「水島」 の詩語について
「水島」の詩は、すべて漢文調の文章語で書いた。これを文章語で書いたといふことは、僕にとつて明白に
 レtlリート
「退却」であつた。なぜなら僕は虞女詩集「月に吠える」の出餞からして、古典的文章語の詩に反抗し、口語
自由詩の新しい創造と、既成詩への大勝な破壊を意表して来たのだから。今にして僕が文章語の詩を書くのは、
自分の過去の歴史に封して、たしかに後方への退陣である。
 しかし「水島」の詩を書く場合、僕には文章語が全く必然の詩語であつた。換言すれば、文章語以外の他の
言葉では、あの詩集の情操を表現することが不可能だつた。常時僕の生活は全く破産し、精神の危機が切迫し
て居た。僕は何物に対しても憤怒を感じ、絶えず大饗で叫びたいやうな気持ちで居た。「青猫」を書いた時に
は、無為と傾惰の生活の中で、阿片の夢に溺れながらも、心に伶ゲイジョンを抱いて居た。しかし、「水島」
を書いた頃には、もはやそのグィジョンも無くなつて居た。憤怒と、情意と、寂蓼と、香定と、懐疑と、一切
の烈しい感情だけが、僕の心の中に残つて居た。「水島」のポエヂイしてゐる精神は、賓に「絶叫」といふ言
葉の内容に壷されて居た。
 そこで詩を書くといふことは、その常時の僕にとつて、心の「絶叫」を言葉の「絶叫」に現はすといふこと
だつた。然るに今の日本の言葉(日常口語)は、どうしてもこの表現に邁應されない、といつて文章語を使ふ
             レ.トリ1.♪
のは、今さら卑怯な退却のやうな気がして厭であつたし、全くそのヂレンマに困惑した。その頃書いた僕の或
る詩論が、表現論の方面で悲観的となり、紹望的の暗い調子を帯びて居たのも、全くこの自分の突き首つた、
常時の苦しい事情と問題に原因して居た。
 現代の日常口語が、かうしたポエデイの表現に邁應されないことは、自分でそれを経験した人には、何より
もよく解つてる筈である。つまり今の日本語(口語)には、言葉の緊張性と言ふものがないのである。巷尾に
他の論文(口語詩歌の韻律について)で説いた通り、今の口語には「に」「は」「を」等の助辞が多すぎる為に、
語と語との問に直切れがなく、仝髄にべたべた食つ附いて居て、歯切れが悪く、調子のハズ、、、といふものが少
しもない。例へば「日本人此所にあり」とか「花咲き烏鳴く」といふ場合、口語の方では「日本人は此所に居
る」「花が咲き鳥が鳴く」といふ工合に、「は」「が」等の餞計の助尉がつくのである。その食め言葉に抑揚が
なく、緊張した詩情を歌ふことができないのである。
 その上にまた、今の口語でいちばん困るのは、章句の断定を現はす尾語である。文章語の方で「なり」「な
らん」「ならず」と結ぶ所を、口語の方では「である」「であるだらう」「ではない」といふ風に言ふ。文章語
                                                                  ヽ ヽ ヽ ヽ
の方は、非常に軽くて簡潔であるのに、口語の方は重苦しくて不愉快で、その上に断定が曖昧ではつきりしな
い。もつとも同じ口語膿でも、かうした演説口調の「である」に比すれば、日常合議語の「です」「でせう」
の方は、まだしもずつと軽快であり、耳にも快よい音楽的の審をあたへる。しかし困つたことに、この種の合
議語は調子が弱く、卑俗で軟弱の感じをあたへる為に、少しく昂然とした思想や感情を叙べるに邁應しない。
(演説や論文が、この合講語の外に「である」鰹を餞明したのは、全く必然の要求から来てゐる。)
 要するに、今の日本語といふものは、一膿にネバネバして歯切れが悪く、抑揚に映けて一本調子なのである。
そこでこの日本語の映鮎を、逆に利用して詩作したのが、僕の蕾著「青猫」であつた。と言ふわけは、「青
猫」に於ける自分の詩想が、丁度かうした口語の特色と、偶然に符合して居たからであつた。前にも書いたや
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∫∫ 詩人の使命

うに、常時僕は無為とアンニュイの生活をし、ショウペンハウエル的虚無の世界で、寂滅為楽の夢ばかり見て
居た。
「青猫」の英語出k亡出は、僕の意味で「疲れたる」「怠惰なる」「希望なき」と言ふ意味であつた。かうした
