藤 原 家 隆
一
愛国百人一首に藤原家隆が洩れてゐるのは公平に見て不審で、これは是非家隆の一首がなければならぬ。後鳥羽上皇の御事に関してあの時代の誠忠の心を詠じ、また上皇隠岐御遷幸の後も同じ当代二名歌人にして、定家の冷かな態度とは違つて家隆はひたすら上皇に心通はし奉り、上皇も家隆に仰せて家隆はじめ上皇に疎からぬ諸歌人の十題の和歌を召寄せた萱うて隠岐に於て御歌合(うたあはせ)を催し給うたほどである。即ちこれが遠島御歌合である。嘉禎二年、家隆実に七十八歳であつたし上皇の御序文によると、上皇も今一度この世の思ひ出にとの思召しであり、歌人の中には漸く歌道に入つたばかりの未熟者さへ交るといふ御悲しいことであつたし、また殆ど家隆をのぞけばその十余年の間の和歌は御知り遊ばされなかつたとある。あれはど和歌に御執心あそばされ、都に歌人も多かつたのに、これはまたあまりにお痛はしい御事であつた。と同時にこの家隆より奉つた歌合の諸歌が上皇を御慰め奉つたことがいかばかりであつたかも拝察される。上皇は御自作と家隆の作とを合せたまうた。その折の家隆の作に
さびしさはまだ見ぬ嶋の山里を思ひやるにも住む心地して
かくばかり定めなき世に年ふりて身さへしぐるる神無月かな
と、上皇の御上をしのぴ奉り歎き奉つた歌がある。
二
家隆は三十歳の頃までは歌人としても人に知られるほどでなかつたのに、恰も 後鳥羽天皇御親政の頃、即ち家隆三十五歳前後の頃から頭角を現し、その後の歌壇に活躍し、元久二年新古今和歌集には撰者の一人に選ばれ、当代に定家と竝び称せられる名歌人であつた。後鳥羽上皇の御歌論書の「後鳥羽院御口伝』によれば、「歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌ども詠み集めおきたる多き、誰にもまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」とある。歌になりかへりたるとは歌になりきつたとの意で、また、定家の父俊成は、家隆がいつも「歌よむべき正しき心は如何に侍るぞ」といふことだけを問うたと伝へられ、この卿の態度の誠実さを証する逸話である。生涯に六万首の和歌を詠じたと伝へられてゐるのも家隆らしい一杯さがある。上皇の御信任も殊のほか厚くあらせられた。
憂きながら有ればぞ会へる君が代に数ならすとも身をば厭はじ
四方(よも)の海の波の外まで聞ゆなりはこやの山の万代(よろづよ)の声
「はこやの山」とは上皇御所のことである。これは建仁元年の有名な千五百番歌合の際の詠出で、一つは臣の心を、一つは上皇の御めでたさを、さすがに心満ちて歌つてゐる。
大方の秋の寝覚の長き夜も君をぞ祈る身を思ふとて
これは新古今集撰進の翌年、建永元年に上皇の御所に於ける述懐歌であつた。なほ上皇と申しても当時未だ御二十七歳であらせられ、家隆四十九歳であつた。「身を思ふとて」とは身の忝さを思ふといふ意であることは無論である。
三
承久三年の乱れに上皇隠岐への御遷幸の砌、家隆は六十二歳であつた。
水無瀬川氷踏み分け仕へ来し我が老らくの道は絶えにき
明暮(あけくれ)ははこやの山の方(かた)をのみ思ひやりても猶仰ぐかな
水無瀬宮は後鳥羽上皇の数奇をこめて造営したまひ、最も愛したまひし離宮であつた。それが今はただ悲しくも昔をしのぶよすがとなつてしまつたが、家隆の心にはただの上皇の御遺跡と思ふ以上のものもあつた。
「内々に日吉社に奉納」した五十首歌は、ひそかに上皇の御上を祈り奉つた歌らしいが
忘るなよ寄(岸か:原注)べの水草(みぐさ)うち払ひ君に葵の蔭を待ちつつ
「葵」は花の葵に、「逢ふ日」を兼ねたのであり、上皇の御還幸を切に待ち奉つたのである。
秋風に軒端の荻の答へずば独りやせまし昔かたりを
水無瀬山堰き入れし瀧の秋の月思ひ果つるも涙落ちけり
君が代に憂きも昔の嬉しきも契有りける程ぞ知らるる
上皇との御緑の深きを一人心底に知り定めて慕ひまつつてゐるのである。
頼めよや祈る思の願言(ねぎごと)を神は鑑(かが)みて影うごくらむ
と日吉社にひそかに祈りこめたのであつた。
