理性に醒めよ
詩壇と文壇の問題
すべての必然的なものは現実的であり、すべての現実的なものは理性的である、と言つたへーゲルの言葉は
真理である。特に現代日本の文化に就いて、それが啓蒙される時に真理である。なぜなら日本の文学や文明に
は、ヘーゲルの言ふ意味での「理性的なもの」が無いからである。先づこれを手近の詩壇から検討しよう。
日本の詩壇には、かつてダダイズムといふものが流行し、シェルレアリズムといふものが流行した。これは
欧州大戦後に現れた西洋詩壇の新思潮を、日本に輸入したところの詩派であつた。ところで本場のダダイズム
は、大戦後の惨害によつて荒廃し、文化の虚無的危機に際した欧州人が、一切への希望と目的を失踪して、ニ
ヒリスチックになつたヤケまぎれに、何物をも信じないといふ標語をかかげて、デタラメ主義の人生を謳歌し
たものであつた。ダダイズムの精神は、敗れた人生と文化への、悲痛な坂逆的のイロニイだつた。しかしなが
らデタラメ主義者は、デタラメの中に自分の最も大きな悩みを知つてる。彼等がそれを「信じない」と口に言
ふ時に、心は反対に信を求め、何かの帰趨すべきイデヤやモラルに渇いて居るのだ。そこで新しい時代の詩人
は、ダダに代つて一つの形而上学を建設した。既に現実の人生に絶望して、心理上のイマヂスチックな表象に
のみ、夢の幻覚を楽しまうとした彼等の詩人は、一切の現実から超越して、常識の合理主義を一蹴し、心象の
自由な飛躍による美の創造を主張した。これが即ちシュルレアリズム、日本のいはゆる超現実派であつた。即
ち超現実派は、ダダイズムの帰納すべき当然の哲学であつた。
ところで日本のダダイズムや超現実派は、外国のそれとちがつて、発生事情に於ける何の必然な文化的原因
をも持つてなかつた。日本でダダイズムの詩が流行したのは、西洋でそれが一流行した終の頃、即ち大正後期
から昭和年代の初期であつた。その頃日本の社会と文化は、大戦後の欧州諸国と、本質的に少しも似たところ
が無かつた。日本の文化は、欧州のそれと正反対に、啓蒙発生期の混沌とした時代にあつた。如何に考へても、
日本にダダイズムの発生すべき事情はなかつた。つまり日本にかうした詩派が興つたのは、文化的、社会的の
必然現象によつたのではなく、詩人の無邪気な新しがりとエキゾチシズムとで、単に舶来新輸入の珍奇を悦び、
無批判に模倣したにすぎないのであつた。彼等の和製ダダイスト等は、外国のそれをロ真似して、如何にも人
生に絶望したらしく、何をも信じないといふデタラメ放題を主張した。しかしその根柢には、文化的インテリ
の苦悩を表象すべき、何等の深刻なイロニイも持つてゐなかつた。それは当時の流行詩人であつたアナアキス
ト(ダダイストとアナアキストとは、日本の詩壇に於て同字義だつた。)と共に、詩壇的時流のお祭酒に酔つ
ぱらつて、元気の好い空騒ぎをやつたところの、他愛のないアンちやん連の狂態だつた。一時の酩酊から醒め
て見れば、自分自身が馬鹿馬鹿しく、苦笑以外に何物も残らないやうなナンセンスだつた。
シュルレアリズムと称したものが、日本に於てはまた同種属の生物だつた。彼等はいかにもハイカラぶつて、
頭にシルクハットを被り、体にスマートな礼服を着、白い手袋をはめ、象牙のついた細身のステッキを抱へて
ゐた。しかしながら、単にそれだけのスタイリストだつた。そして単にそれだけのことならば、猿でも赤ン坊
でも出来るのである。肝心のことは服装(スタイル)ではない。文化の危機に際した現代欧州のニヒルな悲哀を、魂に於て
真に体験して居るか否かによつて、彼等がまことのシェルレアリストであるか、実の近代的二十世紀人である
か否かが解るのである。しかも日本のシェルレアリスト(彼等は自ら尖端的二十世紀人と解してゐた)は、詩
語のスタイルや粉飾にばかり浮身をやつして、浮気娘やモダンボーイの連中から、ひとへにスマートと呼ばれ、
新しいと言はれることをのみ得意としてゐた。流行が遅れて見れば、田舎廻りの手品師さへも、そんな古着は
買はないのである。