僕の心境を表現するには現代口語、特に日常合議語のネバネバした、退屈で歯切れの悪い言葉が邁應して居た。
文章語では、却つて強く弾力的になり過ぎるおそれがあつた。
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虚無の腱げなる柳の影で
艶めかしくも ねばねばとしなだれてゐるのですょ。
といふやうな詩想には、かうした抑揚のない、ネバネバした、蜘昧の巣のからみつくやうな口語饅が、最もよ
く邁應して居るのであつた。「青猫」の詩法は、つまり、口語の映鮎を逆に利用したやうなものであつた。し
かし、それは偶然だつた。「水島」を書いた頃には、もはや「青猫」の心境は僕になく、それとは逆に、烈し
く燃えたつやうな意志があつた。官時の僕は、寂滅無為のアンニュイではなく、敵に封して反唆するやうな心
境だつた。「青猫」の詩語と手法は、もはや僕にとつて何の表現にも役立たなかつた。僕は放浪の旗人のやう
に、再度また無一文の裸になつて、峯無の中から新しい詩語を創造すべく、あてのない探索の旗に出かけた。
                                            和
そして最後に、悲しく自分の非力を知つてあきらめてしまつた。今日の日本語(口語)で詩を書くことは、昔
時の心境を表現するべく、僕にとつて力の及ばない絶望事だつた。
 何よりも絶望したのは、日本語そのものの組織が、ヨ○、q出S、の決定を、章句の最後につけることだつた。
例へば「私は梅よりも菊の荏の方を好む」といふ場合、最後の絡まで待たない内は、「好む」と「好まない」
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との判定ができないのである。この日本語の曖昧さを、逆にユーモラスに利用したのが、掛合苗才などのやる
洒落である。「私は酒も女も金も欲し」までは、判定がヤアかナインか解らない。そこで「くない」と言ふか
と思ふと、意外に「い」と言ふので、皆がどつと笑ふのである。子供の遊び事に、一人が競令をして、一人が
その眞似をするのがある。「右手を上げて」「左手を上げて」と一人が言ひ、一人がその通りにする。すると今
度は「南方のあんよでスッキリ立たずに」と言ふ。最後の「ず」に来る迄は、香定か肯定か解らないので、つ
い釣り込まれてスッキリ立つてしまふのである。
 この日本語の構成は、意志の断定を強く現はす場合にいちばん困る。例へば「僕はそんなことが大嫌ひだ」
といふ場合、香定のZOをいちばん強く、いちばんアクセントをつけて言ひたいのである。然るにその「嫌ひ
だ」がフレーズの最後に来るので、力がぬけて弱々しいものに感じられる。普通の合議の場合であつたら、そ
れでも用は足りるのだが、言葉の感覚に意味を焼きつける詩の表現では、これが非常に困るのである。これは
僕等ばかりでなく、昔の日本の文筆者も、同様に困つた問題だつたと思ふ。そこで彼等の文寧者は、かうした
場合に支那語の文法を折衷して、「決して」とか「断じて」とかいふ言葉を、フレーズの前の方に挿入した。
例へば「余の断じて興せざる所なり」といふ風に言つた。この「断じて」は、英語の当村<出声などと同じこ
とで、判定の語が出て来る前に、漁じめ香定を約束して居るのである。そこで讃者は、この文を絡までょまな
いでも「余の断じて」迄で香定がはつきりしてしまふ。したがつてまた、ヨ○の香定感情が非常に強く、充分
のアクセントを以て響くのである。
一鰹支那語といふものは、英語や濁逸語やの西洋語と、殆んどよく類似して居るのである。韻律の性質もよ
く似て居るし、フレーズの文法的構成もよく似て居る。すべて彼等の言葉では、情意の判定がフレーズの先に
来るのであるから、抒情詩など書く場合に非常に都合がょく、思ひ切つて感情を強く言ひ切ることができる。
j∫ 詩人の使命
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日本語だけが濁りこの鮎で困るのである。それも普通の詩なら好いけれども、主観的の意志や感情やを、強く
断定的に絶叫しょうとするやうな抒情詩では、全く以て手足の利かない悩ましさがある。
