらて祀典に列する者なら.令式哉すると乙ろ憫然として見るべし.
                                           コ l
 唯後世の■不渡在る、両嘗の義に味く、格廟の誠に閑・ぐ、云ほ神道冥味ほして人事に
 閲る無し、天人帝離教化の道明かならず〕異H邪教之に間し{中開ほ潜入し.我民
 を亜惑せん、我眈ほ致無し、焉ぞ我民の必ずしも信ぜざるを保せん.ハ中略)方今宜し
 く群神の祀典を定むべし。尊き乙と天租に加ふるものなく、郡固官神之ほ次ぐ、
・其本を必し√・−其革を分ち虚をして趨向其辟を惑はぎら七む、民所論あらば其固
 神に由て以て天租に逢するを得ん乙こと、猶ほ其槻君ほ由て以て天子に逢するが
                             一
 どとし.民に不順あれば則ち天租の柴つて兆鮮を降す、書あれば則ち天租之を
 質す、人君は則ち天意を奉行するのみ、天下の民むして暁然宇内の主筆即天租を一
 知らしめ上は祭祀の義を明かにし衰事の誠を致し壷神の威命を逝へて民を教
 ふ息は嘗敬の造を以て、下趨く所を知り、我神を音び我君を敬し、肯て父母を棄て
 ず.云々.

 と、

 始め光囲が我国鰹の特別なる見地に立ちて南北朝の正悶を正すや.之に対する
譜聾者の論叢縦横、或は南朝正統詮を栴へ、或は北朝の為めほ群ず、或は両統共に正

21c

 しき所以を論ずるものあら.殊に幕未ほ及び最も盛ならき.我国憶に関する見
 解の之ほ伴ふは元よらにして、今一々之等む掲rるの要なきも−山蝶祓.建水行違の
 論を摘記すべし、山頼祓は天保十年に国史纂論を公ほし、其内に南北朝の正閏を論
 じ、神器の所在に依りて皇統の正閏は一定し、又其開に疑義を許さゞるは我国憶の
 根本義なをむ説く、日く、
   或謂ふ、吾邦南北各朝廷む立つ、骨神武天皇の系統、固よら軽重する朗無し、正閏
  異偽を以て論ずべからずと、余以らく、然らず、夫れ貧民は逆賊なり、光明帝は貧民
  の立つる所在り、貧民逆賊の名を忌む、是に於て皇子む奉じて碇と稀し、之を挟ん
                      ●
  で以て天下に合す.然るに後醍醐瀞神器を擁して俄然猶存す、則是具天子なら。
  是れ異たらば彼偽たる知るべきなり、既にして食氏帝に逼つて神器を新主に倖
  へ給はん事を講ふ、帝乃ち偽器と造らて以て之む授け、射らは兵器を奉じて南す、
  則ち南は具にし七北は偽たる亦知るべきなら−且つ逆威迭に起り、各皇子皇藤を
  奉じて砕と解す、骨正統を以て自ら慮る、則是大乱の造なみ、天下分寧何を以て定
  らんや.夫れ君は軋む治めて正に蹄する者なら」天下君を立て以て乳を生ず、焉
  ぞ君用ゐんや、故舵君は必ず一にして天下定食る、失れ天に二日なく、地に二王無





  きは古今の通義なみ.故に之を以て正となさば彼れ偽たらざるを得ず.南朝
  飯ならと雄も神器を剋宗に承け天下の主たる乙と久し.北朝張ならと雄も英
 資は逆賊の立つ.る朗.而して足利氏之を挟んで以て天下に合する者なり、故令
  征伐固よら足利氏よん出づ、北帝は乃ち贅購のみ、故に足利民有らて則ち北帝あ
  り、足利氏愈くは北朝なし、如何んぞ正統を以て虞する事を得んや、
 と.遽水行遣は文久元年皇統正閏考に\序して、
   伊邪却岐伊邪那岐美命の生成給払▼大穴遅少名毘古都神の作堅給ひし豊輩原〆
  の瑞穂固は、懸まくも可暴き天照大御神の御言依しの陰に」呈御凝命天磐位を離
 ●
  れて筑紫団に天降座しょり、天津日嗣、天地の窮らなき事の如く、浦絵々に繁柴座
 つゝ大御神の授け給以し三種の神実を大御信物と烏て、御代々々に侍へ給払、其
  天位少も動き無く、堅磐に常磐に天下所知者乙と資に比類なく、尊しとも書き御
  国風に在む有ける。倦しか漢固などの習俗と違ひて異姓人の互に纂び家人如
  き−卑く濫なる事露程も有ねば、帳合幾千萬の御世を累ね給ふとも、何時も唯一系
  の御世擬にて紛はしきふしは有ざる乙とを、世間は吉事凶事吏替る理にも有れ
  ば、数多年の衆経氾る間には」菌き軋も打交らひなにどして、皇統にも世人の思ひ

21d

 惑ふべき事をむ由熱には生にける、然るは固一統には座せせど、世の擾乱に依て
  別帝を立参らせ、或は御世粒の便ほ随て大后の御政を囁ら給ひ、或は御紀を改測
  られしに依て、御事跡の詳ならず為れるなど、種々の事等有なるが故に、其異なる
                                 J・ヂ
  と杏ざるとの差別分難く馬らてにぞ有らける.乞、其中に人の殊に惑へるふし
 を.少此に論はむに、凡天津日艇は天下に唯′一杜座まして、先帝よら御位を譲り、三
  種の神器を侍へ給はざる限らは、絶や他よら推して仰ぎ仕奉らたらとも決て異
  の天皇には座まさず.
 とて天位の唯一無二なるべき事が我國體の本然なる事を以て南朝の正しきむ論
 ぜら.
  幕末の志士として有名なる富田稔蔭は陽明寧に依壌し、其思想系統を山鹿素行
 に受け、又闇奔流の影響をも受けたる人な.るが、其勤王の行実は其日本図膣に対す
 る由覚よら凍れる事云ふまでもなく、坐獄日録、武数小革開講主意等に其固憶に掬
 する見解の一端を覗ふべし.坐獄日銀の大要ほ日ふ、
   皇統綿々千萬世に侍らて襲易なき乙と偶然に非ずして、即ち皇遣の基本亦安
  にある在ら.天照大神の銅器を天凝凌々杵尊に侍へ玉へるや、貿節之隆興二天革




