マルクスより出でてマルクスを克服するもの

                          河合栄治郎



 目下の日本には、反動の空気が横溢してゐる。之を僅に
一ケ年以前の日本と比較してみよ、今が看過すべからざる
転機に在ることを見出すであらう。久しからざる以前に於
て、吾が学界はマルクスの徒に非ざれば、人に非ざるが如
くに思はれて、歩むに肩身の狭きが如くに思はれた。然る
に今マルクス思想の普及は、既に飽和状態に到達した。一
部の私有独占であつた思想は、今は大衆の共有財産となつ
た。語るも奇に非ず述ぶるも耳目を聳だてしめない。マル
クス、エンゲルスを語るといふ単なるその故に、新進の学
徒とされ有望の思想家とされたものは、自らの地盤の上に
立つたのでなくて、マルクス、エンゲルスの肩車の上に乗
つてゐたのであつた。今や大衆の批判はそのあるべき地位
に立ち戻つた。彼らは偉人の肩車から引き下されて、その
自らの価値のみにて評価されるに至つた。
 此の状勢が既に萌してゐた時に恰も、本年四月所謂左傾
教授は全国一斉に淘汰された。若し必要とあらば大学の一
二は潰すも可なりとまで豪語した有力なる閣員は、いかに
その態度が勇敢にして剛胆であつたであらう。之に対して
反撥し抗争すべく期待された左翼学徒の、いかに慎重にし
て忍従にして且つ怜悧であつたらう。往年我がものの如く
に跳梁した全盛時代に比して、その抗争の実力は余りに人
をして心外に感ぜしむるものであつた。実力を以て争ひ難
しとするは必ずしも咎めない、唯一人として「否」と唱へ
て之を批判し之に抗弁するもののないことは、吾等の期待
に反する甚しきものであつた。今や学界に於てマルクス学
徒と名乗ることは、小さき声を以てのみ云はるるものとな
つた。かくして学界の大衆が、思想的にも人格的にも、漸
くマルクス主義の久しき迷夢より覚めつゝあるは、看過す
べからざる眼前の状勢である。
 更に眼を転じて実際界をみよ、三月中旬共産党の検挙を
手始めに、保守派は全戦線に亙つて驚くべき攻撃を開始し
た。之はどまでに保守派の底力が隠れてゐたかと思はれる
位に、今は反動の勢力は隈なく全日本を圧倒した。見よ左
翼の戦線がいかに混乱を呈しつゝあるかを。信ずべかりし
闘士は信ずべからざりし臆病であつた。無視されてゐた列
伍の中よりして、却て勇敢なる戦士は躍出した。その何人
を信じ何人を捨つべきに、混沌として去就に迷つてゐる。
実力以上に虚勢を張つた戦線は、脆くも一敗地に塗れて、
今はその収拾に忙殺されてゐる。
 支配階級の「無知」と「油断」とに乗じて、伽藍の各所
を蝕ひつゝあつた白蟻は、今や探知され発見され掃蕩され
んとしつつある。今までの「無知」に代ふるに「覚醒」が
来、「油断」に代ふるに「警戒」が来た。その警察網の全
国的に行届けるをみよ、その根治の対策に汲々たるをみよ。
要するに思想の自由を解せざる日本に、不思議に自由を恵
まれたマルクス主義は、今や停止状態に入つたのである。
 必ずしも社会運動のみと云はない、内政に外交に社会の
全面に於て、いかに反動の空気が、重苦しく吾等の上を蔽
ひつゝあるであらう。而も奇とすべきは、此の反動に対し
て敢然として抗議するもののないことである。すべては当
然のことたるかの如くに、静に穏かに進行しつゝあること
である。曾ては漠然として急進派の味方たるが如くに思は
れた大衆は、今は我れ関せざる如くに冷然として此の状勢
を傍観してゐる。勇敢なる保守派と無力なるマルクス派と、
冷淡なる中立大衆との、三つ巴を戴せて我が社会は、一日
一日と歴史の一頁を繰りつゝある。
 此の状勢に直面して、少からざる人は向途に迷ひつゝあ
る。マルクス主義に慊たらず而も反動に与するをえず、反
動に与しえざるが故にとて、その路をマルクスに求むるを
えず、マルクスに背けばとて此の反動に加はるを屑(いさぎよ)しとせ
ざるものは数多いであらう。殊にそれは右か左かの単純な
る岐路ではない。一にマルクス主義なるものが、極めて複
雑なる体系を持ち、又一個特異なる社会思想たるに在る。
その故に人はマルクス主義に直面して、いかに之を清算す
べきかに迷ふのである。曾てイタリアのクローツェはへー
ゲル思想の中で何が消え何が残るべきかを論じたことがあ
る。今マルクス主義に対して採るべき態度も亦、軽卒なる
一括的の取捨に非ずして、繊細にその部分を吟味し取捨を
決せねばならない。
 筆者はマルクス主義者ではない。過去に於て之に反対し
今後も亦之に反対を継続するであらう。今マルクス主義が
澎湃たる反動の潮流に翻弄されつゝあるを見る時に、余は
悲喜交々至るを覚える。若し之を好まざるを以てせば、マ
ルクス主義の凋落は喜ぶべきが如くである。然しマルクス
主義の凋落は、単にマルクス主義のみの凋落と目すべきで
はない。その運命は更に大なるものを持ちはしないか。そ
の興亡をいかに迎ふべきか、之と共に現下の反動にいかに
対すべきか。之れ実に目下の日本国民に課せられたる最も
重要なる問題である。此の難局に際会して、人は何人も去
就を誤らざるの責任がある。