 それ故日本の文学には、昔から強い意志や感情やを、昂然たる態度で書いたものが甚だすくない。日本の国
文学といふものは、文章のスタイルからして女性的である。本居宣長のやうな園畢者は、思想上ではエゴの主
観を充分蜃拝し、可成情熱的な強いことを書いてるのだが、文章が女性的な大和言葉で、抑揚に乏しくヌルヌ
ルしてゐるので、直覚的には少しも強烈な感銘がない。日本語でこの種の情操を書くためには、厭で「も支那語
の語脆を取り入れ、いはゆる「漢文調」「漢語調」で書く外はない。幕末革命の志士たちが、好んで漢詩の和
訓を吟じ、漢語調で日常の合話をしてゐたのも、上述のやうな日本語の映鮎から己むを得ないことであつた。
「余の断じて興せざる所なり」といふやうな言葉は、勿論純粋の日本語肱でなく、支那語の文法を自家に折衷
したものである。だがそれでなければ、かうした強い感情は言ひ現はせないのだ。
 所で僕が「水島」に書いた詩想は、エゴの強い主観を内部に心境して居るものであつた。それは前の「青
猫」のやうに、繚紗たる無意志的アンニュイのものでなくして、意志の反嵯が張く、断定がはつきりして居る
ものであつた。僕は詩の各行のいちばん先は、ヤアとナイン、q出SとZO の決定語を前置しなければならな
かつた。そしてしかもかうした言葉は、昔の純粋な日本語に無く、今の日本語の中にも無かつた。厭でも應で
も、僕は漢語調の文章語を選ばねばならなかつた。そこで僕の「水島」の詩は、「淘んどその各行毎に、「いか
んぞ」 「あへて」 「断乎として」等の前置詞的召出<出押を使用した。
「水島」の場合、もし僕が漢語調を選ばなかつたら、世のいはゆるプロレタリア詩人や祀合主義詩人が書いて
ゐるやうな、である式演説口調の口語自由詩を作る外なかつたらう。なぜなら今の日本語で、少しく意気昂然
たる断定の思想を叙べるためには、かうした演説口調(論文口調と言つても同じである)以外にないからであ
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澗「■「■
る。しかし僕はおそらくまた決してそれを取らなかつたらう0なぜなら前に言ふ通り、かうした演説口調の言
葉といふものは、断定の尊が弱く曖昧であり、その上に言葉が非嚢術的に重苦しく、到底「美」のスヰートな
魅惑と悦び−それが肇術品としての詩に於ける、本質の決定的慣値である01を輿へてくれないから0か
ぅした顆の言葉は、感性のデリカシイや美意識やを必要としないところの、粗野な政談演説などには適するけ
れども、蛮術品としての詩には不適であり、あまりにラフで粗雑すぎる0すくなくとも僕の神経は、かういふ
自由詩の非奉術的粗雑さに耐へられなかつた。
 そこで僕は退却を自辱しながら、文語膿漢語調を選ぶ外に道がなかつた0畢に文法構成の上ばかりでなく、
箇々の詩語としての畢語にあつても、漢語を使ふことが便利であつた0と言ふのは、漢語の翌日といふものが、
元来アクセントの強い支那の原音を、不完全に直俸したものだけあつて、純粋の日本語に此して調子が高く、
抑揚の攣化に富んで居るからである。特に断定的(意志的)の強い感情を現はす場合は、それが最もよく適切
して居る。前の「青猫」の表現では、柔軟でアクセントのない平慣名が最もよく適して居たが、反対に「水
島」の場合では、多くの漢語と漢字とを用ゐねばならなかつた0




     」▼   rJ姐■■
冬の凄烈たる塞気の中
地球はその過麿を新たにするか。
(新年)
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪姻を断紹して
意志なき寂蓼を踏み切れかし。
(漂泊者の歌)
∬ 詩人の使命

彼等みな忍従して
人の投げあたへる肉を食らひ
     ひ と み
本能の蒼き瞳孔に
銭銑のつながれたる悩みをたへたり。
(動物園にて)
 かうした詩句に於て、「凄烈」「断絶」「忍従」「銭銑」等の漢語は、それの意味の上よりも、主として言葉の
音韻する響の上で、壮烈なる意志の決断や、鬱積した感情の憂悶やを、感覚的に強く表現しょうとしたのであ
る。漢語がかうした詩情の表現に適するのはじ甲ロNのtmきTの訟P、‥ヨ且亡等の如く、アクセンチュアルな促音と
拗音とに富んでるからである。すべて言語は、促音や拗音の多いほど弾力性が強くなつてくる。然るに純粋の
