凡  例





一 コノ改造法案ハ世界大戦終了ノ後、大正八年八月上海ニオイテ起草セルモノナリ。「極秘」ヲ印シ謄写ニ附シテ未ダ公刊ニ至ラザル時、九年一月発売頒布ヲ禁ゼラル。書中「何行削除」トアルハ今回ノ公刊ニ際シ官憲ノ削除シタル所、行数ハ騰写本ノ行数ナリ。

ニ モトヨリ削除セラレタル一行一句トイエドモ日本ノ法律ニ違反セル文字ニアラザルハ論ナシ。恐ラクハ単ナル行政上ノ目的ニ出デシト信ズ。シタガッテ何ラカ不穏矯激ナルモノノ伏在セルカニ感ジテ草案者ニ質問照会スル等ノナカラムコトヲ望ム。ニ三枝ヲ折ルモ大樹ハ損傷サルルコトナシ。

三 ナポレオン戦争ガ十八世紀ト十九世紀トヲ劃セルゴトク、十九世紀ノ終焉ニ十世紀ノ初頭ハ真ニ世界大戦ノ一大段落ヲモッテ限ラルべシ。(世紀ノ更新ヲ十進数ニヨリテ思考スべカラズ)。天ノ命、ニ十世紀ノ第一年ヲモッテコノ法案ヲ起草セシメタルヲ拝謝ス。シタガッテ前世紀ニ続出シタル旧キ哲人ラノ誤謬多キ革命理論ヲ準縄トシテコノ法案ヲ批判スル者ヲ歓ブアタワズ。時代錯誤トハコレナリ。昔ハ娘ヲシテソノ母ニ背カシメンガタメニ来レリトイエル老アリ。ニ十世紀ニ命ジテ十九世紀ニ背クヲ禁ズル革命論ノ多キヲ不審ナリトス。

四 「注」ハモトヨリ説明解釈ヲ目的トセルモ、語辞コトゴトク簡単明瞭、時ニハタダ結論ノミヲ綴リシモノアリ。第ニ十世紀ノ人類ハ聡明ト情意ヲ増進シテ「然リ然リ」「否ナ否ナ」ニテ足ル者ナラザルべカラズ。現代世界ヲ展開セシメタル三大発明ノウチ火薬ガ人類ヲ殺スヨリモハナハダシク、印刷術ノ害毒全世界ノ頭脳ヲ朽蝕(腐爛)シ尽クセリ。タメニ簡明ナル一事一物ヲモ迂漫ナル愚論ナクシテ解悟スルアタワザル穉態ハ阿片中毒者ト語ルゴトシ。日本改造法案ノ起草者ハ当然ニ革命的大帝国建設ノ一実行者タラザルヲ得ズ。シタガッテソレガ左傾スルニせよ右傾スルニせよ前世紀的頭脳ヨリスル是非善悪ニ対シテ応答ヲ免除サレンコトヲ期ス。恐ラクハ閑暇ナシ。

   大正十ニ年五月

                北 一輝


 

 


