満洲建国前夜の心境     石原莞爾

 支那問題に対する私共の関心は、幼年学校時代からのも
のであつた。中国の新生と日支の心からの提携協定を念願
する素朴な気持から、私共は只管中国の革命に対して大き
な希望を抱いてゐたものである。従つて明治四十四年、当
時の清国の宜統三年に彼の武昌兵変が起り第一革命が成功
した時には、私は丁度朝鮮の守備隊に居つたのであつたが、
かねてからの中国の新生に対する念願と革命後の中国の前
途に対する希望の余り附近にある山の上に当時の自分の教
へて居た兵隊と共に登り、万歳を叫んで新しい中国の前途
に心から慶びを示したものである。
 然し此の喜びは束の間のものであつた。孫文は袁世凱と
妥協する、袁世凱は軍閥の地金を現して革命の理想を蹂躙
して行く、袁が死んでも結局軍閥と軍閥との抗争で容易に
革命の精神は行はれない。この状態を見て私共は中国人の
政治的能力に疑を懐かざるを得ない様になつた。漢民族は
高い文化を持つては居るが近代的国家を建設するのは不可
能ではないか、と言ふ気持になつて行つたのである。満洲
事変の前迄此の懐疑は続き、その気持の上から私共は当時
満家問題解決の唯一の方策として満蒙占領論を唱へ、漢民
族は自身政治能力を有せざるが故に日本の満蒙領有は日本
の存立上の必要のみならず中国人自身の幸福である、と強
硬に主張して居たのであつた。
 然し此の場合に於ても満蒙占領後の成果如何は日本帝国
百年の大計に大きな影響を及ぼすことのあることを顧みて、
その統治の方針は、大体に於て最高政治を抑へる以外は、
眼前の小事に拘泥して日本人の保護に偏重することなく各
民族に各々その特異性を充分に発揮せしめて、日鮮満漢蒙
等各民族協和し共に共存共栄の実を挙げることを考へて居
つたのである。現に満洲に当時あつた満洲青年聯盟の昭和
六年春の大会決議には「諸民族の協和を期す」と言ふ文字
を使つて居るのは、此の気持が在満の青年層にも普遍して
居て期せずして現れ出たものに他ならぬと考へられるので
ある。
 此の満蒙占領論は然し実際に満洲事変が起り又実際に満
蒙の統治が現実の問題となつて来てから、却つて反対に満
蒙の独立論に変つて行つた。
 その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐
疑が再び中国人にも政治の能力ありとする見方への変り方
であつた。当時中国は蒋介石を中心とする国内の統一運動
が国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行つた。
生活の根本的な改善からはじまつて国民の生活と国家の政
治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の
軍閥のやり方と全然違つて新しい息吹きを中国に与へる様
に思はれたのである。
 中国人自身に依る中国の革新政治は可能であると言ふ従
来の懐疑からの再出発の気持は、更に満洲事変の最中に於
ける満洲人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な
協力と軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献
身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層
違つて来たのである。
 在満三千万民衆の共同の敵である軍閥官僚を打倒するこ
とは日本に与へられた使命であつた。此の使命を正当に理
解し此の為に日本軍と真に協力する在満漢民族其の他を見、
更にその政治能力を見るに於て、私共は満蒙占領論から独
立建国論に転じたのである。何故ならば支那問題、満蒙問
題は単に対支那問題ではなく、実に軍閥官僚を操り亜細亜
を塗炭の苦に呻吟せしめて居るものは欧米の覇道主義であ
り、対支問題は対米英問題である以上、此敵を撃砕する覚
悟がなくて此問題を解決することは木に拠り魚を求むるの
類ひであると思つて居たが為に他ならない。
