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鴨長明(抄)

方丈

 発心集が一方には世を厭離し一方には当然赴くべき往生への願ひを
逡巡して、詩人の決心をのみ緊く守つてゐたやうに、方丈記も亦それ
と同じ詩人の消息を語つてゐる。即ち先づ世に対しては次のやうに述
ぺられてゐる。
 世にしたがへば身くるし。又したがはねば狂せるに似たり。いづれ
 の所をしめていかなるわざをしてか、しばしも此の身をやどし、た
 まゆらもこころをやすむべき。
そして遂に世と背きつゞけた生涯の閲歴を述ぺて「わが身(中略)つ
ゐにあととむることを得ず、三十余にして更に我が心と一の庵を結ぶ。
是をありし住居にならぶるに十分が一也。(中略)五十の春を迎へて
家を出て世をそむけり。(中略)爰に六十の露消え方に及びて更に未
葉のやどりを結べることあり。(中略)是を中比の住家にならぶれば
又百分が一に及ばず。とかくいふ程に齢は歳々にかたぶき楢は折々に
狭し」と、かくて遂に「唯我身一つ」の「一身を宿す」方丈庵へ押し
狭め切つたことを述懐し、その閑居のさまを縷々と記してゐる。それ
は当然現世への消極的な厭離穢土の態度とか、従つて或は欣求往生の
修行と考へられ易い。しかるに方丈記のその末尾に至つて、長明は不
図そのことについて己の境涯を省みた末、次のやうに己を問ひ責める。
 一期の月影かたぷきて余算の山の端に近し。忽ちに三途の闇に向は
 むとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣は事にふれ
 て執心なかれとなり。今草庵を愛するも閑寂に着するも障りなるべ
 し。いかが要なき楽みをのぺて、あたら時を過さむ。しづかなる暁
 このことはりを思ひつづけて、みづから心に問ひて言はく、世をの
 がれて山林にまじはるは心を修めて道を行はむとなり。しかるを汝
 姿は聖人に似て心は濁にしめり。住家は則ち浄名居士の跡をけがせ
 りといへども保つ所はわづかに周梨槃特(しゆりはんどく)が行にだに及ばず。若しこ
 れ貧賎の報のみづから悩ますか、将又妄心のいたりて狂はせるか。
 ・・・・
しかるに次の答は注目に値する。
 その時、心更に答ふる事なし。唯傍に舌根をやとひて、不請の阿弥
 陀仏、両三遍申して、やみぬ。
これが実に方丈記の結語である。自嘲を何か忿怒めいた不貞腐れた放
言を以て投げ返して筆を止めてゐるのである。嘗て俊成が天台止観に
己れの運命を托して安堵してゐたのと比して長明の決心の激越さが偲
ばれる。彼は仏教的往生によつて己のいのちが真に救はれるとは信じ
てゐない。そしてもつと己のいのちそのものをいとほしみ、この形な
き決心の中に熱くひとり何かを信じてゐる。それを若し説明しようと
して、世の方から評すれば厭離穢土欣求浄土の態度といふことになら
うし、仏教の方から言へば未練の妄心と評されるであらう。そして又
所謂綜合的な判断とかいふものからは、之を矛盾的態度とか、或は好
意的に、人間的弱さとかと評されるであらう。長明はそんな行届いた
推論に対して唯彼の詩心の情熱を慣然とかゞやかしてみせるだけで、
それ以上の弁解は之を為してゐない。
彼が若い青春の日からいちはやく誘はれがちだつた恋、和歌、管絃
等の「すき」に於て常に誘はれてゐるものは、実用的及び論理的な何
lTなほなさけ