家隆の家集「壬二(みに)集」下の、「述懐の歌あまた詠み侍りし時」六十四首他数首、また「承久三年七月以後遠き所へよみて奉りし時」十首は、全く遠島の上皇へ寄せ奉つた憂憤慷慨忠誠の歌である。これほど纏つた忠誠歌も古今に珍しいものである。
何か残る君が恵みの絶えしより谷の古木の朽ちも果てなで
上皇に別れ奉つて甲斐なく生きる者の身を歎いたのである。その歎きの中に焼けるやうな憤りがこもつてゐる。
夕暮の無からましかばささがにのいと斯くばかり物は思はじ
「ささがに」は人を待つ夕にその人の来る予徴とされてゐる。上皇を恋ひまつる心である。「ささがにのいと斯くばかり」は、糸と甚(いと)とを掛けて詠んだもの。
幾年の老のなみだに満つ潮の旦(あした)夕べに身を怨むらむ
老身また力弱く独り憤るよりほか手だて知らぬ己を怨む述懐である。なほ「老のなみだ」は涙と波とを掛け、「怨む」は怨と浦とを掛けて、波、潮、浦と縁語となつてゐる。
はかなくも蓬(よもぎ)の宿に迷ふかな野にも山にも道はある世に
これは「奥山のおどろの下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ」との上皇の御歌に寄せ奉つたのであらう。上皇のこの高い御意志に対しわが決意の弱さを責めつつ憤り抑へがたい歌である。
心から我が隠江(こもりえ)の澪標(みをつくし)世をば怨みす朽ちや果てなむ
秋の夜の霜をば霜と置きながら我が身ふけゆく宿の月影
沈鬱の惜しみるばかりである。
皆人の心はくもる末の世に月のみ清き秋の空かな
秋の野となり行く庭に飛ぶ蝶も音(ね)をこそ立てね物や悲しき
悲歌の情を一身に負うてゐるかの思ひがある。
五
武士(もののふ)の新島守(にひじまもり)も心あらば君に悲しき月や見るらむ
申すまでもなく上皇の「われこそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」「同じ世にまたすみのえの月や見む今日こそよそにおきの島守」と畏くも御自身を新島守と擬(なぞら)へたまうたに対し、畏多くて家隆の歌では新島守とは警護の武士を指していひ、もしこの荒武者に心あるならば、君の悲しくながめたまふ月を、上皇の御悲しみを酌み奉つて眺めるであらう、そして思ひ至つて忠誠の心もわくであらうとの意である。
月見ても思ひやられし海山も昔はかくや袖はしをれし
露はなほ風の絶間もあるものを涙休めよ秋の夜の月
月につけ露につけ綿々として上皇御追慕の情はやみがたい。
辿り来しおどろの道も衰へて昔の跡の名をや移さむ
上皇の「おどろの下も踏み分けて道ある世ぞと」開かうと為給へるその道に徒ひ奉つて来たのに、今はその道もいふべくもあらぬ衰へた、あらぬ世となり果ててしまつた。
夏刈の鳥羽(とば)田の面(おも)は荒れ果てて民の煙の立つ空ぞなき
大御代はかくの如く荒れはててしまつた。そして
跡しのぶ宿は蓬(よもぎ)が埋もれて聞きしにも似ぬ松風ぞ吹く
我はまた人も変らぬ姿こそ昔をしのぶ余りなりけれ
或はこの歌は、順徳上皇(後鳥羽上皇御子)の「百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり」の御製をも偲び奉るものか。
頼み来しわが道も亦た跡絶えぬ越(こし)の深(み)山の雪を隔てて
といふ、越の深山を隔つるとは佐渡の 順徳上皇を偲び奉つたものであらう。但し、これはその順徳上皇の御境遇になり代り奉つての詠である、同趣の歌は他にもある。
武士(もののふ)の八十(やそ)宇冶(うじ)川に立つ波のたけき心はあはれとぞきく
武士道を見事に歌つて、しかもあはれ知らぬ武士になり果てたものを痛評したものである。
まことに痛烈である。
六月(みなつき)の神も受けずやなりぬらむ今日の御禊はする人もなし
神国の神事の衰へは、後の国学者本居宣長の明け暮れ慷慨したところであり、明治維新は神祭の復興であつたともいふことが出来るのである。ここにも神事の衰へを慨歎する歌人がある。
今日迄もあるべしとやは思ひ来し三年(みとせ)ぞ長き命なりける
この宿に誰待ちかねて松虫も四(よ)年の秋の露に鳴くらむ
