わがひとに与ふる哀歌
          伊東静雄君の詩について

 ひさしく抒情詩が失はれてゐた。これは悲しい事実であつた。
 詩といふものはあつた。それは活字によつて印刷され、植字工によつてメカニカルに配列されたところの、一つの工業図案的な絵文字だつた。人々は詩を玩具にした。魂が詩を「歌ふ」のでなく、機智(ヰット)が詩を「工作する」のであつた。朝、詩の霊魂であるリリシズムが、何処かへ鳥のやうに飛んでしまつた。骸炭(コークス)のやうな物だけが後に残つた。火の消えた、黒い、つまらない固形だけが残つて居た。人々はそれを煙から取り出し、珊瑚礁でも見るやうにして、形態の美学的意匠を論じて居た。実には何の価値もない、ただの骸炭にすぎないものを、滑稽にも美術と誤まり、「詩」といふ言葉で呼び馴らしてゐた。
 詩といふ文学は何処へ行つたか? 或る他の人々は、藝術にさへならない粗野な言葉で、全く実の感性を欠いてるところの、アヂ的政談演説のやうなものを怒鳴つてゐた。人々はそれを「自由詩」と呼び、をこがましくもプロ派、民衆派、人道派等の名を僭称した。だがそんなイズムを称し得るほど、藝術する神経はどこにも無かつた。詩は「美しく歌ふ」べきものであつて、暴力団壮士の演説みたいに、粗暴に殺伐に「荒々しく怒鳴る」べきものではない筈である。
 久しい間、日本では「詩」といふ言葉が、かうした非藝術的政談演説を意味して居た。或はまた一方で、工業図案的な手藝文学を意味して居た。日本で「詩」といふ文学は、酢豆腐者流の気障なダンヂイズムの遊戯でなければ、院外国壮士の殺伐粗暴な怒号であつた。有明、白秋以後、日本には真の藝術的精神を持つ詩が現れなかつた。なぜなら有明、白秋以後、日本の詩壇は自然主義に圧迫されて、詩の純な霊魂であるべき筈のリリシズムを、全く喪失してしまつたからである。
 抒情詩を復活せよ! リリシズムを呼び戻せ! これが今日の日本に於て、文学と詩歌(和歌も俳句も共に含めて)の全文壇に、最も強く叫ばれる所の声である。
 雑誌「コギト」の誌上に於て、伊東静座君の詩を初めて見た時、僕はこの「失はれたリリシズム」を発見し、日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望をおぼえた。これこそ、真に「心の歌」を持つてるところの、真の本質的な抒情詩人であつた。
 伊東君の詩を初めて見た時、僕は島崎藤村氏の詩を読むやうな思ひがした。僕は著者に手紙を送り、「若き日の藤村の詩を、若き青春の日に読むやうな思ひがした。」と書いた。それほどこの詩人の詩には、青春の水々しいリリシズムが溢れて居る。たしかにそれは、昭和の新しい島崎藤村を面影して居る。しかしながらまた再読して、この一九三〇年代の若い詩人が、一八〇〇年代の末期に生れた若い日の藤村氏に比し、いかに甚だしく詩人的風貌を異にするかを知り、再度また別の驚きを新たにした。藤村氏はその詩集に自ら序して、自分の詩は青春の歌であると言ひ、春の若草が萌えるやうに、何の煩ひもなくこだはりもなく、青春の悦びを心任せの自由に歌つたと書いて居る。藤村氏の時代は、実にまたさうした楽しい時代であり、日本の文化の時潮からして、詩が「若草のやうに」萌えあがつた時代であつた。藤村氏一人ではなく、すべての若い人々等が、だれも皆心任せに、自由に胸を張つて「青春の悦び」を声限りに歌ひ続けた時代であつた。つまり言へば藤村氏の詩は、かうした時代の感情と社会相とを、自我に反映した一象徴に外ならないのだ。
 所で「わがひとに与ふる哀歌」は、何といふ痛手にみちた歌であらう。伊東君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない。たしかにそこには、藤村氏を思はせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその「若さ」は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に固く踏みつけられ、ねぢ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。西洋の史家は、十九世紀象徴派の詩を評して「傷ついた浪漫派」と言ひ、ヱルレーヌを評して「歪んだハイネ」と言つて居る。十八世紀の浪漫派は、丁度「詩」が叫ばれてる時代の土壌で、春の若草のやうに萌え出した詩派であつた。ハイネも、キーツも、バイロンも、すべての浪漫派詩人たちは、容貌からして純情の美少年であつた。然るに十九世紀末の象徴派は、自然主義の全盛する実証主義の時代に生れ、文化の懐疑思潮がすべてのリリックを殺してしまつた。しかもかうした時代にすら、尚その魂に「心の歌」を持つてるところの、宿命的な詩人群は歌ひ続けた。だが彼等の歌は悲しく傷つき、その容貌は醜く歪み、魂は酒毒に荒され、浪漫派の純情性と美少年とは、再度もはや彼等の歌に帰らなかつた。それはヱルレーヌの容貌と共に、醜く歪められた浪漫派であつたところの、十九世紀末デカダンスの詩人群であつた。
 「わがひとに与ふる哀歌」を読み、これを島崎藤村氏の詩と反映する時、丁度この浪漫派の詩人に対する、象徴派の詩人をイメーヂする。それは詩の全く失はれた昭和時代、社会そのものが希望を失ひ、文化そのものが目的性を紛失し、すべての人が懐疑と不安の暗黒世相に生活してゐるところの、まさしく昭和一〇年代の現代日本を表象して居る。しかも宿命的な詩人等は、かうしたリリックのない時代にさへも、尚彼等の魂を歌ひ続けねばならなかつた。そこで彼等の歌は悲しく傷つき、リズムは支離に破滅し、声はしはがれて低く、心は虚無の懐疑に暗く悩み傷ついて居る。
 伊東静雄君の詩が、正に全くこの通りである。即ちそのリズムは一行毎に破滅して支離に分散し、詩想は暗黒の憂愁に充ち、希望もなく目的もなき、ニヒルの宿命的な長い影が、力のない氷島の極光に向つて、幽霊のやうな郷愁を訴へてる。これはまさしく「傷ついた浪漫派」の詩であり、「歪められた島崎藤村」の歌である。
 「わがひとに与ふる哀歌」は、一つの美しい恋歌である。浪漫派や藤村氏の詩やが、本質的に皆美しい恋歌であつたやうに、伊東静雄君の詩の歌ふところも、本質的に皆美しい恋歌である。しかしながらこの「美しさ」は、そのエスプリに残虐な痛手を持つた美しさであり、むしろ冷酷にさへも意地悪く、魂を苛めつけられた人のリリックである。ああしかし! これもまた一つの 「美しい恋歌」であらうか?