 第三回の公刊頒布に際して告ぐ


 日本改造法案の第一回の頒布は猶存社同人の謄写版によりて数百部ほど秘密に手より手に交付されたものである。そして九年の一月発行頒布を禁止された。第ニ回のものは書肆改造社の売本として多少世間に弘められたが、改造行程の手段方法の一端を示した部分等を削除することによりて公表を許可されたものである。これが十ニ年の五月であった。
 今第三回の印刷頒布に同意して西田税君の労に委ねた。ニ回目の売本の時に、とくに凡例の三と四とにおいて批評にも応ぜず質問にも答えないゆえんを注意して置いたにかかわらず、稀に批評を見また質問に接した。来て問う者にも多く答えず、書簡の質義等に対しては一律に書簡そのままを封入して返戻するを例とした。然リ然リ否な否なにて足れリとはその節注意したとおリ今も同じである。
 西田君は鞍馬帯剣の年少少尉である。武に養われたるがゆえによく文を解し得るのであろうか。とくにこの書冊は法案である。法案なるがゆえに終に法典として国家を組み立つべきものである。君および君らの剣頭鏃尖(ぞくせん)をもってのみローマの十ニ銅柱に如意輪堂の鉄扉に刻み彫らるべきものである。ニ回目の時と同じくもちろん官憲に毀傷されたままのものではあるが、気運の熟成、行路の進展、終に君および君らの鉄血を中心時代とするに至れる象教として、今回の印刷頒布を悦ぶこと甚深なるものがある。
 右、誠に無遠慮なる申分なるがゆえについでに有リのままを告白する。
 真実この法案を上海の一病室に横わって起草するに至るまでに四十幾日かの断食をした。参考論文に収めてある「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」の書簡は実に断食中のもので、しかしてそれを投函して帰れる岩田富美夫君が雲霞怒涛のごとき排日の群集に包囲されているのを眼前に見た。全世界の是認に抗して一人の否認が着着事実に挙証せられた智見をのみ値するなかれ。その否認を現実に米国そのものからの否認とウィルソンその人の墜落とをもって「みなこれ真実」に示さんがためには、実にわが神々および全世界のサタンらの前に一身を投げ出したる不惜身命(ふしゃくしんみょう)の祷(いのり)があるのだ。日蓮は日本国なリといい朕すなわち国家なリという。ヴェルサイユから全世界に漲れる排日熱、支那全土を洗い流がす排日運動の中にあリて、 ― 三千年の生命と六千万人とを一人格に具体化せる皇帝その人の写像が口にすべからざる侮辱をこうむリて各国環視の街頭に晒された時、 ― いやしくも「ただわれ一人よく救護をなす」の大責任感を有する者、日本国に対する排侮を日蓮みずからの排侮に感じ、皇帝のこうむリたる恥辱をただわれ一人の恥辱に受取るのは当然のことである。
 自分は十有余年間の支那革命に与(あず)かれる生活を一擲して日本に帰る決意を固めた。十数年間にとくに加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにして置いては、対世界策も対支策も本国そのものも明らかに破滅であると見た。清未革命の頃、すなわち民国および大正元年の前後の年頃には、危ぶないと思いつつ、それは間違いだと争いつつ、しかしてもとよりつねに抑え付けられつつ、しかも未だかつて万事休すとまで絶望はしなかったのである。― そうだ、日本に帰ろう。日本の魂のドン底から覆えして日本みずからの革命に当ろう。それには雑多に存在し行動している本国の革命的指導者にだけなリとも、革命帝国の骨格構成の略図をでも提供する必要があろう。然リ、全アジアの七億万人を防衛すべき「最後の封建城廓」は太平洋岸の群島に築かるべき革命大帝国であると。かくしてこの法案を起草し始めたのである。
