野村望東尼

 わが古意の上から文学とは何ぞやを問はるる時、答へ易い立派な実例は、野村望東尼である。
 望東尼の日記の類は一部この頃新しく印刷されて出た本もあるから、読んだ人も多いと思ふが、その幽囚記の『夢かぞへ』の中に、正にわが文学の古意を示した節がある。
 所謂七卿落にからんで福岡藩の佐幕への寝返りから、勤皇諸士が忽ち、捕縛斬刑あるひは割腹等の処分に遭ひ、志士の或る中心的存在であつた老身女性の望東尼もまた幽閉されたのは、慶応元年八月二十四日、天満天紳祭の宵からであつた。初め息の省(はぶく)の家に、後里(さと)方に移され、遂に玄海の孤島に牢居せしめられた間の日記に、『夢かぞへ』と『姫島日記』との二種がある。前者は極めて実録的な文章であり、後者はそれを雅文に書いたものである。
 望東尼の勤皇運動に身を置いたのは随分長いゆかりのあることで、その間の消息、歌集『向陵集』と、『上京日記』等からうかがはれるが、とにかく、思ひもかけぬ勤皇派の監禁に同坐して、望東尼の心中には、何か「不動の」と言ひたいやうな決心が立つたことが察せられる。その二十四日の宵の非常な取り込みを敍した日記の末から翌二十五日にかけての日記は、まづその美しい高まりに誰も打たれるものであるが、そこにまた、日記を書く心構へについて、重要な事がしるしてあるから引いてみる。読者の為に()を以て文を補ひ、或は仮名に漢字を当てておく。

 さる事(この度の大獄の事)出で来ぬる頃より、誰(誰彼)が上にも(監禁の命下る)など思ひしかども、かく数多あらんとは、思ひもかけざりき。誰も誰も御国家の御(み)為めを深く思ひ奉るばかりなるを、いかなる人の曲(まが)事(を謀り)や為(し)つらむ。さりながら、せにしられたる皇國(すべくに)の義士とかいふ人々の中に、(自分の如き)言ひ甲斐なき尼法師の身にて連なれる、(嘸かし)人笑へも中々に(あらむ)とて、

  うき事のかかるも嬉し武士(もののふ)の大和心の数に入る身は

        註 うき雲は浮雲に憂き雲とかけたのである。
(中略)

 (翌二十五日)。猶今日も暑けく、日光焼くばかりにありながら、未明咲き出でし朝顔のみぞ独り笑みしたる、白、浅黄など、殊にうるはし。

  もの深く何思ふらん朝顔のあさき心ぞめでたかりける
(中略)
今夜も寝(い)がたくて、来し方(かた)行く末、味気なく思ふ事ども、片つ端より書い附けんとて、昨日よりの主(あるじ)の事ども、夢の末を書い続くるに、昔の人(平安時代の宮仕の女性たち)の、殊にけだかき身にして、類無う畏き御前どもの事(主上の御事を始め奉り禁中の御事)により書い連ねし日記様のものは、めでたき事を書い残さん心構へより、人の心得べき事も浅からず書かれけんを、此は(自分の日記)甚忌々しく漆ネCき下棟の事、蕗骨に物する、何のあはれも、をかしげも無く、不興々々しければ、書かぬこそ勝るらめ。さは思ふものから(思ふものの、の意)、今より何時までか斯く(籠居して)あらん、心地遣る方もなし。山郷(ざと)(望東尼の山荘)にだに住みなば、眺めやる方(の景趣など)もあはれ深かるべきに、(ここは)家のみ建て広げて、庭だにいと狭ければへ(趣も乏しくて)心遣りもなし。たゞ思ふこと聞くことを、今日より書いつけて見んとて、紙ども綴ぢ添へなどするに、夜も明けぬべし。今より守り(監視)に来る人々の労も記しなんとて、仮(初)に物すれば、もし己(おの)が亡くなりなば、家人(いへびと)焼き棄てよかし。人に莫(な)洩らしそ。

