新しさについて


 雨が降つてる。庭の水たまりの上に、小さな水泡が浮び上り、たちまち消え、また次々に新しく、後から後から浮んでくる。新しいといふことが、単に時間上の継起を意味するならば、それは水面の泡と同じく、また動物の歴史(蟻の卵から生れた蟻は、先祖の蟻よりも新しく、そして数千年来同じである。)と同じく、何の意味もないことである。

 「新しい」といふことが、もし前の者からの発展でなく、逆にそれの衰退を意味するならば、すべての新しいものは邪悪である。

 西洋十九世紀の文化と、西洋二十世紀の文化とを比較せよ。或は明治中期の日本文化と、昭和現代の日本文化を比較せよ。公平の批判から見て、後者がもし前者に優つて居るならば、今日「新しい」と言はれることは名誉である。だがもしさうでなく、却つて文化の衰退した兆が見えるならば、今日「新しい」と言はれることは不名誉である。

 すべての新しいものは有価値である。故により新しき時代に属するところの、より若きゼネレーションの詩人群は、過去に生れた詩人に比して、すべて皆「新人」であり、それ故に有価値である。
 この馬鹿馬鹿しく没理性の思想が、かつて少し以前、日本の詩壇に常識的公理として通用した。それを称へたところの人々は、彼等の年齢が若いといふこと(生理的事実)と、生れた時代が遅いといふこと(時間的継起)以外に何の秀れた詩才もなく、特殊なオリヂナリチイもないところの、そして単に前の時代の詩人たちを、亜流するにすぎないところの人々だつた。そこでつまり、前に言つた論理だけが、彼等にとつての自衛であつた。そのロヂックを徹底すれば、赤ン坊がすべての中での新人であり、最も有価値の人間だといふことになる。だが彼等の中の一人も、あへてそれを言はなかつた。
 「新しさ」の価値は何処にあるか? 過去の日本の詩人たちは、舶来香水の瓶を嗅いで、流行のレッテルを次から次へと張りかへて行つた。日本の詩壇の「新人」とは、ファッション・ブックの頁を繰つて、何人よりも速く、アップ・ツー・デートのニュー・スタイルを衣装することであつた。所で、「新しさ」の価値がそれだとすれば、新しさとは、軽佻浮薄なキザモノと半可通を意味する外、何の文化的意義があるものではない。「新しさ」の真の価値は、現に流動変化してゐるレアルの社会と、自己の環境してゐる現実の人生とから、一切の現象を支配してゐる真の哲学(第一原理としてのエスプリ)を、心情に於て深く感じ、直観に於て正しく掴み出すことである。故にゲーテの言ふ通り、真の詩人は本質的に一種の哲人(感情の哲人)であり、また哲人でなければならないといふ結果になる。「新しさの価値」とは、つまり言つて、「時代の神経を把握すること」の智慧であり、その外の何物でもない。