詩と音楽の関係
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詩と音楽が不離の関係にあることは、僕等の仲間で常識上の問題に属して居る。しかし果して此の両者が、
何ういふ工合に文学上で関係するのか、具鰹的の事賓としては、意外に人々の考へがぼんやりして居る。もつ
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ともずつと上古は畢純だつた。詩が文字の文挙でなく、単に「歌詰」であつた時代には、それが何時も書架の
節附と共に歌はれた。この種の「歌詰」に属するものは、今日でも伺大衆の問に普及して居る。即ち小唄、俗
詫、流行歌曲の顆であつて、此等は詩としての猫立がなく、音楽との共存によつてのみ存在する。この種の詩
に裁ては、此虞で論外に除外しておく。
文学としての蜃術詩は、全く音架から濁立して居る。僕等の言葉で、詩に音楽があるといふ意味は、文学と
しての表現自身に、音楽的の節奏や抑揚があるといふ意味である。例へば外国の詩で、平灰や押韻を正しく踏
んだり、日本の和歌でS7Sの音敷律を列ねたりする顆である。かうして詩歌の構成は、音楽の頚律形態と一
致して居る。そこで此等の詩歌を吟詠すれば、自然の書架的の鵜覚美が感じられる。だが文学としての詩は、
それに満足するものではない。文学としての詩は、その中に音楽の所有する二部要素、即ち「歌詞」と「旋
律」とを綜合的に持たねばならない。換言すれば、文筆する言葉の意味と、併せてその言葉の敢覚美とを、一
っに綜合した所に詩の意義がある。そしてこれが、僕等の言ふ意味の音楽(詩の音楽)なのである。
そこで僕等の言ふ意味の音楽と、普通に書架家の考へてる音楽とは、事賓上に著るしい相違が生じて来る。
∫ア 詩人の使命
「【】
音楽家の美とするものは、純粋に敢覚上の音だけである。然るに詩人の美とするものは、畢なる准覚上の音で
はなくして、これに内容の意味を表象づけてる、言葉それ自身の文畢美である。つまり言へば詩に於ける音楽
性とは、言葉の鵜覚美と内容美とが、ぴつたり融合した場合の統一美(聯合感覚)であつて、音楽家の観念し
てゐる表象よりは、ずつと逢かに複雑なものである。
詩がその形態に於て、苧灰や格調やの韻律を約束し、外見上に音楽の構成と一致するといふことは、詩の文
学的本質を論ずる場合に、あまり多く重要のことではない。或る特挽の詩(例へば自由詩など)の中には、全
然その形態に束縛されず、音楽の原則する韻律を破壊無成した作品がある。しかも此の種の文学が、詩として
非本質的なものであるといふことは決して言へない。なぜなら此等の無韻詩や自由詩中にも、文学としての見
方に於ける、美しい音楽性を持つてるものが少くないから。
詩人にとつて重要なものは、音楽を塘く「耳」ではなくして、言葉の表象する意味の中に、イメーヂを再現
する能力である。普通に「音楽的」と言はれる詩人は、イメーヂを言葉の概念から引離して、畢語または章句
の旋律的抑揚に馬象する。彼等は決して − 素質的にも後天的にも − 音楽家の才能に属して居ない。ただ音
楽的なものの中に、情緒を塗り込むことを知つてゐるのである。日本の古い歌の中から、最も音楽的と言はれ
てる詩の例をあげょう。
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しなが烏猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿はなくして
(断案集)
斎條たる山野を、あてもなく濁り漂泊する旗の寂しさ。旗愁のやるせない哀傷感が、詩の語萌する綿々とし
た音楽から、丁度尺八の悲曲のやうに響いて来る。かうした詩は、音楽を除いて内容の償値がない。作者の情
想する族情そのものが、「しなが烏猪名野を来れば」といふ言葉の俺しい撃詞の中に存し、イメーヂが音契に
ょって表象されて居るのである。次の例はもつと一層純粋に音楽的、象徴的である。
しるべせょ跡なき浪に漕ぐ船の行方も知らぬ八重の汐風 ハ新古今集)
