憲法発布十年紀年祝会に於て 明治32年2月11日帝国ホテル

今日は神武天皇即位の二千五百五十九年に当り、且つ憲法発布以来丁度十年に相成
ります、其当日を祝する為めに態々尊来を仰ぎました所が、幸ひに御光臨の栄を辱
ふ致しました、先づ私は我 天皇陛下及び 皇后陛下 皇太子殿下、又各皇族殿下
の何れも御健全に渉らせられて誠に此佳節に於いて目出度き限りと存ずるのであり
ます、茲に恭しく 陛下の万歳を祝し奉ります (一同粛然起立遙に敬礼を表して杯
を挙ぐ)
此佳節に当りまして聊か憲法の十年の誕辰に就きまして簡単に此憲法政治に至つた
る所以、及び其歴史の大略を述べて、尚ほ将来憲法の国家と共に悠久ならむ事を望
みたいと存じます−何卒酒を召し上りながら傍ら御聞きを願ひます−熟々此三
十年間の歴史に就いて考へて見ますると、我日本の帝国程地球上に於いて異常なる
変遷をした国はないと考へます、卅二年の昔は正しく即ち封建の国である、封建の
政治は其主義に於て矢張り武断的の政治であります、而して其以前数年を隔てゝ始
めて欧州諸国と交際を開く事と相成りましたのでありますが、卅二年以前に於きま
しては日本全国の輿論は先づ問はずして多数が攘夷と云ふ事に定つて居たと認めて
宜からうと考へます、当時已むを得ずして開港を迫られて来た為めに、幕府の失
策を列挙して各藩の有志は殆ど其罪を鳴して余す所がなかつたのであります、然る
に事実開国を実行しつゝあつて、人心は全く之に反対して居つたのであるが遂に是
が為に鎖国の議論を変じて開国と為し、所謂鎖国攘夷の議論を此に捨てゝ開国主義
を採つたのでありまするが、此間の状態を今よりして回想しますると、実に危険千
万であつたと云ふ事を想像するに足るのであります。
当時我日本の国勢を動かす所の議論は、概して士族の議論であつて、之を日本の人心
を統括する輿論と云ふても然るべきであつたと思ふ、其士族の議論の如くに果して
維新草創の際の国是、即ち鎖国攘夷の議論をして行はしめたならば、今日の日本は
果して如何な有様になつたであらうかと云ふ事を考へなければなりません、幸に当
時先見の識者があつて、王政の復古と共に其国定を一変して開国の規模と定められ、
至尊の大猷を奉じつゝ人心の傾くところを顧みずして国を危殆の中より救ひ出したのは、
我々は深く先輩の其功績に対して謝せざるを得ぬのであります
 (喝采)
而して私は王政復古の事業と云ふものは、単に明治初年、所謂戊申の戦争のみを以
て目せんのである、王政復古の事業は、之に伴ふに廃藩、即ち郡県の治を布くと云
ふ事が兵力財力を挙げて帰一にすると云ふ事業の完成を為さしめたのであります
斯くの如き大事業に至つては刃に衂らずして之を成し遂げると云ふ事は世界の歴史
に於て曾て見ざる所である
、之を成したのも矢張り先輩が上は 陛下の大猷を奉じ、
而して国家の危機を転じて安全なる途に導いたが為めであると云ふことは誰一人と
して之に向つて反言することは出来まいと思ふ (喝采)
畢竟先輩識者が忠亮なる愛国心より注ぎ出した所の精力であります、而して此事業
を完成する為めには、此席に列せらるゝ諸君は何れも皆与つて力ありと認めまする
が、私は先づ明治元年よりして明治十年に至るまでを王政復古の時代と認め、而し
て明治十年より二十二年に至までの間を憲法政治に至る準備の時代と認めるので
あります、此時代には西南の乱の平ぐや否や、政府は先づ地方会議を開いて人民に
議会的の事を熟練せしむる方針を執り、同時に行政各般の事を整理して参つたので
ある、唯だ財政の一点に至つては頗る困難を極めたのであります、国民の財力が未だ
発達せざる時に当つて大乱に遭遇して非常に国帑を費した後でありました故に、此
回復の為めにも固より時日を要した訳であるが、其傍らに於いて憲法政治になると
云ふ準備を致したのであります。
憲法政治の事に就いては、先輩の意志を私が親しく知つて居るに就いては、今晩列
席の諸君中には御承知の方もありませうが、之を略述せざるを得ぬのであります、明
治四年の冬期に於いて岩倉右大臣及び大久保大蔵卿、木戸参議、且つ私も其一人に加
はり、山口尚芳、  当時外務大輔でありましたが、一同欧州に使節として派遣せ
られました、此使節の目的たるや条約改正の事を相談し、且つ傍ら各国の国政を研
究すると云ふ使命を帯びたのであります、欧米諸国の政治は一二の国を除く外は即
ち何れも憲法政治であります故に、其研究すべき事項は憲法的の動作より各般の立
法行政の事務にまで及ぶと云ふ事は論を待たぬ、之を皆研究して、力の及ぶ限りを
以て復命したいと存じたのであります、而して日本へ帰朝したましたのは明治六年で
ありましたが、木戸参議はどうしても将来は憲法政治にならなければ此日本の国政
を維持することは出来ぬ
と云ふ事を私に談ぜられたのであります、而して私も素より
憲法政治は将来行はれなければならぬと云ふ意見を持したのである
其以前王政ふっこの事は、各藩何れも其私を棄てゝ公に徇ふるの心を以つて、自分の
社稷を抛つて上は王室の為めに、国家の為めに力を致した位の事であるから、是れ
から以上は上は 天子と、下は国民と相調和して、而して日本は一団結となつて力
を合同して以つて外に対さなければならぬといふ事よりして王政復古の事も廃藩置
県の事も行はれたのであるから、之を結んで帰する所がなければならぬのは論を俟
たぬ
、併し憲法政治は容易に之を実行する事は難からうといふことを論じたのであ
りますが、既に斯くの如く木戸参議の議論はあつたのであります
それから大久保大蔵卿の意見は一篇の書面として私に与へられましたが、其書面は
今日も猶ほ私は保存致して居る、是は殆ど一冊と相成つて居りますが、是も即ち憲
法政治にすると云ふ意見でありました
、夫は丁度征韓論のある当時の事、夫より続
いて征韓論の破裂と相成つて、彼の西郷以下当時の各参議は辞職となられたのであ
りまするが、其辞職後に於いて板垣、副島氏等から民選議員の建白が出て居ります、
而して其後内政の整理をすると言ふて居る中にナカ/\容易ならぬ形勢と相成つて、
遂に西南の乱と相成つたのであります
此西南の乱が鎮定すると共に、彼の木戸、大久保の先輩は、或は病の為めに斃れ、或
は兇手の為めに斃れたのであります、当時三條太政大臣、岩倉右大臣、外に有栖川
の宮殿下は左大臣であらせられましたが、何れも皆憲法政治にならなければ将来国
家の昌運を計る事は出来ぬ
と云ふ考でありました
それより明治十四年に至つて、大隈参議より憲法政治を採用せられたしとの建白が
出でました其事は固より早急の事であつて、即時に行はるゝ事でない、憲法政治に
なるが宜しいと云ふ事は既に述ぶるが如く先輩も唱道された所でありますが、如何
なる憲法を施くかと云ふ事が問題である
、此憲法政治と云ふものに就いては国々各
皆政体を異にして居つて、大体帰する所は同じであつても、総て之を一様に観察す
る事は出来ぬのであります、然るに其処までの研究は未だ届いて居なかつたのであ
る、けれども到底将来の方針を国民に示さなければならぬ国民に向ふ所を知らし
むるのが必要であると云ふ所から明治十四年の 詔勅を発せられたのである
此明治十四年の 詔勅を発せらるゝと同時に私は欧州へ派遣を仰付けられた、此時
に当つて私が 陛下より頂戴をしたる詔勅を此処に於いて拝読致します (一同起立
敬礼を表す)
朕明治十四年十月十二日ノ詔旨ヲ履ミ立憲ノ政体ヲ大成スルノ規模ハ固ヨリ一定
スル所アリト雖其経営措画ニ至テハ各国ノ政治ヲ斟酌シテ以テ採択ニ備ルノ要用
ナルカ為ニ今爾ヲシテ欧州立憲ノ各国ニ至リ其政府又ハ碩学ノ士ト相接シ其組織
及ヒ実際ノ情形ニ至ルマテ観察シテ余蘊無カラシメントス茲ニ爾ヲ以特派理事
ノ任ニ当ラシメ爾カ万里ノ行ヲ労トセスシテ此重任ヲ負担シ帰朝スルヲ期ス
明治十五年三月三日
   御璽
              奉勅太政大臣従一位勲一等三條実美印

