詩の生理学を呼ぶ

 近代は心理学の時代と言はれる。実際十九世紀以来の小説は、その藝術性の構成を、ひとへに心理学の深さに求めた。所で「抒情詩」は、また詩の中での心理学である。十九世紀以後に於て、叙事詩や劇詩やが廃滅し、ひとりただ抒情詩だけが残り、しかも抒情詩だけが急速に発育の進化をしたのも、まことにそれが詩の中での心理学 − 心の現象状態を為すポエヂイ − である為に外ならなかつた。
 そこで十九世紀以来、近代詩の歴史が示すコースは、ひとへに心理学への奥深い探求に進んで行つた。即ち浪漫派から象徴派へ、象徴派から印象派へ、イマヂズムから未来派や表現派と、次第に益々心理学的、精神現象学的に傾向して行き、遂に最後のシュルレアリズムに至つて、全く精神分析学的の究極地に到達した。しかも尚ヴァレリイ等の仏蘭西詩人は、未来にイデアさるべき純粋詩をさへ考へてる。その純粋詩といふのは、詩から一切の物的形態を抽出して、純粋の形而上学的なる精神現象のみを捉へようとするところの、影なき幽霊写真のやうなものなのである。
 かくの如くして、近代詩は今やその「肉体」と「生理学」を無くしてしまつた。近代詩は、今や正に心霊学に接近して、虚妄の幽霊にならうとしてためらつて居る。近代詩は、もはや人間の生きた呼吸ではない。それは抽象観念の形而上で、黄昏の闇に漂泊してゐる妄像である。即ちそれは「心理学」であつて、ポエヂイ(人間的感情の実体性)ではないところの、別の文学に変つてしまつた。
 近代詩の歴史は此処に終つた。僕等はその失はれた肉体のイデアを求めて、再度歴史を回帰しなければならないのだ。必要なものは「感情」なのだ。精神分析学への探求ではなくして、呼吸し、生活し、肉体が表現するところの生の感情。怒りや、悲しみや、愁ひや、沈痛や、悦ばしさやの、現実のナマナマとした感情なのだ。僕等は心理学に鬱屈して、今や生理学を呼び求めて居る。詩を再度肉体に復活させよ。そしてあの逞ましい野性のポエヂイ、即ち純正抒情詩のリリシズムを、新しく建設せよと言ふのである。