日本詩と思想性


 日本の詩人の映鮎は、批判力(思想)が無いといふことである。そのため日本には、ゲーアやシルレルのや
うな詩人は勿論、ハイネ、パイロン、ボードレエ〜、コクトオ、ヴァレリイのやうな詩人も出ない。此等西洋
の詩人たちは、抒情詩の作家であると共に、何れも鋭い直観的の叡智によつて、一流の文明批判家を兼ねたと
ころの人々だつた0西洋で詩人が高く尊敬されるのは、ギリシャ以来の俸統観念にもよるけれども、一面には
また彼等が、高貴なエスプリを持つた文明批判家であることにもよるのである。
所で日本の詩人といふ連中は、芭蕉、西行の古から、有明、白秋の現代に至るまで、何れも世外風塵の外に
遊んで、濁自の宇宙に風雅を楽しむ顆の人々であり、政令や人生に批判的関心をもつところの、西洋流のジャ
ンルに属する詩人ではない0稀れに牡合的関心を持つ人々(祀合主義的詩人など)が有つても、多くは非番術
的粗野の政治意識によるのであつて、コクトオやヴァレリイなどに見るやうな、眞の詩人的叡智によるところ
の、眞のインテリの拳術的文明批判家ではない0何故に日本の詩人は、かうした批判力を所有せず、思想的に
貧困して居るのだらうか↑ しかもこの事資は、↓古の歌人俳人から、現代の自由詩、新饅詩人に至るまで、
歴史的に一貫してさうなのである。
 そもそも思想するといふこと、批判するといふことは、すぺて相封関係の認識から始まつて来る。自我が洋
然としで二である時、批判は未だ始まつてない0自我が二個に分裂して、認識主饅と認識客憶とに別れる時、

一初めて此鹿に懐疑が起り、批判と思想とが生れるのである。所で西洋の文明は、▲原始から相封一関係の文明だづ
た。そこでは「人間」が 「自然」と封立し、「紳」が「悪魔」と対立し、「塞」が「肉」と対立し、「自我」が
「非我」と封立して居た。そしてしかもこの対立は、一方が一方を征服するか、一方が一方に征服されるかと
言ふことの、不断の争闘の封立だつた。西洋の文化に於ける、すべての 「思想」はかうして生れた。支那と印
度の文明は、宇宙を相封の関係から、絶封の一如にまで統一しょうとして出優した。老子の哲学とウパニシャ
ツドが、西洋の封舵に於て、東洋の文化精神を高調した。しかし彼等の東洋思想は、結局言つて西洋思想の排
澄論的止揚であつた。正と反との相封関係は、老子によつて紳澄的に統一され、上位の 「無」 にまで止揚され
た。しかしながらその上位の無は、さらにまた上位の「有」に相封され、無限にその螺旋梯子針登つて行き、
結局眞の絶対に到着できない運命にある。そして此虞に、支那古家の哲孝思想と、印度廣汎の俳敦思想とが胚
胎した。
 世界の中で、濁り日本だけがかうした「思想」を持たなかつた。なぜなら日本人は、支那や印度の紳澄論的
絶封観を、理智の抽象観念として受取らないで、直ちに身を以て慣験し、自我の生活の中に捉へたからだ。支
部人や印度人やは、その園語の似て居る如く、元来西洋人とよく類似した人種である。彼等の文明は、饅生的
に西洋と同じであり、昔から西洋人と同じやうに物を考へ、同じやうに宇宙を見て居た。彼等の場合で「東洋
的」といふ意味は、「西洋的」といふ意味の耕讃論的逆説にすぎないのである。世界の中で、ただ日本だけが
顆例のない特殊であつた。日本人の文明は、東洋のそれでもなければ、西洋のそれにも属しない別物であり、
初めから「思想」といふものを所有しないで出優した。即ち別の言葉で言へば、僕等の文明には「自我の分
裂」といふことが無かつたのである。そしてその故に、世界でただ日本人だけが、眞の 「絶封」といふことの
意味を知つてゐた。
J7j 詩人の使命

それ故に是の完、特に就中日本の「詩」は、世界に顆のない特別の讐をした。西洋の詩は勿論のこと、
支彗印度の詩も、その琵の形態を自由に駆つて、昔から盛んに哲雷管、人生を論じ、政治を諷し、思
想的な内容を多分に盛つた0濁りただ日本の詩は、記紀の雲以来、純然たる抒情詩を以て毒して来た。日
本の歴史を通じて、抒情詩以外の如何なるポエムも過去になく、そして伺現在にも無いのである。この董は、
単に詩の形態ばかりの問題ではない0詩的精神の本讐のものからして、日本は外国とちがつて居るのだ。西
洋の詩人は勿論のこと、完の詩人といふ人々等も、すべて皆表に於て政治家であり、折峯者であり、文明
批評家であつた0すくなくとも彼等は、政治や、霊丁や、文明や、人生批判やに、熱心な関心を持つ人々だつ
た0それ故に嘉では、「詩人」といふ名が、時にしばしば「志士」や「国士」を意味して居り、西洋ではま
た詩人の名が、文化指導者としての「哲人」や「批評家」を意味して居る。
世界の中で、濁り日本の詩人だけがちがふのである0是で「詩人」といふ名は、志士でもなく哲人でもな
く、昔から常に「風流人」を意味して居た0風流人といふのは、薫風月の自然を友とし、俗塵を避けて世外
に悠遊するところの人を言ふのだ0日本の詩人が思惟するところは、すぺての人間的相封関係を脱却して、自
然と共に一如と化し、絶封至実の三昧境に入ることだつた0そしてこのイデアが、それ自らまた「風流の理
念」なのである0風流といふ言葉は、今日の歌人や俳人たちにょつて、自然観取とか、焉観入とかいふ顆の
新しい言葉に入れ換へられた0しか貪葉の盲さや新しさにかかはらず、依然として日本の詩人は、今日璧日
∫ア∂
ながらに風流人なのである。
「一

