今日の詩精神

 

今日の詩精神は、りリシズムに向つて噴いでゐる。鳴いでゐるといふのは、それが未だ所有せられず、所有
への熱意に止つてることを言ふのである。
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行きつめた本質は、眞のりワタタとしての抒情藷以外にない
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のである。賓際また近代では、古来の叙事詩や史劇話やが廃滅して、抒情詩以外に詩と文学が無くなつてしま
った0しかし近代の抒情詩は、人間情緒の素朴的な詠嘆ではなくト理智や知性のインテリ要素が多量に加はり、
むしろ一見、知性の科挙的構成物のやうにさへ見えるのである0特にマラルメ等の象徴汲以後、近代抒情詩に
於ける知性的インテリ要素は、その必然の文学條件にさへなつてしまつた0知性を映如した素朴的な純情詩は、
今日においてもはや「抒情詩」の名で呼ばれないのである。
 だがそれにもかかはらず、抒情詩はやはり抒情詩であり、詩のエスプリするところのものは、主観の情緒的
表出以外にないのである。詩は理智の演繹をする文学ではない。二十世紀の科挙はいかに長足の遽歩をしても、
詩は依然として詩であり、人間情緒の永遠な所藤を歌ふのである0此虞に最も幼稚な思想は、近代に於ける科
挙の態達や、人間の理智的に進んだ頭脳やが、詩の本質すべきりリシズムを滅亡させることを考へてゐる0
 しかし人間といふ生物は、本来感情の動物である。人間のすべての行動は、元来皆衝動的のものであつて、
本源的には皆感情がさせるのである。人生に於て、理智は畢にそれの批判と反省をするにすぎない○それ故に
人生では、常に科挙と共に音楽が要求され、理智の進歩と共に益ヒ抒情詩が要求される0古爽多くの大科学者
が、殆んど類型的に音楽の熱愛者であり、多くの世界的大哲学者が、殆んど皆詩歌の愛好者であつたことは、
何よりもよく、この事資を説明する。
 しかしながら詩は、畢なる生理的感情の衝動表現でない。詩の表現する感情は、自身に蛮術的のイメーヂを
内容するところの感情、即ち学者のいはゆる美的情操である。詩は音楽や組立旦と同じく、その目的性を「芙」
の表現に求めてゐる。そして「美」とは、心に楽しい撲りをあたへる快感であり、これが即ち詩に於て、りリ
シズムと呼ばれるものの本懐である。
22J 詩人の使命

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 近代詩の特色は、知性的に複雑な要素を加へた。今日筒、我が図の大衆によつて歌はれてる俗諮、小唄、情
痴歌の如き、畢純なりリシズムを素朴な感傷で歌つてる詩は、すくなくとも西洋近代蜃術の詩にはない。素朴
的な感傷主義を排するのは、今日詩人のインテリ的常識となつてゐる。だがりリシズムそのものを安失する時、
詩の歴史は此虞に断絶する。しかも日本の詩壇は、最近ポエヂイ運動の誤つた知性偏重主義によつて、詩の生
命たるリリックをさへ殺教しょうと意志したのである。詩からりリシズムを殺致すれば、後にはただ散文的の
レアリズムと、知性の描馬する無味のイマヂズムが残るばかりだ。それは主観から濁立した文寧であり、もは
や「詩」といふ名で呼ばれるぺきものではないのだ。
 日本の詩がりリシズムを糞失したのは、思ふにしかし「言語」の為の傷害にもよる。つまり現代の日本語が
本質的に散文的雑駁であり、リリカルの美的情操を表現すべく、用語上に不可能であつた為である。しかし他
の社合上の原因は、この十数年来の日本文化が、全くその理想を失ひ、指導精神を忘れ、すぺてのインテリ的
高邁性を餐失して、卑俗低調な悪現賓主義に漫落してゐた結果である。
 文壇に於ける身遽小説と心境小説とが、この「詩のない時代」の卑俗化を表象し、文化がロマン精神を失つ
た時代に於て、詩がその「本質のもの」を失ひ、時代と共に散文化したのは自然であつた。そして此虞に「散
文化」したといふのは、単にその詩形態についてのみ言ふのではない。詩精神そのものの段落について言つて
るのである。                               1
                                          秒
 今やしかし、時代の新しい渇情が来た。人々は詩に渇き、りリシズムを求めて呼び交してゐる。しかしなが
ら今日、それは未た現賓に所有されない、一つの官為的なイデア1渇情としての熱意にすぎない。なぜなら
今日の日本は、政治的にも、文化的にも、祀合の全野に亙つて、×××の一大改革を呼びあげて居り、しかも
それが未だ質現されないところの、一つの過渡租熱意時代にすぎないから。そして文学としての詩も、その同
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…湖→一りが耶パ肘淋※絹輯舶密撃い紹a緑
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 そこで或る賢明な詩人等は、この「不可能への熱意」を捨てて、諷刺詩や寓意詩への逃避を説いてる0彼等
はたしかに賢明である。だが詩人としての正義者ではない。正義者は不可能に虞して進み、敗北に坐してイデ
アを捨てない。今日の詩壇では、或る極めて少数の人々だけが、詩の純正な復活を目ざして戦つてゐる0彼等
の戦ひの目的は、単に詩の形態やレトリックを探すのではない。よつて以て抒情詩の歌へる時代を、今日の政
令に新しく建設すべく、日本の文化全般に封して挑戦し、詩精神そのものの質鰹を、紅合に呼びかける為の戦
ひである。
 或る人々はかうした戦を嘲笑し、ドン・キホーテ的喜劇に響へる。それらの絶望した人々は言ふ。今日では
もはや、抒情詩が歌へなくなつてしまつた。なぜなら現賓上の理智生活が、主観の情緒的表出を抑制し、リリ
ックを拘束すeからと。思ふに彼等は、近代詩の態足根接を知らないのである0マラルメ以来、グァレリイに
至る迄、近代の抒情詩は「知性を乗り越える塀」の上に、リリックの情緒性を築いてゐるのだ。その「知性の
塀」を乗り越えるところの情熱と抒情感とを持たないもの、理智によつて詩を打ち負かされたりリシズムを抑
座されるやうな人であつねら、初めから近代の詩人たる資格がない。即ち彼等は、詩を捨てて散文に行くより
外に道がないのだ。知性のあらゆるインテリゼンスを、情緒によつて乗り越えることのできる人だけが、近代
の意味の詩人なのだ。
 本官の事貰を言へば、彼等を抑歴してゐるもの−詩を歌へなくしてゐるもの−は、近代の理智性でもな
く科挙的知性でもない。それこそ即ちこの時代の功利的常識性であり、夢卜理念を失つた時代の散文的精神で
ぁる。そして賓に、かかる常識と卑俗文化を敵国とし、それと戦ふことにのみ、時代の新しい詩精神が存する
のである。
ヱ2j 詩人の使命

詩人は群衆と共に生活する