自然主義論

 第一章 自然主義とは何ぞや
  美学上概念としての自然主義――歴史上概念としての自然主義――自然主義の理想と其実際

 抑も自然主義なるものは、美学上に之を言ふ場合と、文芸史上に之を言ふ場合と、各二様の意義を有して居る。
 美学上概念としての自然主義とは、客観自然の忠実なる模倣踏襲を以て、藝術の能事了れりとし、或は人間自然の性情を発揮し、敢へて飾らず蔽はざるところに、芸術の本領ありとするものを云ふ、換言すれば、有りの儘を描き有りの儘を談ずる、是が即ち自然主義なるものの真髄なのである。しかしながら、這の美学上に謂ふところの自然主
義は、吾人が是から論じようとする中心題目ではない。
 歴史上概念としての自然主義は、その人を異にし、場合を異にするに従つて、随分色々の解釈を下さるるものではあるが、其中比較的に最も多くの人が、最も多くの場合に於て一致するところの解釈を、左に述ぺて見ようと思ふ。尚ほ自然主義の写実主義、象徴主義等に対する関係は、後段、自然主義なるものの一応の概念を作つた上で、説明
を試みるつもりである。
 文芸史上の自然主義とは、究竟近代主義、輓近派の義である、独逸語に謂ふところの Die Moderne の義である、精しくは、十九世紀の中葉以降、仏蘭西を中心としたる大陸文芸の一般思潮をさして、自然主義とは云ふのである。
 凡そ物には理想と実際との両面がある。自然主義にもまた此両面あるを免れぬ。自然主義の主張するところのもの、要求するところのもの、並びに標準とするところのもの、即ち理想としての自然主義である。かの長短並び存する自然主義文芸従来の成績が、実際としての自然主義である。
 世の自然主義を難ずるもの、大抵は這の、自然主針の実際を見て理想を見ず、自然主義者自らはまた、専ら夫の理想を説いて実際に及ばず、最近時の文壇、数々無用の論争ある所以であらう。

 第二章 自然主義の理想
 (一)実際的傾向――作者自身の周囲より材料を取ると云ふこと――親切主義――事実らしく描くと云ふこと
――(二)印象の鮮明――(三)習俗の打破――形式上並びに内容上――写生文と自然主義
――(四)特性の尊重――地方的特色――(五)人間獣性の表現――二元論的見解
――(六)厳粛なる態度――謂ふところの「真の偏重」

