インテリ以前の日本詩壇

 詩といふ文学は、常に或る時代の文化が持つてる、インテリの最高峰に立つものである。すべて藝術家や文学者は、世間人との比較に於て、知識階級を代表するところの人種であるが、さらにまた彼等の中で、詩人がそのインテリの最尖端を代表して居る。それ故に外国では、詩人と呼ばれるすべての人々、ゲーテや、テニソンや、リルケや、マラルメや、ボードレエルや、ヴァレリイや − が、常に時代の最高な知識人を代表して居り、一世の大教師として崇敬されてる。彼等の詩人が、一方で抒情詩人として愛敬され、一方で大学者大思想家として、一世の文化の指導者として仰がれてゐるのは、インテリの最高峰人を具象する詩人として、全く当然のことなのである。
 所で日本では、詩人の地位がまだ世界竝に達して居ない。日本で詩人といふ連中は、インテリの最高峰を代表するどころでなく、ことによるとその最低級をさへ代表して居る。ゲーテのやうな大思想家は勿論のこと、ボードレエルやヴァレリイのやうな俊英な知識人種も、日本の詩人には居ないのである。大宅壮一氏は、日本の詩壇を罵つて「鼻たらし小僧の衆団」だと言つた。これは極言にすぎるとしても、日本で現に詩人と呼ばれる連中が、概して皆卑小の低劣人種であり、西洋の堂々たる詩人に比して、同じ「詩人」といふ名で呼ぶのが恥かしく、冒涜に感じられるほどでさへあるのは事実である。だから日本の文壇では、外国で詩人が崇敬されると同じ逆比で、詩人の名が常に嘲笑的に軽蔑されてる。そして遺憾ながら、これがまた実に当然である。
 日本の詩人が駄目なのは、つまり日本に「詩」といふ伝統の観念がなく、西洋から皮相の外見だけを真似たところの、デタラメのインチキ文学であるからである。もちろん日本にも、昔から「詩」といふ文学は存在した。即ち和歌や俳句のやうな抒情詩があつた。しかし西洋の文学史上で、歴史的に観念されてる意味の「詩」や「詩人」やが、日本には全く無かつたのである。日本の古来の詩といふのは、文化思潮のインテリ性と関係なく、花鳥風月の自然を歌つて、世外に悠遊する「風流」を意味して居た。したがつてまた、詩人の名は「風流人」とシノニムに考へられてた。これが反対に西洋では、詩人が文化思潮のインテリ批判家として観念されて来たのである。
 しかし昔の日本の詩には、西洋外国とはちがふところの、特殊の文学的教養が本質して居た。風流といふことは、外国流のインテリジェンスとはちがふけれども、特殊な別の意味に於て、やはり一種の文化的教養であり、知識人種のカルチュアを具象する表現である。そこで昔の日本の詩人、即ち歌人や俳人やは、常にこの点の教養に精進して居た。彼等は日本流の意味に於ての、立派なインテリゲンチアであつたのである。然るに、明治以来の新体詩は、この伝統のカルチュアを所有せず、しかもその上に西洋詩のインテリ性と歴史性とを持たなかつた。彼等の詩人は、血属的に伝統の日本人でありながら、日本詩の伝統的なカルチュアを所有せず、しかも西洋文化の本質としてゐるところの、長い歴史的の藝術教養を持たないのである。つまり言へば彼等は、日本的にも西洋的にも、一切詩の本質すべき教養を所有しないで、全くデタラメ無茶苦茶に詩を書いたのである。そこで日本の「詩」といふ文学は、どんな無教養な馬鹿者にも、どんな低劣な鼻たらし小僧にも、容易に出放題に書くことのできる文学になつた。そしてつまり、文学中での最下等なもの、藝術中での最も非藝術的なものになつた。実に今日でさへも、和歌や俳句の作者の方が、概して多くの詩人等よりも、日本流の意味に於てのインテリであり、実質のある藝術的カルチェアを持つてるのである。日本の詩人といふ連中はど、藝術的に「空無」を代表する文学者はない。
 そこで今日の提言は、何よりも詩人に教養を要求する。しかしもちろん、僕等の新しい詩人にとつて、日本式の風流教養は必要がない。それは伝統詩の詩人である歌人や俳人の仕事に任せて、僕等の所謂詩人たちは、西洋の詩人たちと同列にまで、文化的インテリゲンチアとしての教養を持たねばならぬ。だが、此処で「教養」といふことは、必ずしも知識や学問を意味するのではない。ゲーテやヴァレリイやは、一世の大学者であり、博学の大思想家であつた。しかしすべての詩人たちが、必ずしもその通りである必要はない。詩人に要求されるものは、学識でなくして感性である。酔狂詩人ヱルレーヌは、殆んど学問も教育もない市井人であつたけれども、その異常な天才的の叡智によつて、インテリとしての最尖端人を生活して居た。インテリといふ言葉の意味は、知識を持つ人といふ意味ではなく、時代文化の尖端的な情操を持ち、且つその批判を持つ人といふ意味である。日本の詩壇の貧困さは、かうしたインテリが殆んどすくなく、真の本質的な意味に於て、インテリと呼ばれ得るはどの詩人が、稀れにしか居ないといふにある。もつともこの現象は、独り僕等の詩壇ばかりでなく、日本の文壇を通じて同じである。小説家の群を見ても、単にインテリらしい作家として、大家中で僅かに数氏を敷ふるに過ぎない。他の多くの小説家は、インテリ型の文士でなくして、日本の伝統をひいた戯作者型の文士である。それ故にまた、日本ではインテリ型の文士だけが、常にどこか西洋臭く、西洋で言はれる意味の 「詩人」といふ観念に相当して居る。戯作者風の伝統文士は、同じ伝統詩の歌人や俳人と共に、詩人でなくして「風流人」の側に範疇される。

