第二〇〇号(昭一五・八・一四)
所 信
文部大臣 橋 田 邦 彦
私は就任後未だ日が浅いため、文部行政各般にわたる具体的事項については、今日その詳細を尽すことを得ないが、わが国文政(ぶんせい)の根本方針については、既に大要を発表したので(週報一九九号掲載)、こゝでは文政の根本を更(あらた)めて説く煩(はん)を避け、私の所信を簡単に述べたいと思ふ。
教学の刷新 −
これは日本教学の研究とその振興といふことに帰着する。これは日本文化の、引いては東亜文化を推進する根幹となるものであつて極めて重要なことである。即ち、これによつて國體の本義、國體の精華を発揚する学的基礎を確立せんとするのである。
科学の振興 −
科学の振興がやがて教学刷新である如き心構へが出来なければ、真の「日本科学」は振興出来ないことは特にこの際注意しなければならないことである。「日本科学」といふことはよく誤解されるところであるが、日本独自の立場から欧米の科学を指導するが如き科学の建設をいふのである。従つて科学「者」は、先づその精神を把まなければならなと同時に、科学が国民生活の中にしつくり融け込むやうにしなければならない。これを実現するには科学教育を改善しなければならないのであり、それ故科学教育は単に科学者の養成だけを目的とするものであつては不充分であつて、国民一般の科学的教養の水準を高めることが企図されなければならない。それが為めに、自然科学の基礎的竝びに応用的研究の振興と、人文科学研究の振興が実現せられることが必要である。これは学制改革と相俟つて、大学、専門学校、研究所の充実整備を実現すると共に、各分科科学の綜合に向つて重大な顧慮を払ふ必要が差し迫つてゐる。
学制の改革 −
これについては、既に、教育審議会の決定によつて実施に着手してゐるが、将来は、これを根幹として順次、中等学校、高等専門学校、大学にまで及ぼし、特に師範教育の改善については、充分の考慮を致したいと考へてゐる。
更に学制の改革にとつては、学徳一体の主旨を徹底せしめるところが眼目であり、これによつて始めて綜合的統一的な「学」が生れる。従って学制の形式及び内容を適当に改善する必要に迫られてゐることは事実であつて、そのことの一端は既に国民学校実に於て実現せられんとしてゐる。
学生問題 − 最近、時局に関連して、学生の問題が、いろいろの方面から批判されてゐるが、私は、この問題については次のやうに考へてゐる。即ち、学生のことを批判する場合は、先づ学生の社会性といふことを考へねばならぬと思ふ。つまり学生は将来実社会で活動する基礎を作つてゐるのであつて、未だ親の脛を噛つてゐる状態にあるのであるからそれを既に自活してゐる社会一般人と同様に考へることは、非常に無理があると思ふ。勿論、学生の方に於ても、脛噛りは脛噛りらしく学生本来の使命に徹し、時局下一段と緊張しなければならないのは当然である。
従来やゝもすれば、いはゆる学問は心の問題であり、体育は身体の問題であるといふやうな考へがあつたやうであるが、かゝる精神と身体とを分離対立せしむるが如き抽象的観念を打破して、「学問する」とは「身心」の練磨であり、「体育」も亦同様に「身心」の鍛錬であることを、青少年諸君各自の学問及び体育の実践生活から自覚し来らなければならない。これを広く言へば「物心一如」の建前を各自の体験によつて体得し来らなければ、真の国家奉仕の信念は樹立されず、また真の皇国民たり得ない。青少年学徒諸君の奮起を待望せらるゝこと今日より切なるものはない。諸君の溢れる熱情を尊皇愛国の至情たらしめるやう切望する。而して真に国家に奉仕せんとするには、先づ皇国民として自己が把握され、そして個我から脱落しなければならない。国に捧げるに価する自己を提(ひつさ)げて捧げなければならない。
教員の優遇問題 −
私は教学刷新の方策中に師道の昂揚といふことを、特に取上げて置いたのであるが、この師道の昂揚といふことは、取りもなほさず教職員の素質の向上、地位の向上を意味するのであつて、これがためには教職員の待遇について、この際、徹底した方策を講じなければならないと考へてゐる。私は、この事が解決しない限り、教職員の他部門への転職を抑へることはおろか、師範学校が専門学校になつイも、優秀な人材を得ることは頗る困難であると考へてゐる。
試験制度 −
従来の智育偏重を排し、今年からは新らしい試験制度を採用してゐるが、この問題については、その狙つてゐるところは正しいとしても、未だ足りない点もあるやうに思はれるので、今後はその内容を一段と検討し、足りない点を補足充実して、充分な実効を挙げるやう努力したいと考へてゐる。
学問の真義 −
最後に一言したいことは学問といふことである。近来学問といへば、知識の獲得だけのことのやうに考へられてゐるが、それは学問の一部である。又学問とは、いはゆる科学のことのやうに考へるものもあるが、いはゆる科学も亦学問の一部に過ぎぎない。いはゆる科学が「教学一如」の建前で来るとき真に学問となる。獲得された知織が「道」となつて動くとき学問になる。学問とは人となる「わざ」である。吾々に於ては日本人となる働きの凡てが学問である。人の人としての働けるものになることが学問である。即ち学問とは吾々に於ては皇国民となる修行である。而してこの修行はあらゆる分野の国民がその「分」に応じてまことを尽すことである。言換へれば、吾々の皇国民としての生活そのものが吾々の学問である。肇國の精神に則り、近くは五ケ條の御誓文、教育勅語、軍人に賜はつた勅諭に於て御示しになつた聖旨の誤らざる奉戴が吾々の学問である。五ケ條の御誓文に上下一心、教育勅語には一徳、御勅諭には誠と仰せられてゐる。これが吾々の拳々服膺しなければならない所である。それが真の学問である。博く学び、審(つぶさ)に問ひ、慎しんで思ひ、明らかに弁へ、篤(あつ)く行ふ、これが学問である。
第二〇〇号(昭一五・八・一四)