       二

 吾々は今静に停止して、マルクス主義が青年学生の間に、
どれほどの勢力を擁してゐたかを顧みるの必要がある。此
の状勢は最近に至つて少しく変化したことは、前節に述べ
た如くであるが、青年学生とマルクス主義との関係を窺ふ
好個の資料である。固よりいかほどの割合の学生がいかな
る傾向に在るかは、容易に判断しうるものではない、従つ
てそれは単に私の憶測に過ぎないことはいふまでもない。
而も尚大体に於て時代の潮流を指示するに足ると思ふ。
 私に依れば、現在の学生の約七割は極めて穏当な平凡な
部類である。彼等は現代社会秩序の何たるかに興味を持た
ない。彼等は来らんとする社会を持ち来すに、何等の役割
を占めやうと思はない。考ふる所は現社会に於て、自らが
いかに生存し成功すべきかに在る。それに必要な限りに於
で学校の課程に勤勉であり、それに必要ならざる限りに於
て、読書もしなければ思索もしない。そのあるものは克己
して純潔な生活を送り、あるものは誘惑に敗れて相当の遊
蕩を試みる。いかなる時代いかなる社会に於ても、かゝる
部類の大衆が社会の多数者である。然し数の多きを以て必
ずしも力の多少を卜しえない。彼等の存在は社会の進歩に
益する所なく、又失ふ所もない。要は残れる三割が何であ
るかに依存する。而も私は十年以前に於て此の七割は更に
多くして約九割を占めてゐはしなかつたかと思ふ。此の九
割が減じて七割となつた所に、現代学生の進歩と従つて日
本の進歩を指摘したいと思ふのである。
 余す所の三割は人生に対し社会に対し一定の思想を持た
んとする。その中に於て、約一割が所謂マルクス学生であ
る。若し更に詳細に分析すれば、その内の五分が純粋のマ
ルクス学生で、他の半分は観念的マルクス学生であるかも
知れない。前者はその人格の全体をマルクス主義に浸潤す
るもので、之が真実のマルクス学生中の闘士である。後者
は自ら称してマルクス主義者と云ふ。然しその人格の真髄
までがマルクス主義化してゐるのではない。口にマルクス
を唱へてはゐるが、之に殉ずるの操守がある訳ではない。
マルクス学生が反対思想を嘲つて観念的と呼ぶ言を借用す
るならば、彼等は観念としてマルクス主義を援用するので
実践の之に伴ふ力強さが欠けてゐる。之等両者のマルクス
学生は多くは学外に於ける無産者運動と聯絡を採つて、そ
の為に学外で働いてゐる。又学内に於て団体を作つてマル
クス主義の普及と宣伝とに余念ない。彼等は一般の講義を
ブルジョワーの御用講義と称して教室に出席しない。然し
マルクス主義の文献に関する限りに於て、丹念に克明に研
究に没頭する。
 更に余す所の一割の学生は、自らはマルクス主義者とは
称しないが、大体の傾向に於て之に好意と同情とを惜しま
ないものである。必ずしもマルクス主義の文献に親しんで
ゐるのではない、又之に全部満足してゐるのでもない。然
し一旦マルクス反マルクスの対立の起る時、彼等の援助は
マルクス学生の側に傾くのである。最後に残る一割は、別
に独自の人生観を持ち社会観を持つ、而もそれがマルクス
主義と反対であると云ふ立場から、マルクス学生に対立し
之に抗争する。比に保守的な学生と自由主義理想主義的な
学生とを抱括する。保守的な学生は、その情熱に於て闘志
に於て、マルクス学生に必ずしも劣らない。唯、理論と体
系とを欠くが為に、筆と舌との表現の闘争に於て、対抗す
るに不利がある。自由主義理想主義的の学生こそは、学徒
として人として愛好すべき青年である。彼等には理論もあ
り体系もある。然しその傾向上当然に孤独を愛し組織団結
を好まない、又人格は純であるが理論を実践に移すに意志
の弱さがある。その故に社会闘争に於てマルクス学生と拮
抗しえないのである。
 此に七割の酔生夢死の学生と、三割の自覚したる学生と
がある。その中の一割はマルクス学生であり一割はその後
援者である。之に拮抗する僅に一割の学生が、幾多の欠点
を持つとせば、二割のマルクス的傾向は数の少なきに拘は
らず、全体を支配しうる実力を持つ。而も之等の学生は決
して無頼不逞の徒ではない。その頭脳は鋭敏にしてその闘
志は熾烈である。彼等は現代社会の成功児となりうべき幾
多の才能を恵まれたるに拘はらず、現存秩序の不合理を黙
過しえざる情熱を持つ。吾々が曾て学生時代に在りし時に
於て、学級の衆望を収め将来を嘱目された型の学生は、曾
ては自由主義理想主義的な傾向のものであつた。それが今
はマルクス学生に変遷して来てゐるのである。之は必ずし
も学生界のことのみではあるまい。農村に於ても工場に於
ても、他のあらゆる点に於て尊敬に値する青年が、相率ゐ
てマルクス主義に走るを見出すのである。マルクス主義が
固陋の老人の間に於てすら脅威を与へつゝあるは、その原
因が此に存するのである。七割の空々寂々の徒は、大勢の
中心勢力ではない。彼等は動くものでなくて動かさるゝも
のである。之を動かすものは残る三割にありとして、天下
の俊英を挙げてマルクス主義に傾くとせば、その恐るべき
や云ふを俟たない。たとへ彼等の信条はさまで固くはない
としても、将来に於て融通の余地はあるにしても、たとへ
青年時代の限られた時期だけとしても、以上の事実は黙過
すべからざる重要さを持つと云へないか。一葉の流るゝを
以て天下の趨勢を卜しうべしとせば、識者の着眼を俟つ問
題は比に伏在するのである。


