大宅壮一氏の詩人論
大宅壮一氏の「詩人認識不足論」は、まことに小林秀雄氏の許した通り、人騒がせのミソを意識した「快論」にはちがひないが、標題だけの概説としては、単なる快論といふ以上に、現詩壇の病患をよく指示してゐるところの警言でもあつた。と言ふのは、実際日本の現詩壇は、インテリとしての精神過程に於て、あまりに子供らしく、年齢が若すぎるのである。ヴァレリイやコクトオのやうな、文化線の第一級に立つインテリとしての老成人が、日本の詩壇に幾人居るかといふことを考へると、顧みて自分の陣営が情なくなる。日本の詩壇といふものは、正直に言ふと、概して皆中学生的乳臭児の集団である。これは生理上の年齢で言ふのでなく、精神上の年齢で言つてるのである。ヴァレリイやコクトオを「詩人」と呼んでる外国の詩壇に対して、日本で現在詩人と呼ばれてる人々の、大多数の公約数的範疇を対此させたら、実際僕等はその中学生的稚態に慙死を感ぜずに居られない。大宅壮一氏が、我々の詩人を「認識不足」と評し、「鼻たらし小僧のニキビ文学」と毒舌したのも、たしかに一般論としての見解で正しいのである。
しかし具体的の論旨をよむと、大宅氏が如何に詩といふ文学を理解せず、見当ちがひの批判点から、詩人を非常識に漫罵してゐるかを知り、逆にまた氏の認識不足に唖然とした。それは単なる「快論」以上に、全く非常識の「暴論」でさへあつた。(その暴論の暴論たる所以は、中野重治氏や小林秀雄氏が指摘された通りである。)
然るに今度「詩人」の七月号を見て、同じ大宅氏の所説(詩人認識不足論再説)を読み意外にまたその論旨の正しいのに感心した。詩が紙の天地に余白を取るので、詩を無用の「有閑文学」であるとか、散文学に於けるレアリズムの手法が、詩の表現にないからと言つて、詩人を認識不足呼ばはりした前の論文の大宅壮一氏は、僕等の詩人にとつて「快論的愛嬉人物」にしかすぎなかつた。大宅氏は、自分に反駁した詩人が一人も無かつたと言つて得意で居るが、僕等の詩人は、真面目にこれに抗議するべく、あまりに荒唐無稽の奇読的ユーモアを、氏の詩論から感じて微苦笑してゐたのである。大宅氏がそれで自ら得意になつてるのは、僕等にとつて益々ユーモアで愛嬌があるやうな次第であつた。
然るに今度の「再説」は、まことに僕等の詩と詩壇とに対して、急所の痛手を指摘した適切の名論だつた。前のユーモラスの詩人論で、僕等に道化役者といふ感じをあたへた同じ大宅壮一氏が、こんな卓抜の批判眼を、僕等の文学に対して持つてるとは思はなかつた。僕の臆測するところによれば、前の「認識不足論」と今度の「再説」との間には、大宅氏自身の間に大きな修整が行はれたことと思ふ。つまり前の不評であつた「快論」を、今度の「正論」に導くために、論者は自己を修整し、併せて自ら詩を勉強されたのである。そしてこれは、大宅氏自身のためばかりでなく、僕等の詩壇の問題のためにも、大いに慶賀すべきことにちがひない。
今度の「再説」に於て、大宅氏は三ケ条の質疑を僕等の詩壇に提出して居る。第一には、日本の現代詩に音楽性が無いといふことを非難して居る、第二には、詩の形式に圧力の緊張がなく、だらだらとして長く散漫であると言つてる。第三には、現代詩に真の個性が無いといふこと、ユニホーム的、類似一般性的であると言つてる。何れも正統の質疑であり、よく現代詩の致命的な急所を突いてる。特にこの大宅氏の抗議は、僕にとつて「我が意を得たり」といふ会心の感が深い。と言ふのは、すべて大宅氏が言つてる此等のことを、僕は従来から幾度も幾度も繰返して、詩壇に警告啓蒙して居たからである。