かへる山あるらむ道も待佗びぬ八(や)年隔つる浮雲の空
嘆き佗び十(と)年に向ふ冬の日の夕暮ばかり悲しきはなし
これ三年、四年、八年、十年と待ち佗び奉る臣子の尽きぬ情である。この心あまつて前述のやうに孤島の大君の御心に代つて詠み奉つたらしいものが数首あつて心惹かれる
月見てや数ならざりし我までも都に住めば思ひ出づらむ
人数にもなかつた自分の如きをさへ、都恋しきあまりには思ひ出でたまうて、このやうな御便りも下したまへるかとの、忝さと共に上皇の御心事を拝察したものである。
六
思ふ事心にのみぞ積りゆく言はばまほなる人も無ければ
孤忠を詠じた歌である。家隆の明け暮れの思ひは、
嬉しさの今も仰せの下れかし過ぎにし神代の跡を尋ねて
といふ夢であつた。しかもこの夢も思ひもうち砕かれて、その老身に負ひきれぬ程の憂苦の果は絶望的にさへ詠ぜしめてゐる。
深き谷嶺(みね)になるまで身をなけばやがてなげきと我は繁らむ
「なげき」は欺きと「無げの木」といふを掛けてゐる。
憂(うき)からに世は飽きはてぬ徒(いたづら)に山田のそほづ己(おのれ)のみかは
「山田のそほづ」は案山子(かかし)の事。「飽き」に秋を懸けてある。思ひ呆(ほう)けてゐる己の耄(ほ)け姿をかへりみてゐるのである、そして
世の中に唯一言(ひとこと)のあはれ知れ千々の情は思ひ寄らねば
と切々思ひあまつては、遣る瀬なく
わびしらに幾夜の月をながめつつあはれ我が身に年の経ぬらむ
と欺き、その果は、
今はわれ涙の淵に世の中の憂き度毎に身をや投げてむ
昔こそ和歌の浦人(うらびと)なにをして身のいたづらに老い果てぬらむ
敷島の大和にはあらぬ唐(もろこし)の吉野の山に籠るばかりに
かうした歎きを今の人は兎角消極的といふ定り文句で難じたがるが、それこそただ観念の上だけの賢げな言ひ分に過ぎぬ。この憂悲の至りの中に家隆の独り抱いたその世の誠忠が天地(あめつち)の心を動かすばかりにひびいてゐるのを聞くべきである。
最後に「承久三年七月以後遠き所へ詠みて奉りし時」十首の中から掲げたい。いふまでもなく上皇の都を立ちたまうて以来のことである。
頼みにし八雲の道も絶え果てぬ君もいづもの恨しの世や
思ふ方西北風(あなしのかぜ)に言問へば涙ばかりぞ袖に答ふる
寝覚めして聞かぬを聞きて悲しきは荒磯波の暁の声
まことに現実(うつつ)には聞かぬ遠島の荒磯に荒らかに打寄せて砕け鳴る波音も家隆の耳には聞える、上皇の御悲憤の御心にひびき応ずる断腸の声である。増鏡にはこの歌につき次のやうに記してゐる。
「家隆二位は新古今の撰者にも召し加へられ、大方歌の道につけてむつまじく召し使ひし人なれば、夜昼恋ひ聞ゆること限なし。かの伊勢より須磨にまゐりけんも(註、源氏物語にある事)斯くやと覚ゆるまで、巻き重ねて書き連ねまゐらせたる和歌所の昔の面影かずかず忘れ難うなど申して、つらき命の今日まで侍ることの恨めしきよしなどえも言はずあはれ多くて
ねざめして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯波の暁の声
とあるを、法皇もいみじと思(おぼ)して御袖いたくしぼらせ給ふ。
浪間なき沖の小島の板庇(ひさし)久しくなりぬ都へだてて
木枯の沖の杣(そま)山吹きしをり荒くしをれてもの思ふ頃」
そしてまた、いろ/\な都のごとどもを、ほのかに伝へ聞し召して、上皇は尽きせぬ御歎きぐさのみ茂り添ひ、わづかな慰めとしては、思ひ馴れたまうた敷島の道のみ、御心を遣りたまふのであつたが、都へも便につけて歌の題を遣はして歌を召したまふので、あはれに忘れ難く恋ひ申し上げる昔の人々が我も我もと和歌を奉るのを御たのしみにし給う花のを、家隆も、今まで生きてきた思ひ出にと他人々(ことひとびと)の歌をも取り集めて御送り申し上げたのを、上皇がその遠島に於て歌合せしたまうたのであつた。この遠島御歌合こそは上皇の御一代のそして敷島の道の史上最も痛切の御事であり、また家隆卿の忠誠の凝つて成つた、上なきしるしであつたのである。しかも神ながらの言霊の道をここに拝して尊さかぎりないものである。