      三

 然らば何がかくの如くマルクス主義を時代の勢力たらし
めたか。之が為には数段に分つて説明を試みねばならない。
 筆者が学生々活を送つた今から十数年前と比較して、現
代の学生は二つの方面に特異性があると思ふ。その一つは
社会改造を関心事とすることである。十数年前に於ける学
生の大多数は、国家主義者であつた。日本と云ふ国家の膨
張と発展とが、彼等の関心事であつた。此の多数者に対抗
して現はれた一群は、自己の教養と完成とを念とする個人
主義理想主義であつた。大学時代はノートの整理に忙殺さ
れてゐた為に、此の対立は覇著に現はれる機会がなかつた
が、高等学校の時代に於て、国家主義に対立して新に現は
れた理想主義的個人主義の姿は花々しいものであつた。そ
れは数に於て量に於て劣るが、その思想的根拠に於てその
人格的の力強さに於て、来るべき時代を負担するに足ると
思はせた。その個人の完成とは、必ずしも社会の問題に無
関心なることを本質とするのではない。然し少くとも学生
時代は自己の思想を整理すべき沈潜の時代であつて、全人
格的の命令に非ざる社会への進出は慎むべきである。而し
て若き学生の時代に於て之が全人格的の動きだと誰が軽卒
に断じうるか。先づ為さるべきことは個人の側に在ると云
ふのであつた。従つて路を先づ何れに採るかに在つて、事
の本質が必ずしも国家主義と相容れないものではない。然
し立場の相違は明白であつた、そこには根本的に対立する
人生観が、朧ながら既に姿を現はしてゐるのである。
 幸か不幸か理想主義的個人主義が、時代を支配した命脈
は短かつた。之に対立して拾頭して現はれたのが、即ち現
時の社会改造主義である。個人は社会の産物である、個人
の完成は社会の完成なくして有りえない。或は個人の完成
は美名を仮りた現存秩序の維持である。或は外界に於て同
胞の不幸に嘆くもの多き時に於て、個人の完成に籠るは利
己主義であると云ふ。その論拠は色々挙げうる、而して必
ずしも急所に触れた反対ではない。然し此れ社会の問題を
関心事とする傾向が、再び青年の間に出現したことを知れ
ば足りる。今之を往年の国家主義と対照すれば、それが第
一に個人の完成に反対するに於て共通であり、第二に社会
を以て関心事とすることに於て同一の立場に在る。而も両
者の間には看逃すべからざる次の差違がある。第一に国家
主義の念とするものは国家である、その理想とする所は外
国に対する自国の優越である。社会改造者の念とするもの
は社会である。その理想とする所は、今在る社会をあらね
ばならぬ社会に改造することである。彼は世界に於ける国
家の比較にあり、之は異る時代に於ける社会組織の比較に
在る。彼は社会組織の点に至ては、直接の関心事とはしな
い、寧ろ国家の発展と調和しうる限りに於て、それは現状
維持に傾くであらう。第二に国家主義は、国家の発展を念
とする為に、必要あらば自己を国家の為に犠牲とすること
を忘れはしない。然し軍人の如き特種の職能とする場合は
稀有である。之が国家主義なるものが、個人を犠牲とすと
称しつゝ利己主義と調和しうる所以である。之に反して社
会改造は直接に現存社会秩序に対抗するものである、従つ
てそれに歓迎されないのみならず、一身の迫害を覚悟せね
ばならない。比に各人の覚悟に多大の相違がある。最後に
国家主義者は体系を整へた理論を持つてはゐなかつた。そ
れは感情であり本能であつた。それは伝統的であり因襲的
であつた。之に反して改造論者は、自己を指導すべき原理
を持つゝ少くとも之を持たんことを慾求する。此の点は自
ら次の特異性に接続する。
 現代学生の第二の特異性は、指導原理を要求して止まな
いことである。その時その時の必要に臨んで、その場限り
の対策を以て糊塗することに堪へない。あらゆる場合に妥
当すべき一定の原理を採つて、時を異にした同一の事件に、
矛盾なき処置を採りたいのである。いかなる場合が起らう
とも之に通用して悖らざる原理を把握せねば満足出来ない
のである。此の要求こそは未開人を文化人より区別し、児
童を成人より区別する重要な契機である。科学の進歩も哲
学の発達も懸つて此の要求の心理の上に在る。維新以来の
文化の水準は遂に青年学生をして此の要求を持たしむるに
至つたのである。真に祝ふべきである。
 此の要求は社会進化の理論を求めしめる。何が理想の社
会であるかを究めしめる。何が吾々にとつて善であるかを
考へしめる、認識はいかにして生ずるか、宇宙の本体は精
神にあるか物質にあるかを探らしめる。その与へられた答
案が正しきや否やは問ふを止めよ。かゝる種類の問題まで
が、法律政治経済を学ぶ学生の興味の対象となることが、
どうして十年以前の学生に予想が出来たであらうか。すべ
てを根本に突きつめて一定の思想を持ち、之等の思想を一
元的の体系に構成したいとは、現代学生の熾烈なる要求で
ある。読書慾の旺盛なること、態度の真剣なること、視野
の広潤なること、事物を根柢に究めること。すべて之れ一
代の教師と哲人とが来さんと欲して止む能はざる傾向は、
朧ながら現代学生にその萌芽を現はしたのである。
 社会改造の情熱と指導原理の要求との二つは、現代学生
の特異性である。今此の特異性を提げて、幾多の思想を点
検してみよ。社会改革の指導原理となるべきものが何処に
在るか。理想主義の哲学は偉大なる指導原理はあるが、不
幸にして社会改造の原理ではない。サンジカリズム、ギル
ドソシアリズムを迎へたことはある。社会改造の情熱を満
たしうるも、指導原理の体系を与ふるには足らぬを覚える。
社会政策の学説も亦、現存社会秩序に何等かの変革を加へ
るものではある、然し依然として原理と称するには、浅薄
にして断片的である。
 かくの如き特異性を提げて、之を満足すべきものを求め
て、彼等はマルクス主義に於て、渇望を医したのである。


