詩人の使命
山を呼んで山が来なかつたら、自分
の方から行くばかりだ。
マホメット
自序
詩は散文精神に追蹤し、散文時代に自ら順応すべきものでなくて、逆に詩を以て散文精神を克服し、詩精神によつて時代を指導すべきものなのである。然るに過去の日本の詩壇は、かかる詩人の使命を忘れて、自ら卑陋にも散文時代に追蹤し、詩を自然主義的レアリズムや、散文意識的主知主義の時代思潮に順応さすべく、詩の本質精神であるリリシズムをさへ、自ら卑賎して軽蔑し、ひとへに散文時代の寄生物たるべく努めた。詩は文学の中心であり、時代を指導する太陽である。自分が地球の周囲を廻るのでなく、遊星である所の他の文学が、詩の周囲を廻るのである。然るに過去の詩壇人等は、これを逆に錯覚して、自ら文壇思潮の隷属者となり、天動説的迷妄に捉はれて居た。そこで自分は、前に「純正詩論」といふ一書を著はし、かかる日本の詩壇意識を、正しくコペルニクスの地動説に転廻させた。「純正詩論」は、日本の詩壇にコペルニクス的価値転廻をあたへたのである。
今この新しき著書に於て、自分はさらに一歩を進め、現代日本の文化に処すべき、詩人の使命を説かうと思ふのである。けだし日本の詩と詩人ほど、多くの解きがたい矛盾と懐疑に面接して、自らその去就に迷つてゐるものはない。多くの詩人たちは、自ら詩を作りながら、自らその藝術的意義を疑ひ、自ら詩人として処生しながら、自らその文化に於ける自己の使命を知らないのである。この書に纏めた数十章の論文は、大々の別な角度からして、今日の過渡期に於ける日本の詩が、本来如何なる文化的意義を有するものか。藝術としてのイデーに於て、何を本質に掲げるものか。そもそもまた我等の詩人は、人生に於て何を使命し、藝術上に於て何を為すべきかといふことの、あらゆる根本的なる生命問題を詳述した。日本の「さ迷へる詩人群」は、本書をよむことによつて、初めて自己の文学する真意義を知り、詩人としての理念と生活信念とを持つであらう。
集中の各章は、夫々ちがつた時期に於て、夫々別の雑誌に掲載したものであるから、時にしばしば、同じことが各章で重複し、読者に煩瑣の感をあたへる場合があると思ふ。幸ひに諒察を乞ふ次第である。順序は一定のシステムによつた配列でなく、全く無体系の順序不同で、手当り次第に編集した。故に読者は、どこからでも巻を開いて、随意の所から読んでもらひたい。体系としての統一はないけれども、全巻を通読してもらへば、おのづから著者の体系してゐる思想が解ると思ふ。しかし約五百頁に近い厖大の書物であるから、或る人々にとつては、全部を通読することが困難であるかも知れない。さういふ人々は、本の中央頃から開いて、後半を先に読んでもらひたい。偶然の配列順から、後年の方に、比較的重要の論文が集縮されてゐるからである。特に就中、左の論文は重要であり、是非読んでもらひたい。
詩の本質性について
理性に醒めよ
詩と音楽の関係
現代と詩精神
新しい言葉は何処にあるか
日本詩と思想性
純正自由詩論
詩と散文精神
文化に先駆するもの
今日の詩精神
詩人は何を為すべきか
俳句の本質について
純粋詩としての国詩
口語詩歌の韻律を論ず
自分の詩論は、所々でしばしば食ひちがひ、二律反則の自家矛盾を犯してゐるやうに見える節があるか知れない。しかし前の「純正詩論」で書いたやうに、自分の思想様式は弁証論的であり、反正二面の対立上に、当為(ゾルレン)としての止揚性をイデーしてゐるのであるから、全体に綜合して考へれば、決して矛盾でないことが解ると思ふ。
西暦一九三七年春
著 者