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みやび

 天皇歌一首
  あしひきの山にし居れば風流(みやび)無み吾が為るわざをとがめ賜ふな

献 
天皇歌二首
  鳰(にほ)鳥の潜(かづ)く池水こころあらば君に吾恋ふ情(こころ)示さね
  外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴫ならましを

                          万葉集第四 大伴坂上郎女作

  一

 本居宣長は玉勝間の「又たとへ歌のやう」の中に「古今集よりこなたのはその歌を見れば、たとへたる意あらはにしらるゝやうによみたるものなり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、そのよみたる人は、たとへたる心をしるべけれど、後にその哥を見たるのみにては、たとへたる意はこまかにはしれがたきが多し、されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、たしかにはいひがたき哥おほし、其心してとくべきなり。又万葉のたとへ哥は、そのたとへたる草木鳥蟲のうへの詞と、たゞに恋のうへをいへる詞とを、あひまじへてよめる多し。是又こゝろえおくべし」と記しでゐる。さすがにおもしろい心のつけ所であると思ふ。我々の今の世になるとこの事は一層ひどくなつてゐるやうに思ふ。いちじるしい例を以て云へば、愛国百人一首といふのが出来たが、勿論結構だけれども、露はに愛国的な事が詠まれてゐれば愛国歌と分るが、さうでないと、そもそも和歌といふものが国意の立派に詠み上げられてゐるものといふことが分らないといふ有様である。そこで歌壇あたりでも近頃はまた「時局詠」と「日常詠」といつた分け方があらはれ始めて、さういふ見方で歌のことが考へられてゐる。その事についても、はつきり言へば、わが歌のこころを知らないはしたなさのためにすぎないのである。
 勅撰集で見ても、後拾遺集あたりから、その歌の題詞に「春は東よりきたるといふ心をよみ侍りける」「春山里に人をたづぬといふ心をよめる」「故郷の霞といふ心をよみ侍りける」等のやうに断ることが多くなつてきてゐる。古今集の序に於て「こころ」の事を特に重くのべてあることは容易に気づく所であるが、「こころを詠める」由を題詞にことわるほどのことはなかつたのである。因みに念のため古今集の序を少し引いてみれぼ、先づ冒頭から、「やまとうたは人のこゝろをたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」とある。漢文序の方にも「夫和歌者、託其根於心地、発其花於詞林者也」とある。「世中にある人ことわざしげきものなれば心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり。」等とあつて、その他一々挙げないが、「心」のことは序文全面にのべられてゐて、とにかくこの心をしり、その心があるといふことが、歌をしり歌を詠む本としてのべられてゐるのである。
 これは矢張り、題詞にこそことわるまでには至つてゐないが、歌に詠まれてある心を指してのべる意向が明らかである。そして「心におもふことを見るものきくものにつけていひいだせるなり」といふのは、歌の詠まれ方を述べてあるもので、このことについて紀貫之は本居宣長と同じやうなことを既に述べてゐる。即ちちはやぶる神世には「ことのわきがた」いとし、人の世となつて「花をめで鳥をうらやみ霞をあはれび露をかなしぶことば」が見られるし、その歌には六種(むくさ)ありとして、「そへうた」「かぞへうた」「なずらへうた」「たとへうた」「ただことうた」「いはひうた」をあげてゐる。この所謂六義が支那に倣つた分け方であることは勿論であるが、おもしろいのは、「そへうた」「なずらへうた」「たとへうた」の三つが、明らかに所謂「託(つ)けていひ出せる」ものであることで、「かぞへうた」も古註に「たゞことにいひてものにたとへなどもせぬ物也」とは言つてゐるが、序にかかげた例歌は「さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて」とあつて、譬へ歌といふに近く、少くとも「託つけていひ出だせる」歌と見ていいと思ふ。第六の「いはひ歌」も「この殿はむべもとみけりさきくまのみつばよつばにとのづくりせり」もその古註が「世をほめて神につぐるなり」といふが如くであり、第五の「ただことうた」さへ、我々が今思ふやうに「託け」ることない歌ではないのである。「いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし」といふ例歌は余程つとめて直言歌を選んでみせてゐるのであるが、これは古今集中巻第十四恋歌の一首であつて、恋の思ひの思はせぶりなので、念のためにこの歌の交つてゐる「顔しらず読人しらすの」一聯六首をあげると、