それ故に日本の詩壇では、ダダイズムとシュルレアリズムとが、相互に全く関係なく、別々のジャーナリズ
ムとして発生した。西洋の詩壇に於けるシュルレアリストは、概ね皆ダダイストの転身したものであるのに、
日本ではこの両派の詩人が、全く血液型的にちがつて居り、路傍の人の如く無交渉であつた。なぜなら二つの
詩派共に、日本では何の社会的必然からの発生でなく、単にその詩壇的のゼネレーションから、夫々の時代の
最も新しい外国詩派を、勝手に先がけして模倣したのにすぎないから。
日本に於ける、すべての詩壇的なものは喜劇的であつた。も少し過去に遡つて、浪漫派と呼ばれたものも、
象徴派と言はれたものも、民衆派と言はれたものも、人道派と呼ばれたものも、すべて皆外国詩壇の流行模倣
で、しかもその実物とは全く別種のイカモノであり、それ故に正に喜劇的の存在だつた。堀口大学君の随筆集
「季節と詩心」によれば、南米ブラジル国の詩人たちは、四季の欒化がない常夏熱帯の圃に住みながら、好ん′
で春の夕暮や晩秋の哀愁などを書いてるといふ。なぜなら彼等新興国の詩人は、文化の基本をすべて仏蘭西に
仰いで居るので、仏蘭西の詩人の歌ふ通りに、自分等もまた歌ふからだと言ふ。四季のない園に住んでる詩人
2∫ 詩人の使命
が、四季の詩を書くといふのは、まさしく浸董的材料の喜劇である。そして現代日本の詩人が、同様にこの喜
劇を実演してゐるのである。
要するに日本の「詩」といふ文孝は、現質する生活や文化と交渉なく、趣味性の観念上で遊戯してゐるとこ
ろの、本質的ヂレツタンチズムの文学に過ぎないのである。これをもつと具鰹的に言へば、日本の詩といふ文
畢は、それの饅生上に於ける文化的「必然性」が軟けてるのである。然るにへ−ゲルの言ふ如く、必然的のも
のと現質的のものとは同じであるから、日本の詩に必然性が無いといふことは、言葉をかへて「現実性」が無
いと言ふに同じである。もし超現実派といふ言葉を皮肉に使へば、生活的現実性がなく、現実を済離して居る
ことに於て、日本の詩はすべて皆超現実渡であり、日本の詩人はすぺて皆シュルレアリストである。
この一切の原因は、要するに日本の詩人等が、真の理性的批判力を持たないことに辟着する。彼等がもし批
判力をもつた理性人であつたならば、さうした外因詩壇の浮薄な模倣が、日本に於て何の現実的意味もないと
いふこと位は、すぐに批判的に解る筈である。一膿日本の詩人といふ連中は、昔の歌人や俳人時代から、俸統
的に官能や趣味の上で鋭い感受性を持つて居るが、理性人としてのエスプリを少しも持つて居ないのである。
そこで我等の詩人たちは、西洋の詩からその香気やエキゾチシズムを嗅ぐことばかり熱心であり、彼等の奉衝
の中に本質してゐる、エスプリとしての哲学を掴むことができないのである。したがつて日本に輸入された西
欧詩派は、単に一時の感覚を刺戟してフレッシュな感じをあたへる程度の、根砥のないダンヂイズムやヂレツ
タンチズムの文学に撃つてしまふ。そしてこの変種文学を作る以外に、何等のもンテリ的批判性をもたないの
が、日本の詩人たちの通癖である。
まことにへ−ゲルの言ふ如く、理性的でないものは現実的でなく、現質的でないものは理性的でない。日本
の詩が生活的根接のない非現実性のものであるのは、彼等の詩人が挽理性の人種であつて、自己の文化や社会
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J メ‥崩詣
に封する、正しい批判性をもたないから。単に感覚や趣味の物珍しさで、無批判に西洋を直辞してゐる‘にずぎ
ないからである。近頃詩壇に流行する「主知主義」といふイズムの如きも、やはりこの日本の詩人に共通する
漫理性を、露骨に表象したものの一つに外ならない。即ちそれもまたシュルレアリズムの顆と同じく、俳蘭西
詩壇の新しい流行を迫ひ、舶来の新鮮な香気を嗅いで悦ぶところの、一種の官能的ダンディズムにすぎないの
で、本質的には何の批判力もない捜理性のもの−それ故にまた非現質的のもの−にすぎないのである。