 こんな煩悶懊悩に一カ月。執筆に一カ月。― しかもこの期間において眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤している者が、ことごとく十年の涙痕血史を共にせる刎頚(ふんけい)の同志その人々である大矛盾をどうする。あえて大戦参加の第一歩の誤に遡らずとも、とにかくそれに参加した日本の山東政略に対して、同一なる参加を要求して来た支那を拒んだならばそれでよろしいではないか。これ尠少(せんしょう)の実力をも供せずして山東の発言権を獲得せんとしたからのものである。しかるに三年後に米国が支那を誘引した時には、米国と寵を争うかのごとく支那の参加に努力した。これ支那の出席すべきを拒んだ日本そのものの手をもって、後年ヴェルサイユにおける支那の大踏闊歩のために門を開いたのである。 ― 日本という大馬鹿者に貼ってやる膏薬を後の外交史の編者に残して置く。 ― 米国が「海洋の自由」のためにドイツとの国交断絶に至ろうとも、海洋にジャンク一隻の通商をも有せざる支那が国交を絶つべき道連れになろう理由も必要もない。自分が日本から海を渡って一年たたぬ間に、日本の内閣会議の卓に列べる眼玉が皆猫の眼玉に代っていたことを知らなんだ。(誰か一帝国の政策が朝夕にグリグル代わるものだと考えてかかるものがあろう)。実に六年ニ月十一日、神武建国のその日において、不肖北一輝なればこそ断乎として支那の対独断交に参加すべき理由なきを彼らに指示し、故譚人鳳・章大炎の獅子吼一声を鳴鏑(めいてき)としてほとんど米国と当時の聯合国の所為を打破するになんなんとしたのである。−北一輝が悪いか日本帝国が悪いかは皇祖皇宗の前に出て裁いて貰おうではないか。 − もちろんこのことを最初のかつすべての動因として支那は内乱を勃発し幾年間の南北交戦を継続した。しかもわずかに半年以前袁世凱の頓死によりて第三革命を中止し各省の兵車ことごとく当時の排置[ママ]のままであったがゆえに、革命の徹底によりてのみ支那を救い得る者にとリてはこの国家的題目を捉えて兵を動かさんとしたのはまた当然ではないか。超憲法的に大総統黎氏をして内閣総理段公を免職せしめた者がある。たちまち段の一督軍が長江の一角に拠リて兵を挙げる。無作法な復辟の狂言師が登場して黎総統その人に議会を解散せしめる。「黎さん」また泣虫の本性を暴わして日本公使館に逃げ込む。帝政衰世凱の両腕を働いた段祺瑞は天津から、馮国は南京から、民主政治の擁護者に早変リして張勲の三日天下を討伐する。対世界戦の参否の本目的から横道に外れて、故孫逸仙君らは広東に護法政府なるものを組織する。ついに独支国交断絶が聯合軍参加となるに至って、広東の議会万能主義者はまた長い者に巻かれたる戦争参加を宣言する。しかして隣国の大馬鹿者は「参戦軍」なるものを支那に組織せしむると称して莫大なる戦費と兵器とを馮・段の同盟的勢力に貸付けた。(元も子も返らぬ一億五千万両の西原借款である)。大戦参加に抗争せんがために北京の政局を打破し長江の戦雲を動かした諸友同志は、北京政府を通ぜる日本の兵器と軍費によりてつねに江の南岸に圧迫せられ全敗を免るることに天佑を求めた。かの参戦軍なるもの苦カの輸出以外一兵といえども欧洲の土に送らるることなくしていたずらに革命的同胞の殺戮に用いられたのである。革命的勢力はついに馮・段の間隙に乗じてその勢力を二分し、馮系と合縦連衡して段を北京から近けた。日本に国を売る者であるとして彼が落されたならば、国を買った日本を侵略者となし、ようやく死を免かれたる戦場からの喚声を挙げて日本の万悪を数うる時、尋常一様なる排日運動に終らざるは言うまでもない。北京は馮系が広東は排日的革命系が占有している。両者の握手によりて段系を覆滅せる余威をもって日本に臨み、しかして両者の握手せる全権代表が米国からヴェルサイユに飛舞跳躍した時、 − 米国の誘引したる引出物が「支那に還附する目的」なリし山東省の横取であった事実を始めて鼻頭につきつけられた時 − 日本の阿呆烏どもは朝野一斉に国難来と鳴号したのである。泣きもされぬ大悲劇は往々喜劇の一齣を挾んで人天の侮弄を逞しうするものである。
(ついでにさらに言おうか。支那の南北政府からの全権代表が、米国においてヴェルサイユにおいて叩きつけた紙幣束撒き散らした銀行券が西原借款中の教百万円であったのだぞ!馮系と段系に交付された通貨は広東系と馮系が支那において段を倒し日本を傷くる政治費として流通し、その二者が南北政府として講和政府に当った時には外交費となつて流通したのだ。通貨である。支那自身の租税は一ドルといえども革命後国庫に納入されたことなく、五国借款以後一回の外債成立なく、しかして世界大戦中英米仏独露の対支投資国はただ支那以外の戦場に砲弾を投じていたのだ。仮リにも一億五千万円である。その中の一千数百万円が支那において討段排日の政治費となリ、三千五百万円が米仏の外交舞台における宣伝費買収費となったことはどうだ!それを日本における対米国士らは逆に米国の出資と信じ、倒(さかし)まに支那が米人に買収されたかと考えている。すべて、することも、言うことも考えることも、角兵衛獅子の逆施倒行である)。