     四

 然し以上の説明では、マルクス主義を迎へた心理的遠景
を与へるに止まつて、説明としてはまだ充分ではない。マ
ルクス主義は単なる社会主義の思想ではない。それは唯物
史観なるものを枢軸とし、従つて根本に於て唯物論を採る
ものである。マルクス主義を採つたと云ふ時に、単に社会
主義の原理を採つたと云ふ説明では足りない。何故唯物論
を哲学とする社会主義を採つたかの説明が加へられねばな
らないのである。
 その説明は私に依れば二つあると思ふ。一つは現状打破
を旨とする思想は、多くは唯物論に拠ると云ふことである。
少くとも理想主義と反撥すると云ふことである。マルクス
自身が唯物論を採つて観念論を排したのも之であらう。ミ
ルはその「自叙伝」に於て「論理学体系」に於て「ハミル
トン哲学の検察」に於て、明白に此のことを告白してゐる。
人間に時間と空間とを超越して妥当する先天的原理が内在
してゐると云ふことは、必ずしも現に存する社会秩序がそ
の永遠性を有するものだと云ふ論結を齎すものではない。
従つて理想主義はその本質に於て、毫も現存秩序を保持す
べき必然の因縁はない。然し世に絶対永遠のものはない、
すべては時と所とによつて変化するものだと云ふ思想は、
現状の価値を相対的とし、一時的のものと考へしむるに便
宜である。況んや理想主義は多くの場合に於て絶対永遠を
説くに急にして、眼前現実の社会を批判するの遑がない、
それを批判せざることに於て、一応現状維持を消極的に援
助することとなる。比に於て現状打破論者は理想主義を当
面の敵とする、それは反理想主義の立場に根拠を置かしめ
るのである。詭弁学派、フランス革命論者、功利主義者、
すべてさうであつた。その思想史上の因縁が、今マルクス
主義に於て社会主義と唯物論との奇怪なる結合に見出され
るのである。
 然し比に当然に反問が起るであらう。たとへ思想史上の
因縁はどうであらうとも、吾が日本の忠君愛国主義は疑ふ
べくもない一種の理想主義である。牢乎抜くべからざる此
の理想主義の国民が、何故に唯物論を受容したのかと。私
は日本従来の国家主義こそが、寧ろ唯物論の為に路を準備
した同工異曲のものであると云ひたい。之を説くことが私
の説明の第二である。人は私の答に驚異の念を抱くかも知
れない、然し事実はさうなのである。若し唯物論なるもの
に反撥し抗争せしむるものがあるとせば、それは唯一つ個
人良心の権威を自覚したものである、その故に意志の自由
を求めて止まざるものである。此の一点のみが最後まで唯
物論に妥協を許さざる屈強の根城である。之を譲歩せば唯
物論は大手を広げて易々と浸入しうる。今国家主義なるも
のをみよ、それは国家の秩序と平和とを絶対的のものとす
る。その故に国家の命令は絶対の権威を持つ。個人良心の
「否」と云ふ叫びは、そこでは秩序の妨害であり統一の邪
魔物である。個人は国家の規定した法律と社会の慣習と多
数者の輿論との前に、従順なるべく予期されてゐるのであ
る。それは外なる命令に動けよと教へ、内なる声に聴けよ
とは云はない。此の国民よりしていかにして意思の自由が
必要とされるか、いかにして唯物論に反撥せざるべからざ
るか。外なる命令に動いた国民は、自律を持たざる点に於
て、唯物論の必然論には寧ろ親しみ易いのである。
 更に又国家の発展を文化的方面に考へずして、領土的経
済的方面に考へることに於て、それは価値付けられるもの
を価値あるものとすることに於て、唯物論と対立するもの
ではない。寧ろ共同の地盤に立つものである。自己の身命
を国家の為めに犠牲とせよと云ふ国家主義が、理想主義的
色彩を多分に有するに拘はらず、而も不思議にも唯物論と
同類項である。仮りに国家主義と云ふ形を離れても、明治
大正を通じて学界を指導した大学の教授の内、僅かの例外
を除いて、誰が理想主義を明白に把持したか、誰が唯物論
を排斥しえたか。唯物論を採らざりしは、彼等が唯物論を
さへ理解しえなかつた為である、斯る根本の問題は彼等の
問題に置かれなかつたからである。若し之を問題とし之に
去就を決せざるをえざりしとせば、彼等は挙げて唯物論を
採るより外に路がなかつたであらう。恨めしきは理想主義
的個人主義の命脈の余りに短かりしことである。新カント
派の思想の紹介の足らざりしことである。兎も角も唯物論
は根を張るべく、用意されたる地盤を此国に見出したので
ある。何物の敵対を受けずして、無人の境を往くが如くに
浸入しえたのである。