  すまのあまの塩やく煙風をいたみおもはぬ方にたなびきにけり
  玉かづらはふ木あまたになりぬればたえぬ心のうれしげもなし
  誰が里によがれをしてか時鳥ただここにしもねたるこゑする
  いで人はことのみぞよき月草のうつし心は色ことにして
  いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
  いつはりと思ふものから今さらに誰がまことをか我はたのまむ

とあつて、同一人の同時詠かどうかは問題だが、大体歌の詠み方が「託(つ)けて」いふことを本体とし、或はさういふ詠歌の心の後になら直言の歌も詠むといふやうな心ばへが察せられる。
 このやうにして詠まれてあるもの故、「そのはじめ」の時代には「古へのみかど春の花のあした、秋の月の夜ことに、さぶらふ人々をめして、ことにつけつゝ歌をたてまつらしめ給ひ、或は花をこふとてたよりなきところにまどひ、あるは月を思ふとてしるべなきやみにたどれる心々を見たまひて、さかし愚かなりとしろしめし」たと述べてゐるのである。この文章など今の人には唯変なことを言つてゐるとのみ考へられる事であらう。然るになほ序によれば「ならの御時」こそさういふ「歌のをもしろしめしたりけむ」とて、万葉集の事を述べてゐる。それが「いにしへの事をも、歌をもしれる人よむ人多からす」なり下つて来た由をのべ、今醍醐のみかどの大御代に至つて古へのことを興したまうたこの古今集について「うたのさまをしり、ことのをえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、古へをあふぎて今をこひざらめかも」と結んでゐるのである。要するに、このやうに古歌人や国学者達の思ひの中にある歌には或る大切な謂はば「歌の心」ともいふべきことが深く心せられ、且つ後世人ほどそれが容易には分り難くなつてゐるらしい。
 一寸言つておきたかつたことが文章に書けば思はず長くなつてしまつたが、私は取敢へず二つのことを言ひたかつたのである。一つは、私どもが今「みやび」といふことを色々語例などを引き出して研究めいた論を立てるといふことも殆どためらひなしに行ひがちであるが、そんな今の研究だけでは到底「みやび」など分るまいといふことである。分つたつもりで何か納得の行く説明が与へられて、読者も感心しても、それが「みやび」でも何でもないのではないかといふことである。二つには、「みやび」とは右のやうな、なずらへといふやうたことの中にあるらしいといふことである。その他のことは紙に余裕があれば述べてみたい。