 無レ窮の御讐あ` されば漢士天竺の臣造は吾知らヂ重囲に於では貨藤索よら
、無窮なれば、臣道も亦無窮なる乙と深く思を留むベL.
 とて、我鼻統の一系と臣造との願係を論ず、是よらさき安政三年入月二十二日を以
 て山鹿素行の武敦全書を開講するや、其主意を叙ふるに骨身て皇国の尊厳と士造
との鯛係を論じ・且つ図各々共特殊の造あらて他国の造を以て必ずしも我国に用
 ゐる能はざる朗以む論じて日く、
  富も人も費き皇国に生れ癌に吾々は武門武士たる上は、其職分なる武士道む
 勤め、星図の大思瀧報ずべきは論ほも及のこと也.然れども誰人も職分と図思
 を知氾者はなけれども、勤むる者と報ゆる者とは今台ほ亘丸て甚稀也.其故由
 を考ふるに、勤むるも報ゆるも左迄ユハケ敷事には非ず、唯造を知ると知ら沿と怒
 り、果して能く造む知らば誰か勤めざらんや、誰か・報uチbんや¢ されば造を知ら
 んと在らば虚々先師の乳誠を服鷹し給へ衰物も古今に多き者なるに・何故余が
 殊更ほ先師の音を信仰するか凛れば、吾が先師の数は此審を見れば具に知る乙
 となれども、其一端を云はゞ兜師曾て北条安易公の宅へ召出され、赤穂滴居の命
 を承られたる事を見ても、先師平日の覚悟筋を知るベト女赤穂の遺臣亡君の仇

21e

  を復したる始末の虞置を見ても、大石良雄が先師に畢得たる朗知るべし.ハ中略)
  先づ士遣と云は、無祀無法粗暴狂悸の偏武にても済まず、記議詞章浮華文柔の偏
  文にても済まず、兵武具文を寧び、身を修、心を正うして、図を治め天下を平にする
  乙と、是士造也.図膣と一ちは議岬州は神州の憶あり、兵団は異国の膣あり、異周の書
  を凄めば兎角兵団の事のみ美と思ひ、我国をば却て賎みて兵団を羨む様ほ戌行
  乙と聾者の通息にて、是神州の憶は異開の憶と異なる謬を知ら氾故也.故ほ晦.
  巷の小畢にて前に云士造は大抵知れたれども、是は唐人の作らたる書ゆへ、固牌
  を群ぜずして遽かほ凄むときは、同じく異囲む羨み、我国憶を失ふ榛に成行(乙
    ▲▼
  とを免れざる乙と−先師深く慮ら給ふ、是式敷小学を作る所以也、是を以て周捜を
  考ふべし.
   扱其士造図性は甚切要の事なれば、幼年の時よら心掛させ工夫さすべき乙と、
  是れ撃の本意にて、詰ら志士仁.人と成る棟にとの数誠なら。
 と、此精神が幕末志士の間に破増して遂に維新の大業を助けたるは今更云ふまで
                                                                            ヽ、
・もなし.

  最後ほ徳川時代の未に於て復古周章浜の人々と儒聾者との閏に惹起せられね



 る論争ほ就きて時速せざる可らず喪主として彼我国鰹の此較論ほ賭すれば老身・
 賀茂鼻緒が図意考を著はして我国憶を推し、之に対比して支那の図鰹の畠しき
所以む論じたる事は蝕に之を詮きたるが故に此に蒋叙せず・之に対して海野公
婁は凄図意考を著して之む威す▼其大意に日ふ、鼻緒動もすれば「直」竺≡ど、直は直y
                                                                                                          ∠
備径行の直、即ち戎秋の壷なり、蛮人の造を知らざるものな` 我国の上古異母兄
妹の粕増せるは之れ禽獣の造在り、文字あるは蛮人の鈎あるのみ衰押が繁文纏頑
有事無益とせる鵡染乙を治図必須の具なみ、と、之ほ対しては、降らて文化二毒に−本
居宣長の門人橋本稽彦が群讃璧息考を著はして公嘉の詮を反駁す・先づ讃図意
考の著者を以て租裸の末流在らと断じ・鼻緒には慣各多少の堀珪はあIクとも、其台
拳を開ける功は浸す可らずと論じ女望覗図意考の章句む掲出し虚条之に批評を
加/へたるもの夜阜.要は支部の蛮人の造なるものゝ無用にして寧ろ危険なるも
のなる事を説き女漢聾者流が動もすれば文字を侍ヘ労る恩を口にするも▼之れ異
弛もいへるが如く、我邦ほやがては自然ほ蜃達すべからし便利在る音韻文字の防
ふむなして、かの面倒なる漢字を飼字たらしめたらとて−其輸入を以て団のため書
ぁらとも決して益あるものにあらずとなす・

21f

 之よら先き本居宣長が眞沌の詮む絡ぎて更に一歩む進め、直日登等を著はして
御開振を詮きたる事は眈ほ述べたるが如し0 此直目撃に対する反駁論とし七出
でたるものは市川匡の未賀能此祀一巻な` 日く、宣長は神代の倖詮を以て鯛菜
にして漫に人智む以て付駐すべきものにあらずとなすも、日本の神代の事は、箕は
人事にして背理を以て解稗し得べきもの恵ら0 又同姓相要るは野攣の民のする
事にして神代は赦し三旦長筈の主張する如く渇仰すべき時代にあらず、蛮人の遣
入らて始めて男女の別も明かになれ多度長は支郵の纂奪を攻撃するも戎邦とて
乙れなからしとはいふ可らず・古事記日本審紀に載せずとて信用すを能はず、と.
 之に封トて更に宣長が一矢む酬ひたる・は安永二年に著はしたる葛彗二巻なら。
之を葛花と名けたるは漠意の毒酒に酵ひたるものを薗すといふ潰現にて、下巻に
「金今難者を憐みて懇け此葛花を授くるを、一たぴなめて年密の毒酒の醇心をさま
せ・猶おのれ酔ずと思ひてあらそふ心の盛ら苧bばおぼえずいみじき過あらん物
ぎと滴るもの即ち之な七 鬼づ未賀能比鵡ほある章句を掲げて、一々之に駁撃を
加へたるものにして宣長が老荘の詮に似たる「自然」といふ事を讃美するを、老荘の
如き蛮人にあらざるものゝ読む採るは不可ならとせるに対して、之れ恰も博徒を