第一に僕は、詩に於ける音楽性の必要を、昔から一貫して強説して来た。たとへ現代の日本語に於て、音楽性を求めることが不可能であるとするも、尚且つ詩人はイデアとして(純正詩のイデアとして)それを追求すべきであると説いた。その為め多くの若い詩人たちからは、僕は頑迷固陋の偏見的ドグマチストとして、時代のモダン詩とそのポエヂイを理解しない旧時代の詩論家として、過去にしばしば悪罵されて来た。しかし僕の言ふことの真実性は、ヴァレリイが立証してくれた通りであつた。ヴァレリイの詩論も僕と同じく、真の純粋の詩と言ふべきものは、たとへそれが現実的に無いとしても、理念的には音楽性を求むべきで、韻律の形態を離れて、真の意味の「詩」は無いと言ふのであり、まさしく僕と符節するのである。
大宅氏が、現代日本詩を評して「詩人の文章を見、詩を見ても、言葉の音楽的なリズミカルなものから受ける美しさよりも、いつでも文字の配合から来る美しさをねらつたものとしてしか歌はれてゐないが、このことは、詩の本質的な性質からいつて、極めて副次的な、第二義的のものであつて、さういふ文字の配合から来る美しさなどは、極めて古臭いものと言はねばならないのである。」と言つてるのは、詩の第一義的な本質論として、まことに正しい見解を示して居る。
第二にまた大宅氏は、現代日本詩の散文的弛緩を非難し、言語の魔力的緊張感が欠けてることを言つてるが、これもまた現代詩壇、特にプロレタリア詩等について、適切に急所を突いた警告である。実際今日のプロレタリア詩等の中には、殆んど韻文としての価値性が皆無であり、単に普通の散文を行わけにして、素朴な演説口調でしやべつてるやうな詩がすくなくない。(そのくせ彼等は、自ら叙事詩とか諷刺詩とか言つてる。そんなクラシックの韻文意識を掲げるほどなら、尚さら以つて韻文としての価値性が必要なのだ。これほど矛盾した話はない。)
今日の現代詩が、こんな風に散文的に低調化し、散漫化して居るといふ事実は、つまり今日の詩人たちが、真の美的詩情性、即ちリリシズムを主観に失つて居るからである。特にプロ派の詩人たちは、藝術以前の素朴的なラフな感情と、真の詩感情であるリリシズムとを混同してゐる。たとへば杜甫やバイロンの詩の中には、今日の社会主義詩人の詩と同じやうに、時世を慨し政治を諷し、ヒロイックの精神で自他に戦ひを挑んでるものがすくない。しかし彼等の詩は、常に読者にとつて美しいリリカルな藝術的陶酔をあたへるのである。決して日本のプロ詩の如く、粗野な荒々しい不快の感じや、バケツの底を叩くやうな非藝術的、政談演説的の感じをあたへるものではない。それはつまり、杜甫やバイロンの感情が、単なる素朴のパアンョンでなく、内に藝術的陶酔をもつた美的詩感性、即ち真のリリカル・センチメントであつたからである。そしてこのリリカル・センチメントがある場合に、言葉は必ず緊張した弾力を生じ、それ自ら自然の音楽美を構成して表現される。詩人の心に、もし真の詩的情操が内在するなら、言葉は自然的に韻律の調子を帯び、自ら故意に努めてさへも、決して散文的に弛媛する筈がないのである。日本の多くの詩人が、今日「行わけ散文」のやうなものを書いてるのは、つまり言つて彼等の心に、真のリリカル・センチメントが無いといふこと、詩精神そのものが、本質的に半ば散文化し、プロゼックに低落してゐることを意味するのである。
