大阪朝日新聞社取締役・業務局長 刀禰館正雄
『日本精神と新聞
「新聞報国の秋」』(ぐろりあ・そさえて) 一九四一年十一月
こういう未曾有の大事変下においては国内の相剋こそ最も恐るべきものであります。全国民の一致団結の力が強ければ何物も恐れるものはありません。飽くまで一億一心、総親和、総努力で驀進すれば何事か成らざらんやであります。この一億一心に民心を団結強化するためには真に国策を支持し、国民の向かうべき道を明示する良き新聞を普及することが、適切有効であることは今更論ずるまでもありません。(二〇ページ)
朝日新聞東京本社記者・寺田勤『新聞の読方・考へ方』(勤労青年文庫・麹町酒井書店)一九四二年(昭和十七年)九月
特に決戦下の新聞のゆき方は、国家の意志、政策、要請など、平たく言えば国の考えていること、行わんとすること、欲していること等を、紙面に反映させ、打てば響くように国民の戦争生活の指針とすることを、第一の建前としております。例えば議会における各大臣の演説、豪い武官、文官の談話、法律や規則のことなどについての報道、解説記事がその一端です。
従って毎日の新聞の調子が戦争前に較べて、ずっと「硬く」なっております。記事が硬いということは、それだけ時局が緊迫していることを物語っているのです。よく世間で「近頃の新聞は面白くない…」という声を聴きます。新聞が戦う日本の厳粛、苛烈な姿を、そのまま映し出す「鏡」である以上、ともすれば地味な紙面になり勝ちなのは、やむを得ないことではないでしょうか。興味本位、趣味本位に新聞報道を追求することは、むしろ決戦下に即応しない旧い新聞への認識ではないかと考えられます。(八四〜五ページ)
毎日新聞OB 上田正二郎 『これからの新聞−戦時下の新聞と読者の心構え』(一九四三年・綜文社)
挙国体制下、すでに平和産業の諸工場は、人も機械も総てを挙げて軍需生産に没頭している。新聞社は真先に昔日の夢から醒め、思想戦の弾丸となって活経すべきである。新聞社は一般工場と違って、新聞人の頭さえ変えたならば即時御奉公が出来る。全国の新聞社は最早従前のような平和産業部門に寵もっていた時代は去り、言葉をかえていえば、立派な軍需工場だ。朝夕発行する新聞紙は総て思想戦の弾丸となって大きな役目をもつ。(三ページ)
日本新聞会も発足した。新聞人も登録制となった。今日では平和産業の一部門などと解する愚かものはなく、利潤第一主義の新聞時代は過ぎ去り、立派な滅私奉公の軍需工場となって懸命の活躍をつづけている。インキはガソリソ、ペンは銃剣である。新聞人の戦野は紙面である。全紙面を戦場に、勝たねばならない。負けてはならない。ジャズに浮かれていた数年前の新聞は今日見たくともない。もしまだ浮かれ気味を拭いきれないものがありとすれば、その新聞は敵性紙だ。(四ページ)
公布された新聞事業令は、利潤からはなれ、決戦体制下における、われら新聞人を新聞人として、十二分に国策的使命を発揮せしめようとする根本義にほかならない。資本を誇る時代はもう過去のこと、出資だけの重役の姿は奇麗に消えた。新聞人の責任はいよいよ重大となった。ラジオは耳から、新聞は目から、国民への指導性を念頭に置き、真剣に国難突破、共栄圏建設に邁進しなければならない。(四〜五ページ)
日本新聞会定款
第一章
総則
第一条
本会は新聞事業の国家的使命達成の為必要なる綜合的統制運営を図り、かつ新聞事業に関する国策の立案及遂行に協力することを目的とす」
日本新聞会記者規程
第三条
一、記者は左の条件を具うる者にして、記者資格銓衡に合格したる者たることを要す
一、帝国臣民にして成年者たること
二、国体観念を明敏にし、記者の国家的使命を明確に把握し、かつ常に品位を保持し公正簾直の者たること
(以下略)
一九四二年(昭和十七年)四月から『秘密気象報告』
「大気の垂直不安程度と雷雨の規模及び強度との関係」
「本年の凶冷の気象的原因」
扉裏
注 意
本書ハ軍事上秘密ヲ要スル気象上重要ナル事項ヲ含ムヲ以テ之ヲ厳重二保管其ノ保管状態二変動ヲ生