 日本で詩人と呼ばれる人々は、たいてい三種の血液型に分類される。「良寛型」と「ガラマサ型」と「赤シャツ型」 である。以下この類型を説明しよう。

 良寛型 日本の現詩壇で、いちばん量的に数が多く、且つ質に於ても秀れて居るのは、この良寛型の詩人である。天才北原白秋氏を初めとして、千家元麿、佐藤惣之助氏等、皆この型の詩人に属し、詩壇に最も異彩を放つて居る。けだし良寛型の詩人は、種々な点に於て日本人の民族的伝統性を遺伝して居る。即ちこの型の詩人は、概して楽天的であり、日本人の民族的特色であるところの、現実主義的な人生観と明朗性とを本質して居る。上古神代の日本人と同じく、彼等は皆天真爛漫の 「自然の子」であり、一切の暗鬱な思想を排して雄大な自然と共に悠遊し、喜々として太陽の如く生活して居る。したがつて彼等には、懐疑といふものが少しもなく、理論や哲学が殆んど無い。即ち彼等は、神代ながらの「言あげせぬ」大和民族を遺伝して居る。彼等は子供のやうに無邪気であり、懐疑や思想を持たないけれども、すぐれた感受性にめぐまれて居て、感覚や趣味の上で発育して居る。即ち要するに彼等は、日本の伝統的な純血を守る詩人で、西洋流のインテリ型の詩人ではない。日本の現詩壇に於て、最も異彩のある有為の詩人が、多く皆この種の良寛型に属して居るのは、つまり彼等が国民性の特色と長所とを、遺伝的に所有して居るためなのである。

 ガラマサ型 民衆派、プロレタリア派、その他政治的、社会主義的傾向を持つ詩人は、たいていこのガラマサ型に属して居る。このジャンルの詩人は、良寛型の詩人と対蹠的に見えるけれども、実は同一本質の人種であり、やはり日本人特有の無邪気な楽天観を気質して居る。ただ後者には、前者のやうな藝術的の趣味性や感受性が欠陥して居り、代りに粗放な政治的社会意識が存在して居る。その限りに於て、彼等は前者よりも思想的に見えるけれども、実には彼等もまた前者と同じく、本質的に懐疑や哲学を持たないところの、現実主義的明朗性の楽天家である。その点で彼等は、外国の政治的、社会主義的詩人と異つて居る。ハイネにしろ、シェレーにしろ、ホイットマンにしろ、西洋に於けるこの種の行動詩人は、本質的に皆哲学を持つてる深刻な懐疑家であり、且つ一面純粋の藝術至上主義者であつた。彼等は決して、単純な政治狂的感激家ではなかつた。
 日本のガラマサ型詩人は、要するに政治壮士的のガラマサ人種であり、単にそれだけの単純な、粗放で人の善い感激家に過ぎない。したがつてまた彼等の詩は、その内容形式共に非藝術的で、単に院外団壮士的、国粋会壮士的の大言壮語をし、自家陶酔の悲壮感や正義感に酔つてるところの、無邪気で罪のないものにすぎない。彼等は伝統の風流人とはちがふけれども、西洋流のインテリとは最も縁の遠い存在である。

