詩人は何を為すべきか


(P題岳
 詩人−限定されたる意味に於ての詩人といふ語は、今日に於て、抒情詩人を指すのである。血虞で「今日
に於て」と断つたのは、昔はさうではなかつたからである。普は詩といふ文学の領域が廣かつた。昔は韻文で
書いた一切の文挙が、叙事詩とか、物語詩とか、諷刺詩とか、寓意詩とか、警句詩とかの名で呼ばれた。そこ
で詩人の種類もまた、無数にあつたわけである。今では萌文が廃れてしまつた。そこで叙事詩は歴史文学とな
り、物語詩は小説となり、劇詩はドラマとなり、警句詩はアフォリズムとなり、思想詩はエッセイとなり、す
ぺての詩が散文に取られてしまつた。ただ一つ、詩の中の眞の純眞の詩であるところの文学、抒情詩だけが残
つてゐる。今日では、詩人といふ名前が、抒情詩人に限定されてしまつたのである。
 しかしながら詩人の仕事は、今日でも昔と同じく、決して限定されて居ないのである。ゲーテでも、ハイネ
でも、シェレーでも、ボードレエルでも、グウルモンでも、コクトオでも、グァレリイでも、すぺての外国の
詩人等は、歴史を批判し、文明を論じ、エッセイを書き、ドラマや小説の顆さへも書いて居る。ただ今日の詩
人たちが、昔の詩人とちがつてゐるのは、それを報文の形式で書かないで、散文の形式で書いてることである。
昔は哉文で書いた故に、それが劇詩とか、物語詩とか、警句詩とかの名で呼ばれた。今日ではそれを詩と呼ば
エ汐 詩人の使命
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ない。しかし文学の本質上では、今日の詩人もまた、昔の詩人と同じやうに、劇詩や叙事詩や諷刺詩やの、あ
らゆる多方面の仕事をして居るのである。ゲーテの一生に書いた文拳は、すべて皆本質上の詩文寧であつた。
しかも純粋の抒情詩は、彼の十数巻に亙る全集中での、ただの一二筋にすぎないのである。その他のより小字
宙的の詩人でさへが、全集の三分の二を散文で書き、残りの一分だけを抒情詩で歌つて居る。
 日本の詩人だけが、不思議に世界の異例者である。日本で詩人と言はれる人々は、抒情詩以外に何も書かな
い。むしろそれを書かないことを以七、詩人の純潔を守るやうに考へて居る。日本の詩歌には、文学の本質上
から言はれるところの劇詩もなく、叙事詩もなく、諷刺詩もなく、思想詩もない。昔からの歴史を通じて、日
本に有つたものは抒情詩ばかりだ。日本には昔からして、和歌や俳句の抒情詩人がゐた。しかし一人のホーマ
ーもなく、サッフォもなく、、、、ルトンもなく、ダンテもなく、ぺ−ヲルカもなく、ニイチェも無かつた。日本
人の「詩」といふ言葉は、昔から狭い抒情詩の範囲に限定されてた。そこで「詩人」といふ言葉の意味も、畢
に和歌や俳句だけを専念に作るところの、風流人といふ意味に限定されてた。そして今日の詩人たち − 彼等
は自ら二十世紀の新人を以て任じてゐる1でさへが、同様にその俸統をひいて居るのである。詩といふ言葉、
詩人といふ言葉は、彼等の新しい時代の観念に於てすら、風流を専念とする塵外のイデアなのだ。
 詩人が限定された意味の詩人であり、純にそのチビカルな詩人であるといふことは、或る條件に於ては名著
であり、或る條件に於ては不名著である。たとへば昔の日本に於て、それは一つの名著であり、詩人の純粋さ
を保澄して居た。なぜなら昔の日本は、文明が孤立的に饅育して、民の生活が安定を得、一切がすぺて固定的
に静止して居たから。つまり言へば昔め日本は、文化がすべて「批判ずみ」の状態にあつたのである。古代ギ
リシャのやうに、君主刺と共和制との争ひもなく、スパルタとアゼンスの戦争もなく、基督教とヘレニズムと
 の思一静」田衝突もないところの、一切批判ずみの文化の中で、悠々牧人の・午睡を楽しんでゐた日本であつた。析
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 で確約棉和上いふものは、本質的に批判精神から出優して居る。批判ずみの文化の中では、諷刺藷も鉄拳酵も
一切必要がないのである。故にプラトンの理想園では、詩人は国外に放逐される運命にある。ただこの虜魂で
許されるのは純粋の抒情詩の作家だけである。抒情詩に哲寧は禁札である。抒情詩は批判を書かない(持たな
いのではない)ほど純粋である。そこで昔の日本では、詩人が限定された意味で言はれるほど、異に拳術家と
して純粋な詩人であつた。換言すればその時代は、文化が風流人を要求したのである。
 かうした社合環境は、今日の日本では全く一挙したものに攣つて居る。今日の日本は、あらゆる鮎で文化の
混乱を極めてゐる。時代は常に流動し、奨化し、一も安定の静止がない。今日の日本は、昔と反封に「批判以
前のもの」である。そこでもし「批判」といふ言葉を、プラトン流に「詩精神」と言ひかへれば、今日は正に
