小説と詩的精神の問題


 詩は主観に属し、小説は客観に属して居る。詩は小説から離れるほど純粋詩であり、小説は詩から離れるほ
ど純粋小説である。そこで「散文的な詩」が不純であるやうに、「詩的な小説」もまた本格でないといふこと
になる。但し「本格」でないといふことは、必ずしも文学として悪いといふことではない。さうしたものはさ
うしたもので、別にまた特殊な散文詩的価値があるわけだが、小説として本格筋でないといふのである。
 本格的な小説とは、レアリチイに徹底した文学を言ふのである。作者が主人公と一緒になつて感傷したり、
詩的リリシズムの興奮に酔つたりする時、文学の本質性がそれ自らが「韻文」になつてしまふ。本格的の小説
では、文学からこの韻文を排斥し、レアールの徹底した散文を書くことが要求される。十九世紀末葉の自然主
義は、初めてこのことを文学に主張づけた。それ以前の文学(特にたとへば浪漫派など)では、この点での認
識が不明であり、散文意識と韻文意識が混同して居た。といふわけは、昔は「詩」が文学の帝王的権威であつ
たからだ。近代に入るまでも、美学の定則は詩人によつて書かれて居た。即ち一切の文学は、詩をそれの山頂
的標準とし、詩に近い形式と、詩に近い精神とで書かるべきものであつた。そこで浪漫派の文学は、小説に於
てさへも、それの主観的モラルやイデオロギイやを高く掲げ、作者が作中の人物と一緒になつて感傷した。浪
漫派の文学といふものは、事実上に於て一の「韻文精神の文学」だつた。
 自然主義以来のレアリズムが、すべてこの主観的浪漫主義に反対した。フローベル等の人々は、文学からそ
の韻文精神(印ち詩)を排斥し、小説をして純粋に小説的なものにしようと考へた。そこで近代文壇の常識は、
過去の常識を啓蒙し、すべて「詩的なもの」を文学から追ひ出すことに熱意した。「汝の主観を捨てよ」「現実
に即せよ」「空想やヴィジョンを排せ」「感激性を殺せ」「夢をもつ勿れ」「美的恍惚は遊戯である」等々。すべ
て一言で言へば「詩を殺戮せよ」といふことが主張された。
 自然主義のこの運動は、過去の美学に対する正面の反動だつた。過去の美学は詩人によつて書かれて居た。
それは小説等の散文を、詩の隷属下に置いて思想した。そこで近代のレアリズムが、この専制者の隷属から独
立し、散文をして散文の自立性を獲得するため、詩を正面の敵として烈しく争ひ戦つたのである。
 所で今日、この戦争は既に経つた。散文学としての小説は、そのレアリズムの美学で文壇を切り取つてしま
つた。既にその独立を自主権した小説は、今日もはや詩を敵国視する必要がなくなつた。今日の常識は、詩を
散文精神の隷属に置くのでもなく、散文を詩的精神の隷属に見るのでもない。両者は二つの王国として、夫々
別々の主権によつて、別々に併立してゐる独立国である。二つの文学は、互にその主権内に斬り込むことを許
さないのだ。今日の詩人は、もはや小説に詩を求めず、今日の文壇常識は、もはや詩にレアリズムを要求しな
 しかしながらこの併立関係は、文学の表面的な常識観念にしか過ぎないのである。真の本質上の点から見れ
ば、韻文精神と散文精神、即ち詩と小説とは、文学の中枢神経を全く一にするものなのである。前にも言ふ通
り、詩的精神は主観に属し、散文精神は客観に属する。しかしながらこれは部門的の相封関係である。もつと
上位の項に立つて、文学そのものの本質を考へれば、詩も、小説も、戯曲も、エッセイも、押しなべてすぺて
              エ ゴ
の文畢する精神は、黍く皆「自我」の主張であり、それ自ら「主観の態揚」なのである。この鮎で文学や拳術
は、科挙の封舵する世界に属する。すべての文学は主観であつて、科学のやうに純客観の世界を持たない。そ

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れ故に文筆は、科挙に対して廣義の 「詩」を意味して居り、すぺての文曲学者は「詩人」なのだ.もしその本質
上に於て、廣義の詩人と呼ばれ得ないやうな文学者、即ちその生活情操に於て、主観の強い情熱を持たないや
うな文学者があつたとすれば、小説家にまれ評論家にまれ、彼等は決して眞の文学者ではない。この文畢棉紳
の第一議事では、浪漫主義も自然主義も、ロマンチストもレアリストも、はたまた詩人も小説家も − 彼等が
眞の本質的文学者である限り1必ず同一種目の人間に属して居る。
 そこで詩と小説、もしくは浪漫汲と自然汲との差別は、文寧に於ける本質精神の相違でなく、単に文学する
態度の上で、封象への観照や表現を異にするところの、方法論上の異論にのみ存して居る。ゾラやツルゲネフ
のやうな小説家が、ハイネやゲーテのやうな詩人に比して、主観的な生活燃焼を持たないところの、非詩人的
な人間だと言ふことは決して無い。ただ自然や人生に対する認識の方法上で、前者のそれが非韻文的であつた
といふ差別にすぎない。韻文的な人生観とは、心に起つた主観の波動を、封象の感情の中に韻律させ、りリシ
ズムの中に自我を賓現する意識を言ふ。詩人は常に報文的に世界を眺める。そこで詩人は常に歌ひ、小説家は
常に客観的に「描く」 のである。
 それ故に小説する精神といふものは、りリシズムに封する主観の鬱属された逆説である。小説家の寂しさは、
歌ひ得ない人生の悩みに就いて、レアールの観照を書かなければならないといふ、不幸な決定された宿命にあ
る。この宿命的な反省ほど、多くの小説家を寂しくさせるものはない。それ故にアンドレ・ジイドやストリン
ドベルヒやは、詩人と生れなかつた自己の不幸を、百度も繰返して嘆いて居るし、モーパッサンやフローベル
でさへ、詩が文筆の一切だと言つてる。ツルゲネフは晩年に散文詩を書き、過去に文学者として生活して来た、
自己の最終の表現と満足を見出してる。すべての小説家と文学者にとつて、詩人はその羨望のイデアであり、
詩が文学の最初のもので、同時にまた最後のものとして思惟されるのだ。
∂∫ 詩人の使命
ミ題意
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 小説家が、その 「表現」に於て詩を持たないのは(或はまた詩を殺致するのは)彼等にとつて至官である。
だがその「精神」に於て詩を持たないのは、文学者としての本質的虚妄を意味する。心に詩を持たないやうな
作家は、単に小説家でないばかりでなく、本質上に於て眞の文孝者ではないのである。心に詩をもつといふこ
とは、生活に「夢」をもつといふことである。デカダントやニヒリストでさへ、夢を持ち得ないといふことに、
夢を迫ひ求める情熱の悩みを持つてる。十九世紀末の自然主義文畢は、それの悩みを歌つたデカダンスの抒情
詩だつた。デカダンスでさへない文単にモラルはない。そしてモラルのない所に眞の 「人生」はない。今の日
本の小説家や文壇人やは、この肝心な「人生」を持たないのだ。彼等は夢を持たないばかりでなく、それを持
ち得ないことの悩みさへ感じてない。彼等はデカダンでさへもないのである。そこで日常生活の身連記事を、
卑俗な茶飲話の調子で安易に書いて居られるのである。
 詩的精神のない文学は虚妄である。詩人であることをイデアにせず、詩を文寧の圏外に置き、無関心に白眼
成して居るやうな文壇から、眞の本質的な文学が興り得る道理はないのだ。
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百度もまた繰返して