 赤シャツ型 赤シャツとは夏目漱石の小説「坊つちやん」に出て来るところの、キザで、ぺダンチックで、ヂレツタントで、軽佻浮薄なハイカラ人物の名前である。新体詩人の昔からして、日本で詩人といふ名称は、常に社会から漫画的に嘲笑視され、キザな赤シャツ的ハイカラ野郎を連想させた。それほど日本の詩壇には、この種の詩人が一般的に蔓延して居る。谷崎潤一郎氏は、故芥川寵之介氏との会話に於て、北原白秋を除く外、日本の詩人は、皆酢豆腐なりと断定して居る。酢豆腐といふのは、落語に出て来る通人がりのキザ男で、江戸時代に於ける赤シャツの代名詞である。
 日本の詩壇に於て、過去に象徴派とか、高踏派とか、耽美派とか、デカダンとか、立体派とか、ダダイズムとか、超現実派とか自称した連中は、すべて皆この酢豆腐的赤シャツ詩人の一群である。彼等は外国、特に仏蘭西あたりの新しい文化運動を直訳輸入し、自ら日本に於ける最尖端の新人を以て任じて居た。彼等の書斎には、ロクに読めもしない仏蘭西語の詩集が飾つてあり、いつも気取つたオチョポ口で、西洋新思潮を論じて得意になつてる。詩人が文化の先駆者であるといふ意味は、彼等の思想でキザな半可通を振り廻すこと、西洋最新輸入の洋服を着て、銀座街頭を散歩することを意味するのである。
 かうしたヂレツタントの詩人によつて、過去にとにかく日本の詩壇は、エキゾチシズムの新鮮な感覚を満足させた。だが単にそれだけであり、文化的には何の本質的な進歩も無かつた。なぜなら彼等の赤シャツ詩人は、本来真の文化的情操を持つインテリでなく、単に趣味性と猟奇心とで、西洋舶来の香気を珍らしがり、犬のやうにそれを嗅覚するだけの人種にすぎないのだから、しかも一方にぺダンチックの衒学意識で、自ら大いに学者ぶり、知識人種ぶり、時代の尖端人種ぶつて居たのであつた。つまり言へば彼等は、インテリぶつた様子をしたところの、鈍根無神経の人種であるか、或はもしくは、ハイカラ風流詩人の一群だつた。ハイカラ風流とは、気質的に伝統の日本詩人でありながら、趣味性だけがバタ臭く、西洋を真似るところの詩人を言ふのだ。

 過去の日本に於て、真に多少ともインテリらしい風貌をもつた詩人は、歌人としての石川啄木ぐらゐであらう。啄木をインテリと言ふ意味は、彼の紳経と生活の内部に於て、過渡期日本の時代的文化相を、それの現実的な悩みに於て感覚し、且つそれへの鋭い批判を持つて居たからである。啄木は初め詩人をイデアして出発したが、その詩概ね有明、白秋の模倣を出でず、エピゴーネンの亜流にすぎない事を自覚したので、自ら自嘲して「悲しき玩具」と言ひながら和歌を作つた。そしてしかも、彼がその自嘲した文学に於て成功したのは、日本で伝統のない新詩を作ることが、如何に文学的に困難であり、無から有を生む程の創造事業であるかを証左して居る。啄木の幸運さは、彼がこの難事を去つて(実には断念して)伝統詩の安易についたことにあつた。僕等の求める英雄は、この啄木の為し得なかつた所を為し、新詩人としての文化的創造を果すところの、真のインテリゲンチアとしての新人なのだ。
 要するに今後の詩壇は、酢豆腐的ヂレッタンチズムのハイカラ詩人を必要しない。同様に良寛型の詩人も必要がなく、況んや無教養のガラマサ詩人も必要がない。日本の詩壇を外国のそれと同一のレベルに高め、且つそれと同質の意義ある存在とする為には、何よりも第一に「インテリ型」の詩人が必要なのだ。知識を誇るぺダンチックのインテリではなく、感受性の本質に文化の教養を持つてるところの、真のプラトンの教養人、真の藝術人であるところのインテリ詩人が必要なのだ。インテリ出でよ! 然る後に日本の詩壇は、それの正しい文学的地位を樹立し得る。