「詩精神を要求するところの時代」なのだ。一層もつと具鰹的に言へば、今の日本文化が求めてるものは、詩
宰術の前にあるところの詩精神であり、抒情詩の前にあるところの批判精神なのだ。常に流動欒化し、常に不
安焦躁してゐる今の日本は、昔のやうに風流人としての純潔さを、詩人のイデアに於て要求しない。今の日本
文化は、抒情詩の詩人上りもむしろ叙事詩や諷刺詩やの詩人 − 批判人としての詩人 − を求めて居るのだ。
丁度あたかも、古代ギリシャの求めたものがホーマーとプラトンであつたやうに、僕等の時代の日本がまた、
叙事詩と思想詩の詩人を求めて居るのだ。
 明治以来、長く詩の俸統観念の中に納まり、限定された詩の世界から、一歩も足を出さうとしなかつた日本
の詩人群も、最近漸くこの時代意識に目ざめて来た。それは最近諸虞に於て、諷刺詩や叙事詩が提唱され、抒
情詩からの新しき野外戦が、勇ましくラッパ吹かれて居るのを見て知られるのである。しかしながら彼等の詩
2JJ 詩人の使命

人群もまた、肝心なところで自己の認識不足を暴露して居る。前に書いた通り、今日では既に韻文といふ物が
厳つたのである。叙事詩や諷刺詩なんて言ふものは、今日に於ては頁寵やマンモスの顆と同じく、既に前世紀
古生時代の遺物なのである。今日の新しき時代の詩人は、特貌な物好きとして洒落気の外、そんなものを書き
はしないのである。グァレリイは一種の新しい新文学で、エッセイのやうな小説を書いてるけれども、古風な
叙事詩なんて韻文は書いて居ない。コクトオやジャコブは、磯智の冴えた軽い文章で、さかんに鋭い牡合諷刺
を書いてるけれども、何れも散文であつて韻文ではない。日本の若い詩壇が、今頃になつて古風な叙事詩や諷
刺詩をかつぎ出すのは、まことに不思議な時代錯誤の感をあたへる。
 何故に日本の詩人諸君は、外国の詩人と同じく、それらを自由の散文で書かないのか。此虞には二重の不可
解なTむしろ稚態的にすぎるところの1疑問がある。と言ふわけは、元来僕等の日本語には、外国語に於
けるが如き眞の「苛文」と言ふものが無いからである。日本歴史を通じて、昔から短い抒情話しか無かつたの
は、長篇の叙事詩や物語詩に耐へる頚律の構成といふものが、日本語に無かつたからでもある。特に今の非韻
文的な口語を用ゐて、叙事詩を書くなんていふことは、それを観念するだけでも無意味である。況んや「自由
詩のスタイルによる叙事詩」なんてことは、一層馬鹿馬鹿しくナンセンスである。なぜなら叙事詩とか諷刺詩
とかいふ言葉は、元来その「韻文」形式にかかるフォルムの上の言葉である。文学の内容上から言へば、この
種の文学はむしろ小説やエッセイの散文に顆して居る。ポオが「眞の意味で詩止言ふべきは抒情詩のみ」と言
                                                           辞
つたのは、抒情詩以外の他の韻文寧、即ち叙事詩や寓意詩やの顆が、文学としでの内容上で、散文の方に属す
ることを言つたのである。然るに自ら古風にも叙事詩等と稗するものが、無領、不定形の自由詩や散文詩を選
ぶとすれば、これょり奇怪に辻ツマの合はない錯誤観念はない。
 何故に日本の詩人諸君は、こんな馬鹿げた苦労をしてまで、無理に散文を詩とコジツケ、必要もない行をわ
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か。惟ふにその理由は、彼等がそれを敢文
として自認する時、折角得意にしてゐる「詩人」といふ特権を、完全に失つてしまふことを恐れるのである。
日本の文壇人といふ連中は、箕に馬鹿者のおそろひであり、畢にライン書式で行を別け、魂覚の上で韻文らし
い印象を見せさへすれば、一切無批判に詩として認定してくれるのである。反対に普通の書膿で、自ら詩とい
ふ看板を出さずに書けば、たとへ本質上に如何ほど立汲な詩であつても、全く詩文牢として認めてくれないの
である。そこで日本の文壇では、上述のやうなインチキがいちばん有数に利用される。つまり日本では、どん
な低劣無能な文学でも、ライン書式で書くことによつて、恭くも「詩」と呼ばれ、長れ多くも「詩人」といふ
掛樟を得られるのである。
 今日の詩人たちが、折角新しい自己の立場に日ざめながら、時代錯誤にも「叙事詩」や「諷刺詩」なんて言
葉を婚ぎ出すのは、全く上述の虞世的理由によるのである。それは自己欺瞞の卑怯でなければ、認識不足の馬
鹿である。詩人にもし勇気があつたら、逆に自分の方から進撃して、盲目千人の馬鹿な文壇1詩を文学の本
質で見ないで、印刷上の硯覚で判定するやうな文壇−を、啓蒙指導してやるべきである。つまらぬ子供だま
しのインチキをして、詩人なんて特権を取つた所で何になる。そんな「特権」は犬に食はせて、眞に本質上で