ものにでもなく、実用や論理の上と底とにある、も一つの直な情のこ
とわりであつた。長明は方丈の庵の座右に和歌管絃の抄物と往生要集
をそなへてゐたと記してゐるが、その往生要集は一般に厭離橡土欣求
浄土のすゝめに最も麹果的に出来てゐたが、更にその本文に立入つて
「樋楽の証拠」や「正修念仏」、「助念の方法」「別時念仏」更に「念仏
の利益」「念仏の証拠」等の章に進めば、それが合理的に説いてあれ
ばあるだけ不信の臭味が溢れて来て、「問答料簡」などに室ると、そ
かへ
の不信の自問自答のやうなものの痛烈さが却つて興味を以て読まれる
位である。長明の念仏が、往生要集のそれに比して「若し念仏ものう
く読経まめならぬ時はみづからやすみみづから怠る。さまたぐる人も
なく又恥づぺき友もなし。娩更に無言をせざれども独り居れば口業を
修めつぺし。かならず禁成を守るとしもなくとも、墳界なければ何に
てい
つけてか破らむ」といふ態のものであれば、もはや往生妥集の所説も
要なきものであり、又「観察門」あたりの此頬なく豊盟多彩な空想の
極致も、彼の胸中一片の「情と直」とをいとはしむ心に対して多くの
慰めにもなり得る筈はなかつた。寧ろ往生要集を傍に置いて之と比し
益々己の狭い「短い心」をいたはる資料になり得たかもしれない。発
エルト々ノ
心集の序文の冒頭には、往生要集の「助念の方法」中の「常為二心
トハレトセ’
師→不′師こ於心こといふ句を引いてゐるが、それが遂に長明が「自
心をはか」つて発心の趣旨を語るに及んでは前引の序文のやうなこと
に落ちてゐるのである。
それでは彼がこの方丈の閑居に於て為してゐる所は何か。今少しく
その文草によつて辿つてみたい。結論的に言へば、世にも仏教にも身
、の定く所なき程に押し話めたその一点地に於て、彼はその庵を「いま
ヽヽヽヽヽ
身のためにむすぺり、人のために作らず」といひ、又「糸竹花月を友
すなほ
と」して「情あると直なる」純兵な生を、「ひとり」「養ふばかり」の、
「養生」と言つてゐる。即ち奇抜な言葉のやうだが正しく詩人の「養
生」説であるといふことができる。そのことを更に述ぺたい。
長明は方丈記の冒頭「行く川のながれは絶えずしてしかももとの水
にあらず」より始めて、世の「跡なき」様と成り果ててゐることを、
自ら経験した天災地変、遷都、世情等に触れて泡々と筆に走らせて記
しっけてゐるが、併しその歎きは世のために歎くのでもなくなつてゐ
トさゝ
る。寧ろ世の人はそのやうな災厄の後「皆昧気なき」革を述べて山彗か心
竜j淘も薄らぐかと見し程に、月日重なり年経にし後は、言葉にかけて
Z
言ひ出づる人だになし」といふに至つては、傷心はそのやうな人々に
はなくて、唯詩人一人の上にあるのみである。長明はそれを傷心して
言ふ、「すぺて世のありにくき事、我身と住家とのはかなくあだなる
さま又かくの如し」と。遂に歎けるは詩人である。「若し己が身数な
らずして樺門の傍に居る者は深く喜ぶ事あれども大きに楽しむに能は
ず。なげき切なる時も声をあげて泣く事なし。」しかし世人はこのや
きそ
うな卑屈してしまつた棉神に自ら傷心はしない。そして競つて樺門に
「へつらひつつ出で入」る事に安んじてゐるとも言へる。「世に従へば
身くるし」とは世人のことでなく、却つてこのやうな、生の卑屈した
世への詩人の堪へがたい告自である。而もこのやうな世から出離して
閑通の生活を営めば、己一人の心は安らかなるべきに却つて世の人の

