政治と藝術
政治は「社会の制度」を変へるのであり、藝術は「人間の情操」を変へるのである。所で社会の制度といふものは、人間の情操を根拠として、それの地盤の上に建てられるべきものである。故に藝術は政治の方便となるべきものでなく、逆に却つて政治の方が、藝術の方便となるべきである。 ― 藝術は政治の上にあり、政治は藝術の下にある。これを顛倒した思想は虚妄である。
詩人は政治への関心を持たねばならぬ。しかし詩(文学・藝術)の中に、政治を取り入れてはならないのである。詩人は社会主義であつても好い。しかしながら文学上では、常に藝術至上主義でなければならない。ハイネも、バイロンも、シェレイも、トルストイも、ゴールキイも、ドストイエフスキイも、すべて皆さうであつた。彼等はその暴逆政府や、「人民の敵」と戦ひながら、その戦ひの最中に居て、常に最も純粋で美しい藝術にあこがれて居た。即ち彼等は本質的に「詩人」であつた。
政治は特殊的であり、藝衝は普遍的である。前者は或る民族や、或る国家や、或る階級者やのために、或る特殊の場合、或る特殊の時代にだけ立法し得る。之れに反して藝術はすべての民族、すべての階級者、すべての時代を通じて、普遍的一般的に通用する。藝衝が政治を支配する時代とは、世界のすべての人類が一体となり、国境もなく、戦争もなく、貧富の階級争闘もないところの、絶対至上善の世界を現実した、真のアナアキズムの時代である。
民衆派の思惟したことは、政事上の自由平等主義(デモクラシイ)を、藝術上に於てもひとしくし、各人に例外なく、一様に詩人たる権利をあたへると言ふことだつた。
プロレタリア詩人の思惟したことは、政治上の階級争闘を、藝術上に於てもひとしくし、藝術を階級的に対立させることであつた。
前の者は、藝術からその個性的、天才的本質を失踪させ、後の者は、藝術からその一般的、普遍的の本質を殺戮した。そして両者共、藝術を藝術でない或る他の者 − 無価値のもの − に低落させた。共に藝衝と政治とをイグノラントに錯覚したことの誤謬であつた。