の詩精神を高く掲げ、日本の文化と文学とを、きびしく批判しっつ指導するところの、一世のジャーナリスト
詩人の天職を自覚すぺきだ。そして此虞に初めて、詩人の書く文学に意義が生ずる。詩人がエッセイを書くと
いふこと、詩人が諷刺や小説を書くといふことは、普通の文壇小説家や、女壇随筆家が書くのとは、全く根本
的に精神がちがつて居る。詩人の場合では、どんな種類の文学を書いても、本質的に皆高邁な指導精神が内在
してゐる。故に詩人の文撃と小説家の文学とは、同じ散文の形式であつたにしろ、一見してすぐ鮮るのだ。即
ち〓岩で言へば、詩人の文学には「詩精神」があるのだ。そしてこの詩精神のあるものを、廣義の意味で「詩」
2jj 詩人の使命


と呼ぶのだ。
 しかしながら注意しておきたいのは、どんな特別の場合に於ても、詩文拳の中心は抒情詩であるといふこと
である。なぜなら前に言ふ通り、異に文牢としての本質上から、厳重の意味で詩と呼ぶべきものは、抒情詩よ
り外にないからである。今日の日本の文化は、明白に言つて抒情詩を生むに適して居ない。抒情詩のやうに純
粋で美しい蜃術を生む為には、杜合があまり猥雑で俗化しすぎて居るのである。しかしそれかと言つて、詩人
がその俗化を謳歌し、猥雑の中に自ら順應するやうだつたら、詩人の文化に於ける存在意義が無くなるのだ。
道徳といふものが、たとへこの世の現葺から無くなつた時が来ても、道徳を求める人間の良心だけは、天の星
宿と共に不易に残るだらうとカントが言つた。詩といふ文学が、この世に現賓無くなつた時1今日は殆んど
その末世に近い時代である − が衆ても、僕等が詩を呼び求める心は不易である。そして詩の中での純粋な詩
であり、詩のエッセンス的核心であるものが、∴賓に抒情詩であるとすれば、今日事茸上にそれの亡びつつある
時代に於て、詩人の良心は一層強くそれを呼び求めなければならないのだ。月分で抒情詩を書かないからと言
つて、抒情詩へのイデアを捨てたり、抒情詩無用論を言つたりする人々は、廃ひもなく詩人の「良心」を無く
した人なのだ。詩といふ廣汎な文学を、仝宇宙系統の星辰にたとへて言へば、.抒情詩はその中心の太陽なのだ。
太陽がもし亡びたならば、他の叙事詩や諷刺詩やは、自然的に宇宙外延に分散して、散文精神の中に解鰹滑滅
してしまふのである。あの宇宙のやうに鬼大なゲーテ全集の中で、抒情詩は僅か一筋か二射しかない。しかも
その一筋がゲーテ全集のエスプリであり、エッセンスであり、仝膿の中での太警のだ。抒情詩を除いたゲー
テは、詩人としての中心引力を無くした文学者で、散文の外延に滑滅されるゲーテにすぎない。そこでもし君
の位置が、より抒情詩より遠く、散文の外野に切園してゐる詩人であつたら、一層もつと忠烈に、域の本丸で
ある抒情詩を守護しなければならないのだ。
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[感付箋
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2j∫ 詩人の使命
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川耶「川‥=瑚廿ハマい
 しかし抒情詩を守れと言ふことは、詩人の仕事を限定して、抒情詩だけを書けといふ意味ではない。前に既
に首ふ通り、今の日本の文化と融合は、詩肇術が生れでる前の、詩棉紳を要求して居るのだ。「詩蓼衝」の純
粋な形式は抒情詩であり、「詩精神」の一般形式は詩文寧(詩的精神で書いた一般文学)である。厳正な批判
で言つて、今の日本の文化に於ては、抒情詩は一つのイデア1強く呼び求められるイデア1にすぎない。
現賓にあるところのゲインのものは、詩文牢としての散文にすぎないのである。それ故に結論して、詩人は散
文を書け(別項・参照)といふことになる。前に「文寧界」に書いた論文で、今日のいはゆる「行わけ自由詩」
を骨定したのもこの故である。詩蜃術として肯定したのではない。詩文拳の一種(散文)として認可したのだ。
しかしそれが行わけに書き、見せかけのインチキをすることの愚は、前に述べた通りである。曖昧な萌文意識
をキレイに捨てて、はッきり散文意識で書いたならば、僕は両手をあげて諸君の文学に喝宋する。国民もそれ
を望んで居るし、文壇の批判もそれを諸君に望んで居るのだ。
 要するに日本の詩人は、盲き俸統の詩観念を捨て、新しき時代の詩観念を捨つぺきである。「詩」及び「詩
人」といふ言葉に封して、諸君は「観念の入れ換へ」をせねばならぬルその入れ換へが完全に出来、はッきり
した認識の判断をつ価んだならば、諸君が今日の時代に於て、日本の詩人として生活するぺく、何を為すぺき
かと言ふことが自然に解る。