詩人と大衆


224
孤濁な、密閉した部屋の中に、一人の友人もなく住んでゐる人は、常に群集と共に生活してゐる人だ、とい
ふ意味の言葉をボードレエルが言つてゐる。それは本官である。友人を多く持つてる者は、常に友人との談話
 つ
に憑かれる。薫渡や所属を持つてる者は、常にその薫汲や仲間に憑かれる。文壇やジャーナリズムに属する人
は、常にまたその楽屋内の思想に憑かれる。ただ一人で孤濁に住んでる人は、彼自身の魂としか謡ができない。
そして一人の人の眞賓な魂は、常に必ず常人に通じて普遍するのである。そこで孤濁者の告白する奉術ほど、
一般的な大衆性を持つといふ逆説が成立する。
 ところで詩は1どんな種類の詩であつても−本質的に孤濁者の蓼術である。詩人は常に文壇から孤立し、
ジトーナリズムに反目し、友人もなく窯汲もなく、孤濁な密閉した部屋の中で、自分の魂とばかり話をして居
る。かうした種類の文学は、際モノの流行を迫ひかけたり、文壇楽屋内の下馬評に熱中したりしてゐる人々に
                                如
悦ばれない○彼等は裏長屋の女房と同じことで、隣近所の人々の噂話を、井戸端督議ですることにしか興味を
持たない。だが井戸端合議の話題は、彼等と交渉のない一般大衆に興味がない。大衆の求めるものは、常に特
殊でなくて普遍であり、発足でなくして舞壷である。
 それ故に誇の讃者は、常に文壇人でなくして大衆人である。たとへボードレエルやグァレリイの詩が、事葦
ノベ′ ¥ 1〈   j串 ‖汁
ズ破感彗
                                ∬ョ」一。一jd
する精神そのものは、常に群集と共に生活し、大衆の中に適
     一っ;.う)題一一】一】
∃川dl]8届−一男一一一】一用
じて居るのだ。故にアランも、詩は常に大舞壷の上に立つて、多数の公衆に話しかけると言つてる0詩人自身
の主観で言へば、いつも孤猫に生活して、自己を語つてるに過ぎない○しかも公衆の方から見れば、それが舞
真の上で話しかけてるやうに見えるのである。
 大衆の心は詩に通ずる、といふ意味は、大衆が常に蜃術の正しい健全な批判者だといふ意味である0大衆は
常に、彼等が生活してゐる現箕の社合を知り、現資の文明を知つてる0大衆が苦しんでることは、現賓の日本
の祀合と文明とが、現葺に苦しんでることなのである0大衆は決して、有りもしない杢虚な観念の幻影などか
ら、芝居がかつたハムレットの眞似などしない。例へば日露戦争常時、日本が漸く初めて新興資本主義園に成
上つた近代文明の第一世紀に、欧洲十九世紀末の自然主義思潮などを輸入して、痛くもない頭に頭痛鉢巻をし、
日本人の資生活に有りもしない世紀末的嘆息などついたりしない0そんな観念の風船玉文学、資生活を根抵と
しない虚無の室中文学など、大衆は決して讃まうとしなかつた0文壇人が自尊して言ふやうに、大衆が無智で
馬鹿だからではなく、反封に大衆の聴明さが、それのニセモノであり、ヨタの作り物であることを知つてたか
らだ。
大衆が悩み苦しんでることは、現資の日本の牡曾に於て、現に僕等が悩み苦しみ、痛切に資生活して居るこ
とだけである。大衆は決して、人の頭痛を我が身に病み、緑もない外国人の時代思潮など考へはしない0大衆
はただ、彼等の現賓の生活だけを、正直に書いてくれる人を求めて居るのだ○所でだれがそれを書くだらう
か↑ それを書く人は一人しか居ない。自分の孤濁の部屋に一人で居て、自分が現に寮生活してゐるところの、
この現資の杜合の悩み、現賓の日本人の悲しみを、我と我が心に訴へ告白するところの人、即ち眞の意味の詩
エ方 詩人の使命

