仇敵の間に立ちて
       ニイチェの抒情詩から


 ナポレオンの偉大さは、彼が太鼓を鳴らして陣頭に立ち、百万の民衆を麾下に指揮したといふことではない。反対に、彼の偉大さは、すべての常識的輿論に反抗し、すべての浮薄な時流思潮を一蹴して、自己の信ずる新しき世界の創造を、オリヂナルに行為したといふことにある。
 フリドリヒ・ニイチェが、文学者としてその道を行動した。彼は当時の独逸的なるあらゆる輿論と、独逸的なるあらゆる文化思潮に叛逆した。彼は純粋に孤独であつた。一人の同志もなく一人の善き理解者も持たなかつた。民衆も、教会も、文学者も、批評家も、愛国者も、進歩主義者も、帝国主義者も、社会主義者も、ひとしく皆彼を悪んだ。なぜなら彼は、常に単独にエゴを主張し、それらの如何なる「党派」にも属しなかつたから。のみならず彼は、それらの党派人一般に対して挑戦した。
 ニイチェの周囲は、常に群集の仇敵によつて囲まれて居た。彼はただ一人であり、適は多勢の群集だつた。しかも彼は孤独で戦ひ、仇敵の間にあつて高く歌つた。

  そこには絞首台、ここには索(ひも)、
  絞刑者の赤き口髭
  取り巻ける群集の毒悪のまなざしと――
  その何物も我には新しからぬかな!

 その何物も我には新しからぬかな! といふ時、彼の瞳孔(ひとみ)は、俗衆へ吐きかける唾(つばき)と、憎厭と軽辱の情に充たされてる。絞首台の上に立つて、かくも冷然と群集を嘲笑するところの詩人は、さらにまた歌ひつづけて言ふのである。

  これを我は百度(たび)も見て知れる故
  汝等の面前にして嘲笑ひつつ呼ばはらむ。
  「我が首を絞むるも用なき業ぞ。
  死ぬとや? 否、否、我は得死なじ!」

 古来幾多の「義(ただ)しき人々」は、かうして俗衆から殺されたのである。しかしながら彼等の「真理」は決して永久に死ななかつた。「これを我は百度も見て知れる故」と言ふ時、ニイチェの心は強き自信に充ち切つて居た。それ故に「我が首を絞むるも用なき業ぞ」と、彼の正論を恐れる卑怯な小人輩の漫罵に対し、昂然として壇上に豪語するのである。

   汝等は乞食! 汝等の遂に獲ぬものを
   わが上に汝等羨望するなれば!
   わが苦しみを苦しむこともとよりなれど
   汝等は死ぬなり、死ぬなり、死に行くなり!

 「汝等は乞食!」と一喝する時、孤独の詩人ニイチェの憤怒は爆発した。義人は常に真理を求め、真理のためにのみ論争し、真理のためにのみ公憤する。然るに俗物は真理を知らない。俗物はただ嫉妬のために、自己に持たない智慧や才能やを、他人に見ることの為に私憤し、天才の首を絞めることによつて、自己の卑劣な復讐をしようとする。まことに俗衆とは、手に暗殺の兇器をかくして、他人の幸福に羨望するところの乞食である。「わが苦しみを苦しむこともとよりなれど」と、自己の免れがたい運命を知り、悲しげに痛み泣くところのニイチェは、さらにその自己の悲哀を群集に突きかへして「汝等は死ぬなり、死ぬなり、死に行くなり!」と、悲痛にも絞首台の上で足踏みしながら、地団太ふんで絶叫してゐる。

   百たびの死地をくぐりても尚ほ
   我は息なり、蒸発気なり、光なり!
   「歩が首を絞むるも用なき業ぞ。
   死ぬとや? 否、否、我は得死なじ!」

 百度の死地をくぐり、常人の仇敵に囲まれても、まことの真理は決して亡びず、永遠の息となり、水蒸気となり、普遍の光となつて照すであらう。彼の先輩も、友人も、文壇も、ジャーナリズムも、すべて皆ニイチェの誹謗者となり、あらゆる漫罵と仇敵の中に囲まれながら、孤独に忍んで強く戦ひぬいた詩人ニイチェが、「死ぬとや? 否、否
我は得死なじ!」と歌ふ時、さすがにその心は傷つき破れ、抒情詩への救ひを求める、悲しい戯欷に充たされて居たであらう。

  詩は生田長江氏の訳による。「仇敵の間に立ちて」といふ標題は、ニイチェの原話題であり、ヂプシイの楽題から取つたものだと言ふ。