女の身で勤皇の藩士の中心となつてゐたその望東尼の身にも、今あらたに「武士(もののふ)の大和心の数に入る身」となつたといふ覚悟は疼くばかりであつたらしい。藩論がかう一方に決定しない今までとても望東尼の身上は容易なものではなかつた。幕末の大きな波は一進一退して、天下の帰趨は内外の相紛糾する情勢の中に容易に見通しはつかなかつたし、深く信じて動かぬ勤皇志士の運命はその最も大きな激浪の上にあつたことは言ふ迄もない。望東尼は、夫の亡後、その生前の遺志を抱いて上京して、交遊出入する京洛の諸家諸士の間で、艱難の道をつぶさに見知りつつ、帰国の勧めも中々に肯んじなかつた程であるが、帰国して後も向陵の山荘は愈々国事奔走の藩内外の志士の会所として、その活動が竝々ではなかつただけに、その苦慮も一通りではなかつた。且つ世間では望東尼をさして、(女の身で如何なれば勤皇といふ事をするのであらう、支那ではたことだが、日本では聞かぬことだ」などといふ、言語道断の誹りさへ行はれてゐた。(七月四日、日記)笑ふにも笑へぬ有様である。もつともこの噂を耳にしたのは既に籠居の後で、望東尼は、「いと浅ましう、可笑しうも、亦はかなし」と記し、その噂をもたらした人と「凡(な)べてさういふ心無い人ばかり時めく世なればこそ、斯かる憂き身ともなつたのである」と語り合つた果に、

  老らくの行末人に知られじと思ひのほかに名こそ出でけれ

と詠じてゐる。望東尼の本心は、女ながら止み難い心に身を尽してはゐたが、老の身ではあり女性の事、人に名立たしいことはつつしみつつしみしてゐたのであつた。それが今遂にもはや隠れもなく志士と同坐して「武士の大和心の数に入る身」となつた、そのことには慎しみの中に、「うき雲のかかるも嬉し」との決意として自若と心に据つたのである。しかもこの歌は矢張り優しい。この優しさはこの心丈未な尼の若い生立ちから、結婚生活及びその最後の日までを貫いてゐるものでもあつた。父母と一家の事に対して、夫に対し、継子、孫に対し、師、同志、親族、知己、下人、その他すべて尼のゆかりとなる人々への春風のやうな愛情の大きさは、その歌文に事蹟に到る所にあらはれてゐて、これも珍しい人であつたことが分る。
 ただ望東尼はその美(うるは)しい至情が皇門女性の精魂そのものであつたやうに、皇国女性の本心に出づる誠忠心が非常な自然さであふれやまなかつたのであつた。

 皇(すべらぎ)の大御国(おほみくに)に生きとし生けるもの、何かは勤皇ならざらむ。歌さへ詠まぬはなしと貫之の大人(うし)も書かれしぞかし。(註 古今和歌集の序に紀貫之の「やまと歌は人の心を種として(中略)生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける云々と言つてゐること)今は「勤皇」とて異国の「耶蘇」衆などに類(たぐひ)たる様に言ひなし心得たるも少からずや。

尼は、尼の勤皇を「女の身で如何なれば勤皇などするのか」と笑止な噂さへする世情に対して、このやうに且つは呆れ且つは君国の御事を思うて悲憤抑へ難いものがあつた。
 五日の日記によれば、庭の萎びた草木に水そそぎ、自分も湯浴みなどした夕暮、「何思ふらんと、いと心清し。白き紙青き畳もいらぬやうなり。世の中に願ふ事も更になし」と記し、筆を改めて次のやうに書きつけてゐる。人と世情を批許し難詰するといふよりも、自ら清麗な志を抱く人の、汚濁の中に於ける魂の祈願であつたともいふべきである。