為ぬ憂悶をこ1で述ぺてゐる。このやうな感受は世人の顧みも関知も
しないところで、詩人の一人でひそかにしてゐることである。歎き憂
悶すぺきを款かずなつた世を傍観するに堪へず己一人に痛烈に感党し
て歎いてゐる。而もその切なる歎きや行動は却つて世人の、健常ぷつ
ど▲ノ
た、駕かうとしない生活に同じない故に、「狂せる芯似」てゐる。又
「狂せるに似たり」と自ら自嘲的に激越して傷心してゐるのが詩人で
ある。「いづれの所をしめて如何なるわざをしてか、暫くも此身を宿
し、たまゆらも心をやすむべき!」われ〈は今の代の永井荷凰の激
越を想起することもできるであらう。

彼はこのやうにして遂に「わが心と」己れを髄つて次第に狭く小さ
lT丸かな
く、遂に己れの住処無さへ到達する。彼は「おのづから短き運を党り
ぬ」と告白する。この不運は唯世に不遇であつたといふ事情によるの
ヽヽヽヽ
やな\まことは、彼が何を信じようとせず、何を信じようとしたか
にが1つてゐる。かくて此の痛烈な運命を負うて幾度かの出離的行動
の後、「六十の露消え方に及て、更に日野山の奥に跡を隠し」た方丈
庵は、今や車二輌を以て運ぶ「ほかに更に他の用途いら」ざる、はか
ない営みであつた。香それは成にせの営みといふぺくもない「仮の
庵」となつてゐるのである。万丈記に記したその「仮の庫のありや
ひさし
う」は「東に三尺余の庇をさして柴折りくぶるよすがとす。南に竹の
lTりあかだな
貸の子を敷き、その西に閑伽棚を作り、北に寄せて障子を隔てて阿弥
陀の絵像を安置し傍に普賢をおき、前に法華経を置けり。云々」と何
くれとしつらへ事をしてゐて、彼が最も気取つて記してゐるに拘らず、
まことは要なき「住家」のまねごとみたいなすさびにすぎないもので
ある。この庵の有様を記した文孝が偶然か古来の伝来の間に於て殆ど
収拾つきかねるほど非常に異同の甚しい部分であるが、それには後の
かい】ぎん
仏教者流などの伝写問になした改京もあるとしても尚ほ解き難い程で
ある。併しそれは別とするも、或は長明自身此のしつらへは気取りだ
けあつて整頓秩序のつかない、仕様のないものではなかつたか。もし
掛けられた阿弥陀の絵像とその位置、或は普賢、不動の絵像、法華経
等の教理的関係等に矛盾があるとして論証を試みるのも一つの方法で
はあらうが、遂に何か教説に合するやうに想定し替へ、或は又世捨人
いぶか
が和歌管絃の書や折琴維琵琶を具へてゐることを審しんで之も矛盾と
して、徒つて頭の一、隅で几帳面な修道者を想像するために、考証によ
つて是等を整序し、或は抹穀するならば、それはうまく成功しっ1結
果としては此の詩人を方丈庵から追放してしまふことにならう。しか
さほ
しこの庵主は、念仏もの俺く読経まめならぬも障りとせず松凰流水に
たぐへてひとり詠歌弾琴する詩人であつたのである。
さてこのやうに世にも要なく又念仏ももの俺く、つれムー・・・と侍びた
しやう
仮の宿の、為様ことないひとりの住家の中に、そして有りとしもなく
lノご
有るその人の生活の中に、われノ1は次に述ぺるやうなかすかな義め
きを不図見つけることができるのである。
彼がこの庵にも民に五年を経て「軒に朽菓深く土居に苔むせ」る頃、
ほのぎ
事の便りに又しても都の転変を灰開いたりした時の感懐に、
たゞ仮の庵のみのどけくして恐れなし。程狭しといへども夜臥す床
かうな
より昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。寄居虫は小さき只を好
みきご
む。是よく身をしれるによりてなり。推鵜は荒磯に居る。すなはち

05

人を恐るるが故なり。我又かくの如し。身をしり世をしれらば、願
うれ
はず交らず、唯しつかなるを望みとし愁へなきをたのしみとす。
この消極の「しづか」の底に詩人の租密がひそんでゐる。そこにひ
そかに生の更生が準備されつ1あるのである。即ち彼が「恐れなし」
「愁へなし」「不足なし」「交らず」といふ中に、「身をしり、世をし
る」といふことを言ひ放つてゐることは、先づ注意されなければなら
ない。此の「しり」方は所謂客観的認識などでなく其の身にひしとひ
ぴいて捉へてゐることである。すぺての「世」をも此一身(これ以上
小さくも狭くもなり得ない迄問ひつめてきた)に於て、「しづか」に
む止り
知られて来たことである。「しづか」とはさういふ党知が最も無擬純
潔に働いてゐる墳涯である。この正しい党知は更に詩人によつて己れ
身づからに確められて行く。
すぺて世の人の住家を作るならひ必ずしも身のためにせず。
「必ずしも身のためにせず」とは響醍である。世の人が己が身のため
に営んでゐるつもりで利慾に走りつ1実は、何らそれはその「身のた
めに」してゐることになつてゐない。利己的であつても己を兵に養ふ
ものではない。
われ今身のためにむすぺり。
●●こと
これは利己であらうか。香、真に生を養ふ人の絶体絶命の兵言である。
一Tサシヤ
希脱の神殿の柱に彫りつけられてあつたといふ「汝自身を知れ」とか、
デカルトの「我思ふ故に我あり」に等しい党知であり、而もそれ以上
はぐゝ
に、生を熱くいとほしみ育むこ1ろあふれんばかりである。而して何
故に「人のために作らざる」か。それは「伴ふべき人もなく頼むぺき
」Tつこ
奴もなき」故である。生を養ふことを忘れ果てたる人々のために何の
なさけすなは
「宿」ぞ。詩人は唯「情あると直なるとをば」此の庵の中、己の中に
ひそかに育まうとしてゐる。今や此のえうなき仮の庵こそ人問の生を
養ふ家であつて、世の人の徒らに審属親朋或は「財宝牛馬のためにさ

