我れは尚悔いて恨みず


 僕の詩論の誹謗者は、僕が十年一日の如く同じことを繰返し、少しも進歩性がないと言つて攻撃する。ところでこの誹謗は、逆に僕にとつての自誇となつてる。なぜといつて僕の立場は、「新しき欲情」や「詩の原理」の出発以来、一貫して日本の詩の正しい指導と、文壇に於ける詩精神の建設と、併せて日本文化の義(ただ)しい改造とを目指して来たから。そしてしかも、僕の理想は今日尚一も実現されてないのである。すべての理念を掲げるものは、その理念が実現され、敵が完全に降服するまで、決して戦ひを止めないのである。僕は単なる新しがりや、流行のジャーナリズムやを目標として、その日ぐらしの変化する詩論をするのではない。僕の詩論する精神は、初めから一貫して一つしかなく、しかもその敵は非常に大きく、文化と社会の根柢に地層して居り、到底個人の力を以て、動かすことの出来ないほどのものなのである。

   われは尚悔いて恨みず
   百度(たび)もまた昨日の弾劾を新たにせむ。   (詩集 − 「氷島」・新年)

といふ詩句は、僕の生活に於けると同じく、詩論に於ても同じことで、綿々尽きる期のない怨嗟である。僕の昨日は敗北であり、今日もまた敗北であり、無限にいつも敗北だつた。それ故にまた、昨日も悲しく今日も悲しく、無限に綿々たる悔恨が続くばかりだ。しかも僕はあへてその「悔恨」を悔恨せず、敗北に処して無限の抗争を続けて居るのだ。僕の詩論は、常に詩精神の核心的な不易を捉へ、属性的な枝葉問題に触れないのである。然るに変化は属性の部分に存し、本質の部分に関与しない。詩の様式は時代と共に変化しても、詩のエスプリは一にして不易である。僕は常に地球の地軸に立つて詩を論ずるので、地球の表面に居てその廻転を論ずるのではない。故に僕の詩論は、すべての真理やモラルと同じく、常に古くして常に新しく、すべての螺旋的廻転の中軸に立つ。即ちその意味で、僕の詩論には進歩といふ曲線がないのである。
 我れは尚悔いて恨みず、十年一日の如く論じて来た。そして尚今後も、十年一日の如く繰返して、綿々尽きるなきの情を述べるであらう。僕を退屈と思ふ読者は、よろしく耳をふさいで聞かない方が好い。ただ僕と同じ怨憤や悲哀やを、日本の文化に対してもつ人だけが、永久に敗北して、百度もまた昨日の弾劾を繰返す僕の痴言を、正しく認めてくれるであらう。