 温むの殴り、草火災を救へる行為をも併せ恵むの頻にして頑冥いふに足らヂとな
 し、又我神代の侍説を近世の理義を以て説くべしとの市川の詮に対して、蛮人は慣
 面む被れる大なる盗人ならとして、支那の國體の非を詮き、易、入卦等の取るに足ら
 ざるを断ぜら.
  共後固聾者の恨南を被らて異抑.宣長の読む併せ攻撃せるむ沼田順義とす虐義
 は本姓大三輪氏.寛政四年上野国に生れ、始め留を撃びトが明を矢して後江戸に住
 み、林述藤の門ほ学べる人なら.即ち鼻緒の図意考に対して拷意考群妄を著はし.
 宣長の直日登盛花に対して、級長月風を著して、泣びに乙れを攻撃し、又直日登を攻
 撃せる市川匡の未賀能此樽をも壌薄見るほ足らずとして併せ之れを非難せら.
 図窓考群妄、級長月風、何れも其被攻撃書の本文む摘出し、之に対して逐条論駁を加
 へたるものほして其大要は、月本人として支那を軽んずるは佃可なるも由時に共
 闘の蛮人をも併せ凝るは乳の基なら.支那にても式王の如き恵きには粕連なき
 も、そは他の蛮人の債値を書ふものにあらずといふほあら。
  之に対して平田篤胤の門人新庄道雄は葛根む著して科長月風を反駁し、又豊前
 の人原田重枝も迦倍志廼風を著して同じく級長月風を攻撃せら。即ち−掛村民は

220

 魯民丘の畢を以て逆謀して星図の造を詐偽す、蓋し魯民丘は垂者なり、皇図に居て
 星図を逢す、何ぞ丘之を数えんや、今の世の店聾の人等は、豊岡の事とい へば云払け
 ち落すを己が手柄とするは如何なる事ぞや.とて儒者の態度を雑じ、大憶に於て鼻
 緒、宣長の誼を租越し、又招田が直日登の具意を解する能はざらしとて攻、撃せら.
  此に於て静粛義雄なる人、迦倍志廼風群妄二巻ハ天保五年)を著して重枝を論難す、即
 ち神の温も盤の造も普天地む則として設けられたる造なれば.要は一道にして皇
                                         キタナキ
 固に之む佐賀と云ひ、赤き心といひ、支那に性と卜ひ、天地といふ、又我邦に黒心と云
 ひ、支那に於て人欲といふ.同じ事な` 然るに具淵虐長が輩、神の御代には遣もな
 く、数もなく、蛮人は皆偽物なら.天命は蛮人の偽作なり、天道も有や無や覚束夜しと
             ア〆
 い以て、口に任せて遂に敵なひ、数を云ひ消すは何事ぞ、とて異淵宣長む撃ち、此論墟
 を以て胡沼田の級長戸風を群護し、級長月風及び図意考沸妄を攻撃せる原田重枝
 の迦倍志廼風を論駁せるものなら.
仰 重枝は更に神侍迦倍志廻風正言を以て之に應戟し、信濃の「人・森文康威須美鎗二
 巻ハ天保五年〕を著して級長月風を攻撃し、頓義が記紀を排して沓事紀む採れるを厳し.
 重くしげ、直日登」葛花等を組越す.



                                                                           J ∴
 三芳野直温顔鋸鼻偽級長月風二巷を著はして其読む験し・天保九年には下線の
 人、菅原定理は花能志賀良美一巻を著して頓義の級長月風を弊難して豆長を忠肝
 義臆の名臣、沼田む巧言令色の偉人と罵ら▼ヨては宣長は晴天の朝高山の厳に登ら
 て四方遠近を望むが如く、沼田は南天の夕魔の谷間に才みて望む朗数歩に過ぎぎ
 るが如しと極言し、殊ほ沼田が直日頃葛鹿等を通編熟漬せずして漫馬せるを排せ
 ら.天保十一年には伊勢茂美、非葛花を著し・て宣長の詮を駁せら・即ち宣長が蛮
 人の遣未だ凍らざらし前には我邦ほ櫓義忠孝の仝からしといふを・史富む藤いた
 るものならと否認し、宣長の所謂直情径行は禽獣の造に過ぎずと駁し、兄弟相婚す
 る我邦の風を攻撃し、蛮人の数が徒に実行不能なる理想に趨するものならとの葛
 花の詮を厳し.之れ其志なきが故ならと断じ豆長が、天照大神が天津日の事なるに
 外因ほは此正しき樽なき故に日月の始を知らずと云へるを難じ戎邦の台倖は我
 邦の台侍なり、支那には別に又天文の撃あらとなし・入卦の詮を壌薄ならとせる詮
 を然らずと駁したるなら.別に脚線として囲寧論を添へ−一般囲聾者が我邦を神
−図と解して理想的の固ならと云ふを灘じて日く
  周聾者常ほ云ふ、本邦は神国な多重固の数を慣るべき要なし人倫の造も自ら

221

 備はらて即ち中正む得て鵡義忠孝の致は他に慣らざれども知てする在らと−是
 れ妖妄の新説なみ、信ずべからず・本邦第一の本書六国史を詳に見るときは、台へ、
 鴻荒の世・革味の時、本邦に足らざ古事のみ多くして領土よら慣ら凍らし番卒月
 む逐うて詳に考る時はょく知らるゝ潔卜・
 とて−後に支那の文化輸入せらるゝに及びて漸々に我国の徳制も完備せるならと
論じ・又兵団む禽獣固、蛮人を大盗人と云ふ事につきても、断じてさゼ非ずと弊じ、我.
先王骨盤人の造む用ゐ給ひしに、之を軽蔑し、公上を悍らず、大盗人といふもの乙そ・
 己れが大盗人、飼賊なるむ知らざる馬鹿者ならと仰崩れら.
 また寵麿なる匿名を以て虚本居翁書」を著し宣長の読む批難し、併せて眞淵をも
 批評せるものあり、其首に革本居宣長所短音事記偉有顔作歌を添ふ。
  いはまくもあやにかし乙き・すめろきのみきヤの神の・みしわざにaまししく
 には、やほょろづさわにあれども、をが中にわきてまほらに、うごきなきやまとし
 まねに、みやはしらふとしきたイし1みあらかをたかしりせして、高ひかるひつき
 のみ乙の・しろしめすくにはむそまり、やすらけくたひらのみやに、もゝつとふみ
  いづ′のひか阜、いやてみほ照らたらはして、ひさかたのあめつちのむた、と乙しへ
                                                                        ▲■U



  ほとら.でさめてし−あつさ弓やしまの外の、民Lさそなひきまつろひ、乙ちrlの
                                                  一岬
  みそらほたゝへ、あふくとも造は神の代、ひとの世も同し乙ゝろの、水かゞみいや
  ち乙なれや・しかれともくすトくたへに、かたらつく乙とのせに′1、かきつたふ
  ふる乙とふみの、うみの乙とうヘムかゝらし、そかゆゑはしるひとそしる、なか夜
  かにあき澤小野の−あさはかに思払まかへて、井のうちゆそらみるがごと、しれ払
  とのいめとくか乙とさかしたちからふみ乙ゝろ∠らすごくいにしへまねぴ、し
                                  ▼
  かむらといひもてさわぐ、いせ人はひかごとあほし、いさ子ともはかられなゆめ、
   つたへ乙し神代の遣は、しかにはあらしを▼
   又率直日登夢鰻歌二首、
  なほから斡汝かまか乙とはまかつ日の神のたばらしあらみたまかも.
  うつそみの世人まとはす乙とだまはなかょみつとにあ∽てしゆかな、
   又革紬代正夢作歌.
             ●
  いせのうみのなかひらひてしまさ乙とはた食もなきさのひちにさらける、
 −
 と・かくて本文に入ら具淵を許し、宣長を許す、大要に云ふ、
   異淵は銭中の静々といふべく、群才胎智頗る衆人に超て租税が亜流なり、其論