それから此 詔勅に対する科目があります、此は私が頂戴致した訓令であります

一 欧州各立憲君治国ノ憲法ニ就キ其淵源ヲ尋ネ其沿革ヲ考ヘ其現行ノ実況ヲ視利
   害得失ノ在ル所ヲ研究スヘキ事
一 皇室ノ諸特権ノ事
一 皇室竝皇族財産ノ事
一 内閣ノ組織竝立法行政司法及外交ノ事ニ関スル職権ノ事
一 内閣ノ責任法ノ事
一 内閣大臣ト上下両院トノ間ニ存スル諸関係ノ事
一 内閣ノ事務取扱手続ノ事
一 上院及下院ノ組織ノ事
一 貴族ノ制度特権ノ事
一 上院及下院ノ権限竝事務取扱手続ノ事
一 上院及下院ニ関スル皇室ノ特権ノ事
一 上院及下院ノ開閉解散竝延会ノ事
一 上院及下院ノ自由政論ノ事
一 上院及下院ノ特権ニ関スル争議ノ事
一 議事規則ノ事
一 皇室ヨリ上下両院議員待遇ノ事
一 上下両院ノ間ニ存スル諸関係ノ事
一 議案ヲ発スルノ所竝諸議案ノ事 
一 上下両院ニ於テ会計予算ヲ議定シ若クハ決算ヲ査竅スル方法ノ事
一 上下両院司法権ノ事 
一 諸請願若クハ行政裁判法ノ事
一 上下両院議員ノ資格并選挙法ノ事
一 法律及行政規則分界ノ事
一 各省ノ組織権限ノ事
一 各省ト上下両院トノ間ニ存スル諸関係ノ事
一 各省ト地方官トノ関係ノ事
一 司法官進退黜陟ノ事 
一 司法官ト上下両院トノ関係ノ事
一 諸官ノ責任及進退ノ事
一 書簡養老特典ノ事
一 地方制度ノ事

