難解の詩について



                                      破
「鮮らない詩」といふものが世の中にあるだらうか0西洋でもマラルメやラムボオの詩の中には、ずゐぶん難
辞なものがあつて、新聞社が懸賞で答解を募集したりしたことがあるさうだが、原理としては、詩は必ず解る
                                                 いたづら
ものなのである。解らない詩なんてものは世の中にない。もし有るとすれば、それは作者が故意に悪戯気から、
辟らないやうにトリックして書いた詩である0いやしくも本気になつて作つた詩なら、吃度解らなければなら

Z男旬瑚旬周周欄召項∨ヨ芋。句j
軋睾J何故恵を八雲]口葉恵め艶…をん患支離簸怒猛鳳の・ヴ人青め中にさぺ、何等者衷魂じょ
うとしてゐる、主観の本心が必然に現はれるから。
”空岳
 ポオはかつて新聞社に居た時、種々の考へ物や、クロスワードや、それから特に軍事用の秘密暗兢やを讃者
に募集し、片つぱしからその難問を解いて行つた。讃者の應募した暗既の中には、ずゐぷんむづかしいものが
あつて、ビラ、、、ッドの象形文字を讃むょり困難の謎があつたが、ポオは平気ですらすらと解答した。それは全
く人智を超越した神業のやうな不思議であつた。だがポオに言はせると、世の中にこれ位易しい仕事はないの
ださうである。なぜなら暗故には必ず意味があり、そして意味がある以上には言葉があり、言葉がある以上に
は文法がある。暗競の文章と普通の文章との相違は、ただその文法が虚々でちがふばかりである。だからその
特貌な文法さへ饅見してしまへば、どんな暗競でも必ず解る。人間の考へた暗既で、自分に解けないものは一
つもないとポオは言つた。
 詩と暗競とはもちろんちがふ。しかし詩の解澤の場合に於ても、ポオの言ふことは正しいのである。なぜな
ら詩の場合に於ても、やはりその作者に特有してゐる何かの文法がある筈なので、そのクロスワードの「鍵」
さへ握れば、一切は造作なく解けてしまふ。世の中に「難解」の詩は有るかも知れない。しかし「不可解」の
詩といふものが有る筈がない。原理として、詩は必ず鮮るものといふのはこの故である。
 詩の構成されてる形式は、要するに種々なる観念やイメーヂの綜合である。これが心理学の所謂観念聯合の
法則によつて、一つの表象から他の表象へと、聯想の銑によつて順次につながれて現れて来る。然るにその
「聯想の鎖」といふものは、心理学的方則によつて必然の決定された因果であるから、aの次にbが浮び、b
〃j 詩人の使命

の次にCのイメーヂが表象されて来ることは必然である。どんな破天荒の詩を青く人でも、この因果の万別を
勝手に破壊し、aと全く開聯のないWのイメーヂを、すぐに績けて表象することは不可能である○故に或る詩
人の作について、そのアルハペットの順列する様式を研究すれば、詩の情操する一切の内容が解つてしまふ0
詩の秘密を見破ることは、クロスワードを解くより逢かに易い。クロスワードの場合にあつては、一つ一つの
言葉が、一見無秩序に散伏してあり、これをアルハペットの順序に置き換へるために、その隠された秘密の鍵
(文法)を蜃見するのが興味であるが、詩の方では、初めから言葉が表面に配列されてる。パズルはただその
作者の詩人に特有してゐる文法、即ち彼の聯想の方式に於ける、或る特有の傾向(癖)を見附ければ好いので
ある。一つの例をあげょう。
〃イ
 烈風が壁を引き剥ぐ。泥水の溜りへ倒れる鶏。脚を折られた樹木。頁大な重量の反響が烈風の咽喉を塞
ぐ。ずぶ濡れの軍隊だ。この寒村の底へ沈んでゆく軍隊だ。下降する耕土の断層。
   明日は太陽が見えるだらう。


               0 0 0 0
 これは「埋葬」と題する北川冬彦君の詩である。この種の詩は、最初の一行を粛みさへすれば、後からどん
な言葉が績いて出るか、すつかり直覚的に鮮つてしまふ。「烈風が壁を引き剥ぐ」といふ言葉の中で、作者が
浮ぺてゐる一つの表象は、或るナマナマしい強い意志が、外部の暴虐な歴力によつて、無漸にも引きずり倒さ
れ、生皮を引つ剥がされたところの悲壮な戦ひの表象である。この表象のつぎには、果して「泥水の溜りへ倒
れる麹しや「脚を折られた樹木」の悲壮な傷ましい絶叫がある。ニヒリスチックになつたこの敗北主義者は、
l滅瓢箪野廿表
蜜態丁
習▼

空ころの、大きな、達しい、重量のある大集圃の意志を表象する。こんな大軍囲が全滅して、その[武装した垂表j題増
量のままで、生きながら地下に埋捜される光景は、悲壮劇としての盛り上つたクライマックスである。故に詩
の構成に於ける聯想の銑は此虞で切れる。そこで行をあけ、次に「明日は太陽が見えるだらう」と、悲しげに
未来の光明を望んで居る。
           0 0 0 0 0
 ついでに今一つ、西脇順三郎氏の詩集から、
黄色い童が咲く頃の昔
海豚は天にも海にも頭をもたげ
尖つた船に我が衛られ
デイオニソスは夢みつつ航海する。
模様のある皿の中で顔を洗つて
賓石商人と一緒に地中海を渡つた。
その少年の名は忘れた。
魔な忘却の朝。
「皿」と題する詩である。この詩の主題を好くパズルの鍵は、第二行から第五行までの言葉にある。「海豚」
はギリシャの沿岸地中海に昔たくさん生棲して居た。それはホーマーの詩にも出て来るし、古代ギリシャの海
囲などにもよく描かれて来た。作者の西脇氏は、此虞でその古代ギリシャの海固をイメーヂに表象して居るの
〃∫ 詩人の使命