222

  著せるもの妄言乱造少なからざれども.其慧巧奇扱、往々人を動かすと乙ろあり、
  資に姦侍の雄にて可島の才あり、利日の如家を覆す者に近し・抑宣長はたゞ国
 史記録舌歌等ほ樽雑に記得せるのみ、其野人は茸に一痴鈍漢にて、其蘭慢不遜、非レ
  垂悔顔の罪は更ほ鼻緒ほ過大り、其古事記侍数十巷車生のカを掲して撰みたる
  も虚に舌言の訓をクダノ1しく詮き祓洞地名の崩在を乙ちたく考へて盲歌台
 記などを煩しく引詮したるのみほて、其篇章の大旨は紹えて一度の凝明せる見
 解もなし、先達侍密の薔註にいさ\かも理義打捗る読あれば悉く漢籍儒意のき
  たなくうるさしなどそしらて、究尭其理はすべて神の御所為にしていとも妙に
 奇く塞き物にて、凡人の限らある智にて測ら知るべきほあらずと云ふょみ外は
 なし面々我しら凍に長々しく輿論せる乙とも、亦痴人の夢を詮類にて虚無益の
 開言刺語のみ在り、古事記は神代の樽のまゝの古言ならとて、強て古めかしき訓
  をつけ、あら氾てにはをそへたれども完凍漢文格に和語を混へて作れる事なれ
 ば大蔵詞、宣命などのなだらかなる語には似もつかず、最共可咲は火忌の事を語
 る也、其痴頑の甚きは此一段を以ても見るべし、宣長が言の如くならば民を撫・世
                                  魚≠
 を治んには先拳天下の火忌を厳になす乙と廟官痢官の家法の如くだにすれば



 綱常の数も施さず、文武の政をも修めざれども自然に民もしたがひ・世治まみで
 太平の風化を成すべき事と思へる在ら・鳴呼己が身心の正邪事業の是罪は一竜
 も省察せずしてたゞ火忌の精密して鯛を避け編を斬らんとのみはかる虎謂痴
  頑の著しき者にあらずや.
 とて感づ其人身攻撃を行払、次で其神代古樽に対する態度を批難し・宣長が、人は人
 事を以て神代む積るを我は神代を以て人事を知れらとて鯛頑の移ら行く理を詮
くは、仝く老子の頑は鯛の伏す朗、鍋は頑の侍ると乙ろとある語意む頼みて己が濁
見のやうに審き又高天原は天上にある一世界・黄泉図は地下にある一世界にて・各−
人物山川あり、日月神は即ち運行の日月なみといへるは宰b彿氏所謂天堂地獄、日
天子月天子の詮を襲へる在らと云ひ、又蛮人在るものゝ偽善者在らと云へる雲海
り、我にも古家造あらと説けるを、漢図を羨みて彗ロしたるなろと云払・漢籍渡らて
却て我国の道徳乳汁たらと宣長が云へるを井蛙の見と罵ら▼蛮人の造を批議する
 は即ち我先輩をも罵る事となるべし、と攻撃せら・
 之に対して理口隆正の憐凝者あみ・
  皇固は世界第一の邦にして我が天皇はたゞ皇国の天皇にふはし・ますのみほ
                     」h一♪■■1一亡rゝ】LJL汀川H一

223

  あらず、世界萬固の絶主にてあはしますなり、此事、神代に幽奥ある乙・とにて千萬
  年の台そのしるしあらはれ、貫を上らて外夷悉く臣服すべき固なり、故に皇国に
 の■み造天地の異説全く倖はJてあるな` 唐土以下の邦には王統定らず、星図
  に比べてはいたく劣れる図なるにょら盛天地の異説重く侍ら拍なり、豊岡の上
 古には上・天皇よら・下針民にいたるまで、神代の古樽誼を守らて疑ふものなから
  しむ、造天地の異説なき外図の数法皇図に渡ら凍てょり、自ら人心それに移ら改
                                       カ ミ
  食り、神代の台倖蔑む信ぜざる乙とゝならたら。ハ中略)我徒は鬼神を有と定め、天地
  む神造とし、治乱興廃を神のしわざとす」儒聾者は造天地の異説なき開の読にょ
  トて、萬図を論定するにょり、鬼銅を無に属し夷地を固有とし、治乱輿巌む偶然に
  蹄す.
   英国に生れてはとにもかくにも其団の故事を尊奉すべき乙と勿論なるを、乙
  れぞまさしく天神、萬固の絶本固と定め、天孫む乙の図に降したまひ夷壊と\も
  に窮無けんとのら給へる神勅姦しからず皇統連綿たる乙と蕗世一日の如く、そ
  の詮跡かくの如くに明かにして食むべく喜ふべき台停詮む厳し、造天地の▼異樽
  在き外国の革む固く執してとやかくいふなる揺聾者乙そはかなけれ、かく云ひ




 て遂に生成を墜すならとも心づかヂ、皇国の造天地の誼と.かの開の天地の魂と
 甚等しからぎるを強ゐて合せんとするはわろく、又外固の読に後払て我開の説
  を廃するは益々慈し.
  抑も此天地は登と気と質と合以て成れるものなら虐士の窮理家は質にかぎ
 らて気霹の理に委しからず、天中に神あるは身憶に心あると同じ、心は形なくし
  て身膿むつかひ、神また形を崩し給は.ずしで天地を進退し給ふ、神と人と天地の
                      タチ                  ョコ
 間にあらて経緯なら反対なら人は経に地む離る\乙とを得ず、地上を緯に社務
 す、神は経に地上を離れて天頂にいたり、又地胎にいら給ふごれ形なき気中に靂
  貿を寂して成れるもの有れば在ら。
 とて我台侍詮の信ずべく女神の存牢疑ふべからざる由む説き虚者の説く所を逐
 条反駁し」併せて宣長及び其詮を梓護せるものなら.駁者が宣長の桟敷攻撃ヒ見
 て心外とし盛る乙卜婦女子が歌舞妓役者む払いきするごとく、あのれがょしとふ
 もふ役者を、人そしれば忽いろを赤め拳を高くして常をうし在ひ、或はいか、り、ある
 ひは泣きて狂人の如くもだゆるに似たらと云払、皇開にて他の図の垂資を尊むは
 損あカて益なしと述ぶ.
                                                                                                      、

