女性詩人に望む
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叙事詩の元租はホーマアであり、抒情詩の出饅は女詩人のサッフォだつた。それにもかかはらず、或る西洋
の誇∧が言づてる0女には抒情詩は書けない。叙事詩だけしか書けないと。
これは逆説のやうで本官である。
準習「▼
僕の見てゐる鞄面では、女の人の作る詩といふものは、たいてい家庭のことや身遽のことを、外部から叙述風
に歌つてゐる。異に主観の強い感情を、内部からむき出しにして書いたもの、即ち叙述や説明を持たない純眞
の抒情詩といふものは、女の人のポエヂイには無いやうに思はれる。ニイチェも言ふ通り、女性といふものは
「眞賓」を忌むのである。女はどんな場合にも赤裸々の自己を語らない。女には眞の意味の主観がない。だか
ら女には「叙述」がぁって「告白」がなく、叙事詩が書けて抒情詩が書けないのである。サッフォの抒情詩と
いふものも、資は今日の文学でいふ懸愛小説のやうなものであつて、韻文の形式に盛つた叙述文季である。今
日の意味でいふ抒情詩、即ち純粋主観の表現を意味するポエヂイとは、大いに内容が異つて居る。
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そこで抒情詩は男性の文学であるといふ定理が成立する。然るに今日では、抒情詩が詩の全部であり、抒情
詩以外に「詩」といふ文学が無いのであるから、上述の公理を換言すれば、詩は男性の専有文学だといふこと
になる。西洋の文壇を見ても、代表的な詩人は全部留男である。女の大詩人といふものは、サッフォ以来殆ん
ど見たことがない。稀に有つても三流程度の詰らない者にすぎない。之に反して小説家には、才能のある女の
作家が中々多い。日本現代の文壇でも、宇野千代とか、窪川稲子とか、平林たい子とか、林芙美子とか言ふ女
流作家が甚だ多く、男の小説家と眉を並べて書いてゐる。そして一方に、女の詩人といふものは殆んど居ない。
稀にあつても、男と眉を並ぺるほどの者は全く居ない。つまりデエメル(?)の言ふ通り、女には銭事詩が書
けて抒情詩が書けず、小説が書けて詩が書けないのである。
しかしここにはまた一つの例外がある。すくなくとも昔の日本には、歴史上に残る女の詩人がたくさん居た。
例へば小野小町や、和泉式部や、赤染衛門や、式子内親王やである。彼等は眞の純異な抒情詩人であつて、そ
の上にも男性に劣らない一流の天才だつた。支那にも西洋にも、かうした女性の天分ある抒情詩人を見たこと
がない。この鮎で日本歴史は特異である。そしてこの理由は、日本の「和歌」といふ詩の形式が、女性のりリ
∫βJ 詩人の使命
γクに最もよく邁應してゐた急かと息はれるJつにはまた日本の文化が、平安朝といふ如き蒜勅に於て、
女性を中心に餞達した為であらう○何れにしても、和泉式潮とか式子内親王とかいふ詩人は、すくなくとも懸
愛詩の世界に於て、ハイネやゲーテに甚敵し、これに優るとも劣らないほどの天才だつた。僕は此頃になつて、
かうした昔の女流歌人に深甚の興味を感じ、彼等の作品を改めて鑑賞してゐるけれども、その詩情の純正し
て熱烈であること、その詩壇の幽玄にして限りなき象徴の意味に富んでること、及び技巧の精妙巧緻を極めて
ゐること等に深く感嘆してゐる0近頃西洋で言はれる純粋詩とか、音象詩とか、未来詩とか言はれるもののイ
デアは、結局かうした日本の古い抒情詩に表されて居るやうに思はれる0だが此虞ではその折澄を経へておく。
かうした日本の古い抒情詩(和歌)は、明治になつても伺現存し、その俸統からして輿謝野晶子女史の如き
天才を生んだ0最近でも、伶この博統の詩形からは、比較的シンセリチイのある女流の抒情詩人を多く出して
る0之に反して僕等の住む自由詩の方面からは、眞のポエヂイを有する女流作家が殆んど出ない。前に言ふ通
り彼等の詩は、ポエヂイそのものが概して皆散文的で、詩の主観的なリリックが無いのである。和歌を作る場
合には純一なリリックを持つてる人でも、自由詩を作る場合には不思議に皆散文的、√叙述文学的になつてしま
ふ0ニ饉これは何うしたわけか0思ふに彼等は、自由詩といふものの本質を何か形態的に誤解してゐるのかも
知れない○つまり和歌は純忘抒情詩であつて、自由詩はこれと異る別種のポエムだと思つてゐるのだらう。
もしさうだとすれば、これほど馬鹿らしい認識不足の誤謬はない。和歌と自由裔と、形態は異るけれども、ポ
エヂイする精神は同じであり、抒情詩たることの本質に何の攣る所もない0ただ詩の取材する内容の世界に於
て、自由詩の方は範囲が廉く、和歌等のもつ俸統以外に、廣く多くの新しい自由な情操を包容し得るといふだ
けの相違である。
今の女の人の誇に見る、、へき作がすくないのは、一つには彼等が懸愛詩を書かないからである。男は生経を通
∫β2
浮が女は生渡の或者〕時親しか、.それを持たない.帥ちすぺての女は、癒をしで
ゐる時だけが詩人であると、前の同じ詩人が言つてるが、賓際多くの女は、椿をしてゐる時にのみ眞の純ノな
抒情詩を作り得る。和泉式部や小野小町のやうな人の作品でも、代表的な傑作はすべて皆橙愛詩であつて、他
の人事や自然を歌つたものは、概して皆ポエヂイの稀薄な駄作である。懸愛詩以外の抒情詩では、女は到底男
の敵でなく、概して皆散文精神に低落して居る。やや極端に言へば、女が眞の抒情詩的精神を所有するのは」
懸をしてゐる時以外にないのである。今の若い女流詩人等が懸愛詩を書かないのは損であり、自己の唯一の蜃
術的財貨を自ら意識しないやうなものである。それとも今の若い女性等は、懸愛の殉情的熱愛さへも失つてし
まつたのだらうか。さうだとすれば、彼等に他のポエヂイを求めた所で無益である。
とにかく日本には、過去に多くの天才的な女流詩人が生れて居る。しかもそれが散文的な叙事詩人でなく、
眞の純眞なポエデイをもつ抒情詩人であつたといふことは、世界に顆なく我等の誇とする所である。新しき日
本の女性に嘱して、僕等はこの歴史の光柴を汚したくない。望むらくは僕等の現代詩の詩壇に於て、新しき和
泉式部や、若き輿謝野晶子の生れんことを。