 自分は革命帝国の法案を考えた。この法案は秋毫も冷静厳粛を紊(みだ)されてはならない。しかも自分は閑(のど)かなる書斎の代リに、この全世界から起リ全支那に渦巻く排日運動の鬨(とき)の声の中に身を縛られていた。一冊の参考書を許されざる代リに、− おまえの主張によりて戈を執リおまえの本国によりて殺されたるものの瞑せざるを見よとして、− 参戦軍に銃殺されたる同志の忘片見(わすれがたみ)を与えられた。附紐の附いた日本の単衣を着て、小さい下駄をはいて父よ父よと慕い抱かれる。しかも涙の眼を転ずれば、ヴェランダの下は見渡す限リこの児の同胞が故国日本を怒リ憎みて叫び狂う群集の大怒涛である。地上に生を享けたるものの多く会せざる矛盾、大矛盾ではないか。泣いて悲しみが和らぎ怒りて当るところあらば地獄ではない。地獄、焦熱地紋の火炎に身を焼かるる悶えに日々水を吸うこと幾十瓶。豪侠岩田の鉄腕さえ痺びるる力をもって、岑々(しんしん)と時には轟々と鳴リ痛む脳骨を打ち叩かせつつ、(おまえにはつねにお世話にナシたことを謝する)。真に気息奄々として筆を動かしたものである。二三行にして枕し、五六行にして横わリ。
 ゆえに自分は信ずる。後十年秋、故朝日平吾君が一資本閥を刺してみずからを屠リし時の遺言状がこの法案の精神を基本としたからとていささか失当ではないと。死をもってする者と、死に優る生を貪る者との間にはその根底において一脈相通ずるあるものがあるのだ。自分がもちろん足下を教えた者でないごとくに、足下の魂を天上に召した偉いなる者が自分を召して地上にこれを書かしめたのである。したがって猿からわずかに進化した理論に甘んずる頭脳の人々、虚偽飾善の時代に適者生存の名誉を負える国士志士学者人格者三角者のごときが、あるいは追随したリあるいは背叛したリしようとも、一顧する気にもなれないはずであると思う。当時は真に死のやすきに比せらるる生の痛惨悲愁を嘗めた。しかも今にして回顧すれば、かの火の海の書斎と涙の冊子とは自分を書かしめしものがその書記生に恵まれた着であったのだ。拝跪稽首(はいきけいしゅ)して告ぐ。この文字が諸子を導くところあらば、諸子の感謝すべきものはあめつちに満つるわが神および諸子の神々である。
 参考論文に収めてある『支那革命外史』の序文は十年秋公刊の機会において書いたもので、本文は四年末五年春第三革命中ある余儀なき必要のために限定部数の印刷配布のものである。当時全然捨てていた筆を執るに当って、『国体論及純正社会主義』の明治三十九年から十年の歳月を経たのを回顧して感慨多少のものがあった。『国体論』の出版および同時の発行禁止からその年の冬ただちに支那の革命者の一団の中に生活せしめられていた。幸徳秋水事件等の外に神蔭しのごとく置かれたる冥々の加護を今さらのごとく考えしめられることもあリ、真実の革命の本義と革命運動とは決して書冊や歴史では解することのできない境地であることも悟られて来た。同時に、人間生活のほとんどすべての窮乏も、屈辱も、成功らしきことも、失敗その者の至重至大なる意義も、 − とくに膓(はらわた)の千切れる悲しみや血の涙というもの、天人共に怒るという憤怒のごときもの、− これらの体験とその中に起伏する一糸紊れざる法則も多少は悟ることもできた。とくに革命的中心人物はすべての歴史において似而非(にてひ)なる同一戦列の鍍金着流(名誉権力、我見邪慢の地金に外部周囲カら革命的光輝を塗られた似而非者(えせもの))によりて終滅せしめらるる事実とその天意とにつきて深く心得ることもできたつもリでいる。しかしてこの二著の序文だけにても収録した理由は、理論として二十三歳の青年の主張論弁したことも、実行者として隣国に多少の足跡を印したことも、しかしてこの改造法案に表われたことも、二十年間かつて大本根抵の義において一点一画の訂正なしという根本事の諒解を欲するからである。思想は進歩するなんどいう遁辞(とんじ)をもって五年十年、はなはだしきは一年半年において自己を打消して恬然(てんぜん)恥なきごときは、 − 政治家や思想家や教師や文章家はそれでもよろしいが、− 革命者として時代を区劃し、幾百年の信念と制度とを一変すべき使命において生れたる者の許すべきことではない。純粋の理論を論説していた二十台の青年だろうが、千差万別の事情勢力の渦流に揉みくちゃにされて一定の航路を曲げやすい三十台だろうが、すでに社会や国家に対して言説をなし行動を取った以上は年齢や思想如何をもって免除さるべからざる責任を感ずべきはずと思う。