 自然主義の理想、或は理想としての自然主義は、輓近派芸術の代表的作品と称せらるるものに、比較的共通なる傾向に徹し、またかの自然主義の唱道者もしくは弁護者と云はるる人の評価の標準を参照して之を知る。理想としての自然主義の概念を作るに際し、自然主義正面の主張を聞いて見た丈けでは、殆んど要領を得ないからである。モオバッサン、ゾラを始めとして、自然主義一派の諸作家は、其芸術論によって之を見るに、大抵は皆自己の嚮ふところ、志すところを明示して居ないやうに思ふからである。(フォルケルト氏『審美上時事問題』「自然主義」の条参照)
 理想としての自然主義はまづ、(一)実際的傾向(realistic Tendency)を有しなけれはならぬ。而して此実際的傾向は、種々なる意味に於て要求せられて居る。在来の文学、とくにロマンチシズムが、隔りたる時代と隔りたる場所とに、大なる興味を有つて居たのに対し、成るぺく現在現前の生活、換言すれば、作者自身の周囲から材料を取らうと云ふのが第一、又特に人の興味を惹き付けるやうな内容を必要とせず、寧ろ之に対するものをして、如何にも親しい、馴れ馴れしい感じを起させさへすればよいと云ふ、是が第二。親切主義(Intimismus)の名を以て呼ばれるもの。かのコンステプル、ルアソオ、ミレエ等の絵画は、最も先づ此意味に於て実際的傾向を示さんとしたものである。第三は事実上あり得ぺきこと、ありさうなことを描写せんとするもの、云ふまでもなく、是が最も重要なる意味に於ての実際的傾向である。乃ち自然主義の芸術にありては、あり得ぺからざること、あり相にもなきことを不自然なりとして第一に排斥する。
(二)印象の鮮明(Visualization)。世間には此ヴィジュアライズすると云ふことと、前のリアリスティツクに書くと云ふこととを混同して居る人も少くないやうだが、是は太しき誤解である。けだし新聞の三面記事などは、大抵皆有り得ぺき事件、有りさうな事件である。其意味に於てリアリスティックである。しかも其リアリスティックな事件を目のあたり見るやうに描き出したものは滅多にない。乃ち実際的傾向と、印象を鮮明ならしむると云ふことは、別物である。而して自然主義の芸術ほど印象の鮮明を尚ぶものはない。(三)習俗(Conventionalism)の打破。之は芸術の形式に就いても云ひ得られるし、内容に就いてもまた云ひ得られる。
 形式上より云へば陳套なる一切の様式を捨てるのである。生命なき型からして脱しようと云ふ努力である。新しき思想、新しき感情を盛る為めには、新しき文体をも作らねばならぬ、新しき造語をもせねばならぬと云ふ、即ち是である。かの技巧排斥と云ひ、技巧なき技巧と云ふもの、また此習俗の打破に急なるものの呼声に外ならぬ。
 内容の上より云へげ、在来の伝習的思想に対するプロテスタントとしての態度である。一切の旧道徳的信仰に対する反抗である。
 序でながら、我が文壇の写生文などは、右の実際的傾向を帯ぶる点に於て、印象の鮮明を尚ぶと云ふ点に於て、また形式上習俗を打破すると云ふ点に於て、自然主義と殆んど同一の軌道を走つて居るものであるが、今此内容上習俗の打破と云ふ問題に至つて、はじめて自然主義と決を分つた。
(四)特性の尊重。在来の芸術に於て美と云ひ、優美と云ひ、また壮美と称するもの、輓近派にあつてはそれほど重きを為すものでない。むしろ事物それぞれの特性を表現するところに、より大なる価値ありとする、今の小説脚本等に於て、切りに地方的特色(Local Color)と云ふことを云ふのは、一面もとより実際的傾向に伴随した傾向でもあらうなれど、また一面、這の特性の専重にも基くところあるを忘れてはならぬ。
(五)人間獣性の表現。美醜の詮議に代ふるに特性の尊重を以てするは、やがて謂ふところの世界の醜化(Verhasslichung)と相連る。
 抑も人生には光明と暗黒との両面がある。従つて人間社会の真相を暴露すると云ふのは、此両面の描写を兼ね有するもののことでなければならぬ。ところが従来の文芸は、あまりに人間の暗黒面を看過して居る。光明ある方面をのみ誇張してかいて居る。されば輓近派は其偏狭を禰はんが為めに、先づ主として人生の暗黒面を摘発指示するの必要がある。人間獣性の表現が問題となるに至つた所以である。