へ之を作る」といふが如き、その為めにするところ実の如くにして実
すなほ
は果でしなくえうなき営みである。少くとも正しく生の養ひに直なる
もの甚だ薄いと言はねばならない。
それ人の友とある者は富めるを貴みねむごろなるを先とす。必ずし
も情あると直なるとをば愛せず。ただ糸竹花月を友とせむにはしか
ず。人の奴たる者は賞罰甚しく恩顧厚きを先とす。更にはぐくみあ
はれぶと、やすくしづかなるとをば願はず。
言ひ換れば詩人自身こそ情あると直なるとをほ愛し、はぐ1みあはれ
しつか
ぷと安く閑なるとをば願ふ者として、自ら任ずるのである。
おもむ
長明は、此の墳涯から、徐ろに此のやうな養生者の営みを述べ
る。
やつこし
唯我身を奴とするには如かず。いかが我身を奴とせんとするならば、
若し為すぺき事あれば則ち己が身を使ふ。たゆからずしもあらねど
あh′
人を従へ人を顧みるよりはやすし。若し歩くぺき事あればみづから

歩む。苦しといへども馬鞍牛車と心をなやますには若かず。今一心
を分ちて二の用をなす。手の奴足の乗物よく我心にかなへり。心身
の苦しみを知らば苦しむ時は休めつ、まめなれば使ふ。使ふとても
いほん
度々過ぐさず。ものうしとても心を動かす事なし。いかに況や常に
歩き常にはたらくは是養生なるぺし。なむぞいたづらに休みをらん。
一身を傭傾無能にまで迫ひ詰めて最小限の生を閑居した詩人が、其の
しつか
わづかに其の一身を養ふ、その閑なる養生の中に、或る「はたらき」
をおのづから見つけてきてゐる。それは尚ほ「たゆく」、唯わづかな
る己の用を足すのみのはたらきに過ぎないが、無擬にして自往自在で
ある。少くとも己と己との問に信用がある。(嘗て己が身と心との隔
隙離反に信を置き得ずになやんだ青春の日の長明を想起せよ。)長明
はやうやく長く求めてやまなかつた情あると直なるとの願ひを何もの
にも妨げらるることなく己の中に見つけ出して、おのづから、心すな
ほに、孤居の中にもかすかに心あた1まるを党えたのである。「何ぞ
lノひi
いたづらに休みをらん」とは初々しいばかりの更生であらう。
それは未だ己一身、その僅かに起居の振舞を出でないが、己を養ふ
いとほしみに■熟く満ちつ1あるものを感ぜしめられる。L厭■難反頓しん続
』椚引坦め来つて僅かに現つた生のかかいのやうになつた中に、生のい
きづきを聴きとり、それを大事にするために己が手足を便ひ、衣食と
住家とをいつくしんでゐる養生である。一本によれば薬革を植ゑもし
たといふ。
ころもふすま・ほだえ
衣食のたぐひ又同じ。藤の衣麻の食、得るに従ひて肌を隠し、野辺
つはな
の茅花、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人に交らざれ
は姿を恥る悔もなし。粗乏しければ疎かなれども哺をあまくす。す
ぺて斯様のたのしみ富める人に対して言ふにはあらず。唯わが身一
つにとりて昔と今とをなぞらふるばかりなり。(中略)今さぴしき
LTまゐひと士
住居一間の庵、みづから是を愛す。(中略)もし、此の言へる事を
疑はば魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれ
ば其心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば其心を知らず。閑
居の気味もまた同じ。住まずして誰か党らむ。
この己一身の中に熱い信用を抱いてゐるのを、狭しとて費めてはなら
ない。何ものをも信ぜざるに相交はり相和して行くやうな世上の欺騙
はら
の生をこ1まで撥つて、清く抱き守つて釆た此の孤独の中には、「そ
れ三界はただ心一つなり」と心を愛してやまない熱い息吹きが何もの
にも屈せぬ激しい勇気を以て告げられてゐるのである。己を信用し得
る以上に己が世に費任を取り得る道はない筈である。もはや他人に対
して言ふことではない。唯「我身一つにとりて」と言ふ。私は長明が
此の最後の、第一義の信用に於て取戻した己の強靭さを思ふ。もはや
何ものも之を傷けることはできない。
然るに此の自己信用と養生とに対して、前述のやうに、これ迄彼を
導くかにみえた仏教的悟達の側からは却つて彼に不信を鳴らし誹誘を
傲っのである。仏教は遂に彼が養はうとしてゐる生も閑居も、一切之
に朝するものを往生の「陣り」として、此の世から彼の世へひつさら
ヽヽ
つて往生せしめねばけりがつきにくいのである。併しこれに対する長
ぐわん
明の頭たる拒香は既に述ぺた。「朝夕に西をそむかじと思へども月待
つほどはえこそ向かはね」といふ若き日の述懐以釆彼の詩魂は不屈な
のである。彼の救ひは唯そこにのみあるのである。
ヽヽ
然るに、長明が却つて恥るのは円満具足の仏陀に対してではなく長
明がいみじくも書いてゐるやうに、人の中に出て乞食などすることで
ヽヽ
ある■。彼はその草衣木草に命をつぐことを唯人に交らざればこそ恥る
ヽヽいへと
悔もなしと言ひ、都に出でて身の乞食となれる事を恥づと雄も云々と
いぶか
言つてゐる。これは又読者の不審しき恥らひと思ふ所であらう。併し
わづかに今養ふ生を限りなくいとほしみ、そのためにはとりあへず此
の衣食住を以て足れりと自足しても、併し本来生を養ふとは生の豊か
なるぺきを養ふものであることを知るのが詩人の本心である故に、詩
人の心には、乞食や、人間の様ならぬ牛馬の糧にひとしき衣食住は、
又恥しいのである。生を養ふとは衰へたを生を新生せしめると共に之
を豊かに花栄えしめねばならない。唯動物の如く衣食住して恥しとし
ないのではない。それは正しくは世人に対して、といふのではなく、