 一貫不惑である。ゆえに同じき参考論文に収めてある「ヨッフェ君に訓(おし)うる公開状」はそれ自身の価値、すなわちロシアの革命が百年後れたるフランス革命の継続であって社会主義の実現にあらざることや、国際債務の否認が主義の理論でなくてドイツ皇帝との降伏同盟から生じたことや、国際法学上の承認とは領土継承権の承認以外は何もないということやの価値は今も鮮かなる論証として存する。またこの論文の数万部をもって、かつこの論文からの満三カ月をもって、彼を自分の領土から逐出した実力の行動を承知してる者も多かろう。しかしながらその論調がいわゆる「戦場言葉」であったがために、 − 自分が言説をする時はすなわち行動の一部であるがゆえに、 − 反動主義者でないかと愕いた昏迷者は二十年前の『国体論及純正社会主義』の序文を見るがよろしい。非戦論に雷同せざるものは革命主義者にあらずとされた当時の世界風潮において「万国社会党大会の決議をもってすとも著者の自由を拘束するあたわず」と大書特筆して日露戦争を是認してある。(かれのすべてを無視せよ、かれの一貫不惑なる二十年の生活を信頼せよ)。然リ。日露戦争によりて、一島国の黄人が白人の大陸帝国を単独に打破したることによりて、支那に革命精神の勃興となリ、インドに独立運動の萌芽を見たのだとせばそれを非認して革命者を自任した人々のごとき今さら支那やインドやアジアの革命を語リ解放をいうは社会に対し自己に対しても恥なきわざではなかろうか。
 『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で一千頁ほどのものであリかつ二十年前の禁止本であるがゆえに、一読を希望することは誠に無理であるが、その機会を有せらるる諸子は「国体の解説」の部分だけの理解を願いたい。右傾とか左傾とか相争うことの多くは日本人みずからが日本の国体を正当に理解しておらぬからであると思う。この著者はそれを閲読した故板垣老伯が著者の童顔を眺めて、おまえの生れ方が遅かった、この著述が二十年早かったならばわが自由党の運動は別の方向を取っておったと遺憾がられたことがある。同時に保守党の鎮台と目せられていた故谷干城子は別の意味において著者を過分に論評していた記事を見た記憶がある。坦々たる長安の大道を何がゆえに泥酔者のごとく右傾し左傾して歩するのか。現在の革命的指導者諸子に影響した点の多いのは多くこの著である。(当時の啓蒙時代において福田徳三氏が世界的大著述となし、社会主義研究者のために列挙したる各国の代表的著述中に日本を代表せる唯一のものとしてあったごとき、この著にまた学術的価値もあるのであろうか。)
 『支那革命外史』は序文だけで本文を見らるるを欲しない。絶版でもある。大石良雄を行動する者と浪花節語リとを混同する現代日本人から劇的興味をもって視らるることは不快この上もない。自分は芝居を見ることを欲せず歴史もその大部分は忘却の屑籠に投げ込んでいる。文字と所作事に感激する程度のものは敵でも味方でも御免をこうむリたい。
 小さき讃美と群盲象評の是非より離るることを祈る。大正五年二月よりの満十年間の見仏の生活において「柔和質直者則皆見我身」を身読したるごとく、− それ以前の十年間の『国体論』時代より「雖近而不易」の冥々の愛護を今さらのように顧想して拝謝し得るごとく、− 今後おそらくは真に波瀾重畳なるべき人生無限の行路において等しき指導愛護を垂れ給わんことを祈る。見と不見との二十年間を幸いにして一貫せし者惑わざリし者を、必ず決定して故国日本の巌上に築かんことを祈る。しかしてもし余命あらば、− 何ぞ命の余れると足らざるとを言わんや。

  大正十五年一月三日

               北 一輝