■巨卜E1.1トト巨r
人である¢もろもろの虚妄に充ちた世の中では、詩人だけが常に民衆の味方であり友人である。
 文拳の邪道に堕した危期に於ては、常に大衆を鏡とし、大衆の求めるところを見ることが必要である。特に
インテリ階級の一般公衆、文字を理辞し、書物を求めてゐるところの知識人種を、正しく見ることが必要であ
る0大衆の欲求するところは、常に文肇の現質的な正官性である。彼等はいつでも、自己の生活に必要な奉術
だけを選び、必要のないものを取らうとしない。この鮎の秘密をよく知つてるのは、「講談雑誌」や、「キン
グ」や、「賓話雑誌」や、その他の通俗雑誌の編輯者である。だが彼等のジャーナリズムは正常でなく、却つ
て排撃すぺきものを持つてゐる。
 大衆の悪いことは、理想を持たないといふことである。大衆はいつでも、その指導者が居ない限り、文化の
饅展に関して無頓着である。大衆は常に蜃術をエンヂョイする。しかしながら鑑賞しょうとするところの努力
を持たない0そしてこの努力が無い限り、肇術の教展は決してない。大衆に季術を任せておいてはならぬ。も
し彼等にそれを任せておいたら、拳術の歴史は中絶して、永遠に長い間、同じ一つの古いものが繰返される。
即ち嚢術は泥滞して腐つてしまふ0大衆は琴乙ず教育し、指導してやらねばならぬ。ただ必要なことは、誤つ
たウソの教育でなく、正しい健全な教育をすることである。
 通俗雑誌的ジャーナリズムは、大衆に封していつも甘口の駄菓子をあたへ、大衆の歯と胃袋とを害すること
で非難される0畢に駄菓子をやるばかりでなく、ジャーナリズムでそれを悪指題し、大衆を下位の方へ低く導
くことで、二重に晋意を非難される0今日、日本に流行してゐるあのおびただしい大衆文拳や通俗文学やも、
また同じ理由によつて害毒である0我等はそれを排斥しなければならない。だがその前に、今日何故それが流
行するかといふことを考へねばならぬ0たとへ駄菓子にもあれ筈毒にもあれ、大衆はとにかく自己の必要とす
る失費を求めるのである0そして彼等の必要とする文学とは、今日現代の日本に放て、現貰する文化と社台頓
22∂
虚根ざす文筆、郎ち彼等の箕生活する文筆を求めるのである。然るに所謂「文士」と辞する偉い人々は、
一‥タパ表題
すべて文壇内部の楽屋にのみ生活して、大衆に興味のないゴシップばかり詩をして居る。彼等の小説は、その
人々の仲間内や、作家志望の文学青年にだけ、即ち言へば、その仲間同士の符牒や暗競を知つてる人々にだけ
興味がある。彼等は大衆の賓生活を書いてくれない。それ故に大衆は、すくなくとも或る程度まで、一九三〇
年度の現代打本文化と日本の紅合情操とを、正直にカケ俺なく書いてくれる通俗小説の方を悦ぶのである。
 しかしながら文拳の高い意義は、大衆の好むところによつて物をあたへ、逆にまたそれの物質的報酬を求め
るやうな、卑しい宰人根性の者である筈がない。文学の高い意義は、文化の師表として人心を指導することに
存して居る。ではそもそもまた、人心を指導するとは何ういふことか?
 前に既に書いたやうに、大衆の寮生活するところのものは、孤濁の詩人が常に貰生活して居るところのもの
である。大衆の生活と詩人の生活とは、いつもその情操を同じくして居る。しかしながらただ、次の一つの鮎
           イデア
でちがつて居る。大衆は理念を持たない。大衆は現賓の中にのみ生活し、現賓と共に考へ、現音と共に悲しん
                       イデア
でゐる。大衆の苦悩は畢純である。然るに詩人は理念を持つてる。詩人は「現にあるところ」の世界の外に
「正に有るべきところ」の世界を求め、夢を迫ふ熱情の中で悶えて居る。彼等は現賓の社合に生活しながら、
しかも現賓の敢合を呪つて居る。詩人は常に飛躍しょうと考へてる。故に詩人の苦悩は二重であり、現賓と理
想の矛盾によつて苛虐されてる。そしてこの苦悩の二重性が、それ自ら文学の本質する箕饅的意義となつてる
のである。即ちその二重性の一方の面(現寮生活)が、大衆の心にその資生活の如資な表現として映じながら、
一方でその作家の掲げる理念が、より美しく償値のある世界の方へ、讃者を指導し引きあげて行くのである。
世に「楽しみながら教育する」といふ言葉があるが、それの卑俗的な功利観を除いた意味で、蛮衝の大衆に於
ける意義がそこにある。大衆は一方で賓術をエンヂョイしながら、一方でその文化情操を教育される。そのエ
22′ 詩人の使命

ンヂョイとその教育と、両面を持たないやうなものは、眞の正しい意味の肇術ではない。
 それ故に最も書き拳術家は、一面に於て常に大衆の最も書き教師である。最も書き教師とは、彼自身の内部
に於て、最も高い実の理念への、最も強く燻烈なあこがれを持つ人、即ち言へば眞の天質的な詩人である。詩
人とは、単に孤濁な文学者を指してるのではない。詩人の定義はロマンチスト(夢をもつ人)といふことであ
る。そしてそれ故に、詩人こそ文化と民衆の指導者なのである。彼は文壇とも交渉なく、ジャーナリズムとも
隔離して居り、全く濁り世外に超然として孤立して居る。彼はマルキシズムの流行も知らなければ、行動主義
の流行にも無関心で居る。彼の関心するのは、文壇的の流行や思潮でなくして、彼自身の寮生活してゐる現貴
社合の事ばかりである。文壇的に考へれば、詩人は常に超然として孤立して居る。だが杜合的に考へれば、詩
人は常に群集と共に生活して居る。それ故にこそ、詩人は常に言はれる如く、最も正しい意味での「文明批判
家」であり、「文化の指導者」なのである。それは文壇的思想家等が、観念としての新思潮や新文明を、ジャ
ーナリスチックに論ずる意味の批判家ではなく、異に大衆の生活する現賓世相の文化そのものを、自己の寮生
活する膿感によつて、悲しみ、悦び、苦悩しながらするところの批判家なのである。それ故にまた、詩人の批
判する文明だけが、常にその賓鰹を有する「現賓の文明」なのである。
22β
′/短音
n汁‥ト転抄 一1  上 方「