或る高貴な女性(式子内親王)の作つた懸愛歌である。だがこれは普通の癒愛歌ではない。単に百日的な密、
行方も知らず、心身のすべてを情火の浪に任せて居るといふだけの、素朴的な橙の詠嘆ではない。この詩の情
想する内容には、或る非常に幽玄でノスタルヂツタなイメーヂ、胡弓の奏する郷愁曲のやうに、何虞かの遠い
浪問の方へ、無限に悲しく心を導いて行く懸の象徴的な哀感がある。そしてこのイマヂスチッづの哀感は、詩
の言葉が節奏する優美でロマンチックな音楽に馬象されてる。この種の歌では、音楽が郎イメーヂであり、音
楽が即内容である。そこで音楽を除けば − 即ち讃者にして、もしその音楽に魅力を感じない以上は − 全然
詩の償値がゼロになる。
だがしかし、その魔術するところの茸鰹は何だらう。此虞で奏されてる音楽は、畢なる想覚で聞く音柴でな
い。言葉の内容する意味の要素が、あらゆる部分で複雑に奏されてる音楽である。つまり詩に於ける音楽とは、
言葉の所属するあらゆる要素(語調、気分、聯想、色彩、想念等) の統括されたシムホニイに外ならない。そ
こで詩は、もはや音楽の外部的附加を必要としなくなる。詩はそれ自身が濁立の音楽であり、それ自燈に複雑
な絶譜表をもつ一大シムホニイを構成して居るのである。
それ故に詩を作曲することは、原則として不可能である。詩がもし音楽的の要素を持てば持つほど、いょい
ょ以て絶封に不可能である。詩人はイメーヂで音楽を塘き、音楽家は耳の感覚で音楽を発く。両者の音楽に対
する官能器官は、生理畢的に全くちがつて居る。ゴルレーヌは音柴的詩人の代表と呼ばれたけれど、音階のド
レミハソラシドさへ完全に唱へなかつた。一方で多くの才能ある書架家等が、詩のスヰートな書架を一行すら
∫タ 詩人の使命
と題凋還
も理解できない。彼等がさうした詩に作曲する時、却つて原詩の音楽を虐殺し、折角のシムホニイを破壊して、
珠玉を瓦石の償値に代へてしまふ。詩人と音楽家との共通鮎は、畢に「音欒的なセンチメント」を愛するとい
ふ、性情の素質的な一致にすぎない。
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外遊から辟朝した山田耕符氏が、先年或る新聞紙上で書いた。「世界に、軍歌の完全に歌へない兵隊が二つ
ある。日本の兵隊と悌蘭西の兵隊である。」と。一方でまた、故岸田劉生氏がかつて言つた。「世界で、檜の解
る国民は二つしかない。日本人と併蘭西人だけだ。」と。両氏の言葉を封照すれば、日本人と俳蘭西人とは、
美術的な国民であることで一致し、非音楽的な国民であることでまた一致する。
所で美術は客間の馬象に属し、音楽は時間の馬象に属してゐる。したがつて美術的なるものは、それ自ら物
質的、賓鰹的、現質的、科学的であり、反封に音楽なるものは、非物質的、起算燈的、杢想的、浪漫的、哲学
的である。コントの賓澄哲学を生み、自然主義や馬賓主義の文学を母胎した悌蘭西人と、すぺてに於てレアリ
スチックで・、感覚的な現賓主義者である日本人とが、共に美術国民でぁることもまた官然の一致であらう。
この鮎に於て、濁逸人は正しく我々の側の封択になつてる。デカルトやカントの観念主義的哲学を生み、ロ
マンチシズム文学の世界的本家である濁逸人が、本来書架的国民であるのは富然である。濁逸人は美術を知ら
ず、色彩に封して盲目である。濁逸の檜の色盲的な薄汚なさは、俳蘭西の音楽硬聾唖的な貧窮さに封此すると
言はれて居る。だがそれにもかかはらず、彿蘭西の詩は決して非音楽的なものではない。のみならずそれは、
世界で最も豊富な音楽美を持つと言はれて居るいそこで濁逸人はこれを批評し、彼等(彿蘭西人)はその音楽
に妖けてる耳を、詩のせ界で取り返すと言つて不思議がつてる。
だが詩の場合で、これは不思議でも矛盾でもない。詩人のイメーデする音楽は、普通の敢覚する音発とちが
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ふのである。→般の彿蘭西人やその詩人等が、概して音楽の耳を持たないと言ふことは、彼等の表現す&粛欝
の上に、少しも才能上の失格を意味しない。詩人に必要なものは、音楽を愛するサンチメントであつて、<書架