224

 是よら先き藤井貞幹(京保七年−寛政元空は衝口俊一巻を著して我邦の言語の
大部分、が上古韓語韓音又は支却音なみといふ論壊よら出番して・日本の皇統は臭
の泰伯の後にして廃園を経て我囲に入れるもの在らと主張し、之に対して宣長は
紺狂人を著して駁撃すると乙ろあらq 其中に、臼神を我囲固有の神ならとし・我国
を世界萬駒の最上に位するものなら一との詮ほ対して、上田秋戌が其専門の言語聾
の見地よら稀して、固随の見ならとせるを憤慨して却て我国憶を書するものなら
         アシカy ヨシ
と論破したるを呵刈撃二巻となす、其書名に刈藍を呵すと解したるは戎成が大阪・
の人ならし故にして、其前編の終らにある宣長の「清めをく造さまたげて難汲人・あ
しかるものを替めざらめやしとある和歌に取れるなら・此音内容は前後合せて二
十条よら成れら.此紺狂人及び呵刈殿を併せて許したるものに椰宴賀摩一巻あ
ら−何人の著在るやむ知らず.
 宣長の直日雲局花及び之に反封せる市川匡の未賀能比連・沼田頓義の級長月風
等に対して虚に仮せず、固撃に私せざる最も公平なる見解を以て之を許し・同時に
自己の見識を披涯したるものに曾澤正志瘡の笥直日琴凄葛準嶺未賀能此琴嶺級
長月風等あら.何れも採るべきを採ら拾つべきを捨てたるもの、一々吾人の首肯



 し得べきものにして識見の凡慣らざるむ見るべし.讃直日登の大要ほ云ふ.
  温は夷地の遣在ろ、天地あれば人あ九人あれば君臣父子夫婦兄弟朋友あり、四
 海萬囲偏方下州といへども乙の五.の人倫夜き固ある事なし、3れども図に正気
 と偏気との別あらて、正気の固は五倫明に、偏気の図は明ならず議岬州は太陽の出
  る方ほ向払正気の凝する朗な.れば、君臣父子の大倫明なる乙と萬団に比類なし、、
 上古天租三神器を天我に授て、豊華原中図汝徒冶之貿藤之隆輿天壊無窮と宣以
 しょみ、君臣の義厳正にして千萬世まで天位の食きは萬図に無き所在ら.又賛
 鋸む尊名我御魂而知音前伊都岐奉と宣以しょり、父子の親虐厚にして日嗣の君
 今も天租の在すが如く事へ給ふ、是また蕗図に比倫なしと申すべし、伊邪那岐命、
 伊邪却美命の時よら男は女に先だつの義着くして夫婦の別正しく三貴子に任
 じ給心しょら長幼の序明なり、思東方鬼屋太王等の諸神の志を同くして天功を
 輔佐せしょら朋友の信備れら.
とて先づ我国鰹の本義を明にし、進んで直日登む許す。今其大要を記すべし、(馳作
f桝g増批難帽詣鵬卯ほ)
  天朝の蕗臥に勝れて尊き乙とを論ぜしは卓見にして俗儒の輩の及ぷ朗に非

225

 ヂ、されども皇統の正しくまします乙とも、英資は大観樽位の御時よらして君臣/
 父子の大倫明ならし故なる乙とを論ぜざるは遺憾といふべし、言畢せずとい・ふ
 は可なれども、萬固ともに質よら文に赴くは定勢写れば、台今の勢を知らヂ、古に
  のみ派みては図家は治め難し.
  賎a奴も忽に君となる乙と萬固にある乙となれども−漢土にも後世の事にて
 台は伏義神意黄昏尭舜等何れも僻王の胤ほして代るノ\天下を有てるなれば、
 一概に賎と云は古今に暗きなら.
 とて宣長が我固膣の優秀なる乙とむ論ぜるには大に同意したるも、一概に漢土
▼の蛮人を堕したるに対しては之を反駁せしものにして、支部に道徳の議論のみあ
らて一も茸行せるものなしと云へるむ、支那の史を知らざる甚しきものならとて
攻撃し女我邦にても時に治乱はあり、中に批議すべきものも史上往々出でたるを
仝く其事なきが如く論ずるは、自他を詐ペものなみとせら虎論公平、達儒の見恵与、
 而tて本居の態度につきては、
  本居は前編のみを論じて商質の契貌を挿して債を貪るが如く、一々に細詮す
 れども一も人事に益ある番なし戎ハ志修己拾人に在らずして一己の異詮を主張

                                         ■llr



 するに過ぎず.
と云へり、而も我国膣の優雰なるにつきては同意せり、只支部む堕すを極力反対せ
るなり、又世界の善事む悉く直日登に蹄し、悪事を悉く綱津日神に蹄する事も台侍
になき事にして」畢合附曾のみと論ず.
 次に讃葛花には、
  大道の天地由然なる乙とを知らずして無為の自然を説くは、老慈を善しと思
  へば乙を、是と其趣を同じくせしなれ、口倖と文字との偏膚すべからず.といふは
 可なら本居が古事記の口侍のみを取らて盤経の文字を取らざるは、由ら共に負
 きて偏の一字を免れざる在ら.
 畠図の言語の妙は本エら之あり、漠土の慧ナは漠土の言語にして針妙なる乙
 とは漢土の人に非れば知らざるなら.
  天地の始などの如き人事に関らざる事は斐人は云はざる所なり、もし天地萬
 物の始を説く牢以て萬囲に勝れたらとせば、西洋耶蘇の図も神州も同じと云は
 んは、周公の私智を用ゐずして台に循ひし事周易の 山番を見ても知べし、人の智
 の測ら知ら∬チるを本居一人よく知らたらと云ふは本居の抑にして人には非る

300

 ヂ、さ≠ども皇統の正しくまします乙とも.英資は大観樽位の御時よらして君臣
 父子の大倫明なみし故なる乙とを論ぜざる偲遺憾といふべし、言畢せずとい・ふ
  は可なれども、萬図ともに貸よら文に赴くは定勢なれば、古今の勢を知らず、台に
  のみ潟みては囲家は治め難し.
  賎a奴も忽に君となる乙と萬固にある乙となれども、漢土にも後世の事にて
 台は伏義神農黄砕尭舜等何れも僻王の胤ほして代るノ\天下を有てるなれば、
 一概に賎と云は古今に暗きなら.
  とて宣長が我固憶の優秀なる乙とむ論ぜるには大に同意したるも、一概に漢土
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 らて一も資行せるものなしと云へるむ、支那の史を知らざる甚しきものならとて
 攻撃し.又我邦・にても時に治乱は.あみ、中に批議すべきものも史上往々出でたるを
 金く其事なきが如く論ずるは、自他を詐ペものならとせら.所論公平、達儒の見な多、
 而tて本居の態度につきては、
   本居は鯛頑のみを論じて商質の契券を挿して債を茸るが如く、一々に細詮す
  れども一も人事に益ある壌なし、其志修己拾人に在らずして一己の異詮を主張