「人」として己自ら恥づるのであるが、それ故にこそ又人に間ひて深
く恥しと思ふのである。「世」の人に対してではない。こ1には己の
中に、又己の外に、恥づぺき「人」が顧みられ、その復活があるので
ある。このことは重要である。唯彼はその生が満たさるなき日の故にl
その時代の恥らひを、此の庵のかげに隠して撫然たる感あり、とも言
ふぺきか。
長明出離の後、源家長が思ひがけず会つた時、長明はそれかとも見
えぬ程に痩せ衰へてゐた。そして語るらく、せを恨めしと思はざりせ
はべ
ばうき世の閤は晴れざりしならん、これぞまことの朝恩に侍るかな、
と、さう述懐した事は前に記したが、その時、「うき世を思ひ捨てず
はち
少しのほだしにもこれが侍る」とて経袋から一挺の琵琶の撥を取出し
て「これは如何にも苔の下迄同じ所に朽ち果てんずるなり」と語つた
なほ
といふ。家長はそれについて「猶心に入れたりしことを思ひ捨てがた
き事にしていささか妨げともなる迄党ゆらんいとをしさよ」と書き添
へてゐる。上来述ぺ来つた所を思ひ合せて感慨側々たるものがある。
その琵琶の撥といふのは先年出離の後、後鳥羽院が長明秘蔵の手習の