を演奏する才能ではない。音階の上下するド音とミ音とが、何度の高低にあるかを発きわける特殊の耳は、詩
人にとつて必要がない。ただ彼等にとつて必要なのは、マ行の音が沈静の飴哉を示し、ガ行の言葉が強い弾性
の響をもつといふことの感性である。そしてこれらの感性は、言語の表象するイメーデに属して居る。しかも
そのイメーヂは、音楽家の全く知らない所である。
濁逸人等は、しばしば彿蘭西人を椰捻して耳のない魚に響へて居る。しかし魚には、特挽な器官による聴覚
が具はつて居る。彼等はその特貌の機能で、水の振動する音波の響を解党する。詩人の表現するところのもの
が、この魚の蒋覚とよく似て居る。彼等の耳は外部になく、常に水の中にもぐつてゐて、すべての音を「無音
の解党」で開くのである。だから詩人の場合に於ては、音楽が杢気の音波で俸はらないで、言葉の燭覚する意
味の感から、水に濡れたままで俸達して来る。詩人の音楽は、決して五線紙の譜にも質せないし、蓄音機のレ
コードにも吹き込めない。ただ大慣に於ての骨格(報律や格調の形態)だけを漸く馬譜し得るに過ぎないので
ある。
音楽家の語るところを聞けば、一鰹に濁逸の詩は作曲し易く、英語の詩がこれにつぎ、彿蘭西の近代詩が最
も困難であるといふことである。ハイネやシルレルの詩が、古来最も多く作曲され、且つそれが皆名曲として
知られてることを考へれば、確かにこの言の理由あることが納得される。だがこの意味に於て、濁逸の詩が音
楽的であるといふこと(逆にまた俳蘭西の詩が非音楽的であるといふこと)は、文筆としての詩の書架償値に
関係しない。音楽家にとつて作曲し易い詩といふのは、言葉のイメーヂする内容が畢純であり、表象の貧窮な
詩を意味する。文学として複雑な表象をもち、シムホニカルな音楽を具備した詩ほど、音欒家によつて作曲が
β∫ 詩人の使命
淵仙
∴ニ⊥付題意
困難になつて来る。軍歌の一節が完全に唱へないといふ彿蘭西の兵隊と詩人とは、その塘覚上の耳を文畢の内
部に騰覚するだけ、本来音楽的な耳を持つ濁逸人等に比し、一層また作曲家を困惑させるにちがひない。同様
にまた日本の詩人も、常に音楽家と縁の遠い世界に住んでる。おそらくどんな大勝な音楽家も、芭蕉の俳句や
人膚の和歌に作曲しようとは試みないだらう。そしてこれが − 音楽家に絶望されてるといふことが − 資に
また僕等の日本詩人の誇りなのだ。
最後に結論をあたへておかう。詩に於ける「書架性」とは、詩の言葉がもつ瀬覚美と、詩の表象する言葉の
意味(イメーヂ、想念)とが、不離に有機的に化合した構成物を言ふのである。最近彿蘭西詩壇の一部に興つ
た純粋詩は、詩を純一の音楽に近づけょうとして、一切言葉の内容的な意味を捨象し、畢に敢覚上のイメーヂ
や普柴だけで書いてるさうだが、かうしたものは文牢としての正道でない。文学から言葉の表象内容を除去す
るのは、建築からその材料主膿を除き、棟木を外して家を建てょうとするやうなものである。反対にまた最近
の日本詩壇は、詩の聴覚的音楽美を全く無税して、言葉の内容する表象やイメーヂだけで創作して居る。彼等
の主張するところによれば、この場合の「書架」は詩の内容の中七含まれ、言語表象の内的な聯想によつて構
成されるといふのである。元来恭覚的音律美の稀薄な日本語、特にまたそれの一層映乏してゐる現代口語で詩
を書く時、日本の詩人がかうした傾向に走るのは自然であり、時代的に己むを得ない現象とも考へられるが、
本質的に言へばこれもまた明白に詩の邪道である。言語に於ける最も直接な感情要素は、常にその抑揚する音
律要部(リズムの流れ) に存して居る。畢に言葉の表象内容だけで、観念的に漠然と浮べるやうな音楽(?)
が、たとへもしあつたとした所で、それは感覚のない幽壷であり、影のやうに捉へやうがないのである。詩の
詩たる所以の魅力は、資の感覚に訴へる音楽と、言葉の表象内容による心理的イメーヂとが、不離に融合した
一関係でのみ構成される。即ち前に引例した和歌の如きがその賓例である。
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