   冷めたい場所で


  私が愛し
  そのため私につらいひとに
  太陽が幸福にする
  未知の野の彼方を信ぜしめよ
  そして
  真白い花を私の憩ひに咲かしめよ
  昔のひとの堪へ難く
  望郷の歌であゆみすぎた
  荒々しい冷めたいこの岩石の
  場所にこそ


 これは残忍な恋愛歌である。なぜなら彼は、その恋のイメーヂと郷愁とを、氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷めたい孤独の場所で、死の墓のやうに考へこんで居るからである。


  ああ わがひと
  輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
  音なき空虚を
  歴然と見わくる目の発明の
  何にならう
  如かない 人気ない山に上り
  切に希はれた太陽をして
  殆ど死した湖の一面を遍照さするのに

              (わがひとに与ふる哀歌)


 此処には一つの太陽がある。だがその太陽は、生物の住む我等の地球を照らす太陽ではない。それは時間の生れない宇宙の劫初に、神と二つだけ存在した太陽。地上に一つの生物もなく、海水もなく、岩礁ばかりが固体してゐた劫初の地球。「死」の地球を照らすところの太陽である。そこには認識する主体が一つも居ない。故にその太陽は「無」を意味する。それは永劫の空虚の中で、生物のない山の頂を照らして居る。「ああ わがひと!」そこに詩人の美しい恋人は坐つて居るのだ。如かず、むしろ冷めたい大理石の中に、君のそのイメーヂを彫りつけよ。汝の女を真裸にして殺してしまへ。 ― こんな残忍な恋愛詩がどこにあるか。

  自然は限りなく美しく永久に住民は
  貧窮してゐた
  幾度もいくども烈しくくり返し
  岩礁にぶつかつた後に
  波がちり散りに泡沫になつて退きながら
  各自ぶつぶつと呟くのを
  私は海岸で眺めたことがある
  絶えず此所で帰郷者たちは
  正にその通りであつた
                 (帰郷者)


