国家主義の批判

         一 現代日本の根本問題

 今日盛に街頭で叫ばれる非常時といふ言葉は、普通に一九三六年を控へた日本の国際的危機と云ふことに限られるかの如くである。然し日本が臨める非常時は、単に之だけではない。固より国際的不安もその一つではある、然しその外に社会的不安と政治的不安とが挙げられねばならない。(『ファッシズム批判』「非常時の実相とその克服」参照)。人は更に此の外に思想的不安を附加するかも知れない。だが普通に云ふ思想的不安とは、主としてマルキシズムの蔓延に対する不安を意味するらしいが、それならばそれは社会的不安に対する一思想としてのマルキシズムを対象とするもので、思想的不安と云ふ言葉には該当しない。若し思想が動揺して安定を欠くことを思想的不安と云ふならば、その意味の思想的不安のこの国に存することは確かであるが、前に挙げた三種の不安は畢竟するに、各種の問題に対する思想の動揺不安から由来してゐるので、此の意味の思想的不安はすべての不安に伴ふもので、特にそれだけを独立に引き離して別の第四の不安に数へるのは当らない。
 唯こゝに思想的不安と云ふ言葉に適当した一つの問題がある。それは事物を判断する終局の価値に就て、混乱と惑迷とが起りつゝあることである。凡そ吾々が個人の事にも社会の事にも、何等かの判断を為す場合には、常に一定の価値観念を前提とし、之によつて是非の判断を為すのである。勿論その価値観念は、人によつて意識的なる場合と無意識的なる場合との区別があらう。前の場合は思索と反省とを経過した場合であり、後の場合は唯伝統と因襲とに依る場合である。然しかゝる区別があるにしても尚何れの場合にも、人は終局の価値あるものを前提として、事物の批判を為すことに就ては差別はないのである。此の価値観念は国際問題に就ても、社会問題に就ても政治問題に就ても、あらゆる問題の根柢に横はつて、それを解決する指針となるもので、此の意味で思想的不安は前三種の非常時の不安の基本的条件をなすものと云ふこどが出来る。
 それでは吾々日本人の多数を支配しつゝある終局の価値は何であつたか、私は二つを挙げることが出来ると思ふ。一は国家主義であり他は利己的個人主義である。吾々が幼少の時代からいかに父兄の膝下に於て学校の教室に於て、日本帝国の膨脹と発展とに、輝かしい矜誇の念を鼓吹されたかを顧みるならば、吾等の中の国家主義を否定することは出来まい。而も国家主義と併行して、吾々を指導する価値観念は、自己の立身と出世とを要望する利己的個人主義である。吾々の日常の努力と勤勉とは、此の観念により鞭撻されてゐないとは云へまい。国家主義と利己的個人主義、之が吾々の指針となる終局の価値原理であるならば、吾々には価値の原理が二個あつて、何れも終局性を主張してゐることとなる。然し世に終局なるものは、唯一つあつて複数ではありえない、それなのに吾々の間に終局の価値あるものは、二つあつてその間の、関係は曖昧に葬られてゐる。こゝに吾々の価値の混乱が伏在し、更に価値の混乱は社会生活の動揺の基礎となつてゐる。若し現代日本の最深の問題に着眼する人があるならば、彼は日本人の価値の原理を統一し、唯一の終局のものを求めねばならない筈である。
 それでは今迄の価値原理の一つであつた利己的個人主義を以て、唯一の価値原理と為さんとするか。利己的個人主義は終局の価値あるものを物質に置いて、それを各個人が獲得することを内容としてゐる。所が物質の数量は有限であるから、之を獲得する為には当然他人を排斥して自己のみが独占することとならざるをえない、これ利己的個人主義の支配する所、そこに常に争奪の修羅場が現出せざをえない理由である。今まで利己的個人主義の跳梁に多少なりとも、制限を附けて抑制したものがあつたとすれば、それが之と併行してゐる国家主義であつた。若し国家主義を排除して利己的個人主義のみを残すとしたならば、世は無制限の修羅場と化するの外はない。それでは国家主義のみを以て唯一の原理とするか。人は国家主義を以て利己的個人主義と対立し反撥する両極のものと考へ勝ちである。然し実際は国家主義と利己的個人主義とは、後に述べるが如く一抹の共通性を持つて、表面異る如くにして実は同一の地盤の上に根ざしてゐるのである。又国家主義は価値の原理として之を以て一切の事物を批判するには、不充分であるといふ弱点を持つてゐる。今まで国家主義に配するに利己的個人主義を以ててせざるをえなかつたのは、一に国家主義の此の弱点を補充する為に、別個の原理を借用する必要があつたからである。
 利己的個人主義に対しては、人は既にその跋扈跳梁に悩んでゐる、今更之を批判する必要はあるまい。然るに非常時日本は利己的個人主義を牽制する為に、国家主義を更に強調すること

によつて、その目的を達しうるかの如くに考へてゐる。然るに国家主義は未来に残されたもの
でなく既に過去に於て利己的個人主義を牽制することが出来ない点に於て試験済みなのである。
此の原理こそ日本人の間に本能の如くに根ざして、牢固不抜の地盤を持つてゐる。だが若し昭
和維新なるものありとせば、それは日本人の価値原理の再検討を以て始まらねばならない。而
してそれは国家主義の清算を重要な内容とするものでなければならない。然らば国家主義とは
何か、その不備とその弊害とは何か、之を語るのが本文の目的である。



     二 国家主義の意味

 国家主義とは、国家を以て第一義的に終局的に価値あるものとして、他の一切のものは之に従属し、国家の手段して役立つた場合にのみ、その価値を認めるに過ぎない思想を云ふので
ある。個人とか階級とか社会とか大学とか、又宗教と学術とか藝術とかは、それ自体に於て
価値あるものではなくて、唯国家によつて価値付られるものであり、従つて第二義的の価値
を有するに過ぎない。国家は価値の王座に位し、国家の存続と発展とが、吾々の最後の
目的であり、吾々各人は之が為に生き之が為に死し、之が手段として生き死ぬことによつて吾々の存在価値が与へられる。人は之ほど明確に云ひ表はされた国家主義と云ふものが、吾々を
支配してゐることに疑を挿むかも知れない。然しそれは国家主義の思想が抽象的に定義的に教
へ込まれてゐないからであつて、若し吾々の間に起るの問題の取扱ひ方を少しく反省して
みる時に、いかに国家主義が不知不識の間に吾々を支配してゐるかを理解しうるだらう。多数
の国民に、国家か個人かといふ対立が一度なりとも考へられたことがあるか、此の対立には思
ひ及ぶこともな■いほどに、鞭條件に駒家が遽ばれてゐるではないか0革術や窯教はその本償的・
周値の故に評摺言れないで、開家に役立つか香かにょつて許博されてはゐないか、′或は国家檻
 有利か不利かにょつて取締や監督が行はれてゐるではないか0若し固家主拳の勢力を身建た意
′識しないとすれば、開雲義が霊しないからではなを、それが監通りに賃行されてゐ
 ず、別の思想によつて慣警れて掛るからで、国家睾義はいつにても前面に現はれる準備を夢
 へて、待機してゐるに過ぎないのである。
 〉商家と云ふ裏打は二つの意味があを、、;は強制権力横綱といふ意味であ驚かのマルキ
 妄ムが階級的囲家観を唱■へる場合の固家とは、此の意味の同家である。他の意味の瀾家と
 は、強制権力にょつて統言れてゐや憫人の集図である0灯そ個人の集碑を廣ぺ鉄骨とする鬼
     」一                                                ′
                                                                                  一し】ご小