ジタル場合ハ遅滞ナク発行者ニ報告シ用済後不用トナリタル場合ハ直チニ発行者ニ返却スベキモノトス。
日本新聞会理事・岡村二一講演於東大新聞研究室 一九四二年(昭和十七年)十一月
『新聞新体制の理論と実際』(東京帝国大学文学部新聞研究室・一九四三年)
とにかく私共は現在の国家の政治と戦略、その大きい一つの目標に結びついて、その精神を汲み、
それに従って筆をとる。筆をとる者は国家を愛し、国家と共に生死する、そういう一つの信念に基く
以外に私共のとるべき筆はないのではないか、そこからのみ、我々の持つ筆が権威を生じ、また自主
性を生じてくるのだというふうに考えてゆきたいと思うのであります。
そういう考え方から行きましても今日の新しいジャーナリズムというものは、もっと日本独自な日
本だけのものであらねばならぬ。ナチの言論統制でもなければファシズムの言論統制でもない。まし
てや民主主義でも自由主義でもない結局われらの皇道新聞学を私共はこれから実践し打ち立てて行く
必要があるのだと思います。(八五ページ)
一般に、新聞が統制をうけてからおもしろくなくなった、つまらなくなったという議論を聞くの
でありますが、一体、新聞はおもしろいものだということを定義づけた人があるのか、過去の自由競
争時代の新聞のような読者に媚び、読者の嗜好に投じていたそのおもしろ味は、最早や今日以後の新
聞には有り得ない。そういう角度からみて、今日の新聞がつまらなくなったという議論は、少しも気
にかける必要はないと思います。しかし、もしこれが本当に国家を愛し、民族の将来をおもう立場か
らみて、新聞がおもしろくない、不愉快だということであるとすると、これは新聞製作者の不名誉で
あると思います。したがって、本当に国家を愛し、民族を愛し、われわれは如何に生きるべきである
かということを真剣に考える者にとって、われわれの新聞は益々よい新聞、愉快な新聞、おもしろい
新聞になって行かなければならぬのではないか、そんなふうに、私としては考えているのであります。(七三〜四ページ)
大阪毎日・平田外喜二郎『戦時新聞読本』(一九四〇年・大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)
でなければ何か? 記事の内容が統制されて、″発表記事″が多いとでもいうのでしょうか。
戦時下生活の燈台ともいうべき新聞紙に、これら低俗な″面白いもの″を求める方が無理であり、
真面目な国家の方向を、新聞を通じて真面目に知ってこそ意義があるのではないでしょうか。真剣勝
負のまっ最中に、誰が与太や冗談を飛ばせましょうか。記事の制約、官報的な発表記事が多いから
とて、それは国家本位に動く新聞の動きである以上、如何ともしがたいのが当然ではないでしょうか。
(四ページ)
朝日新聞 昭和二十年十月二十四日 社説 「新聞の戦争責任精算」
思うに今日の惨憺たる敗戦は、一に開くべからざりし大東亜戦争を開くの外なきに至らしめ
た情勢の然らしめたものであり、そしてこの大戦の勃発は、我国における軍事、政治、経済、文化な
どが澎湃たるファッショ的空気に包まれた事実と、これを阻止せんとする外力との痛ましき正面衝突
に因るものといって差支えない。然らばいうところのファッショ的空気そのものは、果たしていつ頃
から我国に浸潤するに至ったものであろうか。軍事的に見れば満洲皇姑屯における張作霧爆死事件
に発し、三月事件、満洲事変、十月事件から支那事変への途を辿ったものといってよかるべく、政治
的にいえば、防共協定、新体制運動、三国同盟の順を追うて進み、また経済的には内閣調査局の設置
に始まり、総動員法に拍車せられた統制経済運動の強化を踏切り台として飛躍した観があるが、これ
に付随する各般の文化運動を加えて、遂に悠久三千載、嘗て敗戦の汚れを知らぬ我が大和島根を悲
痛なる大東亜戦争の渦中に引き摺り込んで了ったのである。
その間、吾人は当初は敢然、腐然と、中頃は隠微の裡にかかる傾向への批判及び抗争の態度を棄て
なかったことは今日なお断言して憚らぬ所である。回顧すれば支那事変の勃発に先立つ一年有半、彼