 僕はかつて、アランといふ活動写真を見たことがある。英国の北方、極地の緯度に近いところに、土地といふものが全くなく、岩礁ばかりの島があるのだ。その島に住んでる住民たちは、食物の野菜を作るために、根気よく岩を割つては、少許の土くれを見附け出し、岩礁の上に畑を作るのである。空には凍りついた太陽があり、島はいつも浪の飛泡で蓋はれて居る。人間の住む世界で、こんなに寂しく荒蓼とした世界は無いのだ。「わがひとに与ふる哀歌」は、まさしくこのアラン島の哀歌である。この抒情詩の魂は、いつも絶海の孤島の上で、浪の飛泡に濡れながら凍りついてる。地上に青いものは一つもなく、何処を見ても岩礁ばかりだ。そして極地に近い空には、力のない太陽が侘しく輝やき、岩ばかりの地や洞窟やに、凍りついた人の死骸が、白骨になつて晒されてるのだ。この風景には「時間」がない。それは永劫の寂蓼なのだ。或はもつと詳しく言へば、支離滅裂になつた一つの魂、希望のない魂のリリックなのだ。


    私は強ひられる

   私は強ひられる この目が見る野や
   雲や林間に
   昔の恋人を歩ますることを
   そして死んだ父よ 空中の何所で
   噴き上げられる泉の水は
   区別された一滴になるのか
   私と一緒に眺めよ
   孤高な思索を私に伝へた人!
   草食獣がするかの楽しさうな食事を

 この詩人とニイチェとに、何の思想的関係があるか僕は知らない。だが不思議なことに伊東君の詩はニイチェとよく相似した気質的一致がある。ニイチェ ― 抒情詩人としてのニイチエ ― は、いつも岩礁ばかりのある、絶海の孤島を歩き廻り、草食獣のやうに青草を探して居た。彼は常に漂泊者であり、樹上の鳥と寂しい哀歌を交して居た。ニイチェの場合で言へば、恋愛はいつも死と墓との形式で歌はれて居た。「わが心の愛人よ! いとしきものよ!」とニイチェは先づ最初に歌ふ。それから次の行に移つて、彼の「いとしきもの」を痛く辛辣にやつつける。ニイチェの詩では、少女のやうな純情の愛と、毒舌家のやうな惜しみとが、不思議の心表交錯でイメーヂされてるやうに思はれる。そしてこれに似た或る思想と心象とが、しばしばまた伊東君の詩に現はれて居る。おそらくその類似は、文学上の類縁でなくして、もつと深い気質的原因に存するのだらう。

 浪漫派の詩人たちは、たいてい十六歳で詩を作り、二十歳にもならない中に大家になつた。それよりもつと後の時代、即ち象徴派の詩人たちは、たいてい三十歳で詩を作り、四十歳に近くして大家になつた。そしてまた最近では、ヴァレリイ等が五十歳を越してから名声を成した。時代と共に、詩人の出発が益々おくれ、詩人の年齢が益々遅く老いて来る。何故だらうか? 地球が一年毎に冷却し、文化がプロゼックに老いて来るからである。昔は十七歳で詩が作れた。なぜならすべての社会事情が、さうした純情の若々しい芽を、自由に水々しく、大地に発育させたからである。だが今日では、リリシズムの芽が固い土壌で圧迫されてる。今日それを突き破り、現実の地上に芽を出す迄には、地下に於いての充分な潜在力と、現実をはね返す強い意志とを持たねばならぬ。今日の社会では、もはや十六歳の少年には詩が作られない。ハイネやキーツやの美少年は、今日の時代の詩人として、生育しがたく薄弱のものになつてしまつた。今日の詩人は、すくなくとも三十歳を越さねばならぬ。そして三十歳を越すといふことは、現実の世相に処して、人生の苦汁を経験してゐるといふことである。
 それ故に今日では、詩が純なナイーブの姿を失ひ、現実的惨苦にふれて歪められた変貌の姿をしてゐる。十八世紀末の浪漫派こそは、実に抒情詩の純粋なエスプリだつた。しかし今日以後の社会に、もはや昔の浪漫派は有り得ない。今日以後に有り得べき詩は、リリシズムの純一精神を心に持して、あらゆる現実的世相の地下から、石を破りぬいて出る強い変貌の歪力詩である。即ち正に有るべきところの善き抒情詩は、伊東静雄君等によつて表象されてゐるところの、この種の「傷ついた浪漫派」の正統である。