   二

 何しろ現代の学者は歴史以来最も賢明な学者であり、学問は最も進んでゐると思ひこんでゐる程であるから、私のいふ意味など何とも思つてくれないかもしれない。殊に科学的といふことがその賢明さを自証してゐるつもりで、これを研究といふ研究に振りかざしてゐるので、右のやうなことを言ひ出すと、ひどく太古の夢のやうにしか思へまい。
 ところが、一例を挙げて言つても、今日万葉学といつた学問が進んでゐるさうであるが、あの万葉に多く特色的な長歌とか枕詞とかに対して学者がどれ程理解してゐるかといふと殆ど全く心には見すててゐる。長歌は国学者勤皇志士、そして後に少しいふつもりであるが、明治以後も民の心には頻りに出ようとし、現代なども然りであるのに、所謂歌壇を占めてきた「短歌」的作品の作家がこれを意識的に無意識的に阻止してきてゐる。枕詞などはまたすつかり贅語扱ひされてゐる。しかし歌壇が何か道を過つてもそれは仕方ないとして、学者がこれを過つてはならないのである。宣長の言葉を以て言へば、古の道を明らめるべき学者がこれを黙示してゐてはならないのである。然るに小見によれば、どうも学者も古の道を明らめる所が、今のはしたない「短歌」作家について古典をあげつらふといつた風が、もう随分根強いのである。手近に作者類別年代順万葉集があるが、その凡例の一項に、「〔歌風〕は、伝記及び実際の作品と見合せてその作家を鑑賞・考察するたよりの為めにつけたにすぎません。著名作家十余人は先生、他は私ですが、私は十数年『アララギ』の内に育つて来てをり、先生も十余年間、欠かさずアララギは御覧になつてをり、また現同人の方とも親しい御関係から、『歌風』は、言ふならば、いはゆるアララギ風の観方から書かれてゐると、御承知願ひ度いと思ひます」とある。アララギに於て長歌や枕詞がどう否定されてきてゐるかは、私の既に明らかにしたことがあるから重ねて言はないが、そのアララギが「万葉調」と名乗るのもをかしいことであるが、学者がこれに従ふとは納得でき難い。もし万葉を「鑑賞考察するたよりの為めに」ならば、自分の文学観に合はなければどんな否定でもする自称万葉調に対して、「アララギ風の観方から」でなく、古の道の方から書くのが万葉学者の自若たる道であらう。
 これは今の学者の学問についての一例である。山と積んだ研究が古意をはなれて、よそからふつと学んできた心で調べ立てられてゐるものとしたら、国文学の盛大といふものは、正に怪談である。もし古典にこの長くさかんな皇國(みくに)ぶりがこもつてゐるとしても、それは目に見えぬ所に眠つてゐるのである。もし今「みやび」といふことについて研究が発表されるとしても、右のやうな学問立てでの尤もらしい説明づけが試みられるとしたら、これは果して「みやび」の道が明らめられたとすべきか、或は愈々その言説の蔭に埋れて行くとすべきか、これは学者の真に愕いて足下を見つめねばならない大事であらう。これを怠つて賢明を誇つてゐたら、「みやび」の心などどにあらう。私どもこの頃国柄として文学の古意の大事を少し洩らすと、文壇作家がをかしい程楯をついて私どもを文学否定者と駁したりするので不思議に思つて見ると、彼等は明治以後の文学伝統といふを楯にしての死守に近い反駁なのである。しかるに国文学者と称する人は、所謂資料は明治以前の古典、それを観る立場は明治以後の文壇風にへつらへるもので、一等見識も操も無い気がするが、如何であらうか。こんな心で「みやび」などを引出してきたら、所謂現代の「文学」界の様子と水と油のやうな一向馴染まないひとりよがりに見え、而もその取り出して説く「みやび」もをかしな事に(鹿爪らしく説いてあつても)なつてゐるのではないか。私はひとごとならずそんなことを憂ふるのである。そしてこれは今の学問そのものについて深省しなければならぬことである。少くともさういふ心持で古学びの道を新しく進み出す学者を今後に欲しいのである。

   三

 この頃になつては賢く「宮廷(みや)び」と説いて尊皇の心も述べるであらうが、今の文学の心を以てみやびを観ると、例を萬葉辞典に借りて見ても大体さうなるだらうと予想されるのは「上品、優美、風流」といつた姿に映るほかあるまい。さういふ鑑賞に映つてきたものを今復興しまうと言ひ出したりすると、既に文壇評論壇でぽつぽつ駁論が出てゐるやうに、この頃平安時代の優柔文学の復活を一部で云ひだしたりしてゐるのは以てのほかだといふ風に受取られるのである。これも古意など全く分らない頭からの議論であるから問題外だが、しかし国文学者の方でも折角の「宮廷(みや)び」といつて立てながら、それをただ倦怠した意気地ない藤原氏的貴族風とのみ取られては、どう納まりをつけるか。また妙なみやびめかしの創作が始まつては厭なものであらう。
 しかもわが文学の古意からいへば、「みやび」を以て貫き、文意を高め国意をつたへてきたほどの事実であるものを、そのやうな腰の折られ方でおめおめ引を退がることはできない。しかしこれは「みやび」の資料がそんなにか弱いからではない、こちらの目が、古意の上に立つての思ひでなくて、夷心文学風の色えらぴの目であるからである。いひ添へるならば、前に述べてきたやうな、後世意には次第に薄れ喪つてきてゐる、あの「なずらへ」の心の分らなさから、とにかく表道(おもてみち)が表向きの面影のほかには分らなくなつてゐる実状が然らしめてゐるのである。そしてその代りに賢明な知性を愈々ふりかざした研究とか文学的感覚からの鑑賞とかが流行してきてゐるのである。これは現代の風ばかりではなかつた。国学者が討たねばならなかつた前代の学問のさかしらもその通りであつたのである。
 もう一つ今の学者について附け加へていつておきたいことは、国学者がいつてゐるやうに、古の道を明らめるために、古へぶりの歌を詠まねばならないといつたことが、殆ど伝説として記憶されてゐるにすぎぬといふことである。勿論歌作る人は多いが、それは古へぶりではない。万葉集には卑しむこころを混へたときでなければ、稀にも漢字音の語を詠み入れないとかいふことをいふ学者はあるが、自分の歌にその心遣ひはあるかどうか。さういふ国語ぶりの言葉の強さなどはどれほど気づいてゐるかどうか。また宣長の言つてゐるやうに字余りの句中には必ずア行の文字を交へてあるといふ古歌の心得をしてゐるかどうか。短歌を作るにしても、三十一字の歌のしらべの自若たる有りやうを気づいてゐるとも思へず、自由型短歌といふのが作られると、これも文学史上の一つの事実だと寛大に認めるといつたやうなのが学者の態度と自他相思ひ、また句読点をうつた歌などもよいこととされてゐる。歌学が興されねばならない時である。この御代に単なる低いつぶし合ひの親和主義で「みやび」などを思つてゐるのは、思ひのほかのことである。