  するに過ぎず.
と云へり、而も我固憶の優雰なるにつきては同意せみ、只支部を堕すを極力反対せ
るなり、又世界の善事を悉く直日登に蹄し、悪事む悉く綱津日神に蹄する事も台樽
になき事にして、牽各附曾のみと論ず.
 次に潰葛花には、
   大遣の天地自然なる乙とを知らずして無為の自然を説くは、老藤を善しと思
  へば乙を、是と其趣を同じ・くせしなれ、口倖と文字との偏膚すべからず.といふは
 可なら本居が古事記の口侍のみを取らて盤経の文字を政らざるは、自ら共に負
  きて偏の一字を免れざるな・′リ.
 意図の言語の妙は本よら之あり、漢土の文字は漢土の言語にして針妙なる乙
  とは漠土の人ほ非れば知らざるなら.
   天地の始などの如き人事に鞠らざる事は盤人は云はぎる朗なり、もし天地黄
 物の始を説くを.以て萬図に膠れたらとせば、西洋耶蘇の囲も神州も同じと云は
                                                                            ●
 んは、周公の私智を用ゐずして台に循ひし事周易の 山番を見ても知べし∴人の智
 の測ら知らざるを本居一人よく知らたらと云ふは本居の神にして人には非る

301

 にや、神のしわざの妙なる事を本居は人の智を以て知らたるは何ぞや・
  蛮人の造は仁と誠とにあり、智巧贋物等を以て目するは非なら卓神の造と整
                                                                            ●
 人の造と二つあらと思ふ事は温む知らざるなら.
  要するほ本居の撃天朝を尊び皇統の正しきを論ずるは茸に千古打卓越した
 る確論偉識なれども、市井の俗畢に誤られて人倫の数、経澄の造む知卜bず、蛮人を
 謙譲するには湯武む指て蛮人と云のみにし1、尭舜孔子を知らず、反復群論する
 朗は漢土の囲俗悪き故蛮人出て益々悪くなれらと云、又式命の詮と同姓不要と
 の数条に過ぎず、蛮人の一端を指摘するのみほして仝旨む論ずる乙と能はず、其
 遣と云るは皇統を論ずる・外は、鯛神の詮に過ぎず、其蹄宿する所は老盛運の見に
 して、人造を牛馬ほ同じくし人をして凝供放埠ならしめ人倫を滅裂す、経世の造
 む知らざれば君として君造を毒す事瀧は.ヂ、臣として臣造を毒す乙と能は…チb
 しむ、世の家事たる乙と鮮少ならず、是其眼を看る朗小道に衣て君子の大道を知一
 らざるに由るなろ、其人命存せば悔悟する事もあるべきに、泉下の人とならしは
 惜むべく欺くべし.
と、正志藩論ずる朗▼固よら理あらと錐も.吾人は宣長が、世の俗儒輩の、徒に内を卑し




め外を食ぷの恒態に慨して起らたる一事を考慮に置くとづは、其極端なる態度ほ
 対しても諒とする朗無かる可らざるなら.
  更に反対の側に立う朗の市川匡の未賀能此連に対する讃未賀能比連に、亦宣長
 の誼の採る可らざる鮎を指摘せら.大要に日ふ、
   萬図ともに治軋もあり、善悪ある事なるに、神州のみょく治まらしと云ふは本
  居一己の私言ほして、此を老荘の旨に同じと云ふは知言なり、善意神の事は本居
 一己の私論なれば論ずるほ足らず、吉凶鯛編は天命の一端なり、是のみを天命と
  思ふは蛮人の意を知らぎるなり、天之御中主神と高木神との御心さへ解すれば
  と云ふも、二神の御心と云ふ事台音になし、後世の附曾なり、易の理は備理と相反
  する事氷灸の如し、何ぞ易中に悌理あらんや.すべて本居は後の天皇の御慮に
  もあらず、神代の台事にも非ずして自己の私設を遣とするなら.
 と云ひ、沼田頓義の級長月風に対する讃級長月風に云ふ.
 神代よらの造霊納じて人倫にかけ千云ひたるは正論なら卜天租倖位の詔故に
  困て君臣父子の大倫正き事を論ぜざるは遺憾なり、神に隠身現身の別あらと云
 ふ事、古書に詳ならざe計穿婁Lて附曾し、一家の詮を立溌るなり、級長月風の書

202

 蛮人の温む守らて本瀬高川等秒詮を群論せるは斯道に大功あり、其詮は聖人の一
  徳む稀する事大抵平穏なれども紙上の論多くして事実に的切ならず、天下経給
  したる大事業を論ぜずして蛮人の鼻面目む失へらu
   神代の事実異同多きを畢たるは可なれども」己の意を以て礪辟し、隠身現身
  等の詮を創意主張するは蛮人閲疑惧言の意に非ず。
 と、因に、曾澤が其過食閑話の中に於て」常時一般の皇固聾に対して許したる語は吾
 人が他山の石として三省すべきものなら。日く、
   近水量囲撃と稀して神州の蜜き乙とむ稀揚し奉るは卓識托して大に人心世
  道の力めに益となるべく、合′此従レ故には非ずして∴其功甚だ大在れども、其徒多く
  は数の大膣を知らず.神盤経給の遣に開く、人倫の天叙を外にして瀬智を以て一
  種の読む設け、人は自然に任せて数は無用ならと老盛運雀等の怠に近き一己の
  所見む執て尭舜を磯試し、天朝にて之を取て皇歓を贅け給以し淀速の意を害す
  ることあるに至ては、其寄合レ此従y彼の徒ほ近かるべし.