是れだけが私が 奉勅して参つた御沙汰であります、此は至て重大なる事柄であり
ます故に、ナカ/\私の浅学を以て能く此命令を負担し得るや否やと云ふ事は予め
期し難い事でありましたが、自分の精神と、力のあらむ限りは此 大命を何処までも
果したいと云ふ考で此 詔命を啣んで欧洲に参りまして、先づ大体各国に於いて取
調の出来るだけは致して帰りまして、それより憲法の草案取調に着手致したのであ
ります即ち明治十六年に帰りまして、十七年より其取調に掛つて漸く二十一年の末
に成就を致して、其れより御 聖断を仰ぎ奉り乃ち二十二年の二月十一日を以て御
発布に相成つたのであります、是れに付井上毅君今此席に在る伊東男爵金子君
等は私を輔けて共に尽力せられたのであります
諸君の中で枢密院創立の当時から御居でになつた御方は御記憶になつて居られませ
うが、枢密院は憲法の為めに生れ、憲法と共に生存する官衙でありまして此の憲法
及皇室典範の会議に於いて 至尊陛下は一日も臨御し玉はぬことはないのである、
長日月の間必ず其都度御臨場に相成つて親しく会議を聞こし召され、又私が拝謁す
る度毎に、必ず其草稿を御携帯あらせられまして、御下問のある事屡々であつたの
であります、憲法は斯くの如く、聖慮を注がせられて出来たものであります
而して二十二年に御発布に相成つて二十三年の冬期に議会を開かれて今日に至つた
のでありまするが、事はふしぎなもので、最初の議会開会の時も総理大臣は矢張り
今日の総理大臣山県侯爵でありまして其時に当つては遂に議会を解散する事もなく、
其職務を全ふされましたが、憲法発布後十年の紀念に際会せる今日も亦た山県侯は
総理大臣の職に在られて、今日の状勢を以て見れば議会を解散する必要もなく、
誠に其職務を完全に尽されたものと申すの外はない、私も此間に於いて両回総理大
臣の任務を奉じましたが、私は不幸にして何時も解散に遭遇せざるを得ぬやうな不
仕合、夫は兎も角も、前に申した所に立戻つて、明治十年より二十二年までは前にも
申す如く憲法政治施行準備の時代と認めますが、二十二年より今日に至るまでの此
十年の間は即ち私は憲法の試験の時代
であつたと申しまする
此試験の時代に於いて如何なる結果を得たかと云ふ事を先づ見なければなりません
が、概して憲法の試験は誠に上結果であつたと云ふことを断言するに憚らぬのであ
る、其証拠には憲法発布の当時即ち明治二十二三年の国家の状態と今日の状態とは
大いに変つて居る、憲法発布当時の人民に負担は僅かに八千万円に過ぎなかつたので
あるが、今日は実に之に倍して居る、人民が斯くの如くに政権を享有して大政に参
与する事を得ると同時に此人民が国家に尽す義務はどうであるか、縦令財力が進ん
だとか進まぬとか云ふ事を以て財政が斯くまでに膨張したのも当然であると云ふ議
論をする者があるかは知らぬが、己れの代表者を出して之に賛襄せしめて出して居
るのである、圧制の下にある者とは大いに異ると云ふ事を見なければならぬ之を以
つて見ても此試験の歳月は誠に好都合に経過したるものと言つて宜からうと考へ

此の間に於て勿論憲法上の議論は、余り大論も起つたことは聞きませんが、政府と
議会との間に於て、常に衝突する点は何かと云ふと、始めは経費節減の議論である、
其次は何であるかと云ふと或は責任論であるとか、或は又行政の整理とか云ふ議論
であつたが、当時或は官に在り或は外に在つて考へて見たが、どうも此行政整理と
云ふ事は固より注意を致して政府も怠つては居らぬのでありますが、如何なる方法
に依て如何なるものを整理するかと云ふ事に就いては、其整理する点を見出す事が
甚だ難かつたのである、唯だ行政整理と云ふ題目の下に行政整理を迫られたのであ
、又経費の節減


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