   四

 国文学が古典研究といつた立ち向ひ方で賢しらを誇つて国学の古道を思ふこころを外にしてきてゐるやうに、「みやび」のことを考へても、「みやび」が先づこの小文の冒頭にかかげた万葉歌のやうな「君に吾が恋ふ情」を無しに、或る文学的理念くらゐに考へる所から「みやび」論が始まりさうな気がするのは杞憂であらうか。もし事実なら「みやび」の言挙げはここから真二つに分れる。そして「心」なき「みやび」研究の智慧の古意への反挑的態度は「みやび」のこころの埋もれに堪へないその「みやび」心から、正に討たれねばならないのである。「みやび」とは実にまたただ藤原氏的なとまり方でなくて、実は私の友人達が次第に明らかにしてきてゐるやうに、藤原氏的な政冶的経綸を討ち彼等をさへ遂に「みやび」にあやからしめ尽したしたたかたものが「みやび」でもあつたのである。在原業平と紀貫之、伊勢物語と古今和歌集を考へただけでもこの事は明瞭に言はれる。上にしては万葉集、下にしては芭蕉の風雅に貫いて「みやび」はそれであつた。所謂後世意の表通りの知解では、この「心」ある「みやび」は見えないのである。
 しかしその「君を吾が恋ふる情」を以ての故に、その大君は神にします故、臣のはからひの努力だけで支へる道ではなく、本原が神のみいつ故、討(ことむけ)は神ながら高く信じて、己があらはな争ひを羞らふ一線があり、むしろ孤(ひと)り鬱結してゐるといふ時があつたり、神のおほらかな壮んな「神楽(かみあそび)」につらなる思ひにうつけるほどなので、閑雅優游放蕩してゐたりすることもある。激慟して神を思ひ歌つたのが人麿であるならば、鬱結の中に大君の万葉をしのんだのが大伴家持であり、また雅遊に臣たる己を愛(かた)しんだのが大伴旅人であつたと、いつてみることもできる。在原業平や紀貫之の置かれた境涯とその憤りと戦ひとは、大伴氏等以上の惨たるものさへあつたのである。源氏物語や枕草子にも、さういふ「心」を見るとしたら、人は誇張となすであらうか。しかし源氏物語がその後にどういふ心に継がれ護られてきたかを考へる者には、私のいふ所も思ひ当らないとはいへまい。最も近くでなら、樋口一葉に生きてゐる源氏物語といふものを窺つてみるがよく、枕草子は野村望東尼の幽囚の牢中に於て、思ひ高めたみやびの中に、星かげが潦にたたへれてゐるやうにあやしいばかり清麗に湛へられてゐるのを知ることができる。
 日本霊異記に「女人好風声之行、食仙草、以現身飛天」物語に於て、窮貧の中に身を潔くし、野に菜をとるを事としてたのしみとしてゐた、気調恰も天上の客の如き女性が、その風流に神仙感応して春の野に菜を探るうち、(山部赤人の歌を思ひ起せ)天上したといふ話に、「誠知、不修仏法而好風流仙薬感応云々(誠に知る、仏法を修せざれども、風流を好て仙薬感応云々)」とあるが、この文中の「風声」「風」「気調」「風流」等を「ミサヲ」と訓んでゐる。ミサヲといふのは日本書紀欽明天皇十五年に「父慈多闕、子孝希成」の「孝」をミサヲと古く訓んでゐるが、さういふ操守とは、とにかく風流雅遊の中に清く潔く自若として守られてゐる、霊異記の所謂「天上」へのしるべとしてつらぬいてゐるところがあつた。
 この風流を、ミサヲといふのはこれを道徳的に、あそびはこれを戯狂のわざと分けて、前者は政教のわざ、後者は文学の徒のわぎの如くに印象づけ観念づけて行つた幻は儒仏の夷心で、さういふ見方を却つて心ありげに庶民にも頻りに植ゑつけて行つた合理主義的な分別を支へてゐたのが知性的幕府思想と仮に名づけてもいい。そして一見心もとないたはわぎをしてゐる文人の、この言葉こそはなほ我が徒のこととして継いで来たのが「みやび」であつたといつてよい。そして皇神の大御姿を恋ひまつつてきたのである。人為に考へ定めた道徳の学でなく、それは神のみてぶりを慕ふやさしいみさをであつたのである。