 斯くて私共は満蒙に新生命を与へ、満洲人の衷心からの
要望である新国家の建設によつて、先づ満洲の地に日本人、
中国人の提携の見本、民族協和に依る本当の王道楽土の建
設の可能性を信じ、従来の占領論を抛擲して新国家の独立
を主張する迄の転向となつたのであつた。
 勿論此の間の経緯は幾多の紆余曲折を経なければならな
かつたが、然し私共としては常に陛下の大御心を体し皇道
に立脚して誤りの無い事変処理を夙夜念じたのである。当
時私共の当面の敵は支那軍閥であつた。然し此敵と戦ひ之
を撃破し乍ら、私共は絶えず次の国際的な相手を顧慮し此
欧米覇道勢力の完全な覆滅の為の物心両面の備を保持して
居らねばならなかつた。世界最終戦を予想しての八紘一宇
の為の次の階梯への準備である。
 更に日本国内の維新改革も重大な問題であつた。満洲事
変は当時の日本国内の政治、経済思想の行詰りと之が維新
の要求とにも大きな関聯を有して居たのである。昭和維新
の先駆としての満洲事変の性格である。
 之等の点に対する真剣な反省、そして陛下の大御心を衷
心より奉戴せんとする気持は、支那人の政治能力に対する
見直しと共に、必ず此民族と共に相率ゐて共同の故に対し
共同の戦線に立つて戦ひ得るといふ確信に到達したのであ
る。
 形式の上で言へば占領論の放棄は消極面への転化の様で
あるが、実際には却つて反対に大きな前進であり、積極的
な面への飛躍的な躍進であつたのである。此処に私共の満
洲建国に対する異常な関心、情熱が今以て激しく躍動して
居る所以が存する。民族協和への確信、漢民族に対する信
頼、之が満洲建国への大きな基礎となつて居るのである。
相手の民族に政治的能力が無いのであるならばいざ知らず、
之が能力を認め且信頼を置く以上、占領して之を統治する
必要はない。新国家に於て徹底的に漢民族はじめ他民族の
才能を発揮せしめ、日本人も新国家の建設に裸一貫となつ
て参加して、此の建設の過程に本当に日本の天皇の御稜威
をしらしめることこそ、日本を信穎せしめ日本人に限りな
い愛着を持たしめる唯一最良の道であると思うたのである。
日支提携の中核としての又紐帯としての満洲の王道楽土を
考へた私共の道は、今東亜の問題として東亜聯盟結成への
過程に進み、将にその前夜にある。
 民族協和は日本人の力を押しつけるものではない。誠心
を示し、互の誠と愛に生きるのである。満洲占領論の放棄
は自己の力に対する不信ではなく、今日東亜聯盟と言ふ言
葉で主張して居る次の構想を予期してなるべく多くの民族、
なるべく多くの国民が真に協同して行くと言ふ積極的な第
一歩であり、八紘一宇と言ふ肇國の目標に向つての現実的
な一歩前進である。
 私は此の様にして昭和六年の暮に、それ迄頑強な迄に主
張しつづけて居た満蒙占領論から完全に転向したのであつ
た。そして偶々翌年の昭和七年一月十一日、本誌転載の朝
日新聞主催に依る「日支名士の座談会」が奉天のヤマトホ
テルで開かれたので私は同志に私の此転向した気持を伝へ
たいと思つて、本来此種の会合に出ることは私の好むとこ
ろではなかつたが、無理に出席したわけである。満洲国独
立を公開の席で口にした最初と言ふ意味で私にとつては印
象深い記念すべき座談会である。
 建国以来今年三月一日を以て満洲国も十年の歳月を閲す
る。満洲国の統治、経営に就ては世上多くの論議を聞く。
然し私としては事変当時既に今日の大東亜戦争として現は
れて居る対欧米覇道主義国との戦争を予想し、その故にこ
そ東亜民族の協和に依る満洲国建設と、此精神的中枢に依
る東亜聯盟を企図し、東亜各民族共同しての対米英戦の勝
利を祈念したのであつた。
 満洲に於ける為政者、特にその中堅者である日本人が私
共の考へをも一度検討せられて、一刻も早く真の王道楽土
の実現を成して頂くことを心から祈つて已まないものであ
る。

  本稿は石原莞爾閣下の談話を筆記したものである。
  従つて文責は記者にあることを附記する(増川喜
  久男)
                         (昭一七)