 公に仕ふる人始めはいと下様(しもざま)なるも、又家古く禄など多く持たるも、時に会はず家貧しき程は、志もありげなめり。時に会ひて、少し上り来るに従ひ、人にもてなされぬるまゝ、我はと思ひ上り、いつしか志薄れて、終には君をも軽んじ、身のためをのみ思ひ、(君の)御陰(みかげ)に斯くまでも成り出でし事にも心附かす、家ならば家、国ならば国を、我が物のやうに心得、人の(とやかくと)思はん事にも心附かず、昨日の襤縷(つづり)も今日は錦を着て、娘などには身に余るばかり上より裾まできら/\しう扮装(いだし)立つるを、(世人は)かたはら痛しとも思はず、唯羨み妬む人さへぞある。或は引立て給へなど、色々の賄賂(まひ)して親しみ寄るもあり、(かくてその人は)いよゝ我心募りて、上に争(すまひ)し、下には国のためも思はで、心取りて我が心任せに使ひ、少し心(志)ありて(斯かる不埒の人をば)あるまじき事(なり)など思ふらん人は、眼の前のみ善き様に(へつらひ)し、(陰には)讒しなどさへ積り来るに従ひ、(彼も亦)数多の人を陥れなどして、いつしか世の乱引き出づるものあり。(人間の事ゆゑ)物も問はざる心(は)あらざめるを、人の(欲)望はいや益に添ひ来るものならむか。何処も何処ものどかなりし御代の恵に誇り来て、さる(私慾の)者多くなりし積りにや、秋津島根(皇国の国運)の揺ぐらんと心得たる者は得断ち難きぞはかなき。