の歴史的な二・二六事件に遭遇して愈我が朝日新聞の存在を中外に誇示した結果として、米国ミ
ズーリ大学より栄誉ある反軍閥紙としての表彰を受けた吾人も、近衛新体制運動以後、政府と一々歩
調を共にするのやむなきに到り、大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら一言の批判、
一臂の反撃をも試み得なかった事実は、固より承詔必謹の精神に基づくものであったとはいえ、
顧みて忸怩たるものあり、痛恨正に骨に徹するものありといっても過言ではない。
朝日新聞 昭和二十年十月二十四日
「戦争責任明確化」
朝日新聞の戦争協力への責任をとって、社長、会長以下重役総辞職するという記事を掲載
一九三一年四月 奉天・遼寧中国青年会館 第一回遼寧国民外交協会連合大会
運動方針提案
一、旅(順)、大(連)、満鉄の回収
二、領事裁判権の回収(治外法権の撤廃)
三、朝鮮人排斥に関する件(無制限に増加する朝鮮人入植者拒否)
四、日本の東北(満洲)に於ける鉄道敷設絶対拒絶
五、撫順鉱区拡張拒絶
六、日本の警察権回収
七、満鉄沿線の日本学校回収
八、外国新聞の排斥
九、国貨提唱と日貨排斥
十、中国人の日本人・朝鮮人との婚姻禁止
十一、日本人の禁制品販売禁止
十四、外国人の鉱山開発禁止
十五、日本軍の中国内部に於ける演習禁止
『極秘 情報局設立ニ至ル迄ノ歴史(上)』 A5判 130頁 1941.4 情報局 陸軍歩兵少佐竹田光次著(?)
昭和六年九月満洲事変勃発以来、世界列強の輿論は之に集中せられた。わが出先き外
交機関は大いに活躍した。しかし輿論の大勢は日一日と我に不利となっていった。かくて事変は連盟
理事会に付議せられ、その結果、翌昭和七年、英国人「リットン」卿を団長とする調査委員会が現地
に派遣せられることとなった。正に皇国日本は連盟のために俎上の肉
とならんとした。非常時日本の声はこの時に起こったのである。茲に於いて陸軍、外務の両当局者は
慎重協議したる結果、多年の懸案、紛争の原因である満蒙問題を、この際根本的に解決し、以て東洋
平和を確立すべきであるとの意見に一致を見た。之がためには満洲事変の真相、その背後に胚胎
する支那側の不法行為、わが方の措置、主張の正当なることを中外に閘明
し、以て内外人士に、本事変に対する正しき認識を把握せしむることが絶対に必要であることが痛感
せられるに至った。当時各省就中陸軍、海軍、外務省の情報、宣伝に就いては密接なる連絡なく
各自各個の啓発宣伝報道に当たって居った現況であった。かくては啻に能率を殺ぐのみならず、往々
各省の主張竝説明に齟齬を来し、国論の不統一を来し国策の遂行上に支障を生じたる事例も少なか
らず、(一ページ)
『秘 戦前の情報機構要覧 情報員会から情報局まで』 380頁 1964.3 内閣調査官小林正雄著(?)
昭和六年九月満洲事変が勃発し、軍の行動を支持する「電通」(日本電報通信社)と、外務省と
関係の深かった「連合」(新聞連合社)との報道はしばしば食い違い、単に国内の新聞界を困惑させ
ただけでなく、国際的にも不信を招くに至った。(七ページ)
『通信社史』(一九五八年・同刊行会)
当時満州には日本の「電通」「連合」の二大通信社、「朝日」「毎日」の二大新聞社、中国の中央
通信社、イギリスのロイターなどが、いずれも支社、支局、通信員を配置して、報道に当っていたが、
満州事変の進展に伴う国際的意義の増大に、それぞれ陣容を強化し、他の内外新聞通信社の特派員も
続々と集り、奉天を中心に世界のニュース戦は激烈に展開した。そして満州現地から出る虚実取り混
ぜてのてんでんばらばらのニュース報道のため、事変後当分の間は日本国内においてさえ、現地の実
情、関東軍の真意等は、容易に認識も理解もされない有様であったから、外交的に日本が苦境に立た
されたのも不思議ではなかった。(三四八ページ)
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