 、と.
  最後に最も猛烈に樗数を攻撃せるは平田篤胤なら.其最も早きは二十入歳に著



せる呵遺書ほして太宰春轟が著其押遣音に論ぜる蛮人の造を逐条駁撃せるもの
なるが、此頃は猶後年程極端苧bず↓て.中ほは容量の議を授けたる慰もあり、比較
的穏健在るもの夜毎.然るに年と共に其排外的気分は激烈とな鼻、破れが無数の
著遽の殆どすペてを通じで其気分の横溢するを見る、而して之を纏めたるものと
しては封梯数山ものに出足英語あみ、封儒教のものほ西籍概言あみ▼大要我弗古家
政治上の鯛書、道徳上の弊風等霊丁儒教、係数の罪に蹄しやら・古今妖魅考、古今
                                                ●
乞盗考\等は其論議を歴史に例覆したるものなヰ而してかの唐土にいふ朗の扶桑
固は我邦にして三食五聯なるもの皆我皇孫ほ外ならずといふ論壕に成る所の大
扶桑考を出せるを撃火線として林家のために排斥せられ・共著は紹版に附せられ−
天保十五年ほは遂舵江βJ毎其本藩秋田に辟固を命ぜられたるなみ0
 之む要するほ衰彗旦長の頃は主上して其鉾光は儒教に向けられ、篤胤に至らて
は漸く係数ほ向ても同じく猛烈なる攻撃を加ふるに至らた・る傾向あら−而して其
敵味方共論ずる朗は反対論を批評するよらも、互に其根本即ち図聾者側は支却の・
固健、蛮人其もの女儒者側の攻撃する朗は専ら我神代の政令、我国柄共ものならし
に、末流に至鼻ては、論旨漸く枝真に産み三富稟の用ゐ方・てにはの誤ら等を穿整し

203

て宰b其揚足取らむ馳事とするか、然らざれば人身攻撃に没頭して、醜朕殆ど云ふ
に足らざるあるに至れら.
 以上列挙せる外に何れの聾況にも威せざる聾者の図膿に・関する誼を一冶して・
此に述べん.
 伊勢貞丈は有識聾者として有名なる人なるが、共著幼撃問答中、或儒者が日本の
上古は造なくして禽獣の如し兄弟叔姪夫婦になら給払し君もあり、中華垂人の造
渡ら来らしよ多人間・らしき図になみたらと云ふが如何との問ほ対して必ずしも
然らず盛上冶よら君臣の鵡を守らて正しき図なる由を詮きて日く、
  上古の事は和漢ともの団史雲損みて知る乙とにて侯ふ、乙れに依りて日本紀
 む見候に、人倫の遣といふ名目は立たず侯へ共、神代よ・り父子君臣兄弟夫婦朋友
 の差別も見え候ふ、禽獣といふ程の事ほては乙れなく候ふ、第十六代應仁天皇の
 十大年始めて聖人の道日本へ渡ら承ら候ふ、それょら以前の人々の行跡皆恵な
 るにもあらず古然に書なるも多し虐土とても蛮人の∴遭いまだ立たざる時は同
 じ事あるべく候▼日本は上古よら君臣の鎧を堅く守らて正しき図なら上古蛮人
 の温むばまだ知らざらし時よらかくの如きの風俗にて、蛮人の遣の出所唐土よ



彗瀾周
 ら膨れたる事乙れ.にて御者相成るべく候.
 と云へら.三浦梅園は其著贅語の中に、我皇統の肯く且つ固く、臣節の恭なる所以
 を似.て我国憶の尊きを説明す、日く、
  本邦山に擦らで一城となし、海に臨みて池となし、瀞瀦除紹.外顧の思なく、砕統其
 初めをしらず、神武天皇祖宗の鵡を以て之を碕すれば則ち宗由図の租ほあらざ
.るなり、是む以て世々皇胤を以て小鍾の想む為さず、偶ま頑蕊を抱くものあらと
 錐も衆心容れずして一敗地に塗る、今の如き九重に垂挟すと雄も項共改めず、湯
 武孟珂の議は用ふる所在し、之を天地に建て之を鬼神ほ質して参らざる義なろ、
 想ふに央の大己貴の盲、射ら素神の胃を以て天下む掌捜す、一花ぴ天凝の臨むを
 き\其樺を解きて去る乙と弊履を脱するが如し、皇統の固、臣節の恭、後世の準、是
 に於てか立つ、今の世に常みて天子垂扶し、幕府撮政す、漢典に淫する者は瀦に天
 に二日為るの疑を懐く、胡ぞ思はざるの甚しきや.
 と、
 尾張の人、堀尾秋実は安永五年名分大義詮を著はして、我国皇統正しく君臣の分
明かなる事を以て唐土の同性ほ比較し東郷に於て孟子の王琴放伐の論の起る朗

204

 以を論ず.大要に日く、
   我国開崩よら今日に至るまで、君臣父子自ら定て名分大義既に立つ、君は則ち
  萬世不易、父子粕嗣ぐの君にして臣民も・亦萬世不易の臣民なり、音素普天下を治
  めて以来今の武終に至て、四海に塩梅して臣節む矢はざるあり、我団父子君臣の
  温、大義名分の節、厳明既に此の如し、彼の西土の如きは則開園以衆未だ嘗て此の
  如きの実む全うするあるを開かざるなり、是◆ど以て血脈む絶ち」天極を奪ひ、今日
  履む資て明日舵を蹟む者あり、整代鼎を革めて王者亙に興る、故に正統無くして
  有徳を以て統となる.発射の時、民塗炭に惰る、故に湯武放伐む為す、教団の時、民水
  火に昔む、故ほ孟子王道を詮く、此皆世む救以民を救ふほ念にして固よら一室の
  私意なし、一の不畢を殺して天下を得るは則ち潰さゞるなり、故に日く放伐は天
  の賜なり、暴秦以密、上徳湯武に抵揺す▼「亦豊天崩なるか.ハ中略)日本は則ち然らず、名
  分大義の碇怒る、萬古凛然として得て犯すべからざるもの、布きて方肝ほ脇多産
  王之審紀、律令、格式、姓氏錬等、書法名分あらて吾計中開華夏となし、彼を西土と為
  す、吾郊史策の大健一節一字必ず謹み必ず鹿なり、況や神代車代主命の至徳、皇朝
  蒐遣宮の至仁、豊泰」侶夷密の下に在らんや.

E

                                                                            ト古館壷
                                             H浅題1当ヨー当−ョペ勺、毒ち∋.、箋彗雲雀ヨ
 と更ほ乾代の.儒者襲が元明を呼で中周と覆し吾固を指て夷次となすを攻撃せら.
 紀錐・貞は天保六年、開基を著して鎗邦と支却との国憶を比較して其優劣を論ず.
  大要ほ日ふ、
   天租天孫同和を逓き、以て今日ほ至る、皇統綿々高き乙と天の如く、重き乙と地
                                                                     ●
 の如く夷地と共に窮極ある乙となし、尭舜の授純なく又湯武の放伐なし、是を以
 て発操の纂奪なきなり、薙翼の黍稜、刺揚の帝染、洞磨の鱒、東海の飼、雲夢の芹▼月匠
 の苦茶、秦の栗、江南の橘、安邑の′菜−水土の異なると乙ろ、物亦徒て襲ず。
 とて支郵の人造磨れたるを述べ、更に
 皇朝開闘よn以て今日に至ら・直世の久しき未だ嘗て兵遍の乳なく、天下の民
                         一
 未だ嘗て飢饉の災無し、然れば載籍倖ふる朗衰だ嘗て人相食むを開かざるなら−
 水土の枚慈、風俗の厚薄、以て其一端を見るべきのみ、天租天準水土の厚椅に費ら
 て極を肇め統を垂れポ言の数、三器の政、民、日に用ゐて知らず、衣食富鏡、淳厚の風
 由ら興る衰だ嘗て親観の徒皇位に垂港するものあらず、未だ嘗て夷虜の巌中州
 を躁潤するものあらず祓剣の兎、施⊥て海外ほ及び三韓任邦、朝貢して臣と稀す、
 豊租赫々以て今日ほ至る、登質俗の致す.所ほ非ずや。