である○だから見よ、次には果して頭首の尖つた古代ギリシャの船が、女神に捧げる筏を積んで航海して居る。
そして酒と情熱の詩紳デイオニソスは、地中海の小春日和に居眠りをして居るのである。静かな和やかな、青
く晴れ渡つたギリシャの風景0轍僚の菓影にアポロの夢みるアゼンスの得。その海肯き南国の朝こそ、正しく
「賓石商人の朝」にちがひない○それ故此虞まで作者の後を迫ひつつ、その聯想の糸をたぐつてくれば、後の
二行は書かれないでも自明であり、この詩の構成してゐるパズルの鍵が解けてしまふ。即ちこの詩は、その
「皿」といふ題が適切に示す如く、或るさわやかな陶器のやうに、青く冴えた、南欧ギリシャの朝の風景を情
操して居る0或は伶その上に、ギリシャ風の皿に描かれた海囲などをも表象してゐる。

 かういふ法則にして鰐いてくれば、どんな詩でもすぐにパズルが手に入るので、解らない詩なんか無いわけ
である0しかし賓際には、ずゐぶん難静の詩も世の中にある0その難鮮の詩といふのは、イメーヂの表象に於
ける聯想の方式が特異なもので、それが特異であるほど難解である。例へば「自」と言つて「雪」を聯想し、
雪からまた「冬」を表象するのは普通であつて、かういふ詩ならどんな子供にもすぐ鮮る。然るに、或る種の
詩人は、「椅子」から「飢饉」を聯想したり、「洋燈」から「運命」を表象したりする。もつとひどいのは、ラ
ムボオのやうに母音のaから果を聯想したりする0かういふ詩は難鰐と言はれる。しかしラムボオでも、aは
黒と言つた後で、すぐにあの小さな黒い鮎のやうな表象、即ち「蝿」を浮ぺて居竜ので、最初の一行では解ら
ないでも、次の行に移つてくれば、作者の心像してゐるものが、自然と讃者の表象の方に映されて来る。マラ
ルメの詩が難鰐だと言はれるのは、おそらく音韻の方の表象に属するのだらう。マラルメの作詩法は、詩想を
言語の字義に現はさないで、主として韻律などの音楽に現はして居るといふことだから、かういふ詩に出逢つ
た場合は、召声の次にmoTのが来るといふ工合に、主として音韻の方での聯想的法則を饅見すれば好いのであ
〃β
礪「「
る。へ日本の「新古今集」の和歌なども、主として音楽の方に詩美が構成されてゐるのだから、やはり音頑上
でのパズルを解かないと理解されない。)
 しかしどんな難解の詩であつても、前言ふ通り聯想の法則は一つであるから、少しく注意して科学的に分析
すれば容易に解る。それが解らないのは、讃者の側に教養が不足して居り、作者の表象する世界を所有して居
ない場合である。例へば上例の西脇氏の詩でも、讃者にしてもし古代ギリシャの歴史的知識を映き、往時のア
ぜンス市街をイメーヂに浮ぺる材料が映乏して居た場合、正直に告白して解らないと言ふことになる。それ故
一般に難解と言はれる詩は、作者が特異の趣味に表象を所有して居り、且つその趣味が一般に普遍して居ない
            0 0 へ〕 0 0
場合である。例へば日夏秋之介君の詩境では、欧洲中世紀の特貌な牡合が主題になつてる。その暗黒時代の中
世紀には、至るところに羅馬カトリックの寺院がそびえ、度数サバトの徒は等に股がつて夜天を飛翔し、錬金
術師は抑揚と蛇と狼の血から、人造人間や不死の壷薬を作らうとして呪文を唱へた。日夏君の詩は、かうした
怪異に充ちたエキゾチシズムの中世紀を舞蔓にして、自由なイメーデの巽を横げて居る。然るにかうした特貌
の趣味は、一般の日本の讃者と挽交渉で、且つ極く少数の人だけしか、中世文化への特貌教養を持たないため、
即ち一般に難解と云はれるのである。だがその教養を有し、同じ趣味を所有してゐる人にとつて見れば、日夏
君の詩の如き少しも難解でなく、ただ一行で全部が鰐るやうなものなのである。前例した西脇氏の詩の如きも、
やはり日本としては難解と許される部類に属するだらう。
 本質的の意味で言へば、世に難辟の・詩といふものはない。しかし他の別の意味で難鰐の詩がある。即ち意味
だけは解つても、詩情の本質する面白味(ポエヂイそのもの)が解らない詩である。もし作者が、眞の旺盛な
〃ア 詩人の使命

詩情によつて書いた詩なら、決してそんな事は無い筈だが、そのポエヂイが無く1もしくは稀薄で−書い
た物には、往々さうした場合がある○しかもその稀薄な詩情に代用させて、言語のトリックする修尉の構成を
遊戯する時、一層この種の「辟らない詩」が出来上つて来る。この顆の難解詩は、今日詩壇にゴロゴロたくさ
ん樽がつて居り、それが皆自分では「流行の尖端を行く新しい詩」だと思つてるのだからやり切れない。最近
室生犀星君は、詩に告別することの理由の一つに敷へて、今の詩が解らないと言つてるが、その意味する「今
の詩」が上述のやうな物だつたら、解らないのが官然であり、室生君の言葉は逆説的の諷刺になつてる。
〃β