日本語には、この子音の複数的欒化といふものが殆んどなく、畢一に母音と結びついて「い」「ろ」「は」と成
つてるのだから、この鮎には甚だ畢調で攣化に乏しいのである。
 元来言へば、僕は漢語と漢字の排斥論者である。なぜかと言へば、明治以後に於けるそれの濫用(特に翻案
語の過度な濫造)からして、今の日本語がでたらめに混乱し、耳で聴くだけでは意味の通じないやうな言葉、
文字に書いて讃まなければ、語義を解しないといふやうな、奇怪の祓覚的言語北なつてしまつたからである。
                                                          声
こんな日本語は資用上にも不便であるし、詩の韻律美を守るためにも有害であ告この鮎の理念からして、僕
はローマ字論者に七分通り同情して居る。しかし残りの三分だけ反封するのは、今日の場合として、日本語か
ら漢語と漢字(漢語は漢字で書かないと鰐らない、「繊鎖」をローマ字でTのS欝と書いたのでは、何のことか
牌らない。)を除いてしまふと、後には促音のない平坦の大和言葉しか残らなくなる。それでは「水島」の詩
ゃこイチェの詩のやうに、弾力的な強い意志を持つた情想が歌へなくなる。強ひて表現しょうとすれば、前に
言つたプロレタリア自由詩の如く、壮士芝居的口調の政談演説をする外はない。しかしバケツの底を乱暴にひ
つぱたくのは、肇術上の意味の勇壮美でもなく悲壮美でもない。
 っまり僕等の時代の日本人は、日本語そのものに不便を感じて居るのである。僕はかつてこのことを或る親
戚の老人に話したら、日本人たる者が、日本語に不便を感ずるなんて馬鹿な話はない。そんなこと考へるのは、
お前の頭が異人かぶれをして居るからだと叱られたが、後で考へて全くだと思つた。つまり僕等の時代の日本
人は、子供の時から西洋風の教育を受け、牛ば西洋化した文化環境に育つた為、文学上に於て思惟すること、
感情することが、多くみな西洋人式になつてるのである。然るに今の日本語は、文法上の構成でも、言葉の饅
音の報律上でも、依然として昔ながらの日本語である為に、僕等の感情や思想やを表現する時、そこに根本的
な矛盾と困惑とが生ずるのである。例へば喉が渇いた時、僕等は「水が欲しい」と言ふょりは、「欲しい、水
が」と言ひたくなるやうなものである。「欲しい」といふのは、エゴの感情の露骨な主張であり、これが支部
語や欧洲語では、最初に強く叫ばれるのである。そして僕等の時代の日本人が、この外国流のエゴイズムと表
情主義とに深くかぶれて居るのである。
 かうした現状から推察して、日本語の遠い未来は、文饅上にも音韻上にも、よほど外国語に近く欒化して衆
ると思ふ。しかし今日火急の場合としては、漢語で間に合はして置く外にない。前に言ふ通り、支那の言葉は
本質的に西洋の言葉に似て居るのである。文法もほぼ同じであるし、萌律の構成もほぼ似て居る。僕は今度
「水島」の詩を書いて見て、漢語と濁逸語とがょく似て居るのに驚いた。ニイチェは濁逸語を悪罵して、軍隊
の硫令語だと言つて居るが、その意志的で強い響を持つてる所は、資際漢語とよく似て居る。それ故に日本の
軍隊では、今日でも専ら漢語を術語用とし、村を村落と言つたり、橋を橋梁と言つたり、家を家屋と言つたり
∫古
jア 詩人の使命

して居る。「はし」と言ふょりは「キヲーリョー」と言ふ方が、拗音の関係で温く響き、男性的の軍隊気風に
合ふからである。
 要するに「水島」の詩語は、僕にとつての自辱的な「退却」だつた。その鮎から僕は、この詩集を甚だ不面
目に考へてる。その巻頭の序文に於て、一切の蜃術的意圃を放棄し、ただ心のままに書いたと断つたのも、つ
まりこの「退却」を江湖の批判に詫びたのである。詩人が詩を作るといふことは、新しい言葉を態見すること
だと、島崎藤村氏がその本の序文に書いてる。新しい日本語を饅見しょうとして、絶望的に悶え悩んだあげく
の果、遂に古き日本語の文章語に辟つてしまつた僕は、詩人としての文化的使命を廃棄したやうなものであつ
た。僕は眈に老いた。望むらくは新人出でて、僕の過去の敗北した至難の道を、有為に新しく開拓して進まれ
んことを。

別項「魔女の言葉」「持と日本語」参照されたし。