    五

 然しまだ之だけでは説明を尽してはゐない。何故なれば
日本に於けるマルクス主義はロシアに於て構成され展開さ
れた一種特異のマルクス主義である。それが共産主義と云
ふ形を採つたマルクス主義中の一派である。それはカウツ
キーによつて祖述されたマルクス主義でもなければ、ベル
ンシュタインによつて訂正されたマルクス主義でもない。
私有財産制度を廃止するに議会制度を以てせずして暴力革
命を以てし、社会革命の後に於て反対思想を弾圧する無産
者独裁を許容するマルクス主義である。何故に日本は此の
形式のマルクス主義を受容したか、之に触れることなしに
は、此の説明はまだ充分とは云へないのである。
 同じく社会主義を採りながら、之を実現する方法として、
総選挙に於て多数の投票を獲得し、社会主義の政党を議院
に於ける多数党たらしめ、その投票に依て資本主義改造の
法案を通過せしむる行途がある、世に議会主義と称せられ
るもの即ち之である。共産主義は之を認めない。議会を利
用しないのではない、然し議会制度による社会改造は不可
能である。例へ可能であるにしてもそれは百年河清を俟つ
が如くである。斯る長年月を俟つに堪へない。此に於て少
数の自覚したる者が暴力の革命手段により、一挙にして権
力を掌握し、社会革命を実行しやうと云ふのであり、之が
議会主義に対立する暴力革命主義である。
 社会革命の後に於ても、反対思想の存在を寛仮し之に言
論の自由を与へんとするものがある。今のやうな資本主義
の時代に於ても、あらゆる思想の為めに、それが資本主義
を謳歌するものであらうとも、之を改造しやうと云ふもの
であらうとも、之に思想の自由を与へんとする自由主義を、
社会革命の後に於ても依然変ることなく、妥当せしめんと
するものである。然し共産主義は革命後、過渡的制度とし
て新制度の秩序の定まるまで、反対思想を抑圧しその表現
を絶滅しやうと云ふのである。自己の制度に対する批判を
聴くの必要なしとし、之に耳傾けるの謙虚と寛容とを無用
なりとするのである。之が思想の自由主義に対する無産者
独裁主義の対立である。
 然らば何故日本の学生が、暴力革命主義と無産者独裁と
を謳歌して、之に反撥し之を拒否しないのか。英国の社会
主義は之を拒否してゐる。仏独両国に於けるマルクス主義
の多数派も亦之を拒否し、米国に於ては社会主義そのもの
がまだ問題にはならないが当然に之を拒否するであらう。
然るに日本のマルクス主義が共産主義の形に満足するは何
故か。それは極めて簡単である。之を拒否すべき必然の思
想的準備が欠けてゐるからである。
 無産者は勿論のこと、有産者に対してさへ最近に至るま
で選挙権は与へられなかつたのである。議会制度に依る社
会改造が、痴人の夢に等しと思はれたのは無理ではない。
殊に重要なのは国民が、政治的自由といふ観念の洗礼を受
けてゐないことである。すべて自己に関する限り、あらゆ
るものは之に発言する権利と義務とがある。それは専制君
主に対立し少数政治に対立して、今日の議会制度を将来し
たのである。人たる限り彼は制度の変革に預かるの権利を
有し又義務を持つ、彼はたとへ彼の利益の為であらうとも、
無視され看過さるべきではない。之が開明専制にさへ抗争
せしめた思想である。比に個人人格の権威がある。かくし
てすべてが預つた制度こそ制度としての職能を果しうるも
のであり、制度がすべてのものの肯定の上に立つ故に容易
に崩壊せざる重さを持つ。然るに過去に於て専制政治に対
して、凛然として政治的自由を主張することを知らざりし
我が国民は、大多数を度外視して少数のもののみが革命を
実行する暴力革命主義に反撥し抗争する何物をも持たない
のである。
 又思想の自由に恋着を持たざるものは、無産者独裁主義
に反対すべき根拠がない。あらゆる思想は自由に発表せし
むべきである。それはよりよき思想の為に路を開くが為に
必要であり、今在る思想をして反省せしめ批判せしめ、消
えかゝれる生命力を復活せしむるに必要である。その故に
それが保守主義であらうともマルクス主義であらうとも、
自由が与へられねばならない。現代に於てすらかゝる思想
の自由の価値を知らざる民衆は、無産者独裁が何ものを失
ふものであるかも弁へない。人間は弱い、彼は独裁権力を
持つことによつていかなる誘惑に陥らないと保しえない。
若し無産者にして謙虚ならば、彼等は反対思想の批判を歓
迎すべきである。若し彼等にして自己を信ずることが深い
ならば、反対思想の批判を恐れないであらう。理性に訴へ
て説得し改宗せしむべきである。此に独裁主義に反対すべ
き理由がある。保守派の言論圧迫に反撥するを知らざるも
のは、無産者独裁主義に忍従すべく造られてゐるのである。
 要するに政治に就ても思想に就ても、専制に盲従し親灸
し来れる国民には、共産主義に対立する何ものを持たない。
カイザーとザーとの専制が、そのまゝに新形式の専制に移
動するだけである。曾てある学者は、マルクス主義は西欧
羅巴に栄えずして、漸次東方へ東方へと赴くに従ひ、勢力
を増加し来ると云つた。英米仏に遂に根を張るをえずして、
独逸に伊太利に露西亜に栄え、遂に印度に支那に日本に栄
えるは何故か。個人の道徳的自律を欠いた国民に、唯物論
に反撥するものを欠き、議会制度と思想の自由を理解せざ
る国民に、革命主義と独裁主義とに反撥する何ものもない
からである。此の点に於て共産主義は、恰当の地盤を日本
に見出したのであらう。