06

琵琶といふを召し給うた際そ畑撥に「斯くしつ、峰の嵐の音のみや終
に我が身を離れざる人き]、「掛ふぺき苔の袖にも霹しあれば積れる塵
は今もさながら」といふ二首の和歌を書いて添へて奉つたのに対して、
▲ゆかり
院の御命によつて家長が代詠して返歌を書いて返したといふ由縁の撥
であつた。すなほに是ぞまことの朝恩と更生を侶じつ1も実は詩人と
しての美しい意匠を己に与へて満たすものとてはあるわけでなく、せ
いぜい一本の撥に心を入れてゐる程度である。それは彼ののつぴきな
らぬ「すき」を唆烈に表象してゐるものではあるが、所詮一挺の撥で
しかない、あまりに侍びしい貧寂なる表現である。「それかとも見え
ぬ程に痩せ衰へ」てゐたといふ長明の姿貌そのま1である。而もこの
痩せ衰へて一挺の撥を後生大事にしてゐる詩人の妄執的な願求こそ、
この時代の運命であり結論であつたのである。しかし彼がこの褒失の
かLT
底でひそかに生を煮た方丈の閑居の中に、倣かな恵匠も始まつてはゐ
たともいへる。例へほ、庵の西の窓に「観念のたよりなきにしもあら
ず」と恕ひ或は「春は藤波を見る。紫宰の如くして西方に匂ふ。夏は
時鳥を聞く。かたらふごとに死出の山路を契る。云々」と庵にあふれ
て何か想ひ描かうとし、又その地より凰景を観望して古人の凰雅をし
のび、或はとりとめない小童を「つれづれ」の友として「遊びあり
く」、或は又夜の庵に独り住む風情も心うるほすものがある。かくて
「山中の景気折につけても尽ることなし」とは、此のやうな貧寂の中
かたち
に思ひ迫められた、かすかな意匠に擬したまねごとみたいなものであ
る。まことにこ〜より生れ出でて花栄えむ「かたち」とは、彼を越え
彼の時代を経て後のことであらう。彼としては未だ、
行く川のながれは絶えずして
しかももとの水にあらず
うたかた
よどみにうかぶ泡沫は
かつ消えかつ結びて
久しくとまる事なし
と、徒労の中に徒労を流して唯なげいてゐるところにその俵に、本質
の美しさ、いのちの美しさがあるといふぺきのみであらう。
風霊の目
この「行く川のながれ」に似て同じことを、「風」といふ表現を以
てしてゐること又廣々で、松風にたぐへて琴を弾じた長明に、まこと
ふさはしいものがある。
ヽヽヽヽヽ
彼が青春放蕩の日に「しのばんと思ひしものを夕ぐれの風のけしぎ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
につひに負けぬる」と歌ひ、和歌所を辞して出離の時「いづくより人
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
は入りけん兵薔原秋風吹きし道よりぞ来し」と詠じ、又その出離の後
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
かの琵琶の撥に書きつけて己を思うた「斯くしつつ峰の嵐の音のみや
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
終に我身を離れざるぺき」といふ歌、それらが何れも「行く川のなが
れ」と同じ心の、形なき「風」を以て詠はれてゐて一種独特のなげき
のふかく切なるひゞきをもづてゐること、明かであらう。こゝに又今
一首記念的な「風」の和歌がある。それは鎌倉幕府の日記「吾凄鑑」
に見えるもので、建磨元年十月十三日の記事に、「鴨社氏人菊大犬長
明入道鮎舶、雅経朝臣(証、新盲今和歌集撰者の一人)の挙により」
鎌倉に下向し将軍実朝に謁すること虔々、此日幕下将軍(顆朝)の忌
.しさ
日に当り彼の法華堂に参し念詞読経の間懐旧の涙頻りに相催し、一首
モモシノチキヲフヽヽ
の和歌を堂柱に注したといふ其の歌、「革木靡秋霜消空苔払山風」
此の鎌倉下向の記事ほ長明の生涯の最後に来てその唐突さに人を驚
かすのであるが、確実な事実であり、下向の途次の雅経及び従者との
つくはしふ
連歌が菟玖波集に載せられ、又歌枕名寄に帰洛の途の和歌一首も録さ
れてゐる。
長明の此の鎌倉下向の用件は、雅経の推挙でもあり、歌人将軍実朝
との会見でもあるので、その目的は学者の説くやうに、いづれ和歌等
に関するものが主であつたであらう。しかしこれによつて或は長明が
鎌倉に仕へるといふやうな意味があつたかの如く推量するのは息ひ過
ぎといふよりも寧ろ推考不足を便利よく袖つただけであり、以前の長