大宅壮一氏が、この点に現代詩人を追求して「散文に書けないやうな強い思想的パッションをもつてるものが、現代詩人中に幾人居るか。」と懐疑し、詩の表現的必然性を疑つてるのは当然である。まことに大宅氏の言ふ如く「詩は本来散文に現せない強力的エネルギイ」を本質すべきものであるのに、かかる必然的の所因なくして、多くの詩人はいたづらに詩を書いてるのである。故にそれが「歌」を失つて散文化し、一種の無意味なフォルマリズムに固形化して行くのは当然である。そんなものがもし詩であるなら、詩藝術なんてものは、我々の文学上にも生活上にも、全く必要のない蛇足物である。「我々は本来無いものを、有るやうに見せかける必要はないのだ。即ち散文でリアルに日常生活を表現した方が、より効果的であるのに、ことさら詩的形式で表現するために、今日の詩はさういふ滑稽な印象―内容と形式とのギャップを感じさせる原因を作つてるのではないかと考へるのである。」と大宅氏の言ふ通り、実際今日の多くの詩人は、散文でリアルに書けばすむことを、わざわざ詩といふフォルマリズムにこだはつて書いてるのだ。心に歌を求める内的詩情の必然がなくして、空無な観念上のフォルムでばかり詩を考へてる。これはプロ詩人も藝術詩人も、おしなべてすべての詩人たちに、一様に共通してゐる日本詩壇の現状である。
それ故に僕は、彼等の現代詩人に忠告して、第一に先づ、その虚偽のフォルマリズムから脱却せよとすすめて居る。即ち言へば、諸君の概念の中でこだはつてるところの、無用の「詩」といふ観念、「韻文」といふ観念を、一切きれいに忘却して、いさぎよく散文の世界に進出し、初めから詩を散文意識で書けと説いてるのである。かつて百田宗治君は、「詩を散文に書け」といつて物議をかもした。詩を散文で書くといふことは、Aを非Aで書くといふことの論理矛盾を犯すもので、詭弁的な言ひ方であるけれども、僕の意味することはそれとちがつて、「詩的内容を散文で書け。」といふのであるから、何の詭弁でもなく奇説でもない。詩人がもし真の詩的精神をもつた詩人であつたら、たとへ散文意識で書いたものでも、必然に詩文学としての特殊性が現れてくる筈である。今の詩人がフォルマリズムにこだはつてるのは、彼等に真の詩的精神がなく、一度そのフォルマリズムを捨てた場合、詩人としての特殊権を喪失し、文壇ゴミ捨場の紙屑箱に、自己の藝術を捨てられることを自覚して居り、且つ卑怯に恐れて居るからである。
大宅壮一氏が言ふ通り、日本の詩人は批判性(客観的認識力)を持たないのである。もちろん詩人といふものは、本質的に言つて主観的の人間であり、「詩」といふ文学そのものが元来「主観性」のものなのである。大宅氏の言ふ意味が、もし詩に散文的のレアリズムを要求したり、詩人その人に客観人を所要したりするのであつたら、それは明らかに大宅氏の認識不足で、彼の詩文学寧に対する無知を暴露してゐる。詩人は「主観人」であることによつて詩人なのだ。しかしこの「主観人」といふ意味は、「客観性の貧困」を意味するのではない。批判性や客観性やを、充分自己の中に包括しながら、それを人格的に統一して、終始一貫、強い主観の燃焼で人生を押し切るところの人を言ふのだ。この本質上の性格に於て、詩人は全く小説家のレアリスト(客観人)とちがふのである。詩人の見る人生は、どこまで行つてもエゴの主観の人生であり、主観の歌ふ情熱的の人生である。そしてゲーテや、ハイネや、ボードレエルやが、すべてさうした典型の詩人であつた。