      六

 何故にマルクス主義が現代学生に受容されたかと云ふ以
上の説明が正しいとするならば、マルクス主義は一面に於
て、現代青年の渇望の産む所であり、他面に於ては日本の
思想的地盤よりして止むをえざる産物である。
 今マルクス主義を求めしめた現代青年の傾向は、果して
忌むべきものと云へるであらうか。それは青年に社会関心
の旺盛になつて来た為であり、同時に又社会の問題を扱ふ
体系をなした思想を要求したと云ふことである。若し世に
此の二つの傾向を目して、時代の惰落であり頽廃であると
云ふものがあるならば、彼は凡そ価値なるものを理解せざ
るものであり、社会進歩の動力が奈辺に潜むかを解せざる
ものである。此に青年ありて一身の生存と栄達とに汲々と
して余念なきものと、多くの同胞の貧に泣き餓に嘆くをみ
て、之が為に一身を捨てゝ社会組織を合理的になさんとす
るものと何れを吾々は選ぶべきか。公共の善が彼一身の関
心事となれることにこそ、人類の進歩を祝福せねばならな
いに、いかにして此の社会の関心を以て呪ふことが出来る
であらうか。此の貴重なる傾向がマルクス主義を求めた一
つの要素である。
 更に又体系的思想を求める心理こそ、日本の教育が数十
年の努力の後に、漸く作り上げた尊き産物である。浅薄な
る第二義第三義の学説に満足して、すべての根本をなす問
題……之を解くことにより他は容易に解け、之を解せざる
問他は結局解し能はざる……に興味を感じ理解を持つやう
になつたことは、十年前の学界と比して隔世の感がある。
歴史は何によつて動くか、意識はいかにして構成せらるか、
宇宙の本体は物質であるか、否かの如き問題は、今は哲学
者に非ずして一介の学生の関心の問題である。之等の問題
に無理解なる者が狼狽しやうとも、之を日本文化の向上の
標徴と目せずして、何事をか他に挙ぐべきか。
 たとヘマルクス主義者の中に、流行を求めるもの虚名を
求めるもの、之を踏台として野心を充たさんとする不純の
ものがあればとて、マルクス主義を青年界に支持する心理
は、尊ばるべき我が社会の財産である。之こそ地の塩であ
り世の柱である。若し他に忌むべきものありとするも、之
を絶滅する憂ありとせば、そは角を矯めて牛を殺すもので
ある。
 唯物論に満足し、革命と独裁とを謳歌する心理は、祝ふ
べきものではない。然し之等はマルクス主義を受容したる
当初に於て、我が国に始より存在した思想的条件であつた。
此の条件のありし所、マルクス主義を受容したるは自然で
あつた。若し咎むべきものありとせば、そはマルクス主義
に非ずして、之を受容したる日本の条件である。突かんと
せば宜しく、その本源に遡るべきである。之ある間たとヘ
マルクス主義は亡ばうとも、之と同趣旨のものは再び抬頭
するであらう。
 かくしてマルクス主義を支持する心理は明白になつた。
そこには祝ふべき青年の傾向が之を支持してゐる。又そこ
には呪ふべきであるが止むをえざる心理が是を支持してゐ
る。若し前者を認めるならば、現今当局によつて提供され
る多くの対案が、的を失することを理解するであらう。若
し又後者を認めるならば、マルクス主義を難ずるものの多
くは、その資格なきものなるを見出すであらう。現今マル
クス主義排撃の為に、多くの施設が計画されてゐる。或る
ものは日本思想史の研究を盛にせよと云ふ。然し各国思想
に特種性あるを示すことは、マルクスに対立する何もので
もあるまい。或は東洋倫理の研究を以てせんとすをものが
ある。若し之を以て、結局実証的の西洋思想に対するに、
東洋思想の神秘性を以てせんとするならば、寧ろ進んで何
が故に直截に唯物史観の批判に突入しないのか。間接の迂
路を採るの閑日月には筆者は与しえない。又若し経済学を
以て戦はんとするものあらば、経済学なる一経験科学の運
命は、社会思想にとつて何ものでもない。たとへそこに敗
るるともマルクス主義はいかようにも進路を向けうる。経
済学なる経験科学に囚はるるは、経済に唯一の重要性を置
く唯物史観に囚はるるもの、敵を攻めて却て敵の術中に陥
るものと云へないか。マルクス主義を支持するものは、社
会関心と原理要求の心理である。之を満たして之に代るべ
きものを提げざる限りに於て、幾多の対案は霊を求むるも
のにパンを与ふるものである。その効なきや必せりである。
 又マルクス主義を支持する他のものは、呪ふべきではあ
るが止むをえざる日本の思想的環境であつたと云つた。若
し此に反動家ありてマルクス主義に反対するとせよ。彼が
反対するものが社会主義にありとせば、彼は社会主義を採
らざるも社会関心を満足しうることを立証せねばならぬ。
又社会主義を採ることが却て多数者を不幸ならしむること
を立証せねばならない。自己の利益に囚はるることなく、
大衆の前に朗かに此のことを立証するならば、人は首肯せ
ざるをえないであらう。然しそれがされるまで人は首肯し
ないであらう。今に至るまで之を為したる反動家果してあ
りや。若し彼の反対するものが革命主義と独裁主義にあり
とせば、彼は之を難じうるほどに議会主義と自由主義とに
味達せるや。若し又唯物論に反対すとせば、之に代ふるに
理想主義の準備ありや否や。その利益に於て対立するも、
思想的立場に於て反動主義者はマルクス主義者と同一地盤
に在る。異る所を求むれば、社会関心の情熱なく指導の原
理を持たざるにある。
 若し今マルクス主義と反動主義との二つの路ありて、唯
二つのみありとして、その何れをか選ばざるべからずとせ
ば、吾々は躊躇なく反動主義を捨てなければならない。た
とへマルクス主義に誤謬が伴うとも、それは時代の環境の
生じた止むをえざるものである。のみならずそれは祝ふべ
き心理に迎へられて支持せらる。若しマルクス主義を捨て
るが為に、此の社会関心を捨て原理の要求を萌芽の中に切
断するものとせば、吾々は日本の未来を抛棄するものであ
る。之こそが日本の将来を生かす華である。若し日本にし
て生くるならば、若き青年の此の傾向にこそ、多大の期待
を継ぐべきである。