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 と激賞す。
  金澤の人、野村固卒は其随筆「峯.翠准話」の中に日本固の■有難きは皇統連綿として
 窮らなきにある所以を論ず、日く、

   藷備翁の繹に云丁天・地開閉寮、大洗長和侍.天子無岩姓氏り定知姓是天、天皇如与日月り萬
  台無二鍵遷二誰造因徳盛、劣能入首年、名′窟馬レ劉後、至d今已二千、其間幾姓氏、和代迭忽焉、
                                                                                                                         一
  如何日出囲、粕倖、自綿々、J五大州の内日本ほどのあらがたき開はょもあらじ、萬代
  不易ほして殊更三百年に近き太平の御代に生れきていか在る者もをの業さへ
  僻jらずば安穏に世をおくり、神代はしらず人の代とならてかくの如き昇卒はょ
  もあらじとぞおもふハ中略)。
   本朝の報レ有は儒流の数渡らざる先ほ天子あり、臣下あり、我邦の祀あり、能治れ
  り、ハ中略)本朝は閑嗣・以衆君を就する老一人もなしといふも可なら(中略)。
                                                      ●
   本朝の有難きは神統開聞以来綿々として無二壁遷り今に至て天下益平安なり、先

  王の政は後王の政なり、公卿大矢の大法は上古も今もその法なり、是にょらて本
  朝の神祀といふ事は家々の秘事在り、他の知らて用なき事なり、是が則日本第一
  不易の大道なり、唐土の如き世夫よら出て、天子となり、宰相となる囲は、上は天子





  の事よみ下は諸臣の事まで皆乙とJド・・く鹿ゆべかみけれども、本朝は天子は菌
  世の君、下も萬世の臣なり、故に天子の秘事あり、撮家は撮家の秘事あり、三公は三
  公の秘事あらて、他の聾び覚へて何の用にもたゝね事なり、揮べて下請人ほ至る
 まで夫々産業あみて上下皆その業を守り、萬世安楽泰平の大道なら針土の如く
  荘央よら出て天子を就しその位む奪ひ、群臣又皆その君を就したる恵逆者を君
  としつかふる風俗の因とは天地の連なら。
 とて、更に支部の君臣の造の乱れたるを詳細ほ列拳して我邦と此較し我固憶を稀
 揚せり、但し徳川の治下にあらし事なれば、武家政治を辟護せるは止むを得ざる事
 なる・べし。 日く、
   天子武家へ御政治を御まかせなき以前は、やゝもすれば朝敵蜂起し、則太古に
  神日本磐余彦尊の御字に舵州名革の郡に土蜘蛛と云ふ穴居の購有て人民を書
  するにょつて官軍を下し玉ひ、退治あらしよみ、慈右街門督に至るまで二十四度
  といへり、然れども本意を遂rるもの一人もなし、其後頼朝卿天下の代官と戌て
. ょら乙のかた、今ほ至て潮敵となる者一人もなし、是れ武家へ御政治を御委任あ
  らて朝廷益御安泰萬々歳の御事なり、しかるに京都の俗儒の文章薄などに折々

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  は武家に御政事を御譲らの乙とむ王威あ衰へたる枝に恨みなげノくは是大なる
  了簡連なり、云々
 と云ひ、又偶数首排斥せず、聖徳太子を稗揚せら。
  是等の外岩垣捻苗は、其国史略第五巻に於て−我神同は他の諮外固と異り、天下は
 即ち一人の天下ほして天子は貨に天上の人、王公清和固よら種あ与、故を以て古今
 の豪雄」位は酒粕に至て天下の植む執るもの、曾て微賎の人あらざると論じ、以て上
下の.分寮る可nざるを詮き、藤凰為粂は経闘犬意む著して、完治元年)皇剋上下の誓
 を立て給ひ⊥ょら其造天地と共に、水久にして、漠土に於て君臣上下の等を以て定
位とせず、総て度々改易ある、と経義の斬倒隔絶する所あるむ論じ、更に湯武故伐に
 関する儒者の論粁を以て、我國體と柏容る可らざるものあらとて攻撃す.加茂規
清は其薯神道通飼料義に於て日本は8沖縄化.の理に應ずる君固ほして、其他ゐ純
一なる中にて純清濁と別れて君臣庶む化するが故ほ、君は純中の純なる故に古今
一系連綿し給払て混塵なく.臣と應人に至るまで永く績く事を美とすとて、其神遣
論の立場よら我国憶上上下の分定まれる所以を詮一号又泰伯が日本に衆多て皇祖
 となれらとの揺者の詮を馬身、武由大は其大和三数論巷三に神国の淳美を論じて、



 ▲軋土は則萬固の東頭に在り、而して日光始めて照すの表意み疫に大6本国と瀾欄
  云ふ、〔中略)吾固常立食は是寧ろ濁ら大日本固の奇観のみ在らんや.乃ち宇宙間萬
 園の常立貧在り、是政に此方の天子は則ち姓氏なし、塵天子と謂ふ可し、豊に萬固
  の以て宗とすべきに非ずや。
 と云山盛永七年に公にせられたる天日嗣締ハ著者逸名)には、我日本国の漢土西戎、
 亜墨利加等の固.々と異在り、世界に比類なき囲土にして、格衆は蒔岡に冠たる可き
 同家なる乙とは、神租の務め定め置きたる朗ならと論じ、日輪界を主宰し紛ム天照
 大神の裔凝なる神武天皇の開聞き給ひし我豊岡は、天よ・り嗣ぎ給ひたる日鋼の皇
統なるむ以て、天皇の御位む天津日嗣と稀するものにして、斯く世界に比類なき固
 なるが故ほ、語物豊能にして外に求むる乙となくして足り、且つ刀剣の鋭利なる乙
 と蕗固ほ比類なき外、水七の書きに由ると云へり、其他請書に散見する国捜閲係の
 所詮砂からずと錐も特に異夜みたる改も無ければ今一々奉げず0

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