   五

 知性的道徳的政教主義が網を張つた中では何としても説明に窮するほかなく、(また高く信じてゐる故余り言痛き説明は途中で不快になつてくる)ただいきどほりのやうにして「みやび」人が後世の歌に対して、恋歌の少いのを遺憾として恋歌を詠むべしと妙な言荒立ててまで言つたりするのは、右のやうなたはわざの古意からのことである。高崎正風翁の『歌ものがたり』には、御歌所長としてと自ら述べて、恋歌のことを奨励してをられる。この高崎翁は申すまでもなく、明治天皇皇后両陛下の御歌の御指南をなされた方であるが、一面歌が庶民の志から高く皇風を思ひまつる心に出づることを実によく承知してをられたやうである。
 明治天皇の東北及び北陸御巡幸の際、民間から奉献した無数の歌文詩が、翁の民心を思ふ熱い心から編輯されて『埋木の花』二巻『千草の花』六巻となつて存してゐる。その中の逸話などは、右の『歌ものがたり』及び千葉胤明翁の『明治天皇御製謹話』にあつてこの頃では有名であるが、私は近求右の二つ草子を読みつつ驚異してゐるのは、山野の民が老幼男女実にみやび心をさだかに生々と持ち伝へてゐる事である。代作も交つてゐよう。しかしそんなことを考へるよりも、人々が自ら床しく歌文を作つてゐる事実を証する方が多く、殊にまた長歌の多いこと、また今の所謂万葉調などよりもはるかに万葉調をももつてゐることなど、歴々としてゐるのである。これはかの勤皇志士の歌にそのまゝつらなつてゐる明治勤皇歌であり、ここにまた詠じ上げられてゐる開化のよろこぴは、所謂文明開化でなくして、久しい間大君に御民の心をまヲす日なくて埋れてゐたのが、復古の日にあひ、神ながら国見し給ふみいつにありがたく拝み伏して申す言の葉である。随分と今から見れば礼にならはぬはしたなげなわざもしてゐるけれども天皇が建(たけ)く歩み給ふそのみいつにこたへて、天日に直(ひた)と浴しまつつた花々のごとくに庶民の思ひがそよいでゐるのである。私はかういふ明治の歌の下行く水について今少しのべることももつてゐるが、とにかく明らかに歌壇の表向きには阻止されたのである。所詮「みやび」とは皇神のおんすがたを仰ぎ恋ひまつりつつ大君にまうす心であらう。「心あらば君に吾が恋ふる情示さね」といふ心にあらう。論文などで人に説得することではない。畏いけれど慕ひまつり習ひまつる、さういふ私どもの古い祖たちからの心を継がうとする、さういふ古い心に「みやび」はやさしく語り合はされることもあらう。
 われらが私心を写実的に事わけて語り尽さうとする賤しい仕業でなく、大君にまうす中にのみ我等のいのちのすべてをありがたく思ふ故、この我が心をのべるや、あの「献天皇歌」めやうなしをりを生ずる。またわが心をのべるや、それは心ある思ひから、皇神のおんすがた、おんみてぶりに、おのづから「なずらへ」るさまぎまのことわざとなるのである。「なずらへ」の心は「みやび」の心に出づるものである。単なる譬喩法や寓語や象徴主義ではない。その「なずらへ」は「花をめで鳥をうらやみ霞をあはれび露をかなしぶ心ことば」のたあいない不合理の中に、神のおんすがたを恋ふるものの、禁(とど)めがたいながめがあり、なげきがあつた。そのなずらへに美しさが繰り出される。そのなげきは「みやび」のつよい「みさを」を以て一筋につながるものがある。
 この「みやび」は、言ひかへるならば、皇神のみこころとみてぶりは、めぐみとして民の心々に滲み透つて血肉になつて芽ぐみ生きてゐるので、大君は民のこころを御心ひとつにいたはりたまひ、民は思ひと思ふことに禽獣や「えみし」心をはらつて「みやび」がちなのである。尊皇攘夷といふのは、さういふ最も自然なことなので、また尊皇攘夷といふその最も自然なことの心に、愉しい天地をあげての雅心が大らかに息通(いきどほ)つてゐるのである。