明ならともかく現在の長明には譲ひすぎることである。前に後鳥羽院
より和歌所への再度出仕を勧め給うたのも固辞し、その出離の心境を、
「これぞまことの朝恩」と拝謝したのも忘れてならないし、既に齢は
なんな
六十歳に垂んとし、方丈記を書いたのは鎌倉下向の後とは言へ、方丈
閑居の味はひも、「住まずして誰かさとらむ」と記してゐるほどであ
る。若し実朝が和歌に関して求めたとしても、その前々年には既に実
朝は定家の教を受け、定家より詠歌口伝一巻を献じ、建保二年にはま
た雅経の仲介で家伝の万葉集を譲つてゐるし、他にも歌人が謁して歌
会が催された例はある。必ずしもわざ〈長明を要しないのである。
むみやうせ1フ
もし必要ならば、「無名抄」の如きを献ずるだけを以て足るであらう。
貌に長明の風変りな閲歴は明かであり、又近年は、和歌のことで京人
の間に出入するといふこともなく、新古今集の中でも何等有数の歌人
となつてはゐない。唯他の人と遵つて長明は束縛のない身分で鎌倉へ
も割に自由に行ける(といつても既に六十に近い)といふことはある。
然しそれだけで実朝が長明を招碍するといふ理由は樋めて乏しい。長
明の鎌倉滞在は樋く短いもので帰途に相模の砥上原での詠歌に「冬が
れ」を歌つてゐるのを以て見ても、恐らくその年の内に帰途についた
ものであらうが、これは実朝に仕へることが不成立になつたために急
に帰ることとなつたといふやうな事を考へなくてもい1。将軍が会つ
てみたいと望み、長明又それを納るればその事自身に滞在の永きは要
しない。これは必ずしも長明に限つたことではあるまい。
それでは実朝は何故に長明などに会ひたがり、長明又わざ〈鎌倉
あつせん
まで足を伸ばしたか。勿論その問に雅経の斡旋があるわけで、初めか
ち実嘲が長明を知つて彼を求めたか、或は雅経が突朝の或る意向に対
し†適任として長明を推挙したのか、それは何れでもい1。しかし長
明の方から言へばたとひ和歌のことを以て召されたとしても寧ろ長明
がそれを辞さうと思へば、老齢の身に長旅堪へ難しと言つただけでも
断り得た筈である。しかるに長明も実朝に会ひに行くことを承知した
のである。或は「盤州名抄」は山斯ういふ磯会に着屯丁され姶めたのかもし
れない。(但し「関の清水の事」には建麿元年の講を載せてゐる)或
はその中の一部になつてゐる「近代歌体事」といふ歌史と当代の歌体
についての記述は間答体になつてゐたりするし、俊成が式子内親王の
ために「古来風体抄」を執筆し、又定家も前記の如く詠歌口伝を実朝
に送つたり他にも人のために執筆したりしたやうな趣旨で、或は実朝
へ語るために書きつけた党書のやうなものとこじつけられないことも
あるまい。実朝に謁すること「度々に及ぷ」といふ記事があつて、而
も他の歌人の場合の例のやうに歌会など催されたトいふ記録はないの
で、同じく和歌の事を以て謁したとしても直接歌会を共にしたりする
のではなく、一名「長明歌物語」とも言はれてゐる無名抄風の歌講を
したのかもしれない。しかし虎にそのことのためには定家の如きが実
朝と関係があつてゐて特に長明を要しないし、又長明も少くともその
やうなことだけで実朝に会ひに行くことは蹄躇するであらう。権門に
出入することに対するきびしい反撥心さへあつたことは方丈記にある
通りでもある。私は学者がこの鎌倉下向の動横を唯和歌の事と長明の
世俗の情の残つてゐるものとするだけの説には従ひ難い。少くともそ
れだけで長明を動かす事は無理であることはもはや説明を要しない。
私は長明の下向を実現させた発起は何といつても先づ実朝自身の方
にあることを思ひ、先づ少しく実朝を理解することをつとめてみたい。
実朝について概見し得ることは第一に足利義政に似て少くとも暮府
的な政権の器でなかつたことである。香それ以上に、政権などにか1
やゝ
はるやうな材でなく、梢夢想的に、狂せるに近い所さへあるのである。
唯その心情そのものは素直で詩人的熱情をもつてゐる。これは平安朝
時代に関白などに置いたらそれ程にはをかしくなかつた型である。そ
して彼は鎌倉に擬京都擬王朝文化を企図した。平家滅亡後の漁氏の負
うた運命も単に頼朝の性格や北条氏の悪辣によるのみでなく、あのや
うに殺し尽して行かなければならなかつたのは一種あの時代の亡魂的
文化の象徽といつた感じがするが、実朝は特に源氏自身と北条氏との

07

此の因業のやうな運命に挟撃をうけて、何やら或一点だけ非常に清ら
かで健康で熱情的であるほかは、まるで狂妄で病的で孤独に俺みきつ
て、早老してしまつてゐたやうに見える。金椀和歌集にも不思議な位
めづ
老人の心境を歌つた稀らしいものがある。長明が下向した時も実朝は
僅か二十歳であつた。十四歳の元久二年には虎視眈々たる執権は平賀
はかちくし上く
朝政を将軍に立てんと謀つて破れたが、落飾しただけで死罪にもなら