このやうな慨きにあらはれてゐる、高い清らかな、ひたすらな国を思ふの誠忠心に立つ自分を、望東尼は今監禁の身に更にも自覚させられると共に、ここにそれを記す歌文にも、或る自覚があらはれてきてゐるのであつた。
 即ち望東尼は、心すさぴに書く日記について、その歌文の志を「みやび」につないで思慕してゐるのである。紫式部や清少納言などが書き残してゐる日記の類は、「類無い畏い御前の事ども」即ち「宮(みや)び」のめでたさを書き残さんの心構へで浅からず書かれてゐるものであると、自分の日記に比して思ひ起し、且つ己が日記の「甚(いと)忌々しく浅ましき下様の事、あからさまに物する」ことを心よりうたてなる事とし耻かしとしてゐる。勿論かねてから望東尼の歌文は、みやぴの道にほかならたかつた。しかし、今最も己の志の所在が自覚され決意されると共に、そのはかない歌文の道にも、貴(やんごとな)いみやびの心が、かぎりない思慕として自覚されてきたのである。これは我が文学の古意のことに関して、決して仮初のことではない。
 望東尼の『夢かぞへ』は、実にこの六十歳の老尼の勤皇家がつぶさに嘗めた痛苦憂悲、まこと言はん方なき幽囚の記である。それは日を追ひ月を重ねて愈々惨を極め、殊に孤島姫島流謫後の生活に至つては、その凄絶な現実とその表現は、現代の獄中記の類を絶するものである。恐らくは現代のただのさういふ現実描写好みの読者は、さうした『夢かぞへ』の方を別の雅文の『姫島日記』よりも、価値多く読むであらう。
 而も望東尼の志はこれと反蹠的に、その痛ましい生活が深まれば深まるだけ、愈々そのみやびへの思慕は必至となつてくるのであつた。七月九日にも国家の情勢を憂ひて思ひめぐらした文章を認(したた)めては、ふと自らかかる口まねぴを反省して、うたてしと述懐し、十五日の日記には、清少納言のことを憶ひ出し、清少納言の頃も御代の乱れが無いでもなかつたのに、而もさういふ姿を現はさすに雅(みやび)かなる文(ふみ)を書きつづつた心懐は世に類(たぐひ)なし、と記し、それを思へば、この我が日記など焼き捨つべきに、この老のすさびの浅ましさよと慨歎してゐる。八月一日の日記にも、「昔人の日記様のものは、すべてめでたきをこそ始めとはすれ。唯忌々しき事のみ書い集めて何の甲
斐かあらん」と、またも古人に比して、たとひ日毎に監視に来る人々の労苦の事のみ記し置いてもそれ程人のためにもなることではなく、若し反対に、あはれにをかしくもめでたい日記ならば、その中に甚(いみ)じき憂き目を書いても、それが文(あや)になりもするが、ただもうこのやうな生活をいたづらに書き留めて思ひ出草とするのも、却つて味気ない、と思つて書き消さうと考へたが、嫁の種子が惜しんで末まで書いて給はれと乞ふので、むげに筆も捨て果て得ず、もし後に何か興あることもあらば書き附くることもあらう、しかしまづこれを限りにしたい、などと記して、もし命があつたら後に書き直したい、と言つてゐる。「必す人にな見せ給ひそ」とそこにも記してゐる。翌日の日記にも、同じ心に自ら責めつつ歌を書いてみたりしてゐる。このやうに、うたてなる日記としての『夢かぞへ』は、果して後に雅文の『姫島日記』として書き改められた。前にも述べたやうにもし読者がただ写実的な幽囚記を興がるならば当然『夢かぞへ』を択んで『姫島日記』には寧ろ甚しい物足りなさをさへ覚えるであらう。しかしそれは、文章の心の置き所によることである。惨風悲雨の呻吟生活の中で、なほその実生活記など浅ましく卑しとして、雅文に忘れ難い日の記録を書き上(のぼ)した雅情思慕はなかなかに切々たるものがあるのである。
 さて、前述のやうに望東尼は古人に比しては浅ましく忌々(ゆゆ)し_(一字不明)日記は倦厭しつつ、而も筆を捨てきれずしては拾つてまた書きつづるのであつたが、八月の末廿八日の日記に、またも同じ物憂さと悔いを覚えて、古人(いにしへびと)の日記(にき)など書かれし心ばへに対しては、さも浅ましう違ふ我が日記を、一度は得書かじとて筆紙をうつちやつたものの、つれづれの思ひ草やる方なみについ浮々(うかうか)と筆をとるのを、例の甚(いと)う忌(いま)はしげなる文は厭(うた)てさに、せめて一日に一歌をだけ詠み記したいと、つまらぬ片言の甲斐ないわざだが思ふことである、と述懐してゐる。これによつてみると望東尼は、その忌はしく厭はしい現実写実的な日記など書くといふその中に、和歌詠むことによつて、その卑(ひく)い文書くわざをも己が心をも、清め高めようと志してゐるもののやうである。言ひかへるならば、和歌、そして文もまた、望東尼に於ては、生活をこのありのままの、俗事的世界に沈湎せしめて置かず、これを祓(はら)ひ、清め、或は高める祈りとして、詠み書かうといふのが歌文の志なのである。これは見事にわが神ながらなる文学の古意を思ひ到り得てゐるのである。
 かうした貴(やんごとな)い「宮び」への祈りこそ文学でなければならぬことは、神代のふること以来明らかなわが古意で、古人はもとより、たとへば望東尼自身、或は望東尼とその周囲の人々との間に於て詠み交はされてゐる和歌は、その古意の姿をありありと示してゐる。思ふに勤皇志士達の詠歌の発するところも同じ心であつたのである。
 望東尼の絶筆は『防州日記』の最後に附けられてゐる病中作

   冬ごもり堪へこらへて一時(ひととき)に花咲き満てる春は来るらし

といふのである。数日を経て慶応三年二月十三日、尼は遂に病あらたまるや強ひて沐浴潔斎して新しい白衣被衾を着して、射し初むる大御代の新しい春光を望みつつしづかに瞑目したのである。その十二月八日には望東尼の宿願であつた三条実実公達の復位入京が許され、九日には皇政復古の令が布かれたのである。さて望東尼が右の絶筆の和歌に於て熱く信じ祈つた新しい光はどうなつたであらうか。神意のあらはれ給ふこの維新の光が、やがて、あらぬ夷意にのみまじこられて、これを文学の道について言つて見ても、浅ましい自然主義などが文学上の幕府思想を再び作り上げてしまつて来てゐるのが、現状なのである。文学もまた蔽はれて久しいのである。