ところでしかし、この論文を讃んだ小説家や文壇人が、それ故に我等の詩人群を嘲笑して、自ら高く得意に
止まり、僕等の認識不足と乾するならば、その同じ嘲笑は、必然にまた彼等の頭上にも辟つて来るのだ。例へ
ば過去の文壇で、自然主義と称した彼等の文学がさうであつた。日本で自然主義の文学と碍したものは、ゾラ
ゃモーパッサンによつて主導された、欧州世紀末文学の輸入であつた。その欧州の文学といふものは、唯物論
ゃ箕澄主義の哲学を根揚として、過去の道徳笥教の一切に反抗し、世紀末的ニヒルの顧廃に苦悩してゐた時代
の社曾を、文学の上に反映させたものであつた。然るにそれが輸入された常時の日本は、露西亜との戦争に勝
つた好況時代で、日本の社会が漸く近代資本主義の文化史上へ、新しく出優しようと始めた新世紀の時代であ
つた。常時の日本に於て、文化廃顧期の世紀末的情操なんてものは、杜曾のどんな隅にも有り得なかつた。況
んや懐疑思潮の深刻なインテリ性など、文学者の生活にさへも全く無かつた。(もし有つたとすれば、彼等が
無理に錯覚して考へたのである。)そこで日本の自然主義は、猿芝居より伶不自然に開幕され、遂にはエタイ
のわからぬ心境小説などと欒つてしまつた。
最近解消した−もしくはしつつある1マルキシズムの文学と稀するものも、同じやうにまた漫理性の文
学だつた。僕等の時代の日本人が、現実的に歴迫を感じてゐるものは、資本主義的文化情操(資本主義的政治
ではない)からのそれではなく、むしろ為政者や大衆の中に根を張つて居るところの、封建的文化情挽からの
ヱブ 詩人の使命
彗∃虫彗岳
それである。所で文学蜃術の目的は、杜合の形式たる政治組織を欒へるのでなく、牡禽の資質である人間の文
化情操を変へるにある。故にプロ文学がもし真の文筆だつたら、この鮎で政治と文学とをはつきり直別し、二
つの方面で別の目的意識をもつべきだつた。しかしこれについては、最近捧向したこの派の文士、特に例へば
中野重治君等のエッセイなどを見て、その挑戦の的が邪遽に動いてるかを知り得るので、この上深く言ふ事を
止めるであらう。
要するに詩ばかりではない。小説も、拳術も、風俗も、すべて日本の文化全膿が、今日に於て派理性的、挽
批判的なのである。そしてまたそれ故に、社会的必然性がなく、非現質的に済離して居るのである。何よりも
叫ばれなければならないのは、理性に醒めよ! といふ言葉である。そしてまたこの言葉は、一方に於てヒユ
ーマニチイを呼ぶのである。なぜなら真の理性的批判性は、ヒユーマニチイのモラルがないところに、決して
濁立し得ないからである。たとへば日本の自然主義文学が、外因のそれを手本として出費しながら、全く似も
つかぬ低相趣味の文学に堕落したのは、日本の文学者の生活情操に、外国人の如き熱烈な人生への探求心(ヒ
ューマニズム)が無かつたからである。日本のハイカラぶつた詩人たちが、ハイネやボードレエルを先生とし
て出優しながら、一も真の西洋的な詩文学に達することなく、依然として筏鳥風月のヂレツタンチズムに耽つ
てるのは、一面から言へば彼等に哲学(理性人)が無い為であり、一面から言へば彼等にそのヒューマニズム
が無いからである。本質に人生探求のヒユーマニチイと、イデヤやモラルを持たない所の文筆は、所詮して皆
趣味の遊戯であり、新しさの香気を悦ぶダンヂイの流行にしかすぎないのであるゃ理性的でないものは現質的
でない。そして人が理性的であるといふ事は、彼がヒューマニストであることを意味するのである。理性人で
ないものはヒューマニストでなく、ヒューマニストでないものは理性人でない。
何物にもまさつて、今の日本はインテリを要求して居る。そして真のインテリとは、心に熱誠なヒユーマニ
朗
ティを持つてる所の、聴明な理性人を意味するのである。批判なき文化は無意味であり、モラルのない人生は
杢虚である。僕もまた、ルッソオと共に、この時代の日本に向つて言はうとする。「友よ。醒めよ。稚態を脱
せよ!」と。その言葉の意味は、現代の日本語に郁詳して「詩人よ。文壇よ。理性に醒めよ!」と言ふ事なの
である。