 人間獣性の表現は、人間性情の二元論的見解の上に成立する(ブランデス氏、「人間の獣性」参照)。即ち先づ人性に、人間的なるものと、獣的なるものとの二面あることを認めて居るのである。輓近の芸術特に文学に於て、這の獣性の表現に、如何ばかり重要の意味あるかは、アレキサンダア・ジュマ、モオパッサン、ゾラ、ブルゼエ、ダンヌンチオ、ビョルンゾン、イプセン、トルストイ、ドストエウスキイ、ゴルキイ、ストリンドベルヒ等の小説戯曲に顧みて、最もよく知ることが出来る。
 自然主義に謂ゆる獣性は、象徴に非ず、譬喩にあらず、生物学的意味に於ける獣性である。
 この人間の獣性に対してトルストイ、ストリンドベルヒ、アレキサンダア・ジュマ等二三の人は、今日の発達し過ぎたる文明が生んだもの、余りに自然を遠ざかつた超文明、悪文明の所産であると云ふに対し、爾余多数の作家は別種の解釈を下す。即ち人間の兇暴残忍なる性質や、男女両性間の肉慾的衝動や、奪掠占有の本能や、是等の性情は凡べて皆、野蛮時代未開時代からして今日の伝わった遺風残俗であると説く、更に遡ぼつては、人間が虎や、狼や、狐や、狒々であつた時代からの本能をそのまゝに保存して居るものと見る。つまり進化論的の立場からして、人間の獣性を認めて居るのである。
 が、之を要するに、獣性は明かに生物学上意義を有するもの、単に譬喩として、または象徴として用ひられたる言葉ではないのである。
 ともあれ、這の所謂、"Herabwurdigung des Menschen zum raffinierten Tiere" を以て輓近文芸を難ぜんとするの人は、之を難ずるに前立ちて先づ従来の文芸の、余りに人間社会に於ける暗黒面を見逃し過ぎて居たことを思はなければならぬ。
(六)厳粛なる態度。作家の人生に対する厳粛なる態度の現れて居ること、輓近文学の如きは少なからう。大抵は懐疑的、もしくは虚無的ではあるが、兎に角或る厳粛なる考を以て今の作家は人生に対して居る。己に大部分が懐疑的であり、虚無的である以上、習俗の道徳宗教等に対して、直接貢献することの稀なるは勿論、寧ろ多くの場合それ等のものに対する革命反抗として現れて居るのであるが、しかも尚ほ謂ふところの厳粛なる態度、第一義に於ける倫理的態度は、如何なる場合にあつても棄てないのである。
 乃ち第一義に於ける倫理的態度は、人間社会の暗黒面を取扱ふ場合、人間の潮性を忌憚なく表現し来る場合にも、常に保持せられて居る。むしろ斯かる場合に於て最もよく保持せられて居る。
 殺人ならば殺人と云ふやうな獣的行為にしても、昔の「ニイベルンゲン・リイト」やマロオの「タムバレエソ」などに現れた殺人と、今日のゾラの「獣」や、ドストエウスキイの「罪と罰」などに見える殺人とは、作家の之に対する態度が全然違ふ。同じく性慾の衝動を描くにしても、ポッカチオの「デカメロン」や、ハインゼの「アルディングロオ」などと、今日のモオパッサンや、トルストイや、ストリンドベルヒなどの作物とを此ぺて見ると、非常に其意味が異つて居る。
 今日の人が、主として暗黒面を描き出さうとするみは、一つは従来の偏頗なる傾向に対する反動でもあるが、また一つは此暗黒面に於て、彼等が最も痛切なる倫理問題に触れて居るからだ。
 世上、近代文芸の傾向を難ずるに、真の偏重と云ふことを以てする人あれど、其非難は当つて居らないやうだ。蓋し、自然主義に謂ふところの実は、真善美対立の真に非ず。習俗の真と云ひ、善と云ひ、美と云ふものに対し、更に一層根本的なる「或るもの」、またそれらのものを統一すぺき「或るもの」を要求して居るのである。這の「或るもの」は、今日のところたゞ「或るもの」とのみ云つて置くのが便利である。しかして此「或るもの」を獲んが為めには、習俗の真善美等一切のものを犠牲に供して憚らないのである。
 所詮、自然主義の文芸を以て、習俗の善美と対立する習俗の真を偏重するものとなすは、浅薄憫むに堪へざる見解である。
 以上述ぺたる実際的傾向や、印象の鮮明や、習俗の打破や、特性の尊重や、人間獣性の表現や、厳粛なる態度や、是等は自然主義者の最も先づ理想とするところのものである。若しくは、理想としての自然主義が要求し、標榜するところの、最も重要なる事項である。

 第三章 自然主義の実際
      貧弱なる内容――平凡主義――実際の事実をのみ記録
      すると云ふこと――1緻密に過ぎたる描写――芸術の普
       及に伴ふ俗化――貴族的精神の滅却――境遇の過重
      ――特性の誇張――獣性の誇大――ゾラの偏見――自