詩が風流をイデアする限りに於て、それが人間生活の芙に翌し、完の潮流と汲交渉になるのは官然で
ある0それ故に是の詩は、背から文化の潮流と交渉なく、孤立に濁自の世界に住んで、河上徹太郎氏の所謂
「卑怯生殖しを綬け宗た0妄外国では、詩が常に文壇の新思潮を表象し、詩人が文化を指導して来たので
ご攣T
ある。そこで外国の詩人は、文化の本渡的な意味に於けるジ†Iナリストの地位にあつた.これが日本は特別
であり、詩人といふ語のどんな意味にも、ジャーナリストの展性が少しもなかつた。芭蕉や西行や人磨やは、
人間文化の俗事を嫌つて、濁り神仙のやうに山に隠れ、自然を友として悠遊して居た。詩人がジャーナリスト
であるといふことは、日本に於て詩人の恥と考へられ、詩人らしからぬ俗臭事として揖斥された。
 それ故に日本では、今も昔も同じやうに、詩が文壇から濁立し、世外に立つて仲間はづれに孤立して居る。
今日現代の日本に於て、詩と呼ばれてる文筆には、和歌俳句の俸統詩の外、明治以来の新饉詩(自由詩を含め
て)があるが、その文化思潮から速く隔離し、文壇から仲間はづれにされてることは、和歌も、俳句も、新饅
詩も、すぺて皆同じである。ただ以上三者の中で最後の新膿詩だけは、出費に西洋の詩を模倣したものだけあ
つて、それの意識的に掲げるイデアとしては、努めて風流を排斥し、文化的使命を持つた西洋詩の本義の方へ、
自ら近づかうとしてゐることで、他の和歌や俳句と目的性を異にして居る。だがそれにもかかはらず、資質的
によく観察すれば、彼等の新しい詩人と雄も、やはり古い俸統の中に育つたところの、俸統的な日本人にしか
過ぎないのである。それらの多くの詩と詩人とは、星を歌ひ、童を歌ひ、ハイネを叫び、ゴルレーヌを呼び、
象徴を稗へ、表現汲を自縛してゐるけれども、詩的精神の本源に於て、現代文化の世相に封する懐尿や批判を
持たないところの文学であり、本質的に俸統の日本詩と同じく、一種のハイカラ風流文学、モダン筏鳥風月詩
人に過ぎないのである。したがつて彼等の詩と詩人とが、文壇から世外人扱ひにされ、和歌俳句の作者と共に、
風流人扱ひにされてるのも嘗然である。
 だがこの「首然」は、それを嘗然に承知して好いのであらうか? 和歌俳句の俸統詩は、正にそれで好いの
か知れない。だが我々の新しい詩文畢 − それは日本詩の新時代的な革命を理念して出態した − が、自らこ
の官然を官然とし、モダン風流詩に納まつて好いのであらうか。考へるべき問題は此虞にあるのだ。
J7ア 詩人の使命

