詩人の嘆き


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初めに漠然たる「感じ」があり、後に意識がこれを分析する。英語の或る文章はよくこれを言語の配列に示
してゐる。
 }t H▲野山臼∽.

このItは漁感であり、天候に関する漠然とした感じである。

Htjづのりq f訂のt9d81.
 これを日本語に辞すれば「どうも好いお天気ですな」である。Htは日本語の「どうも」に富る。それは天
候に於ける杢気、気分、鱗覚等の綜合された感じを現はす。Htは何事をも説明しない。だがその中に一切の
意味が暗示されてる。これに績く以下の言葉は、畢にその意味(感じ)を分析したところの、概念の説明に過
ぎないのである。
「詩」の文単に於ける地位が、丁度このフレーズのHtに官る。詩は何事をも説明しない。だがその詠嘆抒情
のヰに、一切の綜合された文化意識を暗示して居る。そこで後は思想家や小説家が来て、これを意識に分析反
省することから、説明としての他の散文挙が生れるのである。文壇に於て、詩は常に先頭にあり、小説評論等
がこれに績く。濁逸に於ても、彿蘭西に於ても、詩人が常に文壇の先駆者となつて競令した。そしてボードレ
エルの象徴詩の中には、十九世紀のあらゆる悩みが暗示されると言はれて居る。
 しかしこれは外国の事賓である。日本にはこの公式が適用されない。なぜなら日本の詩と詩人は、河上徴太
郎氏が弛明にも言ふ如く、時代の文化情操と関係なく、濁り花鳥風月の世界に遊んで、特貌な畢性生殖をして
居るからである。風流とダンヂイズムとは、勿論西洋の詩人にも共通して居る。だがその趣味性の根砥には、
生活人としての時代的融合情操が存するのである。日本の一般の詩人の如く、単なるハイカラのエキゾチシズ
仏や、畢に外国詩の流行を追ふダンヂイズムやで、根砥のない趣味性にのみ惑溺してゐる風流文学は世界にな
βア 詩人の使命

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 それ故に日本の詩といふものは、いつでも文化的時代情操の外に孤立し、文壇と全く漫交渉の世界に居るの
である。外園の常識では、詩人が常に文壇の先願者である。だが日本の常識では、詩人が文壇の門外者である。
「詩人」といふ言葉は、日本では昔から風流人を意味して居た。彼等が時代思潮と交混なく、濁り深山に住ん
で雪月花の吟懐を楽しむほど、いょいょ以て風流人であり、それ故にまたいょいょ本質的の詩人であると考へ
られた。先年或る有名な大雑誌が、敷人の詩を掲載した時の廣告に日く、「詩人の清懐。以て三伏の炎暑を忘
れ、苦熱の俗腸を洗ふに足らん。」と。
 何故に日本では、詩がかうした特殊の状態にあるだらうか。この解説は既に河上徽太郎氏も言つた通り、日
本の詩の俸統が歴史的にちがふからだ。そして歴史がちがふといふことは、我々東洋人の自然観や人生観やが、
本質的に西洋人とちがふ事を意味するのだ。即ち我々日本人は、昔から自然を征服することの文明でなく、自
然に同化順應して、自然と共に楽しむことの文明を学んで爽た。そこで我々の意味する文化人とは、深山に入
って自然と一致し、和歌俳譜の道を楽しむ風流人を指示するのである。「風流人」と「文化人」とは、日本に
於七シノニムであり、併せてまたそれが「詩人」の範疇的概念だつた。所が西洋は反封であり、文化の概念が
大いに東洋と建つて居る。西洋人の意味する文明とは、自然に封する人間主義の戦ひであり、自我を強調した
ヒューマニズムの建設である。そこで、西洋の文化人とは、自我の観念が態育した杜合的批判人を意味して居
る。そこでまた「詩人」と「哲人」とがシノニムになり、併せてそれが「文化人」の典型になるのである。
 現代日本のあらゆる不幸は、僕等が過去の俸統日本に生れながら、すべてに根本がない土壌の上に、外国風
の新しい文化を建設しょうとすることの悩みにある。この切賓な悩みを感ずる者は、畢に僕等の詩人ばかりで
はない、小説家も、思想家も、学者も、或はまた政治家でさへも、すべてのインテリがひとしく皆さうなので
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ある。シエストフ的の言葉で言へば、我々現代の日本人は、虚燕の中から文化を創造しょうとして▲靡いて居る
のだ。
「何物もない、何物もない。だが我々は、虚無の中から手探りをして、何物かを掴まなければならないのだ。」
 この絶望的な叫び馨は、今日牡合の至るところから聞えて来る。すぺての知識人種の中で、最も無批判的な
行動人物、即ちあの政治家たちでさへが、今日園饅問題のヂレンマに面接して、のつぴきならない懐疑を始め
た。
「何物もない。何物もない。」
 だが何うすれば好いといふのだ。一鰹僕等の詩人は何虞へ行くのだ。俸統の日本に辟つて風流の詩を作るぺ
きか、それとも新日本の文化の為に、西洋風の人間詩を書くぺきだらうか。その何れも僕等に出来ない証文で
ある。なぜと言つて今日既に俸統の日本はなく、しかも未だ外国風の文化は日本に建設されて居ない。つまり
もつと詳しく言へば、詩が文化相や祀合性を生むぺきところの、本質上の蜃術的イメーヂが無いのである。僕
等の使用するすぺての言葉は、日本に於て一種の風流語になつてしまふ。今日何を歌つたところで、我々の詩
想は風流詩以外に一歩も出ない。最も新しいと言はれる詩でさへが、やはり本質上のモダン風流詩にすぎない
のだ。もし強ひてそこから一歩を出さうとすれば、実の形態すぺき賓術條件を破つてしまふ。そして詩人は殺
伐な院外輿壮士となり、「やッつけろ」的政治演説をする外に道がないのだ。こんな悲しい嚢術家の生活はな
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 日本の詩人よ。何虞へ行く! 幾度これを繰返しても、僕には解決の出来ない問題である。
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