     七

 然し問題は果して路は二つのみなるや否やに在る。
 筆者はマルクス主義の現代学生に於ける功績をみる毎に、
ゲーテの「ファウスト」中のメフィストの言を想起する。
メフィストは汝の名は何なりやと問はれて、余が名か、余
の名は悪……彼の悪と称して度々善をなす彼の悪であると
答へた。此の一語は含蓄深き言ではあるまいか。善なるも
のは善の名に於てなさるゝと共に、ある場合に却て悪の名
に於てなさるゝことがある。悪の名に囚はれて善のなさる
るを看過するものは、洞察の乏しいものである。然し悪の
名に於てするに非ざれば、善がなされずとせば、そは畸形
であり変態である。善の名に於て善がなさるゝと云ふその
善なるものに、何等かの欠陥がある場合にのみ、此の逆説
は許されるのである。
 曾てハロルド・ラスキーは共産主義が人を誘引するは、
その含む理想主義に在ると云つた。たとへ共産主義の経済
理論と唯物史観と社会主義理論とは崩壊しやうとも、プロ
レタリアの解放と云ふ理想は、詩の如く夢の如く宗教の如
く、永久に大衆を捉へずば止まないと云ふ意味だらう。筆
者も亦之と感を同じくする。而もマルクス主義が理想主義
を否定するに日も足らずとせば、世に解し難き矛盾ではな
いか。若しある種の理想主義を否定するに止まると云ふな
らば、理解しえないではない。然し他の種の理想主義を肯
定する余地は、その唯物論よりして可能なるや否や。理想
主義を否定して却て理想主義に忠なるはよい、然し害をな
すことによつて肯定せらるゝ悪なるものは、通常の悪では
ない。悪の形式を採つた善である。その形式に囚はるゝこ
となしに、寧ろ善と称するに如かざるや。
 マルクス主義は社会関心を満足せしむる。然し社会関心
を既に有するもののみが、マルクス主義よりしてその関心
を活用すべき方向を教へらる。されど社会関心を刺戟し鞭
撻するものは、マルクスの文献に求められない。そは既に
存する社会関心を当然の前提とする。之を有するものを導
くをうるも、之を意識せざるものを意識せしめ、沈頽を嘆
ずるものに刺戟をなすものはマルクス主義ではない。マル
クス主義は社会関心を満足せしむと云ふも、実は社会関心
自体はマルクス主義の中心に存せずして他に存する。それ
はマルクス主義より暗々裏に予想され期待されてゐる。之
を与ふるものは理想主義なのである。
 マルクス主義は体系を備へた原理である。その故に現代
青年を満足せしめる。然しその体系の枢軸をなすものは、
唯物史観であり唯物弁証法であり唯物論である。而も之に
誘引せられる青年は、それが唯物論自体を正しとするに非
ずして、唯物史観が資本階級の意識形態の相対性を説き、
之によつてそれより来る制約を脱却し、無産階級の解放を
容易ならしむるに在る。無産階級の解放を道徳的に価値あ
りとする前提の下に、無産階級の解放を容易ならしむるも
のは共鳴され、之に使あることの為に唯物論は人を誘引す
るのである。而も無産階級の解放は価値ありとは、マルク
ス主義の教へうる所ではない。その唯物論よりは価値の観
念を導きえまい。かくてマルクス主義が人を誘引するもの
は、此の場合にも自己の思想以外のもの、而も自己の極力
否定しつゝある理想主義の思想である。比に於てマルクス
主義は一元的包括的ではない、それが存在し評価される為
には、当然に之と反対思想の存在に依存する。
 啻にそれのみではない、唯物論は飽くまでもマルクス主
義身中の虫である。それより来る必然論は、マルクス主義
中に於て動きのとれない煩累である。そこに必然論と革命
論とは、屡々混雑して説かれてゐる。必然観を説くもの必
ずしも別の見方を許しえないではない。然し必然観のみを
説くものが、果して革命の行動を許しうるか。而も唯物論
よりして必然観の外何ものを導きうるや。最も行動を高調
すべきマルクス主義は、その行動の一条件たるべき進化の
理論を絶対視したるが為に、図らずも行動自体に余地を残
さざるに至りしは誠に運命の悲劇である。
 単にマルクス主義がその体系中に混乱があるのみではな
い。その唯物論はマルクス主義者の行動を甚だしく毒しつ
つあるを見出すのである。唯物史観は現存法律と道徳とは、
ブルジョアー階級の利益を維持する為の用具であると云ふ。
かくして現存規範と絶縁したる結果、プロレタリアとブル
ジョアーとは共にその前に跪くべき何等の審判を持たない
こととなつた。あらゆる共通の連鎖を破つた為に、係争を
解決すべき方法は、規範に求めるをえずして、唯力による
の外なきに至つたのである。之は不必要に闘争を激甚なら
しめた。而もマルクス主義者は、強大なる圧迫弾圧の落ち
たとき、之をブルジョアー必然の迫害と断ずるの外、何も
のの批判を加へえない筈である。冷静に因果関係の系列を
案ずるの外、之に反撥せざるべからざる何ものもない、若
しありとせば、そはマルクス主義以外の思想の残物である。
現実の闘争に際して、彼等の抗争力に乏しきは、実にその
思想が単なる必然の認識に止まつて、決然たる実践の哲学
でないからである。
 その状勢なるものを過重視し、何を為すべきを軽視する
が為に彼れらは所謂客観的状勢なるものに就て、幾夜も徹
宵論議して尚決せず、荏苒(じんぜん)機宜を失すと云ふ。客観的状勢
なるものの判断に、幾多の主観が所見を異にすること既に
滑稽であるが、その軽きに低迷して重きを見失ふは、その
思想よりして止むをえないのである。又その戦術なるもの
を重要視することが、彼れらの真摯なる理論の研究を頽廃
せしめたるのみならず、手段の為に目的を忘れしめ、結果
を追ふ結果主義を齎した。結果は偶然に左右さるゝことが
多い、而して何とでも勝手に最もよき結果を生ずると理屈
を付け易い。即ち結果主義のある所規範を消滅せしめ統一
を失はしめる。彼等を拘束する何ものもなくなるのである。
之が組織団結を唯一の信頼とする彼れらにとつて、致命的
損害と云へないか。
 更に甚しきは、彼れらの道義的生活の頽廃である。現存
道徳をブルジョアーの道徳なりとして拒否するはよい。然
し何らかの新しき道徳が彼れらの間にあらねばならぬ筈で
ある。而も彼れらの為す所は、ブルジョアー道徳の拒否の
みにあつて、新なる拘束を受けざるに在る。その道徳の内
容は何ともあれ、何等かの規範を持して現実と対立せしめ、
不断の緊張と努力とを鞭つことは、マルクス主義の運動に
こそ必要であるべきである。約束を破つて恬として顧みず、
約束を守るが如きはブルジョアー道徳なりと云ふ。恩義を
甘んじて受けて之を弊履の如くに捨てゝ、マルクスの理論
に忠なるが為と云ふ。警察に捕へられて友人の氏名を詐称
して、甚しき迷惑を及ぼして顧みざるものがある。そのブ
ルジョアー道徳を守るべきや否やは問はない。唯問はんと
欲するは、之に代ふべき当為があるかどうかである。之な
くば運動の統一と永続とを保ち難いであらう。国家主義が
道徳思想として幾多の欠陥あるに拘はらず、その雰囲気よ
り多くの傑物を出したるは、その現実と当為との対立が明
確であり、道徳的生活を保持せしめたるにある。左翼運動
に党派の闘争の絶えざると、同士が他を疑ひ信を欠くこと
は、一に比にその原因が伏在するのであらう。初期のマル
クス主義者は自ら知らざる理想主義者である。故に口に之
を拒否しながら、実は理想主義の道義心は彼を支配してゐ
る。憂は次期のマルクス主義者である。此に至つて道徳の
頽廃が鮮かに見えるであらう、それはやがて運動に響かず
して置く筈がない。
 以上の害悪はすべて唯物論の禍する所である。悪の名に
於て善のなさるることはよい。されど悪そのものが吾身を
滅ぼすことないとは云へない。マルクス主義が唯物論に拠
ることによつて、足掻きのとれぬ泥の深まに身を投じたこ
とは、不可思議なる運命の悪戯である。