   六

 国学も美学も、この最も自然な尊皇攘夷の心にあるのが、皇國のわざである。西夷の美学的藝術感覚などから「まこと」「あはれ」「幽玄」「さび」などを表向きにあげつらつた慣ひで、皇國の本意の傍らに、心外(よそ)なる体系とかを築いてみるといふやうなはしたなく心無いわざは、少くともわれわれはやめたい。われわれのつとめは、宣長翁の言葉のごとく、皇神の古の道を受け保ち伝へる大事なのである。後の世の埋れ木の花を八千草の花に咲き敷かしめることである。たとひ世の心ない人が、新しがつた異風の文学を立てようとも、学者は全く古意一念にまなぶことを自負すべきである。歌よむにも古歌をそつくりに剽竊する位でありたい。この事も、万葉の歌人はじめ後世まで心ある人の第一にすすめてきたところである。そしてこの頃の学者歌人の思ひの外なることである。
 人は気づくであらうか、今もなは知性的な幕府が存することを。誰も皆明治以来の幕府はなく庶民の心は開かれて倦みはないと思ひ、文学なども盛んに庶民の心を書いてゐるつもりらしい。学者またさういふ心たよりで学問を励んでゐる。しかし実際こまやかに見れば、庶民の心を開いたかに言なして、おほやけを恋ひまつる祖心を殺して、私心の民心を育て甘やかし、小市民的な住み心地好さを享楽せしめて、それを利して己れを保身しようと巧みに計つてゐる知性が世を蔽うてゐた。それは幕府的政体こそ取つてゐなくても、心してみれば明らかである。多く西欧の文芸復興(ルネツサンス)思想を以てわが国の維新以後の思想に擬してこれを煽動もしたりしてきた。国文学者もその一翼を受けもつてきてゐたのである。しかし西欧の文芸復興は一言以て言へば、わが神ながらのふる道の如くに、伝はることを信じてゐるからそれを伝へまつらんとする壮んな志と異なり、伝はることの信無きものの伝へんとするしわざ故、神々を呼びつつそのことがまた神意に挑んで己れを立てるといふことになつてゐるのである。かういふ心を明治維新以後に、将又かの国学者の思想に擬して文芸復興呼ばはりをすることは、もはや、我々に黙止しがたいいきどほりがある。思ふに今日の惨たる有様は前述の在原業平及び紀貫之以上のものがある。
 「みやび」を思ふことが今古意をしたひつつ雅文ともならす、このやうないきどほりめいたなげきに成りはてる理由なのである。ただ冒頭の坂上郎女の古歌にこの頃の悶々を少しとどめつつ、同じくり言(ごと)のみしてゐるのが我がみやびなき文である。