然るに日本の詩人といふものは、概して皆大宅氏の言ふ通り、その主観の中に批判性を持たないところの、単純な中学生的センチメンタリストにすぎないのである。大宅氏の言ふ通り、彼等はその「客観性の貧困」によつて、思春期の青年時代にのみ詩を書いてゐる。そして一度客観の批判性を獲得する時、さつさと詩を捨てて小説に走つて行く。だから日本の詩といふものは、ニキビ文学としての感傷以外に、一も真の文学的進出を見せないのである。しかしこの種のセンチメンタル詩人は、他との比較に於て、日本ではまだしも純粋で質の好い方の詩人である。なぜならその他多くの詩人は、彼等の顔からニキビが消えると同時代に、真の詩的情熱を喪失し、真の主観的人格を無くしてしまふからである。つまり多くの詩人等は、単なる趣味性や修辞学やで、惰性的に詩を書いてるにすぎないのである。ニキビ文学の感傷詩人は、すくなくとも彼等に比して、純粋のリリシズムを持つてるだけ、より本質的の詩人と言はねばならないのだ。それほど日本の詩壇は、実際に心細いものなのである。
要するに大宅氏の詩人論は、一般論としてまことに妥当の言であり、よく現詩壇の本質的病所を突いてゐる。またこの病気の原因を診察して、これを個人的な詩人の罪に帰せずに、日本の現状する文化的環境、社会的環境の罪に帰納したことも、僕の「純正詩論」等で常に述べてることと一致し、全く同感の次第であつた。大宅氏ばかりでなく、近頃この国の思想家や評論家やが、詩に対して急に深い関心を持ち初め、諸所で諸家の詩論を聞くやうになつたのは、僕等にとつてまことに心強く悦ばしい現象である。しかもかうした所謂「局外人の批判」が、概して皆現詩壇の第一義的問題に触れ、僕等を啓発する所の多いのは、一層また悦ばしいことである。
過去二十年に亙る僕の詩壇生活は、日本のいはゆる詩人といふ連中が、概して皆「思想上の小児」であり、批判性の貧困さに於て、文壇の最下級に居る乳臭人であることを教へてくれた。彼等の多くは、素朴的な激情性によつて興奮することを以て、詩人の純粋性と考へてるほど、それほどインテリ性のない単純素朴の人間である。「常識」といふ言葉を、健全なる判断力と解する意味に於て、日本の詩人の多くは、過去に或は常識以下でさへあつたか知れない。「乳臭稚態」といふ言葉は、一般的に言つてよく日本の詩人に邁表されてた。すくなくともヴァレリイやコクトオが発育するには、あまりに非インテリ的に稚態すぎる詩壇であつた。
それ故僕は、最近文壇諸家の詩論を読み、初めて漸く、此処に「語るべき友を得たり」といふ感が深い。すくなくとも彼等の詩や詩壇に対する批判は、僕等の仲間内の小児病的言辞に比して、遙かに聡明で物解りが好く、一先づ常識のレベル線上に達して居る。過去二十年の間、僕が仲間内の詩人に向つて、常に飽かずに懇々として説いて来たことは、詩の本質論として、全く常識的自明事にすぎない真実のこと、そしてしかも、過去に詩壇人から無理解に聞き流され、或は正当の理由なくして、感情的暴論者流に非難反発され通して来たすべての思想は、最近詩壇以外の文学者(特に評論家)によつて、初めて正統に理解され、此処に漸く新しい知己を得たわけだつた。
この事実は、僕の過去の詩壇生活が、長い間、孤独の寂しさを忍んだだけ、今となつて一層また嬉しいのである。最近も現に「文学界」の座談会に出席したが、小林秀雄、河上徹太郎、舟橋聖一等の諸氏の言ふ所が、よく現代日本詩の中枢神経にふれてるので、これを仲間内の詩人座談会と比較し、却つて遙かに有意義のものを感じた。その他、三木清、中島健蔵、保田與重郎諸氏の詩論も、その理解力が広く健全なることに於て、時に却つて日本の詩人たちの無知を凌駕してゐる。日本の詩と詩壇とは、今日事実上に於て、却つて彼等の評論家に指導されて居るといふ観がある。そしてこれは、過去に於ける日本詩のインチキ的発育と、そのイカモノ的存在を証するところの、一つの諷刺画的皮肉である。