俸統が如何に抜きがたく、日本人の観念にある「話」といふものが、風流以外に存在し得ないかと言ふこと
は、何よりもよく雑誌記者が澄明してくれる○即ち月々の文学雑誌で、僕等の詩人に証文して来る課題は、極
つて皆季節に関する衣鳥風月の感想である0毎年五月になれば、極つて初夏新緑の記を書かせられるし、毎年
九月になれば、何虞かで必ず仲秋明月の記事を註文して来る。俳人でもなく歌人でもなく、自ら日本のボード
レエルを以て任じてゐる僕等の詩人は、この種の雑誌作文に封して頭を掻き、いつも苦笑坤吟せざるを得ない
のである0そして同時に思ふことは、日本に於て風流以外の詩文寧を思惟することが、如何に非俸統的に無謀
な計量であるかといふことである0それほど国民の中に深く弛み込んでゐる「詩」といふ俸統の観念を、如何
にして僕等の微々たる小群囲が、一朝二夕に新しく縛廻することが出来ようか。これを思ひかれを考へれば、
僕等の新しい詩の出饅が、最初から既に悲劇的な破綻を宿命して居た。それは絶望的に無謀な夢であつたとさ
へ思はれるのである。
 しかしながら僕等は、既にこの無謀をあへてしたのだ0問題は未来に亙り、絶望を可能ならしめることの夢
と希望にかかつてゐる○そもそも根本の宿題は、現在する混沌過渡期の日本文化を、如何にして、何虞へ、正
しく導くべきかと言ふ一元にかかつて居る0俸統廃れて建設成らず、和洋混沌たる現代日本は、すぺての目的
性を失つた悩みである○しかも日本の大きな悲哀は、我等が世界の「若きアメリカ」である日本でなく、蒼古
二千像年の歴史を過去に持つた「老いた日本」であると言ふことである。若き未開のアメリカは、何の辟躇も
なく懐疑もなく、無批判大腸に欧洲の文明を自家に取つた。然るに僕等の日本人浮、過去に長く美しく生育し
た、立汲な完全の文化を持つてゐる○明治初年のエキゾチシズムと好奇心とは、蒸汽船の夢に魅せられて西洋
を崇拝し、自ら日本を「牛関野攣」と卑下したけれども、一時の欧化熟が醒めた後では、自国の俸統する文化
について、今更その無比の高貴さと美しさを痛感し、前に破壊したことを、後に悔恨してさへ居るのである。
Jアβ
■題礪濁頂糸パL
.しかしながら時勢は移る.眈に→旦銀座衝を煉瓦にし、汽車汽船の走る文明開化の世にした以鳥もはや僕
等は昔の家郷に顕れないのだ。破壊はどこまでも加速度的に進行して行く。何人の手も、決してこの時勢の力
を拒ぎ得ない。神風達式の囲粋主義者は、今日に於て自滅する外にないであらう。今日のパイロットは、ただ
この混沌たる渦巻をして、渦巻のままに任せながら、最後にその静止する安定を待つ外にない0即ち詳しく言
ひ換へれば、今日の混沌たる外来文化を、日本的な精神の中に滑化し、未来に於て自家に統一する時機を待つ
のである。過去に我等の日本人は、支那の外来文化に接して混乱され、後にそれを滑化して自家の骨肉にした0
西洋に対しても、必ずまた同じやうにやるだらう。
【墟儲題Z
 此虞に於てか僕等の詩人が、今日行為すべき理念は決定される。即ち今日直前の問題として、由洋を出来る
だけ多く学び、後に自家の骨肉となるべき要素を、多分に績取することが必要なのだ○そもそも西洋と東洋、
外国と日本との対比に於て、何れが文化的に優秀であるかと言ふやうな質問は、此虞で全く提出する必要がな
いのである。なぜならその何れにしても、日本は永遠の日本であり、すべてのこの囲に輸入された外国文北は、
所詮して我々の食物−その一部は血肉となり、他の一部は糞便として排泄される1に過ぎないからだ0
 前にこの論文の初めに於て、日本人の宇宙観が、相封的でなくして紹封的であり、西洋は勿論のこと、支那
ゃ印度の東洋外国ともちがふことを言説した。そしてまたこの原因から、日本人に「思想」や「批判」の無い
ことを論じた。今日和歌や俳句を作る国粋の詩人たちは、この鮎で日本の詩歌の特殊性を高調し、その思想的
要素の無いことを以て、却つて国粋詩の世界に充たる長所(絶対知の長所)だと自誇して居る0たしかに、或
はさうかも知れない。だが今日官面の日本としては、侍統の保存された美を誇ると共に、現に僕等を懐疑し動
乱させて居るところの、直前の外国文化を自家に靖取する必要があり、そしてこの方が眞にもつと必要なの
だ。
J79 詩人の使命
▼ 巨

おそらく日本の詩は、未来に於て再度また国粋的に統言れ、今日の和歌俳句に顆した壷の新しい韻文に
成るであらう0だがその耳化的完成の未来が来る迄、僕等の首面の問題として、西洋の相対的宇宙観(慧丁と
科挙の根捷)を自家に学び、併せてまた西洋の蓋丁が救援してゐる、西洋の詩精紳を自己に癖取する必要があ
る0谷崎潤一郎氏にょれば、科挙も、哲学も、物質文明も、すぺて西洋から外来した一切事物は、日本の国粋
精神と合はない故に、きれいに髭斗を附けて返してしまへと言ふのである。だがこの扶夷思想に賛成できない
僕等の詩人は、却つて逆に日本の詩人に、西洋を畢ぶことをすすめるのである。三木清氏は言ふ。今日の日本
の場合は、むしろ拳術の純粋性を犠牲にしても、西洋の相封文化を寧ぷことが必要だと。然り。正に自分もそ
の如くに、日本の詩人諸君に言ひたいのである0むしろ俸統を破壊し、日本語の特色や美を犠牲にしても、今
日官面の場合として、西洋詩のイデアに近づき、詩と詩人との観念を、新しく別に建設する必要があると。即
ち要するに今日の問題は、日本の文化に「自我の分裂」を要求し、日本の詩人に「思想の獲得」を要求する。
かくて我等の詩人が「批判性」に目醒めた時、初めて此虞に眞の新しき新膿詩が勃興し、俸統の風流詩から濁
立して、別の新時代的の文化詩が生れるのである。
∫β0