      八

 現下の日本は反動旺盛の日本である。反動が振り翳す刃
の下に、脆くもマルクス主義は一敗地に塗れた。此の表面
の事実の外に、すべては陰欝ではあるが平穏に進行してゐ
る。されど少しく裏面を洞察する識者は、何が底流に動き
つゝあるかを看過すまい。そこには唯権力の為に押へられ
たに止まつて、説得されたのでなく改宗したのでない急進
派がある。彼等は保守派の弾圧を以て、自らの学説が適中
したものとして、愈々自己の信条を強めるであらう。そこ
には暫らく傍観しつゝはあるが、何等かの批判を試みんと
する中立派がある。彼等は始めて階級闘争の実演に直面し
て、いかに成り往く将来かに悩んでゐる。かくして今こそ
社会進化の理論をマルクスより聴かんとしないであらうか。
更に最も注意すべきは保守派の立場である。彼等は最も所
信に勇敢である。然しその所信は理論と体系とに欠けてゐ
る。その故にその勇敢さは持続性を欠く。若し彼等の命脈
にして短かからば、やがて来る再反動は更に恐るべきもの
があるであらう。若し此の反動の命脈さへもが持続するも
のならば、更に恐るべき禍乱を孕むであらう。かくして我
我の社会は奈落に向つて歩々近づきつつある。危きは現今
の日本である。
 此の状勢に直面して吾々は何れに与すべきか。反動に走
らんか、時代の進化に逆行するを如何せん。マルクス主義
を迎へしめたる思想的要求は、之をなかりし以前に戻すべ
きに非ずして、之を満足せしめて更に微底せしめんのみで
ある。マルクス主義に走るはよい。然しそれはある時代の
偶然の理想主義に対立せんが為に、不必要にも唯物論を受
容して、それ自身の意図に反して、自縄自縛の窮地に陥つ
た。マルクス主義の中より出でて之を克服するもの、マル
クスと云はずして却てそれに忠なるものは存しないか。路
は二つあつて果して二つのみなるや否や。
 比に理想主義なるものがある。曾ては個人の完成を標語
として孤独隠遁を求めた。然し個人の完成が本質上社会へ
の関心と矛盾するに非ずして、理想主義の当時の段階に於
てその未だ社会への進出に遑なかりしのみ。若し社会関心
を云ふならば、寧ろ理想主義にこそ却てその充全の説明を
求めうる。また理想主義は曾ては認識論と道徳哲学とを提
供するに止まつて、社会生活に通用すべき原理を持たなか
つた。されど今は理想主義は、社会哲学を有し社会思想を
持つ。而して認識論道徳哲学より社会哲学社会思想に至る
一貫したる一元的終局的の体系的原理である。若し社会関
心を念とし指導原理を求めんとせば、今は理想主義がそれ
を与へうるのである。而も当為と現実とを明確に対立せし
むることはその最も特異とする本質なるが故に、マルクス
主義の陥れる自縄自縛なく、そこに満ち亙れる害毒がない。
 之を以て反動と戦はゞ、現代青年のよきものを蝕むこと
なきをうる。之を以てマルクス主義に対せしめば、そのよ
きものを承継しつつ相続しつゝ、その害を免るゝをうる。
此に新なる路ありて二つの路に優る。


 想ひ起す千八百六十八年三月トーマス・ヒル・グリーン
は、雑誌「北英評論」に一文を寄せて「人生に関する当代
流行の哲学」と題した。彼は社会組織の改造を関心事とす
る当代青年の傾向を、未来の英国を希望あらしむる貴重な
る財産なりと讃へ、而して自己の一身を犠牲として社会改
造を為さんとする青年が、人とは何ぞやに関する哲学に於
てベンサムの快楽主義を採る。良き青年が人とは良くあひ
えざる人間観を持つ、此に当代の思想の矛盾がある。社会
改造をして弛廃せしめざらんとせば、快楽主義の哲学を捨
てゝそれに恰当の哲学を与へざるべからずと云つた。余は
此の一文を愛誦す。此には当代の時務に迂なるをえざる志
士の情熱があり、時代の欠陥を思想の矛盾に求めた所に、
哲人ならで持ちえざる識見がある。かくて彼の後半生は、
矛盾なき上下の思想構造を提供するにあつた。グリーンの
着眼は、移して現代のマルクス主義に云ひうる。唯物論と
最も遠かるべきものが唯物論を持つ、ある時代の偶然性の
みが齎した此の奇怪なる結合を解放して社会主義をして理
想主義に結合せしむることが、当代の志士と哲人とに課せ
られたる任務である。
 然らばその所謂理想主義の上に築かれたる思想の体系は
いかなる内容を持つか。之を語るは容易ではない。されど
その現はるゝは遠くはあるまい。その声は幽なれども遙に
その声の聞えざるに非ず。その声に要なしと云はゞ又何を
か云はん。之を求むるものにはその声のやがて聞えるの時
あるであらう。声の幽なるが故にとて、その声なしと云ふ
べからず、求むるものには幽なるもその声の近づくを聴く
をうる。