ず北条一族(実朝の母をも合んで)の吸血的な眼は層一層実朝に憑い
てゐた。遂に二十五歳の建保四年突朝は史上最も奇異なる行動を企て
てゐるりそれは宋人陳和卿(東大寺大仏の鋳造に当つたエ人)に大船
を造らしめ七その船を以て渡宋して仏道に入つてしまはうとしたので
ある。その船は翌五年竣工して愈々進水せしめようとした所、大船の
ために浜から水へ浮び出させることが出来ず、遂に渡宋は実現しなか
つたが、将軍として空前絶後の事で、彼の胸中の空虚の大きさと俺怠
の深さ恕像に余るものがある。而もその胸中、大君を、民を、親子を
心あた1かく一筋に思ふの情あつて世をあた1め己をあた1めんとし
た念の切なるものもあつた。後に足利義政が実にこの突朝と似てゐた
が、彼も詔遊芸と世情とに漸く俺厭憂悶して、後述のやうに茶によつ
て己をあた1めようとし、心中に「仁念之心」あふれてゐたこと「蔭
涼軒日録」に見えるが如きである。実朝が鎌倉八幡宮で最期をとげた
のはその二年後であつた。
長明の事を雅経が実朝にどのやうに噂したか、何かの噂のついでに
出たことにしてもいゝ、又長明の事を何と語つたとしてもい1、長明
ヽヽ
の印象は此の将軍の胸にかなり興味多く描かれたといふよりもしんに
ちな
通じ合ふものを感じたに相達ないことはもはや説明を要しまい。因み
に、金椀集に、相州の九十余歳の朽法師があつて話相手に来たりして
そせん
ゐることなども見え、素遅法師との交情も見えてゐる。長明も亦雅経
から実朝のことを何と語られたか。それは将寧といふ棒門としてより
も文人将寧としてでなければならない。そしてその語られる中に必ず
や又それほどに長明に会ひたいといふ笑朝のことについて立ち入つて
実朝の実体が語られたかもしれない。併しそれだけで長明が下向を諾
すると考へるのも未だ早計であらう。私がこ1に漸く想起すのは、長
明が嘗て未季の時代を見届けるためかのやうに、京都の飢死者を四万
二千三百余と算へたり、新都福原にあさましい世の姿を見届けに往つ
てみたり、ふしぎな行動をしてゐた事である。それも普通に見ようと
思つてしたことでなく、何か時代といふものに対して見開いてしまつ
てゐたやうな彼の目がふつと意志を越えて見届けてゐたことである。
私は今敢て彼が将軍の衰滅を見届けるがために意識して往つたとは言
はない。しかしこのやうに意識下に於て、「時代」に対して心憑かれ
てそれを嗅ぎ取らうとして我と自ら足を進めるといふ彼自身の運命の
やうなものを‥彼自身拒香し得なかつたことをこ1に想ひ合せるので
■一〃
ある。そして斯う考へてみて、佐藤春夫氏の小説「鴨長明」が矢張或
意味で突朝を見届けるために密偵として行くといふ一見駕くぺき唐突
な仕組みになつてゐることに私は別の繋きを党えるのである。

実朝と長明の会談、老若二人、一人は老いて尚は事に遇へば若い日
以来いつまでも同じ激趨に陥り易い詩人と、一人は若くして老成して
しまつたやうな文人将軍の、共にどのやうな事を語り、互にとのやう
に相手を洞見し合つたか、口に他の事を語りながらも此の二人は互に
見抜くぺきものを見抜いたと思はれる。将軍に謁すること度々に及ぶ
といふ。しかしそれだけに突朝にとつて、深く共鳴はしても、それは
共鳴によつて結実するものではなく、互の徒労の運命を見透してどう
にもしやうのない退屈さへ感じたかもしれない。少しおそく生れすぎ
あま山T
たか少し早く生れすぎたなどと語り合つて甘酸つぱいものを感じ合つ
たかもしれない。
長明が穎朝を迫懐して「草も木も靡きし秋の霜消えて空しき苔を払
ふ山風」と法華堂の堂柱に書いた歌は恐らくは後碓たる「将軍」の通
ヽヽ一シ
例喜ばざるものであらう。懐旧之涙頻相催とは右の歌によつて史生の
ヽヽ
推量したものではないか。長明が顧朝を懐旧する縁はない筈である。
唯私には右の歌が顆朝の雄心を歌ふよりも、今の将軍のおもかげを藁
仙壇しにして見せた挽歌のやうな思ひがする。「山は裂け海はあせなん
世なりとも君に二心われあらめやも」といふ突朝の発想は「太上天皇
(後烏羽院)御書下頚時歌」で、院の「奥山のおどろが下も」の御製
に相応通する並々ならぬ時代の発想である。しかもこのやうな発想を
.為す者の悲運の時代である。長明の目が、この異常に興奮したり而も
つぢつ
早くも俺んじて変な夢想に憑かれたりする若い将軍の面を凝乎と見詰
めたであらうといふことも想像することが出来る。建保二年二月実朝
が淵酔後病悩の際、彼の帰依してゐた栄西禅師が、良薬として茶一蓋
ヽヽヽヽ
を進め「喫茶養生記」を添へて猷じてゐる。その中に「茶而養生之仙
ヽヽこゝろ
薬也、延齢之妙衝也」とあるのを私は意深く読むのである。長明も実
ヽヽ
朝に自己の「しづか」なる方丈閑居の養生の一端を語つたにちがひな
い。徒労ではあつても。
たく一−し
私に虜に想像を達うせしめるならば、方丈記を書いたのは、慶保胤
の「池亭記」の示唆ありとしても、それと共に又、長明が実朝と周囲
とを見て、今迄見た以上に、時代の行き尽した余りなる姿をまのあた
りに見た思ひを抱き、その感慨底をつくと共に、一方には却つて自分
の中にかすかに生を信じ得るやうな感懐をもつ機会ともなつたといふ
こともないであらうか。方丈記の文未には「建麿の二とせ弥生の晦日
ごろ、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれをしるす」とある。
(昭和十六年四月−十二月)